今日の一言「知識ひけらかしたい欲求との闘い」「承認欲求と所属欲求の違いを理解した方が良いね」
いや、漫画も勉強になることはなるのである、という主張なわけではなくて。
老子の言葉ということだけれども、これが実は誤訳で、
天網恢恢疎にして失わず
というのが、正しい訳なのではないかと、そういう記事を読んだ。
⇒法に知性と心が閉じ込められてはならない
その意味するところは、
おぉ、なるほど……、確かに、老子の思想を考えると、そちらの方がしっくりくる気がする。
ここですぐさま書かなければならないのは、その経験が、一般的に、社会に、人に、誰かに役に立つかというと、そんなことはない。結局、同語反復で、自己への無限遡及となって、ぐるぐると螺旋階段を上り下りしているようなものであったに違いない。
唯一、誰かに役立ててもらおうとするならば、「日記を書くのはいいことだよ!」としたり顔ですすめてくる人には用心せよ、ということか。「日記」といっても、これは結構奥深い。書き方も、考え方も色々ある。この記事のように、リアルタイムアウトプット(口語表現)のものもあれば、思考にインターセプトして文語化しつつ書くのもあるし、箇条書きにする場合もある。
書く前に時間や、天気、そのときの気分を書き入れる場合もあれば、「家計簿」の体をとる場合もある。
書く頻度も重要だ。毎日書くのか、文量はどうするのか。自己ルールはどうするか。一週間に一回は必ず書くようにするのか、一年スパンでみるのか。
内容、テーマはどうするか。例えばスポーツ選手がトレーニング記録を日記にしていたりするが、日常のふと思ったことまで書き留めるのかどうか。
媒体も当然重要だ。紙なのか、電子なのか。
そして、誰かに見せるのか、自分だけで、ある意味黒歴史として、墓場までもっていくのか。
こうした色んな諸条件を整理しないまま、取りあえず「日記を始めてみよう!」と思い立って、三日程度で辞めてしまう人がなんと多いことか。しかしこれは当たり前でもある。日記を始めることの目標がぶれているのである。
ただ、思い立つのは悪いことではない。取りあえず初めて見て、しっくりきたら続けるというのもありだ。特に若いうちは。若者はよいのぉ、と懐古するわけではないが、これは、単純に物理時間が多いということに過ぎない。若者だからといって、暇だというわけでは決してない。むしろ、年取った人の方が暇の可能性がある。……とこれは蛇足だった。
これは黒歴史といってよくて、そもそも、「人は」という一般的対象について考えようとしていたところにまずもって中二病である。ただ、そこはすぐさま、「自分」について目が向いていったことである(※1)。まぁそれを、現実における「困難」(※2)が契機であった、と分析したところで、それは、離人症の病因を、副腎皮質の機能障害であると診断するのと同じように表層的である(※3)。
V.E.フランクルさんの「実存的精神療法」においても提唱されていることであるが、ユーモアは、一つ神経症や精神病を和らげる方法であるという。ユーモアというのは、例えば、不眠症で、中々眠れなくて困っている人に対して、「できるだけ長く起きているようにしましょう」というものである。
これは、「自己距離化」ということで、自己に対して、より上位の考え方を与えるものである。
他者がいれば、「客観的」に見てもらえる場合があるけれども、そもそも、他者も知らない部分だってあるわけであり、そういったときは、自分自身で、メタ自分的な、より上位の思考を要求される。
この、自己自身を見つめること、によって、「何故生きるのか」「そもそも僕は何を悩み苦しんでいるのか」ということを明らかにし、解決しようという目的が、日記を書くという一つの目標であったというわけである。
果たしてこれが、本当に役に立ったのかどうか、それは、まだ判断することができない。
※1:どっかの誰かの書いたとか、言ったことによって、人は誰でも「何で俺、生きてんだろ?」みたいに思うことがある、と聞いて、「あーそういうもんなんだ、みんなそうなんだなぁ」と思ったが、実は、この疑問が浮かぶ人とそうでない人ではっきり分かれるらしい。
※2:いじめ、失恋、挫折、などなど。いくら現象的な契機を挙げて、「心理学的に」原因を追求したとしても、実存的問題は解決するとは限らない。もっとも、例えば発達障害などの診断がなされることによって、「安心」して社会生活に適応していく例もあることは知っている。
※3:V.E.フランクル「人間とは何か」P.273において、不安神経症の生理学的基礎として、内分泌系の調節障害があるとされている。右は引用:「離人症状ないし心的筋無気力症候群の背後には副腎皮質機能不全が隠れている」。
天網恢恢疎にして漏らさず
てんもうかいかい、そにしてもらさず。天(神様)は粗いようだけどちゃんと見てて、悪事は見逃さないんだよ!という意味である(注:遠藤意訳)。確か、EDENという漫画のある節話の、サブタイトルになっていた気がする。そのとき、確か高校生ぐらいだったか覚えていないが、「え、これ何て読むん? 意味は?」と思って調べたことがあったような。いや、漫画も勉強になることはなるのである、という主張なわけではなくて。
老子の言葉ということだけれども、これが実は誤訳で、
天網恢恢疎にして失わず
というのが、正しい訳なのではないかと、そういう記事を読んだ。
⇒法に知性と心が閉じ込められてはならない
その意味するところは、
「天の網は広大に拡がっていて、その網目が粗いからこそ、人(の心)を失わない」なのだという。
おぉ、なるほど……、確かに、老子の思想を考えると、そちらの方がしっくりくる気がする。
日記を書くこと
僕は何についても劣等感の塊みたいな奴であるが(――しかし、こういったことを自分で言う奴書く奴は、大抵自分自身でそう思っていないやっかいな類型である。プライドだけ高くて、いざ批判や否定をされると顔を真っ赤にして怒り始める。めんどくせーやっつだ)、考えること、特に自省ということに関しては、経験を積み重ねてきた。ここですぐさま書かなければならないのは、その経験が、一般的に、社会に、人に、誰かに役に立つかというと、そんなことはない。結局、同語反復で、自己への無限遡及となって、ぐるぐると螺旋階段を上り下りしているようなものであったに違いない。
唯一、誰かに役立ててもらおうとするならば、「日記を書くのはいいことだよ!」としたり顔ですすめてくる人には用心せよ、ということか。「日記」といっても、これは結構奥深い。書き方も、考え方も色々ある。この記事のように、リアルタイムアウトプット(口語表現)のものもあれば、思考にインターセプトして文語化しつつ書くのもあるし、箇条書きにする場合もある。
書く前に時間や、天気、そのときの気分を書き入れる場合もあれば、「家計簿」の体をとる場合もある。
書く頻度も重要だ。毎日書くのか、文量はどうするのか。自己ルールはどうするか。一週間に一回は必ず書くようにするのか、一年スパンでみるのか。
内容、テーマはどうするか。例えばスポーツ選手がトレーニング記録を日記にしていたりするが、日常のふと思ったことまで書き留めるのかどうか。
媒体も当然重要だ。紙なのか、電子なのか。
そして、誰かに見せるのか、自分だけで、ある意味黒歴史として、墓場までもっていくのか。
こうした色んな諸条件を整理しないまま、取りあえず「日記を始めてみよう!」と思い立って、三日程度で辞めてしまう人がなんと多いことか。しかしこれは当たり前でもある。日記を始めることの目標がぶれているのである。
ただ、思い立つのは悪いことではない。取りあえず初めて見て、しっくりきたら続けるというのもありだ。特に若いうちは。若者はよいのぉ、と懐古するわけではないが、これは、単純に物理時間が多いということに過ぎない。若者だからといって、暇だというわけでは決してない。むしろ、年取った人の方が暇の可能性がある。……とこれは蛇足だった。
