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実感について(キーワード整理)
2017/02/05 12:59 | Comments(0) | 整理用
今日の一言「衝撃を受けたときに言葉は中々生まれない」「ホントは本のまとめをする気だったのにね」

音読の勧め

 今週の目標を達成。V.E.フランクルさんの「人間とは何か」を、180ページまで読了した。
 ちなみに、いずれ書いておこうと思うけれども、「音読」はお勧めできる勉強(学習・理解)方法である。寺子屋で漢文を素読していた古臭い感じを受ける人は、脳科学の川島さんの本を読んでもいいだろうし、まぁ、理論的な云々はさほど重要ではないけれども、僕の「実感」として、黙読している時よりも内容が頭に入ってきているし、銘記もできている。
 もう一つ、音読のメリットとしては、スマホか、ICレコーダーをお持ちであれば、是非録音してみるといい。それで、ウォークマンとかiPodとかスマホに入れて、何だか勉強する気になれない時にただ流すだけでもいい。「聞くだけで英語力がUP!」というのは嘘っぽいが、自分の声で、自分が一度読んだ本の内容を聞くのは、復習の効果を格段に高めてくれる。
 さらに、録音することのメリットは、学習時間の記録が同時にできるということだ。目標を達成するには、明確なゴールを設定することも大切であるが、同時に、自分の実績を把握することも大事である。小学校ぐらいのときに、宿題の提出記録を、模造紙に貼りだされたグラフに、金ぴかのシールで段々積み上げていったようなことがなかったろうか。まぁ、ビジネスの営業成績のグラフみたいで、今考えると何とも言えない不快な感覚にもなるけれども、幼いころは、その金ぴかシールが段々増えていくのが単純に楽しかった。
 単純に楽しい、そういう感覚、非常に重要である。

実感を大切にすること

 宗教、信仰、価値、意義(意味)、これらのキーワードについて整理したい。ただし、根底にあって、最近僕が絶対視しているというか、常に忘れないように、心に深く銘記しようと試みているのは、「実感」というキーワードである。

 先日の記事で、「どいつもこいつも好き勝手言いやがって」と書いたが、これはとにかく、このブログにコメントをくださる方々を対象としているわけではないことを最初に書いておこうか。実はまた予約投稿が実行されて、気になっていたのである。これ(物理環境とコメントと、苛々の根源に対する記述問題)については、また、別途書いておこう、今回は一切触れないこととする。

 それはともかく、実感、この言葉の意味を定義しておきたい。
 これを書いていくには、まず、宗教とか信仰とか、価値観ということに対しての、僕の立場というか、考えを打ち立てておく必要がある。
 まず、僕は、無神論者である。「神はいない」という立場である。一方で、悪魔の証明ではないが、いないことの証明もできないと思っている(神を悪魔というか! この罰当たりめが!)。
 一方で、宗教についての価値は認めている。ただし、これは、宗教一般の概念への肯定であって、何か特有の宗教を信じているということではない。キリスト教、仏教、ユダヤ教、イスラム教、マニ教、ゾロアスター教、アニミズム、古今東西様々な宗教がある。その中で、かなり信仰者が多いキリスト教に対して、僕は違和感がある、いやすぐさま書けば、キリスト教をモチーフにして「説法」をする人たちの言説に対してである。例えば、「聖書ではこう書かれてます」「神はこうおっしゃいました」だから、こうしましょう、とすることを言う人や書く人が多い印象である。この「だから」というのについて、それを「納得」できる人はよい。ただ、その「だから」を十分に吟味せずに、誰にでも当てはまる普遍的なもののように語る切り口が許せない、というか、苛々の原因になる。

 これが、「実感」問題だ。上のキリスト教の例においては、別に、キリスト教が悪いとか、間違っているとか、そんなこと思っているわけじゃないのだ。ただ、キリスト教が生まれる前から人類は集団をつくって生きてきたし、現代社会においても、キリスト教以外の宗教を信じている人たちが大勢いる。そんな中で、キリスト教だけが絶対です、というのは無理があると思う。実際問題、キリスト教を信じていないから、僕が苦しみに満ちた人生を送っているのだ、という可能性だってある。それは否定できないだろう。だからそれゆえに、そのロジックで、「神を信じなさい」とされる。これはコマーシャリズムと同じく、不安をあおって商品を買わせる技術そのものである。

 ただし、これは、「高2病」という、既存の概念や一般的に正義と呼ばれるものに対して、何から何まで否定したくなってしまう病気、であるともいえる。ので、昨今僕は、できるだけ「信じる」ことをしようと試みてきたわけであるが、それを具体化、詳細化する前に、生活の大きな変化が発生したために、混乱中であるというわけだ。

信仰についての考え

 中々、書ききれない、これらの問題については、簡単には済まされない。様々な(僕の)問題に派生してしまうため、収拾がつかなくなってしまうから、この記事では、取りあえず、「実感」という言葉の意味を明らかにすることに集中したい。

 まず、信仰という語を考えたとき、これは、「何か超越したものを信じる」ことである。ロジック、論理があって、それでもって納得するものは、「信じる」とはいわない。客観的である、といわれる。
 一方で、信仰という語を用いる場合は、その何か仕組みや原因やらが自分の中で分かっていなくても、「正しい」と信じられるものを指すのである。

 この信仰というのと、「実感」とは、何が違うのか。本質的には違わない。どちらも、信じ、心から感じることである。
 ただし、僕が、これまで、そしてこれからも、この「実感」という言葉を使うときは、「信仰」という意味と、「論理的な納得」という意味の、両方を含んだ概念として用いることになるだろう。

(実感が大事だという例の一つ)

