今日の一言「少し直近のことを整理しよう」「書かなければ落ち着けないという哀しい性哉」
とある国々で、大統領選挙が迫っているという。
このブログでは、政治・宗教に関する主張は一切行われない。どういった政党や政策が良いだとか、どの宗教が正しいだとか、そういうことは一切書いたことはないし、これからも書かれないだろう。
理由は、無意味だからである。政治や宗教は、「信仰」の問題である。または、「ゲーム」である。議論の様相を見せることがあっても、議論にならない。ある「正しいこと」について、他者をどれだけ多く巻き込めるか、その点だけが重要なのである。
しかし、これらの問題は、「自己」という、極めて個人的な問題を考えるにおいても、無視することはできない。何故ならば、自己もまた、単一で成り立つ独立した存在ではなく、他者を始めとるする関係性の中で存在するものだからである。
この感覚については、納得のいかない人も多いだろう。「自分は自分だぜ!」と思う人もいるだろう。このことも、ある意味宗教的な……というと語弊があるが、「信仰」に過ぎないものである。「どの次元での成立(存在)を前提としているか」によって、自己と環境との関係性に係る実感は変わってくる。
先に、このブログでは「政治宗教は扱わない」と書いたが、この意味は、「信仰全般」を扱わないという意味である。もっと厳密に書けば、「誰かが正しいと思っていることについて、それを否定するつもりはない」ということだ。
このことを前提として、それでも、「政治問題」「国際情勢」については、考えたり、情報収集しておく必要はある。
ただそれは、「みなさん、ちゃんと選挙には行きましょうね」という主張なのではなく(※)、どういった仕組みで法律が、政策が決まっていくのかという仕組みを理解することが先決である。と、同時に、どういった社会(政治)が、自分にとって望ましいのか、何が「幸せ」なのかということについて、考えておくことが必要であるということだ。
医療、老後(年金)、子ども、教育、外交(防衛)、経済。
様々な問題がある。それらを、一発で解決できる法律も存在しなければ、政策も存在しない。ちなみに、どんな政策も、基本的に「法律」に拠っていることについて、覚えておいてよいだろう。政治とは極論、法律をつくる仕事だ。僕らの生活は、基本的に、法律のもとに成り立っているのである。役所に行けば、住民登録されているのが分かるけれども、それだって、住民基本台帳法という法律で、どんなことを書かなければいけないかなど決まっている。それは社会保障など、明らかに政治に関係しそうなことだけでなく、経済活動だってそうだ。消費者向けの法律は製造物責任法が有名だろうが、会社法など、僕らの所属する組織だって法律で定められたことに則っている。
※でも、路上のデモ活動とか、ヒップホップで政治批判とか、飲み屋の愚痴でも何でもいいけど、そういったことを言ったりしたりする人たちは、当然、選挙には行っているんだよね? とは思う。国会で通過した法案について、「やめろ! 廃案だ!」とか言ってるのは、手遅れである。もちろん、まったく無意味とは言わないが、それよか、議員の方々に嘆願書を送ったほうがよい。もっといえば、そんな法案を通過させてしまうような議員を選んでしまったことが問題なのである。
ただし、この問題は、そう単純でもない。何せ、どの議員が、どんな政治信条をもっているかなんて中々分からないし、それが、さらに事細かな政策について(例えば、漫画やアニメの表現の自由についてとか)にまでどんな感覚をもっているのかだって、分からないのである。Aという政策に共感したからα議員に投票したけど、その人は実はBという政策も主張する人だったとして、Bという政策はほんっとうに許せないと思ったとしても、後の祭りである。であれば、できることはデモくらいになる。
2016年5月の記事において、以下のキーワードを挙げていた。
「生きる意味」「肯定感」「潜在意識」「ポジティブ」「ネガティブ」「対人関係」「コミュニケーション」「苦悩」「苛々」「ロジック」「整理」「感情処理」「空(仏教)」「宗教」「科学」「記憶」「アイデンティティ」「ストレス」「小説」「エンターテイメント」「創作」「凡人」「仕事」「価値観」「ルーチン」「学習」「計画」「目標」「目的」「死」「理想自己」「幸せ」「自己実現」「真実」「永続性」「アウトプット」「インプット」
多分、それぞれのキーワードについて、僕がどういった感覚(実感)をもっているのかは、大体全部書き終わっていることだろう。
もちろん、具体的な方策だとか、その記載内容を深めたり、表現の見直しなどは必要だろうと思う。ただ、例えば「幸せ」「死」なんていうキーワードで記事を書いたところで、これ以上はあまり変化は見られないだろう。
であれば、もうちょっとそういったキーワードを体系的に整理するか、もしくは、違った視点から書いていく必要があると思うわけである。
しかし、同時に、何か、違和感があるのである。
それが何か、はっきりと表現できない。彼の方が真理に到達し、自分が到達できていないことへの焦りや瞋恚があるのだろうか?
