今日の一言「現象学面白い」「知ったかぶり乙と言われることを恐れては思考停止になる」
僕も、幸せとは対概念(※)だからどうでもいいことだ、と言っていた。
偉くて人気があって有名な方が言った言葉は名言になる。
ネガティブで人気が無くて世に知られていない人が言った言葉は迷言になる。
そんなものだ。
結局、誰が言ったかが重要になるだけ。
そんなことはどうでもいい。「実感」が一番大事だ。
その、名言を言った人も、自分の感じたことを、率直に、実直に、真実のようにして語ったから、多くの人の心をうつのである。
だから、みんなが思ったその感情、言葉、心について、恥ずかしいと思う必要はない。
本気で思ったことならば、それは、名言になる可能性があるのだ。
つたない表現だろうが関係ない。
凛冽玲瓏な透き通って煌びやかな言葉である必要などない。
君の言葉で語るがいい。それが唯一無二の名言になるのだ。
※対概念とは、長い・短いといった、片方の概念が無ければ成り立たない事物や事象のことである。オリジナルを主張する気は全くなくて、恐らく、偉い哲学者や、経営者やその他多くの人が、もっとしっかり考えて定義していることだと思う。ただ、この対概念というのは、例えばポジティブとかネガティブといったことを考える上でも、自分自身の価値観を分析重要なため、敢えてインプットしている。
もちろん、独善に陥ることを避けるために、他者の思考を学ぶことは重要だ。しかし、
「フッサール」「エポケー」「超越論的還元」「本質直観」
とか、専門用語を噛み砕いて理解したとしても、それは、哲学体系の維持に寄与することはあるだろうが、自分自身に役立てるという点においては不足である。
俗的な言い方にならざるを得ないけれども、思考が必要なのは、問題があるからである。
問題の解決のために、考える必要が生まれるのである。
考えることそれ自体を目的としてはならない。(上で書いたとおり、哲学体系の維持を仕事とするなら別)
陽明学で「知行合一」という用語があるけれども、それは「実践も大事だよ」ということである。
ただし、これは、必ずしも「結論を出す」こととは一致しない。結論=答え。その答えというものが、いつも、どんなときも、誰にでも当てはまるというとき、それは、普遍的といったり、「真理」といったりもする。
この真理に近づこうとするのが、かつての「哲学」であった。過去形ではなく、今もそうなのかもしれない、ただし、19世紀~20世紀のフッサールの現象学の登場で、形而上的なものは否定されることになった。
正直、どっちがどっちの立場だったか忘れてしまったが、今も印象に残っているのは、「どこまでいっても客観的なことなどなく、世界は主観でしかない」という主張であった。それが友人の言だったか、自分の考えだったか覚えていない。
ただ、このテーマに対して、現象学は、「どっちでもよくね?」と答えるのである。
教科書的には、現象学とか、フッサールは、あまり重要視されていない。センター倫理の攻略本には、なんということか、一切登場していなかった。そのせいか、僕もまともに触れたことはなかった。ただ、◎◎の現象学という言葉が、結構よく聞かれる昨今である。そして、今読み進めている「人間とは何か」においても、現象学に触れる場面もあったため、少し調べてみることにした。
教科書的表現は、それが正確なのかどうか分からないが、どうにも分かりづらい。
この解説を読んで、初めて現象学に触れる人が、「おお、なるほど分かったぜ!」となるのだろうか。
ここから今回の記事では、この内容を、ものすごく簡単に、「僕レベルでも」分かるように理解に努めていきたいと思う。
すなわち、僕らが、認識しようがすまいが、実際にある、存在する、実在する、そういったものが客観とか、客体とか、そういうものだ。
ここは、難しく考えないようにしよう。
上の引用文で、「外に世界が実在するという日常の素朴な判断」というのは、なんてことは無い、僕らの「ふつーの」認識そのものと言ってよい。
対して、主観とは何か?
広辞苑では、「自分ひとりの考えや感じ方」とある。
これも、難しく考えないようにしよう。僕らが「思ったこと」や「感じたこと」それが主観だ。
しかし、ただそれだけであれば、主観と客観というのは、哲学的な問題にはなり得ない。
哲学的な問いにすれば、主観と客観は一致するのか? とか、主観と客観はどちらが包含的なのか、といったことになる。
ここで、主観と客観という用語を考えたときに、果たして自分は、主観と客観が同一のものだと思うだろうか?
僕は、別物だと思う。何故なら、僕が思ったこと、例えば創作的なことだとか、単なる妄想といったものも、僕は、「思う」ことができる。ただし、それがでは、誰もが認識できる「客観的」事実とか、事物として存在するか、といえば、そんなわけない。
だから、主観と客観は別物だと考えられてきた。
>外に世界が実在するという日常の素朴な判断を、いったん「かっこ」に入れて停止し(エポケー・判断停止)
という部分である。
何を言っとるんじゃ? と、ここでイラっとしてしまった人は、まずもって、この現象学を、現時点でそれほど必要としていないから、無理して学ぶ必要もない。
繰り返しになるが、あくまでも、自分の思考に役立てるために、学ぼうというのが本来の主旨である。大学のレポートとか、センター試験の勉強のためには必要ない。
この判断停止が必要な理由は、客観への疑問からである。
そこにリンゴはあるのか、とか、コップはあるのか、とか、例えを用いて説明されることが多いが、リンゴだと思ったら造り物だったとか、コーヒーだと思ったら黒酢だったとか、そんなことだ。(いやその例えだったら、単にその人の認識誤りなだけでは? 客観的なものは、絶対的に存在するのでは? という疑問もすぐさま浮かぶことだろう。ただこれは、絶対に存在する、という根拠をどこに見出すのか、という別の問題でもあるので、ここでは触れない。)
その客観ってものが成り立つ条件を明らかにしていこうと、みんな頑張ってきた。でも、見つからなかった。
だから、フッサールさんが、「いやいや、そもそも、客観だとして考えることを、いったん止めてみない?」と提唱したわけだ。
客観なんて、ホントはなかったんや……と。
ただ、僕が今向かっているパソコンのディスプレイは、実際に「ある」じゃあないか。これは何なんだ? コーヒーを飲む。醤油なんかじゃない、コーヒーだ。
コーヒーだ、と僕は「思った」「感じた」。
このこと自体に焦点を合わせてみようと、それが現象学的な考え方だ。
つまり、主観と客観は一致しないというよりも、主観と客観という構図ではなくて、「純粋な意識の内面に立ち返り、そこにあらわれる現象をありのままに記述し、考察」してみよう、ということなのだ。
いやそもそも、その「本質直観」って、「人間中心主義」とか「共同幻想」とか、「唯心論」とか、「クオリア」とか、それらと何が違うの?
もっと言っちゃえば、「我思う、故に我あり」と何が違うの?
神は死んだ、といったニーチェさんと何が違うの?
「この世は結局どこまでいっても、主観的でしかあり得ない」といった高校生の感じたことと何が違うのか?
僕が今回役に立ったと思ったのは、この現象学的な考え方には、「真理なんてない!」と投げ出してしまって、それで終わりではなかったことである。
確かに、エポケー・判断停止によって、客観的な実在を疑ってかかりなさい、とする。それは、懐疑主義的な感じも、初見では受けた。
ただ、その意味するところは、「客観を追い求めるのではなく、その主観的実在が成り立つ条件を考えるようにしなさい」というところである。
主観的実在……とか、また勝手な用語で書いてしまった。悪い癖である。ええと、分かりやすく書き直せば、「僕らがあると感じたことそれ自体」ということだ。
例えば、ギリシアのプラトンさんは、イデアといって、事物の根源的なものが存在する、という立場をとっていた。しかし、僕らが認識している事物は、そのイデアの陰影なのだと。だから僕らの世界は不完全なのだと。でも、イデアはあります! 真実のイデアを観ることによって、僕らの魂は救済されるのです! 的な。
いや、そんなもんありゃしませんよと。いや、あってもいいんだけど、取りあえず、そういった「客観的なものがある」という判断を、いったんやめてみましょうと。現象学はそう提唱するのである。
その上で、なお残った、僕らの感じたこと、思ったことの成り立つ条件を、見つめなおそうというのである。それが、「外界が実在するという日常的な判断をいったん停止して意識の内面的世界に戻り、そこにあらわれるままの事実を考察する」ということなのだ。
現象学とは何か
現象学は何の役に立つのか
現象学の本質が理解できた、とか、そんなおごり高ぶりはないけれども、恐らく、他の本を読んでいて、現象学を参考に記述されている箇所を読んでも、つっかからずに読むことができるぐらいは理解できたと思う。
こうやってインプットしていくと、だんだん「実感」と離れた「知識」になっていくことがあるので、そこは注意しないといけない。
ただ、先日書いた、「内因性抑鬱」と「心因性抑鬱」との違い、これがよく分からないまま、フランクルさんの「人間とは何か」を読んでいくと、段々訳が分からなくなっていくのである。
こういった、前提知識というのが無いと、理解したようなしてないような、だんだんモヤモヤが溜まっていってストレスになる。
じゃあ、その前提知識って、誰が、どこまで有しているのかというのは、非常に難しい問題である。
理解って何だ?
という、また新たな疑問というのも生まれてくる。
例えば、都道府県名とその県庁所在地を覚えたとしても、それが「わかった!」「理解した!」という気持ちになることはできないだろう。
◎◎なのは何故か? それは●●だからだ! といったときに、分かった、という気持ちになるのである。
だから、「理解」と「何故?」という問いは、対概念なのかもしれない。
問題意識がなければ、理解したときの快感も味わえない、ということである。
しかし、その理解のためには、結構苦痛な、暗記的作業も必要不可欠なのである。
その暗記的作業というのが、学校のお勉強とか、受験勉強である。だから、「勉強に意味あるの?」という子供の問いについては、別にがんばって答えてやる必要はない。「知らないよ。でも勉強以外に価値あることって、君は何だと思うの?」と聞いてやればよい。「遊ぶことだよ」と言うかもしれない。その通り! 遊ぶことは重要だ。だがその遊びとは何か。快楽追求することだけが生きるということなのか? 例えば、ゲームでも物語でもよい。何か素晴らしい作品に出あったとする、しかし、小説の陶酔できるような描写を味わうためには、ゲームの攻略本を読むための知識、そもそもそのゲームの根底にあるストーリーのモチーフとか、プログラムとか、……本当に楽しむためには、様々な知識や理解が必要である。
ただ、僕が好きな言葉で、「修証義」という作品の一文で、
「無常忽ちに到るときは 国王大臣親暱(しんじつ)従僕妻子珍宝たすくる無し 唯独り黄泉(こうせん)に赴くのみなり」
がある。
無常というのは、「死」のことだ。死が突然やってくるときは、国王とか大臣とか地位や、親しい人とか家来とか妻子とか、財産とか、それらが役立つ(助けてくれる)ことはない。ただ、一人で、死に向かうしかない、という意味である(注:遠藤解釈)。
人生というのは、過去の積み重ねである。これまで自分が成してきたことが、それが人生そのものである。死に対して、僕らがもっていくことができるものは何もない。ただ、自分自身だけなのだ。
と、この記事の結びが、現象学と何ら関係しないようになってしまったが、無理やりこじつければ、この死を思え、メメントモリ的な考えを、ドイツの哲学者ハイデガーさんは提唱したのだけれども、このハイデガーさんが若いときに強く影響を受けたのが、そのフッサールの現象学であった。ということで、結びにさせて頂こう……。
(強引すぎる! そもそもタイトルとも合ってない気がする! 気にするな! 何とか分かりやすい主張にしようと思ったおかげで、この記事2時間ぐらいかかったぞ! 今週の目標が、やばい!)
