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みんな好き勝手言いやがって
2017/02/03 18:00 | Comments(0) | イライラ対処
今日の一言「ルサンチマンの活用を考える」「奴隷道徳乙」
※本記事はネガティブモードであり、ポジティブ至上主義の方には精神異常を引き起こす危険があるため、これより先には進まないでください。

頑張ることへの批判

 疲れた。

 MPというのは、ドラクエとかゲームにおける能力値の一つであり、マジックパワーという、魔法を使うための数値である。より強大な魔法になると、一回当たりの使用量が多くなっていく。

 しかし現実世界に生きる僕らも、MPをもっている。それは、精神力――メンタルポイントである。
 でも僕たちは、魔法を使うことはできない。では、どのようなときにメンタルポイントを消費するのか。それは、自らの行動規制を行ったとき、換言すれば、理性に従ったときである。

 理性というのは、フロイトの学説によれば、スーパーエゴということで、本能的なイドを制御する働きがある。その理性というのは、「こうすべきだ」「こうしてはならない」という、内なる道徳法則である。
 教育というのは、大人になるというのは、この「理性」を学んでいく過程と言える。その理性は、育ってきた環境や、現環境において大きく異なっていくのである。

 そのうち大人になっていった僕らは、本能的なもの(もしくは自己的なもの)と、理性との違いが分からなくなっていく。これは、日々の生活の中に落ち着いていく、と言い換えることもできるし、決して悪いことではない。

 ただし、理性と、本能との乖離が大きい場合、知らず知らずのうちに、MP(メンタルポイント)が大量に消費されているのだ。

突発性の鬱と慢性的な鬱状態について

 鬱、についても、内因性の鬱と、心因性の鬱にまず分けられる。
 内因性の鬱というのは、脳機能など、身体的機能障害による鬱状態を指す。
 心因性の鬱というのは、ある事象によって、心が影響を受けることによって発症する鬱である。例えば、失恋やリストラや結婚や出産など、一般に良いこと悪いことにかかわりなく、ある事象(環境変化)が与える心への影響が原因である。

 その心因性のうつ状態は、突然の事象により発症する場合もあれば、「生きがい」を失ったことで、徐々に症状が重くなっていく場合もあるだろう。
 後者の、慢性的な鬱状態を引き起こす原因の一つが、MP(メンタルポイント)の消費である。

 例えば、失恋したとする。周りの人たちは、慰めてくれるだろう。それをもって、「そうだ、いつまでも一人の男にこだわっているなんて、もったいない。すぐに、新しい恋を探そう!」と思うことだろう。ところが、それが、「本能」的なものであるのか、実は、そうあるべきだという「理性」的なものであるのか、自分自身で理解し感じるのは、いささかそのタイミングにおいては難しいのである。

 真面目な人ほど、明るい人ほど、突然鬱になる場合があるという。これは、理性的な傾向が強い場合、「こうした方がいい」という「答え」が、よく分かってしまうが故に、しばしば、自分の感情を蔑ろにするからである。


 やりたいことを見つけられない人たちへ。

 みたいな、ブログとか、動画とかをみた。「まずは何かにチャレンジしてみる!」とか、「やりたいことがないなら勉強して学歴を磨くべきだ」とか、「生きる意味なんて考えるなんてロクなことがないぜ」とか、そういった言説であった。
 で、まぁそういったことに、「そうだそうだ!」と賛同する人が多いようである。
 なるほど、僕も、そう思う。どうせいずれみんな死ぬのだ、精一杯、価値を高める行動をしていくべきだ! とね。

 ところが、その言葉、「思いっきり頑張ってやろうぜ!」とか、そんな(似非)ポジティブな言葉。
 ほんとーのほんとーに、君は、そう、思っているの?

やる気が無い奴は帰れ!

 部活とかやってると、こんなことをコーチに言われた人もいるだろう。
 で、それで、本当に帰る人はそんなにいない。
「なんで契約取れなかったんだ?」「努力が……足りなかったからです」「そうだな、頑張れ!」みたいな変形パターンもあるだろう。
 つまり、マウントポジション(優位)の状態で、「あるべき」を振りかざすことで、さも、本心から思わせるような風にして、自分の口で、「あるべき」を語らせるのである。

 そういうことばっかり押し付ける会社なり、友人関係なり、恋人関係なり、家族なり、そういった集団とか関係というのは、まっぴらごめんである。俺はそんな同調圧力が蔓延した関係であれば、むしろ口をつぐんで孤独でいた方がよほどマシだと思う。

 いやいや、君、それは違うよ? そうやって自分を押し殺したコミュニケーションになるのは、君自身が心を開放していないからだよ?

 とか、こう、僕が書いてきたことに対して、批判をするのは良いのである。それはそれで、独善を回避する重要な関係性である。そうではなくて、自分の価値観考え方信念生き方信仰が、絶対的に普遍的に正しいと、そう思っている人たち。そういう人たちとは、可能な限り関係をもちたくないものである。

 いや実は、本当の「エリート」は、弱者や凡人たちに、さも、「君たちのためだよ」とか「自分自身で考えたこととして」とか、「自分の力で」とか、そういった主体性すら与えつつ、必要な方向へコントロールするのである。それは巧みに「感情」をもコントロールした上で調整されるために、それを暴くことは甚だ困難である。いやむしろ、その統治するエリートたち自身も、そうした「支配する」感情を排している場合もあるから、より複雑怪奇である。

本気で休むことの勧め

 疲れた。

 もう終わりにしよう。眠い。

 本当は、こんなこと書く気じゃあなかったんだけどなぁ。

来週のアニメを見るまでは死ぬな!

