今日の一言「専門書は基礎知識がないと辛い」「もっと嚙み砕いた本もあったのに見栄をはるから……」
サピエンス全史を読んでいたときは、それほどつっかかるところがなかった。ある意味、スラスラ読めた。もちろん初めて知ることも多かったし、面白かったのだけれども、論理的に、何が書かれているのかが分かりやすかった。この「人間とは何か」は、まずは、既存の精神療法、心理学において、どこまでがカバーしていて、どこからが不足しているのか、という確認作業から入っている。
――巨人の肩の上に立つ小人は、巨人よりも遥かに遠くを見渡せるのである。
ここで言われる「巨人」とは、フロイトさんと、アドラーさんである。
アドラーさんについては、……うーん、フロイトと最初は一緒に研究していたけど、後に離反した、くらいしか知らない。
ちょっと調べてみる。……。
この、「個人心理学」というキーワードは、フランクルさんの本にもたびたび登場する。覚えておいた方がよいだろう。ああ、「アドラー心理学」というのは何か聞いたことがある。内容は全然分からなかったが、なるほど、「個人」という単位を、絶対視しているということか。
確かにこれだと、フロイトさんとは合わなそうだ。
ふむふむ、ざざっと調べて読んで見ると、アドラーさんは、「共同体感覚」という、全体としてより良い方向へ向けていく、他者のためになるような感覚を醸成していくことを目指していたということだ。楽観的で、目的論的だな。
この、目的論的なところは、ヘーゲルさん(テーゼ・アンチテーゼ・ジンテーゼぇぇ!!)っぽいな。キルケゴールさんが、「うっせー、世界的な目的なんて知るか! ばーかばーか!」といったの情景が思い浮かぶなぁ。
この、新しいことをする、というのは、最初が肝心である。
筋トレ、音読、ストレッチは、もう大体毎日のルーチンというか、儀式というか、やるのが当たり前レベルになっているが、初めの頃は結構大変だった。
ルーチンの危機
ルーチンの危機2
↑のように、相当意識を、そのやることに向けていかなければいけなかった。一日でもルールを破ったならば、もうなし崩しに崩壊していただろうとも思う。
取りあえず、大きな目標を定める。2月中までに、最後まで読み進める。(黙読で可)
あとがきを除くと、456ページある。これを、2月末まで、とすれば、週単位で考えたとき、残り5週間である。(多分、土日がほぼその充てられる時間になる)
456÷5≒91
おぉ……一週間に90ページか。これは結構厳しいペースだな。(簡単な本なら余裕だろうが……)
そして、読み終えた後に、3月には、概括をする。つまり、ポイントになるキーワードやセンテンスをまとめ、それをインプットする。
その時点で、この本から、「生きる意味」を見つけられるのか、そのための「手段」が見つけられるのか、それとも「資するものはない」のか、分かるだろう。
もし価値があれば、6月までに、再度読み直し、インプットを確実なものとする。6月の理由としては、2017年を前半、後半として分けたとき、後半は、「実践」に力をいれたいところ。仕事が更に慢性的に忙しくなることが見込まれるため、あまり考える時間も取れないだろう。それについての対策も、6月ぐらいまでには立てておかないといけないなぁ……。
仕事、家庭、勉強、自己、趣味、創作……。
うん。これも、忘れていた。8つあるんだったね。4番、7番あたりが微妙だなぁ。これに対しての意識は、もう少し高めないといけないかな。
――うーん。何か、毎回記事の「オチ」をつけようとして、最近、ずだだだーっと書いてから、最後でウンウン唸っている気がする。別にオチなんてつけなくていいじゃないか、ということにすればいいんだけど、それだと芸がないし、未来の自分に怒られそうだ。
どうしよう、いい方法はないものか。あ、これもある方の真似をして、ルーチン化してみようか。最後に一言、みたいに。
(その一言が浮かばずに頭を抱える)
「人間とは何か」を読み進める
ヴィクトール・エミール・フランクル氏の、「人間とは何か」を読み進める。はじめに、が終わって第一章に少し入ったところ。難しいぞ! 頭に入ってこない。こういうときは、音読である。そして、電車の中で聞く。繰り返し聞く。そのうち、何が分からなくて、何が分かりづらいのかが分かってくる。そうしたらようやく、分からないことの解決につとめることができる。サピエンス全史を読んでいたときは、それほどつっかかるところがなかった。ある意味、スラスラ読めた。もちろん初めて知ることも多かったし、面白かったのだけれども、論理的に、何が書かれているのかが分かりやすかった。この「人間とは何か」は、まずは、既存の精神療法、心理学において、どこまでがカバーしていて、どこからが不足しているのか、という確認作業から入っている。
――巨人の肩の上に立つ小人は、巨人よりも遥かに遠くを見渡せるのである。
ここで言われる「巨人」とは、フロイトさんと、アドラーさんである。
基礎知識の確認
取りあえず、フロイトについて知っていることを、何もみずに書く。ヨーロッパ(確かドイツ)の精神科医。エス・エゴ・スーパーエゴということで、動物的な衝動=エスと、親からの規律規範といったスーパーエゴとがあり、自我は、その両者を調整しているのだ。エディプスコンプレックスとか、性の欲望を明らかにした。男は父親を殺して母親と寝たい欲望をもっている、とか。アドラーさんについては、……うーん、フロイトと最初は一緒に研究していたけど、後に離反した、くらいしか知らない。
ちょっと調べてみる。……。
WIKIよりアドラー自身は自分の心理学について、個人心理学(英: individual psychology)と呼んでいた。それは、個人(individual)が、in(=not) + L.dividuus(=devisible 分けられる) + al(の性質)=分割できない存在である、と彼が考えていたことによる。日本では、アドラー心理学(英: Adlerian psychology)の呼称が一般的である。
アドラーが自分の心理学について個人心理学と呼んだように、アドラー心理学では、個人をそれ以上分割できない存在であると考えることから、人間の生を、個人という全体が個人の必要な機能等を使って目的に向かって行動している、というふうに考えている。より具体的には、人間は相対的にマイナスの状態(劣等感を覚える位置)から、相対的にプラスの状態(優越感を覚える位置)を目指して行動している、と考えている。
この、「個人心理学」というキーワードは、フランクルさんの本にもたびたび登場する。覚えておいた方がよいだろう。ああ、「アドラー心理学」というのは何か聞いたことがある。内容は全然分からなかったが、なるほど、「個人」という単位を、絶対視しているということか。
確かにこれだと、フロイトさんとは合わなそうだ。
ふむふむ、ざざっと調べて読んで見ると、アドラーさんは、「共同体感覚」という、全体としてより良い方向へ向けていく、他者のためになるような感覚を醸成していくことを目指していたということだ。楽観的で、目的論的だな。
この、目的論的なところは、ヘーゲルさん(テーゼ・アンチテーゼ・ジンテーゼぇぇ!!)っぽいな。キルケゴールさんが、「うっせー、世界的な目的なんて知るか! ばーかばーか!」といったの情景が思い浮かぶなぁ。
しばらく学習記事が続くのか
ふむ、しかし、これ(フランクルさんの本を読み進めること=もっといえば、それを理解して自分の思考に取り入れること)、真面目に取り組んでいくと、相当大変だな。目標やチェックポイントを決めていかないと、かなりの確率で挫折するだろう。この、新しいことをする、というのは、最初が肝心である。
筋トレ、音読、ストレッチは、もう大体毎日のルーチンというか、儀式というか、やるのが当たり前レベルになっているが、初めの頃は結構大変だった。
ルーチンの危機
ルーチンの危機2
↑のように、相当意識を、そのやることに向けていかなければいけなかった。一日でもルールを破ったならば、もうなし崩しに崩壊していただろうとも思う。
取りあえず、大きな目標を定める。2月中までに、最後まで読み進める。(黙読で可)
あとがきを除くと、456ページある。これを、2月末まで、とすれば、週単位で考えたとき、残り5週間である。(多分、土日がほぼその充てられる時間になる)
456÷5≒91
おぉ……一週間に90ページか。これは結構厳しいペースだな。(簡単な本なら余裕だろうが……)
そして、読み終えた後に、3月には、概括をする。つまり、ポイントになるキーワードやセンテンスをまとめ、それをインプットする。
その時点で、この本から、「生きる意味」を見つけられるのか、そのための「手段」が見つけられるのか、それとも「資するものはない」のか、分かるだろう。
もし価値があれば、6月までに、再度読み直し、インプットを確実なものとする。6月の理由としては、2017年を前半、後半として分けたとき、後半は、「実践」に力をいれたいところ。仕事が更に慢性的に忙しくなることが見込まれるため、あまり考える時間も取れないだろう。それについての対策も、6月ぐらいまでには立てておかないといけないなぁ……。
やることは結構ある
2017年12月には、2018年の目標もたてなければいけないし、忙しい。仕事、家庭、勉強、自己、趣味、創作……。
8つの人生の輪という考え方がある。2016年5月27日の記事
1.仕事・キャリア 2.健康 3.自己啓発・学び 4.恋人・家族 5.友人 6.物理環境・時間 7.富 8.趣味
これらが、全体的に高まっていくことが、人生にとって重要なのだ、というわけだ。
うん。これも、忘れていた。8つあるんだったね。4番、7番あたりが微妙だなぁ。これに対しての意識は、もう少し高めないといけないかな。
――うーん。何か、毎回記事の「オチ」をつけようとして、最近、ずだだだーっと書いてから、最後でウンウン唸っている気がする。別にオチなんてつけなくていいじゃないか、ということにすればいいんだけど、それだと芸がないし、未来の自分に怒られそうだ。
どうしよう、いい方法はないものか。あ、これもある方の真似をして、ルーチン化してみようか。最後に一言、みたいに。
(その一言が浮かばずに頭を抱える)
