今日の一言「何を書こうか漠然としたまま書き進める」「面白い記事になるかは博打だね」
LONGMANという英英辞典で、定義=definitionを引くと、
a phrase or sentence that says exactly what a word, phrase, or idea means .
ということである。
僕の英語力は乏しいが、「言葉や、単語や、概念を正確に言い表す、単語や文のこと」ということで大体あっているだろう。
日本語の辞書を引けば、
物事の意味・内容を他と区別できるように、言葉で明確に限定すること。
GOO辞書
ということである。なるほど「区別」ね。言及したいことと、そうでないことを、明確に分けること。そう定義とは、「分析」、物事の最小単位に分けていく作業であるといえるのではなかろうか。
(多分、真面目に取り組みたいなら、論理学とか学ぶとよいと思う)
ところで、こういった言葉を定義するということについて、僕は一時期面白くて結構やっていたけれども、ふと思ったことがあった。
その言葉そのものの定義について、実際に他者と、明確な共有は可能なのか、という疑念である。これは、同じものを、同じものだとして認識できるのか、という感覚であったのだけれども、「クオリア」という概念を知ったときに、「ああ、そうそう、そういうことを言いたかったんだよ」と思って、取りあえず自分の中では解決した。
(その解決というのは、「人は同じものを同じものだとして認識しているとは限らない。しかし、『教養』を学ぶことで、『同じ』として協調し作業することは可能となっている」というもの。この人間観というか、自然観というか、社会観が、果たして正しいかどうか、ポジティブなのかネガティブなのか、役に立つのか立たないのか、変えるべきなのかそのままでいいのか、――分からない。ただ、これは僕の言葉で言うところの、「実感レベル」の理解となっているため、今時点で問題になることはない)
小見出しの疑念として、ここで書いておきたかったこととしては、明確な言葉の定義は、時として、「実感」を離れて、「他者との共有」を離れていくことがある、ということだ。いや、ここで、頭の良い人とか、ロボット的な思考は、対象としていない。ごくごく一般的な、どちらかというと僕のようにアホに近い人の話しである。というのは、慇懃無礼な書き方だけれども、つまり、あんまり専門的になっていくと、どんどんよく分からなくなっていく、ということだ。
このことについて、いわゆる「できる」人は、すぐに、「努力不足」とか、「優生学」的な、そんな感情を覚える。がんばれば、何だってできる、と。「バカの壁」という本があって、あんまり好きではないのだけれど、一つその本で言いたいこととして、「理解可能性」についての言及については、僕は同意しているところである。もちろんここで、先日書こうとして、衝撃的体験故に完全に優先度が下がってしまった、「身体的限界性」「時間的限界性」「物理的限界性」の、三つの限界性を取り除けば、どんな人とでも共有し理解し合える可能性があると思う。しかしこれは、くだらない思考実験にすらならない、無駄な考えである。
ただ、最初の小見出しで書いたことについて、即ち、「厳密な定義の限界による不可能性」を、忘れてはならないと思う。
ところで、その、定義の必要性の提案のおかげで、そもそも僕は、「目的喪失」というキーワードの方が近いのではないか、と思ったわけだ。
その結果、色々グーグル先生と会話してみると、「ロゴセラピー」「ヴィクトール・エミール・フランクル」というキーワードに出会うことができた。
ロゴ、というのは、ギリシア語で、「意味」であり、意味を求める、見つけるための精神療法であるということだ。これについては、先日購入した書籍を一通り読んで見たいと思う。4000円もしたしな。いやはや分厚いな! サピエンス全史の下巻もまだ読めてないのだが……。
本を読んでいて、読み進めていくうちに、だんだんよく分からなくなってきた、という経験が、きっと誰しもあることだろう。
それは、どこかしら、徐々に、その書いてある言葉の意味を、取り違えている場合に発生するのである。何となく言っていることは分かる、というのは、実は、「言葉を追っているのではなく、自分の考えを追っているのである」。
ちなみに、常日頃、アウトプットとインプットが重要だ、と言っているが、インプットが十分でなければ、本は読めない。もっというと、人とも会話ができない。
そしてインプットとは、アウトプットと両面性がある。表裏一体とでもいえばよいか。アウトプットできない知識は、インプットできているとは言えない。そのアウトプットが、他者に伝えられるレベルかどうか、というのは重要ではない。それは、結局その相手、他者の理解可能性の問題が発生するからであり、「自分自身の言語」としてアウトプットできるのであれば、それは、インプットができている、といえる。故に、辞書とか、ネット検索とかで調べて、コピペで紡ぐ言葉に、僕は意味を見いだせない。
稚拙な表現だって良いじゃないか。かっこいい言葉を書けなくたっていいじゃないか。ブログを書けない、と、すぐに投げ出してしまう人は多いけれども、それは、「自身の言葉」が枯渇してしまったからだ。(つーか、コピペとか面白くねーじゃん、と僕は思うのだけど、まぁ、それでブログ収入とか、「お金」という動機がメインの人は、それはそれでいいのだろう。ただ思うに、そんな努力するなら、ふつーにバイトとかした方が実は、時間対効果は高いのだけれど)
ええと、上は、自分の言葉をインプットすることの重要性……みたいな内容になった。そうじゃなかった、「意味」とはなんじゃ? ということだ。
意味は、意味だよバカ野郎! と、上手く説明できん。
おー、何だかわかりやすい気がする。気がする、が、じゃあ、僕がこれまで使っていた「意味」という語は、1~4のどれなのだろう?