名言とは
岡本太郎さんが、「私はね、幸せって言葉が嫌いなんです」と言っていた。僕も、幸せとは対概念(※)だからどうでもいいことだ、と言っていた。
偉くて人気があって有名な方が言った言葉は名言になる。
ネガティブで人気が無くて世に知られていない人が言った言葉は迷言になる。
そんなものだ。
結局、誰が言ったかが重要になるだけ。
そんなことはどうでもいい。「実感」が一番大事だ。
その、名言を言った人も、自分の感じたことを、率直に、実直に、真実のようにして語ったから、多くの人の心をうつのである。
だから、みんなが思ったその感情、言葉、心について、恥ずかしいと思う必要はない。
本気で思ったことならば、それは、名言になる可能性があるのだ。
つたない表現だろうが関係ない。
凛冽玲瓏な透き通って煌びやかな言葉である必要などない。
君の言葉で語るがいい。それが唯一無二の名言になるのだ。
※対概念とは、長い・短いといった、片方の概念が無ければ成り立たない事物や事象のことである。オリジナルを主張する気は全くなくて、恐らく、偉い哲学者や、経営者やその他多くの人が、もっとしっかり考えて定義していることだと思う。ただ、この対概念というのは、例えばポジティブとかネガティブといったことを考える上でも、自分自身の価値観を分析重要なため、敢えてインプットしている。
自分で考えるということ
他者の思想・思考を学ぶということと、自分で考えるということは、全く別物である。もちろん、独善に陥ることを避けるために、他者の思考を学ぶことは重要だ。しかし、
「フッサール」「エポケー」「超越論的還元」「本質直観」
とか、専門用語を噛み砕いて理解したとしても、それは、哲学体系の維持に寄与することはあるだろうが、自分自身に役立てるという点においては不足である。
俗的な言い方にならざるを得ないけれども、思考が必要なのは、問題があるからである。
問題の解決のために、考える必要が生まれるのである。
考えることそれ自体を目的としてはならない。(上で書いたとおり、哲学体系の維持を仕事とするなら別)
陽明学で「知行合一」という用語があるけれども、それは「実践も大事だよ」ということである。
ただし、これは、必ずしも「結論を出す」こととは一致しない。結論=答え。その答えというものが、いつも、どんなときも、誰にでも当てはまるというとき、それは、普遍的といったり、「真理」といったりもする。
この真理に近づこうとするのが、かつての「哲学」であった。過去形ではなく、今もそうなのかもしれない、ただし、19世紀~20世紀のフッサールの現象学の登場で、形而上的なものは否定されることになった。
現象学について
僕は、高校生ぐらいのとき、友人と、「客観」と「主観」の存在について議論(というかおしゃべり)したことがあった。正直、どっちがどっちの立場だったか忘れてしまったが、今も印象に残っているのは、「どこまでいっても客観的なことなどなく、世界は主観でしかない」という主張であった。それが友人の言だったか、自分の考えだったか覚えていない。
ただ、このテーマに対して、現象学は、「どっちでもよくね?」と答えるのである。
教科書的には、現象学とか、フッサールは、あまり重要視されていない。センター倫理の攻略本には、なんということか、一切登場していなかった。そのせいか、僕もまともに触れたことはなかった。ただ、◎◎の現象学という言葉が、結構よく聞かれる昨今である。そして、今読み進めている「人間とは何か」においても、現象学に触れる場面もあったため、少し調べてみることにした。
現象学は、外に世界が実在するという日常の素朴な判断を、いったん「かっこ」に入れて停止し(エポケー・判断停止)、純粋な意識の内面に立ち返り、そこにあらわれる現象をありのままに記述し、考察するものである。
日常では、世界が外に実在し、人間の自我もその世界の中におかれた一つのものと信じられている。現象学はそのような素朴な見方を逆転し、外界が実在するという日常的な判断をいったん停止して意識の内面的世界に戻り、そこにあらわれるままの事実を考察する。
――山川倫理
教科書的表現は、それが正確なのかどうか分からないが、どうにも分かりづらい。
この解説を読んで、初めて現象学に触れる人が、「おお、なるほど分かったぜ!」となるのだろうか。
ここから今回の記事では、この内容を、ものすごく簡単に、「僕レベルでも」分かるように理解に努めていきたいと思う。
主観と客観とは何か
客観とは、「主観の作用とは独立に存在すると考えられたもの」と広辞苑ではある。すなわち、僕らが、認識しようがすまいが、実際にある、存在する、実在する、そういったものが客観とか、客体とか、そういうものだ。
ここは、難しく考えないようにしよう。
上の引用文で、「外に世界が実在するという日常の素朴な判断」というのは、なんてことは無い、僕らの「ふつーの」認識そのものと言ってよい。
対して、主観とは何か?
広辞苑では、「自分ひとりの考えや感じ方」とある。
これも、難しく考えないようにしよう。僕らが「思ったこと」や「感じたこと」それが主観だ。
しかし、ただそれだけであれば、主観と客観というのは、哲学的な問題にはなり得ない。
哲学的な問いにすれば、主観と客観は一致するのか? とか、主観と客観はどちらが包含的なのか、といったことになる。
ここで、主観と客観という用語を考えたときに、果たして自分は、主観と客観が同一のものだと思うだろうか?
僕は、別物だと思う。何故なら、僕が思ったこと、例えば創作的なことだとか、単なる妄想といったものも、僕は、「思う」ことができる。ただし、それがでは、誰もが認識できる「客観的」事実とか、事物として存在するか、といえば、そんなわけない。
だから、主観と客観は別物だと考えられてきた。
本当に客観ってあるのか?
でも、そもそも、客観的な事物・事象というのは存在するのだろうか? というのが、上の引用からいくと、>外に世界が実在するという日常の素朴な判断を、いったん「かっこ」に入れて停止し(エポケー・判断停止)
という部分である。
何を言っとるんじゃ? と、ここでイラっとしてしまった人は、まずもって、この現象学を、現時点でそれほど必要としていないから、無理して学ぶ必要もない。
繰り返しになるが、あくまでも、自分の思考に役立てるために、学ぼうというのが本来の主旨である。大学のレポートとか、センター試験の勉強のためには必要ない。
この判断停止が必要な理由は、客観への疑問からである。
そこにリンゴはあるのか、とか、コップはあるのか、とか、例えを用いて説明されることが多いが、リンゴだと思ったら造り物だったとか、コーヒーだと思ったら黒酢だったとか、そんなことだ。(いやその例えだったら、単にその人の認識誤りなだけでは? 客観的なものは、絶対的に存在するのでは? という疑問もすぐさま浮かぶことだろう。ただこれは、絶対に存在する、という根拠をどこに見出すのか、という別の問題でもあるので、ここでは触れない。)
その客観ってものが成り立つ条件を明らかにしていこうと、みんな頑張ってきた。でも、見つからなかった。
だから、フッサールさんが、「いやいや、そもそも、客観だとして考えることを、いったん止めてみない?」と提唱したわけだ。
客観なんて、ホントはなかったんや……と。
本質直観
なるほど、1歩ゆずって、客観的なことを証明するのはできない、としよう。ただ、僕が今向かっているパソコンのディスプレイは、実際に「ある」じゃあないか。これは何なんだ? コーヒーを飲む。醤油なんかじゃない、コーヒーだ。
コーヒーだ、と僕は「思った」「感じた」。
このこと自体に焦点を合わせてみようと、それが現象学的な考え方だ。
つまり、主観と客観は一致しないというよりも、主観と客観という構図ではなくて、「純粋な意識の内面に立ち返り、そこにあらわれる現象をありのままに記述し、考察」してみよう、ということなのだ。
さてこれをどう役立てるか
と、まぁ、考察とか解説もどきをやってみたけれども、どうにも面白くない。いやそもそも、その「本質直観」って、「人間中心主義」とか「共同幻想」とか、「唯心論」とか、「クオリア」とか、それらと何が違うの?
もっと言っちゃえば、「我思う、故に我あり」と何が違うの?
神は死んだ、といったニーチェさんと何が違うの?
「この世は結局どこまでいっても、主観的でしかあり得ない」といった高校生の感じたことと何が違うのか?
