今日の一言「少し直近のことを整理しよう」「書かなければ落ち着けないという哀しい性哉」
とある国々で、大統領選挙が迫っているという。
このブログでは、政治・宗教に関する主張は一切行われない。どういった政党や政策が良いだとか、どの宗教が正しいだとか、そういうことは一切書いたことはないし、これからも書かれないだろう。
理由は、無意味だからである。政治や宗教は、「信仰」の問題である。または、「ゲーム」である。議論の様相を見せることがあっても、議論にならない。ある「正しいこと」について、他者をどれだけ多く巻き込めるか、その点だけが重要なのである。
しかし、これらの問題は、「自己」という、極めて個人的な問題を考えるにおいても、無視することはできない。何故ならば、自己もまた、単一で成り立つ独立した存在ではなく、他者を始めとるする関係性の中で存在するものだからである。
この感覚については、納得のいかない人も多いだろう。「自分は自分だぜ!」と思う人もいるだろう。このことも、ある意味宗教的な……というと語弊があるが、「信仰」に過ぎないものである。「どの次元での成立(存在)を前提としているか」によって、自己と環境との関係性に係る実感は変わってくる。
先に、このブログでは「政治宗教は扱わない」と書いたが、この意味は、「信仰全般」を扱わないという意味である。もっと厳密に書けば、「誰かが正しいと思っていることについて、それを否定するつもりはない」ということだ。
このことを前提として、それでも、「政治問題」「国際情勢」については、考えたり、情報収集しておく必要はある。
ただそれは、「みなさん、ちゃんと選挙には行きましょうね」という主張なのではなく(※)、どういった仕組みで法律が、政策が決まっていくのかという仕組みを理解することが先決である。と、同時に、どういった社会(政治)が、自分にとって望ましいのか、何が「幸せ」なのかということについて、考えておくことが必要であるということだ。
医療、老後(年金)、子ども、教育、外交(防衛)、経済。
様々な問題がある。それらを、一発で解決できる法律も存在しなければ、政策も存在しない。ちなみに、どんな政策も、基本的に「法律」に拠っていることについて、覚えておいてよいだろう。政治とは極論、法律をつくる仕事だ。僕らの生活は、基本的に、法律のもとに成り立っているのである。役所に行けば、住民登録されているのが分かるけれども、それだって、住民基本台帳法という法律で、どんなことを書かなければいけないかなど決まっている。それは社会保障など、明らかに政治に関係しそうなことだけでなく、経済活動だってそうだ。消費者向けの法律は製造物責任法が有名だろうが、会社法など、僕らの所属する組織だって法律で定められたことに則っている。
※でも、路上のデモ活動とか、ヒップホップで政治批判とか、飲み屋の愚痴でも何でもいいけど、そういったことを言ったりしたりする人たちは、当然、選挙には行っているんだよね? とは思う。国会で通過した法案について、「やめろ! 廃案だ!」とか言ってるのは、手遅れである。もちろん、まったく無意味とは言わないが、それよか、議員の方々に嘆願書を送ったほうがよい。もっといえば、そんな法案を通過させてしまうような議員を選んでしまったことが問題なのである。
ただし、この問題は、そう単純でもない。何せ、どの議員が、どんな政治信条をもっているかなんて中々分からないし、それが、さらに事細かな政策について(例えば、漫画やアニメの表現の自由についてとか)にまでどんな感覚をもっているのかだって、分からないのである。Aという政策に共感したからα議員に投票したけど、その人は実はBという政策も主張する人だったとして、Bという政策はほんっとうに許せないと思ったとしても、後の祭りである。であれば、できることはデモくらいになる。
2016年5月の記事において、以下のキーワードを挙げていた。
「生きる意味」「肯定感」「潜在意識」「ポジティブ」「ネガティブ」「対人関係」「コミュニケーション」「苦悩」「苛々」「ロジック」「整理」「感情処理」「空(仏教)」「宗教」「科学」「記憶」「アイデンティティ」「ストレス」「小説」「エンターテイメント」「創作」「凡人」「仕事」「価値観」「ルーチン」「学習」「計画」「目標」「目的」「死」「理想自己」「幸せ」「自己実現」「真実」「永続性」「アウトプット」「インプット」
多分、それぞれのキーワードについて、僕がどういった感覚(実感)をもっているのかは、大体全部書き終わっていることだろう。
もちろん、具体的な方策だとか、その記載内容を深めたり、表現の見直しなどは必要だろうと思う。ただ、例えば「幸せ」「死」なんていうキーワードで記事を書いたところで、これ以上はあまり変化は見られないだろう。
であれば、もうちょっとそういったキーワードを体系的に整理するか、もしくは、違った視点から書いていく必要があると思うわけである。
しかし、同時に、何か、違和感があるのである。
それが何か、はっきりと表現できない。彼の方が真理に到達し、自分が到達できていないことへの焦りや瞋恚があるのだろうか?
恐らく、だが、「自分」への拘りについての危険を思っているのだろう。
僕は昔(いや、今もだろうが)、自分の内面をとことん探っていった。しかし、現在の結論としては、「自分」というものは、世界(物理的かつ精神的な全てを含む概念として用いる)を、他者と分けて考えたものであるということだ。
故に、自分を知るというのは、自己の内面の深淵に到達するという行為では成しえないものだと思っている。何故ならば、自分と他者との境界というのは、非常に曖昧であると考えられるからだ。
ということは、自分を知るというのは、その他者との境界線を引いていくという作業を指すことになるが、明確なラインを引けたところで、その根拠は覚束ないものに他ならない。その瞬間、その環境では「自分」の定義ができたところで、次の条件では変わってしまうことがどうしても起こるだろう。
そんな風に感じるようになってから、僕は、「自分」というものに拘ることができなくなっていった。
こんな表現をすると、いやそもそも、お前はお前に過ぎないだろう? と思われるだろう。
そのとおりであり、物理的身体としての自分というものは、否定できるものではない。
僕は、僕として存在する。そのことについて否定したところで、何ら意味は無いだろう。
しかし、否定はしないけれども、積極的に肯定することもできない。
先日、「頭がいい人はすごいなぁ」と取り上げた文章の一つに、「文章は所詮、一人称になってしまう」というものがあった。思考には論理性、事実には再現性が重要であるという、あれだ。
しかし、世界の真理がどうであれ、個人として、自分として、世界に対してどう生きるのかということを問うときに、その問いを放つ主体、それを「自分」というわけであるが、その自分を考えないで、そもそも生きる意味など考えることなどできないに違いない。
1.生きる意味を考える ならば 自分が存在しなければならない
2.自分が存在する ならば 生きる意味を考えなければならない
ここで、2.は矛盾である。しかし、
3.私は遠藤である
4.遠藤である ならば 生きる意味を考えなければならない
というのは、今のところ、真である。
では、
5.幸せである ならば 生きる意味を見つけられている
6.生きる意味がなければ幸せではない
というのは成り立つだろうか?
そもそも、問いが矛盾なのだろうか?
いや、問いをすること自体に、正も偽も存在しない。問いの内容が正しいか、矛盾かどうかである。
その、文章のことを、論理学では「命題変項」という。真偽というのを、「命題定項」という。
ただ、自分は、生きる意味があることの証明をしてみようと思う。
1.意味とは価値のことである
2.価値は、相互関係(影響)により生じる
3.私は生きている
4.生きているならば相互関係が生じる
5.私は生きていて(3)、相互関係を生じさせているから(4)、価値がある(2)
6.私が生きていること(3)は価値がある(2)ことだから、意味がある(1)
7.6を簡略化すると、私には生きている意味があることを導ける
[以上証明完了]
なんてつまらない証明だろうか!
しかし、僕は普段から、「ああ、僕なんて、生きている意味があるんだろうか……」なんていっているが、しかし、上の証明の次元においては、生きる意味があることを、ちっとも疑っていないのである。
しかし、上の証明が、多くの、自殺を企図する人たちに、何ら救いにならないことは明らかである。
では、何が足りないのか?
……。一見、矛盾は見当たらない。しかし、不思議と、上の証明は嫌悪される。何故か? どこに綻びがあるのか?
それは、いっちばん最初からである。つまり、意味とか、価値の定義がよろしくないのである。
それは、「生きる【良い】意味とは何だろうか?」ということだ。
良い。
このカッコ内の言葉は、良いでも、充実したでも、幸せでも、何でもかんでも構わない。
ここで分かることは、「意味」という言葉を用いたとき、僕らは、非常に「恣意的な」意味を内包させているということである。
例えば、「無駄な意味」という表現は成り立つのだろうか?