2……いや3かな? 存在の必要性や理由、ということだろうか。理由、としてしまうと、これまた抽象的な言葉遣いなので、「必要性」、必要性ね。ということは、生きる意味といったときに、それは主語として、「私の生きる意味」となるから、換言すれば、「私の生きる必要性」ということになる。
え! なんか違うくないか?!(かっこ笑い) という気持ちが起こる。しかし、明瞭に否定しようとすると、悩ましい。
ちょっとここから進める前に、では「生きる」とは何か。
これもまた、難しい。人はただ食べるために生きるにあらず、とか言ったとして、じゃあ、何だよ、と。むしろこれは、僕は、不要な定義部分に思う。というのは、その「意味」ということの希求なのであって、「生きる」という語自体は、その「結果」に過ぎないと思うのだ。
目的と結果が逆転しているように思うのだ。つまり、「意味」が明らかになることによって、それ自体が「生きる」ことの定義になるのだ、ということである。
(↑言ってること分かるだろうか? 明日の自分が理解してくれる気もあまりしない。ちなみにこれも蛇足で、これまで書いていなかったけれども、僕のブログが誠実なのは、そのすべてにおける言語表現において、僕は、僕自身として理解している語しか使っていない、ことである(ちょっと大げさである。文脈上の例外は許して頂きたい)。よく分からないことは、分からないそのままとして書いている、ということだ。できる限り、「実感言語」で書いている、ということだ。そして、大体他の方のブログなど読んでいると、「実感言語」なのか、そうではないのか、何となく読み取れる。そして、実感言語でない表現……反義語として、「コピペ」とすれば、どちらが面白いか面白くないかは、明白である。)
ので、「生きる」ことの定義は今は不要としよう。
違和感というよりも、むしろ、鋭敏な表現になったことによって、僕が恐れていることが少し浮き彫りになったのではないか。
つまり、この厖大な世界の中で、大勢の人の中で、複雑な社会や自然のなかで、僕一人という存在の「必要性」など、あろうはずがないのだという、その「実感」。
これが、最初に表現した、「目的喪失」ということになるのである。
と、言うことを、件の、ロゴセラピーというか、フランクルさんは問題視して、それについての解決策というか、療法をまとめてくださったということなのである。
2017年の目標として、思考の体系化を図る、としたわけだけれども、その具体的な方法としては、こうした何らかの専門書に準拠した形で、それについての「理解」に努め、同時にそれとの「距離感」(違和感)について、明確にしていく(定義する)作業を行う、ということである。
phrase=単語、句、言葉のまとまり
sentence=文、文法
定義とその伝わり方
この記事、多分面白くないだろう。ただ、今後の方策を固めていくうえで、基盤としての役割の一部は果たすだろうと思われる。LONGMANという英英辞典で、定義=definitionを引くと、
a phrase or sentence that says exactly what a word, phrase, or idea means .
