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意見の違い
2012/06/27 21:59 | Comments(0) | 対人関係
久しぶりにmixiでコメントを書いてみて、他の人の意見を読んだ。大半と乖離している。

あぁそうか、ふつうの人はそう考えるのか、なら今度からそう感じられるようにしよう。


僕の中で、意見や感情はその程度しか意味をなしていなかった。外面的に。

なので、「社会」の中で生きるのはひたすら自分の感情を押し殺すことであり、窮屈だった。

ゆえに、誰にも読ませることのない日記の中だけで、僕は「本音」を語ることができた。




最近は、恋人や友人などと恵まれているので、乖離は起こりにくいが、しかしながら、仕事はそうはいかないと思うし、やっぱり「社会」では建て前が必要だと思うのだ。


それを学ぶ最初の場が、学校だと考える。ゆえに、本音で向き合える友人をつくることが、学校教育の本義ではないと思うのだ。
もちろん、学校という機関が提供する場のもつ、友人形成機能は重要である。

とはいえ、例えば修学旅行とかで、好きな人だけのグループをつくらせるとか、職務怠慢ではないか。




これからグローバル化とかいったとき、英語を学ぶことが一番とは思えない。必要とは思う。
しかし、互いに価値観が異なる人間同士で、いかに共通点をみつけ、折り合いをつけていくのか。最初に学ぶべきはそこではないか。


日本の建て前文化、山本七平氏がいったあの「空気」、それは、太平洋戦争を泥沼化させたとはいえ、可能性と素材は悪くないと思う。

今、橋下市長に代表される空気というものは、「決断」と「行動」である。世論も、なぁなぁと交渉するのではなく、トップからの「英断」を期待し始めている。

日本の空気は変わり始めているといえるかもしれない。しかしながら、そこはやはり「空気」なのである。

個人が主体となり、神の前で平等に責を負うという仕組み(心性)は、日本人にはない。これは、海外で活躍するグローバルな日本人でも同じである。

もっともこれは、単独者としての「個人」を認めないとする、軟弱な人間観にもとづいている。

サンデル氏のような、コミュニタリアンも考えられる。



そうしたとき、


……入ったラーメン屋に虫が多すぎて、食欲と書く気力をなくした(笑)



結局、山田詠美氏の小説の主人公のように、身体の痛みをもちながら、なお思考に身を投じられる人がいたら、その人こそ尊敬に値するのである。

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