僕は、成り立つ、と思う。ただし、意味という語に、「価値」という同義語をあてるならば、成り立たなくなるだろう。
価値とは何か? それは、「良い」とか「役に立つ」性質や程度のことである。無駄、というのは、役に立つという語の反義語である。ということは、無駄な価値というのは、形容矛盾である。
しかし、広義にとらえるならば、無駄な価値(反価値)を含めて、「価値」という語で表現することも構わないだろう。
ただし、こういった言葉の用い方は、言葉遊びに過ぎないだろう。言語は、文脈において意味を放つ。「価値がある!」といったときに、「無駄だ!」という意味を込めて叫ぶ人はいない。
価値という語自体には、反価値という意味が込められていようが、文脈においては明らかに「役に立つ性質」という意味で用いられるのである。
話を戻す。
生きる意味とは何か。
さっきの証明からもう一度引用しよう。
>1.意味とは価値のことである
>2.価値は、相互関係(影響)により生じる
2.の、相互関係を生じさせるもの、ということだが、ここに、「良い」という意味を含ませてみる。
そうすると、中間的な表現はすっ飛ばして、
>6.私が生きていること(3)は価値がある(2)ことだから、意味がある(1)
という部分に、
「6.私が生きていること(3)は【良い意味での】価値がある(2)ことだから、意味がある(1)」
という「良い性質」を加えてみて、もう一度考えてみる。
さぁ、遠藤くん、君は、良い相互関係(影響)を生み出しているのだろうか?
上の論理式は、真(正しい)ものである。
意味があるかは不明であるが、論理的には正しい。
何故ならば、悪魔の証明のように、どちらの文章(命題変項)も、100%証明することは不可能だからである。
生きる意味が完全に無意味だということを、証明できる人はいるだろうか?
「俺は、そんな難しいこと考えることは、絶対に無意味だと思うね!」
という人がいたとしよう。しかしそれは結局、一人称の文章である。論理的ではない。再現性もない。
そう、君がそう思うならそうなんだろうね。と言われるレベルである。
しかし、逆もしかり。
生きる意味を考えることは絶対に正しい! と言い切ることもできない。
そうなってくると、だ。
結局、最初に取り上げた、彼の方の仰る通り、「信じられるのは、己の感覚のみ」みたいなことになってくる。
思考によってこねくりまわされた論理や言葉には、感情がこもっていない。実感がない。それらは、ふぅと息を吹きかけるだけで飛んで壊れてしまうような、幻影に過ぎないのではなかろうか。
そうするとやっぱり、自分とは何かってのを、とことん突き詰めていくしかないってことなのか。
きっとそれは正しいのだ。
にもかかわらず、僕は、まだ、違和感を覚えている。何故か?
それは、良いという感覚自体もまた、盤石なものとは思えないからなのだ。(最初に書いた違和感のように、自分と他者との境界線が曖昧である以上、自分の感覚というものが絶対的な拠り所であると思えないという事態に起因しそうだ)
であれば僕は何がしたいのか?
僕は何なのか?
僕は誰なのか?
(続く……のか? 例えば、「良い」というのが良く分からないと書いたけれども、先日の「ぐちゃー」っとした記事について、書いているときは本当に消そう消そうと思っていたし、次の日にも消そうと思っていたのだけれども、拍手ボタンが2回という表示になっていたため、ああ、じゃあ消さなくてもいいかなって思い始めてしまった。ということは、僕自身の「良い」という感覚は、他者の評価によって簡単に翻ってしまうものなのだろうか。だがこのことも、人間としてはさほど不思議ではない。例えば、良いのか悪いのか分からないような作品ができあがったときに、自分の尊敬する方が、「おお、これは面白いじゃないか」と言ってくださったら、そりゃあもう傑作を生みだしたような気持になるのではなかろうか。そして、そんなときの評価ってのが、実は嘘や欺瞞だったとき、「裏切られた」という心性は高ぶるのではなかろうか。でもそれって、勝手な感情に思える。結局、芯をもって、自分を信じられていれば、他者の流動的な評価になど惑わされずに済むのだから。)
政治について
(この章は、先日メモしたものである)とある国々で、大統領選挙が迫っているという。
このブログでは、政治・宗教に関する主張は一切行われない。どういった政党や政策が良いだとか、どの宗教が正しいだとか、そういうことは一切書いたことはないし、これからも書かれないだろう。
理由は、無意味だからである。政治や宗教は、「信仰」の問題である。または、「ゲーム」である。議論の様相を見せることがあっても、議論にならない。ある「正しいこと」について、他者をどれだけ多く巻き込めるか、その点だけが重要なのである。
しかし、これらの問題は、「自己」という、極めて個人的な問題を考えるにおいても、無視することはできない。何故ならば、自己もまた、単一で成り立つ独立した存在ではなく、他者を始めとるする関係性の中で存在するものだからである。
この感覚については、納得のいかない人も多いだろう。「自分は自分だぜ!」と思う人もいるだろう。このことも、ある意味宗教的な……というと語弊があるが、「信仰」に過ぎないものである。「どの次元での成立(存在)を前提としているか」によって、自己と環境との関係性に係る実感は変わってくる。
先に、このブログでは「政治宗教は扱わない」と書いたが、この意味は、「信仰全般」を扱わないという意味である。もっと厳密に書けば、「誰かが正しいと思っていることについて、それを否定するつもりはない」ということだ。
このことを前提として、それでも、「政治問題」「国際情勢」については、考えたり、情報収集しておく必要はある。
ただそれは、「みなさん、ちゃんと選挙には行きましょうね」という主張なのではなく(※)、どういった仕組みで法律が、政策が決まっていくのかという仕組みを理解することが先決である。と、同時に、どういった社会(政治)が、自分にとって望ましいのか、何が「幸せ」なのかということについて、考えておくことが必要であるということだ。
医療、老後(年金)、子ども、教育、外交(防衛)、経済。
様々な問題がある。それらを、一発で解決できる法律も存在しなければ、政策も存在しない。ちなみに、どんな政策も、基本的に「法律」に拠っていることについて、覚えておいてよいだろう。政治とは極論、法律をつくる仕事だ。僕らの生活は、基本的に、法律のもとに成り立っているのである。役所に行けば、住民登録されているのが分かるけれども、それだって、住民基本台帳法という法律で、どんなことを書かなければいけないかなど決まっている。それは社会保障など、明らかに政治に関係しそうなことだけでなく、経済活動だってそうだ。消費者向けの法律は製造物責任法が有名だろうが、会社法など、僕らの所属する組織だって法律で定められたことに則っている。
※でも、路上のデモ活動とか、ヒップホップで政治批判とか、飲み屋の愚痴でも何でもいいけど、そういったことを言ったりしたりする人たちは、当然、選挙には行っているんだよね? とは思う。国会で通過した法案について、「やめろ! 廃案だ!」とか言ってるのは、手遅れである。もちろん、まったく無意味とは言わないが、それよか、議員の方々に嘆願書を送ったほうがよい。もっといえば、そんな法案を通過させてしまうような議員を選んでしまったことが問題なのである。
ただし、この問題は、そう単純でもない。何せ、どの議員が、どんな政治信条をもっているかなんて中々分からないし、それが、さらに事細かな政策について(例えば、漫画やアニメの表現の自由についてとか)にまでどんな感覚をもっているのかだって、分からないのである。Aという政策に共感したからα議員に投票したけど、その人は実はBという政策も主張する人だったとして、Bという政策はほんっとうに許せないと思ったとしても、後の祭りである。であれば、できることはデモくらいになる。
余すことなく主義主張と思考を書く
なんでこんな、政治に関するリスキーなことを書いたかというと、そろそろ、「自己」に関することについて、大体全部書ききったような気がしているからだ。2016年5月の記事において、以下のキーワードを挙げていた。
「生きる意味」「肯定感」「潜在意識」「ポジティブ」「ネガティブ」「対人関係」「コミュニケーション」「苦悩」「苛々」「ロジック」「整理」「感情処理」「空(仏教)」「宗教」「科学」「記憶」「アイデンティティ」「ストレス」「小説」「エンターテイメント」「創作」「凡人」「仕事」「価値観」「ルーチン」「学習」「計画」「目標」「目的」「死」「理想自己」「幸せ」「自己実現」「真実」「永続性」「アウトプット」「インプット」
多分、それぞれのキーワードについて、僕がどういった感覚(実感)をもっているのかは、大体全部書き終わっていることだろう。
もちろん、具体的な方策だとか、その記載内容を深めたり、表現の見直しなどは必要だろうと思う。ただ、例えば「幸せ」「死」なんていうキーワードで記事を書いたところで、これ以上はあまり変化は見られないだろう。
であれば、もうちょっとそういったキーワードを体系的に整理するか、もしくは、違った視点から書いていく必要があると思うわけである。
生きる意味とは自分を知ることである
ある方からコメントを頂き、うんうん、なるほどと首肯した。しかし、同時に、何か、違和感があるのである。
それが何か、はっきりと表現できない。彼の方が真理に到達し、自分が到達できていないことへの焦りや瞋恚があるのだろうか?