ということである。
僕の英語力は乏しいが、「言葉や、単語や、概念を正確に言い表す、単語や文のこと」ということで大体あっているだろう。
日本語の辞書を引けば、
物事の意味・内容を他と区別できるように、言葉で明確に限定すること。
GOO辞書
ということである。なるほど「区別」ね。言及したいことと、そうでないことを、明確に分けること。そう定義とは、「分析」、物事の最小単位に分けていく作業であるといえるのではなかろうか。
(多分、真面目に取り組みたいなら、論理学とか学ぶとよいと思う)
ところで、こういった言葉を定義するということについて、僕は一時期面白くて結構やっていたけれども、ふと思ったことがあった。
その言葉そのものの定義について、実際に他者と、明確な共有は可能なのか、という疑念である。これは、同じものを、同じものだとして認識できるのか、という感覚であったのだけれども、「クオリア」という概念を知ったときに、「ああ、そうそう、そういうことを言いたかったんだよ」と思って、取りあえず自分の中では解決した。
(その解決というのは、「人は同じものを同じものだとして認識しているとは限らない。しかし、『教養』を学ぶことで、『同じ』として協調し作業することは可能となっている」というもの。この人間観というか、自然観というか、社会観が、果たして正しいかどうか、ポジティブなのかネガティブなのか、役に立つのか立たないのか、変えるべきなのかそのままでいいのか、――分からない。ただ、これは僕の言葉で言うところの、「実感レベル」の理解となっているため、今時点で問題になることはない)
小見出しの疑念として、ここで書いておきたかったこととしては、明確な言葉の定義は、時として、「実感」を離れて、「他者との共有」を離れていくことがある、ということだ。いや、ここで、頭の良い人とか、ロボット的な思考は、対象としていない。ごくごく一般的な、どちらかというと僕のようにアホに近い人の話しである。というのは、慇懃無礼な書き方だけれども、つまり、あんまり専門的になっていくと、どんどんよく分からなくなっていく、ということだ。
このことについて、いわゆる「できる」人は、すぐに、「努力不足」とか、「優生学」的な、そんな感情を覚える。がんばれば、何だってできる、と。「バカの壁」という本があって、あんまり好きではないのだけれど、一つその本で言いたいこととして、「理解可能性」についての言及については、僕は同意しているところである。もちろんここで、先日書こうとして、衝撃的体験故に完全に優先度が下がってしまった、「身体的限界性」「時間的限界性」「物理的限界性」の、三つの限界性を取り除けば、どんな人とでも共有し理解し合える可能性があると思う。しかしこれは、くだらない思考実験にすらならない、無駄な考えである。
ロゴセラピー
こんな文脈で書けば、「生きる意味を、まずは定義してはどうか?」という提案に対しての、否定のように思われる。そういうつもりではない。いやむしろ、どちらかというと、大好きな方だ(かっこ笑い)。ただ、最初の小見出しで書いたことについて、即ち、「厳密な定義の限界による不可能性」を、忘れてはならないと思う。
ところで、その、定義の必要性の提案のおかげで、そもそも僕は、「目的喪失」というキーワードの方が近いのではないか、と思ったわけだ。
その結果、色々グーグル先生と会話してみると、「ロゴセラピー」「ヴィクトール・エミール・フランクル」というキーワードに出会うことができた。
ロゴ、というのは、ギリシア語で、「意味」であり、意味を求める、見つけるための精神療法であるということだ。これについては、先日購入した書籍を一通り読んで見たいと思う。4000円もしたしな。いやはや分厚いな! サピエンス全史の下巻もまだ読めてないのだが……。
生きる意味の定義
そもそも、「意味」とはなんじゃい? ということになる。本を読んでいて、読み進めていくうちに、だんだんよく分からなくなってきた、という経験が、きっと誰しもあることだろう。
それは、どこかしら、徐々に、その書いてある言葉の意味を、取り違えている場合に発生するのである。何となく言っていることは分かる、というのは、実は、「言葉を追っているのではなく、自分の考えを追っているのである」。
ちなみに、常日頃、アウトプットとインプットが重要だ、と言っているが、インプットが十分でなければ、本は読めない。もっというと、人とも会話ができない。
そしてインプットとは、アウトプットと両面性がある。表裏一体とでもいえばよいか。アウトプットできない知識は、インプットできているとは言えない。そのアウトプットが、他者に伝えられるレベルかどうか、というのは重要ではない。それは、結局その相手、他者の理解可能性の問題が発生するからであり、「自分自身の言語」としてアウトプットできるのであれば、それは、インプットができている、といえる。故に、辞書とか、ネット検索とかで調べて、コピペで紡ぐ言葉に、僕は意味を見いだせない。
