今日の一言「ひとのこころはおもしろきかな」
先日書いた時にはよく分かっていなかったが、モリエールという作家の「守銭奴」という話と、「ドン・ジュアン」という話のあらすじを読んで、ふと思った。
これは、性格気質の「純粋性」が問題なのではなかろうか、と。
クーデリアさんたちは、内面葛藤を抱えていながら頑張っていて、ミカサは命を救ってもらった主人公のエレンを守ることのみを生きがいとしているという点。どっちも頑張っている点は同じだけれども、後者はより特化しているというか、ある意味病的ですらある点に好印象だということだ。
と、書いて、んじゃあ、アトラさんは駄目なの? 彼女も、命を救ってもらった主人公の三日月くんを支えることを生きがいにしてるんじゃあないの? と思った。確かに、そうだ。でもなんか違うんだ。こんなこと書くと、アトラさんファンに石礫を投げられそうだが、ブレているというか、中途半端というか、微妙なのである。
何故そんな風に思ってしまうかというと、まぁ、序盤の登場からの印象がよくなかったというのもあるが(なんか、ちっちゃくて可愛い女の子だしときゃいいんだろ、みたいなテンプレ臭を思ってしまった。ただこれは偏見に過ぎなかろう)、当初は、「三日月のそばにいられるだけでいいんです」的な感じで、クーデリアさんの方が似合ってるだろうなぁとか言っているのに、段々と、「(クーデリアと)一緒に三日月をつなぎとめましょう!」となって、「あなたの子供が欲しい!」となる。
まぁ、言うなれば、ふつうの、かわいらしい、少女の恋愛が描かれているわけであるが、……いやだから、嫌いだとか見てられないとか、そういう文脈で書いているのではなくて、「理想のヒロイン」というか、心がきゅんとなるか、という意味においては、オルフェンズの女性陣にときめくことがなかったということである。
まず、ユーモア、お笑いというのは、ある種、人間の性格を極端に増幅ピックアップしたときに面白くなってくる。先に挙げたモリエールさんの喜劇というのは、「守銭奴」という性格類型だったり、「無神論者(好色家)」という性格類型だったりする。そういった極端な人格と、周囲の(ふつうな)人たちとのかけあい、軋轢なんかが面白かったりするのである。
物語には悪が必要だ、と言われたりする。その悪が巨大で、醜く、とことん突き詰められているとストーリーに起伏がつけやすい。それに立ち向かう主人公陣営も魅力的に描きやすい。その「悪」が、「いや実は、こうこう、こういった事情がありまして……」的な感じのが最近多い気がするけれども、「いやーそうですか、貴方にもそういったご事情があるんですねぇ」「そうなんですよーあっはっはー」的な感じになってくると、何だか肩透かしに思えてくる。いやおめーよぅ、その程度で和解できるんだったら、はなっから話し合いでもなんでも他の方法があったんじゃねえかよ。
それでだ、話を「純粋性」に戻すと、みんな、誰でもそもそも、純粋なものって好きなんじゃあないかと思う。
「不純物ゼロ! 純粋に素材を活かした商品です!」
いやそれ、ただの水でしょ、みたいな。それは極端か。
他には、ヤリマンビッチよりも処女の方がいいとか。
そういった「純なるもの」への憧れって、どこかしら人の根源になかろうか。
例えば信仰とか。
神への信仰は、時に、疑うこと自体を悪とされる。そもそも聖書では、楽園エデンで暮らしていた男女が、知恵の実を食べてしまうことによって、純粋性を失って、神様から怒られてしまった。これは、逆説的に、純なるもの、無垢なることへの憧れの表れなのではなかろうか。
まぁ、僕は別に処女信仰をもっているわけではないけれども、それでも、純粋な女の人の方が好きだ。その純粋なというのは、性交経験ではなく、性格特性としてのものである。じゃあその、純粋な性格特性って何なんだ? ということで、ようやくこの記事の本題に近づいていく。
この「わかる」とか、知識をもつとか、そういったことと、純粋性とは、切っても切り離せない問題だ。
わかるとは何か? 端的に答えるならば、それは、「分類できる状態」、もっと平易に書けば「わけられる」ということだ。
「答えを出せる状態」
という表現もできるかもしれないが、それはやや具体性にかける表現である。
確かに、何かの問い、問題、課題があったときに、適切な答えを出せるというのは、その問い等について、「分かっている」といえるだろう。
では、その答えを出せるというのは何か?