恐らく、だが、「自分」への拘りについての危険を思っているのだろう。
僕は昔(いや、今もだろうが)、自分の内面をとことん探っていった。しかし、現在の結論としては、「自分」というものは、世界(物理的かつ精神的な全てを含む概念として用いる)を、他者と分けて考えたものであるということだ。
故に、自分を知るというのは、自己の内面の深淵に到達するという行為では成しえないものだと思っている。何故ならば、自分と他者との境界というのは、非常に曖昧であると考えられるからだ。
ということは、自分を知るというのは、その他者との境界線を引いていくという作業を指すことになるが、明確なラインを引けたところで、その根拠は覚束ないものに他ならない。その瞬間、その環境では「自分」の定義ができたところで、次の条件では変わってしまうことがどうしても起こるだろう。
そんな風に感じるようになってから、僕は、「自分」というものに拘ることができなくなっていった。
こんな表現をすると、いやそもそも、お前はお前に過ぎないだろう? と思われるだろう。
そのとおりであり、物理的身体としての自分というものは、否定できるものではない。
僕は、僕として存在する。そのことについて否定したところで、何ら意味は無いだろう。
しかし、否定はしないけれども、積極的に肯定することもできない。
自分を否定して生きる意味を考えることはできない
自分、を、前提に置かずして、そもそも文章は成り立つのだろうか?先日、「頭がいい人はすごいなぁ」と取り上げた文章の一つに、「文章は所詮、一人称になってしまう」というものがあった。思考には論理性、事実には再現性が重要であるという、あれだ。
しかし、世界の真理がどうであれ、個人として、自分として、世界に対してどう生きるのかということを問うときに、その問いを放つ主体、それを「自分」というわけであるが、その自分を考えないで、そもそも生きる意味など考えることなどできないに違いない。
1.生きる意味を考える ならば 自分が存在しなければならない
2.自分が存在する ならば 生きる意味を考えなければならない
ここで、2.は矛盾である。しかし、
3.私は遠藤である
4.遠藤である ならば 生きる意味を考えなければならない
というのは、今のところ、真である。
では、
5.幸せである ならば 生きる意味を見つけられている
6.生きる意味がなければ幸せではない
というのは成り立つだろうか?
そもそも、問いが矛盾なのだろうか?
いや、問いをすること自体に、正も偽も存在しない。問いの内容が正しいか、矛盾かどうかである。
その、文章のことを、論理学では「命題変項」という。真偽というのを、「命題定項」という。
生きる意味があることの証明
証明、なんて仰々しい言葉を用いたが、ただの言葉遊びである。ただ、自分は、生きる意味があることの証明をしてみようと思う。
1.意味とは価値のことである
2.価値は、相互関係(影響)により生じる
3.私は生きている
4.生きているならば相互関係が生じる
5.私は生きていて(3)、相互関係を生じさせているから(4)、価値がある(2)
6.私が生きていること(3)は価値がある(2)ことだから、意味がある(1)
7.6を簡略化すると、私には生きている意味があることを導ける
[以上証明完了]
なんてつまらない証明だろうか!
しかし、僕は普段から、「ああ、僕なんて、生きている意味があるんだろうか……」なんていっているが、しかし、上の証明の次元においては、生きる意味があることを、ちっとも疑っていないのである。
しかし、上の証明が、多くの、自殺を企図する人たちに、何ら救いにならないことは明らかである。
では、何が足りないのか?
……。一見、矛盾は見当たらない。しかし、不思議と、上の証明は嫌悪される。何故か? どこに綻びがあるのか?
それは、いっちばん最初からである。つまり、意味とか、価値の定義がよろしくないのである。
意味とは
いや、定義自体は間違っていない。ただ、「生きる意味とは何だろうか?」と問うときの言語表現には、言外の意味が込められているのである。それは、「生きる【良い】意味とは何だろうか?」ということだ。
良い。
このカッコ内の言葉は、良いでも、充実したでも、幸せでも、何でもかんでも構わない。
ここで分かることは、「意味」という言葉を用いたとき、僕らは、非常に「恣意的な」意味を内包させているということである。
例えば、「無駄な意味」という表現は成り立つのだろうか?
僕は、成り立つ、と思う。ただし、意味という語に、「価値」という同義語をあてるならば、成り立たなくなるだろう。
価値とは何か? それは、「良い」とか「役に立つ」性質や程度のことである。無駄、というのは、役に立つという語の反義語である。ということは、無駄な価値というのは、形容矛盾である。
しかし、広義にとらえるならば、無駄な価値(反価値)を含めて、「価値」という語で表現することも構わないだろう。
ただし、こういった言葉の用い方は、言葉遊びに過ぎないだろう。言語は、文脈において意味を放つ。「価値がある!」といったときに、「無駄だ!」という意味を込めて叫ぶ人はいない。
価値という語自体には、反価値という意味が込められていようが、文脈においては明らかに「役に立つ性質」という意味で用いられるのである。
話を戻す。
生きる意味とは何か。
さっきの証明からもう一度引用しよう。
>1.意味とは価値のことである
>2.価値は、相互関係(影響)により生じる
2.の、相互関係を生じさせるもの、ということだが、ここに、「良い」という意味を含ませてみる。
そうすると、中間的な表現はすっ飛ばして、
>6.私が生きていること(3)は価値がある(2)ことだから、意味がある(1)
という部分に、
「6.私が生きていること(3)は【良い意味での】価値がある(2)ことだから、意味がある(1)」
という「良い性質」を加えてみて、もう一度考えてみる。
さぁ、遠藤くん、君は、良い相互関係(影響)を生み出しているのだろうか?
良い影響
生きる意味を考えることは意味がある または 生きる意味を考えることは無意味だ上の論理式は、真(正しい)ものである。
意味があるかは不明であるが、論理的には正しい。
何故ならば、悪魔の証明のように、どちらの文章(命題変項)も、100%証明することは不可能だからである。
生きる意味が完全に無意味だということを、証明できる人はいるだろうか?
「俺は、そんな難しいこと考えることは、絶対に無意味だと思うね!」
という人がいたとしよう。しかしそれは結局、一人称の文章である。論理的ではない。再現性もない。
そう、君がそう思うならそうなんだろうね。と言われるレベルである。
しかし、逆もしかり。
生きる意味を考えることは絶対に正しい! と言い切ることもできない。
そうなってくると、だ。
結局、最初に取り上げた、彼の方の仰る通り、「信じられるのは、己の感覚のみ」みたいなことになってくる。
思考によってこねくりまわされた論理や言葉には、感情がこもっていない。実感がない。それらは、ふぅと息を吹きかけるだけで飛んで壊れてしまうような、幻影に過ぎないのではなかろうか。
そうするとやっぱり、自分とは何かってのを、とことん突き詰めていくしかないってことなのか。
きっとそれは正しいのだ。
にもかかわらず、僕は、まだ、違和感を覚えている。何故か?
それは、良いという感覚自体もまた、盤石なものとは思えないからなのだ。(最初に書いた違和感のように、自分と他者との境界線が曖昧である以上、自分の感覚というものが絶対的な拠り所であると思えないという事態に起因しそうだ)
であれば僕は何がしたいのか?
僕は何なのか?
僕は誰なのか?