恐らく、だが、「自分」への拘りについての危険を思っているのだろう。
僕は昔(いや、今もだろうが)、自分の内面をとことん探っていった。しかし、現在の結論としては、「自分」というものは、世界(物理的かつ精神的な全てを含む概念として用いる)を、他者と分けて考えたものであるということだ。
故に、自分を知るというのは、自己の内面の深淵に到達するという行為では成しえないものだと思っている。何故ならば、自分と他者との境界というのは、非常に曖昧であると考えられるからだ。
ということは、自分を知るというのは、その他者との境界線を引いていくという作業を指すことになるが、明確なラインを引けたところで、その根拠は覚束ないものに他ならない。その瞬間、その環境では「自分」の定義ができたところで、次の条件では変わってしまうことがどうしても起こるだろう。
そんな風に感じるようになってから、僕は、「自分」というものに拘ることができなくなっていった。
こんな表現をすると、いやそもそも、お前はお前に過ぎないだろう? と思われるだろう。
そのとおりであり、物理的身体としての自分というものは、否定できるものではない。
僕は、僕として存在する。そのことについて否定したところで、何ら意味は無いだろう。
しかし、否定はしないけれども、積極的に肯定することもできない。
先日、「頭がいい人はすごいなぁ」と取り上げた文章の一つに、「文章は所詮、一人称になってしまう」というものがあった。思考には論理性、事実には再現性が重要であるという、あれだ。
しかし、世界の真理がどうであれ、個人として、自分として、世界に対してどう生きるのかということを問うときに、その問いを放つ主体、それを「自分」というわけであるが、その自分を考えないで、そもそも生きる意味など考えることなどできないに違いない。
1.生きる意味を考える ならば 自分が存在しなければならない
2.自分が存在する ならば 生きる意味を考えなければならない
ここで、2.は矛盾である。しかし、
3.私は遠藤である
4.遠藤である ならば 生きる意味を考えなければならない
というのは、今のところ、真である。
では、
5.幸せである ならば 生きる意味を見つけられている
6.生きる意味がなければ幸せではない
というのは成り立つだろうか?
そもそも、問いが矛盾なのだろうか?
いや、問いをすること自体に、正も偽も存在しない。問いの内容が正しいか、矛盾かどうかである。
その、文章のことを、論理学では「命題変項」という。真偽というのを、「命題定項」という。
ただ、自分は、生きる意味があることの証明をしてみようと思う。
1.意味とは価値のことである
2.価値は、相互関係(影響)により生じる
3.私は生きている
4.生きているならば相互関係が生じる
5.私は生きていて(3)、相互関係を生じさせているから(4)、価値がある(2)
6.私が生きていること(3)は価値がある(2)ことだから、意味がある(1)
7.6を簡略化すると、私には生きている意味があることを導ける
[以上証明完了]
なんてつまらない証明だろうか!
しかし、僕は普段から、「ああ、僕なんて、生きている意味があるんだろうか……」なんていっているが、しかし、上の証明の次元においては、生きる意味があることを、ちっとも疑っていないのである。
しかし、上の証明が、多くの、自殺を企図する人たちに、何ら救いにならないことは明らかである。
では、何が足りないのか?