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今日の一言「青春をテーマにした作品はエンディングに関わらず黄昏を思う」「時間の不可逆性が虚しくさせるのかもね」
おかげで、遅ればせながら、映画館で見ることができた。DVDでも出たら借りてみようかと思っていたけれども、結果的に、見て、後悔とか、時間の無駄、という感じは無かった。
結構、「万人受け」すると思う。前作(厳密な意味ではない)の「秒速5cm」は見る人を選ぶと思う。しかし、その意味で、秒速5cmを見てからこの作品をみると、いろいろ思うところが増えて面白いと思う。
ストーリーについては、この後書くとして、とにかく、映像がきれいである。日常生活感がばっちりな高校生の部屋から始まり、東京の街並み、走る電車のディテール、駅構内の雑然とした感じ、そして対照的な長野か岐阜の田舎の村の自然と、その自然の中に切り開かれた人の痕跡、伝統的な神社、そこに伝わる紡がれる糸。
新海誠さんは、本当に、ディテール、繊細な「日常」を切り取るのが上手いと思う。美しいものを美しいように描くのではなく、普段ありふれた些末なものを、美しく描くのではなく、それを兎に角繊細に細かく詳細に描くのだ。その描写が、実写と異なるアニメーションであるという媒体と、これが本当に綺麗に綯交ぜになり、それが見る人に美しさを、押し付けではなく自然に感じさせるのである。
本作を、恋愛もの、としてみると、ちょっと違う気がする……というか、今の自分をはじめとして、恋愛とか結婚とか、異性とか、そういった事柄に興味がなかったり、逆に嫌悪をしている人は、面白くないと思う。
ただ、そこは少し、見方を変えることができれば、冒頭に書いた、より広く万人受けする作品であることは間違いないと思う。
それは、記憶や思い出の大切さ、美しさ、重要性、というテーマとしてみることである。
本作の前半は、高校生の男の子と女の子が、互いの人格が入れ替わって、ドタバタ劇をやるのであるが(と書いてしまうと、さもつまらなそうに思えてしまうが、そこは心配なく、冒頭の綺麗な映像と、飽きさせない撮影(=構図やカットイン・アウトなど、連続した映像の見せ方についての技術のこと。アニメーション作品においても非常に重要なポイントである。これは蟲師の特典映像の監督インタビューみたいなので語られていた)によって、普通に楽しむことができるだろう)、物語が動き出すのは後半である。
田舎の村と、東京と、二人の高校生の心とが交錯し、そして、不吉な彗星が二人の運命を大きく変えていく。(彗星の名が、ティアマトとかいって、確かティアマトってギリシア神話の神で、伝説のオウガバトルとかにティアマットって闇属性の龍が登場したりするから、何だか悪いもののような気がしていたけれども、案の定大変なことになる)
で、まぁ、その、二人は何やかんやで出会うのだけれども、その出会ったタイミングが、黄昏時なのである。
この黄昏というのは、昼でもなく、夜でもなく、境界が曖昧になった時間帯なのである。誰そ彼ということで、君は何者なのか、という、よく分からなくなる時間帯、逢魔が時ということなのだ。
そんな時間だから、二人は、出会うことができた、しかし、その黄昏時はあっという間に過ぎ去っていく。そうすることで、二人は、大切な、相手の名前を、思い出せなくなっていく。「君の名は?」というわけである。
そうなると、もう二人は、二人が出会ったことすら完全に忘れてしまう。確かに、男の子の方は、東京から田舎の村の山に行ったことは覚えている。けれども、それが何故、何をしに行ったのか、思い出すことができない。
しかし、どこか、心の奥底では、沈殿した、何か大切な人の思いが残っているように思えるのである。
しかし、それが何かは、どうしても思い出せない。
けれども、……これは、ネタバレだけれども、物語的には重要ではない(僕としては重要なことではなかったし、恐らく、この作品が大ヒットしたということで、エンディングはハッピーになっているのだろうということが分かっていた)から、書くと、最後で、二人は何か惹かれるものを感じ、再び、出会うのである。
秒速5cmは、鬱アニメと呼ばれているように(呼ばれてないかもしれない)、最後、結局、踏切のところで、出会いそうで、出会わないのである。擦れ違いである。そして男の子は、何かよく分からなくなって、仕事を辞めて、それでEND、なのである。これは辛い。
そういう意味で、今作「君の名は。」が、きっとハッピーなんだろうと思いつつ、「し、新海先生、このあと、え、どうなるんですか、ま、まさか、まさかまたすれ違うんですか……? こ、ここは作品としては、出会った方がよいと思いますよ、映画作品的に!」と思いながらみていた。そういう意味で、最後までハラハラどきどきだった。いやぁへんな意味で面白かった。
で、ありつつ、この、終わった後にですね、この、モーレツな虚無感というか、やるせなさというか、つらさというか、哀しさがこみ上げてきたので、やはり危険な作品だと思います。(ここからが書きたいこと。上までのことは、あまり書きたかったわけではないのですが、書いておかないと忘れてしまうし、ここから先の文脈がぶれぶれになりそうだった)
なんというかですね、
・記憶や思い出
・男女仲・友情
というキーワード、ポイントが、やはり相当美化されているが故に、「青春」という時代における輝かしい思い出が希薄な人が見るとですね、これは相当「後悔」的なものを生じさせるのです。
そういう意味においては、若い人がみるのも、きっと危険と思いますが、まぁ、それはまだ「無限の可能性(笑える言葉だ)」があるので、おっさんおばさんが見るよりはマシだと思います。
なにかこう、若いとき、青春と呼ばれる時期においては、恋愛とか、冒険とか、その他生き生きとした人生の経験、体験をしなければいけない、そんなような、強迫観念的なものを植え付けるわけです。
いやこれは別に、若いときいじめられていたとか、彼女もできずに童貞だったとか、そういう寂しい思いをしたことがある人に限らず、大抵の人、多くの人は、そんな大それた恋愛も冒険も無いわけです。
日々の些細な楽しみ、面白さ、大きなことはなくても、それなりに楽しく過ごしていくわけです。
田舎に生まれた人は、今作のように、東京に出ていくこともなく、出ていったとしても、ディズニーランドで遊ぶとかスカイツリーの展望台に行くとかそんな程度で、もしくはずーっと田舎の村で過ごして終わるわけです。
逆に、だからこそ、そんな失われた青春を取り戻すため、こうした作品において……これは、多くのエンターテイメント作品が、若者を主人公にしていることが一つ理由と思われますが、その若い時代がテーマに描かれるのです。それを追体験して、ひと時の癒しをえるのです。
ハッピーエンドだったからこそ、哀しく、虚しくなるというのは、物語の消費として、使用方法が完全に誤っている。
だからこそ、最初に述べたように、この作品を、「恋愛」とか「青春」とか、そういった観点でとらえてはならないのである。
僕は先日、衝撃的な体験をしたことで、生きる活力を、いくばくか回復させることができた。それは、これまでの多くの、「自らの再生産」ではなく、他者の存在から与えてもらったものだった。
そしてそのとき、僕は言った。
上記下線の感覚について、今回の作品は、「否」と語りかけてくるのだ。
かなり極端にストーリーを書けば、高校時代の記憶・思い出によって、就職活動中で自分を見失っていた男の子が(及び、女の子が)、再び自らの求めていた「生き方」に立ち戻っていく、ということである。
即ち、高校時代(=青春時代)から、現代(社会人)までの、連綿とした繋がり(これは本作では何度も重要に示唆されている、「糸」の「結び」ということがメタファーに思われる)についての、重要性(ないしは、美化、又は「お勧め」)を示しているということである。
故に、この作品が「合う人」、「合わない人」(面白いと思えるか、思えないか)を、分けるとすれば、その「連続性」を肯定できるかどうか、と言える。
もっと極端に書けば、これまでの人生を「満足」してきたか、そうではないか、ということでもある。
ここまで、「青春」と簡単に書いてきたが、別に中高生時代に限らない。どこまでが青春かというのは、いまや、30歳までを青春時代、モラトリアムとみなすこともあるというぐらいであり、ここで特段重要な問題ではない。
ただ、忘れたい過去、嫌な思い出、振り返りたくない時代をもった人は、残念ながら、本作は「合わない」ということになるだろう。
難しいのは、そんな人でも、最初に書いたように、映像が綺麗だし、撮影テクニックは秀逸だし、音楽の挿入も絶妙だしで、それなりに面白く思ってしまう可能性が多大にある。それがまた、今作を大ヒット、させた一つの理由でもある。必ずしも、ストーリーが良いからヒットするわけでもない。(良い例が、ジュラシックパークは、それほどストーリーが巧みで面白いかというとそうではないが、とにかく恐竜がかっこよく迫力あって楽しいじゃないか、ということだ)
ただ、僕は、正直なところ、映画を見終わって、帰る前に喫茶店に入って、取りあえずキーワードだけメモしようとしていたときに、何だか、非常に、この天気の良い日の思ったより寒くなく麗らかな気候の中で、どうにもこうにも、うら哀しい気持ちが広がっていったのである。
感情移入状態から、現実に戻っていくような感覚。いま、ここ、にいる自分についての懐疑。
きっと二人は、すれ違っていた時間を乗り越えるべく、お互い二人で過ごす時間を大切にしていくのだろう。
しかし、その後は、いったいどうなるのだろうか?
幸せに暮らし、幸せに結婚し、幸せに子供を生んで育てて、幸せな老後を過ごすのだろうか?
分からない。そして、そも、「幸せ」とは何ぞや?
そこからは、みなさん、視聴者、読者の皆さんで考えましょう、ということである。
カップルでこの作品を見た人は、些細な生活の中ですれ違ったり、ケンカしたりもするだろうが、お互い思いやりをもって、二人で過ごした楽しい時間などを忘れないようにして、お互い助け合って生きていきましょう、と?
失恋したばかりで一人できた女の子は、素敵な出会いがあるように、今は自分磨きに勤しみましょうと?
離婚した30代のおっさんは、これまた素敵な出会いがあるようにと、婚活パーティーに出席しましょうと?