 的なことを書かれていた、ある精神科医さんの記事が面白かったので、それについて思ったことでも書こうと思ったけれど、いつの間にか苛々に心が支配されてしまってこんなん記事になっちまった。

 いやぁ、その落ち込むことというか、嫌なことあったんだよな。
 それをどう対処したらいんかね。まぁ、その、対処しようがないんだよな。自分の力じゃどうしようもないことってあるんだよね。そのうえで、どうすべきかを考えていく必要はあるのだけれど、でもそれって、頑張れば頑張る程MPの消費が激しいんだよな。

 でもこのMPって、視認できないから、残りが自分じゃよく分からない。だから、よく「休む」ことが重要なのだ。

 風邪の時もそう。鬱の時もそう。休息というのは、非常に重要なことだ。
 創作活動をしているときもそう。何か煮詰まってしまったら、休むことが必要だ。

 しかし、この、休むって、どうやったらえんやろう。
 身体を休めるというのは、横になっていればいいかもしれない。でも、精神を休めるには、どうしたらいいのだ?

心の休め方

 まぁ探してみても、そんなすぐ役に立つ情報は手に入らない。上の記事は、まぁ間違ってないだろうが、結局、「自分のこれまでの経験から、心休まる方法を思い出してみましょう」的な感じである。結局自助努力だ。まぁそういうことだ。結局、「良く生きるためには、良く生きることを知らねばならない」(エ・ンドウ著『生きる意味を徹底して考える』P.★引用)ということである。

(疲れた、というか、苛々、というか、何だか「めんどくせぇ」って感じだ)

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思考整理用の記事(コメント御礼)
2017/02/02 18:00 | Comments(4) | 思考及び書くこと
今日の一言「鬱状態の制御が肝要だね」「せっかく早く帰ったのに惰眠とは情けない」

頭とスケジュールを整理

 書きたいことがある、ないとは別として、忙しすぎて制御ができていない(※)。
 ここで、一つ提案なのだけれども、「時間が無い」として、できるだけ「整理された」言葉で短縮メモしようというのは方法としてはアリだと思いながら、ある意味残念なことに、「書きながら整理する」という方法もあるのだということだ。

 本来、先日のコメントにおいて、「情報過多である」とのご指摘を受けたところである。これは全く私もそのように感じていて、それゆえに、小見出しは5つまで、というルールを設けたところでもある(早速先日破っていたけれども)。
 ただ、これは、できるだけ不真面目に読むべきものである、と思う。頭の良い人や、真面目な人などは、本、書籍、記事、文章を、できるだけ「精読」しようとする。言葉の一つ一つの意味を理解しながら、文脈を理解し、この著者は何を言わんとしているのか、何を理解すべきなのかと、積み重ねながら読んでいくのである。あまり好きな言葉ではないが、理系的、である。

 しかしそもそも、「あーそれでねぇ、というか、あのー、いやぁ、その」とか、そんな言葉が入っている時点で、真面目に読む価値などないのである。
 しかし同時に、その間、タイミング性、口語性というものもある。人間の脳の理解構造としては(もちろんいつものとおり、頭の回転がすこぶる速い人は論外であり、僕はいつも「凡人」を想定している)、人から発せられた言葉について、その意味を、瞬時に理解することは「無い」のである。

※忙しい自慢としかならない。ただし、この「忙しい」と感じることの状況をメモすることの意味については以前述べた(記事記述時の状況把握)。

理解スピードと口頭理解

 僕の記事においては、同じ意味の言葉が、並記して書かれている。上の例で行けば、「本、書籍、記事、文章」と並記しているが、別に「文章」とだけ書けばよいのである。意味理解、文脈理解としてはそれで十分である。
 この並記は、文章表現としては、エラー、間違いである。しかしながら、言葉の意味については、「クオリア」なんて概念を持ち出すまでもなく、人それぞれ異なっている。それはもちろん、教養の多寡という問題もありながら、その人自身の来歴という問題など、思考体系が全く同一であるという考えなど、捨て去った方がいい。まぁそれをよく分かっていない人が多いために、争いが絶えないのだと、僕はひそかに思っている。
 それはともかく、並記の理由というのは、その「僕の中では同意味」としていることを、可能な限り多くの人への理解可能性のための、傲慢な語を使えば「配慮」なのである。
(そしてもちろん、この「限りなく多くの人への」というのは、未来の自分も含まれる)

ルーチンについて

 もうすでに24時をまわっている。惰眠のせいで、それほど眠くない。ルーチンもまだしていない。
 ところで、身体を鍛えるというのは、面白いことだと思う。
 肩こりがひどいのはあまり改善されていないし、服を着るとみためには全然わからないけれども、脱いでみると結構変わってきている(というか、数年前に戻ってきているといったほうがいいか)。
 ほんと、真面目に筋トレをされている方には、とてもじゃないが「やってます!」となどいえない程度であるけれども、100日ぐらい続けているとそれなりの効果はあるということだ。
 この小さな積み重ねが、楽しい実感、嬉しい実感につながってくれたらいいと思うが、まぁ、あまり期待はしない方が良い。