(続く……のか? 例えば、「良い」というのが良く分からないと書いたけれども、先日の「ぐちゃー」っとした記事について、書いているときは本当に消そう消そうと思っていたし、次の日にも消そうと思っていたのだけれども、拍手ボタンが2回という表示になっていたため、ああ、じゃあ消さなくてもいいかなって思い始めてしまった。ということは、僕自身の「良い」という感覚は、他者の評価によって簡単に翻ってしまうものなのだろうか。だがこのことも、人間としてはさほど不思議ではない。例えば、良いのか悪いのか分からないような作品ができあがったときに、自分の尊敬する方が、「おお、これは面白いじゃないか」と言ってくださったら、そりゃあもう傑作を生みだしたような気持になるのではなかろうか。そして、そんなときの評価ってのが、実は嘘や欺瞞だったとき、「裏切られた」という心性は高ぶるのではなかろうか。でもそれって、勝手な感情に思える。結局、芯をもって、自分を信じられていれば、他者の流動的な評価になど惑わされずに済むのだから。)
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コメント
こんにちは! pinさま、ご再訪誠に嬉しく思っております。
>そこで政治を描くことが無意味、と書かれると何だか反論してみたくなります。政治は信仰ではなく、哲学、思想ではないかとも思いますね。
政治的なことを書くことについて、無意味であるとは思っていません。
いえむしろ、政治的なこともしっかりと書けた上で、自己表現も行えているブログさんというのは、非常に見習うべきで、尊敬できると思っています。
では何故僕が、「政治的とは所詮信仰に過ぎない」といったような表現をするかというと、それは、はっきりいえば「逃げ」に過ぎないと思っています。
というのは、政治・宗教もですけれど、その「真理」なり、「根拠」なりの正当性よりも、相手を叩き潰す(引き入れる)ことに焦点を置く人がどうしても生じやすいからです。
自己の内面をつらつら書いている分には、「あーお前はそう思うんだね」程度で済みますが、政治などではそうはいきません。まさに、自分の実生活を脅かす可能性が出てくる。だから、諸外国叩きとか、異性叩きとか、極端な「真理」や「根拠」を振りかざす人が多く集まりやすくなってしまう。
ので、健全な、議論のテーブル上での意見のやりとり、批判、調整でとどまることができるのであれば、僕も大いに、色々政治的な内容についても書きたいことはあるのです。
ただ、自身のブログでそれをやると、危険がある。そういう意味で、本記事は記載していました。
>他者をどれだけ多く巻き込めるか、のゲームと書かれていますが、数がどうであれ、自分が少数派であれ、自分が論理的に考えて出した結論というものは、書きたくなるものだと思います。それは自分の意見であり、自己紹介であり、自分と同じ意見の人の数を増やそうだなんてことは、あまり考えていない
なるほど、仰る通りに思います。ただ、「自分が論理的に考えて出した結論」である、まさにそれ故に、その頑強な考えにとらわれる可能性がどうしても強くなるだろうと思っています。自分の考えや価値観を否定されて、人はそれほど冷静でいられない。「あっ、なるほど、そういった考え方もあるんだなぁ」と思っていただける、お互い思いやれる、そういった関係を構築したいというのが僕の思いなので、政治や宗教といった話題は避けた方が無難なのだろうと思っているわけです。
ただ、
>自分の内面の探究を書くことも、社会に対してどのような考えを持っているかを書くことも、どちらも自分というものがどういうものかを示すものなのだ
というのは私も心底思うのであって、pinさんのあり方に憧れも感じます。ただ、問題は、私に政治的な内容を論拠もって書ききれる知識と能力が欠如しているということですね……。いやぁ、言い訳すぎるなぁ。でも、昨今の政治については、本当に全体の「幸せ」を見出すというよりも、どうしても利害調整のシーソーゲームのように見えてしまう、というのが僕の今の感覚です。そういう意味で、僕は、「政治学」といった内容は触れたりすることはあります。誰々議員がどうこうとか、党派がどうこうとか、派閥はどうこうとか、そういう個々具体的な政治とは別に、そもそも、人が社会において、本来あるべきかたちはなんだろうかと。それを考えるというのを、僕たちが見知った言葉であらわすと、「正義」というものなのですが、しかし、この正義というのが何とも面妖でやっかいなものだという……。
政治は、理屈と思想の中間のようなものだ、とある方が仰っていて、それもそうだなぁと思っているわけですが。
ただしかし、pinさんの仰る通り、(ホットな)政治的な内容についても、あまり臆病にならずに触れていってもいいかもしれませんね。繰り返しになりますが、
>人間は一人では生きておらず、社会との関わりがあります。社会に対する自分の意見、姿勢を明確にし、それを書き記す、ということは大事なことだと思います。自分の書いた意見に他の人がコメントしてくれて、自分の意見を改めるいい機会になるのだと思います。
というのは、まさに僕が求めるところでもありますので。
生きる意味についての見解もいただき、とても参考になりました。しかし、少々長くなってしまったので、取り急ぎ返信はここまでとさせて頂きます。
またじっくりと、pinさんのコメントについて読ませて頂きたいと思います。ありがとうございました。
>そこで政治を描くことが無意味、と書かれると何だか反論してみたくなります。政治は信仰ではなく、哲学、思想ではないかとも思いますね。
政治的なことを書くことについて、無意味であるとは思っていません。
いえむしろ、政治的なこともしっかりと書けた上で、自己表現も行えているブログさんというのは、非常に見習うべきで、尊敬できると思っています。
では何故僕が、「政治的とは所詮信仰に過ぎない」といったような表現をするかというと、それは、はっきりいえば「逃げ」に過ぎないと思っています。
というのは、政治・宗教もですけれど、その「真理」なり、「根拠」なりの正当性よりも、相手を叩き潰す(引き入れる)ことに焦点を置く人がどうしても生じやすいからです。
自己の内面をつらつら書いている分には、「あーお前はそう思うんだね」程度で済みますが、政治などではそうはいきません。まさに、自分の実生活を脅かす可能性が出てくる。だから、諸外国叩きとか、異性叩きとか、極端な「真理」や「根拠」を振りかざす人が多く集まりやすくなってしまう。
ので、健全な、議論のテーブル上での意見のやりとり、批判、調整でとどまることができるのであれば、僕も大いに、色々政治的な内容についても書きたいことはあるのです。
ただ、自身のブログでそれをやると、危険がある。そういう意味で、本記事は記載していました。
>他者をどれだけ多く巻き込めるか、のゲームと書かれていますが、数がどうであれ、自分が少数派であれ、自分が論理的に考えて出した結論というものは、書きたくなるものだと思います。それは自分の意見であり、自己紹介であり、自分と同じ意見の人の数を増やそうだなんてことは、あまり考えていない
なるほど、仰る通りに思います。ただ、「自分が論理的に考えて出した結論」である、まさにそれ故に、その頑強な考えにとらわれる可能性がどうしても強くなるだろうと思っています。自分の考えや価値観を否定されて、人はそれほど冷静でいられない。「あっ、なるほど、そういった考え方もあるんだなぁ」と思っていただける、お互い思いやれる、そういった関係を構築したいというのが僕の思いなので、政治や宗教といった話題は避けた方が無難なのだろうと思っているわけです。
ただ、
>自分の内面の探究を書くことも、社会に対してどのような考えを持っているかを書くことも、どちらも自分というものがどういうものかを示すものなのだ