今作は、「生き方」を与えてくれるものではない。
今作は、「記憶」と「思い出」の大切さを教えてくれる作品である。
そこに、僕が感じた、……というよりも、今も感じて中々行動できないでいる虚しさの原因があるのである。
「君の名は。」を映画館で見てきた
映画って、何か月上映するかというのは決まっていないらしい。1か月で上映を終える作品もあるらしい。シン・ゴジラは4か月ぐらいで、君の名は。は、それを超えてロングランになっている。おかげで、遅ればせながら、映画館で見ることができた。DVDでも出たら借りてみようかと思っていたけれども、結果的に、見て、後悔とか、時間の無駄、という感じは無かった。
結構、「万人受け」すると思う。前作(厳密な意味ではない)の「秒速5cm」は見る人を選ぶと思う。しかし、その意味で、秒速5cmを見てからこの作品をみると、いろいろ思うところが増えて面白いと思う。
ストーリーについては、この後書くとして、とにかく、映像がきれいである。日常生活感がばっちりな高校生の部屋から始まり、東京の街並み、走る電車のディテール、駅構内の雑然とした感じ、そして対照的な長野か岐阜の田舎の村の自然と、その自然の中に切り開かれた人の痕跡、伝統的な神社、そこに伝わる紡がれる糸。
新海誠さんは、本当に、ディテール、繊細な「日常」を切り取るのが上手いと思う。美しいものを美しいように描くのではなく、普段ありふれた些末なものを、美しく描くのではなく、それを兎に角繊細に細かく詳細に描くのだ。その描写が、実写と異なるアニメーションであるという媒体と、これが本当に綺麗に綯交ぜになり、それが見る人に美しさを、押し付けではなく自然に感じさせるのである。
記憶と思い出の大切さ
※ここから若干ストーリーについても触れるため、ネタバレほどにはならないですが、気になる方は注意頂ければと思います。ただ、まだ見たことない方にもそれほど影響はないように配慮はしています。が、ハッピーエンドかバッドエンドか、それすら知りたくない人はブラウザバックでお願いします(ただ、何をもってハッピーとするかは人それぞれでしょうが)。本作を、恋愛もの、としてみると、ちょっと違う気がする……というか、今の自分をはじめとして、恋愛とか結婚とか、異性とか、そういった事柄に興味がなかったり、逆に嫌悪をしている人は、面白くないと思う。
ただ、そこは少し、見方を変えることができれば、冒頭に書いた、より広く万人受けする作品であることは間違いないと思う。
それは、記憶や思い出の大切さ、美しさ、重要性、というテーマとしてみることである。
本作の前半は、高校生の男の子と女の子が、互いの人格が入れ替わって、ドタバタ劇をやるのであるが(と書いてしまうと、さもつまらなそうに思えてしまうが、そこは心配なく、冒頭の綺麗な映像と、飽きさせない撮影(=構図やカットイン・アウトなど、連続した映像の見せ方についての技術のこと。アニメーション作品においても非常に重要なポイントである。これは蟲師の特典映像の監督インタビューみたいなので語られていた)によって、普通に楽しむことができるだろう)、物語が動き出すのは後半である。
田舎の村と、東京と、二人の高校生の心とが交錯し、そして、不吉な彗星が二人の運命を大きく変えていく。(彗星の名が、ティアマトとかいって、確かティアマトってギリシア神話の神で、伝説のオウガバトルとかにティアマットって闇属性の龍が登場したりするから、何だか悪いもののような気がしていたけれども、案の定大変なことになる)
で、まぁ、その、二人は何やかんやで出会うのだけれども、その出会ったタイミングが、黄昏時なのである。
この黄昏というのは、昼でもなく、夜でもなく、境界が曖昧になった時間帯なのである。誰そ彼ということで、君は何者なのか、という、よく分からなくなる時間帯、逢魔が時ということなのだ。
そんな時間だから、二人は、出会うことができた、しかし、その黄昏時はあっという間に過ぎ去っていく。そうすることで、二人は、大切な、相手の名前を、思い出せなくなっていく。「君の名は?」というわけである。
5年が過ぎる
そして更に、5年が過ぎ去る。そうなると、もう二人は、二人が出会ったことすら完全に忘れてしまう。確かに、男の子の方は、東京から田舎の村の山に行ったことは覚えている。けれども、それが何故、何をしに行ったのか、思い出すことができない。
しかし、どこか、心の奥底では、沈殿した、何か大切な人の思いが残っているように思えるのである。
しかし、それが何かは、どうしても思い出せない。
けれども、……これは、ネタバレだけれども、物語的には重要ではない(僕としては重要なことではなかったし、恐らく、この作品が大ヒットしたということで、エンディングはハッピーになっているのだろうということが分かっていた)から、書くと、最後で、二人は何か惹かれるものを感じ、再び、出会うのである。
秒速5cmとの違い
秒速5cmを見ていると、最後のシーンが、単純にああよかったね~で終わらず、何だかしみじみとした、感傷というか、何とも表現しがたい思いになることができる。秒速5cmは、鬱アニメと呼ばれているように(呼ばれてないかもしれない)、最後、結局、踏切のところで、出会いそうで、出会わないのである。擦れ違いである。そして男の子は、何かよく分からなくなって、仕事を辞めて、それでEND、なのである。これは辛い。
そういう意味で、今作「君の名は。」が、きっとハッピーなんだろうと思いつつ、「し、新海先生、このあと、え、どうなるんですか、ま、まさか、まさかまたすれ違うんですか……? こ、ここは作品としては、出会った方がよいと思いますよ、映画作品的に!」と思いながらみていた。そういう意味で、最後までハラハラどきどきだった。いやぁへんな意味で面白かった。
さてここから感想
まとめとして、ストーリーとか、そういう点はともかく、映像が綺麗だし面白かったので、満足である。特に批判とかはありません、良い作品だったと思います。で、ありつつ、この、終わった後にですね、この、モーレツな虚無感というか、やるせなさというか、つらさというか、哀しさがこみ上げてきたので、やはり危険な作品だと思います。(ここからが書きたいこと。上までのことは、あまり書きたかったわけではないのですが、書いておかないと忘れてしまうし、ここから先の文脈がぶれぶれになりそうだった)
なんというかですね、
・記憶や思い出
・男女仲・友情
というキーワード、ポイントが、やはり相当美化されているが故に、「青春」という時代における輝かしい思い出が希薄な人が見るとですね、これは相当「後悔」的なものを生じさせるのです。
そういう意味においては、若い人がみるのも、きっと危険と思いますが、まぁ、それはまだ「無限の可能性(笑える言葉だ)」があるので、おっさんおばさんが見るよりはマシだと思います。
なにかこう、若いとき、青春と呼ばれる時期においては、恋愛とか、冒険とか、その他生き生きとした人生の経験、体験をしなければいけない、そんなような、強迫観念的なものを植え付けるわけです。
いやこれは別に、若いときいじめられていたとか、彼女もできずに童貞だったとか、そういう寂しい思いをしたことがある人に限らず、大抵の人、多くの人は、そんな大それた恋愛も冒険も無いわけです。
日々の些細な楽しみ、面白さ、大きなことはなくても、それなりに楽しく過ごしていくわけです。
田舎に生まれた人は、今作のように、東京に出ていくこともなく、出ていったとしても、ディズニーランドで遊ぶとかスカイツリーの展望台に行くとかそんな程度で、もしくはずーっと田舎の村で過ごして終わるわけです。
逆に、だからこそ、そんな失われた青春を取り戻すため、こうした作品において……これは、多くのエンターテイメント作品が、若者を主人公にしていることが一つ理由と思われますが、その若い時代がテーマに描かれるのです。それを追体験して、ひと時の癒しをえるのです。
虚しさを乗り越えるために
まぁ、こんな感想を持つ人は、殆どいないだろうな。ハッピーエンドだったからこそ、哀しく、虚しくなるというのは、物語の消費として、使用方法が完全に誤っている。
だからこそ、最初に述べたように、この作品を、「恋愛」とか「青春」とか、そういった観点でとらえてはならないのである。
僕は先日、衝撃的な体験をしたことで、生きる活力を、いくばくか回復させることができた。それは、これまでの多くの、「自らの再生産」ではなく、他者の存在から与えてもらったものだった。
そしてそのとき、僕は言った。
答えが欲しい、けど足りないと。
俺は、まさに、これである、と、自信をもって言いたい。
それが例え、過去の自分を否定することになろうとも、その人生の終わりの際に、ああ、実り多き人生だったと、「実感レベル」で感じていきたい。
しかし同時に、傲岸不遜で強欲であるが、「終わりよければすべてよし」的な思考も大否定したい。その、目的へのプロセス、道筋、道すがらすべて、その目的自体であることを望んでやまない。
上記下線の感覚について、今回の作品は、「否」と語りかけてくるのだ。
かなり極端にストーリーを書けば、高校時代の記憶・思い出によって、就職活動中で自分を見失っていた男の子が(及び、女の子が)、再び自らの求めていた「生き方」に立ち戻っていく、ということである。
即ち、高校時代(=青春時代)から、現代(社会人)までの、連綿とした繋がり(これは本作では何度も重要に示唆されている、「糸」の「結び」ということがメタファーに思われる)についての、重要性(ないしは、美化、又は「お勧め」)を示しているということである。
故に、この作品が「合う人」、「合わない人」(面白いと思えるか、思えないか)を、分けるとすれば、その「連続性」を肯定できるかどうか、と言える。
もっと極端に書けば、これまでの人生を「満足」してきたか、そうではないか、ということでもある。
ここまで、「青春」と簡単に書いてきたが、別に中高生時代に限らない。どこまでが青春かというのは、いまや、30歳までを青春時代、モラトリアムとみなすこともあるというぐらいであり、ここで特段重要な問題ではない。
ただ、忘れたい過去、嫌な思い出、振り返りたくない時代をもった人は、残念ながら、本作は「合わない」ということになるだろう。
難しいのは、そんな人でも、最初に書いたように、映像が綺麗だし、撮影テクニックは秀逸だし、音楽の挿入も絶妙だしで、それなりに面白く思ってしまう可能性が多大にある。それがまた、今作を大ヒット、させた一つの理由でもある。必ずしも、ストーリーが良いからヒットするわけでもない。(良い例が、ジュラシックパークは、それほどストーリーが巧みで面白いかというとそうではないが、とにかく恐竜がかっこよく迫力あって楽しいじゃないか、ということだ)
ただ、僕は、正直なところ、映画を見終わって、帰る前に喫茶店に入って、取りあえずキーワードだけメモしようとしていたときに、何だか、非常に、この天気の良い日の思ったより寒くなく麗らかな気候の中で、どうにもこうにも、うら哀しい気持ちが広がっていったのである。
感情移入状態から、現実に戻っていくような感覚。いま、ここ、にいる自分についての懐疑。
たき君とみつはさんのその後
何度も書いたが、今作の主人公・ヒロインの二人は最後に出会った。名前は思い出せずに、「君の名は……」と同時に問いかけるシーンで終わる。感動的なシーンだ。きっと二人は、すれ違っていた時間を乗り越えるべく、お互い二人で過ごす時間を大切にしていくのだろう。
しかし、その後は、いったいどうなるのだろうか?