僕が今回役に立ったと思ったのは、この現象学的な考え方には、「真理なんてない!」と投げ出してしまって、それで終わりではなかったことである。
確かに、エポケー・判断停止によって、客観的な実在を疑ってかかりなさい、とする。それは、懐疑主義的な感じも、初見では受けた。
ただ、その意味するところは、「客観を追い求めるのではなく、その主観的実在が成り立つ条件を考えるようにしなさい」というところである。
主観的実在……とか、また勝手な用語で書いてしまった。悪い癖である。ええと、分かりやすく書き直せば、「僕らがあると感じたことそれ自体」ということだ。
例えば、ギリシアのプラトンさんは、イデアといって、事物の根源的なものが存在する、という立場をとっていた。しかし、僕らが認識している事物は、そのイデアの陰影なのだと。だから僕らの世界は不完全なのだと。でも、イデアはあります! 真実のイデアを観ることによって、僕らの魂は救済されるのです! 的な。
いや、そんなもんありゃしませんよと。いや、あってもいいんだけど、取りあえず、そういった「客観的なものがある」という判断を、いったんやめてみましょうと。現象学はそう提唱するのである。
その上で、なお残った、僕らの感じたこと、思ったことの成り立つ条件を、見つめなおそうというのである。それが、「外界が実在するという日常的な判断をいったん停止して意識の内面的世界に戻り、そこにあらわれるままの事実を考察する」ということなのだ。
知識と理解
ふぅ……。取りあえず、以下のサイトを読んでから、2日ぐらい経ってから、山川教科書の引用以外はほぼ自分の言葉でまとめてみた。現象学とは何か
現象学は何の役に立つのか
現象学の本質が理解できた、とか、そんなおごり高ぶりはないけれども、恐らく、他の本を読んでいて、現象学を参考に記述されている箇所を読んでも、つっかからずに読むことができるぐらいは理解できたと思う。
こうやってインプットしていくと、だんだん「実感」と離れた「知識」になっていくことがあるので、そこは注意しないといけない。
ただ、先日書いた、「内因性抑鬱」と「心因性抑鬱」との違い、これがよく分からないまま、フランクルさんの「人間とは何か」を読んでいくと、段々訳が分からなくなっていくのである。
こういった、前提知識というのが無いと、理解したようなしてないような、だんだんモヤモヤが溜まっていってストレスになる。
じゃあ、その前提知識って、誰が、どこまで有しているのかというのは、非常に難しい問題である。
理解って何だ?
という、また新たな疑問というのも生まれてくる。
例えば、都道府県名とその県庁所在地を覚えたとしても、それが「わかった!」「理解した!」という気持ちになることはできないだろう。
◎◎なのは何故か? それは●●だからだ! といったときに、分かった、という気持ちになるのである。
だから、「理解」と「何故?」という問いは、対概念なのかもしれない。
問題意識がなければ、理解したときの快感も味わえない、ということである。
しかし、その理解のためには、結構苦痛な、暗記的作業も必要不可欠なのである。
その暗記的作業というのが、学校のお勉強とか、受験勉強である。だから、「勉強に意味あるの?」という子供の問いについては、別にがんばって答えてやる必要はない。「知らないよ。でも勉強以外に価値あることって、君は何だと思うの?」と聞いてやればよい。「遊ぶことだよ」と言うかもしれない。その通り! 遊ぶことは重要だ。だがその遊びとは何か。快楽追求することだけが生きるということなのか? 例えば、ゲームでも物語でもよい。何か素晴らしい作品に出あったとする、しかし、小説の陶酔できるような描写を味わうためには、ゲームの攻略本を読むための知識、そもそもそのゲームの根底にあるストーリーのモチーフとか、プログラムとか、……本当に楽しむためには、様々な知識や理解が必要である。
意味
本当に楽しむ、という抽象的な表現を使ってしまったが、結局のところ、ご飯食べて「うめぇ!」エロいことして「キモちぃぃ!」睡眠とって「むにゃむにゃ」、の繰り返しでよければ、それはそれでよいだろう。ただ、僕が好きな言葉で、「修証義」という作品の一文で、
「無常忽ちに到るときは 国王大臣親暱(しんじつ)従僕妻子珍宝たすくる無し 唯独り黄泉(こうせん)に赴くのみなり」
がある。
無常というのは、「死」のことだ。死が突然やってくるときは、国王とか大臣とか地位や、親しい人とか家来とか妻子とか、財産とか、それらが役立つ(助けてくれる)ことはない。ただ、一人で、死に向かうしかない、という意味である(注:遠藤解釈)。
人生というのは、過去の積み重ねである。これまで自分が成してきたことが、それが人生そのものである。死に対して、僕らがもっていくことができるものは何もない。ただ、自分自身だけなのだ。
と、この記事の結びが、現象学と何ら関係しないようになってしまったが、無理やりこじつければ、この死を思え、メメントモリ的な考えを、ドイツの哲学者ハイデガーさんは提唱したのだけれども、このハイデガーさんが若いときに強く影響を受けたのが、そのフッサールの現象学であった。ということで、結びにさせて頂こう……。
(強引すぎる! そもそもタイトルとも合ってない気がする! 気にするな! 何とか分かりやすい主張にしようと思ったおかげで、この記事2時間ぐらいかかったぞ! 今週の目標が、やばい!)
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今日の一言「お金があっても大変なもんは大変だ」
一言、書かせて頂こう。仕事が、忙しい。
僕の今までの感覚でいくと、70点ぐらいをとるにも、残業を避けられない。
そりゃね、仕事の内容にもよるが、スピード感というのは大事なので、7割り程度でも、先に進めていくことも必要だから、100点に拘ってやたら時間をかけるのは間違っている。
しかしながらその、7割り程度をこなすためにも、対応案件が多すぎる。いやもちろん、僕の処理能力不足、と言われたらそうなんだが、取り敢えず現状、どうにもこうにも手詰まり感がある。
ここまでをこの日までにやろう、としていても、方向性が変わったり、追加案件が発生したりで、アンコントロールである。
問題は、思い通りにいかないことが多いと、僕は段々イライラしてきてしまうことだ。
他者への態度にも出てしまう。悪循環である。他者への態度が悪くなってしまうことそれ自体が、ストレスになるからだ。
とそんな感じでイライラしていたある日、とあるお客さんと会話する機会があった。その方が、とてもお金持ち、というか、資産をもっていた。不動産関係だが、軽く億をこえているという。仕事はしているが、不動産投資の方がメインとのことだ。
投資と、リターンが、もう、けた違いで、僕の全財産が維持コストみたいなレベルである。
そんな方がおっしゃるには、サラリーマンなんてやって、時間を切り売りしてるなんてばからしいと。もっと大きな考え方をして、夢をもたなきゃダメだと。
おー、やっぱりこんな人がモテるんやろうなぁ。
そんなお金持ちさんのお子さまたちも、やっぱり考え方がビッグだという。そもそも、子供の頃から高級な食べ物や服を与えられていたから、金銭感覚もそれなりだという。
そういう親に育てられたら、なおさら、サラリーマンとかやってらんないね、ってなるのだろう。
教育の重要性だ。
育ってきた環境の重要性だ。
で、まぁ、そういうのに憧れる人もいるのだろう。
ただ、負け惜しみにしかならないが、色々な人とかかわり合って、だましだまされ努力して、良い車や旅行を楽しみに頑張って、というのは、リターンが大きい点はまったく違うが、お金持ちもまた、色々大変なんだなぁ、と感じさせた。
冒頭の忙しさへの対処についてであるが、これはそろそろ、考え方の転換によって対応すべきかもしれない。
つまり、忙しいことを当たり前にするということだ。
最近、ノー残業デーとか、プレミアムフライデーとかそんな、長時間労働はいけないものだという風潮が広まっている。
ので、僕も、僕の実感からも、長時間労働はよくないことだと思うので、早く切り上げようと効率化を考えてはいるが、しかし、前述の通りがんがん、追加案件が発生するのだ。
それを、やらないようにするとか、他の人に押し付けるとか、まぁそんな方針をたてたりもしたが、この考え方を変えてしまってはどうか、ということである。
忙しいのは当たり前。21時から23時が定時であると考えるのだ。
そうしたら、仮に20時で終わったらよく頑張った! となる。
社畜乙とか、効率悪いとか、頑張ってる感出してキモいとか、そりゃもう、時代に逆行することをいってるから、いくらでも批判可能である。
それはそうなんだが、取り敢えずアンコントロール状態なら、劇的に状況を変えることなどできないのだから、考え方の転換をして、感情制御に努めたほうがましである。
もちろん。頑張って頑張った果てに、汚名を着せられたこともあるので、決して頑張ることを肯定するのではない。無理をするつもりもない。成果を求めるつもりもない。ただ、やるべきことをやるだけだ。
大事なことは、人のせいにも、上司のせいにも、会社のせいにも、社会のせいにも、国のせいにもせず、すべて自分のことであると、人生を引き受けることである。
と、書くと、じゃあ、人のせいにしてくるくだらない奴との対応はどうしたらよいか? ということが問題になる。そういうやつらとの対応も含めて、それらに対する行動もあわせて、自分で引き受ける必要があるのだ。
(この記事は抱負とかメモ的なものなので、あまりというか、ぜんぜん深い意味はない)
せこせこ働いてどうするのか
一言、書かせて頂こう。仕事が、忙しい。
僕の今までの感覚でいくと、70点ぐらいをとるにも、残業を避けられない。
そりゃね、仕事の内容にもよるが、スピード感というのは大事なので、7割り程度でも、先に進めていくことも必要だから、100点に拘ってやたら時間をかけるのは間違っている。
しかしながらその、7割り程度をこなすためにも、対応案件が多すぎる。いやもちろん、僕の処理能力不足、と言われたらそうなんだが、取り敢えず現状、どうにもこうにも手詰まり感がある。
ここまでをこの日までにやろう、としていても、方向性が変わったり、追加案件が発生したりで、アンコントロールである。
問題は、思い通りにいかないことが多いと、僕は段々イライラしてきてしまうことだ。
他者への態度にも出てしまう。悪循環である。他者への態度が悪くなってしまうことそれ自体が、ストレスになるからだ。
セレブとの会話
とそんな感じでイライラしていたある日、とあるお客さんと会話する機会があった。その方が、とてもお金持ち、というか、資産をもっていた。不動産関係だが、軽く億をこえているという。仕事はしているが、不動産投資の方がメインとのことだ。
投資と、リターンが、もう、けた違いで、僕の全財産が維持コストみたいなレベルである。
そんな方がおっしゃるには、サラリーマンなんてやって、時間を切り売りしてるなんてばからしいと。もっと大きな考え方をして、夢をもたなきゃダメだと。
おー、やっぱりこんな人がモテるんやろうなぁ。
羨ましいがしかし
そんなお金持ちさんのお子さまたちも、やっぱり考え方がビッグだという。そもそも、子供の頃から高級な食べ物や服を与えられていたから、金銭感覚もそれなりだという。
そういう親に育てられたら、なおさら、サラリーマンとかやってらんないね、ってなるのだろう。
教育の重要性だ。
育ってきた環境の重要性だ。
で、まぁ、そういうのに憧れる人もいるのだろう。
ただ、負け惜しみにしかならないが、色々な人とかかわり合って、だましだまされ努力して、良い車や旅行を楽しみに頑張って、というのは、リターンが大きい点はまったく違うが、お金持ちもまた、色々大変なんだなぁ、と感じさせた。
コペルニクス的転換
冒頭の忙しさへの対処についてであるが、これはそろそろ、考え方の転換によって対応すべきかもしれない。
つまり、忙しいことを当たり前にするということだ。
最近、ノー残業デーとか、プレミアムフライデーとかそんな、長時間労働はいけないものだという風潮が広まっている。
ので、僕も、僕の実感からも、長時間労働はよくないことだと思うので、早く切り上げようと効率化を考えてはいるが、しかし、前述の通りがんがん、追加案件が発生するのだ。