というのは私も心底思うのであって、pinさんのあり方に憧れも感じます。ただ、問題は、私に政治的な内容を論拠もって書ききれる知識と能力が欠如しているということですね……。いやぁ、言い訳すぎるなぁ。でも、昨今の政治については、本当に全体の「幸せ」を見出すというよりも、どうしても利害調整のシーソーゲームのように見えてしまう、というのが僕の今の感覚です。そういう意味で、僕は、「政治学」といった内容は触れたりすることはあります。誰々議員がどうこうとか、党派がどうこうとか、派閥はどうこうとか、そういう個々具体的な政治とは別に、そもそも、人が社会において、本来あるべきかたちはなんだろうかと。それを考えるというのを、僕たちが見知った言葉であらわすと、「正義」というものなのですが、しかし、この正義というのが何とも面妖でやっかいなものだという……。
政治は、理屈と思想の中間のようなものだ、とある方が仰っていて、それもそうだなぁと思っているわけですが。
ただしかし、pinさんの仰る通り、(ホットな)政治的な内容についても、あまり臆病にならずに触れていってもいいかもしれませんね。繰り返しになりますが、
>人間は一人では生きておらず、社会との関わりがあります。社会に対する自分の意見、姿勢を明確にし、それを書き記す、ということは大事なことだと思います。自分の書いた意見に他の人がコメントしてくれて、自分の意見を改めるいい機会になるのだと思います。
というのは、まさに僕が求めるところでもありますので。
生きる意味についての見解もいただき、とても参考になりました。しかし、少々長くなってしまったので、取り急ぎ返信はここまでとさせて頂きます。
またじっくりと、pinさんのコメントについて読ませて頂きたいと思います。ありがとうございました。
posted by 遠藤at 2017/06/02 00:04 [ コメントを修正する ]
確かに政治的主張は敵を作りやすいものだと思いますね。
お店をやっていて、そこの店主がわざわざ政治的主張などをすると、
その意見に同調する人が全体の2割いるとして、残り8割の客足が遠のくと思います。
そんな馬鹿なことをする人はいないと思います。
ただブログの場合は、その人がどういうスタンスでブログをやるのかにもよりますが、
私の場合は、意見の合わない8割の人には読者になって欲しくないので、
むしろその人達を防ぐバリアのような役割で、また意見の合う2割の人に沢山
来て欲しいと思っているので、効果としてもよいものであるように思っています。
ただ職場でそういう話をすると、毎日顔を合わす人達に不必要に敵が出来るので、
しない方が良いというのもあると思います。
ただブログというのは仲が悪ければ去るというだけで、わざわざ喧嘩しないと
思うので、私の場合は政治的な意見はどんどん書いていこうと思っています。
ただ政治的主張をメインとしていないようなブログでは、上記のような
店主がわざわざ政治的主張をするというケースに当たると思うので、
しなくていいように思います。(ただその場合でも、政治的主張をして欲しい、
と強く願う層には不評だと思いますが)
>ただ、「自分が論理的に考えて出した結論」である、まさにそれ故に、
>その頑強な考えにとらわれる可能性がどうしても強くなるだろうと思っています。
これについては政治的主張であれ、哲学、思想であれ同じであると思います。
しっかりと論理的に自分の間違いを正してくれたら、意見を変えざるを得ないし、
意見を正してくれた相手に感謝するものだと思います。ただそれでも固執して
しまう人は、政治的主張であれ、その他内面だとか生き方についての考え方であれ、
固執してしまうのだと思います。
>でも、昨今の政治については、本当に全体の「幸せ」を見出すというよりも、
>どうしても利害調整のシーソーゲームのように見えてしまう、
>というのが僕の今の感覚です。
自分の側の利益だけを求めて政治的意見をするような人もいますが、
一方で全体の幸せ、正義を考え、例え自分の側でそれが利益が出なくても、
それ主張するという人は沢山いると思います。本来政治とは、そのような
全体の幸せ、正義を考えた、それぞれの信念と信念のぶつかり合いだと思います。
そういう人が少ないように見えてしまう、と言うのであれば、(私はそういう人は
沢山いると思っていますが)自分がそういう人になればいいのだと思います。
まぁ単純な話、皆が対立を恐れて政治的主張をしなくなれば、国民の間で議論が
深まらず、国民が政治家の主張を判断する能力もなく、国民から意見が上がって
いくということもなくなり、国民主権である民主主義が機能しなくなると思います。
ただ皆が皆すべきだとは思わないですが。そこは自由なので、したくない人は
しなくていいのだと思いますが、でもやっぱり民主主義なので政治に興味ある人が
多い方がいいと思います。
まぁでもブログの目的と合致していないのであれば、書かなくていいとは思います。
ただ人との対立のしやすさというものはありますけど、どちらもその人の内面を
表す思想なのだと思います。勿論本や漫画を読んだ感想も、仕事をして思った
ことも、その人の内面を表すことで、政治に対する感想も、同じものなのだと
思います。本や漫画の感想でも、意見が対立することはありますし。
私の場合は本当に、政治に対する感想ぐらいのつもりで書いているので、
同じようなものじゃないかなという感覚でした。勿論政治的意見を広めようという
ことで書いてる人も多くいるので、そのような人はもっと社会に働きかけている
人達で、私にはそこまでの力量がないので、そこまでしていないというのが
ありますが、勿論私はそういう人達の方が偉いと思っています。そういう人達
こそが世の中を良くしているのだと思います。まぁでもそこはどっちのタイプであれ、
論拠がしっかりしていれば、信仰ではないということが言いたかったという
ところです。私の考えはこういうところです。
お店をやっていて、そこの店主がわざわざ政治的主張などをすると、
その意見に同調する人が全体の2割いるとして、残り8割の客足が遠のくと思います。
そんな馬鹿なことをする人はいないと思います。
ただブログの場合は、その人がどういうスタンスでブログをやるのかにもよりますが、
私の場合は、意見の合わない8割の人には読者になって欲しくないので、
むしろその人達を防ぐバリアのような役割で、また意見の合う2割の人に沢山
来て欲しいと思っているので、効果としてもよいものであるように思っています。
ただ職場でそういう話をすると、毎日顔を合わす人達に不必要に敵が出来るので、
しない方が良いというのもあると思います。
ただブログというのは仲が悪ければ去るというだけで、わざわざ喧嘩しないと
思うので、私の場合は政治的な意見はどんどん書いていこうと思っています。
ただ政治的主張をメインとしていないようなブログでは、上記のような
店主がわざわざ政治的主張をするというケースに当たると思うので、
しなくていいように思います。(ただその場合でも、政治的主張をして欲しい、
と強く願う層には不評だと思いますが)
>ただ、「自分が論理的に考えて出した結論」である、まさにそれ故に、
>その頑強な考えにとらわれる可能性がどうしても強くなるだろうと思っています。
これについては政治的主張であれ、哲学、思想であれ同じであると思います。
しっかりと論理的に自分の間違いを正してくれたら、意見を変えざるを得ないし、
意見を正してくれた相手に感謝するものだと思います。ただそれでも固執して
しまう人は、政治的主張であれ、その他内面だとか生き方についての考え方であれ、
固執してしまうのだと思います。
>でも、昨今の政治については、本当に全体の「幸せ」を見出すというよりも、
>どうしても利害調整のシーソーゲームのように見えてしまう、
>というのが僕の今の感覚です。
自分の側の利益だけを求めて政治的意見をするような人もいますが、
一方で全体の幸せ、正義を考え、例え自分の側でそれが利益が出なくても、
それ主張するという人は沢山いると思います。本来政治とは、そのような
全体の幸せ、正義を考えた、それぞれの信念と信念のぶつかり合いだと思います。
そういう人が少ないように見えてしまう、と言うのであれば、(私はそういう人は
沢山いると思っていますが)自分がそういう人になればいいのだと思います。
まぁ単純な話、皆が対立を恐れて政治的主張をしなくなれば、国民の間で議論が
深まらず、国民が政治家の主張を判断する能力もなく、国民から意見が上がって
いくということもなくなり、国民主権である民主主義が機能しなくなると思います。
