槇原敬之氏のOrdinary Days良い曲だ。歌詞がいい。
槇原氏はデビュー当初は恋愛をテーマの曲を作っていたが、ある時期から、人生そのものをテーマにした曲を多くつくるようになった。
ただ文字にしただけでは、偽善や胡散臭さを感じさせるようなことも、槇原氏のメロディーにのると、不思議な説得力がある。
表現とは、そこまで高められて価値を発する。
小説のもつ表現とはなんだろうか。綿密さが一つの要素だ。出来るだけ詳細に書き込むことができる。ケータイ小説やライトノベルはまた特殊なジャンルというべきだ。
古池の蛙飛び込む水の音
芭蕉の句は、情景を想像する能力がなければ分からない。
満ち月の我が世とぞ思うこの世かな
道長の句は、道長の権勢を知らなければ分からない。
俳句とは短い言葉で心情情景を伝える優れた手段だ。しかし、そのルールを知らなければ伝わらない。
小説は、そうした事前知識を必要としない、表現手段といえる。
不思議なのは、現実の事象の複雑さに対する表現手段の少なさだ。
言葉をかえると人生が変わるという。
悲しいとかつらいという感情も、脳がラベリングした情報に過ぎない。そうした感情を、言葉で思考し、必要があれば発するのである。
めんどくさいとか嫌だとかむかつくとか、表現手段として必要とは思うが、中身の伴わないそうした言葉を発する必要があるとも思えない。
サラリーマンでも女子高生でも、上司や友達の悪口を言っているのを聞くと、未熟に思う。
同じ愚痴でも下記はためになる。
●●は、◎◎をした。(私は)こうするべきだ。おかしいと思う。
そうか、あなたは、◎◎をすることをおかしいと思う性質をもっているのですね。
ということが分かる。
槇原氏はデビュー当初は恋愛をテーマの曲を作っていたが、ある時期から、人生そのものをテーマにした曲を多くつくるようになった。
ただ文字にしただけでは、偽善や胡散臭さを感じさせるようなことも、槇原氏のメロディーにのると、不思議な説得力がある。
表現とは、そこまで高められて価値を発する。
小説のもつ表現とはなんだろうか。綿密さが一つの要素だ。出来るだけ詳細に書き込むことができる。ケータイ小説やライトノベルはまた特殊なジャンルというべきだ。
古池の蛙飛び込む水の音
芭蕉の句は、情景を想像する能力がなければ分からない。
満ち月の我が世とぞ思うこの世かな
道長の句は、道長の権勢を知らなければ分からない。
俳句とは短い言葉で心情情景を伝える優れた手段だ。しかし、そのルールを知らなければ伝わらない。
小説は、そうした事前知識を必要としない、表現手段といえる。
不思議なのは、現実の事象の複雑さに対する表現手段の少なさだ。
言葉をかえると人生が変わるという。
悲しいとかつらいという感情も、脳がラベリングした情報に過ぎない。そうした感情を、言葉で思考し、必要があれば発するのである。
めんどくさいとか嫌だとかむかつくとか、表現手段として必要とは思うが、中身の伴わないそうした言葉を発する必要があるとも思えない。
サラリーマンでも女子高生でも、上司や友達の悪口を言っているのを聞くと、未熟に思う。
同じ愚痴でも下記はためになる。
●●は、◎◎をした。(私は)こうするべきだ。おかしいと思う。
そうか、あなたは、◎◎をすることをおかしいと思う性質をもっているのですね。
ということが分かる。
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久しぶりにmixiでコメントを書いてみて、他の人の意見を読んだ。大半と乖離している。
あぁそうか、ふつうの人はそう考えるのか、なら今度からそう感じられるようにしよう。
僕の中で、意見や感情はその程度しか意味をなしていなかった。外面的に。
なので、「社会」の中で生きるのはひたすら自分の感情を押し殺すことであり、窮屈だった。
ゆえに、誰にも読ませることのない日記の中だけで、僕は「本音」を語ることができた。
最近は、恋人や友人などと恵まれているので、乖離は起こりにくいが、しかしながら、仕事はそうはいかないと思うし、やっぱり「社会」では建て前が必要だと思うのだ。
それを学ぶ最初の場が、学校だと考える。ゆえに、本音で向き合える友人をつくることが、学校教育の本義ではないと思うのだ。
もちろん、学校という機関が提供する場のもつ、友人形成機能は重要である。
とはいえ、例えば修学旅行とかで、好きな人だけのグループをつくらせるとか、職務怠慢ではないか。
これからグローバル化とかいったとき、英語を学ぶことが一番とは思えない。必要とは思う。
しかし、互いに価値観が異なる人間同士で、いかに共通点をみつけ、折り合いをつけていくのか。最初に学ぶべきはそこではないか。
日本の建て前文化、山本七平氏がいったあの「空気」、それは、太平洋戦争を泥沼化させたとはいえ、可能性と素材は悪くないと思う。
今、橋下市長に代表される空気というものは、「決断」と「行動」である。世論も、なぁなぁと交渉するのではなく、トップからの「英断」を期待し始めている。