メタ自分を考えること
僕が書き始めた理由は、「問題」解決のためであった。その問題とは、このブログのタイトルにも集約している。実際に書き始めたのは、中学、高校あたりからだったと思うけれども、そもそも「人は何故生きるのか?」という疑念からであった。これは黒歴史といってよくて、そもそも、「人は」という一般的対象について考えようとしていたところにまずもって中二病である。ただ、そこはすぐさま、「自分」について目が向いていったことである(※1)。まぁそれを、現実における「困難」(※2)が契機であった、と分析したところで、それは、離人症の病因を、副腎皮質の機能障害であると診断するのと同じように表層的である(※3)。
V.E.フランクルさんの「実存的精神療法」においても提唱されていることであるが、ユーモアは、一つ神経症や精神病を和らげる方法であるという。ユーモアというのは、例えば、不眠症で、中々眠れなくて困っている人に対して、「できるだけ長く起きているようにしましょう」というものである。
これは、「自己距離化」ということで、自己に対して、より上位の考え方を与えるものである。
まさに症状の距離化と客観化の役割は、自己をいわば不安感と「同列に」あるいはその「「上位に」置くことを患者に可能にすることにある。ユーモア以上に距離をもたらすことに適しているものは他にない。ジョハリの窓、という考え方があって、自分ってのは、他者との関係をして4つの層があるという。自分で知っていて他者も知っている部分、自分で知っていて他者は知らない部分、自分で知らずに他者が知っている部分、自分も他者も知らない部分、と。
――「人間とは何か」P.274
他者がいれば、「客観的」に見てもらえる場合があるけれども、そもそも、他者も知らない部分だってあるわけであり、そういったときは、自分自身で、メタ自分的な、より上位の思考を要求される。
この、自己自身を見つめること、によって、「何故生きるのか」「そもそも僕は何を悩み苦しんでいるのか」ということを明らかにし、解決しようという目的が、日記を書くという一つの目標であったというわけである。
果たしてこれが、本当に役に立ったのかどうか、それは、まだ判断することができない。
※1:どっかの誰かの書いたとか、言ったことによって、人は誰でも「何で俺、生きてんだろ?」みたいに思うことがある、と聞いて、「あーそういうもんなんだ、みんなそうなんだなぁ」と思ったが、実は、この疑問が浮かぶ人とそうでない人ではっきり分かれるらしい。
※2:いじめ、失恋、挫折、などなど。いくら現象的な契機を挙げて、「心理学的に」原因を追求したとしても、実存的問題は解決するとは限らない。もっとも、例えば発達障害などの診断がなされることによって、「安心」して社会生活に適応していく例もあることは知っている。
※3:V.E.フランクル「人間とは何か」P.273において、不安神経症の生理学的基礎として、内分泌系の調節障害があるとされている。右は引用:「離人症状ないし心的筋無気力症候群の背後には副腎皮質機能不全が隠れている」。
PR
今日の一言「講義出席1回約3万円」「お金がかかると投資対効果を思ってしまう悪しき心なりけり」
それで、納得できない部分は大いにせよ、中々良い本だというのは変わらなそうなので、ちょっと、理解の助けになるかなぁと、「ロゴセラピー」とか「実存分析」というキーワードでネット検索を試みてみた。
すると、おお、何やら、ロゴセラピー協会なるものがあるではないか。やっぱり、かなりけっこう主流な考え方なんだなぁ。どれどれ。
「ロゴセラピーとは、ヴィクトール・エミール・フランクルの提唱する、『人生の意味を問うのではない。』『人生が自分に何を求めているのかを知る必要がある』『人生に求められる責任を果たせ』という精神療法である」
うーむ……、多分、この紹介文では、僕は一切興味を惹かれなかった。そのA~Cのライセンス認定とかあって、お医者様とか、看護師さんとか、カウンセラーとか、コンサルタントさんとか、そうそうたる職業の人たちが、「ロゴセラピーは素晴らしいです」と意見をしているのだが、多分、最初に僕はこれを見ていたら、よくあるスピリチュアル系なうんたらと同じだと思って、感情的に倦厭していただろう。
だから、「出会い」って重要だと思う。
僕は、「巨匠を老害と呼ぶために」この方のこの記事に最初に出会っていたから、ロゴセラピーというかフランクルさんについて、なんだなんだ、すげー面白そうだぞ! と思った。
(まぁ上の記事の方は批判記事なわけだが。でも、実際に「人間とは何か」を読み進めてみて、上の方の分析というか読解が相当綿密であることが分かった。その上で、「自分はここが問題点、足りない点だと思う」というのは、非常に良い批評文である。見習いたい)
ただ、やっぱり、「とっかかり」というのは大事だと思う。レビューを読んで、面白そうだなと漫画とか映画とか小説とかみることもあるだろう。
特に、難しい内容とかだと、一度大筋をおさえることは重要である。便利なのは、wikiとかだが、それよりも、信頼できる人の書いたレビューの方が、よほど分かりやすかったり、役に立ったりする。
上に挙げた方の他の記事も結構面白くて、機会があれば読んでみたいと思っている。
こんな良質な情報を、インターネットでは取得できて、学ぶこともできる。に対して、対面的なセミナーが、絶対的に必要なんだろうか? と、僕はふと思ってしまう。いやぁ、確かに、そういう場にいけば、出会いなどもあって、人脈も広がって、そうやって人は生活しているのかもしれない。
けれども、今、昨今特に、僕は、休日はゆっくりさせてくれ! と思っている。
まぁ、もともとこの傾向はあったもんだ。ただ、「ダメなこと」ということで、積極的に封じ込めていた感情というか、行動であった。ので、飲み会も、友人からのお誘いも、積極的に参加したりしていた。――今は、積極的に断っている。何をしているかと言えば、本を読んでいる。筋トレストレッチしている。音読をしている。部屋の片づけ、思考の整理をしている。ダメな大人だ!!
平日、特に感じるのだが、仕事が終わって帰るとき、もうほんと、「ああ、誰とももう話さなくていいんだ……」と非常に解放感になる。
家に帰ると、あたたかな家庭が……恋人が……、子どもが、両親兄弟が……、と、一切望んでいない。
兎に角、一人でいられることに「幸せ」を覚える。(ただ、このブログに関係する関係においては、まったく枷になっていない。時おり落ち込むこともあるけれど、むしろそこから得られる刺激は非常に嬉しいものであり、充実したものに思える)
まずもって、このブログが一つの証左である。100%孤独状態を欲するならば、何故書く? 何故コメントに返信をする? 何故サイトを運営する? おかしいだろう、一人ただ、ご飯を食べて、寝て、遊べばいい。ただ、その「遊ぶ」とは何ぞや? ゲーム? なるほど、黒い砂漠というゲームをやっているのか、それは楽しかろう、それは何というジャンルか? MMORPG? なるほど、RPGということは、「人と関わる」ゲームというわけだな。ということは、そもそも、人と関わることを、完全に拒絶しているわけではないのだな?
これは、恋愛シミュレーションゲームに嵌るオタクを想像してもよい。二次元最高! といって、現実の三次元女はクソ、と断罪する気持ちは分からなくもない、というか、それはある面で真理だろう(例えば、顔も収入も性格もよくない男が、美少女を娶ることを欲しても、それは激しい絶望しか生まないだろう)。
ただし、本当に、そこで、「諦める」ことを、「正」としてよいのか?