目標へのアプローチ

 さて、先日の目標を振り返ってみよう。まず、大きな目標として、2017年は、「整理の年」である。この整理とは、思考および住環境を含める。
 そして、整理の語の定義としては、ここでは、「捨てる」ことと、「体系化すること」が挙げられる。

 大目標へのアプローチとしての目標は、2月末までに、「人間とは何か」を読了することである。





 そして、その中目標へのアプローチとしては、一週間に90ページ、ということであった。
 現在、120ページほどまできた。
 今週末までに、180ページまでいかなければならない。

 で、ルーチンと絡めて、音読をしているのだけれども、だいたい平均すると、1ページ3分弱ぐらいであることが分かった。2ページで5分ぐらいである。
 ということは、残り60ページなので、あと三日ぐらいで150分必要である。単純に3で割ると、一日50分。平日に確保するには、最近では厳しい時間である……。

 と、こうやって分割していけば(これをエレファントテクニックとか言うらしいが、まぁ名前なんてどうでもいい)、より詳細なスケジュール感として、自分がこのタイミングに何をしなければいけない、という意識(動機)を向けていくことができる、というわけだ。

 これが、PDCAサイクルの、チェックとアクションの部分である。
 小まめにチェックするのも大切だけど、そもそもの、「目標」を意識することを忘れてはならない。
 ので、この目標については、紙に書いて机に貼ってある。いやでも目に付くわけだ。

目標よりも大切なこと

 と、まぁ、上のようなことは、書店で新書を探したり、ネット検索すれば、いくらでも仕入れることができる。
 が、その、目標を達成する(小手先の)テクニックよりも重要なことがある。
(と、何か大きなことを書くような前ふりをしつつ、まぁこれだって探せばいくらでも手に入る情報でしかない(※1)だろう)

 それは、目的(動機)の意識化である。

 そもそもこれ、何のためやってるんだっけ?
 という、強烈な問い、WHY、WHY、WHY!!! というのを、「は? バカじゃね?」「○○だからに決まってんじゃん」と磨り潰し退けられるような、強烈な目的(動機)を、常に意識していなければならない(※2)。

 その強い目的(動機)がはっきりと、明瞭になっていないと、眠いとか、お腹空いたとか、今日は苛々して気分がのらない! とか、そんな生理的欲求に忽ちに負けてしまうのである。
(この生理的欲求対処、としては、「環境構築」も重要であることは言うまでもない、とかいいつつ書いてるけど)

※1:この、「しかない」という考えが浮かぶことが、「病的である」という指摘なのが、フランクルさんの「人間とは何か」で述べられている、気がする。まだよく分からないが、これに対しての見解について、是非読み取りたいと思う。読み取れたら記事にして、それを音読して、ウォークマンに入れてきいて、繰り返しインプットしたいと思う。

※2:これとは別に、何かを実現させる方法は、実はある。それがルーチン(決まりきった定常的な行動)である。ただし、ルーチンとは、それ自身が目的化した目的的行動である、とも言い換えることが可能だ。甚だ詭弁的だが、そう考えれば、結局大事なのは目的、となる。

コメントありがとうございます

 最近、コメントとか拍手とかをしてくださる方々が多く、大変嬉しい限りである。

 コメントについては、拍手コメント含めて、すべて拝見・拝読させて頂いております。この場を借りて、改めて厚く熱く御礼申し上げます。

 ところで、神経症的な私としては、すぐさまレスポンスができないことについて、大変申し訳ない感覚が生じるのである。さらに、この記事を含めて、最近はある方を参考にして、若干のタイムラグ(予約投稿)になっていることが多いのである。

 ということは、コメントを当日18時に頂いたとして、19時に予約投稿で記事が投稿された場合に、「おい、俺のコメント差し置いて記事書いてんのかよ。ちょー不快だぜこいつ」と思う方もいるだろうと思うのである(いないかもしれない、ただ、様々なブログなんかを見ていると、まぁそんな人も少なくない)。

 そもそも、コメント(その他投稿サイトに対する感想など)に対して、作者が必ず返信しなければならない、というルールは、実際には存在しないと僕は思っている。
 とはいえ、それは、ある意味においては、暗黙のルールだと実は思っている。感想やコメントをくれた方に対して、例えその内容が、自分の意図に反するものであったとしても、感想やコメントをくださった方への感謝の気持ちは、表明すべきだと思うのだ。

 いやもちろん、「ある意味で」と書いたのもあるが、その感想やコメントが、「害毒」であること当然ありえる。
 害毒……例えば、誹謗中傷だったり、「いやいや、その考えは間違っている」だとか、「絶対こうしたほうが面白いよ!」だとか、そうした、「決めつけ」的なものである。
(あー、まぁ、僕は結構そういうのも慣れているから、別にそういった感想やコメントをもらっても問題ないけど、それが嬉しいかというと、多分そんなことはなさそうだ)