日本の空気は変わり始めているといえるかもしれない。しかしながら、そこはやはり「空気」なのである。
個人が主体となり、神の前で平等に責を負うという仕組み(心性)は、日本人にはない。これは、海外で活躍するグローバルな日本人でも同じである。
もっともこれは、単独者としての「個人」を認めないとする、軟弱な人間観にもとづいている。
サンデル氏のような、コミュニタリアンも考えられる。
そうしたとき、
……入ったラーメン屋に虫が多すぎて、食欲と書く気力をなくした(笑)
結局、山田詠美氏の小説の主人公のように、身体の痛みをもちながら、なお思考に身を投じられる人がいたら、その人こそ尊敬に値するのである。
あぁそうか、ふつうの人はそう考えるのか、なら今度からそう感じられるようにしよう。
僕の中で、意見や感情はその程度しか意味をなしていなかった。外面的に。
なので、「社会」の中で生きるのはひたすら自分の感情を押し殺すことであり、窮屈だった。
ゆえに、誰にも読ませることのない日記の中だけで、僕は「本音」を語ることができた。
最近は、恋人や友人などと恵まれているので、乖離は起こりにくいが、しかしながら、仕事はそうはいかないと思うし、やっぱり「社会」では建て前が必要だと思うのだ。
それを学ぶ最初の場が、学校だと考える。ゆえに、本音で向き合える友人をつくることが、学校教育の本義ではないと思うのだ。
もちろん、学校という機関が提供する場のもつ、友人形成機能は重要である。
とはいえ、例えば修学旅行とかで、好きな人だけのグループをつくらせるとか、職務怠慢ではないか。
これからグローバル化とかいったとき、英語を学ぶことが一番とは思えない。必要とは思う。
しかし、互いに価値観が異なる人間同士で、いかに共通点をみつけ、折り合いをつけていくのか。最初に学ぶべきはそこではないか。
日本の建て前文化、山本七平氏がいったあの「空気」、それは、太平洋戦争を泥沼化させたとはいえ、可能性と素材は悪くないと思う。
今、橋下市長に代表される空気というものは、「決断」と「行動」である。世論も、なぁなぁと交渉するのではなく、トップからの「英断」を期待し始めている。
日本の空気は変わり始めているといえるかもしれない。しかしながら、そこはやはり「空気」なのである。
個人が主体となり、神の前で平等に責を負うという仕組み(心性)は、日本人にはない。これは、海外で活躍するグローバルな日本人でも同じである。
もっともこれは、単独者としての「個人」を認めないとする、軟弱な人間観にもとづいている。
サンデル氏のような、コミュニタリアンも考えられる。
そうしたとき、
……入ったラーメン屋に虫が多すぎて、食欲と書く気力をなくした(笑)
結局、山田詠美氏の小説の主人公のように、身体の痛みをもちながら、なお思考に身を投じられる人がいたら、その人こそ尊敬に値するのである。
別に鬱などではないが、正直、僕のみている世界というものが、ますます正しいのだという感覚が深まる。
僕の人間観というのは、ひねくれていることは自覚的だ。
そして、そのことが与える影響は自分にとってマイナスだとも思う。
人間を肯定できないのは、理想に溺れる未熟者に思える。
ところが、そうでありながら、お金が絡む調整ごとになると、人は目の色が変わる。
お金はもちろん、時間なりの利害全面でそうだ。
若いうちは不条理に耐えろということかもしれない。
とはいえ、まぁそれは関係ない。
人間というのは本当にどうしようもない。法律は、社会契約は、そのどうしようもなさを調整する役目なのだ。
それはそうだ。僕の考え方がすべてであっていいはずはない。
自己献身的なのを人間に望むのは間違っている。
だから僕も他人に厳しくあることもできるし、平然と責任放棄することも可能だ。
であっても。
fateの主人公のようなお人好しには、僕はなれない。fateというゲームの大ヒットは、主人公のありえないほどの自己犠牲の精神が一因に思うが、そもそもそれが感動を生むのは、「ありえなさ」による。
結局、僕は自分に課すルールによって動いていて、反することは精神的負荷になる。だから、他者のせいにすることはない(原理上)。
変えるなら、一番楽なのは自分だろう。
ラーメン屋に女性三人で「おいしい。1人じゃこゆとここれないですよね~」といっていたが、そういう感覚に嫌気がはしったのは、そういう気持ちと仲間を求める反動にも思える。
でも本当に、今の繋がりが、僕を維持してるように思える。
学生時代は、存在価値などなかったといえる。
ここに、生きづらさの原因が隠れている。「役に立つ」ということが存在意義なのか。働かざる者くうべからずなのか。
100%その通りである。
税金を搾取して生き長らえる老人は唾棄すべきだ。
思うに、「それはしかたがないね」のレベルの問題に思える。
老人だからしかたがないね、障害者だからしかたがないね、在日朝鮮人だからしかたがないね……。
その「しかたがないね」のレベルを、主張をするのが圧力団体である。それは利害対立する集団とは当然あらそうことになる。
じゃあ自分はどっちの集団に所属するの?