……。一見、矛盾は見当たらない。しかし、不思議と、上の証明は嫌悪される。何故か? どこに綻びがあるのか?
それは、いっちばん最初からである。つまり、意味とか、価値の定義がよろしくないのである。
それは、「生きる【良い】意味とは何だろうか?」ということだ。
良い。
このカッコ内の言葉は、良いでも、充実したでも、幸せでも、何でもかんでも構わない。
ここで分かることは、「意味」という言葉を用いたとき、僕らは、非常に「恣意的な」意味を内包させているということである。
例えば、「無駄な意味」という表現は成り立つのだろうか?
僕は、成り立つ、と思う。ただし、意味という語に、「価値」という同義語をあてるならば、成り立たなくなるだろう。
価値とは何か? それは、「良い」とか「役に立つ」性質や程度のことである。無駄、というのは、役に立つという語の反義語である。ということは、無駄な価値というのは、形容矛盾である。
しかし、広義にとらえるならば、無駄な価値(反価値)を含めて、「価値」という語で表現することも構わないだろう。
ただし、こういった言葉の用い方は、言葉遊びに過ぎないだろう。言語は、文脈において意味を放つ。「価値がある!」といったときに、「無駄だ!」という意味を込めて叫ぶ人はいない。
価値という語自体には、反価値という意味が込められていようが、文脈においては明らかに「役に立つ性質」という意味で用いられるのである。
話を戻す。
生きる意味とは何か。
さっきの証明からもう一度引用しよう。
>1.意味とは価値のことである
>2.価値は、相互関係(影響)により生じる
2.の、相互関係を生じさせるもの、ということだが、ここに、「良い」という意味を含ませてみる。
そうすると、中間的な表現はすっ飛ばして、
>6.私が生きていること(3)は価値がある(2)ことだから、意味がある(1)
という部分に、
「6.私が生きていること(3)は【良い意味での】価値がある(2)ことだから、意味がある(1)」
という「良い性質」を加えてみて、もう一度考えてみる。
さぁ、遠藤くん、君は、良い相互関係(影響)を生み出しているのだろうか?
上の論理式は、真(正しい)ものである。
意味があるかは不明であるが、論理的には正しい。
何故ならば、悪魔の証明のように、どちらの文章(命題変項)も、100%証明することは不可能だからである。
生きる意味が完全に無意味だということを、証明できる人はいるだろうか?
「俺は、そんな難しいこと考えることは、絶対に無意味だと思うね!」
という人がいたとしよう。しかしそれは結局、一人称の文章である。論理的ではない。再現性もない。
そう、君がそう思うならそうなんだろうね。と言われるレベルである。
しかし、逆もしかり。
生きる意味を考えることは絶対に正しい! と言い切ることもできない。
そうなってくると、だ。
結局、最初に取り上げた、彼の方の仰る通り、「信じられるのは、己の感覚のみ」みたいなことになってくる。
思考によってこねくりまわされた論理や言葉には、感情がこもっていない。実感がない。それらは、ふぅと息を吹きかけるだけで飛んで壊れてしまうような、幻影に過ぎないのではなかろうか。
そうするとやっぱり、自分とは何かってのを、とことん突き詰めていくしかないってことなのか。
きっとそれは正しいのだ。
にもかかわらず、僕は、まだ、違和感を覚えている。何故か?
それは、良いという感覚自体もまた、盤石なものとは思えないからなのだ。(最初に書いた違和感のように、自分と他者との境界線が曖昧である以上、自分の感覚というものが絶対的な拠り所であると思えないという事態に起因しそうだ)
であれば僕は何がしたいのか?
僕は何なのか?
僕は誰なのか?
