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ゼロ秒思考メモとか自己啓発について
2017/01/22 19:00 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「実践すべきことはそう多くはない」

ゼロ秒思考

 書店をふと歩いていたら、「ゼロ秒思考で頭が良くなる!」みたいな書籍が置いてあった。
 な、何だって!? パクられた!! ……と思ったわけではないが、手に取ってみると、まぁ、僕がこれまでやっていたようなこと、今やっているようなことであった。

 B6版で厚みがあり、1400円ぐらいで、あるコンサルタントさんが著者となれば、さも重要ですごい効果的なメソッドな気がしてくる。

 しかし、こと、このことに関しては、僕は、10年~15年ぐらい続けてきている。まぁ、もっと、もう少し「良い方向へ」注力していくための方法としては、もっと早く上のような書籍に出会えたらよかったと思える。

 これで、著作権問題みたいになったら、僕の方が早くからやってきているが、その有名人の著者の方が、きっと正しい、となるのだろう。だからこのブログはこれからもひっそりと続いていくのである。

自己啓発本について

 最近書店に足を運ぶことが殆どなくなったが、やはり、あちらこちらに、煽情的なメッセージが並ぶ。
 コンサルタントさんだったり、有名な大学を卒業していたり、テレビに出演していたり、有名な人だったりすれば、その書いてあることがどうであれ、本になって、お金になって、それを読んだ人たちに影響を与えていくのである。

 コマーシャル、というのは、本来的には、価値多様化社会の中では、いったい何が重要な情報なのか、ますます探しにくくなるために、「おすすめ」をしてくれるという意味で、価値あることなのである。ところが、多くは、「脅してむしり取る」という方針が、まことしやかに行われる。
 と、いうよりも、「意味」(目的)を失った現代人たちにとっては、もはや、何が「主体的」なことなのか、その判断すら失われて行っているのである。だから、盲目的に、テレビや書店に並ぶキャッチーな脅し文句につられて、ますます自己自身を見失っていくのである。

 ……みたいなね! もっともらしいこととか、さも「一般的」みたいに書かれていることが多いのだ。

本当に大事な習慣

 ビジネス本、自己啓発本、その他さまざまな人たちの「アドバイス」といったもの。
 これらを全くすべて否定する気などない。

 ただ、一つ、基盤的に、根本的に重要なことは、恐ろしいほどにシンプル、単純、簡単である。そのことができていないまま、やれ「ダイエット」やら「頭がよくなる」やら「お金が増える」やら「不透明な時代に生き残る」やら、色んな不安に煽られて「何かやらなきゃ!」と思ったところで、まず、その人は何も変わらない。何も変えられない。今まで通り、ずーっと、煽られ続け、不安を感じながら、搾取されながら生き続けるしかないのである。それよりだったら、むしろ、本なんて読まなくていい。ただ、目先の欲望……と書くとこき下ろしすぎだが、日々の楽しい友人たちの会話や、美味しいごはんなどについてだけ考えて、一日一日を過ごした方がよっぽどましである。

 本当に大切なことは、「続ける」ことである。

 継続は力なり。これだけである。この続けるという能力、これがあれば、大抵のことは何でもできる。その基盤があった上で、その上に走らせるプログラム(ソフトウェア)として、時間対効果をあげるためのメソッドが有効になっていくのである。

 シックスパックの腹筋に憧れて、様々な筋トレの仕方を学ぶのはよいだろう、しかし、その微妙な「正しい」腹筋の仕方を追及するよりも、まずは毎日、ど素人のやり方でもいいから、続けていくことが大前提だ。一時期腹筋のしわが薄まっていったけれども、ここ90日ぐらい筋トレを続けて、またほりが深くなった。3日やったら1日の休みをいれる、とか、肘を床につけて90度にしてそのまま維持するとか、流行りの方法など無視して、ふつーに、毎日やっていただけでも、それなりに効果はでる。確かに、「正しい」方法をしてやっていたら、もっと良い効果になったかもしれない。けれども、続けられなければ、所詮はゼロに過ぎないのだ。

ポジティブ思考

 もう一つ大切な習慣というか、ライフハック的な、メソッド的なうんたらを書けば、「笑顔」である。

 笑顔は大事。表情筋は、脳の感情等を司る尾状核と繋がっている。笑顔をつくることで、脳の働きも良くなるのである。そして、社会学的には、笑顔の人は警戒されにくい。心を許してもらえやすい。人が集まりやすい。幸せだから笑うんじゃない、笑うから幸せなんだ。

習慣をつくるためには?

 分かった分かった、習慣をつくることと、笑顔が大事なんだね。
 でもさ、それって、どうやりゃいんだよ! どうも、何をやっても長続きしないんだよ!
 という方もいるでしょう。

「5分ルール」とか、「例外規定」とか、「強制実行」とか、「カウントダウン法」とか、色々と方法はあるでしょう。
 しかし、重要なのは、そういったテクニック的なのではなく、これも至ってシンプルですが、「目的」「目標」を立てる、ということです。

 腹筋を六つに割りたい!