それを、やらないようにするとか、他の人に押し付けるとか、まぁそんな方針をたてたりもしたが、この考え方を変えてしまってはどうか、ということである。
忙しいのは当たり前。21時から23時が定時であると考えるのだ。
そうしたら、仮に20時で終わったらよく頑張った! となる。
評価を気にしないことと気にすること
社畜乙とか、効率悪いとか、頑張ってる感出してキモいとか、そりゃもう、時代に逆行することをいってるから、いくらでも批判可能である。
それはそうなんだが、取り敢えずアンコントロール状態なら、劇的に状況を変えることなどできないのだから、考え方の転換をして、感情制御に努めたほうがましである。
もちろん。頑張って頑張った果てに、汚名を着せられたこともあるので、決して頑張ることを肯定するのではない。無理をするつもりもない。成果を求めるつもりもない。ただ、やるべきことをやるだけだ。
大事なことは、人のせいにも、上司のせいにも、会社のせいにも、社会のせいにも、国のせいにもせず、すべて自分のことであると、人生を引き受けることである。
と、書くと、じゃあ、人のせいにしてくるくだらない奴との対応はどうしたらよいか? ということが問題になる。そういうやつらとの対応も含めて、それらに対する行動もあわせて、自分で引き受ける必要があるのだ。
(この記事は抱負とかメモ的なものなので、あまりというか、ぜんぜん深い意味はない)
今日の一言「価値あるものを生み出したい」「結局金だよみたいな言説に異を唱えたい」
「この物語は恐らく、需要はない。ただ、この物語を紡げるのは、人類史上私だけだろう。だから書かねばならないのだ」
と言った。
ある人は、
「私の人生の意味は、誰かに、私の生きた証を残すことです。会話であれ、作品であれ、世界に自分の記憶を残すことです」
と言った。
賢者の言に思う。
私はこれまで、何か「できること」、「人より優れていること」がなければ、生きている意味などないのだと、そう思ってきた。いや、思わされていた、のか。そういう環境に置かれていた。ただ、むしろ、自分の中では、否定し続けていたのかもしれない。それが、離人症的、解離的、分裂的な気持ちを生じさせていた原因と考えるのは、自然なことに思われる。
サイコパスの劇場版を見終わった。話しとしての進展などは感じられなかったが、一つの作品として面白かった。シビュラシステムの目指す世界と、ツネモリさんの考える正義との相反性がよりわかりやすくなった気がする。
恐らく、そうした作品でも現れているが、「何かを成すこと」「功利主義的な面」についての言説は、これからも多く触れざるをえないものだろう。「そういう環境」と上に書いたが、どこもかしこもそういうもんなのかもしれない。
いやむしろ、この点……つまり、「責任」や「業績」といった観点においては、何かを成就することというのは、決して否定されるものではないという点、それが、(価値とか、意味とかについての)問題を複雑で、分かりづらく、実感から遠いものにしているようだ。
この記事は、朝によるもので、物理時間が限られているため、以下、フランクルさんの説明のメモを抜き出して終わりとしよう。
それは、仕事、ということで、生み出されるものである。脳神経細胞の3つの本能のうち、知りたいという好奇心と、仲間になりたいという貢献心によって、「仕事」とか「会社」とか「組織」が生まれた。僕たちはみんな、仕事が面倒で、億劫で、休みが欲しいと年から年中言っているけれども、本当は、仕事というのは、本来、自ずからの欲求を満たしてくれる行為であったのだ。
ところが、専門分化した社会において、仕事そのものの価値(ここでは、社会とか組織への価値ではなく、自分自身・個人への価値のこと)というものは薄れてしまった。
どんなに働いても、誰かのためになっている、という貢献心が満たされるとは限らなくなった。しかしそれでも、しばらくのうちは、「家族」とか、親しい関係者に対して、会社という戦場で戦い、敵を倒し(=お金を稼ぎ)、家族を養っていくことで、貢献心が満たされていた時代もあった。
しかし、それも価値が希薄化していく。家庭の中での父親像は崩壊し、女性の社会進出は進み、核家族化が進み、家族という紐帯の意味が薄れていった。
(注意:上の社会論・時代論はテキトウである)
それでもなお、やはり広義の「仕事」というのは、意味を与えてくれるものである。
本記事と関係ないし、時系列もバラバラだが、最近、2012年のアニメーション作品、「ももへの手紙」をみた。まぁ、まぁ、面白かった。しかし、感動するほどではなかった。山寺さんや西田さんが妖怪役で出演していた。作画もよかったし、声優さんたちの演技もよかったと思う。
そうだなぁ、けれども惜しい、と思った点は、やはりストーリーについてだろうか。そのポイントになる妖怪が、物語の主軸に絡んできていないことだろうか。結局、描きたいだろうテーマと、「妖怪」であるべき理由が見いだせなかった。妖怪たちと「お父さん」との関係性も希薄だった。いや普通一般的な理由は色々あって、描写もされているのだ、けれども、何か「惜しい」と思ってしまった。あと、作画も綺麗だけれども、これだけでいうと、「君の名は。」の映像がやっぱり綺麗だった。でもきっと、テレビでやってたら、ダラダラと見ちゃうだろう。そんな感じ。
それでも、意味は失われないのだと、ヴィクトールさんは仰る。
しかし、この態度価値の説明は、薄かったので、上手く理解できなかった。というか、あまり説明がなされていなかった。この態度価値、非常に重要な概念と思うけれども、よく分からない、残念だ。
追記、しかし、その「態度価値」の説明について、むしろこの本全体で述べられているように思われる。
えー、でも、それってどうなの? と思う部分も増えてきている。ただ、ここで立ち止まるのではなく、当初の目標どおり、最後まで、2月中に読み進めることとしたい。
といったところで、自己エクスキューズだが、時間切れだ!! この三つの価値についてはおいおい深めていかねばなるまい。
あーでも、このまま終わるってどうなん? 何か面白いこと、書かなきゃまずいんじゃん?
せっかく読んでくれた人に、上に書いた映画の感想みたいに、「あー、なんか、時間の無駄、とまでは言わないけど、微妙だったな」みたいに思われちゃうんじゃん? それでいいんかい?
ええい、うるさい、だまっとれ。いいんだ、書け。文章を書くというのはなぁ、そんなたいそうな仕事じゃないんだよ。いや昔々は、紙が貴重だった時代や、硯に墨をすって竹に書いていた時代やもろもろは、偉くて優秀な人たちしか書いちゃダメだったろうよ。
今は電子で文字を書ける時代だぜ。「書く」ということに対してのコストが、非常に低くなっているのだ。しかも、WEB、インターネットというもので、特別な人でなくても、公に情報を発信できる世の中なのだ。
いやだからといって、ごみやチラウラみたいな文章を量産してよいということではないが、――【強制終了】
(就職とか面接とか、作文とかレポートとか、「自分の考え」をまとめる作業って、結局読み手に向けたものじゃん。(読解力を試す)そういう意味では簡単だよな。そうじゃなくて、実感を伴った文章を書くってのは、これは結構重い作業だと思う)
価値について
ある人は、「この物語は恐らく、需要はない。ただ、この物語を紡げるのは、人類史上私だけだろう。だから書かねばならないのだ」
と言った。
ある人は、
「私の人生の意味は、誰かに、私の生きた証を残すことです。会話であれ、作品であれ、世界に自分の記憶を残すことです」
と言った。
賢者の言に思う。
私はこれまで、何か「できること」、「人より優れていること」がなければ、生きている意味などないのだと、そう思ってきた。いや、思わされていた、のか。そういう環境に置かれていた。ただ、むしろ、自分の中では、否定し続けていたのかもしれない。それが、離人症的、解離的、分裂的な気持ちを生じさせていた原因と考えるのは、自然なことに思われる。
サイコパスの劇場版を見終わった。話しとしての進展などは感じられなかったが、一つの作品として面白かった。シビュラシステムの目指す世界と、ツネモリさんの考える正義との相反性がよりわかりやすくなった気がする。
恐らく、そうした作品でも現れているが、「何かを成すこと」「功利主義的な面」についての言説は、これからも多く触れざるをえないものだろう。「そういう環境」と上に書いたが、どこもかしこもそういうもんなのかもしれない。
いやむしろ、この点……つまり、「責任」や「業績」といった観点においては、何かを成就することというのは、決して否定されるものではないという点、それが、(価値とか、意味とかについての)問題を複雑で、分かりづらく、実感から遠いものにしているようだ。
この記事は、朝によるもので、物理時間が限られているため、以下、フランクルさんの説明のメモを抜き出して終わりとしよう。
創造価値
何かを、生み出すというのは尊いことだと思う。それは、仕事、ということで、生み出されるものである。脳神経細胞の3つの本能のうち、知りたいという好奇心と、仲間になりたいという貢献心によって、「仕事」とか「会社」とか「組織」が生まれた。僕たちはみんな、仕事が面倒で、億劫で、休みが欲しいと年から年中言っているけれども、本当は、仕事というのは、本来、自ずからの欲求を満たしてくれる行為であったのだ。
ところが、専門分化した社会において、仕事そのものの価値(ここでは、社会とか組織への価値ではなく、自分自身・個人への価値のこと)というものは薄れてしまった。
どんなに働いても、誰かのためになっている、という貢献心が満たされるとは限らなくなった。しかしそれでも、しばらくのうちは、「家族」とか、親しい関係者に対して、会社という戦場で戦い、敵を倒し(=お金を稼ぎ)、家族を養っていくことで、貢献心が満たされていた時代もあった。
しかし、それも価値が希薄化していく。家庭の中での父親像は崩壊し、女性の社会進出は進み、核家族化が進み、家族という紐帯の意味が薄れていった。
(注意:上の社会論・時代論はテキトウである)
それでもなお、やはり広義の「仕事」というのは、意味を与えてくれるものである。
体験価値
しかし、創造価値を充たせない場合もある。その場合は、自然の美しさに、芸術に感動する心に、心が本当に深く神韻縹緲に打ちひしがれるような体験をすること、それが価値となる場合がある。本記事と関係ないし、時系列もバラバラだが、最近、2012年のアニメーション作品、「ももへの手紙」をみた。まぁ、まぁ、面白かった。しかし、感動するほどではなかった。山寺さんや西田さんが妖怪役で出演していた。作画もよかったし、声優さんたちの演技もよかったと思う。
そうだなぁ、けれども惜しい、と思った点は、やはりストーリーについてだろうか。そのポイントになる妖怪が、物語の主軸に絡んできていないことだろうか。結局、描きたいだろうテーマと、「妖怪」であるべき理由が見いだせなかった。妖怪たちと「お父さん」との関係性も希薄だった。いや普通一般的な理由は色々あって、描写もされているのだ、けれども、何か「惜しい」と思ってしまった。あと、作画も綺麗だけれども、これだけでいうと、「君の名は。」の映像がやっぱり綺麗だった。でもきっと、テレビでやってたら、ダラダラと見ちゃうだろう。そんな感じ。
態度価値
さてしかし、創造価値も、体験価値も得られないような状況、人もいるだろう。例えば、末期がんの患者など。それでも、意味は失われないのだと、ヴィクトールさんは仰る。
しかし、この態度価値の説明は、薄かったので、上手く理解できなかった。というか、あまり説明がなされていなかった。この態度価値、非常に重要な概念と思うけれども、よく分からない、残念だ。
追記、しかし、その「態度価値」の説明について、むしろこの本全体で述べられているように思われる。
えー、でも、それってどうなの? と思う部分も増えてきている。ただ、ここで立ち止まるのではなく、当初の目標どおり、最後まで、2月中に読み進めることとしたい。
といったところで、自己エクスキューズだが、時間切れだ!! この三つの価値についてはおいおい深めていかねばなるまい。
あーでも、このまま終わるってどうなん? 何か面白いこと、書かなきゃまずいんじゃん?