言語上であれば、YES/NOだったり、善悪だったり、AタイプorBタイプだったり、何からの分類ができて、そこに整合性が保たれている状態、それが答えということだ。
ということは、つまり、その問い自体について、「わかっている」必要があるわけであり、ここでいつもお決まりの無限遡及が生じる可能性を見出せるのだけれども、そもそも、言語というもの自体、カオスな自然状態を、適切に生活するために便宜上「区切っている(わけている)」のである。
その根源を辿れば辿るほど、いつまでたっても答えがでないという状態に陥るのは、仕方がないことであるともいえる。
これは、倫理的・道徳的になんかおかしいから、カントの言ってることは矛盾だよね、といった文脈が多いように思う。
けどまー、その場の対処はいろいろあると思う。
「Aはここにいる! が、お前には引き渡さない!」
とインターホンで対応して、そもそも玄関のドアを開けないのだっていいし、すぐに警察よんでもいいし。
功利主義の正義の問題とか、暴走列車で、Aの引き込み線では3人、Bの引き込み線では1人死ぬとしたら、Bが正しいとか。でもなんでそんな暴走した大事件発生中にもかかわらず未だ線路上に人がおるん? とか。
こういった議論というか、仮定というのは、その時々のシチュエーションにおける対処をその場で、瞬時に選ばなければならなくて、結局言語上の、思考実験に過ぎない。
たぶん、あんまり「正義」とか道徳とか考えていない人だったら、3人と1人という選択ができる状態にあったとしても、「何もしない」という選択をとることだって考えられる。それは、どちらを「選んでも」それは、自らの選択で人を殺めた、という解釈もできるからだ。そうしたとき、人は思考停止に陥って、合理的な判断ができない可能性だってある。
だから、思考実験と、実際に僕らの生き方・選択という問題は、実は関係してそうで関係していない場合があることを、忘れてはならない。
話がずれた。
うーむ、陳腐な表現である。ともかく、「少女」という言葉がもつ響きには、どうにも、「純なるもの」という意味が込められているような気がする。
じゃあその「純なるもの」って何なの? ということを表現することによって、理想のヒロイン像を明らかにしようというのがこの記事の試みである(そうだったのか!)。
聖書の創世記に出てくるエヴァはどうか(この文脈では、アダムでもいいが)。
明らかに、蛇にそそのかされて「知恵の実」なるものを食べる前は、「純真無垢」であったのだろう。では、無垢とは、知恵の反義語ということか。
いつものごとく、辞書をひいてみる。別に無垢と知恵が対称関係にあるとか、そんなこと書かれてはいない。
ただ、無垢というのは、「まじりけがなく、完全であること」のように表現されている。純粋という語においても似たり寄ったりである。
ふむふむ、なるほど、もしかしてこれって、最近よく表現しているものに似ているのではなかろうか?
それは、「無」である。なーんにもない、ということだ。思考も感覚も無い、絶対無の状態。それが無垢である。
そうしたとき、思考のもととなるモノ、――すなわち「知恵」というのが、まさにその無垢の、純粋性の対義語ではなかろうか。
知恵がないというのは、それは、「バカ」ともいえる。なるほど、では僕らは、できるだけ思考をすて、馬鹿になっていく必要がある! 考えることは悪だ、思考は悪だ!
そして、理想のヒロイン像というのは、「アホの子」なのだ! 知的だったり、努力家だったりする必要はないのだ。ただ馬鹿であればいいのだ!