 逆に、である。
 誹謗中傷とか、「荒らし」に対して、無視するのが一番良い、というのは、まったく至極論理的である。筆者著者作者からのレスがあると、感想やコメントを書いた人は嬉しいのだ。その嬉しいというのは、荒らしの人であっても、同様だ。むきになって反論してくる様が、逆に面白かったりするのである。
 だから、「おい無視すんなよカスが!」とか言ってくるとしても、完全無視していればそのうち飽きてしまうだろう。まぁ、エスカレートすると、DOS攻撃とか物理的に攻撃をしかけてきそうであるが。まぁそこまでいけばそりゃ犯罪だ。

 逆に、である。
 感想やコメントに対して、返信しない人には、なんか、それなりの対応でいいのかな、って思うのである。これは仕方がない。それに、感想やコメントをそれほど欲さない人もいる。単にアフィとか収益が目的なら、PVだけあればよかったりするし、その目的じゃなくても、単に「読みましたー」的な意味があるだけで、満足する人もいるのである。

 まぁ、そんな一般論的なのはどうでもよく。
 僕は、どうかといえば、そうだなぁ……やっぱり、自分の書いたこと(思ったこと)について、それが相手にどう伝わったのか、どういった感情を与えられたのか、というのを、やっぱりPVとか数字じゃなくて、それを言葉で、文章で欲しいなと、そう思う。
 いやまぁ、ボイスレスポンス(音声による返信)とか、そんな機能があればそれでもいいけど。ただ、どこでもいつでも性を考えると、聞くの面倒そうだな(かっこわらい)。

 おぉ……かなり厳しい時間になっている。寝よう。

(睡眠不足解消と思考整理とどっちを優先すべきか)

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憂鬱および不愉快な感情の制御について
2017/01/31 18:00 | Comments(4) | イライラ対処
今日の一言「何だか二日間ぐらい調子が良くないな」「失言か、頑張ろうという思いが原因なのでは?」

何とも憂鬱である

 不愉快な感覚が、どうにも続いている。
 体調が悪いわけでもない。何か、特段、イベント(事象)が発生したわけでもない。

 ただ、得体のしれない苛立ちが身体の周りを浮遊しているようだ。

 何故だ? 何があった? 俺は誰だ? 俺は何を求める?


 これは、この感覚は、「生きる意味は何ぞや」とか、随分ユートピア的なことをのたまっているときには、発生していない状況である。これは、今までにあった感覚・感情なのか、それとも、上手く表現できなかっただけなのか。

 分からない、ただ、あまり、良い状態ではなさそうである。この状況のときに、どう対応すればよいか、よく分からない。風呂か? ごはんか? ううむ、生理的な原因ではないのかもしれない。

書くことが分からなくなる

 読む、ことの方が楽だなぁ。書くの、疲れる、アウトプットするの、疲れる。疲れるとか嫌だとか面倒だとか、そういうマイナス言語使うと、脳のパフォーマンスを下げるからよくない。
 でも、疲れるもんは疲れるんだ。休む時は休むんだ。そのバランスである。バランス……随分テキトーなものいいである。

 精神医学において、精神療法と薬物療法とがある。どちらが重要かとか、そういう問題じゃない。鬱がひどくなって今にも自殺しそうな人に、薬の処方が必要な時もある。しかし、今まさに生きる意味を失って自殺しようとしている人へ、生きる意味を見つけるための療養が必要なときもある。

 書きたいことは、結構、あったはずなのに、どんどん抜け落ちていく。そして、今、ここで、アウトプットしようとしたとき、何も浮かばない。この哀しさ……、自分というモノが、抜け落ちていくような感覚。

 目のメタファー。正常な目の機能は、目、それ自体を見ない。異常になると、目、それ自体が見えるようになる、それは、まともな視野を保てないだろう。
 自己、も同様であるという。正常な自己は、自己自身を見ない。自己距離化、自己超越化されている。

 何か結節点、書くことの、そのきっかけ、契機。

 それが、抜け落ちていく。

 以外に早く帰ってきたと思ったら、既に23時を過ぎている。3時間ぐらいは、身体の重さで何もできなかった。寒かったのだ。部屋が、寒かった。

 あーその、なんだ、ダメだ。書けない。

お金の話

 家計の見直しをしてみると、スマホ代が高いことに気づく。データ容量的に、それほど使っていない。1か月1.5GBぐらいである。の、わりに、定額プランに入っている。よし、1GB制限に変えてみよう。それで1000円ぐらいは安くなる想定。現在7000円~8000円である。
 余計な通信をしない、とすれば、ダラダラとネットをみるようなこともなくなると思う。時間と、お金の節約だ。

 電気代は、好き放題に使って4000円~5000円ぐらい。水道代は2か月で3000円ぐらい。ガス代が3000円~4000円ぐらい。ネットが、5000円ぐらい。

 そうすると、インフラで2万3000円ぐらいになっていることになる。
 うーむ。高いな。減らそう。

 物も、もっと減らそう。書類は大分減ってきた。今年は整理の年だ。物も、お金も、思考も、全般的に、クリアにしていく。
 そういや、大学の同窓会みたいな通知がきた。出会い(職業・異性)とか求めるなら、行った方がいーんだろうな。
 気乗り、しないな。