 例えば、最近感じた一つの「実感」を例として書いておこう。ちなみに、良いことがあった日だった(なくなったものが見つかったのだ。大事なものだったから嬉しかった)。
 その日、僕は電車に乗って街にでかけた。行く道すがら、そしてその街の中には、たくさんの人たちがいた。会社に向かう人や、休日としてゆっくりしている人、家族といる人、一人の人、恋人といる人、子どもたち、たくさんの人たちがいた。
 僕は思った。何か、「寂しい」なぁ、と。この感覚! この感覚を認めるのは、中々、僕の中では困難であることを書いておかなければならない。(一般的に間違いであろうけれども、僕は以前、人間きらいだとか、孤独が好きだ、とか書いてしまった、これは認めなければならない)
 何故驚きがはしったかといえば、例えば、今現在、一人で哀しきブログを書いているこの瞬間においては、「さみしい」という感情など、豪釐(ごうり)(少しも)も発生していないのである。
 つまりだ、多くの人たちが、楽しそうに輪になっているのをみると、「うらやましいなぁ」という感覚が生じるのだ、ということだ。ただし、強調して自分に言い聞かせなければならないことだが、そういった「流れ」に任せて、取りあえずの集団の中にいることは、間違いなく僕にとって苦痛であり、精神値を削っていくことになるのだ、ということだ。
 ただ、この感覚が僕に与える「実感」のもう一つの有用点は、脳機能に関する林先生の仰る、「脳神経細胞には、生きたい、知りたい、仲間になりたいという三つの本能があります」ということに対する実感的理解である。
 本能的には、僕も、孤独が好きとか言っちゃいながら、やっぱり皆とわいわい楽しみたい、という思いが発生することがある、ということなのだ。であるならば、その集団に属したときに感じる「つまらなさ」という原因や課題を解決する方策という、問題解決の問いを立てるべきだ、ということが明確になってくる。これは非常に重要だ。この「僕も仲間になりたい! という「実感」はもっているんだ」という実感がなければ、そもそも、孤独の在り方について追求すべき、という問題解決の問いにすべきかもしれないというわけだ。

価値について

 さて、本記事の最後の小見出しといこうか。価値、価値観についての定義というか意味の確認である。もちろん、この確認作業も、「実感」という語の意味の具体化であるという目標へのアプローチである。

 価値が多様化している社会に僕たちは生きている、といつぞやから書いているけれども、これは、「実感」レベルというわけではなくて、知識的に思っているに過ぎないことだ。ただ、身分制度が廃止され、「お家」という拘束力が緩和され、資本主義と社会主義といったイデオロギーが緩解し、神は死んだと言われ宗教性が薄れ、科学の発展により迷信が薄れていった、この現代を考えたときに、やっぱり価値が分散化していくのだろうなぁというのは思うことである。
 だから、反動的に、画一主義的な運動や、全体主義的な思想や、暴力的な現実の中の現実への回帰とかが発生(某国の政治不安や過激派組織の台頭など)するのだ……というのは、それはそれで、価値が多様化した結果による反動であるという意味においては、やっぱり、「神の審級」といったものの強い拘束力は失われていっていると言えるだろう。
 まぁ代わりに、「金融資産」、お金、というものに対しての信仰が強まっている印象であるけれども、まぁそれについては、本記事の目的からそれるから置いておこう。

 では、その価値というものと、実感というものの関係性についてであるけれども、言葉で表すと、「実感の総体が抽象化されて、意味に昇華されたもの」と言える。ものすごく分かりづらくて、多分、後から読んだ僕自身も分からないと思ったから、図示しよう。


(遠藤作:そこそこテキトウ所要1分くらい)

 図を描いていて思ったけれど、価値観、それが即ち、自分自身(自己)であるのだ、ということだ。
 逆に、これまで僕に足りていなかったのは、紫枠の「信仰」要素である。
 疑い深いというか、頑固というか、そういった性格気質が、そもそも誰かを信じるということを苦手にさせていたのだろう。今でも、「この人すごいな!」と思うことはあるけれども、全人格的に見習いたいというか、すごい……と思う人は、現実世界には殆どいないし(殆ど……? 俺は今誰を想像している?)、過去の偉人を含めても中々難しい(こっちは最近増えてきた)。
 こういう人をなんというか。プライドが高い奴、という。プライドが高くて、実行力とか知識とか行動力とかその他諸々、スペックが足りているならそれはそれで有能な人間だが、プライドだけ高くて何もできない奴は、ただのクズよりももっとたちの悪いクズである。「俺だって、頑張ればできるけどね。頑張らないだけだけど」とかいう奴は、ほんっとに救いようがない(お前だ!(かっこわらい))。
 自己エクスキューズってのがあって、「いやぁ、時間が無いけど、取りあえずこんぐらい書いときますわ。まぁ、本当はもっと言いたいことあるんだけどね~」とか、それは違う。お前にとって、それは全力なんだ。全力疾走だったのだ。頑張った結果がそれだ。自惚れるな屑が!
(……と、序盤の方に書いたけれども、他者に対して僕はこういうことを思うことはあまりない。基本的に、自分自身に向かう言葉である。ので、誰かを想定して書いているわけではないことを明確に書き残しておきます)

 この自己エクスキューズが多いと、何が問題か、というと、「実感」が乏しくなっていくのである。
 本当はこうだった。
 本当の自分はこうなんだ。
 頑張れば本当はできるんだ。

 とか、その「本当は」という自己エクスキューズばっかりだと、実感は充実しない。それどころか、これまで培ってきた実感も、徐々に亀裂が(疑問が)入っていくのである。

 その結果がどうなるか、という点に関して言えば、自画自賛だが、上の図はよくできたと思う。即ち、実感が壊れていけば、自己も壊れていくということである。

まとめ

 まとめ、って、苦手なんだよなぁ、一方で得意なんだ。
 この記事をまとめると、「実感を大事にしましょう」以上、だ。

 まとめの難しさというか、苦手意識を思うのは、結局、良いまとめ、というのは、「他者に対して」どれだけよく伝えられるか、に尽きるからである。
 ただ、その「他者」というのが、「誰」を想定するかによって、まとめの仕方が変わってくる。これがめんd……げふんげふん、難しいのだ(この表現は、仕事でのストレスの表現である)。

(長くなったなぁ、30分ぐらいかかったかな。5000字ぐらいか。小説の方は2000字ぐらい進んだ。このブログのペースで小説書けたらいいんだけどなぁ……)