せっかく読んでくれた人に、上に書いた映画の感想みたいに、「あー、なんか、時間の無駄、とまでは言わないけど、微妙だったな」みたいに思われちゃうんじゃん? それでいいんかい?
ええい、うるさい、だまっとれ。いいんだ、書け。文章を書くというのはなぁ、そんなたいそうな仕事じゃないんだよ。いや昔々は、紙が貴重だった時代や、硯に墨をすって竹に書いていた時代やもろもろは、偉くて優秀な人たちしか書いちゃダメだったろうよ。
今は電子で文字を書ける時代だぜ。「書く」ということに対してのコストが、非常に低くなっているのだ。しかも、WEB、インターネットというもので、特別な人でなくても、公に情報を発信できる世の中なのだ。
いやだからといって、ごみやチラウラみたいな文章を量産してよいということではないが、――【強制終了】
(就職とか面接とか、作文とかレポートとか、「自分の考え」をまとめる作業って、結局読み手に向けたものじゃん。(読解力を試す)そういう意味では簡単だよな。そうじゃなくて、実感を伴った文章を書くってのは、これは結構重い作業だと思う)
今日の一言「衝撃を受けたときに言葉は中々生まれない」「ホントは本のまとめをする気だったのにね」
ちなみに、いずれ書いておこうと思うけれども、「音読」はお勧めできる勉強(学習・理解)方法である。寺子屋で漢文を素読していた古臭い感じを受ける人は、脳科学の川島さんの本を読んでもいいだろうし、まぁ、理論的な云々はさほど重要ではないけれども、僕の「実感」として、黙読している時よりも内容が頭に入ってきているし、銘記もできている。
もう一つ、音読のメリットとしては、スマホか、ICレコーダーをお持ちであれば、是非録音してみるといい。それで、ウォークマンとかiPodとかスマホに入れて、何だか勉強する気になれない時にただ流すだけでもいい。「聞くだけで英語力がUP!」というのは嘘っぽいが、自分の声で、自分が一度読んだ本の内容を聞くのは、復習の効果を格段に高めてくれる。
さらに、録音することのメリットは、学習時間の記録が同時にできるということだ。目標を達成するには、明確なゴールを設定することも大切であるが、同時に、自分の実績を把握することも大事である。小学校ぐらいのときに、宿題の提出記録を、模造紙に貼りだされたグラフに、金ぴかのシールで段々積み上げていったようなことがなかったろうか。まぁ、ビジネスの営業成績のグラフみたいで、今考えると何とも言えない不快な感覚にもなるけれども、幼いころは、その金ぴかシールが段々増えていくのが単純に楽しかった。
単純に楽しい、そういう感覚、非常に重要である。
先日の記事で、「どいつもこいつも好き勝手言いやがって」と書いたが、これはとにかく、このブログにコメントをくださる方々を対象としているわけではないことを最初に書いておこうか。実はまた予約投稿が実行されて、気になっていたのである。これ(物理環境とコメントと、苛々の根源に対する記述問題)については、また、別途書いておこう、今回は一切触れないこととする。
それはともかく、実感、この言葉の意味を定義しておきたい。
これを書いていくには、まず、宗教とか信仰とか、価値観ということに対しての、僕の立場というか、考えを打ち立てておく必要がある。
まず、僕は、無神論者である。「神はいない」という立場である。一方で、悪魔の証明ではないが、いないことの証明もできないと思っている(神を悪魔というか! この罰当たりめが!)。
一方で、宗教についての価値は認めている。ただし、これは、宗教一般の概念への肯定であって、何か特有の宗教を信じているということではない。キリスト教、仏教、ユダヤ教、イスラム教、マニ教、ゾロアスター教、アニミズム、古今東西様々な宗教がある。その中で、かなり信仰者が多いキリスト教に対して、僕は違和感がある、いやすぐさま書けば、キリスト教をモチーフにして「説法」をする人たちの言説に対してである。例えば、「聖書ではこう書かれてます」「神はこうおっしゃいました」だから、こうしましょう、とすることを言う人や書く人が多い印象である。この「だから」というのについて、それを「納得」できる人はよい。ただ、その「だから」を十分に吟味せずに、誰にでも当てはまる普遍的なもののように語る切り口が許せない、というか、苛々の原因になる。
これが、「実感」問題だ。上のキリスト教の例においては、別に、キリスト教が悪いとか、間違っているとか、そんなこと思っているわけじゃないのだ。ただ、キリスト教が生まれる前から人類は集団をつくって生きてきたし、現代社会においても、キリスト教以外の宗教を信じている人たちが大勢いる。そんな中で、キリスト教だけが絶対です、というのは無理があると思う。実際問題、キリスト教を信じていないから、僕が苦しみに満ちた人生を送っているのだ、という可能性だってある。それは否定できないだろう。だからそれゆえに、そのロジックで、「神を信じなさい」とされる。これはコマーシャリズムと同じく、不安をあおって商品を買わせる技術そのものである。
ただし、これは、「高2病」という、既存の概念や一般的に正義と呼ばれるものに対して、何から何まで否定したくなってしまう病気、であるともいえる。ので、昨今僕は、できるだけ「信じる」ことをしようと試みてきたわけであるが、それを具体化、詳細化する前に、生活の大きな変化が発生したために、混乱中であるというわけだ。
まず、信仰という語を考えたとき、これは、「何か超越したものを信じる」ことである。ロジック、論理があって、それでもって納得するものは、「信じる」とはいわない。客観的である、といわれる。
一方で、信仰という語を用いる場合は、その何か仕組みや原因やらが自分の中で分かっていなくても、「正しい」と信じられるものを指すのである。
この信仰というのと、「実感」とは、何が違うのか。本質的には違わない。どちらも、信じ、心から感じることである。
ただし、僕が、これまで、そしてこれからも、この「実感」という言葉を使うときは、「信仰」という意味と、「論理的な納得」という意味の、両方を含んだ概念として用いることになるだろう。
その日、僕は電車に乗って街にでかけた。行く道すがら、そしてその街の中には、たくさんの人たちがいた。会社に向かう人や、休日としてゆっくりしている人、家族といる人、一人の人、恋人といる人、子どもたち、たくさんの人たちがいた。
僕は思った。何か、「寂しい」なぁ、と。この感覚! この感覚を認めるのは、中々、僕の中では困難であることを書いておかなければならない。(一般的に間違いであろうけれども、僕は以前、人間きらいだとか、孤独が好きだ、とか書いてしまった、これは認めなければならない)
何故驚きがはしったかといえば、例えば、今現在、一人で哀しきブログを書いているこの瞬間においては、「さみしい」という感情など、豪釐(ごうり)(少しも)も発生していないのである。
つまりだ、多くの人たちが、楽しそうに輪になっているのをみると、「うらやましいなぁ」という感覚が生じるのだ、ということだ。ただし、強調して自分に言い聞かせなければならないことだが、そういった「流れ」に任せて、取りあえずの集団の中にいることは、間違いなく僕にとって苦痛であり、精神値を削っていくことになるのだ、ということだ。
ただ、この感覚が僕に与える「実感」のもう一つの有用点は、脳機能に関する林先生の仰る、「脳神経細胞には、生きたい、知りたい、仲間になりたいという三つの本能があります」ということに対する実感的理解である。
本能的には、僕も、孤独が好きとか言っちゃいながら、やっぱり皆とわいわい楽しみたい、という思いが発生することがある、ということなのだ。であるならば、その集団に属したときに感じる「つまらなさ」という原因や課題を解決する方策という、問題解決の問いを立てるべきだ、ということが明確になってくる。これは非常に重要だ。この「僕も仲間になりたい! という「実感」はもっているんだ」という実感がなければ、そもそも、孤独の在り方について追求すべき、という問題解決の問いにすべきかもしれないというわけだ。
価値が多様化している社会に僕たちは生きている、といつぞやから書いているけれども、これは、「実感」レベルというわけではなくて、知識的に思っているに過ぎないことだ。ただ、身分制度が廃止され、「お家」という拘束力が緩和され、資本主義と社会主義といったイデオロギーが緩解し、神は死んだと言われ宗教性が薄れ、科学の発展により迷信が薄れていった、この現代を考えたときに、やっぱり価値が分散化していくのだろうなぁというのは思うことである。
だから、反動的に、画一主義的な運動や、全体主義的な思想や、暴力的な現実の中の現実への回帰とかが発生(某国の政治不安や過激派組織の台頭など)するのだ……というのは、それはそれで、価値が多様化した結果による反動であるという意味においては、やっぱり、「神の審級」といったものの強い拘束力は失われていっていると言えるだろう。
まぁ代わりに、「金融資産」、お金、というものに対しての信仰が強まっている印象であるけれども、まぁそれについては、本記事の目的からそれるから置いておこう。
では、その価値というものと、実感というものの関係性についてであるけれども、言葉で表すと、「実感の総体が抽象化されて、意味に昇華されたもの」と言える。ものすごく分かりづらくて、多分、後から読んだ僕自身も分からないと思ったから、図示しよう。
(遠藤作:そこそこテキトウ所要1分くらい)
図を描いていて思ったけれど、価値観、それが即ち、自分自身(自己)であるのだ、ということだ。
逆に、これまで僕に足りていなかったのは、紫枠の「信仰」要素である。
疑い深いというか、頑固というか、そういった性格気質が、そもそも誰かを信じるということを苦手にさせていたのだろう。今でも、「この人すごいな!」と思うことはあるけれども、全人格的に見習いたいというか、すごい……と思う人は、現実世界には殆どいないし(殆ど……? 俺は今誰を想像している?)、過去の偉人を含めても中々難しい(こっちは最近増えてきた)。
こういう人をなんというか。プライドが高い奴、という。プライドが高くて、実行力とか知識とか行動力とかその他諸々、スペックが足りているならそれはそれで有能な人間だが、プライドだけ高くて何もできない奴は、ただのクズよりももっとたちの悪いクズである。「俺だって、頑張ればできるけどね。頑張らないだけだけど」とかいう奴は、ほんっとに救いようがない(お前だ!(かっこわらい))。
自己エクスキューズってのがあって、「いやぁ、時間が無いけど、取りあえずこんぐらい書いときますわ。まぁ、本当はもっと言いたいことあるんだけどね~」とか、それは違う。お前にとって、それは全力なんだ。全力疾走だったのだ。頑張った結果がそれだ。自惚れるな屑が!