いやそうか? ちょっと待ってほしい。彼女の巨人に対する研究心は、明らかに度を越している。自らの命の危険なんてしょっちゅう度外視されている。副官のモブリットさんが大変そうである。
その持ちえたる知識、頭の回転の良さ、判断力、そして行動力。どれをとっても馬鹿ではなかろう。
ただし、その巨人の生態を明らかにしたいという思い、それへのひた向きさは、「バカ」と表現しても構わないような、そんな一途さを感じられる。
それもまた、「純粋性」といっても構わないのではないだろうか。
としたとき、一つ新しい定義がわいてでてきている。つまり、純粋性とは、決して、「知恵がないこと」「何も知らないこと」である必要がないということだ。
ある「モノ・コト」に対して、わき目もふらず、ただ一途にそれを目指し続ける、それが「純粋」というものなのではなかろうか。
ミカサは、幼馴染のエレンを守ることだけを目的としている。
だから、同じく幼馴染のアルミンと、カリスマ的指導者の命が天秤にかけられる場面に出くわしたとき、アルミンを助ける決断を諦め、いち早く身を引いた。これは、非情なのではない。ミカサにとっての第一義は、エレンの存在なのである。これが、エレンとカリスマ的指導者の命の天秤であれば、ミカサは何らためらいもなく、周囲の同僚をも下手したら殺害してでも、エレンを助けただろう。
(と、いった感想というか解釈をもっているので、進撃の巨人の実写版のキャラクターメイキングというか、ストーリー構成は納得いかなかったというか、つまらなかった。まぁ単に好みの問題だろう)
一つ言えるのは、お笑いコントは、喜劇は、物語は、その「極端さ」(純粋性)をピックアップできるがゆえに、「面白い」という感動を与えるのである。
でも実際、僕は、人間という存在について、そこまで楽観的な感覚を頂けない。
時に両価性の感情をもつことだってあるのが人間である。
好きという感情の中に、憎しみだって内包できる高度で複雑な「こころ機能」。
これを「わかる」ためには、「こころ」ということそれ自体の分析をしても足りないのであって、その「問い」が放たれる状況、文脈の理解……しかもその理解は、刻一刻と変わっていく「こころ」を正確にとらえるために、瞬時に、リアルタイムに行われねばならないのだ。
原理的に無理じゃないかと思う。
だから、誤る可能性はあるにせよ、「たいていは、こういう状況において、人はこういった感情をもつ」という、何となくの感覚を総動員してコミュニケーションを図っているのである。
コミュニケーションをするってのは、とってもすごいことなのだ。そんなことを、何の気なしに、僕らはやっているのである。
だから、コミュ障とか最近よく聞くけど、それも、当たり前っちゃあ当たり前なのだ。だって難しいことやってるんだから。
だから(この「だから」は、いささか強引な気がしている。ただ、今回の記事としては、いったん締めくくっておこう(※))、ある程度のテンプレ(物語)が必要なのである。
えーと、しかし、そうなってくると、純粋性というのもまた、単に「解釈」上の話に過ぎないのだろうか。
だとすると、この記事はなおのこと何の意味があるんだということになってくる。
そもそも、分かりやすく、お前は、純粋性というものに賛成なのか、反対なのか。善なるものだと思っているのか悪だと思っているのか。目指したいのか唾棄すべきなのか。どっちなのだ?
うーん、でもやっぱり、みんな、純粋になるっきゃないんじゃないかなぁ。そういったものが価値あるものだと、共通認識がもたれるような世の中になっていく必要があるんじゃないかなぁ。
(なんやかんや、中途半端ではあるが、しかし、何かのたたき台にはなりそうな記事になった気がする)
※原理的に人の心を瞬時に完璧に理解してコミュニケーションしていくのは不可能だろうということ。であるなら、「こういうときはこうだ」「こうすればこうなる」というのを、自分の中である意味勝手に解釈するしかないのである。このことについて、「人はもはや、信じることしかできないのである」表現で書いたことがあった。だまされようがなんだろうが、結局他者というのは、自分の解釈の中での存在であるということだ。
しかし、この感覚にがんじがらめになってしまうと、色々な弊害に見舞われるのはすぐにわかることである。
理想のヒロイン像
鉄血のオルフェンズ(ガンダム)のクーデリアお嬢様とアトラさんは駄目で、進撃の巨人のミカサとハンジさんは良いのは何故か?先日書いた時にはよく分かっていなかったが、モリエールという作家の「守銭奴」という話と、「ドン・ジュアン」という話のあらすじを読んで、ふと思った。