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孤独について(問題と課題の違い)
2017/02/04 12:31 | Comments(0) | 生きる意味
今日の一言「理解してもらいたいという思いは充たされえるのか」

文章校正チェッカー

 これは面白いなぁ。
文章校正
http://www.kiji-check.com/

 自分の書く文章が、どの程度正確なものか、だけでなく、難読とか意味が難しいものも指摘してくれるというのは中々興味深い。

 ↑をチェッカーにかけたら、「中々」というのが読みづらいというのと、「程度性格」というのが助詞不足と指摘された。
 ほほー。「どの程度、正確なものか」と書いた方が確かに読みやすいね。

問題と課題の違い

 なお、上のサイトを見つけたのは、「問題と課題の違い」という検索キーワードによる。

◎問題
 特に解決しなくてよい。よくない状況や事象のこと。

◎課題
 問題に対して、対応する必要があること。

 という理解であったけど、そもそも合ってるんだっけか、と思って調べてみたのである。
「問題」 発生している状況を示す。組織にネガティブな影響を及ぼすもの。
「課題」 組織目標を達成するためにこれから成すべきこと。ポジティブに表現される。
つまり、「問題」があって、それに対する解決策が「課題」と言い換えることもできそうです。
ビジネスの現場における「問題」と「課題」
 というわけで、まぁまぁ、合っていたかな、と思う。
 ただ、勘違いとしては、「日本語」としての意味としては、それほど違いがない、ということである。あくまで、昨今のビジネス的な、一般認識的な、方向性においての話しだということである。

正しい言葉を使うことと伝える技術

 誰かに、何かを伝えようとするときに、正しい言葉・語彙を用いることは必須である。
 信号機の色を青・赤以外の色で言ってもよく分からないし、机と椅子といった物的名称を取り違えていた場合、正しく物事は伝わらない。

 名詞に関するものは、それほど問題にならない。人の名前とか、地名とか、固有名詞について、人の認識相違が起こることは滅多にない。滅多にというのは、同姓同名とか、例外的な可能性だけなので、殆ど無視して構わない。

 問題は、概念に関する認識・事象についての表現である。

 ここで、「表現」という言葉を用いた。この表現というのは、ある物・事柄に対して、他者に伝わりやすいように説明をすることである。(←この文章は、僕のオリジナルなので、既にこれ自体が「表現」となっている)
 辞書をひけば、良い表現があった、――あるものを「客観化すること」ということだ。

 さて、上で書いた概念の認識・事象等の「問題」とは何か?

 それは、概念的な「もの・こと」は、気付くと同語反復(トートロジー)になっている場合があるということだ。

同語反復とか無限遡及とか

 アルバート・メラビアンの法則というのは、他者に情報を伝達する際に、言語が必ずしも重要ではないということを示した考えである。
 実はノンバーバル(非言語)の方が重要なのだよ、というもの。(ただし、いかなる状況においてもこの法則があてはまるというわけではないことは、メラビアン本人も述べているということだというwiki参照)

 ここで強調しておきたいこととしては、「言葉」そのものが、正確に他者に伝えられるわけではないということだ。
 そしてその言葉の困難性は、問題や、表現したい事柄の抽象性が高くなるほどに(概念的になるほどに)増していくのである。

自分の感覚や感情を完全に表現すること

 自分を理解してもらいたいという感覚や感情は、誰しももつものだろう。
 一生孤独で構わない、と思う人であっても、ただし、その「孤独で構わない」という感覚を、可能な限り多くの人に理解して欲しいと思うはずである。
(この意味においては、孤独な人に対して、憐憫の念を思うことは、甚だお門違いであるし、人間理解の不足であるし、傲慢な態度である。むしろ必要なのは、孤独であることへの共感である。)

 一方で、孤独であることを肯定する人が、「実は君だって、みんなに分かってもらいたいんだよ」と言われたとしたら、何となく、違和感を思うことだろう。孤独であるというのは、他者との関係性に距離をもつことである。それを肯定するにも関わらず、理解を他者に求めるというのは、行動行為矛盾にならないだろうか?

 僕がここで表現したいこととしては、孤独であることを望む人たちへの、共感が重要であるということだ。これは、孤独な人を邪険に扱うことをではない。つまり、「そっとしておいて欲しい」という気持ちなどへの理解を示すことである。

孤独は問題なのか

 この記事は、二つの問題を取り扱っている。

 一つは、「言葉の意味と表現による他者への情報伝達の意義」について。(1)
 二つは、「孤独という生き方の妥当性」について。(2)

 相互に、同時に問題を書いているために、分かりづらくなっている気がする。

 まずもって、問題意識としては、「自分の瞬間的な状態や感覚を、正確に他者に伝えることは困難である」という、前々からの「実感」における、他者への期待度の低下がある。
 この他者への期待度の低下が、孤独への傾向を強める。この他者への期待度の低下が起きる理由は次の通りだ。
 それは、この記事の問題の一つ目の、「正確な情報伝達の困難性」と、もう一つ、仮に正確に自分のことを伝えられたとして、それが自己救済に資することになるのか、という疑問である。

 整理すれば、「理解してもらえない」ということ、諦めによって、孤独の方向へ向かってしまう人がいる(1)としたとき、その孤独という状態は悪いこと、ダメなことなのだろうか(2)、ということである。

理解してもらえないことの正確さ

 まず、(1)の問題、「理解してもらえない」ということは、言語表現の困難性という理由により、既に正しいことを述べた。
 ただし、逆に、この「実感」について、覆るようなことがあれば、「孤独に向かう」という(2)の問題は解決・緩解するのである。

 さてここで、この理解してもらえないということについて、この「理解」という次元・レベル感を表現しておく必要に迫られる。
 つまり、「正確な」と言ったところで、それが、何をもって正しいというのか、これ自体も、同語反復になるが、言葉の困難性故に結局不明なのである。


 だって、日常生活を送るうえで、もしくは、社会生活を送るうえで、もしくは、集団、組織、国家とか世界とか、多くの秩序は成り立っている。「人は一人では生きていけない」という標語のように、人はお互い助け合って生きているのである。これはまた事実だ。これをもって、「理解してもらえない」ということは、矛盾した感覚ではないか、ということになる。