それについては、十分に検討する必要がある。その上での結論であればよい。ただし、その「美少女ゲーム」において求める審美や耽美といったものを、実現させることを求めないでいてもよいのか、ということである。
ただ、「俺はぶさいくだから彼女も友人もできないんだ」「俺は低収入だから結婚できないんだ」ということを言うときに、その反例もまたいくらでも挙げられる(不細工でも彼女ができる人はいるし、低収入でも結婚している人はいる)し、それにもまして、もう一つ、そういった「諦め」をする人たちが、見落としていることがある。
それは、不細工だとか低収入だとかいう個々の要素について、それが永続的で、絶対的な理由になるということを、何故確信しているのか、ということである。
繰り返しになるが、これは一般論などではない。
「俺は、モテなかったけれど、彼女できたぜ」と友人に言われたとして、彼女が一度もできたことのない人が、「じゃあ自分も!」と思えるかどうか、これはもう、運命的偶発的なものに過ぎない。そのような人たちは、他者の成功が、自分自身の成功に結び付くとは、一切思えないのである。
で、あるにも関わらず、自らの人生を、自分のものとして引き受けるということを、何故可能になるのか?(イケメンを除く)
つらく、苦しい状態であっても、充実した人生を送れるようになることを、何故信じることができるのだろうか?(イケメンを除く)
そういった状態においてもなお、「生きる意味はあるのだ」「人生それ自体が意味を、他ならない貴方に求めているのだ」という言葉を、僕に、どのように届けてくれるのか。フランクルさんには期待しているところである。
(というかそもそもそのセミナー、みんなフランクルの本を少なくても2冊以上は読んだことがある人ばかりらしい! 結局もって、ある程度インプットがないと、他者の言葉など頭に入ってこないのである。だから、自分で勉強できない人が、他者から何か学ぶ、ということをあまり僕は信じていない)
ロゴセラピストなる資格
V.E.フランクルさんの「人間とは何か」を、270ページまで読み進める。ふう。これで、何とか、目標は達成できそうだ。それで、納得できない部分は大いにせよ、中々良い本だというのは変わらなそうなので、ちょっと、理解の助けになるかなぁと、「ロゴセラピー」とか「実存分析」というキーワードでネット検索を試みてみた。
すると、おお、何やら、ロゴセラピー協会なるものがあるではないか。やっぱり、かなりけっこう主流な考え方なんだなぁ。どれどれ。
「ロゴセラピーとは、ヴィクトール・エミール・フランクルの提唱する、『人生の意味を問うのではない。』『人生が自分に何を求めているのかを知る必要がある』『人生に求められる責任を果たせ』という精神療法である」
うーむ……、多分、この紹介文では、僕は一切興味を惹かれなかった。そのA~Cのライセンス認定とかあって、お医者様とか、看護師さんとか、カウンセラーとか、コンサルタントさんとか、そうそうたる職業の人たちが、「ロゴセラピーは素晴らしいです」と意見をしているのだが、多分、最初に僕はこれを見ていたら、よくあるスピリチュアル系なうんたらと同じだと思って、感情的に倦厭していただろう。
だから、「出会い」って重要だと思う。
僕は、「巨匠を老害と呼ぶために」この方のこの記事に最初に出会っていたから、ロゴセラピーというかフランクルさんについて、なんだなんだ、すげー面白そうだぞ! と思った。
(まぁ上の記事の方は批判記事なわけだが。でも、実際に「人間とは何か」を読み進めてみて、上の方の分析というか読解が相当綿密であることが分かった。その上で、「自分はここが問題点、足りない点だと思う」というのは、非常に良い批評文である。見習いたい)
良書の要約はダメである
確か、有名な人が、そんなことを言っていた気がする。ただ、やっぱり、「とっかかり」というのは大事だと思う。レビューを読んで、面白そうだなと漫画とか映画とか小説とかみることもあるだろう。
特に、難しい内容とかだと、一度大筋をおさえることは重要である。便利なのは、wikiとかだが、それよりも、信頼できる人の書いたレビューの方が、よほど分かりやすかったり、役に立ったりする。
上に挙げた方の他の記事も結構面白くて、機会があれば読んでみたいと思っている。
こんな良質な情報を、インターネットでは取得できて、学ぶこともできる。に対して、対面的なセミナーが、絶対的に必要なんだろうか? と、僕はふと思ってしまう。いやぁ、確かに、そういう場にいけば、出会いなどもあって、人脈も広がって、そうやって人は生活しているのかもしれない。
けれども、今、昨今特に、僕は、休日はゆっくりさせてくれ! と思っている。
誰とも話したくない症候群
いやー、ダメな傾向やねんなぁ。まぁ、もともとこの傾向はあったもんだ。ただ、「ダメなこと」ということで、積極的に封じ込めていた感情というか、行動であった。ので、飲み会も、友人からのお誘いも、積極的に参加したりしていた。――今は、積極的に断っている。何をしているかと言えば、本を読んでいる。筋トレストレッチしている。音読をしている。部屋の片づけ、思考の整理をしている。ダメな大人だ!!
平日、特に感じるのだが、仕事が終わって帰るとき、もうほんと、「ああ、誰とももう話さなくていいんだ……」と非常に解放感になる。
家に帰ると、あたたかな家庭が……恋人が……、子どもが、両親兄弟が……、と、一切望んでいない。
兎に角、一人でいられることに「幸せ」を覚える。(ただ、このブログに関係する関係においては、まったく枷になっていない。時おり落ち込むこともあるけれど、むしろそこから得られる刺激は非常に嬉しいものであり、充実したものに思える)
ゲーム的思考
ただし、この、孤独を求める心性を、手放しで肯定しようとは思わない。そう、そもそも僕は限りなく「ポジティブ思考」なのである! いやまぁそれはどうでもいいが、つまり、「100%一人でいること」を求めているわけでは、決してないことを確認しておく必要がある。まずもって、このブログが一つの証左である。100%孤独状態を欲するならば、何故書く? 何故コメントに返信をする? 何故サイトを運営する? おかしいだろう、一人ただ、ご飯を食べて、寝て、遊べばいい。ただ、その「遊ぶ」とは何ぞや? ゲーム? なるほど、黒い砂漠というゲームをやっているのか、それは楽しかろう、それは何というジャンルか? MMORPG? なるほど、RPGということは、「人と関わる」ゲームというわけだな。ということは、そもそも、人と関わることを、完全に拒絶しているわけではないのだな?
これは、恋愛シミュレーションゲームに嵌るオタクを想像してもよい。二次元最高! といって、現実の三次元女はクソ、と断罪する気持ちは分からなくもない、というか、それはある面で真理だろう(例えば、顔も収入も性格もよくない男が、美少女を娶ることを欲しても、それは激しい絶望しか生まないだろう)。
ただし、本当に、そこで、「諦める」ことを、「正」としてよいのか?
それについては、十分に検討する必要がある。その上での結論であればよい。ただし、その「美少女ゲーム」において求める審美や耽美といったものを、実現させることを求めないでいてもよいのか、ということである。
自分自身を引き受けること
これは、「一般論」などではない。単に、「価値観」レベルの話しだ。誰にでも当てはまるものではない。ただ、「俺はぶさいくだから彼女も友人もできないんだ」「俺は低収入だから結婚できないんだ」ということを言うときに、その反例もまたいくらでも挙げられる(不細工でも彼女ができる人はいるし、低収入でも結婚している人はいる)し、それにもまして、もう一つ、そういった「諦め」をする人たちが、見落としていることがある。
それは、不細工だとか低収入だとかいう個々の要素について、それが永続的で、絶対的な理由になるということを、何故確信しているのか、ということである。
繰り返しになるが、これは一般論などではない。
「俺は、モテなかったけれど、彼女できたぜ」と友人に言われたとして、彼女が一度もできたことのない人が、「じゃあ自分も!」と思えるかどうか、これはもう、運命的偶発的なものに過ぎない。そのような人たちは、他者の成功が、自分自身の成功に結び付くとは、一切思えないのである。
で、あるにも関わらず、自らの人生を、自分のものとして引き受けるということを、何故可能になるのか?(イケメンを除く)
つらく、苦しい状態であっても、充実した人生を送れるようになることを、何故信じることができるのだろうか?(イケメンを除く)
そういった状態においてもなお、「生きる意味はあるのだ」「人生それ自体が意味を、他ならない貴方に求めているのだ」という言葉を、僕に、どのように届けてくれるのか。フランクルさんには期待しているところである。
(というかそもそもそのセミナー、みんなフランクルの本を少なくても2冊以上は読んだことがある人ばかりらしい! 結局もって、ある程度インプットがないと、他者の言葉など頭に入ってこないのである。だから、自分で勉強できない人が、他者から何か学ぶ、ということをあまり僕は信じていない)
今日の一言「現象学面白い」「知ったかぶり乙と言われることを恐れては思考停止になる」
僕も、幸せとは対概念(※)だからどうでもいいことだ、と言っていた。
偉くて人気があって有名な方が言った言葉は名言になる。
ネガティブで人気が無くて世に知られていない人が言った言葉は迷言になる。
そんなものだ。
結局、誰が言ったかが重要になるだけ。
そんなことはどうでもいい。「実感」が一番大事だ。
その、名言を言った人も、自分の感じたことを、率直に、実直に、真実のようにして語ったから、多くの人の心をうつのである。
だから、みんなが思ったその感情、言葉、心について、恥ずかしいと思う必要はない。
本気で思ったことならば、それは、名言になる可能性があるのだ。
つたない表現だろうが関係ない。
凛冽玲瓏な透き通って煌びやかな言葉である必要などない。
君の言葉で語るがいい。それが唯一無二の名言になるのだ。
※対概念とは、長い・短いといった、片方の概念が無ければ成り立たない事物や事象のことである。オリジナルを主張する気は全くなくて、恐らく、偉い哲学者や、経営者やその他多くの人が、もっとしっかり考えて定義していることだと思う。ただ、この対概念というのは、例えばポジティブとかネガティブといったことを考える上でも、自分自身の価値観を分析重要なため、敢えてインプットしている。
もちろん、独善に陥ることを避けるために、他者の思考を学ぶことは重要だ。しかし、
「フッサール」「エポケー」「超越論的還元」「本質直観」
とか、専門用語を噛み砕いて理解したとしても、それは、哲学体系の維持に寄与することはあるだろうが、自分自身に役立てるという点においては不足である。
俗的な言い方にならざるを得ないけれども、思考が必要なのは、問題があるからである。
問題の解決のために、考える必要が生まれるのである。
考えることそれ自体を目的としてはならない。(上で書いたとおり、哲学体系の維持を仕事とするなら別)
陽明学で「知行合一」という用語があるけれども、それは「実践も大事だよ」ということである。
ただし、これは、必ずしも「結論を出す」こととは一致しない。結論=答え。その答えというものが、いつも、どんなときも、誰にでも当てはまるというとき、それは、普遍的といったり、「真理」といったりもする。
この真理に近づこうとするのが、かつての「哲学」であった。過去形ではなく、今もそうなのかもしれない、ただし、19世紀~20世紀のフッサールの現象学の登場で、形而上的なものは否定されることになった。
正直、どっちがどっちの立場だったか忘れてしまったが、今も印象に残っているのは、「どこまでいっても客観的なことなどなく、世界は主観でしかない」という主張であった。それが友人の言だったか、自分の考えだったか覚えていない。
ただ、このテーマに対して、現象学は、「どっちでもよくね?」と答えるのである。
教科書的には、現象学とか、フッサールは、あまり重要視されていない。センター倫理の攻略本には、なんということか、一切登場していなかった。そのせいか、僕もまともに触れたことはなかった。ただ、◎◎の現象学という言葉が、結構よく聞かれる昨今である。そして、今読み進めている「人間とは何か」においても、現象学に触れる場面もあったため、少し調べてみることにした。
教科書的表現は、それが正確なのかどうか分からないが、どうにも分かりづらい。
この解説を読んで、初めて現象学に触れる人が、「おお、なるほど分かったぜ!」となるのだろうか。
ここから今回の記事では、この内容を、ものすごく簡単に、「僕レベルでも」分かるように理解に努めていきたいと思う。
すなわち、僕らが、認識しようがすまいが、実際にある、存在する、実在する、そういったものが客観とか、客体とか、そういうものだ。
ここは、難しく考えないようにしよう。
上の引用文で、「外に世界が実在するという日常の素朴な判断」というのは、なんてことは無い、僕らの「ふつーの」認識そのものと言ってよい。
対して、主観とは何か?