幸せに暮らし、幸せに結婚し、幸せに子供を生んで育てて、幸せな老後を過ごすのだろうか?
分からない。そして、そも、「幸せ」とは何ぞや?
そこからは、みなさん、視聴者、読者の皆さんで考えましょう、ということである。
カップルでこの作品を見た人は、些細な生活の中ですれ違ったり、ケンカしたりもするだろうが、お互い思いやりをもって、二人で過ごした楽しい時間などを忘れないようにして、お互い助け合って生きていきましょう、と?
失恋したばかりで一人できた女の子は、素敵な出会いがあるように、今は自分磨きに勤しみましょうと?
離婚した30代のおっさんは、これまた素敵な出会いがあるようにと、婚活パーティーに出席しましょうと?
今作は、「生き方」を与えてくれるものではない。
今作は、「記憶」と「思い出」の大切さを教えてくれる作品である。
そこに、僕が感じた、……というよりも、今も感じて中々行動できないでいる虚しさの原因があるのである。
今日の一言「実践すべきことはそう多くはない」
な、何だって!? パクられた!! ……と思ったわけではないが、手に取ってみると、まぁ、僕がこれまでやっていたようなこと、今やっているようなことであった。
B6版で厚みがあり、1400円ぐらいで、あるコンサルタントさんが著者となれば、さも重要ですごい効果的なメソッドな気がしてくる。
しかし、こと、このことに関しては、僕は、10年~15年ぐらい続けてきている。まぁ、もっと、もう少し「良い方向へ」注力していくための方法としては、もっと早く上のような書籍に出会えたらよかったと思える。
これで、著作権問題みたいになったら、僕の方が早くからやってきているが、その有名人の著者の方が、きっと正しい、となるのだろう。だからこのブログはこれからもひっそりと続いていくのである。
コンサルタントさんだったり、有名な大学を卒業していたり、テレビに出演していたり、有名な人だったりすれば、その書いてあることがどうであれ、本になって、お金になって、それを読んだ人たちに影響を与えていくのである。
コマーシャル、というのは、本来的には、価値多様化社会の中では、いったい何が重要な情報なのか、ますます探しにくくなるために、「おすすめ」をしてくれるという意味で、価値あることなのである。ところが、多くは、「脅してむしり取る」という方針が、まことしやかに行われる。
と、いうよりも、「意味」(目的)を失った現代人たちにとっては、もはや、何が「主体的」なことなのか、その判断すら失われて行っているのである。だから、盲目的に、テレビや書店に並ぶキャッチーな脅し文句につられて、ますます自己自身を見失っていくのである。
……みたいなね! もっともらしいこととか、さも「一般的」みたいに書かれていることが多いのだ。
これらを全くすべて否定する気などない。
ただ、一つ、基盤的に、根本的に重要なことは、恐ろしいほどにシンプル、単純、簡単である。そのことができていないまま、やれ「ダイエット」やら「頭がよくなる」やら「お金が増える」やら「不透明な時代に生き残る」やら、色んな不安に煽られて「何かやらなきゃ!」と思ったところで、まず、その人は何も変わらない。何も変えられない。今まで通り、ずーっと、煽られ続け、不安を感じながら、搾取されながら生き続けるしかないのである。それよりだったら、むしろ、本なんて読まなくていい。ただ、目先の欲望……と書くとこき下ろしすぎだが、日々の楽しい友人たちの会話や、美味しいごはんなどについてだけ考えて、一日一日を過ごした方がよっぽどましである。
本当に大切なことは、「続ける」ことである。
継続は力なり。これだけである。この続けるという能力、これがあれば、大抵のことは何でもできる。その基盤があった上で、その上に走らせるプログラム(ソフトウェア)として、時間対効果をあげるためのメソッドが有効になっていくのである。
シックスパックの腹筋に憧れて、様々な筋トレの仕方を学ぶのはよいだろう、しかし、その微妙な「正しい」腹筋の仕方を追及するよりも、まずは毎日、ど素人のやり方でもいいから、続けていくことが大前提だ。一時期腹筋のしわが薄まっていったけれども、ここ90日ぐらい筋トレを続けて、またほりが深くなった。3日やったら1日の休みをいれる、とか、肘を床につけて90度にしてそのまま維持するとか、流行りの方法など無視して、ふつーに、毎日やっていただけでも、それなりに効果はでる。確かに、「正しい」方法をしてやっていたら、もっと良い効果になったかもしれない。けれども、続けられなければ、所詮はゼロに過ぎないのだ。
笑顔は大事。表情筋は、脳の感情等を司る尾状核と繋がっている。笑顔をつくることで、脳の働きも良くなるのである。そして、社会学的には、笑顔の人は警戒されにくい。心を許してもらえやすい。人が集まりやすい。幸せだから笑うんじゃない、笑うから幸せなんだ。
でもさ、それって、どうやりゃいんだよ! どうも、何をやっても長続きしないんだよ!
という方もいるでしょう。
「5分ルール」とか、「例外規定」とか、「強制実行」とか、「カウントダウン法」とか、色々と方法はあるでしょう。
しかし、重要なのは、そういったテクニック的なのではなく、これも至ってシンプルですが、「目的」「目標」を立てる、ということです。
腹筋を六つに割りたい!
これは、目的でも、目標でもありません。ただの願望です。これでは、いくらたっても、望みが実現することはありません。
腹筋を6つに割るため、筋トレを毎日しよう!
これもダメなパターンです。
確かに、これは、数値化(毎日やろう)という意味で、目標にはなっていますが、目標の立て方が下手すぎます。
というよりも、目標が二重の意味で低いのです。
一重の意味は、その目標が具体化されていないことです。まぁこれは、もう少し、腹筋する回数とか、朝やるのか夜やるのか、何か月続けるのか、チェックはいつするのか、などなど、詳細化していけば解決する話です。
しかしもっと問題は、二重の意味の方で、この腹筋を割りたい、という目的・目標が、いったい、何のため? なのか、ということです。
鏡の前に立って、自分で自分の身体を見詰めて、「おぉ、かっこいいぜ!」と陶酔することが目的なのでしょうか? 海にパンツ一丁で行って、ギャルに「かっこいい! 腹筋さわらして!」と言われることが目標なのでしょうか? それとも、近くに控えた健康診断のためなのでしょうか? 彼女や奥さんに、「ちょっとあなた、最近太ったんじゃない?」と言われたからでしょうか?
何のために、その行為を達成するのか。
それを、より具体的に、明確にするということが、目的や目標を立てる上で重要なことなのです。
確かに、トレーナーに付き合ってもらって、食事制限とか頑張るのはいいでしょう。最初は、そういった強制的な行動規制も必要になります。しかし、本来的な、自己意識としての、自分の主体的な思いが強くなければ、その達成する目標が高ければ高いほど、実現は困難になるのです。
皆さんも、何か新しいことを始めようとか、何か達成したい目標ができたら、まずは、「継続すること」と、その目標自体の目的について、掘り下げて考えるようにしてみてください。そうすることで、ますます自分の望む自分になることができ、日々の生活や、人生がより豊かなものになるでしょう!
基本的には、
・タイトルをキャッチーで、不安をあおるようなものにする。
・現状分析、こうしなきゃ大変になりますよ! 的な事例をいくつか挙げる。
・私も昔は悩んでいました。でも大丈夫、こんな方法があります!
・具体的にはこんな感じです。
・それを実践すれば、最初の不安は解決します! おめでとう!
こんな感じである。
だから、読まなくていいとか、買わなくていいとか、価値が無いとか、そういうことを言わんとするわけではなく、いくら本を買っても、実践に結び付けられなきゃ意味ないよ、というわけだ。
そして、何ということでしょう、こんな分析ができてしまう時点で、僕は一体、どれだけこういった系の本を読んできたということなのか! 全くもって、恥ずかしい限りである。
ゼロ秒思考
書店をふと歩いていたら、「ゼロ秒思考で頭が良くなる!」みたいな書籍が置いてあった。な、何だって!? パクられた!! ……と思ったわけではないが、手に取ってみると、まぁ、僕がこれまでやっていたようなこと、今やっているようなことであった。
B6版で厚みがあり、1400円ぐらいで、あるコンサルタントさんが著者となれば、さも重要ですごい効果的なメソッドな気がしてくる。
しかし、こと、このことに関しては、僕は、10年~15年ぐらい続けてきている。まぁ、もっと、もう少し「良い方向へ」注力していくための方法としては、もっと早く上のような書籍に出会えたらよかったと思える。
これで、著作権問題みたいになったら、僕の方が早くからやってきているが、その有名人の著者の方が、きっと正しい、となるのだろう。だからこのブログはこれからもひっそりと続いていくのである。
自己啓発本について
最近書店に足を運ぶことが殆どなくなったが、やはり、あちらこちらに、煽情的なメッセージが並ぶ。コンサルタントさんだったり、有名な大学を卒業していたり、テレビに出演していたり、有名な人だったりすれば、その書いてあることがどうであれ、本になって、お金になって、それを読んだ人たちに影響を与えていくのである。
コマーシャル、というのは、本来的には、価値多様化社会の中では、いったい何が重要な情報なのか、ますます探しにくくなるために、「おすすめ」をしてくれるという意味で、価値あることなのである。ところが、多くは、「脅してむしり取る」という方針が、まことしやかに行われる。
と、いうよりも、「意味」(目的)を失った現代人たちにとっては、もはや、何が「主体的」なことなのか、その判断すら失われて行っているのである。だから、盲目的に、テレビや書店に並ぶキャッチーな脅し文句につられて、ますます自己自身を見失っていくのである。
……みたいなね! もっともらしいこととか、さも「一般的」みたいに書かれていることが多いのだ。
本当に大事な習慣
ビジネス本、自己啓発本、その他さまざまな人たちの「アドバイス」といったもの。これらを全くすべて否定する気などない。
ただ、一つ、基盤的に、根本的に重要なことは、恐ろしいほどにシンプル、単純、簡単である。そのことができていないまま、やれ「ダイエット」やら「頭がよくなる」やら「お金が増える」やら「不透明な時代に生き残る」やら、色んな不安に煽られて「何かやらなきゃ!」と思ったところで、まず、その人は何も変わらない。何も変えられない。今まで通り、ずーっと、煽られ続け、不安を感じながら、搾取されながら生き続けるしかないのである。それよりだったら、むしろ、本なんて読まなくていい。ただ、目先の欲望……と書くとこき下ろしすぎだが、日々の楽しい友人たちの会話や、美味しいごはんなどについてだけ考えて、一日一日を過ごした方がよっぽどましである。
本当に大切なことは、「続ける」ことである。
継続は力なり。これだけである。この続けるという能力、これがあれば、大抵のことは何でもできる。その基盤があった上で、その上に走らせるプログラム(ソフトウェア)として、時間対効果をあげるためのメソッドが有効になっていくのである。
シックスパックの腹筋に憧れて、様々な筋トレの仕方を学ぶのはよいだろう、しかし、その微妙な「正しい」腹筋の仕方を追及するよりも、まずは毎日、ど素人のやり方でもいいから、続けていくことが大前提だ。一時期腹筋のしわが薄まっていったけれども、ここ90日ぐらい筋トレを続けて、またほりが深くなった。3日やったら1日の休みをいれる、とか、肘を床につけて90度にしてそのまま維持するとか、流行りの方法など無視して、ふつーに、毎日やっていただけでも、それなりに効果はでる。確かに、「正しい」方法をしてやっていたら、もっと良い効果になったかもしれない。けれども、続けられなければ、所詮はゼロに過ぎないのだ。
ポジティブ思考
もう一つ大切な習慣というか、ライフハック的な、メソッド的なうんたらを書けば、「笑顔」である。笑顔は大事。表情筋は、脳の感情等を司る尾状核と繋がっている。笑顔をつくることで、脳の働きも良くなるのである。そして、社会学的には、笑顔の人は警戒されにくい。心を許してもらえやすい。人が集まりやすい。幸せだから笑うんじゃない、笑うから幸せなんだ。
習慣をつくるためには?
