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肉親の死
2016/05/20 00:16 | Comments(0) | 対人関係
祖父が亡くなった。
このきに、リアルタイムな、正確な自分の気持ちを書き残さないといけないと思う。

しかし、感情や、実感がどこかにいってしまっている。

離婚のこともそうだ。

一人真っ暗な部屋に帰っても、片付けして、ごみを分別して捨てて、除菌して掃除して選択して風呂に入って、寝て。

あまり感情がない。


一方、何故生きるのか、という命題が浮かぶ。
大切な人が死んだのに、不謹慎なことだ。


でも、本当に死が僕にとって希望であった時期において、それが死に至る病となって、死ねないこと、死すら希望にならないこと、、それが、僕にとってずっと巣くっていた。

都会に来ると、生きたいという欲求が薄れるという少女兵士の言葉。ジャングルの、強く生存欲求を感じる生活に戻りたいのだと。



生きていることは素晴らしいことだという。


よいことも、悪いこともたくさんある。

で、そのいくらかのいいことにすがるために、いくばくかの、46億年のうちの、わずかな時間をすごすのか。


僕は、自殺を考えた小学校四年生のとき、そう、あれは、下校と中の坂で、親友に、死にたいって思ったことがある? と、拙い言葉でたずねたとき、君は何をいっているんだ、そんなわけないだろうと言われたとき、ああ、僕は、なにか、ちがう、のだと、表現はなかったけれども、思ったのであった。




あのとき、死んでいなくて、僕はよかったのだろうか。


ああ、まさに、自分を大切にしてくれた方が亡くなったというに、こんな思考はエラーなのだろう。


いな、それでも、いやそれだからこそ、ぼくは、いまこそ、考えるべきなのだ。


本当に、守るものも、望むものも、ただ、しばらく生きていくためのお金だけある状態で、僕は真剣に考えるべきなのだ。


お金がない貧困のほうがつらいというのは、甘い考えだ、というと総すかんをくらうが、お金を手に入れたいという欲求がある時点で素晴らしいことだ。



この世界に素晴らしいことはたくさんある。
それを知った上でなお、なにも感じられない、望みがなくなった状態、それが絶望なのである。

哀しみではない


肉親の死、愛する人と離別、それはとても哀しいことだ。

涙がでればいい。でも僕は、ふわふわとした現実感のなさが続くだけである。





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人間不信というよりも組織不信
2012/12/28 00:58 | Comments(0) | 対人関係
セールストークが嫌いだ。


別に数万円が惜しいわけじゃない。ただ、騙されるのが嫌いだ。

他者がよいといっても、自分でよいと思えないものは嫌いだ。


見ず知らずの人間に、自分の考えを変えられるのが嫌いだ。仕事は別だ。


ルールとかマナーは大事だと思う。それがないと、世の中不快なことだらけだと思う。それを性悪説といったりする。性悪説に基づく人間なんて滅びてしまえという人もいた。もっともだ。全員が悪だったり、善だったりするとは思えない。でも悪は必ず存在する。ゼロじゃなければ、やっぱりルールもマナーも重要だ。

いやいやそのルールこそ、人間の善が形になったものだというのも一理ある。そうすれば性善説だ。だから、性善説も性悪説も、どちらも一面的であるというのが正解だ。

哲学というのは、そういう考え方もあるよね、ということに使えるが、結論を出すのには不向きだ。

もちろん突き詰めた哲学は、鉄壁かもしれない。しかし、凡人に理解できないレベルになったとき、哲学は思考から離れていく。

仕事の一番大切なことは、シンプルさだ。しかし、人生とはアナログで、境界がなく、複雑だ。
それゆえ、複雑な人生をシンプルにしようとする哲学の価値は色褪せない。


ただし、真理など、存在しないのではないか、という考え方もある。仏教でいう縁起や、社会学でいう関係性や相互依存。


僕は今、後者の考えに近い。究極には、自分なんて、自己意識なんて存在しないという、受動意識仮説に賛成だ。

これは、唯物論と言い換えていいと思う。モノの集合の関係性が、世界をつくっているのだという意味である。これは、AとBの間にCというモノを想定するのではない。AとBそのものが、関係性としてある、ということだ。

ある、そう表現すると、モノの集合であっても、自分という個体は存在するともいえる。ただ、自分の本質を自分の中に探していっても、単一のモノがあるだけになる。自己はない、とは極端な表現で、自己の本質はない、といえば適切だろうか。


ともかく、陥りがちな、考えるということ、それは自分の頭の中で完結してはいない。考えるというのは、目をつぶっていたとしても、様々な環境によるインプットの中で存在できているのだ。




何故こんな話しになったかといえば、自分の考え方を他者に変えられるのがイヤだということからだ。

何故他者が自分の中に入ってくるとイヤなのだろう。それは、生存欲求だ。共存ではなく、他者にのっとられる、それは死を意味する。

しかしアポトーシスとは何か。細胞の自発的な死といわれる。細胞は、何を生かすために、死を選ぶのか。

選ぶ、細胞に意識はあるのか。意識とは何なのか。


解決したいのは、この不快な感情だけなのだが。

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情報伝達(コミュニケーションとは何か)
2012/11/28 23:23 | Comments(0) | 対人関係
自分で何でも解決しようと思うことがよくない。


でも、そうしたおかげで、幅広く人脈を増やせた。


20代のうちは、がむしゃらでもいいかもしれない。しかし、30代40代を考えられないと、驚くほど簡単に、不要な人間になる。


他者の、生きたい、知りたい、仲間になりたいという欲求を、満たせる人間にならないといけない。歳をとるにつれ、欲求をみたす範囲は広がっていかなければ、歳相応とはみられない。