 何だか最近、先輩からの飲み会の誘いとかも断っている気がする。付き合い悪いとか思われてきたかな、さすがに。まぁ仕事が嘘じゃなくて忙しいってのもあるのだけれど、実際外の部署にいると分からないからな。

 趣味のサークル的な奴(異性的なのは無い)も、先日は行ってきたけれども、何だか、気乗りがしていなかった。何故だ、まぁ、行ったらそれはそれで楽しかったけれど。

 投資のセミナーにも参加してきた。一つ二つ、やってみようかな、というのがあった。けれども、気乗りがしない。

気乗り

 あー、なるほど、これ、多分、あれだ、その、鬱モードだ。
 よくあるやつだ。躁鬱を繰り返すのである。それほど最近「躁」な気はしていなかったけれども、そうだったのだろう。

 この状態になると、これまで続けられている、ルーチン作業、筋トレ、ストレッチ、音読なども、何だかめんどーになってくるのである。そして、一日、二日とやめてしまい、そのまま、ずーっと頽落堕落に陥っていくのである。

 ここはまた、しばらく、ルーチンを維持することに意識を集中しよう。新しいこと、ヤメ。人と関わること、ヤメ。
 無理しない。ここは、体力、精神を温存する。
 いつも、この状態で、逆に「焦って」しまい、ますます鬱状態がひどくなっていくのである。そろそろ、自分の心身について、理解と実践をちゃんとさせたいものだ。

 気乗りしない、というか、何だか、苛々めいた感覚なので、ちょっといつもと違うのかもしれないが。
 む……鼻水が、これは、風邪気味なのかもしれない。やっぱり、睡眠不足は良くないのだろう。寝るか、しかし、昼寝して、変な時間に目が覚めてしまった。

こんな生活感まんさいの記事意味あるの?

 まぁ、他者にとって、意味はないだろう。別にお前がどうなろうがしったこっちゃない、と。

 けれども、とあるリンク先の友人(※)のブログにおいて、ウォーキングしたとか、寝過ごして失敗したとか、何だかやる気でねーなぁとか、そんなの読んでると、ああ、あの方でもそんなこともあるんだなぁ、そんな風に感じることもあるんだなぁ、と思って、ちょっと面白かったり、やる気になったりするから、あながち、生活感的な記事が完全無駄、ではないと思うのだ。
 これが、多分、FBとかツイッターとかだったら、うぜぇ、ってなるのかもしれない。その辺、よく分からないし、やろうとも思わない。というか、そう、ツイッターなんだが、そんなに呟きたいと思うことがない。いやお前、こんな長い愚痴とか書いとるやん、というのはその通りだけど、短い言葉で「疲れたー」とか、「ねむひ」とか書いて、それ、何? みたいな。これ、あまり公に書けないけれども、と言いつつ苛々のせいか、書いてしまうのだが、今とあるアカウントでやっているツイッターで、宣伝とか、そういった中身のない呟きが多すぎて、どうにもあまり、使う気になれない。正直無駄な情報が多い。俺の使い方が悪いのかもしれないが、例えば、世界の綺麗な風景BOTとか、創作に必要なネタBOTとか、定期的に面白い情報を投下してくれるものを読むのは良いのだけれども、同じ作品の宣伝を、何度も何度も繰り返したり、文脈が無いと分からないようなつぶやきだとか、先述の中身のないつぶやきだとかが多くて、辟易である。
(いや、最近ツイッター始められた某方のことは全く意図していない。サイト更新しました! とか通知は良いのだ、逆に嬉しいものである)


※友人、と書くと、おこがましいのだろうか? 友人……と言っていいのだろうか? 相手からはそんな風に思われてないのではないだろうか? そんな思いが即座にはしる。ただ、友人って、何なんだろう。会社で知り合って、趣味の活動を一緒に休日にする人もいるけれども、会社で知り合った人は友人とは言ってはいけないのだろうか? 年齢が違うと、先輩後輩、になって、友人ではない? ネットで知り合った人は友人ではない?
 なんだろ、俺は正直、どうでもいいと思う。他者との関係に対して、知り合いだとか、友人だとか、親友だとか、知己だとか、そんなレッテル貼ることに意味を感じない。とはいえ、その、関係の社会学的な、どこからが友人という状態になるのか、それが社会状況や、年齢コーホートや、文化価値などに左右されるのだろうか、という研究をやってみようと思ったことはある。先行研究が少なすぎてやめた。という、誰もやらないというのは、やっぱり、どうでもいいことなんだろう。

小見出しが超えてるよ!

 これが6つ目か。ただ、この記事は複数日の「つぶやき」のまとめなので、まぁ許してもらいましょう(自分ルールに対して)。

 ふむ……しかし、若干、書く前よりは、気分が落ち着いてきたような、そんな気もする。
 やっぱり、最近、何を書くかとか、構成とか考え始めちゃったのが、ストレスになっていたのかもしれない。

 2016年の4月~6月ぐらいは、もうほんと脈絡なければ、テキトウ感まんさいである。いや今もそうだけれども、もっとひどかった。この「苛々対処」記事カテゴリは、ほんとチラシ裏みたいな感じだ。というか、このチラシ裏って、何だろ、チラシの裏って普通印刷されていて、あんまり後ろが白紙のチラシってみたことないんだけど。ってこう、どうでもいいことを書いているのである。

 そうさなぁ、今日はもう時間切れだけど、またしばらく、無茶苦茶感情の吐露的なの書いてもいいかもしれない。それを公開するかどうかはおいておいて……いや、公開しないなら書かなくていい。公開できない感情ってなんだよ。素直になるんだろ? 率直に生きるんだろ? 自分を隠して生きるのはもう沢山なんだろ?