(……と、序盤の方に書いたけれども、他者に対して僕はこういうことを思うことはあまりない。基本的に、自分自身に向かう言葉である。ので、誰かを想定して書いているわけではないことを明確に書き残しておきます)
この自己エクスキューズが多いと、何が問題か、というと、「実感」が乏しくなっていくのである。
本当はこうだった。
本当の自分はこうなんだ。
頑張れば本当はできるんだ。
とか、その「本当は」という自己エクスキューズばっかりだと、実感は充実しない。それどころか、これまで培ってきた実感も、徐々に亀裂が(疑問が)入っていくのである。
その結果がどうなるか、という点に関して言えば、自画自賛だが、上の図はよくできたと思う。即ち、実感が壊れていけば、自己も壊れていくということである。
この記事をまとめると、「実感を大事にしましょう」以上、だ。
まとめの難しさというか、苦手意識を思うのは、結局、良いまとめ、というのは、「他者に対して」どれだけよく伝えられるか、に尽きるからである。
ただ、その「他者」というのが、「誰」を想定するかによって、まとめの仕方が変わってくる。これがめんd……げふんげふん、難しいのだ(この表現は、仕事でのストレスの表現である)。
(長くなったなぁ、30分ぐらいかかったかな。5000字ぐらいか。小説の方は2000字ぐらい進んだ。このブログのペースで小説書けたらいいんだけどなぁ……)
音読の勧め
今週の目標を達成。V.E.フランクルさんの「人間とは何か」を、180ページまで読了した。ちなみに、いずれ書いておこうと思うけれども、「音読」はお勧めできる勉強(学習・理解)方法である。寺子屋で漢文を素読していた古臭い感じを受ける人は、脳科学の川島さんの本を読んでもいいだろうし、まぁ、理論的な云々はさほど重要ではないけれども、僕の「実感」として、黙読している時よりも内容が頭に入ってきているし、銘記もできている。
もう一つ、音読のメリットとしては、スマホか、ICレコーダーをお持ちであれば、是非録音してみるといい。それで、ウォークマンとかiPodとかスマホに入れて、何だか勉強する気になれない時にただ流すだけでもいい。「聞くだけで英語力がUP!」というのは嘘っぽいが、自分の声で、自分が一度読んだ本の内容を聞くのは、復習の効果を格段に高めてくれる。
さらに、録音することのメリットは、学習時間の記録が同時にできるということだ。目標を達成するには、明確なゴールを設定することも大切であるが、同時に、自分の実績を把握することも大事である。小学校ぐらいのときに、宿題の提出記録を、模造紙に貼りだされたグラフに、金ぴかのシールで段々積み上げていったようなことがなかったろうか。まぁ、ビジネスの営業成績のグラフみたいで、今考えると何とも言えない不快な感覚にもなるけれども、幼いころは、その金ぴかシールが段々増えていくのが単純に楽しかった。
単純に楽しい、そういう感覚、非常に重要である。
実感を大切にすること
宗教、信仰、価値、意義(意味)、これらのキーワードについて整理したい。ただし、根底にあって、最近僕が絶対視しているというか、常に忘れないように、心に深く銘記しようと試みているのは、「実感」というキーワードである。先日の記事で、「どいつもこいつも好き勝手言いやがって」と書いたが、これはとにかく、このブログにコメントをくださる方々を対象としているわけではないことを最初に書いておこうか。実はまた予約投稿が実行されて、気になっていたのである。これ(物理環境とコメントと、苛々の根源に対する記述問題)については、また、別途書いておこう、今回は一切触れないこととする。
それはともかく、実感、この言葉の意味を定義しておきたい。
これを書いていくには、まず、宗教とか信仰とか、価値観ということに対しての、僕の立場というか、考えを打ち立てておく必要がある。
まず、僕は、無神論者である。「神はいない」という立場である。一方で、悪魔の証明ではないが、いないことの証明もできないと思っている(神を悪魔というか! この罰当たりめが!)。
一方で、宗教についての価値は認めている。ただし、これは、宗教一般の概念への肯定であって、何か特有の宗教を信じているということではない。キリスト教、仏教、ユダヤ教、イスラム教、マニ教、ゾロアスター教、アニミズム、古今東西様々な宗教がある。その中で、かなり信仰者が多いキリスト教に対して、僕は違和感がある、いやすぐさま書けば、キリスト教をモチーフにして「説法」をする人たちの言説に対してである。例えば、「聖書ではこう書かれてます」「神はこうおっしゃいました」だから、こうしましょう、とすることを言う人や書く人が多い印象である。この「だから」というのについて、それを「納得」できる人はよい。ただ、その「だから」を十分に吟味せずに、誰にでも当てはまる普遍的なもののように語る切り口が許せない、というか、苛々の原因になる。
これが、「実感」問題だ。上のキリスト教の例においては、別に、キリスト教が悪いとか、間違っているとか、そんなこと思っているわけじゃないのだ。ただ、キリスト教が生まれる前から人類は集団をつくって生きてきたし、現代社会においても、キリスト教以外の宗教を信じている人たちが大勢いる。そんな中で、キリスト教だけが絶対です、というのは無理があると思う。実際問題、キリスト教を信じていないから、僕が苦しみに満ちた人生を送っているのだ、という可能性だってある。それは否定できないだろう。だからそれゆえに、そのロジックで、「神を信じなさい」とされる。これはコマーシャリズムと同じく、不安をあおって商品を買わせる技術そのものである。
ただし、これは、「高2病」という、既存の概念や一般的に正義と呼ばれるものに対して、何から何まで否定したくなってしまう病気、であるともいえる。ので、昨今僕は、できるだけ「信じる」ことをしようと試みてきたわけであるが、それを具体化、詳細化する前に、生活の大きな変化が発生したために、混乱中であるというわけだ。
信仰についての考え
中々、書ききれない、これらの問題については、簡単には済まされない。様々な(僕の)問題に派生してしまうため、収拾がつかなくなってしまうから、この記事では、取りあえず、「実感」という言葉の意味を明らかにすることに集中したい。まず、信仰という語を考えたとき、これは、「何か超越したものを信じる」ことである。ロジック、論理があって、それでもって納得するものは、「信じる」とはいわない。客観的である、といわれる。
一方で、信仰という語を用いる場合は、その何か仕組みや原因やらが自分の中で分かっていなくても、「正しい」と信じられるものを指すのである。
この信仰というのと、「実感」とは、何が違うのか。本質的には違わない。どちらも、信じ、心から感じることである。
ただし、僕が、これまで、そしてこれからも、この「実感」という言葉を使うときは、「信仰」という意味と、「論理的な納得」という意味の、両方を含んだ概念として用いることになるだろう。
(実感が大事だという例の一つ)
例えば、最近感じた一つの「実感」を例として書いておこう。ちなみに、良いことがあった日だった(なくなったものが見つかったのだ。大事なものだったから嬉しかった)。その日、僕は電車に乗って街にでかけた。行く道すがら、そしてその街の中には、たくさんの人たちがいた。会社に向かう人や、休日としてゆっくりしている人、家族といる人、一人の人、恋人といる人、子どもたち、たくさんの人たちがいた。
僕は思った。何か、「寂しい」なぁ、と。この感覚! この感覚を認めるのは、中々、僕の中では困難であることを書いておかなければならない。(一般的に間違いであろうけれども、僕は以前、人間きらいだとか、孤独が好きだ、とか書いてしまった、これは認めなければならない)
何故驚きがはしったかといえば、例えば、今現在、一人で哀しきブログを書いているこの瞬間においては、「さみしい」という感情など、豪釐(ごうり)(少しも)も発生していないのである。
つまりだ、多くの人たちが、楽しそうに輪になっているのをみると、「うらやましいなぁ」という感覚が生じるのだ、ということだ。ただし、強調して自分に言い聞かせなければならないことだが、そういった「流れ」に任せて、取りあえずの集団の中にいることは、間違いなく僕にとって苦痛であり、精神値を削っていくことになるのだ、ということだ。
ただ、この感覚が僕に与える「実感」のもう一つの有用点は、脳機能に関する林先生の仰る、「脳神経細胞には、生きたい、知りたい、仲間になりたいという三つの本能があります」ということに対する実感的理解である。
本能的には、僕も、孤独が好きとか言っちゃいながら、やっぱり皆とわいわい楽しみたい、という思いが発生することがある、ということなのだ。であるならば、その集団に属したときに感じる「つまらなさ」という原因や課題を解決する方策という、問題解決の問いを立てるべきだ、ということが明確になってくる。これは非常に重要だ。この「僕も仲間になりたい! という「実感」はもっているんだ」という実感がなければ、そもそも、孤独の在り方について追求すべき、という問題解決の問いにすべきかもしれないというわけだ。
価値について
さて、本記事の最後の小見出しといこうか。価値、価値観についての定義というか意味の確認である。もちろん、この確認作業も、「実感」という語の意味の具体化であるという目標へのアプローチである。価値が多様化している社会に僕たちは生きている、といつぞやから書いているけれども、これは、「実感」レベルというわけではなくて、知識的に思っているに過ぎないことだ。ただ、身分制度が廃止され、「お家」という拘束力が緩和され、資本主義と社会主義といったイデオロギーが緩解し、神は死んだと言われ宗教性が薄れ、科学の発展により迷信が薄れていった、この現代を考えたときに、やっぱり価値が分散化していくのだろうなぁというのは思うことである。
だから、反動的に、画一主義的な運動や、全体主義的な思想や、暴力的な現実の中の現実への回帰とかが発生(某国の政治不安や過激派組織の台頭など)するのだ……というのは、それはそれで、価値が多様化した結果による反動であるという意味においては、やっぱり、「神の審級」といったものの強い拘束力は失われていっていると言えるだろう。
まぁ代わりに、「金融資産」、お金、というものに対しての信仰が強まっている印象であるけれども、まぁそれについては、本記事の目的からそれるから置いておこう。
では、その価値というものと、実感というものの関係性についてであるけれども、言葉で表すと、「実感の総体が抽象化されて、意味に昇華されたもの」と言える。ものすごく分かりづらくて、多分、後から読んだ僕自身も分からないと思ったから、図示しよう。
(遠藤作:そこそこテキトウ所要1分くらい)
図を描いていて思ったけれど、価値観、それが即ち、自分自身(自己)であるのだ、ということだ。
逆に、これまで僕に足りていなかったのは、紫枠の「信仰」要素である。
疑い深いというか、頑固というか、そういった性格気質が、そもそも誰かを信じるということを苦手にさせていたのだろう。今でも、「この人すごいな!」と思うことはあるけれども、全人格的に見習いたいというか、すごい……と思う人は、現実世界には殆どいないし(殆ど……? 俺は今誰を想像している?)、過去の偉人を含めても中々難しい(こっちは最近増えてきた)。
こういう人をなんというか。プライドが高い奴、という。プライドが高くて、実行力とか知識とか行動力とかその他諸々、スペックが足りているならそれはそれで有能な人間だが、プライドだけ高くて何もできない奴は、ただのクズよりももっとたちの悪いクズである。「俺だって、頑張ればできるけどね。頑張らないだけだけど」とかいう奴は、ほんっとに救いようがない(お前だ!(かっこわらい))。
自己エクスキューズってのがあって、「いやぁ、時間が無いけど、取りあえずこんぐらい書いときますわ。まぁ、本当はもっと言いたいことあるんだけどね~」とか、それは違う。お前にとって、それは全力なんだ。全力疾走だったのだ。頑張った結果がそれだ。自惚れるな屑が!