 これに対しては、人間という存在に対しての立ち位置、考え、価値観によって異なってくるものだ。
 人間社会を、「共同幻想的」と考えるのか、個人主義的な「分かる人と分からない人がいる」と分別して考えるのかによって、この問題のその人に対しての大きさが異なってくる。

 ありがとうございます、いただきます、どういたしまして。
 個々別の状況において、言語化し、「感謝」とか「嬉しい」とか、そういった「感情」を伝えることで、相互理解はどこまでも、可能である。

 それでもなお、「理解してもらえない」という感覚が生じることを、「わかる人」と「わからない人」がいる。
 精神医学的には、この程度が深まれば、おそらく病気と診断されるだろう。ただ、もはやこれは、傾向とか、タイプとか、一般化することで解決することができない問題である。これは、「実存」の問題だ。

一般化と実存

 ものすごく、分かりやすく書いてきたつもり、であるが、しかし、書けば書くほどに、「乖離感」が強まっていく。いやーこれ、難しいだろうなぁ……。というのは、「難しいこと書いてる俺すげぇ!」という中二病的な感覚でも味わえたらいいのだが、残念なことに、ますますドツボにはまっていくというか、泥沼でもがくような感覚になるのである。

 ところで、こうした表現の積み重ねが、果たして、病気と診断されるようなものなのか、よく分からない。
 ただし、「洗脳」的な方法以外において、この仮に病気としたときに、治療をするためには、恐らくこの表現の積み重ねが無い限りは、医師も治療を行えないであろう。

 人生に意味はあるのか?

 この問いについて、「ある」としておかなければ、すべてが無駄になってしまうから、「ある」のが真理にしかならないことは、僕だって分かっている。
 生きていること自体素晴らしいことだ、嬉しいことだ、価値あることだ。分かっている、分かっていながら、「わかっていない」のだ。

 これが、「実感」問題である。
 いくら他者の言葉が素晴らしく、価値あるものだと思われて、正しくて、真理だと思っても、それを「実感」レベルに落とし込めなかった時の乖離、そのズレを無視して、いくら素晴らしい行為を積み重ねたところで、それは、基礎が柔らかな地盤に打ち付けられた高層ビルに過ぎないだろう。少しの拍子に、強風が吹いただけでも、倒れてしまうかもしれない。

 正しい言葉など、何ら必要としていない。結論などどうでもいい。プロセス。過程だ。


 何故、人生に意味はあるのか?

 という問いこそが正しい。

一般化と還元論の危険性

 もっといえば、ここで、普遍的な「意味」とか、真理というものを求めることについては、全く無意味だと、最初に排除しておく必要がある。

 人間とは、共同幻想の中に秩序を見出している。これは悲観的な表現にも見ることができるが、一方で、だからこそ、人が、一人一人が、価値ある存在であるともいえるのだ。

 共同社会の中で生きることが正しいこと、価値あることなのだとすれば、その共同社会の規範や価値観に沿った人間になることが、まさしく真理で素晴らしいものになっていく。

 けれどもそれは、一人の人間としての個性、人格を、同調・同一化していくことに他ならない。
 思考停止して、全体主義的な方法で自己を救済することも可能だろう。それを明確に否定するための知識と思考を、今僕は持ち合わせていない。ただこれは、感覚的に、否、と僕は思う。


 だから問いは、こうあるべきだ。

 何故、僕の人生に意味はあるのか?

 と。

(さぁ今週の課題まであと30ページ。頑張るか)

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みんな好き勝手言いやがって
2017/02/03 18:00 | Comments(0) | イライラ対処
今日の一言「ルサンチマンの活用を考える」「奴隷道徳乙」
※本記事はネガティブモードであり、ポジティブ至上主義の方には精神異常を引き起こす危険があるため、これより先には進まないでください。

頑張ることへの批判

 疲れた。

 MPというのは、ドラクエとかゲームにおける能力値の一つであり、マジックパワーという、魔法を使うための数値である。より強大な魔法になると、一回当たりの使用量が多くなっていく。

 しかし現実世界に生きる僕らも、MPをもっている。それは、精神力――メンタルポイントである。
 でも僕たちは、魔法を使うことはできない。では、どのようなときにメンタルポイントを消費するのか。それは、自らの行動規制を行ったとき、換言すれば、理性に従ったときである。

 理性というのは、フロイトの学説によれば、スーパーエゴということで、本能的なイドを制御する働きがある。その理性というのは、「こうすべきだ」「こうしてはならない」という、内なる道徳法則である。
 教育というのは、大人になるというのは、この「理性」を学んでいく過程と言える。その理性は、育ってきた環境や、現環境において大きく異なっていくのである。

 そのうち大人になっていった僕らは、本能的なもの(もしくは自己的なもの)と、理性との違いが分からなくなっていく。これは、日々の生活の中に落ち着いていく、と言い換えることもできるし、決して悪いことではない。

 ただし、理性と、本能との乖離が大きい場合、知らず知らずのうちに、MP(メンタルポイント)が大量に消費されているのだ。

突発性の鬱と慢性的な鬱状態について

 鬱、についても、内因性の鬱と、心因性の鬱にまず分けられる。
 内因性の鬱というのは、脳機能など、身体的機能障害による鬱状態を指す。
 心因性の鬱というのは、ある事象によって、心が影響を受けることによって発症する鬱である。例えば、失恋やリストラや結婚や出産など、一般に良いこと悪いことにかかわりなく、ある事象(環境変化)が与える心への影響が原因である。

 その心因性のうつ状態は、突然の事象により発症する場合もあれば、「生きがい」を失ったことで、徐々に症状が重くなっていく場合もあるだろう。
 後者の、慢性的な鬱状態を引き起こす原因の一つが、MP(メンタルポイント)の消費である。