 これは、目的でも、目標でもありません。ただの願望です。これでは、いくらたっても、望みが実現することはありません。

 腹筋を6つに割るため、筋トレを毎日しよう!

 これもダメなパターンです。
 確かに、これは、数値化(毎日やろう)という意味で、目標にはなっていますが、目標の立て方が下手すぎます。
 というよりも、目標が二重の意味で低いのです。

 一重の意味は、その目標が具体化されていないことです。まぁこれは、もう少し、腹筋する回数とか、朝やるのか夜やるのか、何か月続けるのか、チェックはいつするのか、などなど、詳細化していけば解決する話です。

 しかしもっと問題は、二重の意味の方で、この腹筋を割りたい、という目的・目標が、いったい、何のため? なのか、ということです。
 鏡の前に立って、自分で自分の身体を見詰めて、「おぉ、かっこいいぜ!」と陶酔することが目的なのでしょうか? 海にパンツ一丁で行って、ギャルに「かっこいい! 腹筋さわらして!」と言われることが目標なのでしょうか? それとも、近くに控えた健康診断のためなのでしょうか? 彼女や奥さんに、「ちょっとあなた、最近太ったんじゃない?」と言われたからでしょうか?

 何のために、その行為を達成するのか。
 それを、より具体的に、明確にするということが、目的や目標を立てる上で重要なことなのです。
 確かに、トレーナーに付き合ってもらって、食事制限とか頑張るのはいいでしょう。最初は、そういった強制的な行動規制も必要になります。しかし、本来的な、自己意識としての、自分の主体的な思いが強くなければ、その達成する目標が高ければ高いほど、実現は困難になるのです。


 皆さんも、何か新しいことを始めようとか、何か達成したい目標ができたら、まずは、「継続すること」と、その目標自体の目的について、掘り下げて考えるようにしてみてください。そうすることで、ますます自分の望む自分になることができ、日々の生活や、人生がより豊かなものになるでしょう!

とかね。

 と、まぁ、自己啓発本とかは、上に書いてきたようなそんな流れである。
 基本的には、
・タイトルをキャッチーで、不安をあおるようなものにする。
・現状分析、こうしなきゃ大変になりますよ! 的な事例をいくつか挙げる。
・私も昔は悩んでいました。でも大丈夫、こんな方法があります!
・具体的にはこんな感じです。
・それを実践すれば、最初の不安は解決します! おめでとう!

 こんな感じである。
 だから、読まなくていいとか、買わなくていいとか、価値が無いとか、そういうことを言わんとするわけではなく、いくら本を買っても、実践に結び付けられなきゃ意味ないよ、というわけだ。
 そして、何ということでしょう、こんな分析ができてしまう時点で、僕は一体、どれだけこういった系の本を読んできたということなのか! 全くもって、恥ずかしい限りである。



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定義することの意味について
2017/01/21 11:09 | Comments(0) | 生きる意味
今日の一言「何を書こうか漠然としたまま書き進める」「面白い記事になるかは博打だね」

定義とその伝わり方

 この記事、多分面白くないだろう。ただ、今後の方策を固めていくうえで、基盤としての役割の一部は果たすだろうと思われる。


 LONGMANという英英辞典で、定義=definitionを引くと、

 a phrase or sentence that says exactly what a word, phrase, or idea means .

ということである。
 僕の英語力は乏しいが、「言葉や、単語や、概念を正確に言い表す、単語や文のこと」ということで大体あっているだろう。

 日本語の辞書を引けば、
物事の意味・内容を他と区別できるように、言葉で明確に限定すること。
GOO辞書

ということである。なるほど「区別」ね。言及したいことと、そうでないことを、明確に分けること。そう定義とは、「分析」、物事の最小単位に分けていく作業であるといえるのではなかろうか。
(多分、真面目に取り組みたいなら、論理学とか学ぶとよいと思う)


 ところで、こういった言葉を定義するということについて、僕は一時期面白くて結構やっていたけれども、ふと思ったことがあった。
 その言葉そのものの定義について、実際に他者と、明確な共有は可能なのか、という疑念である。これは、同じものを、同じものだとして認識できるのか、という感覚であったのだけれども、「クオリア」という概念を知ったときに、「ああ、そうそう、そういうことを言いたかったんだよ」と思って、取りあえず自分の中では解決した。
(その解決というのは、「人は同じものを同じものだとして認識しているとは限らない。しかし、『教養』を学ぶことで、『同じ』として協調し作業することは可能となっている」というもの。この人間観というか、自然観というか、社会観が、果たして正しいかどうか、ポジティブなのかネガティブなのか、役に立つのか立たないのか、変えるべきなのかそのままでいいのか、――分からない。ただ、これは僕の言葉で言うところの、「実感レベル」の理解となっているため、今時点で問題になることはない)