(続く……のか? 例えば、「良い」というのが良く分からないと書いたけれども、先日の「ぐちゃー」っとした記事について、書いているときは本当に消そう消そうと思っていたし、次の日にも消そうと思っていたのだけれども、拍手ボタンが2回という表示になっていたため、ああ、じゃあ消さなくてもいいかなって思い始めてしまった。ということは、僕自身の「良い」という感覚は、他者の評価によって簡単に翻ってしまうものなのだろうか。だがこのことも、人間としてはさほど不思議ではない。例えば、良いのか悪いのか分からないような作品ができあがったときに、自分の尊敬する方が、「おお、これは面白いじゃないか」と言ってくださったら、そりゃあもう傑作を生みだしたような気持になるのではなかろうか。そして、そんなときの評価ってのが、実は嘘や欺瞞だったとき、「裏切られた」という心性は高ぶるのではなかろうか。でもそれって、勝手な感情に思える。結局、芯をもって、自分を信じられていれば、他者の流動的な評価になど惑わされずに済むのだから。)
政治について
(この章は、先日メモしたものである)とある国々で、大統領選挙が迫っているという。
このブログでは、政治・宗教に関する主張は一切行われない。どういった政党や政策が良いだとか、どの宗教が正しいだとか、そういうことは一切書いたことはないし、これからも書かれないだろう。
理由は、無意味だからである。政治や宗教は、「信仰」の問題である。または、「ゲーム」である。議論の様相を見せることがあっても、議論にならない。ある「正しいこと」について、他者をどれだけ多く巻き込めるか、その点だけが重要なのである。
しかし、これらの問題は、「自己」という、極めて個人的な問題を考えるにおいても、無視することはできない。何故ならば、自己もまた、単一で成り立つ独立した存在ではなく、他者を始めとるする関係性の中で存在するものだからである。
この感覚については、納得のいかない人も多いだろう。「自分は自分だぜ!」と思う人もいるだろう。このことも、ある意味宗教的な……というと語弊があるが、「信仰」に過ぎないものである。「どの次元での成立(存在)を前提としているか」によって、自己と環境との関係性に係る実感は変わってくる。
先に、このブログでは「政治宗教は扱わない」と書いたが、この意味は、「信仰全般」を扱わないという意味である。もっと厳密に書けば、「誰かが正しいと思っていることについて、それを否定するつもりはない」ということだ。
このことを前提として、それでも、「政治問題」「国際情勢」については、考えたり、情報収集しておく必要はある。
ただそれは、「みなさん、ちゃんと選挙には行きましょうね」という主張なのではなく(※)、どういった仕組みで法律が、政策が決まっていくのかという仕組みを理解することが先決である。と、同時に、どういった社会(政治)が、自分にとって望ましいのか、何が「幸せ」なのかということについて、考えておくことが必要であるということだ。
医療、老後(年金)、子ども、教育、外交(防衛)、経済。
様々な問題がある。それらを、一発で解決できる法律も存在しなければ、政策も存在しない。ちなみに、どんな政策も、基本的に「法律」に拠っていることについて、覚えておいてよいだろう。政治とは極論、法律をつくる仕事だ。僕らの生活は、基本的に、法律のもとに成り立っているのである。役所に行けば、住民登録されているのが分かるけれども、それだって、住民基本台帳法という法律で、どんなことを書かなければいけないかなど決まっている。それは社会保障など、明らかに政治に関係しそうなことだけでなく、経済活動だってそうだ。消費者向けの法律は製造物責任法が有名だろうが、会社法など、僕らの所属する組織だって法律で定められたことに則っている。
※でも、路上のデモ活動とか、ヒップホップで政治批判とか、飲み屋の愚痴でも何でもいいけど、そういったことを言ったりしたりする人たちは、当然、選挙には行っているんだよね? とは思う。国会で通過した法案について、「やめろ! 廃案だ!」とか言ってるのは、手遅れである。もちろん、まったく無意味とは言わないが、それよか、議員の方々に嘆願書を送ったほうがよい。もっといえば、そんな法案を通過させてしまうような議員を選んでしまったことが問題なのである。