結局どこにいても争いに巻き込まれる。日本は平和というが、命が担保になってないだけで、戦の構造は変わってないように思う。
まぁ落ちぶれたら、いまやセーフティーネットも機能してないので、死ぬしかない点において、大差はないのかもしれない。
とまぁ、僕の目にそう映る以上、ますますその傾向は強まるだろう。
それを認めた上で、自分はうまくやっていく方法を模索することはできる。
だがそれが何になるのか。
うまくいって70歳の平均寿命まで生きられてなんの意味があるのか。
というより、何故人々は、こうした疑問なしに生きられるのか、僕は長らく分からなかった、今も分からない、けれどもそれが「個性」なのだと、勝手に納得した。
心配いらない、インターネットで探せば、もっと抑鬱な人も大勢だし、僕程度のレベルで思考する人もたくさんいる。
だからこそ、「中間派はつらいんだよ」じゃないが、精神病とも認定されない人は、表現できないモヤモヤ(=生きづらさ)に苦しむ。
(ふざけんな甘えてんじゃねえという批判、それが「不可避」な点が問題を複雑にしている)
だから僕は表現する。
思考はエリートに任せよう、だから僕のは単なる愚痴だ。
だけれども、きっと、中学生くらいの誰か1人くらいは、救いになるのではと思う。それは確信する、何故ならば、僕は、少し気分が晴れた(笑)。
でも、この点も問題だ。
ふつう人は、愚痴を誰か対面コミュニケーションにおいて話すことで、ストレス解消しようとする。
けれども、僕は誰かに話すのが申し訳ないと思う。
さらに傲慢だが、話したって理解してもらえないだろうと思う。
もっと人を頼ることができたらよかったのかもしれない。
ただし、これも所詮程度の問題であり、「ちったぁ自分で考えろ!」に常に怯えて過ごさないといけない。
人間関係なんてフレキシブルなものだし、厳密な付き合いなど不可能で、明確な責任や役割の振り分けなど不可能だ。
そんなこと分かっているが、まぁねぇ。
僕は、だから、僕がその人に何をしてあげられるのか。それを考えてしまう。
子どもってのは、これらの意味で、特殊なのかもしれないな。
僕の人間観というのは、ひねくれていることは自覚的だ。
そして、そのことが与える影響は自分にとってマイナスだとも思う。
人間を肯定できないのは、理想に溺れる未熟者に思える。
ところが、そうでありながら、お金が絡む調整ごとになると、人は目の色が変わる。
お金はもちろん、時間なりの利害全面でそうだ。
若いうちは不条理に耐えろということかもしれない。
とはいえ、まぁそれは関係ない。
人間というのは本当にどうしようもない。法律は、社会契約は、そのどうしようもなさを調整する役目なのだ。
それはそうだ。僕の考え方がすべてであっていいはずはない。
自己献身的なのを人間に望むのは間違っている。
だから僕も他人に厳しくあることもできるし、平然と責任放棄することも可能だ。
であっても。
fateの主人公のようなお人好しには、僕はなれない。fateというゲームの大ヒットは、主人公のありえないほどの自己犠牲の精神が一因に思うが、そもそもそれが感動を生むのは、「ありえなさ」による。
結局、僕は自分に課すルールによって動いていて、反することは精神的負荷になる。だから、他者のせいにすることはない(原理上)。
変えるなら、一番楽なのは自分だろう。
ラーメン屋に女性三人で「おいしい。1人じゃこゆとここれないですよね~」といっていたが、そういう感覚に嫌気がはしったのは、そういう気持ちと仲間を求める反動にも思える。
でも本当に、今の繋がりが、僕を維持してるように思える。
学生時代は、存在価値などなかったといえる。
ここに、生きづらさの原因が隠れている。「役に立つ」ということが存在意義なのか。働かざる者くうべからずなのか。
100%その通りである。
税金を搾取して生き長らえる老人は唾棄すべきだ。
思うに、「それはしかたがないね」のレベルの問題に思える。
老人だからしかたがないね、障害者だからしかたがないね、在日朝鮮人だからしかたがないね……。
その「しかたがないね」のレベルを、主張をするのが圧力団体である。それは利害対立する集団とは当然あらそうことになる。
じゃあ自分はどっちの集団に所属するの?