 小見出しの疑念として、ここで書いておきたかったこととしては、明確な言葉の定義は、時として、「実感」を離れて、「他者との共有」を離れていくことがある、ということだ。いや、ここで、頭の良い人とか、ロボット的な思考は、対象としていない。ごくごく一般的な、どちらかというと僕のようにアホに近い人の話しである。というのは、慇懃無礼な書き方だけれども、つまり、あんまり専門的になっていくと、どんどんよく分からなくなっていく、ということだ。
 このことについて、いわゆる「できる」人は、すぐに、「努力不足」とか、「優生学」的な、そんな感情を覚える。がんばれば、何だってできる、と。「バカの壁」という本があって、あんまり好きではないのだけれど、一つその本で言いたいこととして、「理解可能性」についての言及については、僕は同意しているところである。もちろんここで、先日書こうとして、衝撃的体験故に完全に優先度が下がってしまった、「身体的限界性」「時間的限界性」「物理的限界性」の、三つの限界性を取り除けば、どんな人とでも共有し理解し合える可能性があると思う。しかしこれは、くだらない思考実験にすらならない、無駄な考えである。

ロゴセラピー

 こんな文脈で書けば、「生きる意味を、まずは定義してはどうか?」という提案に対しての、否定のように思われる。そういうつもりではない。いやむしろ、どちらかというと、大好きな方だ(かっこ笑い)。
 ただ、最初の小見出しで書いたことについて、即ち、「厳密な定義の限界による不可能性」を、忘れてはならないと思う。

 ところで、その、定義の必要性の提案のおかげで、そもそも僕は、「目的喪失」というキーワードの方が近いのではないか、と思ったわけだ。
 その結果、色々グーグル先生と会話してみると、「ロゴセラピー」「ヴィクトール・エミール・フランクル」というキーワードに出会うことができた。
 ロゴ、というのは、ギリシア語で、「意味」であり、意味を求める、見つけるための精神療法であるということだ。これについては、先日購入した書籍を一通り読んで見たいと思う。4000円もしたしな。いやはや分厚いな! サピエンス全史の下巻もまだ読めてないのだが……。

生きる意味の定義

 そもそも、「意味」とはなんじゃい? ということになる。
 本を読んでいて、読み進めていくうちに、だんだんよく分からなくなってきた、という経験が、きっと誰しもあることだろう。
 それは、どこかしら、徐々に、その書いてある言葉の意味を、取り違えている場合に発生するのである。何となく言っていることは分かる、というのは、実は、「言葉を追っているのではなく、自分の考えを追っているのである」。
 ちなみに、常日頃、アウトプットとインプットが重要だ、と言っているが、インプットが十分でなければ、本は読めない。もっというと、人とも会話ができない。
 そしてインプットとは、アウトプットと両面性がある。表裏一体とでもいえばよいか。アウトプットできない知識は、インプットできているとは言えない。そのアウトプットが、他者に伝えられるレベルかどうか、というのは重要ではない。それは、結局その相手、他者の理解可能性の問題が発生するからであり、「自分自身の言語」としてアウトプットできるのであれば、それは、インプットができている、といえる。故に、辞書とか、ネット検索とかで調べて、コピペで紡ぐ言葉に、僕は意味を見いだせない。
 稚拙な表現だって良いじゃないか。かっこいい言葉を書けなくたっていいじゃないか。ブログを書けない、と、すぐに投げ出してしまう人は多いけれども、それは、「自身の言葉」が枯渇してしまったからだ。(つーか、コピペとか面白くねーじゃん、と僕は思うのだけど、まぁ、それでブログ収入とか、「お金」という動機がメインの人は、それはそれでいいのだろう。ただ思うに、そんな努力するなら、ふつーにバイトとかした方が実は、時間対効果は高いのだけれど)

 ええと、上は、自分の言葉をインプットすることの重要性……みたいな内容になった。そうじゃなかった、「意味」とはなんじゃ? ということだ。
 意味は、意味だよバカ野郎! と、上手く説明できん。

意味(いみ)とは、次のような概念である。

  1. 言葉単語用語など)が持っている概念のこと。例えば、「」は、音声としては「ア」と「メ」が組み合わさっただけのものであるが、そこには「から水滴が落ちてくる現象」「空から落ちてくる水滴自体」というような意味が備わっている。
  2. ある行動や発言が持つ必要性、もしくはそれが行われた理由のこと。
  3. ある物体システムなど)が存在する必要性や理由のこと。
  4. 意味論対象とするものである「意味」