これは、性格気質の「純粋性」が問題なのではなかろうか、と。
クーデリアさんたちは、内面葛藤を抱えていながら頑張っていて、ミカサは命を救ってもらった主人公のエレンを守ることのみを生きがいとしているという点。どっちも頑張っている点は同じだけれども、後者はより特化しているというか、ある意味病的ですらある点に好印象だということだ。
と、書いて、んじゃあ、アトラさんは駄目なの? 彼女も、命を救ってもらった主人公の三日月くんを支えることを生きがいにしてるんじゃあないの? と思った。確かに、そうだ。でもなんか違うんだ。こんなこと書くと、アトラさんファンに石礫を投げられそうだが、ブレているというか、中途半端というか、微妙なのである。
何故そんな風に思ってしまうかというと、まぁ、序盤の登場からの印象がよくなかったというのもあるが(なんか、ちっちゃくて可愛い女の子だしときゃいいんだろ、みたいなテンプレ臭を思ってしまった。ただこれは偏見に過ぎなかろう)、当初は、「三日月のそばにいられるだけでいいんです」的な感じで、クーデリアさんの方が似合ってるだろうなぁとか言っているのに、段々と、「(クーデリアと)一緒に三日月をつなぎとめましょう!」となって、「あなたの子供が欲しい!」となる。
まぁ、言うなれば、ふつうの、かわいらしい、少女の恋愛が描かれているわけであるが、……いやだから、嫌いだとか見てられないとか、そういう文脈で書いているのではなくて、「理想のヒロイン」というか、心がきゅんとなるか、という意味においては、オルフェンズの女性陣にときめくことがなかったということである。
純粋性とは
ヒロインの話と、タイトルにある「純粋性」とに、何の関係があるのか、ということだけれども、もっといえば、それと「てめーが生きる意味」というのと何の関係があるのか、ということだけれども、大事な要素がある気がしている。まず、ユーモア、お笑いというのは、ある種、人間の性格を極端に増幅ピックアップしたときに面白くなってくる。先に挙げたモリエールさんの喜劇というのは、「守銭奴」という性格類型だったり、「無神論者(好色家)」という性格類型だったりする。そういった極端な人格と、周囲の(ふつうな)人たちとのかけあい、軋轢なんかが面白かったりするのである。
物語には悪が必要だ、と言われたりする。その悪が巨大で、醜く、とことん突き詰められているとストーリーに起伏がつけやすい。それに立ち向かう主人公陣営も魅力的に描きやすい。その「悪」が、「いや実は、こうこう、こういった事情がありまして……」的な感じのが最近多い気がするけれども、「いやーそうですか、貴方にもそういったご事情があるんですねぇ」「そうなんですよーあっはっはー」的な感じになってくると、何だか肩透かしに思えてくる。いやおめーよぅ、その程度で和解できるんだったら、はなっから話し合いでもなんでも他の方法があったんじゃねえかよ。
それでだ、話を「純粋性」に戻すと、みんな、誰でもそもそも、純粋なものって好きなんじゃあないかと思う。
「不純物ゼロ! 純粋に素材を活かした商品です!」
いやそれ、ただの水でしょ、みたいな。それは極端か。
他には、ヤリマンビッチよりも処女の方がいいとか。
そういった「純なるもの」への憧れって、どこかしら人の根源になかろうか。
例えば信仰とか。
神への信仰は、時に、疑うこと自体を悪とされる。そもそも聖書では、楽園エデンで暮らしていた男女が、知恵の実を食べてしまうことによって、純粋性を失って、神様から怒られてしまった。これは、逆説的に、純なるもの、無垢なることへの憧れの表れなのではなかろうか。
まぁ、僕は別に処女信仰をもっているわけではないけれども、それでも、純粋な女の人の方が好きだ。その純粋なというのは、性交経験ではなく、性格特性としてのものである。じゃあその、純粋な性格特性って何なんだ? ということで、ようやくこの記事の本題に近づいていく。
分かるということ
その前に、「わかる」ということについて、書いておく必要がある。この「わかる」とか、知識をもつとか、そういったことと、純粋性とは、切っても切り離せない問題だ。
わかるとは何か? 端的に答えるならば、それは、「分類できる状態」、もっと平易に書けば「わけられる」ということだ。
「答えを出せる状態」
という表現もできるかもしれないが、それはやや具体性にかける表現である。
確かに、何かの問い、問題、課題があったときに、適切な答えを出せるというのは、その問い等について、「分かっている」といえるだろう。
では、その答えを出せるというのは何か?