分かった分かった、習慣をつくることと、笑顔が大事なんだね。でもさ、それって、どうやりゃいんだよ! どうも、何をやっても長続きしないんだよ!
という方もいるでしょう。
「5分ルール」とか、「例外規定」とか、「強制実行」とか、「カウントダウン法」とか、色々と方法はあるでしょう。
しかし、重要なのは、そういったテクニック的なのではなく、これも至ってシンプルですが、「目的」「目標」を立てる、ということです。
腹筋を六つに割りたい!
これは、目的でも、目標でもありません。ただの願望です。これでは、いくらたっても、望みが実現することはありません。
腹筋を6つに割るため、筋トレを毎日しよう!
これもダメなパターンです。
確かに、これは、数値化(毎日やろう)という意味で、目標にはなっていますが、目標の立て方が下手すぎます。
というよりも、目標が二重の意味で低いのです。
一重の意味は、その目標が具体化されていないことです。まぁこれは、もう少し、腹筋する回数とか、朝やるのか夜やるのか、何か月続けるのか、チェックはいつするのか、などなど、詳細化していけば解決する話です。
しかしもっと問題は、二重の意味の方で、この腹筋を割りたい、という目的・目標が、いったい、何のため? なのか、ということです。
鏡の前に立って、自分で自分の身体を見詰めて、「おぉ、かっこいいぜ!」と陶酔することが目的なのでしょうか? 海にパンツ一丁で行って、ギャルに「かっこいい! 腹筋さわらして!」と言われることが目標なのでしょうか? それとも、近くに控えた健康診断のためなのでしょうか? 彼女や奥さんに、「ちょっとあなた、最近太ったんじゃない?」と言われたからでしょうか?
何のために、その行為を達成するのか。
それを、より具体的に、明確にするということが、目的や目標を立てる上で重要なことなのです。
確かに、トレーナーに付き合ってもらって、食事制限とか頑張るのはいいでしょう。最初は、そういった強制的な行動規制も必要になります。しかし、本来的な、自己意識としての、自分の主体的な思いが強くなければ、その達成する目標が高ければ高いほど、実現は困難になるのです。
皆さんも、何か新しいことを始めようとか、何か達成したい目標ができたら、まずは、「継続すること」と、その目標自体の目的について、掘り下げて考えるようにしてみてください。そうすることで、ますます自分の望む自分になることができ、日々の生活や、人生がより豊かなものになるでしょう!
とかね。
と、まぁ、自己啓発本とかは、上に書いてきたようなそんな流れである。基本的には、
・タイトルをキャッチーで、不安をあおるようなものにする。
・現状分析、こうしなきゃ大変になりますよ! 的な事例をいくつか挙げる。
・私も昔は悩んでいました。でも大丈夫、こんな方法があります!
・具体的にはこんな感じです。
・それを実践すれば、最初の不安は解決します! おめでとう!
こんな感じである。
だから、読まなくていいとか、買わなくていいとか、価値が無いとか、そういうことを言わんとするわけではなく、いくら本を買っても、実践に結び付けられなきゃ意味ないよ、というわけだ。
そして、何ということでしょう、こんな分析ができてしまう時点で、僕は一体、どれだけこういった系の本を読んできたということなのか! 全くもって、恥ずかしい限りである。
今日の一言「何を書こうか漠然としたまま書き進める」「面白い記事になるかは博打だね」
LONGMANという英英辞典で、定義=definitionを引くと、
a phrase or sentence that says exactly what a word, phrase, or idea means .
ということである。
僕の英語力は乏しいが、「言葉や、単語や、概念を正確に言い表す、単語や文のこと」ということで大体あっているだろう。
日本語の辞書を引けば、
物事の意味・内容を他と区別できるように、言葉で明確に限定すること。
GOO辞書
ということである。なるほど「区別」ね。言及したいことと、そうでないことを、明確に分けること。そう定義とは、「分析」、物事の最小単位に分けていく作業であるといえるのではなかろうか。
(多分、真面目に取り組みたいなら、論理学とか学ぶとよいと思う)
ところで、こういった言葉を定義するということについて、僕は一時期面白くて結構やっていたけれども、ふと思ったことがあった。
その言葉そのものの定義について、実際に他者と、明確な共有は可能なのか、という疑念である。これは、同じものを、同じものだとして認識できるのか、という感覚であったのだけれども、「クオリア」という概念を知ったときに、「ああ、そうそう、そういうことを言いたかったんだよ」と思って、取りあえず自分の中では解決した。
(その解決というのは、「人は同じものを同じものだとして認識しているとは限らない。しかし、『教養』を学ぶことで、『同じ』として協調し作業することは可能となっている」というもの。この人間観というか、自然観というか、社会観が、果たして正しいかどうか、ポジティブなのかネガティブなのか、役に立つのか立たないのか、変えるべきなのかそのままでいいのか、――分からない。ただ、これは僕の言葉で言うところの、「実感レベル」の理解となっているため、今時点で問題になることはない)
小見出しの疑念として、ここで書いておきたかったこととしては、明確な言葉の定義は、時として、「実感」を離れて、「他者との共有」を離れていくことがある、ということだ。いや、ここで、頭の良い人とか、ロボット的な思考は、対象としていない。ごくごく一般的な、どちらかというと僕のようにアホに近い人の話しである。というのは、慇懃無礼な書き方だけれども、つまり、あんまり専門的になっていくと、どんどんよく分からなくなっていく、ということだ。
このことについて、いわゆる「できる」人は、すぐに、「努力不足」とか、「優生学」的な、そんな感情を覚える。がんばれば、何だってできる、と。「バカの壁」という本があって、あんまり好きではないのだけれど、一つその本で言いたいこととして、「理解可能性」についての言及については、僕は同意しているところである。もちろんここで、先日書こうとして、衝撃的体験故に完全に優先度が下がってしまった、「身体的限界性」「時間的限界性」「物理的限界性」の、三つの限界性を取り除けば、どんな人とでも共有し理解し合える可能性があると思う。しかしこれは、くだらない思考実験にすらならない、無駄な考えである。
ただ、最初の小見出しで書いたことについて、即ち、「厳密な定義の限界による不可能性」を、忘れてはならないと思う。
ところで、その、定義の必要性の提案のおかげで、そもそも僕は、「目的喪失」というキーワードの方が近いのではないか、と思ったわけだ。
その結果、色々グーグル先生と会話してみると、「ロゴセラピー」「ヴィクトール・エミール・フランクル」というキーワードに出会うことができた。
ロゴ、というのは、ギリシア語で、「意味」であり、意味を求める、見つけるための精神療法であるということだ。これについては、先日購入した書籍を一通り読んで見たいと思う。4000円もしたしな。いやはや分厚いな! サピエンス全史の下巻もまだ読めてないのだが……。
本を読んでいて、読み進めていくうちに、だんだんよく分からなくなってきた、という経験が、きっと誰しもあることだろう。
それは、どこかしら、徐々に、その書いてある言葉の意味を、取り違えている場合に発生するのである。何となく言っていることは分かる、というのは、実は、「言葉を追っているのではなく、自分の考えを追っているのである」。
ちなみに、常日頃、アウトプットとインプットが重要だ、と言っているが、インプットが十分でなければ、本は読めない。もっというと、人とも会話ができない。
そしてインプットとは、アウトプットと両面性がある。表裏一体とでもいえばよいか。アウトプットできない知識は、インプットできているとは言えない。そのアウトプットが、他者に伝えられるレベルかどうか、というのは重要ではない。それは、結局その相手、他者の理解可能性の問題が発生するからであり、「自分自身の言語」としてアウトプットできるのであれば、それは、インプットができている、といえる。故に、辞書とか、ネット検索とかで調べて、コピペで紡ぐ言葉に、僕は意味を見いだせない。
稚拙な表現だって良いじゃないか。かっこいい言葉を書けなくたっていいじゃないか。ブログを書けない、と、すぐに投げ出してしまう人は多いけれども、それは、「自身の言葉」が枯渇してしまったからだ。(つーか、コピペとか面白くねーじゃん、と僕は思うのだけど、まぁ、それでブログ収入とか、「お金」という動機がメインの人は、それはそれでいいのだろう。ただ思うに、そんな努力するなら、ふつーにバイトとかした方が実は、時間対効果は高いのだけれど)
ええと、上は、自分の言葉をインプットすることの重要性……みたいな内容になった。そうじゃなかった、「意味」とはなんじゃ? ということだ。
意味は、意味だよバカ野郎! と、上手く説明できん。
おー、何だかわかりやすい気がする。気がする、が、じゃあ、僕がこれまで使っていた「意味」という語は、1~4のどれなのだろう?