意味に関しては、多くの研究において問題とされ、例えば、次のような問いがみられる。


  • 言語などの手段によるコミュニケーションにおいて意味はどのように伝わるのか。(あるいは伝わらないのか。)
  • ある行動や発言における意味はどのように知ることができるのか。
WIKIさんより。

 おー、何だかわかりやすい気がする。気がする、が、じゃあ、僕がこれまで使っていた「意味」という語は、1~4のどれなのだろう?
 2……いや3かな? 存在の必要性や理由、ということだろうか。理由、としてしまうと、これまた抽象的な言葉遣いなので、「必要性」、必要性ね。ということは、生きる意味といったときに、それは主語として、「私の生きる意味」となるから、換言すれば、「私の生きる必要性」ということになる。

 え! なんか違うくないか?!(かっこ笑い) という気持ちが起こる。しかし、明瞭に否定しようとすると、悩ましい。

 ちょっとここから進める前に、では「生きる」とは何か。

生きることの定義

 そもそも、「生きる」とは何じゃい? 生命維持活動だ。
 これもまた、難しい。人はただ食べるために生きるにあらず、とか言ったとして、じゃあ、何だよ、と。むしろこれは、僕は、不要な定義部分に思う。というのは、その「意味」ということの希求なのであって、「生きる」という語自体は、その「結果」に過ぎないと思うのだ。
 目的と結果が逆転しているように思うのだ。つまり、「意味」が明らかになることによって、それ自体が「生きる」ことの定義になるのだ、ということである。

(↑言ってること分かるだろうか? 明日の自分が理解してくれる気もあまりしない。ちなみにこれも蛇足で、これまで書いていなかったけれども、僕のブログが誠実なのは、そのすべてにおける言語表現において、僕は、僕自身として理解している語しか使っていない、ことである(ちょっと大げさである。文脈上の例外は許して頂きたい)。よく分からないことは、分からないそのままとして書いている、ということだ。できる限り、「実感言語」で書いている、ということだ。そして、大体他の方のブログなど読んでいると、「実感言語」なのか、そうではないのか、何となく読み取れる。そして、実感言語でない表現……反義語として、「コピペ」とすれば、どちらが面白いか面白くないかは、明白である。)

 ので、「生きる」ことの定義は今は不要としよう。

意味とは何か

 話が戻って、生きる「意味」を、「僕の」生きる「必要性」としたとき、それについての違和感は一体何なのか?

 違和感というよりも、むしろ、鋭敏な表現になったことによって、僕が恐れていることが少し浮き彫りになったのではないか。
 つまり、この厖大な世界の中で、大勢の人の中で、複雑な社会や自然のなかで、僕一人という存在の「必要性」など、あろうはずがないのだという、その「実感」。

 これが、最初に表現した、「目的喪失」ということになるのである。

 と、言うことを、件の、ロゴセラピーというか、フランクルさんは問題視して、それについての解決策というか、療法をまとめてくださったということなのである。

 2017年の目標として、思考の体系化を図る、としたわけだけれども、その具体的な方法としては、こうした何らかの専門書に準拠した形で、それについての「理解」に努め、同時にそれとの「距離感」(違和感)について、明確にしていく(定義する)作業を行う、ということである。




phrase=単語、句、言葉のまとまり
sentence=文、文法


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目的追及の自己目的化について
2017/01/20 00:16 | Comments(7) | 思考及び書くこと
今日の一言「今週はほぼ24時帰りばかりで書く時間が取れないよ!」「寝てない(忙しい)自慢乙」

衝撃的体験から時間が過ぎ

 15分ぐらいしか時間が取れなそうだ。しかし、そろそろ、メモでも何でも書いておかないと、せっかくの感動的、衝撃的体験がどんどん失われていく。いやまぁ、書いたところで、その瞬間的な感動は、残しておくすべは殆どないのだけれども。
 ただ、感動そのものの保持、ではなく、感動したというその事実と、それにまつわる状況の書留は、これは非常に有効である。若いうちは、がむしゃらに経験を重ねることも重要だ。しかし、いい歳した大人になってくると、経験できる時間もリソース(体力的、精神的な)も限られてくる。脳科学的にも、思考とは、繰り返し同じことを考え続けることで、感動、価値観や信念といった強固なものが生み出されるという。その意味において、ブログとか、書く、という行為は、非常に有用であるのだ。