言語上であれば、YES/NOだったり、善悪だったり、AタイプorBタイプだったり、何からの分類ができて、そこに整合性が保たれている状態、それが答えということだ。
ということは、つまり、その問い自体について、「わかっている」必要があるわけであり、ここでいつもお決まりの無限遡及が生じる可能性を見出せるのだけれども、そもそも、言語というもの自体、カオスな自然状態を、適切に生活するために便宜上「区切っている(わけている)」のである。
その根源を辿れば辿るほど、いつまでたっても答えがでないという状態に陥るのは、仕方がないことであるともいえる。
思考実験の意味について
ちょっと蛇足だけれど、カントという哲学者さんは、形式的な倫理(定言命法)を重視したといわれている。有名な例として、自分の親友Aが殺人鬼に追われていて、自分の家にやってきて、匿っていた。そこへ、殺人鬼が自分の家にきて、「Aはいるか!」と訪ねてきた。嘘をついてはいけないという倫理観がある場合は、一時の感情やその状況に応じて変えてはならないのであり(仮言命法)、親友のAはここにいる、と殺人鬼に言わなければならない、という話である。これは、倫理的・道徳的になんかおかしいから、カントの言ってることは矛盾だよね、といった文脈が多いように思う。
けどまー、その場の対処はいろいろあると思う。
「Aはここにいる! が、お前には引き渡さない!」
とインターホンで対応して、そもそも玄関のドアを開けないのだっていいし、すぐに警察よんでもいいし。
功利主義の正義の問題とか、暴走列車で、Aの引き込み線では3人、Bの引き込み線では1人死ぬとしたら、Bが正しいとか。でもなんでそんな暴走した大事件発生中にもかかわらず未だ線路上に人がおるん? とか。
こういった議論というか、仮定というのは、その時々のシチュエーションにおける対処をその場で、瞬時に選ばなければならなくて、結局言語上の、思考実験に過ぎない。
たぶん、あんまり「正義」とか道徳とか考えていない人だったら、3人と1人という選択ができる状態にあったとしても、「何もしない」という選択をとることだって考えられる。それは、どちらを「選んでも」それは、自らの選択で人を殺めた、という解釈もできるからだ。そうしたとき、人は思考停止に陥って、合理的な判断ができない可能性だってある。
だから、思考実験と、実際に僕らの生き方・選択という問題は、実は関係してそうで関係していない場合があることを、忘れてはならない。
話がずれた。
無垢な少女
汚れを知らない、うら若き乙女。うーむ、陳腐な表現である。ともかく、「少女」という言葉がもつ響きには、どうにも、「純なるもの」という意味が込められているような気がする。
じゃあその「純なるもの」って何なの? ということを表現することによって、理想のヒロイン像を明らかにしようというのがこの記事の試みである(そうだったのか!)。
聖書の創世記に出てくるエヴァはどうか(この文脈では、アダムでもいいが)。
明らかに、蛇にそそのかされて「知恵の実」なるものを食べる前は、「純真無垢」であったのだろう。では、無垢とは、知恵の反義語ということか。
いつものごとく、辞書をひいてみる。別に無垢と知恵が対称関係にあるとか、そんなこと書かれてはいない。
ただ、無垢というのは、「まじりけがなく、完全であること」のように表現されている。純粋という語においても似たり寄ったりである。
ふむふむ、なるほど、もしかしてこれって、最近よく表現しているものに似ているのではなかろうか?
それは、「無」である。なーんにもない、ということだ。思考も感覚も無い、絶対無の状態。それが無垢である。
そうしたとき、思考のもととなるモノ、――すなわち「知恵」というのが、まさにその無垢の、純粋性の対義語ではなかろうか。
知恵がないというのは、それは、「バカ」ともいえる。なるほど、では僕らは、できるだけ思考をすて、馬鹿になっていく必要がある! 考えることは悪だ、思考は悪だ!
そして、理想のヒロイン像というのは、「アホの子」なのだ! 知的だったり、努力家だったりする必要はないのだ。ただ馬鹿であればいいのだ!