2……いや3かな? 存在の必要性や理由、ということだろうか。理由、としてしまうと、これまた抽象的な言葉遣いなので、「必要性」、必要性ね。ということは、生きる意味といったときに、それは主語として、「私の生きる意味」となるから、換言すれば、「私の生きる必要性」ということになる。
え! なんか違うくないか?!(かっこ笑い) という気持ちが起こる。しかし、明瞭に否定しようとすると、悩ましい。
ちょっとここから進める前に、では「生きる」とは何か。
これもまた、難しい。人はただ食べるために生きるにあらず、とか言ったとして、じゃあ、何だよ、と。むしろこれは、僕は、不要な定義部分に思う。というのは、その「意味」ということの希求なのであって、「生きる」という語自体は、その「結果」に過ぎないと思うのだ。
目的と結果が逆転しているように思うのだ。つまり、「意味」が明らかになることによって、それ自体が「生きる」ことの定義になるのだ、ということである。
(↑言ってること分かるだろうか? 明日の自分が理解してくれる気もあまりしない。ちなみにこれも蛇足で、これまで書いていなかったけれども、僕のブログが誠実なのは、そのすべてにおける言語表現において、僕は、僕自身として理解している語しか使っていない、ことである(ちょっと大げさである。文脈上の例外は許して頂きたい)。よく分からないことは、分からないそのままとして書いている、ということだ。できる限り、「実感言語」で書いている、ということだ。そして、大体他の方のブログなど読んでいると、「実感言語」なのか、そうではないのか、何となく読み取れる。そして、実感言語でない表現……反義語として、「コピペ」とすれば、どちらが面白いか面白くないかは、明白である。)
ので、「生きる」ことの定義は今は不要としよう。
違和感というよりも、むしろ、鋭敏な表現になったことによって、僕が恐れていることが少し浮き彫りになったのではないか。
つまり、この厖大な世界の中で、大勢の人の中で、複雑な社会や自然のなかで、僕一人という存在の「必要性」など、あろうはずがないのだという、その「実感」。
これが、最初に表現した、「目的喪失」ということになるのである。
と、言うことを、件の、ロゴセラピーというか、フランクルさんは問題視して、それについての解決策というか、療法をまとめてくださったということなのである。
2017年の目標として、思考の体系化を図る、としたわけだけれども、その具体的な方法としては、こうした何らかの専門書に準拠した形で、それについての「理解」に努め、同時にそれとの「距離感」(違和感)について、明確にしていく(定義する)作業を行う、ということである。
phrase=単語、句、言葉のまとまり
sentence=文、文法
定義とその伝わり方
この記事、多分面白くないだろう。ただ、今後の方策を固めていくうえで、基盤としての役割の一部は果たすだろうと思われる。LONGMANという英英辞典で、定義=definitionを引くと、
a phrase or sentence that says exactly what a word, phrase, or idea means .
ということである。
僕の英語力は乏しいが、「言葉や、単語や、概念を正確に言い表す、単語や文のこと」ということで大体あっているだろう。
日本語の辞書を引けば、
物事の意味・内容を他と区別できるように、言葉で明確に限定すること。
GOO辞書
ということである。なるほど「区別」ね。言及したいことと、そうでないことを、明確に分けること。そう定義とは、「分析」、物事の最小単位に分けていく作業であるといえるのではなかろうか。
(多分、真面目に取り組みたいなら、論理学とか学ぶとよいと思う)
ところで、こういった言葉を定義するということについて、僕は一時期面白くて結構やっていたけれども、ふと思ったことがあった。
その言葉そのものの定義について、実際に他者と、明確な共有は可能なのか、という疑念である。これは、同じものを、同じものだとして認識できるのか、という感覚であったのだけれども、「クオリア」という概念を知ったときに、「ああ、そうそう、そういうことを言いたかったんだよ」と思って、取りあえず自分の中では解決した。
(その解決というのは、「人は同じものを同じものだとして認識しているとは限らない。しかし、『教養』を学ぶことで、『同じ』として協調し作業することは可能となっている」というもの。この人間観というか、自然観というか、社会観が、果たして正しいかどうか、ポジティブなのかネガティブなのか、役に立つのか立たないのか、変えるべきなのかそのままでいいのか、――分からない。ただ、これは僕の言葉で言うところの、「実感レベル」の理解となっているため、今時点で問題になることはない)
小見出しの疑念として、ここで書いておきたかったこととしては、明確な言葉の定義は、時として、「実感」を離れて、「他者との共有」を離れていくことがある、ということだ。いや、ここで、頭の良い人とか、ロボット的な思考は、対象としていない。ごくごく一般的な、どちらかというと僕のようにアホに近い人の話しである。というのは、慇懃無礼な書き方だけれども、つまり、あんまり専門的になっていくと、どんどんよく分からなくなっていく、ということだ。
このことについて、いわゆる「できる」人は、すぐに、「努力不足」とか、「優生学」的な、そんな感情を覚える。がんばれば、何だってできる、と。「バカの壁」という本があって、あんまり好きではないのだけれど、一つその本で言いたいこととして、「理解可能性」についての言及については、僕は同意しているところである。もちろんここで、先日書こうとして、衝撃的体験故に完全に優先度が下がってしまった、「身体的限界性」「時間的限界性」「物理的限界性」の、三つの限界性を取り除けば、どんな人とでも共有し理解し合える可能性があると思う。しかしこれは、くだらない思考実験にすらならない、無駄な考えである。
ロゴセラピー
こんな文脈で書けば、「生きる意味を、まずは定義してはどうか?」という提案に対しての、否定のように思われる。そういうつもりではない。いやむしろ、どちらかというと、大好きな方だ(かっこ笑い)。ただ、最初の小見出しで書いたことについて、即ち、「厳密な定義の限界による不可能性」を、忘れてはならないと思う。
ところで、その、定義の必要性の提案のおかげで、そもそも僕は、「目的喪失」というキーワードの方が近いのではないか、と思ったわけだ。
その結果、色々グーグル先生と会話してみると、「ロゴセラピー」「ヴィクトール・エミール・フランクル」というキーワードに出会うことができた。
ロゴ、というのは、ギリシア語で、「意味」であり、意味を求める、見つけるための精神療法であるということだ。これについては、先日購入した書籍を一通り読んで見たいと思う。4000円もしたしな。いやはや分厚いな! サピエンス全史の下巻もまだ読めてないのだが……。
生きる意味の定義
そもそも、「意味」とはなんじゃい? ということになる。本を読んでいて、読み進めていくうちに、だんだんよく分からなくなってきた、という経験が、きっと誰しもあることだろう。
それは、どこかしら、徐々に、その書いてある言葉の意味を、取り違えている場合に発生するのである。何となく言っていることは分かる、というのは、実は、「言葉を追っているのではなく、自分の考えを追っているのである」。
ちなみに、常日頃、アウトプットとインプットが重要だ、と言っているが、インプットが十分でなければ、本は読めない。もっというと、人とも会話ができない。
そしてインプットとは、アウトプットと両面性がある。表裏一体とでもいえばよいか。アウトプットできない知識は、インプットできているとは言えない。そのアウトプットが、他者に伝えられるレベルかどうか、というのは重要ではない。それは、結局その相手、他者の理解可能性の問題が発生するからであり、「自分自身の言語」としてアウトプットできるのであれば、それは、インプットができている、といえる。故に、辞書とか、ネット検索とかで調べて、コピペで紡ぐ言葉に、僕は意味を見いだせない。
稚拙な表現だって良いじゃないか。かっこいい言葉を書けなくたっていいじゃないか。ブログを書けない、と、すぐに投げ出してしまう人は多いけれども、それは、「自身の言葉」が枯渇してしまったからだ。(つーか、コピペとか面白くねーじゃん、と僕は思うのだけど、まぁ、それでブログ収入とか、「お金」という動機がメインの人は、それはそれでいいのだろう。ただ思うに、そんな努力するなら、ふつーにバイトとかした方が実は、時間対効果は高いのだけれど)
ええと、上は、自分の言葉をインプットすることの重要性……みたいな内容になった。そうじゃなかった、「意味」とはなんじゃ? ということだ。
意味は、意味だよバカ野郎! と、上手く説明できん。
WIKIさんより。意味(いみ)とは、次のような概念である。
- 言葉(単語・用語など)が持っている概念のこと。例えば、「雨」は、音声としては「ア」と「メ」が組み合わさっただけのものであるが、そこには「空から水滴が落ちてくる現象」「空から落ちてくる水滴自体」というような意味が備わっている。
- ある行動や発言が持つ必要性、もしくはそれが行われた理由のこと。
- ある物(物体やシステムなど)が存在する必要性や理由のこと。
- 意味論が対象とするものである「意味」
意味に関しては、多くの研究において問題とされ、例えば、次のような問いがみられる。
おー、何だかわかりやすい気がする。気がする、が、じゃあ、僕がこれまで使っていた「意味」という語は、1~4のどれなのだろう?