他者が描く自己の表現の貴重さ

 メモ、メモ。スマホのメモ帳に殴り書きした一部。
「人生で一生覚えているだろう、衝撃的な体験。快哉!
 ああ、素晴らしい。やられた。この、自分自身について、完全なる言語表現をされること! この感覚を、僕はずっと待ち望んでいたのかもしれない。これが、僕が求め続けて、えられなかった、希っていた感覚なのか。
 思考すること自体を止められない。それは、大衆に埋没することへの恐怖。自分自身失うのではという恐怖。
 一方で、協調しなければいけないという、常識への憧れ。
 この二つに引き裂かれながら、目標を定めては行動し、解決してはまた悩み、それを繰り返している。
 まさにそのとおり。
 この、自分自身をずっと追い求める心性をなんというか?
 青い鳥症候群という。
 青い鳥症候群は、本当の自分はこれじゃないと、あちらこちら自分勝手に生きて、自立できないひとのことである。
 高校時代ぐらいからずっとそうだ。
 ずっと、自分は何か、なりたいものは? やりたいことは? 夢は?
 ずっと考えていた。でもわからなかった。とりあえず勉強した。大学にいった。よくわからなかった。とりあえず楽しんだ。よくわからない、就職しよう。した。でもやっぱり分からなかった。
 ここで、本気で考えてないとか、本気で取り組んでないとか、そんな批判は、あまり意味がない。その時点で僕は、僕レベルの次元では本気だった。
 感情もコントロールしていた。青い鳥症候群のけいこうもわかっていたから、協調性を大事にしたし、答えを出さずにずっと甘えてばかりいるというのも、やめた。独り暮らしして、生活した。仕事してお金を稼いだ。
 結局、それらの方法では、僕の、生きる意味は、見つからなかったのだ。
 僕は、考え続け、悩み続けることを目的としているという。
 そうなんだろう。
 なるほどねぇ」

 最初のコメントを読んだ時点で、「生きる意味の定義かぁ……」と、ずーっと一日考えていて、「そうだなぁ、『ぶれない価値観』とかかなぁ」とか思っていたら、話しが飛躍して仰天途端に昂揚した。(当ブログに頂いたコメントもそうだけれども、僕のあるブログコメントへの返信として、いやー遠藤さんが読んでくれるってのも意味ありますわ~と頂いたのも同時期で、ああ何と嬉しいのだろうと思った)

生きる意味の追求が自己目的化している

「遠藤くんは、考えることそれ自体を生きる意味にしたいんだろうね」

 これはまさに、僕が最近(というかこれまでも)ずっと書き続けてきた内容の、正確な描写であると思う。
 一方で、しばらく時間が経って、コメントなどを、二回、三回と音読(ルーチンの音読に組み入れるほど頂いたコメントが気に入った)しているうちに、「違う点」も見えてきた。


 これは、またいつもの「逃げ」な思考ではあるが、「ある次元」においては、正確でありながら、一つ足りない部分があるのである。それは、「考えること自体を意味にすること」自体が、それで「思考停止」にならざるえない状況をつくれるとは、思えない、という点だ。分かりにくいな! これは、今後、2017年ぐらいの長期目標で分解していけたらよいと思うが、簡単に、簡単に書こうと頑張ってみれば、

 考えること自体が目的

 なのではなく、やはり、「幸せ」「涅槃」「充足」とかいった、そんな状態を目指しているのである。(究極にポジティブ思考でしかありえないのだ、的な表現をしている時が、その際の感覚)

 思考停止、というと、否定的な意味に思ってしまうが、僕は否定語も肯定語も、その本質的な意味を捉えようと頭が動いてしまう(というのは、例えば「今日は仕事がまぁまぁ上手くいった! よかった!」という感覚になったと、ほぼ同時に、瞬間的に、「ダメだった点」「もっと頑張れた点」などが想起されるのである。これをストイックという肯定的な語で表現すれば、頑張り屋さんだね、みたいに言ってもいいだろうが、僕自身は、この思考傾向が、単にアホ(病的)なだけだと思ってしまう)。しかし、僕が求めているのは、まさにその、「思考停止」状態なのだ。思考停止を換言してみれば、只管打座とか言っていい。あるでもなく、ないでもなく、ただあるがままを、「空(くう)」なりと見詰める、と言ってもいい。

目的志向と生きる意味

 上のメモにおいて、「青い鳥症候群」という表現が浮かんだことが読み取れる。
 つまり、「幸せとは~」と探し求めて、ボロボロになって、失意の中で家にかえってみたら、あれ、うちのなかに幸せおったやん! というたとえ話であり、僕はまさにその旅路の中にいるのではないか、と思ったのだ。

 ただこの状態については、2008年初期ぐらいの記事を読んで見れば、まさに、同じようなことを書いていて、「いやぁ、まぁ何かいろいろあるけれど、今がとっても幸せだなぁ」としみじみ書いているのである。
 あれは、きっと……いや、間違いなく、あの頃はあのころで、本気でそう思っていたのだ。「幸せ」、であったのだ。それは決して、すべての問題が解決し、悟りを開いたとか、そういうわけではなかった。ただ、人生というもの、そのものが明るく、前向きにとらえられ、将来起こるであろういかなる不安についても、どうにかなる、達成できるという強い思い、生きがいに満ち溢れていた状態であったのである。