広辞苑では、「自分ひとりの考えや感じ方」とある。
これも、難しく考えないようにしよう。僕らが「思ったこと」や「感じたこと」それが主観だ。
しかし、ただそれだけであれば、主観と客観というのは、哲学的な問題にはなり得ない。
哲学的な問いにすれば、主観と客観は一致するのか? とか、主観と客観はどちらが包含的なのか、といったことになる。
ここで、主観と客観という用語を考えたときに、果たして自分は、主観と客観が同一のものだと思うだろうか?
僕は、別物だと思う。何故なら、僕が思ったこと、例えば創作的なことだとか、単なる妄想といったものも、僕は、「思う」ことができる。ただし、それがでは、誰もが認識できる「客観的」事実とか、事物として存在するか、といえば、そんなわけない。
だから、主観と客観は別物だと考えられてきた。
>外に世界が実在するという日常の素朴な判断を、いったん「かっこ」に入れて停止し(エポケー・判断停止)
という部分である。
何を言っとるんじゃ? と、ここでイラっとしてしまった人は、まずもって、この現象学を、現時点でそれほど必要としていないから、無理して学ぶ必要もない。
繰り返しになるが、あくまでも、自分の思考に役立てるために、学ぼうというのが本来の主旨である。大学のレポートとか、センター試験の勉強のためには必要ない。
この判断停止が必要な理由は、客観への疑問からである。
そこにリンゴはあるのか、とか、コップはあるのか、とか、例えを用いて説明されることが多いが、リンゴだと思ったら造り物だったとか、コーヒーだと思ったら黒酢だったとか、そんなことだ。(いやその例えだったら、単にその人の認識誤りなだけでは? 客観的なものは、絶対的に存在するのでは? という疑問もすぐさま浮かぶことだろう。ただこれは、絶対に存在する、という根拠をどこに見出すのか、という別の問題でもあるので、ここでは触れない。)
その客観ってものが成り立つ条件を明らかにしていこうと、みんな頑張ってきた。でも、見つからなかった。
だから、フッサールさんが、「いやいや、そもそも、客観だとして考えることを、いったん止めてみない?」と提唱したわけだ。
客観なんて、ホントはなかったんや……と。
ただ、僕が今向かっているパソコンのディスプレイは、実際に「ある」じゃあないか。これは何なんだ? コーヒーを飲む。醤油なんかじゃない、コーヒーだ。
コーヒーだ、と僕は「思った」「感じた」。
このこと自体に焦点を合わせてみようと、それが現象学的な考え方だ。
つまり、主観と客観は一致しないというよりも、主観と客観という構図ではなくて、「純粋な意識の内面に立ち返り、そこにあらわれる現象をありのままに記述し、考察」してみよう、ということなのだ。
いやそもそも、その「本質直観」って、「人間中心主義」とか「共同幻想」とか、「唯心論」とか、「クオリア」とか、それらと何が違うの?
もっと言っちゃえば、「我思う、故に我あり」と何が違うの?
神は死んだ、といったニーチェさんと何が違うの?
「この世は結局どこまでいっても、主観的でしかあり得ない」といった高校生の感じたことと何が違うのか?
僕が今回役に立ったと思ったのは、この現象学的な考え方には、「真理なんてない!」と投げ出してしまって、それで終わりではなかったことである。
確かに、エポケー・判断停止によって、客観的な実在を疑ってかかりなさい、とする。それは、懐疑主義的な感じも、初見では受けた。
ただ、その意味するところは、「客観を追い求めるのではなく、その主観的実在が成り立つ条件を考えるようにしなさい」というところである。
主観的実在……とか、また勝手な用語で書いてしまった。悪い癖である。ええと、分かりやすく書き直せば、「僕らがあると感じたことそれ自体」ということだ。
例えば、ギリシアのプラトンさんは、イデアといって、事物の根源的なものが存在する、という立場をとっていた。しかし、僕らが認識している事物は、そのイデアの陰影なのだと。だから僕らの世界は不完全なのだと。でも、イデアはあります! 真実のイデアを観ることによって、僕らの魂は救済されるのです! 的な。
いや、そんなもんありゃしませんよと。いや、あってもいいんだけど、取りあえず、そういった「客観的なものがある」という判断を、いったんやめてみましょうと。現象学はそう提唱するのである。
その上で、なお残った、僕らの感じたこと、思ったことの成り立つ条件を、見つめなおそうというのである。それが、「外界が実在するという日常的な判断をいったん停止して意識の内面的世界に戻り、そこにあらわれるままの事実を考察する」ということなのだ。
現象学とは何か
現象学は何の役に立つのか
現象学の本質が理解できた、とか、そんなおごり高ぶりはないけれども、恐らく、他の本を読んでいて、現象学を参考に記述されている箇所を読んでも、つっかからずに読むことができるぐらいは理解できたと思う。
こうやってインプットしていくと、だんだん「実感」と離れた「知識」になっていくことがあるので、そこは注意しないといけない。
ただ、先日書いた、「内因性抑鬱」と「心因性抑鬱」との違い、これがよく分からないまま、フランクルさんの「人間とは何か」を読んでいくと、段々訳が分からなくなっていくのである。
こういった、前提知識というのが無いと、理解したようなしてないような、だんだんモヤモヤが溜まっていってストレスになる。
じゃあ、その前提知識って、誰が、どこまで有しているのかというのは、非常に難しい問題である。
理解って何だ?
という、また新たな疑問というのも生まれてくる。
例えば、都道府県名とその県庁所在地を覚えたとしても、それが「わかった!」「理解した!」という気持ちになることはできないだろう。
◎◎なのは何故か? それは●●だからだ! といったときに、分かった、という気持ちになるのである。
だから、「理解」と「何故?」という問いは、対概念なのかもしれない。
問題意識がなければ、理解したときの快感も味わえない、ということである。
しかし、その理解のためには、結構苦痛な、暗記的作業も必要不可欠なのである。
その暗記的作業というのが、学校のお勉強とか、受験勉強である。だから、「勉強に意味あるの?」という子供の問いについては、別にがんばって答えてやる必要はない。「知らないよ。でも勉強以外に価値あることって、君は何だと思うの?」と聞いてやればよい。「遊ぶことだよ」と言うかもしれない。その通り! 遊ぶことは重要だ。だがその遊びとは何か。快楽追求することだけが生きるということなのか? 例えば、ゲームでも物語でもよい。何か素晴らしい作品に出あったとする、しかし、小説の陶酔できるような描写を味わうためには、ゲームの攻略本を読むための知識、そもそもそのゲームの根底にあるストーリーのモチーフとか、プログラムとか、……本当に楽しむためには、様々な知識や理解が必要である。
ただ、僕が好きな言葉で、「修証義」という作品の一文で、
「無常忽ちに到るときは 国王大臣親暱(しんじつ)従僕妻子珍宝たすくる無し 唯独り黄泉(こうせん)に赴くのみなり」
がある。
無常というのは、「死」のことだ。死が突然やってくるときは、国王とか大臣とか地位や、親しい人とか家来とか妻子とか、財産とか、それらが役立つ(助けてくれる)ことはない。ただ、一人で、死に向かうしかない、という意味である(注:遠藤解釈)。
人生というのは、過去の積み重ねである。これまで自分が成してきたことが、それが人生そのものである。死に対して、僕らがもっていくことができるものは何もない。ただ、自分自身だけなのだ。
と、この記事の結びが、現象学と何ら関係しないようになってしまったが、無理やりこじつければ、この死を思え、メメントモリ的な考えを、ドイツの哲学者ハイデガーさんは提唱したのだけれども、このハイデガーさんが若いときに強く影響を受けたのが、そのフッサールの現象学であった。ということで、結びにさせて頂こう……。
(強引すぎる! そもそもタイトルとも合ってない気がする! 気にするな! 何とか分かりやすい主張にしようと思ったおかげで、この記事2時間ぐらいかかったぞ! 今週の目標が、やばい!)