2……いや3かな? 存在の必要性や理由、ということだろうか。理由、としてしまうと、これまた抽象的な言葉遣いなので、「必要性」、必要性ね。ということは、生きる意味といったときに、それは主語として、「私の生きる意味」となるから、換言すれば、「私の生きる必要性」ということになる。
え! なんか違うくないか?!(かっこ笑い) という気持ちが起こる。しかし、明瞭に否定しようとすると、悩ましい。
ちょっとここから進める前に、では「生きる」とは何か。
生きることの定義
そもそも、「生きる」とは何じゃい? 生命維持活動だ。これもまた、難しい。人はただ食べるために生きるにあらず、とか言ったとして、じゃあ、何だよ、と。むしろこれは、僕は、不要な定義部分に思う。というのは、その「意味」ということの希求なのであって、「生きる」という語自体は、その「結果」に過ぎないと思うのだ。
目的と結果が逆転しているように思うのだ。つまり、「意味」が明らかになることによって、それ自体が「生きる」ことの定義になるのだ、ということである。
(↑言ってること分かるだろうか? 明日の自分が理解してくれる気もあまりしない。ちなみにこれも蛇足で、これまで書いていなかったけれども、僕のブログが誠実なのは、そのすべてにおける言語表現において、僕は、僕自身として理解している語しか使っていない、ことである(ちょっと大げさである。文脈上の例外は許して頂きたい)。よく分からないことは、分からないそのままとして書いている、ということだ。できる限り、「実感言語」で書いている、ということだ。そして、大体他の方のブログなど読んでいると、「実感言語」なのか、そうではないのか、何となく読み取れる。そして、実感言語でない表現……反義語として、「コピペ」とすれば、どちらが面白いか面白くないかは、明白である。)
ので、「生きる」ことの定義は今は不要としよう。
意味とは何か
話が戻って、生きる「意味」を、「僕の」生きる「必要性」としたとき、それについての違和感は一体何なのか?違和感というよりも、むしろ、鋭敏な表現になったことによって、僕が恐れていることが少し浮き彫りになったのではないか。
つまり、この厖大な世界の中で、大勢の人の中で、複雑な社会や自然のなかで、僕一人という存在の「必要性」など、あろうはずがないのだという、その「実感」。
これが、最初に表現した、「目的喪失」ということになるのである。
と、言うことを、件の、ロゴセラピーというか、フランクルさんは問題視して、それについての解決策というか、療法をまとめてくださったということなのである。
2017年の目標として、思考の体系化を図る、としたわけだけれども、その具体的な方法としては、こうした何らかの専門書に準拠した形で、それについての「理解」に努め、同時にそれとの「距離感」(違和感)について、明確にしていく(定義する)作業を行う、ということである。
phrase=単語、句、言葉のまとまり
sentence=文、文法
今日の一言「今週はほぼ24時帰りばかりで書く時間が取れないよ!」「寝てない(忙しい)自慢乙」
ただ、感動そのものの保持、ではなく、感動したというその事実と、それにまつわる状況の書留は、これは非常に有効である。若いうちは、がむしゃらに経験を重ねることも重要だ。しかし、いい歳した大人になってくると、経験できる時間もリソース(体力的、精神的な)も限られてくる。脳科学的にも、思考とは、繰り返し同じことを考え続けることで、感動、価値観や信念といった強固なものが生み出されるという。その意味において、ブログとか、書く、という行為は、非常に有用であるのだ。
「人生で一生覚えているだろう、衝撃的な体験。快哉!
ああ、素晴らしい。やられた。この、自分自身について、完全なる言語表現をされること! この感覚を、僕はずっと待ち望んでいたのかもしれない。これが、僕が求め続けて、えられなかった、希っていた感覚なのか。
思考すること自体を止められない。それは、大衆に埋没することへの恐怖。自分自身失うのではという恐怖。
一方で、協調しなければいけないという、常識への憧れ。
この二つに引き裂かれながら、目標を定めては行動し、解決してはまた悩み、それを繰り返している。
まさにそのとおり。
この、自分自身をずっと追い求める心性をなんというか?
青い鳥症候群という。
青い鳥症候群は、本当の自分はこれじゃないと、あちらこちら自分勝手に生きて、自立できないひとのことである。
高校時代ぐらいからずっとそうだ。
ずっと、自分は何か、なりたいものは? やりたいことは? 夢は?
ずっと考えていた。でもわからなかった。とりあえず勉強した。大学にいった。よくわからなかった。とりあえず楽しんだ。よくわからない、就職しよう。した。でもやっぱり分からなかった。
ここで、本気で考えてないとか、本気で取り組んでないとか、そんな批判は、あまり意味がない。その時点で僕は、僕レベルの次元では本気だった。
感情もコントロールしていた。青い鳥症候群のけいこうもわかっていたから、協調性を大事にしたし、答えを出さずにずっと甘えてばかりいるというのも、やめた。独り暮らしして、生活した。仕事してお金を稼いだ。
結局、それらの方法では、僕の、生きる意味は、見つからなかったのだ。
僕は、考え続け、悩み続けることを目的としているという。
そうなんだろう。
なるほどねぇ」
最初のコメントを読んだ時点で、「生きる意味の定義かぁ……」と、ずーっと一日考えていて、「そうだなぁ、『ぶれない価値観』とかかなぁ」とか思っていたら、話しが飛躍して仰天途端に昂揚した。(当ブログに頂いたコメントもそうだけれども、僕のあるブログコメントへの返信として、いやー遠藤さんが読んでくれるってのも意味ありますわ~と頂いたのも同時期で、ああ何と嬉しいのだろうと思った)
これはまさに、僕が最近(というかこれまでも)ずっと書き続けてきた内容の、正確な描写であると思う。
一方で、しばらく時間が経って、コメントなどを、二回、三回と音読(ルーチンの音読に組み入れるほど頂いたコメントが気に入った)しているうちに、「違う点」も見えてきた。
これは、またいつもの「逃げ」な思考ではあるが、「ある次元」においては、正確でありながら、一つ足りない部分があるのである。それは、「考えること自体を意味にすること」自体が、それで「思考停止」にならざるえない状況をつくれるとは、思えない、という点だ。分かりにくいな! これは、今後、2017年ぐらいの長期目標で分解していけたらよいと思うが、簡単に、簡単に書こうと頑張ってみれば、
考えること自体が目的
なのではなく、やはり、「幸せ」「涅槃」「充足」とかいった、そんな状態を目指しているのである。(究極にポジティブ思考でしかありえないのだ、的な表現をしている時が、その際の感覚)
思考停止、というと、否定的な意味に思ってしまうが、僕は否定語も肯定語も、その本質的な意味を捉えようと頭が動いてしまう(というのは、例えば「今日は仕事がまぁまぁ上手くいった! よかった!」という感覚になったと、ほぼ同時に、瞬間的に、「ダメだった点」「もっと頑張れた点」などが想起されるのである。これをストイックという肯定的な語で表現すれば、頑張り屋さんだね、みたいに言ってもいいだろうが、僕自身は、この思考傾向が、単にアホ(病的)なだけだと思ってしまう)。しかし、僕が求めているのは、まさにその、「思考停止」状態なのだ。思考停止を換言してみれば、只管打座とか言っていい。あるでもなく、ないでもなく、ただあるがままを、「空(くう)」なりと見詰める、と言ってもいい。
つまり、「幸せとは~」と探し求めて、ボロボロになって、失意の中で家にかえってみたら、あれ、うちのなかに幸せおったやん! というたとえ話であり、僕はまさにその旅路の中にいるのではないか、と思ったのだ。
ただこの状態については、2008年初期ぐらいの記事を読んで見れば、まさに、同じようなことを書いていて、「いやぁ、まぁ何かいろいろあるけれど、今がとっても幸せだなぁ」としみじみ書いているのである。
あれは、きっと……いや、間違いなく、あの頃はあのころで、本気でそう思っていたのだ。「幸せ」、であったのだ。それは決して、すべての問題が解決し、悟りを開いたとか、そういうわけではなかった。ただ、人生というもの、そのものが明るく、前向きにとらえられ、将来起こるであろういかなる不安についても、どうにかなる、達成できるという強い思い、生きがいに満ち溢れていた状態であったのである。
僕は、その境地に戻ることが、恐らくできる。ただ一方で、もうきっと、できない、のである。物足りなくなっているのだ、きっと。もっと深いところまで、入り込んでいきたいと思っているのだ、きっと。
科学者は思考に答えをもとめる。哲学者は思考に答えをもとめない。
結論を出そうとするか、そうではないかという考えというか、話し、なるほどなぁと感動したものである。
今まさに、「凡人(一般大衆に溶け込もうとすること)への憧れ」と、「超人(既存の枠組みに取り入れられてしまって自己を失うことへの恐怖)」について、僕は両面の思いを抱き、双方に引き裂かれそうになっているのであるが、しかしその綱引きについて、僕は、いつまでも引っ張り合っていてもらおうとは思っていないのである。
それが例え、過去の自分を否定することになろうとも、その人生の終わりの際に、ああ、実り多き人生だったと、「実感レベル」で感じていきたい。
しかし同時に、傲岸不遜で強欲であるが、「終わりよければすべてよし」的な思考も大否定したい。その、目的へのプロセス、道筋、道すがらすべて、その目的自体であることを望んでやまない。
……あおぉう、時間切れ、うーむ、上の記述は、コメント頂いたことへの反論にうつるだろうか? むしろ僕の感動の表現になるはずなのだが、上手く言っているとは思えない。この難しさがまた、逆に面白いと、楽しいと、本気で思ったのであるが……そうやって書くと、やっぱりその書くこと、考えること、思考すること、目的を求めることそれ自体を目的としようとしている、としか思えない表現なのだけれども、何だか、ちょっと違うんだよなぁ。
うん、それはまぁともかく、今年の目標はかなり明確になってきた。やっぱり、本気で部屋の片づけ(整理整頓)と、思考の体系化だな。なんか、久しぶりに本気になれそうな気がする。これはもう、本当にあの素晴らしきお三方の賜物でござる。素晴らしい、人間素晴らしい。(という本気の感覚と同時に、瞬時に、「あーってことは、やっぱり普段思っている、『ありがとうございます!』的な俺の気持ちってのは、『社交辞令』的なレベルなんだなぁ。冷たい人間だなぁ」とか浮かぶのである。Aという事象に対して、A´もしくは、Aの反対が浮かぶというのは、決して、Aという事柄が「嘘」というわけではないのだけれども、「気持ち悪いなサイコ野郎!」と言われるというのは、まぁこれは仕方がないのかもしれない。でも嘘じゃないんだ、ああ、本気なんだ、でも誰も分かってくれない! ああ、もう人間なんて!(かっこわらい))
これまたすごい記事だ。
すごすぎて、こんな、名も無き人の記事がすごすぎて、
逆にこういったことが、僕の考える「問題」のまさにその原因なのだけど、
ただ、その問題(もう時間オーバーだ! でも、簡単にメモしとくとだな、その、価値の選択(意味)がものすごく沢山になってしまったため、それが逆に選べなくなっていることが、反転した目的喪失の原因なのだということ)について、まさに自己言及的に記述されていて、もうまいっちまったぜ!