 僕は、その境地に戻ることが、恐らくできる。ただ一方で、もうきっと、できない、のである。物足りなくなっているのだ、きっと。もっと深いところまで、入り込んでいきたいと思っているのだ、きっと。

 科学者は思考に答えをもとめる。哲学者は思考に答えをもとめない。
 結論を出そうとするか、そうではないかという考えというか、話し、なるほどなぁと感動したものである。
 今まさに、「凡人(一般大衆に溶け込もうとすること)への憧れ」と、「超人(既存の枠組みに取り入れられてしまって自己を失うことへの恐怖)」について、僕は両面の思いを抱き、双方に引き裂かれそうになっているのであるが、しかしその綱引きについて、僕は、いつまでも引っ張り合っていてもらおうとは思っていないのである。

答えが欲しい、けど足りない

 俺は、まさに、これである、と、自信をもって言いたい。
 それが例え、過去の自分を否定することになろうとも、その人生の終わりの際に、ああ、実り多き人生だったと、「実感レベル」で感じていきたい。
 しかし同時に、傲岸不遜で強欲であるが、「終わりよければすべてよし」的な思考も大否定したい。その、目的へのプロセス、道筋、道すがらすべて、その目的自体であることを望んでやまない。

 ……あおぉう、時間切れ、うーむ、上の記述は、コメント頂いたことへの反論にうつるだろうか? むしろ僕の感動の表現になるはずなのだが、上手く言っているとは思えない。この難しさがまた、逆に面白いと、楽しいと、本気で思ったのであるが……そうやって書くと、やっぱりその書くこと、考えること、思考すること、目的を求めることそれ自体を目的としようとしている、としか思えない表現なのだけれども、何だか、ちょっと違うんだよなぁ。


 うん、それはまぁともかく、今年の目標はかなり明確になってきた。やっぱり、本気で部屋の片づけ(整理整頓)と、思考の体系化だな。なんか、久しぶりに本気になれそうな気がする。これはもう、本当にあの素晴らしきお三方の賜物でござる。素晴らしい、人間素晴らしい。(という本気の感覚と同時に、瞬時に、「あーってことは、やっぱり普段思っている、『ありがとうございます!』的な俺の気持ちってのは、『社交辞令』的なレベルなんだなぁ。冷たい人間だなぁ」とか浮かぶのである。Aという事象に対して、A´もしくは、Aの反対が浮かぶというのは、決して、Aという事柄が「嘘」というわけではないのだけれども、「気持ち悪いなサイコ野郎!」と言われるというのは、まぁこれは仕方がないのかもしれない。でも嘘じゃないんだ、ああ、本気なんだ、でも誰も分かってくれない! ああ、もう人間なんて!(かっこわらい))

ロゴセラピー

 ちょうど、そんなこんなで電車の中で考えていたら、こんな記事を見つけた。

「人生」に「意味」を求めることのリスク。ヴィクトール・エミール・フランクルの「ロゴセラピー(実存療法)」の副作用。

http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n16560

 これまたすごい記事だ。

 すごすぎて、こんな、名も無き人の記事がすごすぎて、

 逆にこういったことが、僕の考える「問題」のまさにその原因なのだけど、

 ただ、その問題(もう時間オーバーだ! でも、簡単にメモしとくとだな、その、価値の選択(意味)がものすごく沢山になってしまったため、それが逆に選べなくなっていることが、反転した目的喪失の原因なのだということ)について、まさに自己言及的に記述されていて、もうまいっちまったぜ!

 というわけで(いや、この接続詞もおかしい)、何か批判の対象ではあるんだけど、
 ヴィクトール・エミール・フランクルさんのロゴセラピーの本をアマゾンで購入。4500円ぐらいした。すげー衝動買いだ。精神が昂っている時は、お金の使い方に気を付けましょう(何の話だ……もうほんと時間切れ)。











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何でもかんでも死刑にして良いという言説(削除候補)
2017/01/17 19:00 | Comments(6) | イライラ対処
今日の一言「まぁいろんな人がいますわな」

驚きの短絡思考

 何でもかんでも、すべての犯罪は、死刑でよい。現行法制度は手ぬるい。万引きや違法駐車など、軽犯罪であっても全部死刑にすべきだ、ということを本気で思ってます、というブログを拝見した。

 おおぅ……そうか、やっぱりそういったことを思っている人はいるんだろうなぁ。そしてきっと、少なくないのだろう。ニュースかなんかで、加害者の人権が守られ過ぎてる! とかいう言説をみてきっと思っているのだろう。