 例えば、失恋したとする。周りの人たちは、慰めてくれるだろう。それをもって、「そうだ、いつまでも一人の男にこだわっているなんて、もったいない。すぐに、新しい恋を探そう!」と思うことだろう。ところが、それが、「本能」的なものであるのか、実は、そうあるべきだという「理性」的なものであるのか、自分自身で理解し感じるのは、いささかそのタイミングにおいては難しいのである。

 真面目な人ほど、明るい人ほど、突然鬱になる場合があるという。これは、理性的な傾向が強い場合、「こうした方がいい」という「答え」が、よく分かってしまうが故に、しばしば、自分の感情を蔑ろにするからである。


 やりたいことを見つけられない人たちへ。

 みたいな、ブログとか、動画とかをみた。「まずは何かにチャレンジしてみる!」とか、「やりたいことがないなら勉強して学歴を磨くべきだ」とか、「生きる意味なんて考えるなんてロクなことがないぜ」とか、そういった言説であった。
 で、まぁそういったことに、「そうだそうだ!」と賛同する人が多いようである。
 なるほど、僕も、そう思う。どうせいずれみんな死ぬのだ、精一杯、価値を高める行動をしていくべきだ! とね。

 ところが、その言葉、「思いっきり頑張ってやろうぜ!」とか、そんな(似非)ポジティブな言葉。
 ほんとーのほんとーに、君は、そう、思っているの?

やる気が無い奴は帰れ!

 部活とかやってると、こんなことをコーチに言われた人もいるだろう。
 で、それで、本当に帰る人はそんなにいない。
「なんで契約取れなかったんだ?」「努力が……足りなかったからです」「そうだな、頑張れ!」みたいな変形パターンもあるだろう。
 つまり、マウントポジション(優位)の状態で、「あるべき」を振りかざすことで、さも、本心から思わせるような風にして、自分の口で、「あるべき」を語らせるのである。

 そういうことばっかり押し付ける会社なり、友人関係なり、恋人関係なり、家族なり、そういった集団とか関係というのは、まっぴらごめんである。俺はそんな同調圧力が蔓延した関係であれば、むしろ口をつぐんで孤独でいた方がよほどマシだと思う。

 いやいや、君、それは違うよ? そうやって自分を押し殺したコミュニケーションになるのは、君自身が心を開放していないからだよ?

 とか、こう、僕が書いてきたことに対して、批判をするのは良いのである。それはそれで、独善を回避する重要な関係性である。そうではなくて、自分の価値観考え方信念生き方信仰が、絶対的に普遍的に正しいと、そう思っている人たち。そういう人たちとは、可能な限り関係をもちたくないものである。

 いや実は、本当の「エリート」は、弱者や凡人たちに、さも、「君たちのためだよ」とか「自分自身で考えたこととして」とか、「自分の力で」とか、そういった主体性すら与えつつ、必要な方向へコントロールするのである。それは巧みに「感情」をもコントロールした上で調整されるために、それを暴くことは甚だ困難である。いやむしろ、その統治するエリートたち自身も、そうした「支配する」感情を排している場合もあるから、より複雑怪奇である。

本気で休むことの勧め

 疲れた。

 もう終わりにしよう。眠い。

 本当は、こんなこと書く気じゃあなかったんだけどなぁ。

来週のアニメを見るまでは死ぬな!

 的なことを書かれていた、ある精神科医さんの記事が面白かったので、それについて思ったことでも書こうと思ったけれど、いつの間にか苛々に心が支配されてしまってこんなん記事になっちまった。

 いやぁ、その落ち込むことというか、嫌なことあったんだよな。
 それをどう対処したらいんかね。まぁ、その、対処しようがないんだよな。自分の力じゃどうしようもないことってあるんだよね。そのうえで、どうすべきかを考えていく必要はあるのだけれど、でもそれって、頑張れば頑張る程MPの消費が激しいんだよな。

 でもこのMPって、視認できないから、残りが自分じゃよく分からない。だから、よく「休む」ことが重要なのだ。

 風邪の時もそう。鬱の時もそう。休息というのは、非常に重要なことだ。
 創作活動をしているときもそう。何か煮詰まってしまったら、休むことが必要だ。

 しかし、この、休むって、どうやったらえんやろう。
 身体を休めるというのは、横になっていればいいかもしれない。でも、精神を休めるには、どうしたらいいのだ?

心の休め方

 まぁ探してみても、そんなすぐ役に立つ情報は手に入らない。上の記事は、まぁ間違ってないだろうが、結局、「自分のこれまでの経験から、心休まる方法を思い出してみましょう」的な感じである。結局自助努力だ。まぁそういうことだ。結局、「良く生きるためには、良く生きることを知らねばならない」(エ・ンドウ著『生きる意味を徹底して考える』P.★引用)ということである。

(疲れた、というか、苛々、というか、何だか「めんどくせぇ」って感じだ)

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思考整理用の記事(コメント御礼)
2017/02/02 18:00 | Comments(4) | 思考及び書くこと
今日の一言「鬱状態の制御が肝要だね」「せっかく早く帰ったのに惰眠とは情けない」

頭とスケジュールを整理

 書きたいことがある、ないとは別として、忙しすぎて制御ができていない(※)。
 ここで、一つ提案なのだけれども、「時間が無い」として、できるだけ「整理された」言葉で短縮メモしようというのは方法としてはアリだと思いながら、ある意味残念なことに、「書きながら整理する」という方法もあるのだということだ。

 本来、先日のコメントにおいて、「情報過多である」とのご指摘を受けたところである。これは全く私もそのように感じていて、それゆえに、小見出しは5つまで、というルールを設けたところでもある(早速先日破っていたけれども)。
 ただ、これは、できるだけ不真面目に読むべきものである、と思う。頭の良い人や、真面目な人などは、本、書籍、記事、文章を、できるだけ「精読」しようとする。言葉の一つ一つの意味を理解しながら、文脈を理解し、この著者は何を言わんとしているのか、何を理解すべきなのかと、積み重ねながら読んでいくのである。あまり好きな言葉ではないが、理系的、である。