ただ皆が皆すべきだとは思わないですが。そこは自由なので、したくない人は
しなくていいのだと思いますが、でもやっぱり民主主義なので政治に興味ある人が
多い方がいいと思います。
まぁでもブログの目的と合致していないのであれば、書かなくていいとは思います。
ただ人との対立のしやすさというものはありますけど、どちらもその人の内面を
表す思想なのだと思います。勿論本や漫画を読んだ感想も、仕事をして思った
ことも、その人の内面を表すことで、政治に対する感想も、同じものなのだと
思います。本や漫画の感想でも、意見が対立することはありますし。
私の場合は本当に、政治に対する感想ぐらいのつもりで書いているので、
同じようなものじゃないかなという感覚でした。勿論政治的意見を広めようという
ことで書いてる人も多くいるので、そのような人はもっと社会に働きかけている
人達で、私にはそこまでの力量がないので、そこまでしていないというのが
ありますが、勿論私はそういう人達の方が偉いと思っています。そういう人達
こそが世の中を良くしているのだと思います。まぁでもそこはどっちのタイプであれ、
論拠がしっかりしていれば、信仰ではないということが言いたかったという
ところです。私の考えはこういうところです。
pinさま、ありがとうございます。
>意見の合わない8割の人には読者になって欲しくないので、むしろその人達を防ぐバリアのような役割で、また意見の合う2割の人に沢山来て欲しいと思っているので、効果としてもよいものであるように思っています。
なるほど、その点私も同じように思います。確かに、意見の合わない人が読者になってしまうことの弊害というのは大きいように思います。
ただ一つ思うとすれば、「政治的主張」「宗教的主張」「思想信条」的な部分での意見が合わない場合であっても、その他の面では分かり合える部分もあると思いますので、その一面で完全に切り離してしまうというのは勿体ないように思います。
しかしながら、その「政治宗教」という面については、その一面が合わないが故に、その他その人の全部を許せない! という事態になりやすいものだと私は思っています。もちろん、そういった人ばかりではないとは思いますが、どうにも、特にネットという環境ですと、そういう面が強調されやすいように思われます(当たり前であり、その判断材料が文字媒体しかない故に)。
私は、自民党を好きでも、嫌いでも、その点だけで読者を切り離す気は全くありません。(と、いうよりも、「自民党の好き嫌い」という一面だけで判断するというのは、聊か軽率に過ぎると思います。結局、なすべき、あるべき政治……というよりも行政の在り方がどうであるのか、その点が本来話し合うべき、時間を費やすべき点なのであって、とある政治家のの好き嫌いとかどうでもいい次元に僕は思っていますが。とはいえもちろん、間接民主制で政党政治である以上、大きな視点では、その党の良し悪しを判断しなければなりませんが)
ええと、まとめると、pinさんの、「意見の合わない人には来てほしくない」というのは賛同しますが、人間とは多面性がありますので、一面で意見が合わないだけで切り離すということはしたくない、ということになります。ただ、その人が、どうしても某宗教が大好きで、いっつもその話ばかりをしてくるということであれば、いくらその人と好きな作品が共通していて盛り上がるとしても、残念ながら一緒にいたいとは思わないだろう、ということになります。
>ただ職場でそういう話をすると、毎日顔を合わす人達に不必要に敵が出来るので、しない方が良いというのもあると思います。ただブログというのは仲が悪ければ去るというだけで、わざわざ喧嘩しないと思うので、私の場合は政治的な意見はどんどん書いていこうと思っています。
うーむ、この点については、前半はその通りと思いますが、「わざわざ喧嘩しない」というのは、違う気がします。なんというか、たぶん、後々書いていきたいと思っていますが、pinさんと私との人間観がどうやら異なるらしいという点に、興味をもっています。
多分ですね、「わざわざ喧嘩したい」と思っている人は、結構いるんじゃないかと思うんですね。相手の間違っているところをわざわざ探して、それを見つけると鬼の首をとったかのようにマウントポジションを取りたがる人ってのは、結構見かけます。まぁいいんです、その、議論でも仕事でも政治でも、相手を打ち負かすことが必要になる場面ってのは、生きいている以上たくさんある外交なんてまさにそんな仕事じゃあないかと思っていますが)。ただ、そんなことをわざわざ、個人のブログ界隈でやろうとする人の気がしれないのですが、ただそうはいっても、やっぱりそういう人たちって少なからずいるんじゃないかなぁ、と。いや、それは全体からの数の多さではないかもしれません。人数としては少ないかもしれません。でも、少なくても、そういう人たちに絡まれた時の影響は莫大なものになると思うので、……いや、pinさんがすでに何度も書いてくださっているように、そういったある意味喧嘩とかしたいという目的でやってるブログであればどんどん書いていくべきですが、少なくても僕は今のところそれは求めていないので、話は戻りますが、「政治宗教の話は書かない」としているわけであります。
(ただ、「政治宗教の話は書かない」というのは、もうすでに色々書いてきているように、例えば仏教の話も、キリスト教の話も取り上げていますし、政治的なことも書いていないわけではなくて、「特定の何々が良い、悪い」ということは書かない、ということだったりします)
>>ただ、「自分が論理的に考えて出した結論」である、まさにそれ故に、の頑強な考えにとらわれる可能性がどうしても強くなるだろうと思っています。
>これについては政治的主張であれ、哲学、思想であれ同じであると思います。しっかりと論理的に自分の間違いを正してくれたら、意見を変えざるを得ないし、意見を正してくれた相手に感謝するものだと思います。ただそれでも固執してしまう人は、政治的主張であれ、その他内面だとか生き方についての考え方であれ、固執してしまうのだと思います。
確かに、これは仰る通りですね。「政治」という点を強調して書いてしまいましたが、「自分が納得して答えを出したこと」というのは、ジャンルは問わず、執着心は発生してしまいそうです……というか、執着というよりも、「正しい答え」なのだから当たり前ですね。
敢えて一つ書くとすれば、その「論理性」という点そのものが、僕の興味がある点です。例えば、
・空を飛ばない蛇は蛇ではないとすれば、地上でのみ生活するのは蛇ではない
というのは、論理的には正しい文章です。
=(構造)「Aという条件を満たさないものはBではない、のであれば、Aという条件を満たさないCはBではない」
=「((¬A⇒¬B)∧(C=¬A))⇒(C=¬B)」
正しい文章なんですが、自然法則的……というか、僕らの感覚的には間違っている。でもこれが、ファンタジーの世界の設定の話をしているのであれば、まぁそんなことがあってもいい。この話の次元を変えちゃうというのは、詭弁の方法の一つですけれど、段々議論を詰めていくと、この次元がそもそも何だったのか分からなくなることが発生することがあります。これは、お互いの価値観というか、前提がずれているということ(人間の多様性・多面性)もさることながら、そもそも言語というのが、暗黙のルール(言語ゲーム的な)様相をもっているので、どうしても生じる可能性は避けられないことです。知ったかぶれば、最近覚えたフッサールさんの現象学とか、エポケーが大事だよ……的な。
なんだろう、やめましょう、自分の言葉で書きましょう。言いたいことは、「論理的に正しくても、感覚的に納得できないことは、本質的には誤っている場合がある」ということ……ここでいう、本質的というのは、異なる次元においてということ。例えるなら、ダイエットのためにお菓子を食べるのを我慢する……それはダイエットという命題について正しい行為でありながら、そもそもダイエットするという行為が本当に正しかったのかどうか……。(実は、愛しい彼に愛されるためにダイエットを始めたのだけれども、実はその彼は、ぽっちゃりした今の体系の方が好きだった……とかなると悲劇! というよりも喜劇!)