 恐らく、そういう方々は、絞首刑を見たことないだろうし、どっかの国の処刑動画、首をナイフで切り落とされたり、人が死ぬということを見たことは無いだろうし、ましてや、自分自身が、その処刑を自らやろうともしないだろう。
 てなことを書くと、お前は死刑廃止論者か、とすぐに突っ込まれるから、先に書いておけば、別に死刑廃止も賛成も特に僕は無い。それらは、社会と法によって決めていけばいいものだが、その論議に参加するほど今の僕には到底余裕はない。
 というよりも、人が死ぬその残虐な情報を知っていてもなお、街でぶつかってきて舌打ちしやがるクソ野郎は死んでしまえ! と僕だって思うわけだが(ただ、それだって、本当に、そいつを殺しても、何ら罪をうけないとして、手軽にボタンをポンと押すだけで殺せる状況があったとしても、いざその瞬間になったとき、僕はそのボタンを押せるのか? これはなってみないと分からない。まぁそもそも、そんな状況の仮定がありえないから、思考実験にすらなっていないが)。

 ただ、驚きを隠せなかったのは、その、軽犯罪でも何でも、悪いことしたら即死刑! という発想の貧困さである。
 そして、恐らく気づいていないだろう、その「悪いこと」の定義がいかに難しいかということへの、理解をしようとできない態度である。

社会悪

 一度、「サイコパス」という作品を見てみるといい。いや、多分みても理解できないのだろう。

 ちなみに、そのブログの作者さんは、ネガティブ思考で、無職の女性だということだけれど、ネガティブだったり無職だったりするのも、今の世界では「悪いこと」とされている。じゃあ即死刑なのか? んなわけねーだろう。

 もう一つ、社会復帰できないようなクソサイコ犯罪者野郎もいるだろうが、そもそも、人間って、そんなに完璧で美しいものか?
 これは、お前(俺)自身が汚れてるからそう思うだけだ、とか言われそうだけど、だが、アリストテレスだって、「アクラシア」といって、「わかっちゃいるけどやっちまう!」的な、間違いを犯すものだと言っている。それらを、片っ端から消去していけばいいというのか? そもそも、死刑を執り行うコストというものだって存在する。社会秩序は、「何となくみんなルールを守ってる」状態が「信じられている」から上手くいっている面があって、神の裁きのように、完璧に罪を裁こうとすると、これはもう大変な作業になるのである。

(こんなこと書いていると、じゃあお前は何かやましいことでもあるのか? 犯罪者の味方なのか? キモチワルイ奴だな! とかコメントが沢山くるのである。まぁそんなことより気になるのは、そう思っている人が、果たして本当の意味で多数派なのか、少数派なのか、ということだけれど。)

愚かな人への説得

 上の小見出し、そもそも、「愚かな人」という定義もまた、難しいのであって、そもそも、社会って共同幻想で成り立ってるんだよ、ということを信じているというか、理解している人は、どれほどいるのだろうか?

 このことは、別に気付く必要もないのだけれども、エリート層とか、支配者層とか、経営者とか、統治者とか、上司とか、先生とか、そういう上に立つ人たちがそれに基づいて色々考えてくれないと、本当に大変なことになるのである。

 人任せ、だけれども。いや本当は、民主主義なのであれば、人民がちゃんと、その政治的思考、正義とは何か、悪とは何か、ということについての、基礎的な「合意形成」が図られるべきなのだけれども、実際、発展した国家であればあるほどに、「政治的無関心」は避けられない。

 だから教育が重要なのだけど……ただその教育って、「美しい国、美しい道徳、美しい人格を目指しましょう!」というのが中心であって、いやその、「美しいもの」は重要なのだけれども、ただ、それを形成するために必要なこと、そもそも、その「美しい」の定義は多様な価値観のもとで醸成されるものであるとか……もろもろの大切なことを、ちゃんと伝えられているのだろうか?
 伝えられていないから、結局、「美しくない犯罪者は消し去りましょう!」という思考体系になってしまう。

選挙の重要さ

 だから、選挙って本当は重要なわけだ。上のような頭のおかしい(というわけではないと思う。単に教養が足りていないだけ)の人が政治家にならないように、民衆はちゃんと監視して責任をもたなければいけないのだ。
 というのは当たり前なのだけれど、でも、その立候補者が、どんな思想信条をもってるかなんて、簡単に分かるはずもないわけだ。だから、マスメディアが、政治家たちの発言の節々をとらえて、大げさに報道したりするのだけれども、まぁ、そういった細かい言動からしか、判断材料が無いのだから、仕方がないともいえる。ただ、そんな情報しかないと、やっぱり選挙とかに興味をもてない人は多くならざるをえないと思う。

本ブログの主旨と合致する記事か?

 さて、驚きのあまり書き連ねたものの、この記事は、このままだと正直消してもいいかな。自分自身の生きる意味、について、あまりにも関係ない気がする。

 うん、まぁ、1年ぐらいは残しておこうか。見返してみて、何を思うか、それはまた気になるところだ。

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書けないのではない書かないのである
2017/01/16 19:00 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「答えは自分で導くものだ」

無駄だからやらないでいいのか?