結局どこにいても争いに巻き込まれる。日本は平和というが、命が担保になってないだけで、戦の構造は変わってないように思う。
まぁ落ちぶれたら、いまやセーフティーネットも機能してないので、死ぬしかない点において、大差はないのかもしれない。
とまぁ、僕の目にそう映る以上、ますますその傾向は強まるだろう。
それを認めた上で、自分はうまくやっていく方法を模索することはできる。
だがそれが何になるのか。
うまくいって70歳の平均寿命まで生きられてなんの意味があるのか。
というより、何故人々は、こうした疑問なしに生きられるのか、僕は長らく分からなかった、今も分からない、けれどもそれが「個性」なのだと、勝手に納得した。
心配いらない、インターネットで探せば、もっと抑鬱な人も大勢だし、僕程度のレベルで思考する人もたくさんいる。
だからこそ、「中間派はつらいんだよ」じゃないが、精神病とも認定されない人は、表現できないモヤモヤ(=生きづらさ)に苦しむ。
(ふざけんな甘えてんじゃねえという批判、それが「不可避」な点が問題を複雑にしている)
だから僕は表現する。
思考はエリートに任せよう、だから僕のは単なる愚痴だ。
だけれども、きっと、中学生くらいの誰か1人くらいは、救いになるのではと思う。それは確信する、何故ならば、僕は、少し気分が晴れた(笑)。
でも、この点も問題だ。
ふつう人は、愚痴を誰か対面コミュニケーションにおいて話すことで、ストレス解消しようとする。
けれども、僕は誰かに話すのが申し訳ないと思う。
さらに傲慢だが、話したって理解してもらえないだろうと思う。
もっと人を頼ることができたらよかったのかもしれない。
ただし、これも所詮程度の問題であり、「ちったぁ自分で考えろ!」に常に怯えて過ごさないといけない。
人間関係なんてフレキシブルなものだし、厳密な付き合いなど不可能で、明確な責任や役割の振り分けなど不可能だ。
そんなこと分かっているが、まぁねぇ。
僕は、だから、僕がその人に何をしてあげられるのか。それを考えてしまう。
子どもってのは、これらの意味で、特殊なのかもしれないな。
社会制度や教育など、日本が抱えている問題について、あれこれ思考を巡らせたところで、現実今まさに直面している問題が解決に進むわけではない。
ミクロに拘ればマクロは見えなくなるが、マクロのまま問題解決にあたるのも難しい。
今日本で、社会で、会社で、コミュニティーで求められている理想はよく見える。
ところが、自分の存在が、あまりにもかけ離れている。
それに追いつこうと必死になるが、例えば偏差値30からの東大受験のようである。
もちろん、偏差値50を目指せばいいのだけど、その目標設定が悪いのだ、できないのだ。
問題は、努力不足か目標設定の誤りかに分別できる。
周囲に高い目標を与え、自らもそれを目指している。
しかし、自分一人の力では対応しきれない。しかしグループ内の目標が、そもそも低い。僕はそれをよしとは思えない。
けれども、実現するためには他者の力が必要だ。
そういう点が自分の欠点なのだろう。
コミュニケーション能力不足、というか、他者に嫌われたくない、それは円滑な人間関係を推進するためのテクニックでもあるのだけど、組織における利害対立においてみんな仲良くは通じない。
それでおいて組織において対立の原因はなにかといえば、最近よくよく感じるが、金である。
友好的な関係にみえても、「金の切れ目が縁の切れ目」である。
あとは、壮絶な交渉だ。
時間意識という。
時間?