ハンジさんはどうか
いやでも、進撃の巨人のハンジさんはどう考えても知的キャラではないですか。いやそうか? ちょっと待ってほしい。彼女の巨人に対する研究心は、明らかに度を越している。自らの命の危険なんてしょっちゅう度外視されている。副官のモブリットさんが大変そうである。
その持ちえたる知識、頭の回転の良さ、判断力、そして行動力。どれをとっても馬鹿ではなかろう。
ただし、その巨人の生態を明らかにしたいという思い、それへのひた向きさは、「バカ」と表現しても構わないような、そんな一途さを感じられる。
それもまた、「純粋性」といっても構わないのではないだろうか。
としたとき、一つ新しい定義がわいてでてきている。つまり、純粋性とは、決して、「知恵がないこと」「何も知らないこと」である必要がないということだ。
ある「モノ・コト」に対して、わき目もふらず、ただ一途にそれを目指し続ける、それが「純粋」というものなのではなかろうか。
ミカサは、幼馴染のエレンを守ることだけを目的としている。
だから、同じく幼馴染のアルミンと、カリスマ的指導者の命が天秤にかけられる場面に出くわしたとき、アルミンを助ける決断を諦め、いち早く身を引いた。これは、非情なのではない。ミカサにとっての第一義は、エレンの存在なのである。これが、エレンとカリスマ的指導者の命の天秤であれば、ミカサは何らためらいもなく、周囲の同僚をも下手したら殺害してでも、エレンを助けただろう。
(と、いった感想というか解釈をもっているので、進撃の巨人の実写版のキャラクターメイキングというか、ストーリー構成は納得いかなかったというか、つまらなかった。まぁ単に好みの問題だろう)
現実にいないだろうそんなヒト
といったわけで、僕の変態な嗜好を垂れ流してきたわけであるが、これ、いったい、何の役に立つ奴じゃ?一つ言えるのは、お笑いコントは、喜劇は、物語は、その「極端さ」(純粋性)をピックアップできるがゆえに、「面白い」という感動を与えるのである。
でも実際、僕は、人間という存在について、そこまで楽観的な感覚を頂けない。
時に両価性の感情をもつことだってあるのが人間である。
好きという感情の中に、憎しみだって内包できる高度で複雑な「こころ機能」。
これを「わかる」ためには、「こころ」ということそれ自体の分析をしても足りないのであって、その「問い」が放たれる状況、文脈の理解……しかもその理解は、刻一刻と変わっていく「こころ」を正確にとらえるために、瞬時に、リアルタイムに行われねばならないのだ。
原理的に無理じゃないかと思う。
だから、誤る可能性はあるにせよ、「たいていは、こういう状況において、人はこういった感情をもつ」という、何となくの感覚を総動員してコミュニケーションを図っているのである。
コミュニケーションをするってのは、とってもすごいことなのだ。そんなことを、何の気なしに、僕らはやっているのである。
だから、コミュ障とか最近よく聞くけど、それも、当たり前っちゃあ当たり前なのだ。だって難しいことやってるんだから。
だから(この「だから」は、いささか強引な気がしている。ただ、今回の記事としては、いったん締めくくっておこう(※))、ある程度のテンプレ(物語)が必要なのである。
えーと、しかし、そうなってくると、純粋性というのもまた、単に「解釈」上の話に過ぎないのだろうか。
だとすると、この記事はなおのこと何の意味があるんだということになってくる。
そもそも、分かりやすく、お前は、純粋性というものに賛成なのか、反対なのか。善なるものだと思っているのか悪だと思っているのか。目指したいのか唾棄すべきなのか。どっちなのだ?
うーん、でもやっぱり、みんな、純粋になるっきゃないんじゃないかなぁ。そういったものが価値あるものだと、共通認識がもたれるような世の中になっていく必要があるんじゃないかなぁ。
(なんやかんや、中途半端ではあるが、しかし、何かのたたき台にはなりそうな記事になった気がする)
※原理的に人の心を瞬時に完璧に理解してコミュニケーションしていくのは不可能だろうということ。であるなら、「こういうときはこうだ」「こうすればこうなる」というのを、自分の中である意味勝手に解釈するしかないのである。このことについて、「人はもはや、信じることしかできないのである」表現で書いたことがあった。だまされようがなんだろうが、結局他者というのは、自分の解釈の中での存在であるということだ。
しかし、この感覚にがんじがらめになってしまうと、色々な弊害に見舞われるのはすぐにわかることである。
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