 面白い記事みんな書けやぁごるぁ! みたいなことを先日書いた。けれども、これは、傲慢チキ極まりない。

 よくある刑事ドラマとか、サスペンスとかで、狂人的犯人が、「だってお前、ほら、みんな人は、人を殺したいって欲望があるだろ? 人間の歴史みてみろよ、戦争のオンパレードだぜ! もっと正直になれよこの偽善者どもがァ!」とか叫んだりする。
 それに対して、刑事さんとか、主人公サイドの人たちが、「バカはてめーだ! みんなそんなこと分かってるんだ。分かっていて、そんなことをしても無意味だから、やらねーだけだ! 哀れな奴だな!」とか煽りかえすシーンを何度かみたことがある。

 この、「みんな分かっているけれども無意味だからやらない」理論が、さも正しいように吹聴されているのだが、僕はこれには違和感を覚える。

本当にみんな分かっているのか?

 まず疑問その一。「みんな」というけれども、本当にみんな分かってるの? それは、無意識下で、「人を殺すのは無駄なことだ」というのはあるのかもしれない。ただ、それを意識的に、「分かっている」と断定する根拠はあるのか、あるはずがない。
 逆に言えば、「人間は誰だって殺害衝動がある」という犯人側の主張も、何ら根拠がないものであり、「てめーが思うなら、そうなんだろうよ」程度のことである。

 だから、上の例シーンにおいては、刑事側も犯人側も、低レベルな煽りの応酬に過ぎないのである。
 にもかかわらず、ドラマ的には、刑事側の主張がさも正しいかのように描かれたりする。そのことに違和感なのである。

書けないから書かないのではない?

 話を戻すと、「面白い記事(=意味や価値を表現するもの)をみんな書いてくれよ!」という主張は、みんなが、書けないということではなく、むしろ、書いても意味がないことを、重々わかっていて、それで、できる限り、そのことに触れないように、触らないように、恐れ多いものだとして書かないだけなのだろうか? という疑問。

 それを僕は分からず、無駄なことをしているというのだろうか?

 残り僅かな時間。人生には限りがある。清く正しく美しく生きるべきだ。人に思いやりを持って優しく生きていくべきだ。いまここを大事にし、日々の生活を精一杯いきて輝いていくべきだ。


「家畜と何の違いがある!」

 と、敢えて強烈な言葉で言い放とう。いや僕自身も、未だ、僕の成そうとしていることが正しいなどと、心底信じられているわけではない。しかし、逆に、他者の、というよりも一般的に「正しい」とされている生き方というもの、すなわち、意味など求めずに、ただ「生きていることそれ自体が素晴らしいことなのだ」という価値観、それに対しても、僕は正しいと心底信じることができない。

ただ生きることだけが目的ならばもはやユートピア

 慎ましく生きるだけであれば、現代日本は、批判も多くあるだろうが、これまでで最大に「幸せな国」の一つであるといえよう。縄文時代など、狩猟採集民たちの時代に戻らずとも、戦国時代や、大戦下と比較するまでもなく、「生存確率」的な意味と、人口総数的な意味においては、素晴らしい時代と国であると、僕は思う。

 がしかし、3万人未満程度の自殺者数や、200万だかの生活保護者数(しかしこれは逆に豊かさと換言すらできよう、皮肉なもんだが)、労働時間の多さや過労死、いじめや犯罪、政治汚職や他国の外圧などなど、マイナス要素だって大したものである。

スタンドアローンを維持すること

 パッケージ化された生き方(一般的に正しいとされていることに従った生き方)にすがり生きていくことに、家畜のような生き方に、人は耐えられない。こんな表現をすれば、「当たり前だ!」と誰しもが思う。みんな誰もが、自分は特別な人間で、自分の人生は自分の手で切り開いていくものだと信じ疑わない。

 だが、その「正しいこと」から零れ落ちてしまう人はいつの時代も、どんな社会においても存在する。
 そんな人を切り捨てて、理想的な社会を構築しようというのが、「サイコパス」という作品においては、シビラシステムの目指す社会であるし、政治家や経営者が求める理想的な統治である。

 理想、という表現は美しいが、この理想をいかに現実化しようとすると、その急進的なやり方は、「世界系」という、全ての人の垣根を取り払ってしまおうとする、急進的な「虐殺的世界再構築」になる可能性がある。

 攻殻機動隊ARISEを見終わった。そのために、そちらに思考が偏っている気もするが、「スタンドアローン」と「ゴースト」(人としての人格そのもの)を重要視しながら、「組織」的に生きることが、それと反比例する場合があることに対しての抗い、そんな表現がなされている作品だと思っている。

まとめ的な

 読みづらい文章になったなぁ。
 ただ、この記事において理解できればいいのは、「無駄だからしない」という判断は、到底、個人でできるものではないことを理解しつつ、同時に、誰かから言われたところで変えるべきものですらないということだ。




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