>>でも、昨今の政治については、本当に全体の「幸せ」を見出すというよりも、どうしても利害調整のシーソーゲームのように見えてしまう、というのが僕の今の感覚です。
>自分の側の利益だけを求めて政治的意見をするような人もいますが、一方で全体の幸せ、正義を考え、例え自分の側でそれが利益が出なくても、それ主張するという人は沢山いると思います。本来政治とは、そのような全体の幸せ、正義を考えた、それぞれの信念と信念のぶつかり合いだと思います。そういう人が少ないように見えてしまう、と言うのであれば、(私はそういう人は沢山いると思っていますが)自分がそういう人になればいいのだと思います。
正しい、まったくもって正しい。いや、そうですなぁ……、最近、他者のせいばかりにして愚痴ばかり言うのはよくない、責任放棄だ! とか書いていましたが、まさに自分もそうですなぁ……。「誤った人が多いと思うなら、自分が正しい人になればいい!」このセリフは、僕は中々言えない。思いつきさえしなかった。素直に衝撃を受けました。木槌でバゴーンと叩かれた感じです。
最近、本来あるべき教育者の姿について、というテーマで友人と話し合ったことを思い出しました。打算的な対応は善か、悪か。例えば、心の中では大したことないと思っていても、ある行為をした子供に対して、「よくやったね! よくできたね!」と声かけするのは良いことか、どうか。
僕は、打算的であろうが何であろうが、他者にとって良い影響を与えるのであれば、その行為は善である、と言いました。友人の方は、それはそうだろうが、本当に心の底から「すごい! よくやったね!」と思えなければ、それは本当の善とは言えない、偽善なのだと言いました。僕はそれに対して、偽善も善も、その区別など関係ないと言いました……と、議論というか話は進んでいくのですが、あんまり関係ないので中断。
>まぁ単純な話、皆が対立を恐れて政治的主張をしなくなれば、国民の間で議論が深まらず、国民が政治家の主張を判断する能力もなく、国民から意見が上がっていくということもなくなり、国民主権である民主主義が機能しなくなると思います。ただ皆が皆すべきだとは思わないですが。そこは自由なので、したくない人はしなくていいのだと思いますが、でもやっぱり民主主義なので政治に興味ある人が多い方がいいと思います。 まぁでもブログの目的と合致していないのであれば、書かなくていいとは思います。
民主主義なので、政治に興味がある人が多い方が良いどころか、ちゃんと関心をもってかかわっていく必要が、本来あるというのはその通りに思います。その点はその通りと思っていますが、ただ、ちょっと書ききる自身が今はないのですが、現在の社会システムというか、利害関係というか、思想というか、ひっくるめた世界情勢において、「正しい判断」というのが、どこまで正常に機能するのか、ということを僕は思っています。
で、それというのは、畢竟、「思想」(個人的な次元においては「実感」)なのだと思っていますが、まぁ、それを明らかにするのが「実存問題」であって、その根源を明らかにしようというのが僕のブログの目的、テーマであって、その表現が「生きる意味を徹底して考える」というものなのですが――結局、まだ僕は、政治的なことに手を出すレベルにいたっていないという判断をしているわけです。個人的な思想が固まっていない、とでも表現すればよいかもしれません。
>ただ人との対立のしやすさというものはありますけど、どちらもその人の内面を表す思想なのだと思います。勿論本や漫画を読んだ感想も、仕事をして思ったことも、その人の内面を表すことで、政治に対する感想も、同じものなのだと思います。本や漫画の感想でも、意見が対立することはありますし。 私の場合は本当に、政治に対する感想ぐらいのつもりで書いているので、同じようなものじゃないかなという感覚でした。
pinさんの仰るように、政治的なことに関しても「感想として述べていく」というのは大事なことに思います。ただその感想が、僕は、自分にとって、それが絶対的に正しいと信念をもって言えることなのか、まだ分からないのです。いやもちろん、今書いているような、個人的な(実存的な)話というのも、絶対信念をもっているわけではないのですが、これについては、まずそこから始めざるを得ないだろうということについては、実感をもって納得をしているところになります。
まとめではありませんが、政治的な活動や宗教的活動を主にしている人たちは、それがその人たちの生きる意味、実感、根源、レーゾンデートルなのでしょう。仕事や、家族や恋人を生きがいにしている人たちも同様。
僕も、そういう生き方にあこがれていました。いや、今もあこがれているのかもしれません。でも、「何故か」そうなれない、なれなかった。その解決を目的にしているわけですが、いやはや、なんとも途筋が見えてこないものです。
>意見の合わない8割の人には読者になって欲しくないので、むしろその人達を防ぐバリアのような役割で、また意見の合う2割の人に沢山来て欲しいと思っているので、効果としてもよいものであるように思っています。
なるほど、その点私も同じように思います。確かに、意見の合わない人が読者になってしまうことの弊害というのは大きいように思います。
ただ一つ思うとすれば、「政治的主張」「宗教的主張」「思想信条」的な部分での意見が合わない場合であっても、その他の面では分かり合える部分もあると思いますので、その一面で完全に切り離してしまうというのは勿体ないように思います。
しかしながら、その「政治宗教」という面については、その一面が合わないが故に、その他その人の全部を許せない! という事態になりやすいものだと私は思っています。もちろん、そういった人ばかりではないとは思いますが、どうにも、特にネットという環境ですと、そういう面が強調されやすいように思われます(当たり前であり、その判断材料が文字媒体しかない故に)。
私は、自民党を好きでも、嫌いでも、その点だけで読者を切り離す気は全くありません。(と、いうよりも、「自民党の好き嫌い」という一面だけで判断するというのは、聊か軽率に過ぎると思います。結局、なすべき、あるべき政治……というよりも行政の在り方がどうであるのか、その点が本来話し合うべき、時間を費やすべき点なのであって、とある政治家のの好き嫌いとかどうでもいい次元に僕は思っていますが。とはいえもちろん、間接民主制で政党政治である以上、大きな視点では、その党の良し悪しを判断しなければなりませんが)
ええと、まとめると、pinさんの、「意見の合わない人には来てほしくない」というのは賛同しますが、人間とは多面性がありますので、一面で意見が合わないだけで切り離すということはしたくない、ということになります。ただ、その人が、どうしても某宗教が大好きで、いっつもその話ばかりをしてくるということであれば、いくらその人と好きな作品が共通していて盛り上がるとしても、残念ながら一緒にいたいとは思わないだろう、ということになります。
>ただ職場でそういう話をすると、毎日顔を合わす人達に不必要に敵が出来るので、しない方が良いというのもあると思います。ただブログというのは仲が悪ければ去るというだけで、わざわざ喧嘩しないと思うので、私の場合は政治的な意見はどんどん書いていこうと思っています。
うーむ、この点については、前半はその通りと思いますが、「わざわざ喧嘩しない」というのは、違う気がします。なんというか、たぶん、後々書いていきたいと思っていますが、pinさんと私との人間観がどうやら異なるらしいという点に、興味をもっています。
多分ですね、「わざわざ喧嘩したい」と思っている人は、結構いるんじゃないかと思うんですね。相手の間違っているところをわざわざ探して、それを見つけると鬼の首をとったかのようにマウントポジションを取りたがる人ってのは、結構見かけます。まぁいいんです、その、議論でも仕事でも政治でも、相手を打ち負かすことが必要になる場面ってのは、生きいている以上たくさんある外交なんてまさにそんな仕事じゃあないかと思っていますが)。ただ、そんなことをわざわざ、個人のブログ界隈でやろうとする人の気がしれないのですが、ただそうはいっても、やっぱりそういう人たちって少なからずいるんじゃないかなぁ、と。いや、それは全体からの数の多さではないかもしれません。人数としては少ないかもしれません。でも、少なくても、そういう人たちに絡まれた時の影響は莫大なものになると思うので、……いや、pinさんがすでに何度も書いてくださっているように、そういったある意味喧嘩とかしたいという目的でやってるブログであればどんどん書いていくべきですが、少なくても僕は今のところそれは求めていないので、話は戻りますが、「政治宗教の話は書かない」としているわけであります。
(ただ、「政治宗教の話は書かない」というのは、もうすでに色々書いてきているように、例えば仏教の話も、キリスト教の話も取り上げていますし、政治的なことも書いていないわけではなくて、「特定の何々が良い、悪い」ということは書かない、ということだったりします)
>>ただ、「自分が論理的に考えて出した結論」である、まさにそれ故に、の頑強な考えにとらわれる可能性がどうしても強くなるだろうと思っています。
>これについては政治的主張であれ、哲学、思想であれ同じであると思います。しっかりと論理的に自分の間違いを正してくれたら、意見を変えざるを得ないし、意見を正してくれた相手に感謝するものだと思います。ただそれでも固執してしまう人は、政治的主張であれ、その他内面だとか生き方についての考え方であれ、固執してしまうのだと思います。
確かに、これは仰る通りですね。「政治」という点を強調して書いてしまいましたが、「自分が納得して答えを出したこと」というのは、ジャンルは問わず、執着心は発生してしまいそうです……というか、執着というよりも、「正しい答え」なのだから当たり前ですね。
敢えて一つ書くとすれば、その「論理性」という点そのものが、僕の興味がある点です。例えば、
・空を飛ばない蛇は蛇ではないとすれば、地上でのみ生活するのは蛇ではない
というのは、論理的には正しい文章です。
=(構造)「Aという条件を満たさないものはBではない、のであれば、Aという条件を満たさないCはBではない」
=「((¬A⇒¬B)∧(C=¬A))⇒(C=¬B)」
正しい文章なんですが、自然法則的……というか、僕らの感覚的には間違っている。でもこれが、ファンタジーの世界の設定の話をしているのであれば、まぁそんなことがあってもいい。この話の次元を変えちゃうというのは、詭弁の方法の一つですけれど、段々議論を詰めていくと、この次元がそもそも何だったのか分からなくなることが発生することがあります。これは、お互いの価値観というか、前提がずれているということ(人間の多様性・多面性)もさることながら、そもそも言語というのが、暗黙のルール(言語ゲーム的な)様相をもっているので、どうしても生じる可能性は避けられないことです。知ったかぶれば、最近覚えたフッサールさんの現象学とか、エポケーが大事だよ……的な。
なんだろう、やめましょう、自分の言葉で書きましょう。言いたいことは、「論理的に正しくても、感覚的に納得できないことは、本質的には誤っている場合がある」ということ……ここでいう、本質的というのは、異なる次元においてということ。例えるなら、ダイエットのためにお菓子を食べるのを我慢する……それはダイエットという命題について正しい行為でありながら、そもそもダイエットするという行為が本当に正しかったのかどうか……。(実は、愛しい彼に愛されるためにダイエットを始めたのだけれども、実はその彼は、ぽっちゃりした今の体系の方が好きだった……とかなると悲劇! というよりも喜劇!)