(……と、序盤の方に書いたけれども、他者に対して僕はこういうことを思うことはあまりない。基本的に、自分自身に向かう言葉である。ので、誰かを想定して書いているわけではないことを明確に書き残しておきます)
この自己エクスキューズが多いと、何が問題か、というと、「実感」が乏しくなっていくのである。
本当はこうだった。
本当の自分はこうなんだ。
頑張れば本当はできるんだ。
とか、その「本当は」という自己エクスキューズばっかりだと、実感は充実しない。それどころか、これまで培ってきた実感も、徐々に亀裂が(疑問が)入っていくのである。
その結果がどうなるか、という点に関して言えば、自画自賛だが、上の図はよくできたと思う。即ち、実感が壊れていけば、自己も壊れていくということである。
まとめ
まとめ、って、苦手なんだよなぁ、一方で得意なんだ。この記事をまとめると、「実感を大事にしましょう」以上、だ。
まとめの難しさというか、苦手意識を思うのは、結局、良いまとめ、というのは、「他者に対して」どれだけよく伝えられるか、に尽きるからである。
ただ、その「他者」というのが、「誰」を想定するかによって、まとめの仕方が変わってくる。これがめんd……げふんげふん、難しいのだ(この表現は、仕事でのストレスの表現である)。
(長くなったなぁ、30分ぐらいかかったかな。5000字ぐらいか。小説の方は2000字ぐらい進んだ。このブログのペースで小説書けたらいいんだけどなぁ……)
今日の一言「理解してもらいたいという思いは充たされえるのか」
文章校正
http://www.kiji-check.com/
自分の書く文章が、どの程度正確なものか、だけでなく、難読とか意味が難しいものも指摘してくれるというのは中々興味深い。
↑をチェッカーにかけたら、「中々」というのが読みづらいというのと、「程度性格」というのが助詞不足と指摘された。
ほほー。「どの程度、正確なものか」と書いた方が確かに読みやすいね。
◎問題
特に解決しなくてよい。よくない状況や事象のこと。
◎課題
問題に対して、対応する必要があること。
という理解であったけど、そもそも合ってるんだっけか、と思って調べてみたのである。
ただ、勘違いとしては、「日本語」としての意味としては、それほど違いがない、ということである。あくまで、昨今のビジネス的な、一般認識的な、方向性においての話しだということである。
信号機の色を青・赤以外の色で言ってもよく分からないし、机と椅子といった物的名称を取り違えていた場合、正しく物事は伝わらない。
名詞に関するものは、それほど問題にならない。人の名前とか、地名とか、固有名詞について、人の認識相違が起こることは滅多にない。滅多にというのは、同姓同名とか、例外的な可能性だけなので、殆ど無視して構わない。
問題は、概念に関する認識・事象についての表現である。
ここで、「表現」という言葉を用いた。この表現というのは、ある物・事柄に対して、他者に伝わりやすいように説明をすることである。(←この文章は、僕のオリジナルなので、既にこれ自体が「表現」となっている)
辞書をひけば、良い表現があった、――あるものを「客観化すること」ということだ。
さて、上で書いた概念の認識・事象等の「問題」とは何か?
それは、概念的な「もの・こと」は、気付くと同語反復(トートロジー)になっている場合があるということだ。
実はノンバーバル(非言語)の方が重要なのだよ、というもの。(ただし、いかなる状況においてもこの法則があてはまるというわけではないことは、メラビアン本人も述べているということだというwiki参照)
ここで強調しておきたいこととしては、「言葉」そのものが、正確に他者に伝えられるわけではないということだ。
そしてその言葉の困難性は、問題や、表現したい事柄の抽象性が高くなるほどに(概念的になるほどに)増していくのである。
一生孤独で構わない、と思う人であっても、ただし、その「孤独で構わない」という感覚を、可能な限り多くの人に理解して欲しいと思うはずである。
(この意味においては、孤独な人に対して、憐憫の念を思うことは、甚だお門違いであるし、人間理解の不足であるし、傲慢な態度である。むしろ必要なのは、孤独であることへの共感である。)
一方で、孤独であることを肯定する人が、「実は君だって、みんなに分かってもらいたいんだよ」と言われたとしたら、何となく、違和感を思うことだろう。孤独であるというのは、他者との関係性に距離をもつことである。それを肯定するにも関わらず、理解を他者に求めるというのは、行動行為矛盾にならないだろうか?
僕がここで表現したいこととしては、孤独であることを望む人たちへの、共感が重要であるということだ。これは、孤独な人を邪険に扱うことをではない。つまり、「そっとしておいて欲しい」という気持ちなどへの理解を示すことである。
一つは、「言葉の意味と表現による他者への情報伝達の意義」について。(1)
二つは、「孤独という生き方の妥当性」について。(2)
相互に、同時に問題を書いているために、分かりづらくなっている気がする。
まずもって、問題意識としては、「自分の瞬間的な状態や感覚を、正確に他者に伝えることは困難である」という、前々からの「実感」における、他者への期待度の低下がある。
この他者への期待度の低下が、孤独への傾向を強める。この他者への期待度の低下が起きる理由は次の通りだ。
それは、この記事の問題の一つ目の、「正確な情報伝達の困難性」と、もう一つ、仮に正確に自分のことを伝えられたとして、それが自己救済に資することになるのか、という疑問である。
整理すれば、「理解してもらえない」ということ、諦めによって、孤独の方向へ向かってしまう人がいる(1)としたとき、その孤独という状態は悪いこと、ダメなことなのだろうか(2)、ということである。
ただし、逆に、この「実感」について、覆るようなことがあれば、「孤独に向かう」という(2)の問題は解決・緩解するのである。
さてここで、この理解してもらえないということについて、この「理解」という次元・レベル感を表現しておく必要に迫られる。
つまり、「正確な」と言ったところで、それが、何をもって正しいというのか、これ自体も、同語反復になるが、言葉の困難性故に結局不明なのである。
だって、日常生活を送るうえで、もしくは、社会生活を送るうえで、もしくは、集団、組織、国家とか世界とか、多くの秩序は成り立っている。「人は一人では生きていけない」という標語のように、人はお互い助け合って生きているのである。これはまた事実だ。これをもって、「理解してもらえない」ということは、矛盾した感覚ではないか、ということになる。
これに対しては、人間という存在に対しての立ち位置、考え、価値観によって異なってくるものだ。
人間社会を、「共同幻想的」と考えるのか、個人主義的な「分かる人と分からない人がいる」と分別して考えるのかによって、この問題のその人に対しての大きさが異なってくる。
ありがとうございます、いただきます、どういたしまして。
個々別の状況において、言語化し、「感謝」とか「嬉しい」とか、そういった「感情」を伝えることで、相互理解はどこまでも、可能である。
それでもなお、「理解してもらえない」という感覚が生じることを、「わかる人」と「わからない人」がいる。
精神医学的には、この程度が深まれば、おそらく病気と診断されるだろう。ただ、もはやこれは、傾向とか、タイプとか、一般化することで解決することができない問題である。これは、「実存」の問題だ。
ところで、こうした表現の積み重ねが、果たして、病気と診断されるようなものなのか、よく分からない。
ただし、「洗脳」的な方法以外において、この仮に病気としたときに、治療をするためには、恐らくこの表現の積み重ねが無い限りは、医師も治療を行えないであろう。
人生に意味はあるのか?