名言とは
岡本太郎さんが、「私はね、幸せって言葉が嫌いなんです」と言っていた。僕も、幸せとは対概念(※)だからどうでもいいことだ、と言っていた。
偉くて人気があって有名な方が言った言葉は名言になる。
ネガティブで人気が無くて世に知られていない人が言った言葉は迷言になる。
そんなものだ。
結局、誰が言ったかが重要になるだけ。
そんなことはどうでもいい。「実感」が一番大事だ。
その、名言を言った人も、自分の感じたことを、率直に、実直に、真実のようにして語ったから、多くの人の心をうつのである。
だから、みんなが思ったその感情、言葉、心について、恥ずかしいと思う必要はない。
本気で思ったことならば、それは、名言になる可能性があるのだ。
つたない表現だろうが関係ない。
凛冽玲瓏な透き通って煌びやかな言葉である必要などない。
君の言葉で語るがいい。それが唯一無二の名言になるのだ。
※対概念とは、長い・短いといった、片方の概念が無ければ成り立たない事物や事象のことである。オリジナルを主張する気は全くなくて、恐らく、偉い哲学者や、経営者やその他多くの人が、もっとしっかり考えて定義していることだと思う。ただ、この対概念というのは、例えばポジティブとかネガティブといったことを考える上でも、自分自身の価値観を分析重要なため、敢えてインプットしている。
自分で考えるということ
他者の思想・思考を学ぶということと、自分で考えるということは、全く別物である。もちろん、独善に陥ることを避けるために、他者の思考を学ぶことは重要だ。しかし、
「フッサール」「エポケー」「超越論的還元」「本質直観」
とか、専門用語を噛み砕いて理解したとしても、それは、哲学体系の維持に寄与することはあるだろうが、自分自身に役立てるという点においては不足である。
俗的な言い方にならざるを得ないけれども、思考が必要なのは、問題があるからである。
問題の解決のために、考える必要が生まれるのである。
考えることそれ自体を目的としてはならない。(上で書いたとおり、哲学体系の維持を仕事とするなら別)
陽明学で「知行合一」という用語があるけれども、それは「実践も大事だよ」ということである。
ただし、これは、必ずしも「結論を出す」こととは一致しない。結論=答え。その答えというものが、いつも、どんなときも、誰にでも当てはまるというとき、それは、普遍的といったり、「真理」といったりもする。
この真理に近づこうとするのが、かつての「哲学」であった。過去形ではなく、今もそうなのかもしれない、ただし、19世紀~20世紀のフッサールの現象学の登場で、形而上的なものは否定されることになった。
現象学について
僕は、高校生ぐらいのとき、友人と、「客観」と「主観」の存在について議論(というかおしゃべり)したことがあった。正直、どっちがどっちの立場だったか忘れてしまったが、今も印象に残っているのは、「どこまでいっても客観的なことなどなく、世界は主観でしかない」という主張であった。それが友人の言だったか、自分の考えだったか覚えていない。
ただ、このテーマに対して、現象学は、「どっちでもよくね?」と答えるのである。
教科書的には、現象学とか、フッサールは、あまり重要視されていない。センター倫理の攻略本には、なんということか、一切登場していなかった。そのせいか、僕もまともに触れたことはなかった。ただ、◎◎の現象学という言葉が、結構よく聞かれる昨今である。そして、今読み進めている「人間とは何か」においても、現象学に触れる場面もあったため、少し調べてみることにした。
現象学は、外に世界が実在するという日常の素朴な判断を、いったん「かっこ」に入れて停止し(エポケー・判断停止)、純粋な意識の内面に立ち返り、そこにあらわれる現象をありのままに記述し、考察するものである。
日常では、世界が外に実在し、人間の自我もその世界の中におかれた一つのものと信じられている。現象学はそのような素朴な見方を逆転し、外界が実在するという日常的な判断をいったん停止して意識の内面的世界に戻り、そこにあらわれるままの事実を考察する。
――山川倫理
教科書的表現は、それが正確なのかどうか分からないが、どうにも分かりづらい。
この解説を読んで、初めて現象学に触れる人が、「おお、なるほど分かったぜ!」となるのだろうか。
ここから今回の記事では、この内容を、ものすごく簡単に、「僕レベルでも」分かるように理解に努めていきたいと思う。
主観と客観とは何か
客観とは、「主観の作用とは独立に存在すると考えられたもの」と広辞苑ではある。すなわち、僕らが、認識しようがすまいが、実際にある、存在する、実在する、そういったものが客観とか、客体とか、そういうものだ。
ここは、難しく考えないようにしよう。
上の引用文で、「外に世界が実在するという日常の素朴な判断」というのは、なんてことは無い、僕らの「ふつーの」認識そのものと言ってよい。
対して、主観とは何か?
広辞苑では、「自分ひとりの考えや感じ方」とある。
これも、難しく考えないようにしよう。僕らが「思ったこと」や「感じたこと」それが主観だ。
しかし、ただそれだけであれば、主観と客観というのは、哲学的な問題にはなり得ない。
哲学的な問いにすれば、主観と客観は一致するのか? とか、主観と客観はどちらが包含的なのか、といったことになる。
ここで、主観と客観という用語を考えたときに、果たして自分は、主観と客観が同一のものだと思うだろうか?
僕は、別物だと思う。何故なら、僕が思ったこと、例えば創作的なことだとか、単なる妄想といったものも、僕は、「思う」ことができる。ただし、それがでは、誰もが認識できる「客観的」事実とか、事物として存在するか、といえば、そんなわけない。
だから、主観と客観は別物だと考えられてきた。
本当に客観ってあるのか?
でも、そもそも、客観的な事物・事象というのは存在するのだろうか? というのが、上の引用からいくと、>外に世界が実在するという日常の素朴な判断を、いったん「かっこ」に入れて停止し(エポケー・判断停止)
という部分である。
何を言っとるんじゃ? と、ここでイラっとしてしまった人は、まずもって、この現象学を、現時点でそれほど必要としていないから、無理して学ぶ必要もない。
繰り返しになるが、あくまでも、自分の思考に役立てるために、学ぼうというのが本来の主旨である。大学のレポートとか、センター試験の勉強のためには必要ない。
この判断停止が必要な理由は、客観への疑問からである。
そこにリンゴはあるのか、とか、コップはあるのか、とか、例えを用いて説明されることが多いが、リンゴだと思ったら造り物だったとか、コーヒーだと思ったら黒酢だったとか、そんなことだ。(いやその例えだったら、単にその人の認識誤りなだけでは? 客観的なものは、絶対的に存在するのでは? という疑問もすぐさま浮かぶことだろう。ただこれは、絶対に存在する、という根拠をどこに見出すのか、という別の問題でもあるので、ここでは触れない。)
その客観ってものが成り立つ条件を明らかにしていこうと、みんな頑張ってきた。でも、見つからなかった。
だから、フッサールさんが、「いやいや、そもそも、客観だとして考えることを、いったん止めてみない?」と提唱したわけだ。
客観なんて、ホントはなかったんや……と。
本質直観
なるほど、1歩ゆずって、客観的なことを証明するのはできない、としよう。ただ、僕が今向かっているパソコンのディスプレイは、実際に「ある」じゃあないか。これは何なんだ? コーヒーを飲む。醤油なんかじゃない、コーヒーだ。
コーヒーだ、と僕は「思った」「感じた」。
このこと自体に焦点を合わせてみようと、それが現象学的な考え方だ。
つまり、主観と客観は一致しないというよりも、主観と客観という構図ではなくて、「純粋な意識の内面に立ち返り、そこにあらわれる現象をありのままに記述し、考察」してみよう、ということなのだ。
さてこれをどう役立てるか
と、まぁ、考察とか解説もどきをやってみたけれども、どうにも面白くない。いやそもそも、その「本質直観」って、「人間中心主義」とか「共同幻想」とか、「唯心論」とか、「クオリア」とか、それらと何が違うの?