 しかしそもそも、「あーそれでねぇ、というか、あのー、いやぁ、その」とか、そんな言葉が入っている時点で、真面目に読む価値などないのである。
 しかし同時に、その間、タイミング性、口語性というものもある。人間の脳の理解構造としては(もちろんいつものとおり、頭の回転がすこぶる速い人は論外であり、僕はいつも「凡人」を想定している)、人から発せられた言葉について、その意味を、瞬時に理解することは「無い」のである。

※忙しい自慢としかならない。ただし、この「忙しい」と感じることの状況をメモすることの意味については以前述べた(記事記述時の状況把握)。

理解スピードと口頭理解

 僕の記事においては、同じ意味の言葉が、並記して書かれている。上の例で行けば、「本、書籍、記事、文章」と並記しているが、別に「文章」とだけ書けばよいのである。意味理解、文脈理解としてはそれで十分である。
 この並記は、文章表現としては、エラー、間違いである。しかしながら、言葉の意味については、「クオリア」なんて概念を持ち出すまでもなく、人それぞれ異なっている。それはもちろん、教養の多寡という問題もありながら、その人自身の来歴という問題など、思考体系が全く同一であるという考えなど、捨て去った方がいい。まぁそれをよく分かっていない人が多いために、争いが絶えないのだと、僕はひそかに思っている。
 それはともかく、並記の理由というのは、その「僕の中では同意味」としていることを、可能な限り多くの人への理解可能性のための、傲慢な語を使えば「配慮」なのである。
(そしてもちろん、この「限りなく多くの人への」というのは、未来の自分も含まれる)

ルーチンについて

 もうすでに24時をまわっている。惰眠のせいで、それほど眠くない。ルーチンもまだしていない。
 ところで、身体を鍛えるというのは、面白いことだと思う。
 肩こりがひどいのはあまり改善されていないし、服を着るとみためには全然わからないけれども、脱いでみると結構変わってきている(というか、数年前に戻ってきているといったほうがいいか)。
 ほんと、真面目に筋トレをされている方には、とてもじゃないが「やってます!」となどいえない程度であるけれども、100日ぐらい続けているとそれなりの効果はあるということだ。
 この小さな積み重ねが、楽しい実感、嬉しい実感につながってくれたらいいと思うが、まぁ、あまり期待はしない方が良い。

目標へのアプローチ

 さて、先日の目標を振り返ってみよう。まず、大きな目標として、2017年は、「整理の年」である。この整理とは、思考および住環境を含める。
 そして、整理の語の定義としては、ここでは、「捨てる」ことと、「体系化すること」が挙げられる。

 大目標へのアプローチとしての目標は、2月末までに、「人間とは何か」を読了することである。





 そして、その中目標へのアプローチとしては、一週間に90ページ、ということであった。
 現在、120ページほどまできた。
 今週末までに、180ページまでいかなければならない。

 で、ルーチンと絡めて、音読をしているのだけれども、だいたい平均すると、1ページ3分弱ぐらいであることが分かった。2ページで5分ぐらいである。
 ということは、残り60ページなので、あと三日ぐらいで150分必要である。単純に3で割ると、一日50分。平日に確保するには、最近では厳しい時間である……。

 と、こうやって分割していけば(これをエレファントテクニックとか言うらしいが、まぁ名前なんてどうでもいい)、より詳細なスケジュール感として、自分がこのタイミングに何をしなければいけない、という意識(動機)を向けていくことができる、というわけだ。

 これが、PDCAサイクルの、チェックとアクションの部分である。
 小まめにチェックするのも大切だけど、そもそもの、「目標」を意識することを忘れてはならない。
 ので、この目標については、紙に書いて机に貼ってある。いやでも目に付くわけだ。

目標よりも大切なこと

 と、まぁ、上のようなことは、書店で新書を探したり、ネット検索すれば、いくらでも仕入れることができる。
 が、その、目標を達成する(小手先の)テクニックよりも重要なことがある。
(と、何か大きなことを書くような前ふりをしつつ、まぁこれだって探せばいくらでも手に入る情報でしかない(※1)だろう)

 それは、目的(動機)の意識化である。

 そもそもこれ、何のためやってるんだっけ?
 という、強烈な問い、WHY、WHY、WHY!!! というのを、「は? バカじゃね?」「○○だからに決まってんじゃん」と磨り潰し退けられるような、強烈な目的(動機)を、常に意識していなければならない(※2)。

 その強い目的(動機)がはっきりと、明瞭になっていないと、眠いとか、お腹空いたとか、今日は苛々して気分がのらない! とか、そんな生理的欲求に忽ちに負けてしまうのである。
(この生理的欲求対処、としては、「環境構築」も重要であることは言うまでもない、とかいいつつ書いてるけど)

※1:この、「しかない」という考えが浮かぶことが、「病的である」という指摘なのが、フランクルさんの「人間とは何か」で述べられている、気がする。まだよく分からないが、これに対しての見解について、是非読み取りたいと思う。読み取れたら記事にして、それを音読して、ウォークマンに入れてきいて、繰り返しインプットしたいと思う。

※2:これとは別に、何かを実現させる方法は、実はある。それがルーチン(決まりきった定常的な行動)である。ただし、ルーチンとは、それ自身が目的化した目的的行動である、とも言い換えることが可能だ。甚だ詭弁的だが、そう考えれば、結局大事なのは目的、となる。

コメントありがとうございます

 最近、コメントとか拍手とかをしてくださる方々が多く、大変嬉しい限りである。

 コメントについては、拍手コメント含めて、すべて拝見・拝読させて頂いております。この場を借りて、改めて厚く熱く御礼申し上げます。

 ところで、神経症的な私としては、すぐさまレスポンスができないことについて、大変申し訳ない感覚が生じるのである。さらに、この記事を含めて、最近はある方を参考にして、若干のタイムラグ(予約投稿)になっていることが多いのである。

 ということは、コメントを当日18時に頂いたとして、19時に予約投稿で記事が投稿された場合に、「おい、俺のコメント差し置いて記事書いてんのかよ。ちょー不快だぜこいつ」と思う方もいるだろうと思うのである(いないかもしれない、ただ、様々なブログなんかを見ていると、まぁそんな人も少なくない)。