 おーいい問いかけじゃないか。好きだよ、そういうの。ちょっとまた、書く気が発生してきた。そうだな、問いかけ、大事だな。先日も、コメントを頂いて、落ち込んだりもしたけれど、私、元気です。

(魔女の宅急便風に)


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インプットの疲れと愚痴への批判
2017/01/30 18:00 | Comments(3) | イライラ対処
今日の一言「哲学のテクニカルタームが役に立つの?」「実践と実感が抜け落ちた言葉の定義に意味はないよね」

存在と時間

 ハイデッガーさんの「存在と時間」のさわりを読む。
 フランクルさんの「人間とは何か」に度々登場するので、そういえばどんなことハイデッガーさんは言っていたのだろうかと、確認してみたのである。ハイデッガーというと、「ダーザイン」「現存在」という言葉が浮かぶ。えーその、なんか、いま・ここでその目先の快楽とか生活とかにとらわれていて、死の不安から目をそむけて生きている人がいるけど、んぁーなんかその、真面目に生きろや! 的な奴だっけ? とか、もはやそんな理解しかなかった(ひどい話だ。でもそんな程度の知識でも、センター試験は結構いい点数を取れるのである。あーそういえば、センター試験に倫理※ってなくなったんだっけっか?)。
 
 存在と時間の初めには、「問い」のやり方が述べられているという。
 問われているもの、問うているところ、問うている意味、の三つが要点である。理解のイメージ図としては、

 
(作:遠藤(所要30秒超テキトウ))
 こんな感じだ。たぶん。「問うている場所(=方法・文脈)」によって、例えばコップは水を飲むためのモノであったり、人を殴る武器だったりする(=意味が変わる)。
 こういった考えるための方法論的なのは、哲学から学ぶのもいいかもしれない。

 でも、だからどうした、という思いがどんどん強まってくるんだよなぁ。結局、「目先のことにとらわれて、死を紛らわして我々は生きているのだ。だから、堕落して生きるのではなく、本来的な自己を取り戻さねばならないのだ!」ということを言っていたとして、それ、キルケゴールさんの実存哲学とか、よくあるスピリチュアル系のお話しとかと、何が違うのか、ということを、思ってしまうのである。いやぁ、きっと、もっと高尚な崇高な、緻密で大事な意味があるんだろう。

 けれども、その崇高な理論を理解するよりも、僕は、今現に生きている人たちの、悩み苦しんでそれでも現実世界で生きてやっている人たちのブログでも読んだ方が、面白いと思うのだ。

※追記:なくなってはなかった。倫理、政治・経済なるものは追加されているようだった。

愚痴だらけのブログは面白くない

 過去を悔恨し、ひたすらに、嫌だ、つまらない、苦しい、痛い、絶望した、面白くない、会社辞めたい、友達欲しい、恋人欲しい、上司むかつく、あの女うぜえ、などなど、そんな愚痴ブログは面白くない。

 確かにそれは、「苦しんで」いるのかもしれないが、悩んでいない

 言語化できていない。

 いや別に、そういった表現が、一切書いてはならないとか、そういうのではない。というか、あっていい。あった方がいいその方がリアリティだ。けれども、ただそれしかない言葉の群れは、すぐに飽きてしまう。

 苦しい苦しい苦しい苦しい苦しいあああああいやだあああああ、と、24時間ずっと続くのならば、まず、書いていることなどやめて、救急車を呼ぶのが先決だ。
 ということは逆に、だ。苦しい苦しいイタイイタイ、ということを書いているのは、意外やに、大丈夫だ、ということだ(これは甚だ矛盾だが)。

 で、あるならば、僕が書いていることは、結局、道楽的であり、単に暇つぶしでしかないということなのか。これに対しては、明確に否、と答えようと思う、僕にしては珍しいことだ。
 結構、本気で書いているのである。その「本気」というのも、結局何ぞやという思いが同時に生じつつ、それでも、何とか自分をごまかして、本気で書いているのである。

本当の問題と煩悶について

 生きる方策は、以下に整理される。

1.現存在として生きること(「いま・ここ」の積極的追及。凡人として生きること。)

2.信仰的に生きること(宗教とか、お金とか、超越的なものを信じて生きること。)

3.本来的な自己に従って生きること(自己実現欲求とか、貢献心を充たしながら生きること。)


 で、だ。大抵、「生きる意味」を問う哲学は、――というよりも、哲学とはそもそも人間存在について明らかにすること(啓くこと)を目的とするはずだが(※)――「1.」はダメなので、「2.」または「3.」として頑張りましょう! という結論なのである。

 そういった結論が分かってしまえば、正直、そこに至るみちすがら、方法論的なのに、それほど関心がもてなくなってしまうのである。
 推理小説のオチから読む人もいるということだが、僕はネタバレすると途端に読む気がしなくなるタイプである。古畑任三郎シリーズは面白かったけど。