稚拙な表現だって良いじゃないか。かっこいい言葉を書けなくたっていいじゃないか。ブログを書けない、と、すぐに投げ出してしまう人は多いけれども、それは、「自身の言葉」が枯渇してしまったからだ。(つーか、コピペとか面白くねーじゃん、と僕は思うのだけど、まぁ、それでブログ収入とか、「お金」という動機がメインの人は、それはそれでいいのだろう。ただ思うに、そんな努力するなら、ふつーにバイトとかした方が実は、時間対効果は高いのだけれど)
ええと、上は、自分の言葉をインプットすることの重要性……みたいな内容になった。そうじゃなかった、「意味」とはなんじゃ? ということだ。
意味は、意味だよバカ野郎! と、上手く説明できん。
WIKIさんより。意味(いみ)とは、次のような概念である。
- 言葉(単語・用語など)が持っている概念のこと。例えば、「雨」は、音声としては「ア」と「メ」が組み合わさっただけのものであるが、そこには「空から水滴が落ちてくる現象」「空から落ちてくる水滴自体」というような意味が備わっている。
- ある行動や発言が持つ必要性、もしくはそれが行われた理由のこと。
- ある物(物体やシステムなど)が存在する必要性や理由のこと。
- 意味論が対象とするものである「意味」
意味に関しては、多くの研究において問題とされ、例えば、次のような問いがみられる。
おー、何だかわかりやすい気がする。気がする、が、じゃあ、僕がこれまで使っていた「意味」という語は、1~4のどれなのだろう?
2……いや3かな? 存在の必要性や理由、ということだろうか。理由、としてしまうと、これまた抽象的な言葉遣いなので、「必要性」、必要性ね。ということは、生きる意味といったときに、それは主語として、「私の生きる意味」となるから、換言すれば、「私の生きる必要性」ということになる。
え! なんか違うくないか?!(かっこ笑い) という気持ちが起こる。しかし、明瞭に否定しようとすると、悩ましい。
ちょっとここから進める前に、では「生きる」とは何か。
生きることの定義
そもそも、「生きる」とは何じゃい? 生命維持活動だ。これもまた、難しい。人はただ食べるために生きるにあらず、とか言ったとして、じゃあ、何だよ、と。むしろこれは、僕は、不要な定義部分に思う。というのは、その「意味」ということの希求なのであって、「生きる」という語自体は、その「結果」に過ぎないと思うのだ。
目的と結果が逆転しているように思うのだ。つまり、「意味」が明らかになることによって、それ自体が「生きる」ことの定義になるのだ、ということである。
(↑言ってること分かるだろうか? 明日の自分が理解してくれる気もあまりしない。ちなみにこれも蛇足で、これまで書いていなかったけれども、僕のブログが誠実なのは、そのすべてにおける言語表現において、僕は、僕自身として理解している語しか使っていない、ことである(ちょっと大げさである。文脈上の例外は許して頂きたい)。よく分からないことは、分からないそのままとして書いている、ということだ。できる限り、「実感言語」で書いている、ということだ。そして、大体他の方のブログなど読んでいると、「実感言語」なのか、そうではないのか、何となく読み取れる。そして、実感言語でない表現……反義語として、「コピペ」とすれば、どちらが面白いか面白くないかは、明白である。)
ので、「生きる」ことの定義は今は不要としよう。
意味とは何か
話が戻って、生きる「意味」を、「僕の」生きる「必要性」としたとき、それについての違和感は一体何なのか?違和感というよりも、むしろ、鋭敏な表現になったことによって、僕が恐れていることが少し浮き彫りになったのではないか。
つまり、この厖大な世界の中で、大勢の人の中で、複雑な社会や自然のなかで、僕一人という存在の「必要性」など、あろうはずがないのだという、その「実感」。
これが、最初に表現した、「目的喪失」ということになるのである。
と、言うことを、件の、ロゴセラピーというか、フランクルさんは問題視して、それについての解決策というか、療法をまとめてくださったということなのである。
2017年の目標として、思考の体系化を図る、としたわけだけれども、その具体的な方法としては、こうした何らかの専門書に準拠した形で、それについての「理解」に努め、同時にそれとの「距離感」(違和感)について、明確にしていく(定義する)作業を行う、ということである。
phrase=単語、句、言葉のまとまり
sentence=文、文法
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