>>でも、昨今の政治については、本当に全体の「幸せ」を見出すというよりも、どうしても利害調整のシーソーゲームのように見えてしまう、というのが僕の今の感覚です。
>自分の側の利益だけを求めて政治的意見をするような人もいますが、一方で全体の幸せ、正義を考え、例え自分の側でそれが利益が出なくても、それ主張するという人は沢山いると思います。本来政治とは、そのような全体の幸せ、正義を考えた、それぞれの信念と信念のぶつかり合いだと思います。そういう人が少ないように見えてしまう、と言うのであれば、(私はそういう人は沢山いると思っていますが)自分がそういう人になればいいのだと思います。
正しい、まったくもって正しい。いや、そうですなぁ……、最近、他者のせいばかりにして愚痴ばかり言うのはよくない、責任放棄だ! とか書いていましたが、まさに自分もそうですなぁ……。「誤った人が多いと思うなら、自分が正しい人になればいい!」このセリフは、僕は中々言えない。思いつきさえしなかった。素直に衝撃を受けました。木槌でバゴーンと叩かれた感じです。
最近、本来あるべき教育者の姿について、というテーマで友人と話し合ったことを思い出しました。打算的な対応は善か、悪か。例えば、心の中では大したことないと思っていても、ある行為をした子供に対して、「よくやったね! よくできたね!」と声かけするのは良いことか、どうか。
僕は、打算的であろうが何であろうが、他者にとって良い影響を与えるのであれば、その行為は善である、と言いました。友人の方は、それはそうだろうが、本当に心の底から「すごい! よくやったね!」と思えなければ、それは本当の善とは言えない、偽善なのだと言いました。僕はそれに対して、偽善も善も、その区別など関係ないと言いました……と、議論というか話は進んでいくのですが、あんまり関係ないので中断。
>まぁ単純な話、皆が対立を恐れて政治的主張をしなくなれば、国民の間で議論が深まらず、国民が政治家の主張を判断する能力もなく、国民から意見が上がっていくということもなくなり、国民主権である民主主義が機能しなくなると思います。ただ皆が皆すべきだとは思わないですが。そこは自由なので、したくない人はしなくていいのだと思いますが、でもやっぱり民主主義なので政治に興味ある人が多い方がいいと思います。 まぁでもブログの目的と合致していないのであれば、書かなくていいとは思います。
民主主義なので、政治に興味がある人が多い方が良いどころか、ちゃんと関心をもってかかわっていく必要が、本来あるというのはその通りに思います。その点はその通りと思っていますが、ただ、ちょっと書ききる自身が今はないのですが、現在の社会システムというか、利害関係というか、思想というか、ひっくるめた世界情勢において、「正しい判断」というのが、どこまで正常に機能するのか、ということを僕は思っています。
で、それというのは、畢竟、「思想」(個人的な次元においては「実感」)なのだと思っていますが、まぁ、それを明らかにするのが「実存問題」であって、その根源を明らかにしようというのが僕のブログの目的、テーマであって、その表現が「生きる意味を徹底して考える」というものなのですが――結局、まだ僕は、政治的なことに手を出すレベルにいたっていないという判断をしているわけです。個人的な思想が固まっていない、とでも表現すればよいかもしれません。
>ただ人との対立のしやすさというものはありますけど、どちらもその人の内面を表す思想なのだと思います。勿論本や漫画を読んだ感想も、仕事をして思ったことも、その人の内面を表すことで、政治に対する感想も、同じものなのだと思います。本や漫画の感想でも、意見が対立することはありますし。 私の場合は本当に、政治に対する感想ぐらいのつもりで書いているので、同じようなものじゃないかなという感覚でした。
pinさんの仰るように、政治的なことに関しても「感想として述べていく」というのは大事なことに思います。ただその感想が、僕は、自分にとって、それが絶対的に正しいと信念をもって言えることなのか、まだ分からないのです。いやもちろん、今書いているような、個人的な(実存的な)話というのも、絶対信念をもっているわけではないのですが、これについては、まずそこから始めざるを得ないだろうということについては、実感をもって納得をしているところになります。
まとめではありませんが、政治的な活動や宗教的活動を主にしている人たちは、それがその人たちの生きる意味、実感、根源、レーゾンデートルなのでしょう。仕事や、家族や恋人を生きがいにしている人たちも同様。
僕も、そういう生き方にあこがれていました。いや、今もあこがれているのかもしれません。でも、「何故か」そうなれない、なれなかった。その解決を目的にしているわけですが、いやはや、なんとも途筋が見えてこないものです。
posted by 遠藤at 2017/06/04 16:47 [ コメントを修正する ]
アニメや漫画の感想を書いてます。
そこで政治を描くことが無意味、と書かれると何だか反論してみたくなります。
政治は信仰ではなく、哲学、思想ではないかとも思いますね。
その意見を持つことに皆根拠を持っているからだと思うのです。
信仰だと根拠はなく、飛躍してしまっていますからね。
その人なりの論理や根拠があってその意見になっているのだと思います。
他者をどれだけ多く巻き込めるか、のゲームと書かれていますが、
数がどうであれ、自分が少数派であれ、自分が論理的に考えて出した結論
というものは、書きたくなるものだと思います。それは自分の意見であり、
自己紹介であり、自分と同じ意見の人の数を増やそうだなんてことは、
あまり考えていないのだと思います。自分の内面の探究を書くことも、
社会に対してどのような考えを持っているかを書くことも、どちらも
自分というものがどういうものかを示すものなのだと思います。
ただ「政治問題」「国際情勢」について考えたり、情報収集し、
どういった社会(政治)が、自分にとって望ましいのか、考えておくことが
必要である、ということについては、私と考えが一致しており、
その考えた結果をブログに書く、ということを私はしているのですが、
遠藤さんはそれをしないということで、そこが違うのだと思います。
そしてその考えた結果が信仰である、ということですが、もしそれが信仰なら
自分の内面について探究したことも、その他すべて日々思ったことなども、
全て信仰になって、書くべきでない、ということになってしまうと思います。
しかし私は政治的な自分の意見も、内面も探究についての自分の意見も、
同様であるので、書いてはいけない、ということにはならないと思います。
人間は一人では生きておらず、社会との関わりがあります。
社会に対する自分の意見、姿勢を明確にし、それを書き記す、ということは
大事なことだと思います。自分の書いた意見に他の人がコメントしてくれて、
自分の意見を改めるいい機会になるのだと思います。
ただ政治に興味がないということであれば、書かなくていいと思うし、
色んな意見の人がいてリスキーだと思うのなら、書かなくてもいいと思います。
ただ自分について探究、するにしても、社会あっての自分なので、
自分が社会に対してどういう姿勢をとっているのか、というのも自分の一部であり、
そこに触れない、というのでは、完全に自分に内面について書けたとは
言えないのだと思います。だから自分について書くのなら是非政治的な意見も
書くべきではないかと思います。自分については大体書ききったと、
書かれているので、次はそういう社会に対する意見を書いていくのがよいのでは
ないかと思います。
生きる意味、については私はよく分かりません。概念が理解できないのです。
理解できないから考えないのですね。
誰にとっての意味か、自分にとって、誰か他人にとって、宇宙や神にとって、
なのか、自分にとってなら意味とは自分の人生そのもの、それを一言で
表すと、と言っても人生は長くて一言で表すことができません。
沢山あるし、もうそうなら、人生そのものと言うのが一番間違いなく表せている
のではないかと思います。
他人にとって、というのも、私の人生がその人に及ぼした効果であり、
私を見て何か考えたか、私に何をされたか、など人によって違いますが、
それぞれ意味はあるでしょう。ただそんな他人から見た意味なんて、
こちら側で制御できるものでもないし、まぁせいぜい真面目に生きて、
悪い評価にならないように努めるというくらいだと思います。
宇宙や神にとっての意味なんてのは分かりません。宇宙や神が何を考えて
いるかなんて私には分からないし、どうしようもないと思います。
結局自分の生きる意味なんてのは自分では掴み所がないもので、
結局よく分からないので考えない、となります。またそれが自分の人生に
必要なものだとも思いません。それがないと生きられない、という感覚に
陥ったことがないのです。なので何でそんなことを考えているんだろう、
という気になります。少なくとも今の私はそう思いますね。後二十年、三十年
生きたら、意外とそういうのを考え出すようになるのかもしれないですが。
まぁ私の考えはこういう所ですね。反論、指摘など全然してくれたら
ありがたいです。