この人との会話は、有効かどうか、それを常に意識するということだ。
お金にならないことを受注しても、それは「投資」である。
将来のリターンを目的としている。
資本主義というシステムの概念など知っているから、社会科は好きだけど経済分野は嫌いだった。
そうはいっても、笑ってしまうほど明らかなのだが、人間の相互行為の源泉は、自然との闘いのための協力でしかない。
だからこそ、直接利害に関係のない、恋人や友人という存在が、今後の世界で極めて重要性が高まっていくだろう。
という前提をして、翻って、それも「投資」ということになるのは皮肉であり、やはり社会主義は夢想でしかない。
ミクロに拘ればマクロは見えなくなるが、マクロのまま問題解決にあたるのも難しい。
今日本で、社会で、会社で、コミュニティーで求められている理想はよく見える。
ところが、自分の存在が、あまりにもかけ離れている。
それに追いつこうと必死になるが、例えば偏差値30からの東大受験のようである。
もちろん、偏差値50を目指せばいいのだけど、その目標設定が悪いのだ、できないのだ。
問題は、努力不足か目標設定の誤りかに分別できる。
周囲に高い目標を与え、自らもそれを目指している。
しかし、自分一人の力では対応しきれない。しかしグループ内の目標が、そもそも低い。僕はそれをよしとは思えない。
けれども、実現するためには他者の力が必要だ。
そういう点が自分の欠点なのだろう。
コミュニケーション能力不足、というか、他者に嫌われたくない、それは円滑な人間関係を推進するためのテクニックでもあるのだけど、組織における利害対立においてみんな仲良くは通じない。
それでおいて組織において対立の原因はなにかといえば、最近よくよく感じるが、金である。
友好的な関係にみえても、「金の切れ目が縁の切れ目」である。
あとは、壮絶な交渉だ。
時間意識という。
時間?
この人との会話は、有効かどうか、それを常に意識するということだ。
お金にならないことを受注しても、それは「投資」である。
将来のリターンを目的としている。
資本主義というシステムの概念など知っているから、社会科は好きだけど経済分野は嫌いだった。
そうはいっても、笑ってしまうほど明らかなのだが、人間の相互行為の源泉は、自然との闘いのための協力でしかない。
だからこそ、直接利害に関係のない、恋人や友人という存在が、今後の世界で極めて重要性が高まっていくだろう。
という前提をして、翻って、それも「投資」ということになるのは皮肉であり、やはり社会主義は夢想でしかない。
失敗した、それは大した問題ではないかもしれないが、あとあと響いてくるかもしれない。
まぁそれはいい。どうにもならなくなれば、覚悟を決めるだけだ。
ゆえに、問題は、現状認識と客観視の乖離にある。感覚のことだ。理性的な理解は、ときになんら役に立たない。
手遅れだ。
いやむしろ、運命は既に決まっている。
自分の自由意志など、どれほど信じられるのか。
それでも仕方がない。
たとえ待ち受けるのがジゴクであっても、もはやなせるすべは何も無い。
そうであるならば、焦燥や不安といった感情に、一体なんの意味があるのか。
思考のための道具でしかないとすれば、意味のないことだ。
敢えてその感覚を味わうのも手だ。であればむしろ足りない。もっと多くの意味を喪失しなければいけない。
さてと、不適合、不適当であれば捨て去ろう。笑い事であって、そんなこと不可能だろう。だからこそこの視野狭窄が有効なのだ。
意味記憶の喪失にはあまりにも足りない、楽な経験、体験だ。
まぁそれはいい。どうにもならなくなれば、覚悟を決めるだけだ。
ゆえに、問題は、現状認識と客観視の乖離にある。感覚のことだ。理性的な理解は、ときになんら役に立たない。
手遅れだ。
いやむしろ、運命は既に決まっている。
自分の自由意志など、どれほど信じられるのか。
それでも仕方がない。
たとえ待ち受けるのがジゴクであっても、もはやなせるすべは何も無い。
そうであるならば、焦燥や不安といった感情に、一体なんの意味があるのか。
思考のための道具でしかないとすれば、意味のないことだ。
敢えてその感覚を味わうのも手だ。であればむしろ足りない。もっと多くの意味を喪失しなければいけない。
さてと、不適合、不適当であれば捨て去ろう。笑い事であって、そんなこと不可能だろう。だからこそこの視野狭窄が有効なのだ。
意味記憶の喪失にはあまりにも足りない、楽な経験、体験だ。