もっと言っちゃえば、「我思う、故に我あり」と何が違うの?
神は死んだ、といったニーチェさんと何が違うの?
「この世は結局どこまでいっても、主観的でしかあり得ない」といった高校生の感じたことと何が違うのか?
僕が今回役に立ったと思ったのは、この現象学的な考え方には、「真理なんてない!」と投げ出してしまって、それで終わりではなかったことである。
確かに、エポケー・判断停止によって、客観的な実在を疑ってかかりなさい、とする。それは、懐疑主義的な感じも、初見では受けた。
ただ、その意味するところは、「客観を追い求めるのではなく、その主観的実在が成り立つ条件を考えるようにしなさい」というところである。
主観的実在……とか、また勝手な用語で書いてしまった。悪い癖である。ええと、分かりやすく書き直せば、「僕らがあると感じたことそれ自体」ということだ。
例えば、ギリシアのプラトンさんは、イデアといって、事物の根源的なものが存在する、という立場をとっていた。しかし、僕らが認識している事物は、そのイデアの陰影なのだと。だから僕らの世界は不完全なのだと。でも、イデアはあります! 真実のイデアを観ることによって、僕らの魂は救済されるのです! 的な。
いや、そんなもんありゃしませんよと。いや、あってもいいんだけど、取りあえず、そういった「客観的なものがある」という判断を、いったんやめてみましょうと。現象学はそう提唱するのである。
その上で、なお残った、僕らの感じたこと、思ったことの成り立つ条件を、見つめなおそうというのである。それが、「外界が実在するという日常的な判断をいったん停止して意識の内面的世界に戻り、そこにあらわれるままの事実を考察する」ということなのだ。
知識と理解
ふぅ……。取りあえず、以下のサイトを読んでから、2日ぐらい経ってから、山川教科書の引用以外はほぼ自分の言葉でまとめてみた。現象学とは何か
現象学は何の役に立つのか
現象学の本質が理解できた、とか、そんなおごり高ぶりはないけれども、恐らく、他の本を読んでいて、現象学を参考に記述されている箇所を読んでも、つっかからずに読むことができるぐらいは理解できたと思う。
こうやってインプットしていくと、だんだん「実感」と離れた「知識」になっていくことがあるので、そこは注意しないといけない。
ただ、先日書いた、「内因性抑鬱」と「心因性抑鬱」との違い、これがよく分からないまま、フランクルさんの「人間とは何か」を読んでいくと、段々訳が分からなくなっていくのである。
こういった、前提知識というのが無いと、理解したようなしてないような、だんだんモヤモヤが溜まっていってストレスになる。
じゃあ、その前提知識って、誰が、どこまで有しているのかというのは、非常に難しい問題である。
理解って何だ?
という、また新たな疑問というのも生まれてくる。
例えば、都道府県名とその県庁所在地を覚えたとしても、それが「わかった!」「理解した!」という気持ちになることはできないだろう。
◎◎なのは何故か? それは●●だからだ! といったときに、分かった、という気持ちになるのである。
だから、「理解」と「何故?」という問いは、対概念なのかもしれない。
問題意識がなければ、理解したときの快感も味わえない、ということである。
しかし、その理解のためには、結構苦痛な、暗記的作業も必要不可欠なのである。
その暗記的作業というのが、学校のお勉強とか、受験勉強である。だから、「勉強に意味あるの?」という子供の問いについては、別にがんばって答えてやる必要はない。「知らないよ。でも勉強以外に価値あることって、君は何だと思うの?」と聞いてやればよい。「遊ぶことだよ」と言うかもしれない。その通り! 遊ぶことは重要だ。だがその遊びとは何か。快楽追求することだけが生きるということなのか? 例えば、ゲームでも物語でもよい。何か素晴らしい作品に出あったとする、しかし、小説の陶酔できるような描写を味わうためには、ゲームの攻略本を読むための知識、そもそもそのゲームの根底にあるストーリーのモチーフとか、プログラムとか、……本当に楽しむためには、様々な知識や理解が必要である。
意味
本当に楽しむ、という抽象的な表現を使ってしまったが、結局のところ、ご飯食べて「うめぇ!」エロいことして「キモちぃぃ!」睡眠とって「むにゃむにゃ」、の繰り返しでよければ、それはそれでよいだろう。ただ、僕が好きな言葉で、「修証義」という作品の一文で、
「無常忽ちに到るときは 国王大臣親暱(しんじつ)従僕妻子珍宝たすくる無し 唯独り黄泉(こうせん)に赴くのみなり」
がある。
無常というのは、「死」のことだ。死が突然やってくるときは、国王とか大臣とか地位や、親しい人とか家来とか妻子とか、財産とか、それらが役立つ(助けてくれる)ことはない。ただ、一人で、死に向かうしかない、という意味である(注:遠藤解釈)。
人生というのは、過去の積み重ねである。これまで自分が成してきたことが、それが人生そのものである。死に対して、僕らがもっていくことができるものは何もない。ただ、自分自身だけなのだ。
と、この記事の結びが、現象学と何ら関係しないようになってしまったが、無理やりこじつければ、この死を思え、メメントモリ的な考えを、ドイツの哲学者ハイデガーさんは提唱したのだけれども、このハイデガーさんが若いときに強く影響を受けたのが、そのフッサールの現象学であった。ということで、結びにさせて頂こう……。
(強引すぎる! そもそもタイトルとも合ってない気がする! 気にするな! 何とか分かりやすい主張にしようと思ったおかげで、この記事2時間ぐらいかかったぞ! 今週の目標が、やばい!)
今日の一言「お金があっても大変なもんは大変だ」
一言、書かせて頂こう。仕事が、忙しい。
僕の今までの感覚でいくと、70点ぐらいをとるにも、残業を避けられない。
そりゃね、仕事の内容にもよるが、スピード感というのは大事なので、7割り程度でも、先に進めていくことも必要だから、100点に拘ってやたら時間をかけるのは間違っている。
しかしながらその、7割り程度をこなすためにも、対応案件が多すぎる。いやもちろん、僕の処理能力不足、と言われたらそうなんだが、取り敢えず現状、どうにもこうにも手詰まり感がある。
ここまでをこの日までにやろう、としていても、方向性が変わったり、追加案件が発生したりで、アンコントロールである。
問題は、思い通りにいかないことが多いと、僕は段々イライラしてきてしまうことだ。
他者への態度にも出てしまう。悪循環である。他者への態度が悪くなってしまうことそれ自体が、ストレスになるからだ。
とそんな感じでイライラしていたある日、とあるお客さんと会話する機会があった。その方が、とてもお金持ち、というか、資産をもっていた。不動産関係だが、軽く億をこえているという。仕事はしているが、不動産投資の方がメインとのことだ。
投資と、リターンが、もう、けた違いで、僕の全財産が維持コストみたいなレベルである。
そんな方がおっしゃるには、サラリーマンなんてやって、時間を切り売りしてるなんてばからしいと。もっと大きな考え方をして、夢をもたなきゃダメだと。
おー、やっぱりこんな人がモテるんやろうなぁ。
そんなお金持ちさんのお子さまたちも、やっぱり考え方がビッグだという。そもそも、子供の頃から高級な食べ物や服を与えられていたから、金銭感覚もそれなりだという。
そういう親に育てられたら、なおさら、サラリーマンとかやってらんないね、ってなるのだろう。
教育の重要性だ。
育ってきた環境の重要性だ。
で、まぁ、そういうのに憧れる人もいるのだろう。
ただ、負け惜しみにしかならないが、色々な人とかかわり合って、だましだまされ努力して、良い車や旅行を楽しみに頑張って、というのは、リターンが大きい点はまったく違うが、お金持ちもまた、色々大変なんだなぁ、と感じさせた。
冒頭の忙しさへの対処についてであるが、これはそろそろ、考え方の転換によって対応すべきかもしれない。
つまり、忙しいことを当たり前にするということだ。
最近、ノー残業デーとか、プレミアムフライデーとかそんな、長時間労働はいけないものだという風潮が広まっている。
ので、僕も、僕の実感からも、長時間労働はよくないことだと思うので、早く切り上げようと効率化を考えてはいるが、しかし、前述の通りがんがん、追加案件が発生するのだ。
それを、やらないようにするとか、他の人に押し付けるとか、まぁそんな方針をたてたりもしたが、この考え方を変えてしまってはどうか、ということである。
忙しいのは当たり前。21時から23時が定時であると考えるのだ。
そうしたら、仮に20時で終わったらよく頑張った! となる。
社畜乙とか、効率悪いとか、頑張ってる感出してキモいとか、そりゃもう、時代に逆行することをいってるから、いくらでも批判可能である。
それはそうなんだが、取り敢えずアンコントロール状態なら、劇的に状況を変えることなどできないのだから、考え方の転換をして、感情制御に努めたほうがましである。
もちろん。頑張って頑張った果てに、汚名を着せられたこともあるので、決して頑張ることを肯定するのではない。無理をするつもりもない。成果を求めるつもりもない。ただ、やるべきことをやるだけだ。