 そもそも、コメント(その他投稿サイトに対する感想など)に対して、作者が必ず返信しなければならない、というルールは、実際には存在しないと僕は思っている。
 とはいえ、それは、ある意味においては、暗黙のルールだと実は思っている。感想やコメントをくれた方に対して、例えその内容が、自分の意図に反するものであったとしても、感想やコメントをくださった方への感謝の気持ちは、表明すべきだと思うのだ。

 いやもちろん、「ある意味で」と書いたのもあるが、その感想やコメントが、「害毒」であること当然ありえる。
 害毒……例えば、誹謗中傷だったり、「いやいや、その考えは間違っている」だとか、「絶対こうしたほうが面白いよ!」だとか、そうした、「決めつけ」的なものである。
(あー、まぁ、僕は結構そういうのも慣れているから、別にそういった感想やコメントをもらっても問題ないけど、それが嬉しいかというと、多分そんなことはなさそうだ)

 逆に、である。
 誹謗中傷とか、「荒らし」に対して、無視するのが一番良い、というのは、まったく至極論理的である。筆者著者作者からのレスがあると、感想やコメントを書いた人は嬉しいのだ。その嬉しいというのは、荒らしの人であっても、同様だ。むきになって反論してくる様が、逆に面白かったりするのである。
 だから、「おい無視すんなよカスが!」とか言ってくるとしても、完全無視していればそのうち飽きてしまうだろう。まぁ、エスカレートすると、DOS攻撃とか物理的に攻撃をしかけてきそうであるが。まぁそこまでいけばそりゃ犯罪だ。

 逆に、である。
 感想やコメントに対して、返信しない人には、なんか、それなりの対応でいいのかな、って思うのである。これは仕方がない。それに、感想やコメントをそれほど欲さない人もいる。単にアフィとか収益が目的なら、PVだけあればよかったりするし、その目的じゃなくても、単に「読みましたー」的な意味があるだけで、満足する人もいるのである。

 まぁ、そんな一般論的なのはどうでもよく。
 僕は、どうかといえば、そうだなぁ……やっぱり、自分の書いたこと(思ったこと)について、それが相手にどう伝わったのか、どういった感情を与えられたのか、というのを、やっぱりPVとか数字じゃなくて、それを言葉で、文章で欲しいなと、そう思う。
 いやまぁ、ボイスレスポンス(音声による返信)とか、そんな機能があればそれでもいいけど。ただ、どこでもいつでも性を考えると、聞くの面倒そうだな(かっこわらい)。

 おぉ……かなり厳しい時間になっている。寝よう。

(睡眠不足解消と思考整理とどっちを優先すべきか)

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憂鬱および不愉快な感情の制御について
2017/01/31 18:00 | Comments(4) | イライラ対処
今日の一言「何だか二日間ぐらい調子が良くないな」「失言か、頑張ろうという思いが原因なのでは?」

何とも憂鬱である

 不愉快な感覚が、どうにも続いている。
 体調が悪いわけでもない。何か、特段、イベント(事象)が発生したわけでもない。

 ただ、得体のしれない苛立ちが身体の周りを浮遊しているようだ。

 何故だ? 何があった? 俺は誰だ? 俺は何を求める?


 これは、この感覚は、「生きる意味は何ぞや」とか、随分ユートピア的なことをのたまっているときには、発生していない状況である。これは、今までにあった感覚・感情なのか、それとも、上手く表現できなかっただけなのか。

 分からない、ただ、あまり、良い状態ではなさそうである。この状況のときに、どう対応すればよいか、よく分からない。風呂か? ごはんか? ううむ、生理的な原因ではないのかもしれない。

書くことが分からなくなる

 読む、ことの方が楽だなぁ。書くの、疲れる、アウトプットするの、疲れる。疲れるとか嫌だとか面倒だとか、そういうマイナス言語使うと、脳のパフォーマンスを下げるからよくない。
 でも、疲れるもんは疲れるんだ。休む時は休むんだ。そのバランスである。バランス……随分テキトーなものいいである。

 精神医学において、精神療法と薬物療法とがある。どちらが重要かとか、そういう問題じゃない。鬱がひどくなって今にも自殺しそうな人に、薬の処方が必要な時もある。しかし、今まさに生きる意味を失って自殺しようとしている人へ、生きる意味を見つけるための療養が必要なときもある。

 書きたいことは、結構、あったはずなのに、どんどん抜け落ちていく。そして、今、ここで、アウトプットしようとしたとき、何も浮かばない。この哀しさ……、自分というモノが、抜け落ちていくような感覚。

 目のメタファー。正常な目の機能は、目、それ自体を見ない。異常になると、目、それ自体が見えるようになる、それは、まともな視野を保てないだろう。
 自己、も同様であるという。正常な自己は、自己自身を見ない。自己距離化、自己超越化されている。

 何か結節点、書くことの、そのきっかけ、契機。

 それが、抜け落ちていく。

 以外に早く帰ってきたと思ったら、既に23時を過ぎている。3時間ぐらいは、身体の重さで何もできなかった。寒かったのだ。部屋が、寒かった。

 あーその、なんだ、ダメだ。書けない。

お金の話

 家計の見直しをしてみると、スマホ代が高いことに気づく。データ容量的に、それほど使っていない。1か月1.5GBぐらいである。の、わりに、定額プランに入っている。よし、1GB制限に変えてみよう。それで1000円ぐらいは安くなる想定。現在7000円~8000円である。
 余計な通信をしない、とすれば、ダラダラとネットをみるようなこともなくなると思う。時間と、お金の節約だ。

 電気代は、好き放題に使って4000円~5000円ぐらい。水道代は2か月で3000円ぐらい。ガス代が3000円~4000円ぐらい。ネットが、5000円ぐらい。

 そうすると、インフラで2万3000円ぐらいになっていることになる。
 うーむ。高いな。減らそう。

 物も、もっと減らそう。書類は大分減ってきた。今年は整理の年だ。物も、お金も、思考も、全般的に、クリアにしていく。
 そういや、大学の同窓会みたいな通知がきた。出会い(職業・異性)とか求めるなら、行った方がいーんだろうな。
 気乗り、しないな。