※ヘーゲル哲学を、イケメン哲学だ、もてたいだけだろバーカバーカ! と表現された方の本は結構気に入っている。

人間とは何か

 今読み進めている、フランクルさんの本も、上の、「2.」か「3.」な感じである。まだどっちだかよく分かっていない。ただ、この「人間とは何か」では、少しその切り口が違っていて、期待している。
 それは、人間を、「意味を求める存在である」という前提においている点である。
 マズローの自己実現欲求と同じじゃないか、と言われると、うーん、その違いを今上手く表現できないけれども、違う、と思う。いや、同じなのかもしれないけれども、見方というか、表現が、切々と迫ってくるものがあって、面白い。なんとか、週刊目標の90ページは読み進められた。ふぅ……しかし、結構大変である。
 平日は殆ど時間が取れないため、土日に100ページ近く読み進めなければ、2月末までの読了という目標が達成できない。

 ただ、学び取れること、インプットしたいなぁと実感レベルで思わせてくれることが結構多いため、ここは、あまり好きな言葉ではないが、踏みとどまって、頑張っていきたいと思う。

小見出しの5つ目

 おー、おー、そして最後の小見出しか。難しいなぁこの書き方。何だか、制約があると、本当に書きたいことが書けないのではなかろうか? いや大丈夫、そんな、完全に暴走するときは、制約など無視して書きなぐることだろう。こういった意識が働いているうちは、それでいいのだ。

 あー、その、先日、妄想テレパシーという漫画が面白くて泣いた、と書いたけれども、

外見至上主義

 ↑これも面白くて、ついつい最新話まで全部読んでしまった。
 なんだろ、単に、「イケメン転生でチート無双やっふぉい爽快!」というのもそうなのだけれども、いやぁまぁ、ファンタジーなんだけど、作者の批判的な人間理解が共感もてるなぁと思った。
 実際これ読んで「おもしれーきゃはは」とか言ってる人たちも、いざ現実世界においては他者を傷つけたりしてるんだろう。因果で虚しい話だ。おぅ? 自分は違うみたいな書き方、気持ち悪いって? そうだなぁ、多分、俺がイケメン超絶喧嘩もパネェって生まれだったら、そんな弱者の気持ちなど分かろうともしなかったかもしれない。そういう意味では、俺も一般大衆凡人弱者ピーポーに過ぎない。

 まぁ、ただ、こういった作品を読んでいると、先日、「過去の認識? そうっすなぁ、まぁ、若干悪いことが多かった、って感じッスかね!」とか書いていたけど、いやぜってぇ悪いことばっかだったぜ! と思わせてくれる(かっこわらい)。

 この、負け犬根性というか、トラウマ、劣等感、コンプレックスというか、そういった諸種の心的な根源について――、そういったものは、心理学的なもの、精神療法的なものによって、「明らかにすること」は可能なのだろう。
 これ系の言語化は、かなり恥ずかしげもなく、特に最近は惜しげもなくやってきたと思っている。そしてそろそろネタ切れ感も出てきている(※)。

 その、心理学的な、催眠療法的なことは、生きる意味への問いかけに対しては、無価値なのである――とするのが、人間とは何か、フランクルさんの本に表現されていることなのである(たぶん。まだ全部読めていないから断定できないけれども、90ページぐらいの間においては、それが読み取れる)。

 それであー、その、時間切れ。

(どっと疲労感が身体を包み込む)

※いざ、自分の惨めな過去を書き出してみると、タスクリストに落とし込むと以外にやることが少なかったりするのを気づくように、「まぁ、別に大したことなくね?」という思いにさせられることがある。これは、過去に対するユーモアである。相対化である。忘却である。連続性の断絶である。それが、良いことなのか、悪いことなのか。判断する材料は、今のところ無い。

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過去の認識が与える現在について
2017/01/29 13:00 | Comments(2) | ポジティブ思考
今日の一言「すべての面のすべてのことが、日々ますます良くなっている」「現状追認の危険は過去の否定と現実誤認でしょうね」

人生を振り返って

 過去の自分の人生について、いったい、どういった評価を与えるのか。
 先日、重要な視点というか、問いかけを頂いた。

 まず、過去の認識、というものに、特段定義は不要だろう。これまで自分が経てきた人生、来歴、それらに対する自分の感覚・思考についてである。
 この記事の目的としては、一般論になるのではなく、僕自身が、一体全体どのように、自分の人生について考えているか、ということをまず明らかにする。
 そのうえで、「良い・悪い」の判断を与えることによる、現時点性に対する影響を考える。

過去に対して良い印象をもっているか?