というわけで(いや、この接続詞もおかしい)、何か批判の対象ではあるんだけど、
ヴィクトール・エミール・フランクルさんのロゴセラピーの本をアマゾンで購入。4500円ぐらいした。すげー衝動買いだ。精神が昂っている時は、お金の使い方に気を付けましょう(何の話だ……もうほんと時間切れ)。


衝撃的体験から時間が過ぎ
15分ぐらいしか時間が取れなそうだ。しかし、そろそろ、メモでも何でも書いておかないと、せっかくの感動的、衝撃的体験がどんどん失われていく。いやまぁ、書いたところで、その瞬間的な感動は、残しておくすべは殆どないのだけれども。ただ、感動そのものの保持、ではなく、感動したというその事実と、それにまつわる状況の書留は、これは非常に有効である。若いうちは、がむしゃらに経験を重ねることも重要だ。しかし、いい歳した大人になってくると、経験できる時間もリソース(体力的、精神的な)も限られてくる。脳科学的にも、思考とは、繰り返し同じことを考え続けることで、感動、価値観や信念といった強固なものが生み出されるという。その意味において、ブログとか、書く、という行為は、非常に有用であるのだ。
他者が描く自己の表現の貴重さ
メモ、メモ。スマホのメモ帳に殴り書きした一部。「人生で一生覚えているだろう、衝撃的な体験。快哉!
ああ、素晴らしい。やられた。この、自分自身について、完全なる言語表現をされること! この感覚を、僕はずっと待ち望んでいたのかもしれない。これが、僕が求め続けて、えられなかった、希っていた感覚なのか。
思考すること自体を止められない。それは、大衆に埋没することへの恐怖。自分自身失うのではという恐怖。
一方で、協調しなければいけないという、常識への憧れ。
この二つに引き裂かれながら、目標を定めては行動し、解決してはまた悩み、それを繰り返している。
まさにそのとおり。
この、自分自身をずっと追い求める心性をなんというか?
青い鳥症候群という。
青い鳥症候群は、本当の自分はこれじゃないと、あちらこちら自分勝手に生きて、自立できないひとのことである。
高校時代ぐらいからずっとそうだ。
ずっと、自分は何か、なりたいものは? やりたいことは? 夢は?
ずっと考えていた。でもわからなかった。とりあえず勉強した。大学にいった。よくわからなかった。とりあえず楽しんだ。よくわからない、就職しよう。した。でもやっぱり分からなかった。
ここで、本気で考えてないとか、本気で取り組んでないとか、そんな批判は、あまり意味がない。その時点で僕は、僕レベルの次元では本気だった。
感情もコントロールしていた。青い鳥症候群のけいこうもわかっていたから、協調性を大事にしたし、答えを出さずにずっと甘えてばかりいるというのも、やめた。独り暮らしして、生活した。仕事してお金を稼いだ。
結局、それらの方法では、僕の、生きる意味は、見つからなかったのだ。
僕は、考え続け、悩み続けることを目的としているという。
そうなんだろう。
なるほどねぇ」
最初のコメントを読んだ時点で、「生きる意味の定義かぁ……」と、ずーっと一日考えていて、「そうだなぁ、『ぶれない価値観』とかかなぁ」とか思っていたら、話しが飛躍して仰天途端に昂揚した。(当ブログに頂いたコメントもそうだけれども、僕のあるブログコメントへの返信として、いやー遠藤さんが読んでくれるってのも意味ありますわ~と頂いたのも同時期で、ああ何と嬉しいのだろうと思った)
生きる意味の追求が自己目的化している
「遠藤くんは、考えることそれ自体を生きる意味にしたいんだろうね」これはまさに、僕が最近(というかこれまでも)ずっと書き続けてきた内容の、正確な描写であると思う。
一方で、しばらく時間が経って、コメントなどを、二回、三回と音読(ルーチンの音読に組み入れるほど頂いたコメントが気に入った)しているうちに、「違う点」も見えてきた。
これは、またいつもの「逃げ」な思考ではあるが、「ある次元」においては、正確でありながら、一つ足りない部分があるのである。それは、「考えること自体を意味にすること」自体が、それで「思考停止」にならざるえない状況をつくれるとは、思えない、という点だ。分かりにくいな! これは、今後、2017年ぐらいの長期目標で分解していけたらよいと思うが、簡単に、簡単に書こうと頑張ってみれば、
考えること自体が目的
なのではなく、やはり、「幸せ」「涅槃」「充足」とかいった、そんな状態を目指しているのである。(究極にポジティブ思考でしかありえないのだ、的な表現をしている時が、その際の感覚)
思考停止、というと、否定的な意味に思ってしまうが、僕は否定語も肯定語も、その本質的な意味を捉えようと頭が動いてしまう(というのは、例えば「今日は仕事がまぁまぁ上手くいった! よかった!」という感覚になったと、ほぼ同時に、瞬間的に、「ダメだった点」「もっと頑張れた点」などが想起されるのである。これをストイックという肯定的な語で表現すれば、頑張り屋さんだね、みたいに言ってもいいだろうが、僕自身は、この思考傾向が、単にアホ(病的)なだけだと思ってしまう)。しかし、僕が求めているのは、まさにその、「思考停止」状態なのだ。思考停止を換言してみれば、只管打座とか言っていい。あるでもなく、ないでもなく、ただあるがままを、「空(くう)」なりと見詰める、と言ってもいい。
目的志向と生きる意味
上のメモにおいて、「青い鳥症候群」という表現が浮かんだことが読み取れる。つまり、「幸せとは~」と探し求めて、ボロボロになって、失意の中で家にかえってみたら、あれ、うちのなかに幸せおったやん! というたとえ話であり、僕はまさにその旅路の中にいるのではないか、と思ったのだ。
ただこの状態については、2008年初期ぐらいの記事を読んで見れば、まさに、同じようなことを書いていて、「いやぁ、まぁ何かいろいろあるけれど、今がとっても幸せだなぁ」としみじみ書いているのである。
あれは、きっと……いや、間違いなく、あの頃はあのころで、本気でそう思っていたのだ。「幸せ」、であったのだ。それは決して、すべての問題が解決し、悟りを開いたとか、そういうわけではなかった。ただ、人生というもの、そのものが明るく、前向きにとらえられ、将来起こるであろういかなる不安についても、どうにかなる、達成できるという強い思い、生きがいに満ち溢れていた状態であったのである。
僕は、その境地に戻ることが、恐らくできる。ただ一方で、もうきっと、できない、のである。物足りなくなっているのだ、きっと。もっと深いところまで、入り込んでいきたいと思っているのだ、きっと。
科学者は思考に答えをもとめる。哲学者は思考に答えをもとめない。
結論を出そうとするか、そうではないかという考えというか、話し、なるほどなぁと感動したものである。
今まさに、「凡人(一般大衆に溶け込もうとすること)への憧れ」と、「超人(既存の枠組みに取り入れられてしまって自己を失うことへの恐怖)」について、僕は両面の思いを抱き、双方に引き裂かれそうになっているのであるが、しかしその綱引きについて、僕は、いつまでも引っ張り合っていてもらおうとは思っていないのである。
答えが欲しい、けど足りない
俺は、まさに、これである、と、自信をもって言いたい。それが例え、過去の自分を否定することになろうとも、その人生の終わりの際に、ああ、実り多き人生だったと、「実感レベル」で感じていきたい。
しかし同時に、傲岸不遜で強欲であるが、「終わりよければすべてよし」的な思考も大否定したい。その、目的へのプロセス、道筋、道すがらすべて、その目的自体であることを望んでやまない。
……あおぉう、時間切れ、うーむ、上の記述は、コメント頂いたことへの反論にうつるだろうか? むしろ僕の感動の表現になるはずなのだが、上手く言っているとは思えない。この難しさがまた、逆に面白いと、楽しいと、本気で思ったのであるが……そうやって書くと、やっぱりその書くこと、考えること、思考すること、目的を求めることそれ自体を目的としようとしている、としか思えない表現なのだけれども、何だか、ちょっと違うんだよなぁ。
うん、それはまぁともかく、今年の目標はかなり明確になってきた。やっぱり、本気で部屋の片づけ(整理整頓)と、思考の体系化だな。なんか、久しぶりに本気になれそうな気がする。これはもう、本当にあの素晴らしきお三方の賜物でござる。素晴らしい、人間素晴らしい。(という本気の感覚と同時に、瞬時に、「あーってことは、やっぱり普段思っている、『ありがとうございます!』的な俺の気持ちってのは、『社交辞令』的なレベルなんだなぁ。冷たい人間だなぁ」とか浮かぶのである。Aという事象に対して、A´もしくは、Aの反対が浮かぶというのは、決して、Aという事柄が「嘘」というわけではないのだけれども、「気持ち悪いなサイコ野郎!」と言われるというのは、まぁこれは仕方がないのかもしれない。でも嘘じゃないんだ、ああ、本気なんだ、でも誰も分かってくれない! ああ、もう人間なんて!(かっこわらい))
ロゴセラピー
ちょうど、そんなこんなで電車の中で考えていたら、こんな記事を見つけた。「人生」に「意味」を求めることのリスク。ヴィクトール・エミール・フランクルの「ロゴセラピー(実存療法)」の副作用。
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n16560これまたすごい記事だ。
すごすぎて、こんな、名も無き人の記事がすごすぎて、
逆にこういったことが、僕の考える「問題」のまさにその原因なのだけど、
ただ、その問題(もう時間オーバーだ! でも、簡単にメモしとくとだな、その、価値の選択(意味)がものすごく沢山になってしまったため、それが逆に選べなくなっていることが、反転した目的喪失の原因なのだということ)について、まさに自己言及的に記述されていて、もうまいっちまったぜ!
というわけで(いや、この接続詞もおかしい)、何か批判の対象ではあるんだけど、
ヴィクトール・エミール・フランクルさんのロゴセラピーの本をアマゾンで購入。4500円ぐらいした。すげー衝動買いだ。精神が昂っている時は、お金の使い方に気を付けましょう(何の話だ……もうほんと時間切れ)。