 何だか最近、先輩からの飲み会の誘いとかも断っている気がする。付き合い悪いとか思われてきたかな、さすがに。まぁ仕事が嘘じゃなくて忙しいってのもあるのだけれど、実際外の部署にいると分からないからな。

 趣味のサークル的な奴(異性的なのは無い)も、先日は行ってきたけれども、何だか、気乗りがしていなかった。何故だ、まぁ、行ったらそれはそれで楽しかったけれど。

 投資のセミナーにも参加してきた。一つ二つ、やってみようかな、というのがあった。けれども、気乗りがしない。

気乗り

 あー、なるほど、これ、多分、あれだ、その、鬱モードだ。
 よくあるやつだ。躁鬱を繰り返すのである。それほど最近「躁」な気はしていなかったけれども、そうだったのだろう。

 この状態になると、これまで続けられている、ルーチン作業、筋トレ、ストレッチ、音読なども、何だかめんどーになってくるのである。そして、一日、二日とやめてしまい、そのまま、ずーっと頽落堕落に陥っていくのである。

 ここはまた、しばらく、ルーチンを維持することに意識を集中しよう。新しいこと、ヤメ。人と関わること、ヤメ。
 無理しない。ここは、体力、精神を温存する。
 いつも、この状態で、逆に「焦って」しまい、ますます鬱状態がひどくなっていくのである。そろそろ、自分の心身について、理解と実践をちゃんとさせたいものだ。

 気乗りしない、というか、何だか、苛々めいた感覚なので、ちょっといつもと違うのかもしれないが。
 む……鼻水が、これは、風邪気味なのかもしれない。やっぱり、睡眠不足は良くないのだろう。寝るか、しかし、昼寝して、変な時間に目が覚めてしまった。

こんな生活感まんさいの記事意味あるの?

 まぁ、他者にとって、意味はないだろう。別にお前がどうなろうがしったこっちゃない、と。

 けれども、とあるリンク先の友人(※)のブログにおいて、ウォーキングしたとか、寝過ごして失敗したとか、何だかやる気でねーなぁとか、そんなの読んでると、ああ、あの方でもそんなこともあるんだなぁ、そんな風に感じることもあるんだなぁ、と思って、ちょっと面白かったり、やる気になったりするから、あながち、生活感的な記事が完全無駄、ではないと思うのだ。
 これが、多分、FBとかツイッターとかだったら、うぜぇ、ってなるのかもしれない。その辺、よく分からないし、やろうとも思わない。というか、そう、ツイッターなんだが、そんなに呟きたいと思うことがない。いやお前、こんな長い愚痴とか書いとるやん、というのはその通りだけど、短い言葉で「疲れたー」とか、「ねむひ」とか書いて、それ、何? みたいな。これ、あまり公に書けないけれども、と言いつつ苛々のせいか、書いてしまうのだが、今とあるアカウントでやっているツイッターで、宣伝とか、そういった中身のない呟きが多すぎて、どうにもあまり、使う気になれない。正直無駄な情報が多い。俺の使い方が悪いのかもしれないが、例えば、世界の綺麗な風景BOTとか、創作に必要なネタBOTとか、定期的に面白い情報を投下してくれるものを読むのは良いのだけれども、同じ作品の宣伝を、何度も何度も繰り返したり、文脈が無いと分からないようなつぶやきだとか、先述の中身のないつぶやきだとかが多くて、辟易である。
(いや、最近ツイッター始められた某方のことは全く意図していない。サイト更新しました! とか通知は良いのだ、逆に嬉しいものである)


※友人、と書くと、おこがましいのだろうか? 友人……と言っていいのだろうか? 相手からはそんな風に思われてないのではないだろうか? そんな思いが即座にはしる。ただ、友人って、何なんだろう。会社で知り合って、趣味の活動を一緒に休日にする人もいるけれども、会社で知り合った人は友人とは言ってはいけないのだろうか? 年齢が違うと、先輩後輩、になって、友人ではない? ネットで知り合った人は友人ではない?
 なんだろ、俺は正直、どうでもいいと思う。他者との関係に対して、知り合いだとか、友人だとか、親友だとか、知己だとか、そんなレッテル貼ることに意味を感じない。とはいえ、その、関係の社会学的な、どこからが友人という状態になるのか、それが社会状況や、年齢コーホートや、文化価値などに左右されるのだろうか、という研究をやってみようと思ったことはある。先行研究が少なすぎてやめた。という、誰もやらないというのは、やっぱり、どうでもいいことなんだろう。

小見出しが超えてるよ!

 これが6つ目か。ただ、この記事は複数日の「つぶやき」のまとめなので、まぁ許してもらいましょう(自分ルールに対して)。

 ふむ……しかし、若干、書く前よりは、気分が落ち着いてきたような、そんな気もする。
 やっぱり、最近、何を書くかとか、構成とか考え始めちゃったのが、ストレスになっていたのかもしれない。

 2016年の4月~6月ぐらいは、もうほんと脈絡なければ、テキトウ感まんさいである。いや今もそうだけれども、もっとひどかった。この「苛々対処」記事カテゴリは、ほんとチラシ裏みたいな感じだ。というか、このチラシ裏って、何だろ、チラシの裏って普通印刷されていて、あんまり後ろが白紙のチラシってみたことないんだけど。ってこう、どうでもいいことを書いているのである。

 そうさなぁ、今日はもう時間切れだけど、またしばらく、無茶苦茶感情の吐露的なの書いてもいいかもしれない。それを公開するかどうかはおいておいて……いや、公開しないなら書かなくていい。公開できない感情ってなんだよ。素直になるんだろ? 率直に生きるんだろ? 自分を隠して生きるのはもう沢山なんだろ?

 おーいい問いかけじゃないか。好きだよ、そういうの。ちょっとまた、書く気が発生してきた。そうだな、問いかけ、大事だな。先日も、コメントを頂いて、落ち込んだりもしたけれど、私、元気です。

(魔女の宅急便風に)


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