 基本的に、良いことも悪いこともあった、というのが、通常であるだろう。
 そのバランスの崩れが、神経症や精神病と言った状態である。まずもって、自分の数十年の人生に対して、一元的な評価を与えるというのは、難しい作業であることを確認しておく必要がある。
 次に可能であることとしては、その人生に、期間を設けて分けることである。ここで、スペクトルとかパースペクティヴとかタームとか、よく分からない言葉を用いる必要はない。単純に、小学生のころ、中学生のころ、高校の頃、大学の頃、社会人のころ、と分けていくのが一つ。
 しかし、この期間の分けは、単純な組織(小中学校)に属することだけで済まされない。人によっては、親が転勤族で、転校を繰り返していた場合もあるだろう。親など身近な人の死が影響する場合もある。友人や恋人関係など、取り巻く人々との距離(付き合い方)によっても、分けることができるだろう。

 この自分の人生を「分ける」ということ。
 これについても、実は非常に困難な作業であることを、確認しておく必要がある。確かに、小中学校は義務教育で、もちろん昨今は、フリースクールとか、様々な学習形態もあるわけで、単純にそれが有効な分類ではないわけだが、多くの人にとって有効な「分け方」である。
 もう一つ、住所に着目したこと、引っ越しについても、客観的な事実がもとになるため、分かりやすい。

 しかし、実際に自分の人生に対して判断をしていくためには、そうした分けだけでなく、より「感情的な」「思考的な」分けが必要になってくるのだ。

 しかしそのことは、既に、その行為自体が、自らの「判断」または「感情」が移入されているために、複雑さを増していくことになる。まわりくどく書いてしまったが、単純に、「分ける」その行為自体が、既に判断になっているということである(当たり前のことだ)。

 しかしその、当たり前のことが、考えることに対しての障壁となる。無意識に、「良かった時期」と「悪かった時期」を分けようとする判断がはしるのである。

 これの何が問題なのか?

 当初の目的を振り返ってみる。いま僕たちは、自分の人生について、統一的な判断を与えようとしたのである。しかし、そのままでは「人生」を捉えることが難しいため、ある時期に区切ってみようと試みたわけだ。しかしながら、この時点で既に、「判断」がはしっているのである。

貴方にとって過去は良いものでしたか?

 故に、僕は、「良い人生でしたか?」と問われたときに、「今、まさに」と答えるかもしれない。
 つまり、過去は既に、なかったかのように思うのである。そんなはずはない、過去はまさしく、連綿として続く自分の要素であり続ける。でありながら、過去について語るとき、僕は既に「過去を思う今の自分」でしかなくなっていることに気づくのだ(これも当たり前のことだ)。

 何が言いたいのか。そういう問題ではない、僕は、何を表現したいのか、何を思っているのか。何を感じているのか。

 なんというか、つまるところ、「過去」は、もはや良いものでも悪いものでもないのである。
 良いと判断をする今の自分、悪いと判断する今の自分しか存在していないのだ。

分けが分からない禅問答ですらない

 いじめられた過去があったとする、それは悪いことだ。
 彼女と幸せな時間を過ごした。それは良いことだ。

 いじめられていた時代は悪い時代。楽しく過ごしていた時代は良い時代。
 なるほど、その通りだろう。もっと抽象化してみよう。悪いことがあった時代は悪い時代。良いことがあった時代は良い時代。

 んんッ? よく分からなくならないだろうか?

 最初に書いた通り、人生は、良いこともあれば悪いこともある。それは、もっと小さな時間単位にしたとき、一日を通しても、同様に、よい時間帯もあれば、悪い時間帯もあることだろう。通勤中に嫌なことがあったとして、仕事が終わった帰りに友人と出会い食事をして楽しい会話ができたとしたとき、じゃあ、その日は、良い一日だったのか、悪い一日だったのか。

 長いスパン(期間)にしたとしても、同じことがいえないだろうか。つまり、長い期間をとったとき、その中には、良いも悪いも、酸いも甘いも混濁しているのである。

 それに対して、「良い・悪い」を決めるのは、所詮は、「今の自分」であるのだ。

小見出しの5つ目

 小見出しは一つの記事に5つにしようと決めた。ということで、その5つ目だ。
 さぁ困ったぞ、結論を出せるまで十分に書ききれていない。

 もう一度聞こう。君は、自分の人生について、良いと悪い、どちらだと思う?
 いや、きき方を変えよう。良いことと悪いことの、どちらが多かったと思う?





 ……5分ぐらい悩んで、僕は、やっぱり、「悪いことが多かった」と答えたいと思う。

 ただ、その言葉をつむぐのも、非常に難しい感覚でいる。そもそも、過去の事象に対して、良いも悪いも、あまり思えないのだ。
 いやもちろん、このブログの説明文のように、「離婚したこと」というのは、悪いことなんだろう。いや本当にそうか? じゃあ、その悪いことから連続して、現在も続いている今の僕は、悪い状態なのか?
 いじめられた過去があるとして、そこから続く自分は、悪い状態なのか?

 違和感である。

 過ぎたるは猶及ばざるが如し、ということで、僕は、過ぎてしまったことは本当にどうしようもなくどうでもいいことに思っているのだと思う。であれば、僕は、過去の認識について、良いも悪いも、どちらも思っていないのだろうとすら思う。

 その前提で。

 その上で、やっぱり「悪いことが多かった」というのは、今現在、この時点において、まさしく、良い状態であるとしか思われない、ということなのだ。

 これは何ともバカげた考えである。しかし、だ。この、恐らく、これを読んでいる際の自分は、これを書いているときの自分よりも、良い状態であるのだろう。

 うぉぉものすごく意味わからなくなった! なんだ、その、良いも悪いも考えている時点でその状態が一番良い状態だろうよ! ってことだ! 多分!

(余計よくわからない)


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