この問いについて、「ある」としておかなければ、すべてが無駄になってしまうから、「ある」のが真理にしかならないことは、僕だって分かっている。
生きていること自体素晴らしいことだ、嬉しいことだ、価値あることだ。分かっている、分かっていながら、「わかっていない」のだ。
これが、「実感」問題である。
いくら他者の言葉が素晴らしく、価値あるものだと思われて、正しくて、真理だと思っても、それを「実感」レベルに落とし込めなかった時の乖離、そのズレを無視して、いくら素晴らしい行為を積み重ねたところで、それは、基礎が柔らかな地盤に打ち付けられた高層ビルに過ぎないだろう。少しの拍子に、強風が吹いただけでも、倒れてしまうかもしれない。
正しい言葉など、何ら必要としていない。結論などどうでもいい。プロセス。過程だ。
何故、人生に意味はあるのか?
という問いこそが正しい。
人間とは、共同幻想の中に秩序を見出している。これは悲観的な表現にも見ることができるが、一方で、だからこそ、人が、一人一人が、価値ある存在であるともいえるのだ。
共同社会の中で生きることが正しいこと、価値あることなのだとすれば、その共同社会の規範や価値観に沿った人間になることが、まさしく真理で素晴らしいものになっていく。
けれどもそれは、一人の人間としての個性、人格を、同調・同一化していくことに他ならない。
思考停止して、全体主義的な方法で自己を救済することも可能だろう。それを明確に否定するための知識と思考を、今僕は持ち合わせていない。ただこれは、感覚的に、否、と僕は思う。
だから問いは、こうあるべきだ。
何故、僕の人生に意味はあるのか?
と。
(さぁ今週の課題まであと30ページ。頑張るか)
文章校正チェッカー
これは面白いなぁ。文章校正
http://www.kiji-check.com/
自分の書く文章が、どの程度正確なものか、だけでなく、難読とか意味が難しいものも指摘してくれるというのは中々興味深い。
↑をチェッカーにかけたら、「中々」というのが読みづらいというのと、「程度性格」というのが助詞不足と指摘された。
ほほー。「どの程度、正確なものか」と書いた方が確かに読みやすいね。
問題と課題の違い
なお、上のサイトを見つけたのは、「問題と課題の違い」という検索キーワードによる。◎問題
特に解決しなくてよい。よくない状況や事象のこと。
◎課題
問題に対して、対応する必要があること。
という理解であったけど、そもそも合ってるんだっけか、と思って調べてみたのである。
「問題」 発生している状況を示す。組織にネガティブな影響を及ぼすもの。「課題」 組織目標を達成するためにこれから成すべきこと。ポジティブに表現される。
つまり、「問題」があって、それに対する解決策が「課題」と言い換えることもできそうです。というわけで、まぁまぁ、合っていたかな、と思う。
ビジネスの現場における「問題」と「課題」
ただ、勘違いとしては、「日本語」としての意味としては、それほど違いがない、ということである。あくまで、昨今のビジネス的な、一般認識的な、方向性においての話しだということである。
正しい言葉を使うことと伝える技術
誰かに、何かを伝えようとするときに、正しい言葉・語彙を用いることは必須である。信号機の色を青・赤以外の色で言ってもよく分からないし、机と椅子といった物的名称を取り違えていた場合、正しく物事は伝わらない。
名詞に関するものは、それほど問題にならない。人の名前とか、地名とか、固有名詞について、人の認識相違が起こることは滅多にない。滅多にというのは、同姓同名とか、例外的な可能性だけなので、殆ど無視して構わない。
問題は、概念に関する認識・事象についての表現である。
ここで、「表現」という言葉を用いた。この表現というのは、ある物・事柄に対して、他者に伝わりやすいように説明をすることである。(←この文章は、僕のオリジナルなので、既にこれ自体が「表現」となっている)
辞書をひけば、良い表現があった、――あるものを「客観化すること」ということだ。
さて、上で書いた概念の認識・事象等の「問題」とは何か?
それは、概念的な「もの・こと」は、気付くと同語反復(トートロジー)になっている場合があるということだ。
同語反復とか無限遡及とか
アルバート・メラビアンの法則というのは、他者に情報を伝達する際に、言語が必ずしも重要ではないということを示した考えである。実はノンバーバル(非言語)の方が重要なのだよ、というもの。(ただし、いかなる状況においてもこの法則があてはまるというわけではないことは、メラビアン本人も述べているということだというwiki参照)
ここで強調しておきたいこととしては、「言葉」そのものが、正確に他者に伝えられるわけではないということだ。
そしてその言葉の困難性は、問題や、表現したい事柄の抽象性が高くなるほどに(概念的になるほどに)増していくのである。
自分の感覚や感情を完全に表現すること
自分を理解してもらいたいという感覚や感情は、誰しももつものだろう。一生孤独で構わない、と思う人であっても、ただし、その「孤独で構わない」という感覚を、可能な限り多くの人に理解して欲しいと思うはずである。
(この意味においては、孤独な人に対して、憐憫の念を思うことは、甚だお門違いであるし、人間理解の不足であるし、傲慢な態度である。むしろ必要なのは、孤独であることへの共感である。)
一方で、孤独であることを肯定する人が、「実は君だって、みんなに分かってもらいたいんだよ」と言われたとしたら、何となく、違和感を思うことだろう。孤独であるというのは、他者との関係性に距離をもつことである。それを肯定するにも関わらず、理解を他者に求めるというのは、行動行為矛盾にならないだろうか?
僕がここで表現したいこととしては、孤独であることを望む人たちへの、共感が重要であるということだ。これは、孤独な人を邪険に扱うことをではない。つまり、「そっとしておいて欲しい」という気持ちなどへの理解を示すことである。
孤独は問題なのか
この記事は、二つの問題を取り扱っている。一つは、「言葉の意味と表現による他者への情報伝達の意義」について。(1)
二つは、「孤独という生き方の妥当性」について。(2)
相互に、同時に問題を書いているために、分かりづらくなっている気がする。
まずもって、問題意識としては、「自分の瞬間的な状態や感覚を、正確に他者に伝えることは困難である」という、前々からの「実感」における、他者への期待度の低下がある。
この他者への期待度の低下が、孤独への傾向を強める。この他者への期待度の低下が起きる理由は次の通りだ。
それは、この記事の問題の一つ目の、「正確な情報伝達の困難性」と、もう一つ、仮に正確に自分のことを伝えられたとして、それが自己救済に資することになるのか、という疑問である。
整理すれば、「理解してもらえない」ということ、諦めによって、孤独の方向へ向かってしまう人がいる(1)としたとき、その孤独という状態は悪いこと、ダメなことなのだろうか(2)、ということである。
理解してもらえないことの正確さ
まず、(1)の問題、「理解してもらえない」ということは、言語表現の困難性という理由により、既に正しいことを述べた。ただし、逆に、この「実感」について、覆るようなことがあれば、「孤独に向かう」という(2)の問題は解決・緩解するのである。
さてここで、この理解してもらえないということについて、この「理解」という次元・レベル感を表現しておく必要に迫られる。
つまり、「正確な」と言ったところで、それが、何をもって正しいというのか、これ自体も、同語反復になるが、言葉の困難性故に結局不明なのである。
だって、日常生活を送るうえで、もしくは、社会生活を送るうえで、もしくは、集団、組織、国家とか世界とか、多くの秩序は成り立っている。「人は一人では生きていけない」という標語のように、人はお互い助け合って生きているのである。これはまた事実だ。これをもって、「理解してもらえない」ということは、矛盾した感覚ではないか、ということになる。
これに対しては、人間という存在に対しての立ち位置、考え、価値観によって異なってくるものだ。
人間社会を、「共同幻想的」と考えるのか、個人主義的な「分かる人と分からない人がいる」と分別して考えるのかによって、この問題のその人に対しての大きさが異なってくる。
ありがとうございます、いただきます、どういたしまして。
個々別の状況において、言語化し、「感謝」とか「嬉しい」とか、そういった「感情」を伝えることで、相互理解はどこまでも、可能である。
それでもなお、「理解してもらえない」という感覚が生じることを、「わかる人」と「わからない人」がいる。
精神医学的には、この程度が深まれば、おそらく病気と診断されるだろう。ただ、もはやこれは、傾向とか、タイプとか、一般化することで解決することができない問題である。これは、「実存」の問題だ。
一般化と実存
ものすごく、分かりやすく書いてきたつもり、であるが、しかし、書けば書くほどに、「乖離感」が強まっていく。いやーこれ、難しいだろうなぁ……。というのは、「難しいこと書いてる俺すげぇ!」という中二病的な感覚でも味わえたらいいのだが、残念なことに、ますますドツボにはまっていくというか、泥沼でもがくような感覚になるのである。ところで、こうした表現の積み重ねが、果たして、病気と診断されるようなものなのか、よく分からない。
ただし、「洗脳」的な方法以外において、この仮に病気としたときに、治療をするためには、恐らくこの表現の積み重ねが無い限りは、医師も治療を行えないであろう。
人生に意味はあるのか?
この問いについて、「ある」としておかなければ、すべてが無駄になってしまうから、「ある」のが真理にしかならないことは、僕だって分かっている。
生きていること自体素晴らしいことだ、嬉しいことだ、価値あることだ。分かっている、分かっていながら、「わかっていない」のだ。
これが、「実感」問題である。
いくら他者の言葉が素晴らしく、価値あるものだと思われて、正しくて、真理だと思っても、それを「実感」レベルに落とし込めなかった時の乖離、そのズレを無視して、いくら素晴らしい行為を積み重ねたところで、それは、基礎が柔らかな地盤に打ち付けられた高層ビルに過ぎないだろう。少しの拍子に、強風が吹いただけでも、倒れてしまうかもしれない。
正しい言葉など、何ら必要としていない。結論などどうでもいい。プロセス。過程だ。
何故、人生に意味はあるのか?
という問いこそが正しい。
一般化と還元論の危険性
もっといえば、ここで、普遍的な「意味」とか、真理というものを求めることについては、全く無意味だと、最初に排除しておく必要がある。人間とは、共同幻想の中に秩序を見出している。これは悲観的な表現にも見ることができるが、一方で、だからこそ、人が、一人一人が、価値ある存在であるともいえるのだ。
共同社会の中で生きることが正しいこと、価値あることなのだとすれば、その共同社会の規範や価値観に沿った人間になることが、まさしく真理で素晴らしいものになっていく。
けれどもそれは、一人の人間としての個性、人格を、同調・同一化していくことに他ならない。
思考停止して、全体主義的な方法で自己を救済することも可能だろう。それを明確に否定するための知識と思考を、今僕は持ち合わせていない。ただこれは、感覚的に、否、と僕は思う。
だから問いは、こうあるべきだ。
何故、僕の人生に意味はあるのか?
と。
(さぁ今週の課題まであと30ページ。頑張るか)