これは不安ベースの思考。歳をとるということは、選択肢が少なくなるということ。大人は、構築した人格が、時代にあわなくなったとしても、変わることができない。もうそのまま。だから、若い世代に老害と呼ばれたりもする。

でも、その若い世代も、大多数は要らない人間になる。せいぜい、家族からは稼ぎ手としての意味は与えられるかもしれない。
そんな家族からも、金だけおいていけ、といわれる始末だ。


これは特殊な例ではない。ただ、人間の言語は、高度に、他者に行動を喚起させることができる。
建て前と本音があるといわれる。そうではない。他者を動かすことができるかどうかの違いである。


言語という手段を失ったとき、残るのは暴力である。


相手に何かして欲しいと思ったとき、方法は、やはり本能に即して3つある。

生きたいという本能を刺激する。すなわち、危機感を与える方法。

知りたいという本能を刺激する。すなわち、好奇心を与える。

仲間になりたいという本能を刺激する。すなわち、感謝の心を伝える。



人それぞれ、どんな欲求を満たしたいか、優先したいかは異なる。仲間になりたいという欲求が強い人には、生きたい欲求とのあわせ技で、仲間でいるには何らかの貢献が必要なことをほのめかすなど。



僕はどうだろう。
知りたいという欲求が強く、後は同じぐらいかもしれない。
しかし、知りたいというのは、貢献心が強いからかもしれないし、仲間外れにされたら生きていけないという不安が強いのかもしれない。


何が一番か決めることに意味はない。

ただ、コミュニケーションとは、他者と自分との欲求をできるだけ満たす営みといってよい。
そしてそれは、ゼロサムゲームではないのだと、信じられるかどうかで、その人の器は決まる。

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情けは人のためならず
2012/10/25 22:07 | Comments(0) | 対人関係
めぐって自分に報いられるという意味。人に情けをかけるとろくなことにならない、というのは誤用。

落とし物をしていた人に、ひろってあげた。その年配の方は、笑顔でありがとう、ありがとうと繰り返していた。

「勝手に触るんじゃない!」
と怒られる可能性もあるので、いつでも逃げられる状態で、「落ちてますよ」と声をかけた。

感謝される気は全くなかったので、素直に嬉しかった。「どういたしまして」は恩着せがましいので、
「大丈夫です」とだけ言って、笑顔で会釈した。


すぐに行動できたわけではない。
よくよく考え、思考をめぐらせば、イメージした結果の行動だ。


善い行為と、良い結果の積み重ねが、その人の行動習慣だ。

しかし、習慣化された行動を脅かすことが起こると、人は焦るし、防衛本能むき出しになる。


歳をとると、生き方が変えられなくなる。だから、自分の習慣にしがみつく。既得権はこうしてできあがる。




気持ち悪がられるが、僕は許せない何かというのは、普通の人より少ないのだ。
こだわりがないし飽きっぽい。

何かに熱中できない人は、自分を持たない人は、人間関係を上手く築けない。


そんなことをずっと言い続けてきた僕は、すっかり習慣付いている。




思えば、自分を嫌いなのも重要なことだ。しかし、容易に変えられないことが自分の本質で、しかもそれが周囲に受け入れられにくいことだったとき、革命が必要になる。


革命を経て人は人になる。
自分の思考回路、考え方や価値観を変えるのは、言葉に表現するのは簡単だが、難易度は最高だ。


暴力をふるう夫を愛情で変えようとしても無駄だ。
人は思いのほか、他人に影響されることは少ない。もっとも、世間とか、一般というネットは、それが「主体的」と思われている限りは、強力な影響をもつ。


そうはいっても、良い結果をもたらした(と本人が信じている)習慣は、一般という影響を簡単に打ち破る。


タバコやアル中の治療は、中毒症状に、患者が気付いた時点で、治癒に向かう。

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残業について
2012/09/27 20:06 | Comments(0) | 対人関係
自分の考えなど、無駄なものである。個性など必要ない。

残業とは、無駄である。

そういった認識が、一般常識である。
では自分の上司はどう考えているのか。上司の上司はどうか。人事はどうか。会社組織はどうか。

全く別問題である。

そして、自分がどう思うのかが、最低辺にどうでもよい。


埼玉の公務員が800万の残業代をもらったという。
それについての熱い批判や、なだめるコメント、諸々ある。それ自体が大事である。





昨日あるきっかけから、古い知り合いたち数人に連絡をとった。

そのとき気付いた。
僕は、「関係」をみている。

今に始まったことではないが、一つの具体的エピソードだ。

直情型の人をよくみかける。
ああなりたいものだ、と思うことはある。

しかし、僕はやはり、感情が希薄である、この表現は厳密ではない。
自分のことを、棚上げしている、これも正確ではない。

とはいえ、そう表現するしかない。思考が優先される。そしてその思考は、意識しなければ止められない。


大多数が苦手なのは、処理能力がおいつかないからである。つまり、愚か者なのだ。ダメな人間の典型である。

だから、仮想人格の構築を思い立ったのはなんら不思議ではない。

考えが止められないなら、委任してしまえばいいのだ。



しかしこれは、最適解を見つけようとするあまり、螺旋のごとく沈んでいく罠である。

人生とは、自分の未来のことである。

ゆえに、解答は、自らが描き、かつ、採点も自分なのだ。




それでも、基本的ルールは存在する。人を殺してはいけない。しかし、人を殺すことを解としたら?

1980年代後半のMの事件は、100点だったのではないだろうか。


こういった思考に陥らないように、基本的ルールは、反射できるように刷り込まなければいけない。それが初期教育である。
思考の何たるかを知らない人間は、ルールを守れない人間になる。思考を知らない人間は、ゆえに反射だけがあればよい。

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