大事なことは、人のせいにも、上司のせいにも、会社のせいにも、社会のせいにも、国のせいにもせず、すべて自分のことであると、人生を引き受けることである。
と、書くと、じゃあ、人のせいにしてくるくだらない奴との対応はどうしたらよいか? ということが問題になる。そういうやつらとの対応も含めて、それらに対する行動もあわせて、自分で引き受ける必要があるのだ。
(この記事は抱負とかメモ的なものなので、あまりというか、ぜんぜん深い意味はない)
せこせこ働いてどうするのか
一言、書かせて頂こう。仕事が、忙しい。
僕の今までの感覚でいくと、70点ぐらいをとるにも、残業を避けられない。
そりゃね、仕事の内容にもよるが、スピード感というのは大事なので、7割り程度でも、先に進めていくことも必要だから、100点に拘ってやたら時間をかけるのは間違っている。
しかしながらその、7割り程度をこなすためにも、対応案件が多すぎる。いやもちろん、僕の処理能力不足、と言われたらそうなんだが、取り敢えず現状、どうにもこうにも手詰まり感がある。
ここまでをこの日までにやろう、としていても、方向性が変わったり、追加案件が発生したりで、アンコントロールである。
問題は、思い通りにいかないことが多いと、僕は段々イライラしてきてしまうことだ。
他者への態度にも出てしまう。悪循環である。他者への態度が悪くなってしまうことそれ自体が、ストレスになるからだ。
セレブとの会話
とそんな感じでイライラしていたある日、とあるお客さんと会話する機会があった。その方が、とてもお金持ち、というか、資産をもっていた。不動産関係だが、軽く億をこえているという。仕事はしているが、不動産投資の方がメインとのことだ。
投資と、リターンが、もう、けた違いで、僕の全財産が維持コストみたいなレベルである。
そんな方がおっしゃるには、サラリーマンなんてやって、時間を切り売りしてるなんてばからしいと。もっと大きな考え方をして、夢をもたなきゃダメだと。
おー、やっぱりこんな人がモテるんやろうなぁ。
羨ましいがしかし
そんなお金持ちさんのお子さまたちも、やっぱり考え方がビッグだという。そもそも、子供の頃から高級な食べ物や服を与えられていたから、金銭感覚もそれなりだという。
そういう親に育てられたら、なおさら、サラリーマンとかやってらんないね、ってなるのだろう。
教育の重要性だ。
育ってきた環境の重要性だ。
で、まぁ、そういうのに憧れる人もいるのだろう。
ただ、負け惜しみにしかならないが、色々な人とかかわり合って、だましだまされ努力して、良い車や旅行を楽しみに頑張って、というのは、リターンが大きい点はまったく違うが、お金持ちもまた、色々大変なんだなぁ、と感じさせた。
コペルニクス的転換
冒頭の忙しさへの対処についてであるが、これはそろそろ、考え方の転換によって対応すべきかもしれない。
つまり、忙しいことを当たり前にするということだ。
最近、ノー残業デーとか、プレミアムフライデーとかそんな、長時間労働はいけないものだという風潮が広まっている。
ので、僕も、僕の実感からも、長時間労働はよくないことだと思うので、早く切り上げようと効率化を考えてはいるが、しかし、前述の通りがんがん、追加案件が発生するのだ。
それを、やらないようにするとか、他の人に押し付けるとか、まぁそんな方針をたてたりもしたが、この考え方を変えてしまってはどうか、ということである。
忙しいのは当たり前。21時から23時が定時であると考えるのだ。
そうしたら、仮に20時で終わったらよく頑張った! となる。
評価を気にしないことと気にすること
社畜乙とか、効率悪いとか、頑張ってる感出してキモいとか、そりゃもう、時代に逆行することをいってるから、いくらでも批判可能である。
それはそうなんだが、取り敢えずアンコントロール状態なら、劇的に状況を変えることなどできないのだから、考え方の転換をして、感情制御に努めたほうがましである。
もちろん。頑張って頑張った果てに、汚名を着せられたこともあるので、決して頑張ることを肯定するのではない。無理をするつもりもない。成果を求めるつもりもない。ただ、やるべきことをやるだけだ。
大事なことは、人のせいにも、上司のせいにも、会社のせいにも、社会のせいにも、国のせいにもせず、すべて自分のことであると、人生を引き受けることである。
と、書くと、じゃあ、人のせいにしてくるくだらない奴との対応はどうしたらよいか? ということが問題になる。そういうやつらとの対応も含めて、それらに対する行動もあわせて、自分で引き受ける必要があるのだ。
(この記事は抱負とかメモ的なものなので、あまりというか、ぜんぜん深い意味はない)
今日の一言「価値あるものを生み出したい」「結局金だよみたいな言説に異を唱えたい」
「この物語は恐らく、需要はない。ただ、この物語を紡げるのは、人類史上私だけだろう。だから書かねばならないのだ」
と言った。
ある人は、
「私の人生の意味は、誰かに、私の生きた証を残すことです。会話であれ、作品であれ、世界に自分の記憶を残すことです」
と言った。
賢者の言に思う。
私はこれまで、何か「できること」、「人より優れていること」がなければ、生きている意味などないのだと、そう思ってきた。いや、思わされていた、のか。そういう環境に置かれていた。ただ、むしろ、自分の中では、否定し続けていたのかもしれない。それが、離人症的、解離的、分裂的な気持ちを生じさせていた原因と考えるのは、自然なことに思われる。
サイコパスの劇場版を見終わった。話しとしての進展などは感じられなかったが、一つの作品として面白かった。シビュラシステムの目指す世界と、ツネモリさんの考える正義との相反性がよりわかりやすくなった気がする。
恐らく、そうした作品でも現れているが、「何かを成すこと」「功利主義的な面」についての言説は、これからも多く触れざるをえないものだろう。「そういう環境」と上に書いたが、どこもかしこもそういうもんなのかもしれない。
いやむしろ、この点……つまり、「責任」や「業績」といった観点においては、何かを成就することというのは、決して否定されるものではないという点、それが、(価値とか、意味とかについての)問題を複雑で、分かりづらく、実感から遠いものにしているようだ。
この記事は、朝によるもので、物理時間が限られているため、以下、フランクルさんの説明のメモを抜き出して終わりとしよう。
それは、仕事、ということで、生み出されるものである。脳神経細胞の3つの本能のうち、知りたいという好奇心と、仲間になりたいという貢献心によって、「仕事」とか「会社」とか「組織」が生まれた。僕たちはみんな、仕事が面倒で、億劫で、休みが欲しいと年から年中言っているけれども、本当は、仕事というのは、本来、自ずからの欲求を満たしてくれる行為であったのだ。
ところが、専門分化した社会において、仕事そのものの価値(ここでは、社会とか組織への価値ではなく、自分自身・個人への価値のこと)というものは薄れてしまった。
どんなに働いても、誰かのためになっている、という貢献心が満たされるとは限らなくなった。しかしそれでも、しばらくのうちは、「家族」とか、親しい関係者に対して、会社という戦場で戦い、敵を倒し(=お金を稼ぎ)、家族を養っていくことで、貢献心が満たされていた時代もあった。
しかし、それも価値が希薄化していく。家庭の中での父親像は崩壊し、女性の社会進出は進み、核家族化が進み、家族という紐帯の意味が薄れていった。
(注意:上の社会論・時代論はテキトウである)
それでもなお、やはり広義の「仕事」というのは、意味を与えてくれるものである。
本記事と関係ないし、時系列もバラバラだが、最近、2012年のアニメーション作品、「ももへの手紙」をみた。まぁ、まぁ、面白かった。しかし、感動するほどではなかった。山寺さんや西田さんが妖怪役で出演していた。作画もよかったし、声優さんたちの演技もよかったと思う。
そうだなぁ、けれども惜しい、と思った点は、やはりストーリーについてだろうか。そのポイントになる妖怪が、物語の主軸に絡んできていないことだろうか。結局、描きたいだろうテーマと、「妖怪」であるべき理由が見いだせなかった。妖怪たちと「お父さん」との関係性も希薄だった。いや普通一般的な理由は色々あって、描写もされているのだ、けれども、何か「惜しい」と思ってしまった。あと、作画も綺麗だけれども、これだけでいうと、「君の名は。」の映像がやっぱり綺麗だった。でもきっと、テレビでやってたら、ダラダラと見ちゃうだろう。そんな感じ。
それでも、意味は失われないのだと、ヴィクトールさんは仰る。
しかし、この態度価値の説明は、薄かったので、上手く理解できなかった。というか、あまり説明がなされていなかった。この態度価値、非常に重要な概念と思うけれども、よく分からない、残念だ。
追記、しかし、その「態度価値」の説明について、むしろこの本全体で述べられているように思われる。
えー、でも、それってどうなの? と思う部分も増えてきている。ただ、ここで立ち止まるのではなく、当初の目標どおり、最後まで、2月中に読み進めることとしたい。
といったところで、自己エクスキューズだが、時間切れだ!! この三つの価値についてはおいおい深めていかねばなるまい。
あーでも、このまま終わるってどうなん? 何か面白いこと、書かなきゃまずいんじゃん?
せっかく読んでくれた人に、上に書いた映画の感想みたいに、「あー、なんか、時間の無駄、とまでは言わないけど、微妙だったな」みたいに思われちゃうんじゃん? それでいいんかい?
ええい、うるさい、だまっとれ。いいんだ、書け。文章を書くというのはなぁ、そんなたいそうな仕事じゃないんだよ。いや昔々は、紙が貴重だった時代や、硯に墨をすって竹に書いていた時代やもろもろは、偉くて優秀な人たちしか書いちゃダメだったろうよ。
今は電子で文字を書ける時代だぜ。「書く」ということに対してのコストが、非常に低くなっているのだ。しかも、WEB、インターネットというもので、特別な人でなくても、公に情報を発信できる世の中なのだ。
いやだからといって、ごみやチラウラみたいな文章を量産してよいということではないが、――【強制終了】
(就職とか面接とか、作文とかレポートとか、「自分の考え」をまとめる作業って、結局読み手に向けたものじゃん。(読解力を試す)そういう意味では簡単だよな。そうじゃなくて、実感を伴った文章を書くってのは、これは結構重い作業だと思う)
価値について
ある人は、「この物語は恐らく、需要はない。ただ、この物語を紡げるのは、人類史上私だけだろう。だから書かねばならないのだ」
と言った。
ある人は、
「私の人生の意味は、誰かに、私の生きた証を残すことです。会話であれ、作品であれ、世界に自分の記憶を残すことです」
と言った。
賢者の言に思う。
私はこれまで、何か「できること」、「人より優れていること」がなければ、生きている意味などないのだと、そう思ってきた。いや、思わされていた、のか。そういう環境に置かれていた。ただ、むしろ、自分の中では、否定し続けていたのかもしれない。それが、離人症的、解離的、分裂的な気持ちを生じさせていた原因と考えるのは、自然なことに思われる。
サイコパスの劇場版を見終わった。話しとしての進展などは感じられなかったが、一つの作品として面白かった。シビュラシステムの目指す世界と、ツネモリさんの考える正義との相反性がよりわかりやすくなった気がする。
恐らく、そうした作品でも現れているが、「何かを成すこと」「功利主義的な面」についての言説は、これからも多く触れざるをえないものだろう。「そういう環境」と上に書いたが、どこもかしこもそういうもんなのかもしれない。
いやむしろ、この点……つまり、「責任」や「業績」といった観点においては、何かを成就することというのは、決して否定されるものではないという点、それが、(価値とか、意味とかについての)問題を複雑で、分かりづらく、実感から遠いものにしているようだ。
この記事は、朝によるもので、物理時間が限られているため、以下、フランクルさんの説明のメモを抜き出して終わりとしよう。
創造価値
何かを、生み出すというのは尊いことだと思う。それは、仕事、ということで、生み出されるものである。脳神経細胞の3つの本能のうち、知りたいという好奇心と、仲間になりたいという貢献心によって、「仕事」とか「会社」とか「組織」が生まれた。僕たちはみんな、仕事が面倒で、億劫で、休みが欲しいと年から年中言っているけれども、本当は、仕事というのは、本来、自ずからの欲求を満たしてくれる行為であったのだ。
ところが、専門分化した社会において、仕事そのものの価値(ここでは、社会とか組織への価値ではなく、自分自身・個人への価値のこと)というものは薄れてしまった。
どんなに働いても、誰かのためになっている、という貢献心が満たされるとは限らなくなった。しかしそれでも、しばらくのうちは、「家族」とか、親しい関係者に対して、会社という戦場で戦い、敵を倒し(=お金を稼ぎ)、家族を養っていくことで、貢献心が満たされていた時代もあった。
しかし、それも価値が希薄化していく。家庭の中での父親像は崩壊し、女性の社会進出は進み、核家族化が進み、家族という紐帯の意味が薄れていった。
(注意:上の社会論・時代論はテキトウである)
それでもなお、やはり広義の「仕事」というのは、意味を与えてくれるものである。
体験価値
しかし、創造価値を充たせない場合もある。その場合は、自然の美しさに、芸術に感動する心に、心が本当に深く神韻縹緲に打ちひしがれるような体験をすること、それが価値となる場合がある。本記事と関係ないし、時系列もバラバラだが、最近、2012年のアニメーション作品、「ももへの手紙」をみた。まぁ、まぁ、面白かった。しかし、感動するほどではなかった。山寺さんや西田さんが妖怪役で出演していた。作画もよかったし、声優さんたちの演技もよかったと思う。
そうだなぁ、けれども惜しい、と思った点は、やはりストーリーについてだろうか。そのポイントになる妖怪が、物語の主軸に絡んできていないことだろうか。結局、描きたいだろうテーマと、「妖怪」であるべき理由が見いだせなかった。妖怪たちと「お父さん」との関係性も希薄だった。いや普通一般的な理由は色々あって、描写もされているのだ、けれども、何か「惜しい」と思ってしまった。あと、作画も綺麗だけれども、これだけでいうと、「君の名は。」の映像がやっぱり綺麗だった。でもきっと、テレビでやってたら、ダラダラと見ちゃうだろう。そんな感じ。
態度価値
さてしかし、創造価値も、体験価値も得られないような状況、人もいるだろう。例えば、末期がんの患者など。それでも、意味は失われないのだと、ヴィクトールさんは仰る。
しかし、この態度価値の説明は、薄かったので、上手く理解できなかった。というか、あまり説明がなされていなかった。この態度価値、非常に重要な概念と思うけれども、よく分からない、残念だ。
追記、しかし、その「態度価値」の説明について、むしろこの本全体で述べられているように思われる。
えー、でも、それってどうなの? と思う部分も増えてきている。ただ、ここで立ち止まるのではなく、当初の目標どおり、最後まで、2月中に読み進めることとしたい。
といったところで、自己エクスキューズだが、時間切れだ!! この三つの価値についてはおいおい深めていかねばなるまい。
あーでも、このまま終わるってどうなん? 何か面白いこと、書かなきゃまずいんじゃん?
せっかく読んでくれた人に、上に書いた映画の感想みたいに、「あー、なんか、時間の無駄、とまでは言わないけど、微妙だったな」みたいに思われちゃうんじゃん? それでいいんかい?
ええい、うるさい、だまっとれ。いいんだ、書け。文章を書くというのはなぁ、そんなたいそうな仕事じゃないんだよ。いや昔々は、紙が貴重だった時代や、硯に墨をすって竹に書いていた時代やもろもろは、偉くて優秀な人たちしか書いちゃダメだったろうよ。
今は電子で文字を書ける時代だぜ。「書く」ということに対してのコストが、非常に低くなっているのだ。しかも、WEB、インターネットというもので、特別な人でなくても、公に情報を発信できる世の中なのだ。
いやだからといって、ごみやチラウラみたいな文章を量産してよいということではないが、――【強制終了】
(就職とか面接とか、作文とかレポートとか、「自分の考え」をまとめる作業って、結局読み手に向けたものじゃん。(読解力を試す)そういう意味では簡単だよな。そうじゃなくて、実感を伴った文章を書くってのは、これは結構重い作業だと思う)