ただし、この問題は、そう単純でもない。何せ、どの議員が、どんな政治信条をもっているかなんて中々分からないし、それが、さらに事細かな政策について(例えば、漫画やアニメの表現の自由についてとか)にまでどんな感覚をもっているのかだって、分からないのである。Aという政策に共感したからα議員に投票したけど、その人は実はBという政策も主張する人だったとして、Bという政策はほんっとうに許せないと思ったとしても、後の祭りである。であれば、できることはデモくらいになる。
余すことなく主義主張と思考を書く
なんでこんな、政治に関するリスキーなことを書いたかというと、そろそろ、「自己」に関することについて、大体全部書ききったような気がしているからだ。2016年5月の記事において、以下のキーワードを挙げていた。
「生きる意味」「肯定感」「潜在意識」「ポジティブ」「ネガティブ」「対人関係」「コミュニケーション」「苦悩」「苛々」「ロジック」「整理」「感情処理」「空(仏教)」「宗教」「科学」「記憶」「アイデンティティ」「ストレス」「小説」「エンターテイメント」「創作」「凡人」「仕事」「価値観」「ルーチン」「学習」「計画」「目標」「目的」「死」「理想自己」「幸せ」「自己実現」「真実」「永続性」「アウトプット」「インプット」
多分、それぞれのキーワードについて、僕がどういった感覚(実感)をもっているのかは、大体全部書き終わっていることだろう。
もちろん、具体的な方策だとか、その記載内容を深めたり、表現の見直しなどは必要だろうと思う。ただ、例えば「幸せ」「死」なんていうキーワードで記事を書いたところで、これ以上はあまり変化は見られないだろう。
であれば、もうちょっとそういったキーワードを体系的に整理するか、もしくは、違った視点から書いていく必要があると思うわけである。
生きる意味とは自分を知ることである
ある方からコメントを頂き、うんうん、なるほどと首肯した。しかし、同時に、何か、違和感があるのである。
それが何か、はっきりと表現できない。彼の方が真理に到達し、自分が到達できていないことへの焦りや瞋恚があるのだろうか?
恐らく、だが、「自分」への拘りについての危険を思っているのだろう。
僕は昔(いや、今もだろうが)、自分の内面をとことん探っていった。しかし、現在の結論としては、「自分」というものは、世界(物理的かつ精神的な全てを含む概念として用いる)を、他者と分けて考えたものであるということだ。
故に、自分を知るというのは、自己の内面の深淵に到達するという行為では成しえないものだと思っている。何故ならば、自分と他者との境界というのは、非常に曖昧であると考えられるからだ。
ということは、自分を知るというのは、その他者との境界線を引いていくという作業を指すことになるが、明確なラインを引けたところで、その根拠は覚束ないものに他ならない。その瞬間、その環境では「自分」の定義ができたところで、次の条件では変わってしまうことがどうしても起こるだろう。
そんな風に感じるようになってから、僕は、「自分」というものに拘ることができなくなっていった。
こんな表現をすると、いやそもそも、お前はお前に過ぎないだろう? と思われるだろう。
そのとおりであり、物理的身体としての自分というものは、否定できるものではない。
僕は、僕として存在する。そのことについて否定したところで、何ら意味は無いだろう。
しかし、否定はしないけれども、積極的に肯定することもできない。
自分を否定して生きる意味を考えることはできない
自分、を、前提に置かずして、そもそも文章は成り立つのだろうか?先日、「頭がいい人はすごいなぁ」と取り上げた文章の一つに、「文章は所詮、一人称になってしまう」というものがあった。思考には論理性、事実には再現性が重要であるという、あれだ。
しかし、世界の真理がどうであれ、個人として、自分として、世界に対してどう生きるのかということを問うときに、その問いを放つ主体、それを「自分」というわけであるが、その自分を考えないで、そもそも生きる意味など考えることなどできないに違いない。
1.生きる意味を考える ならば 自分が存在しなければならない
2.自分が存在する ならば 生きる意味を考えなければならない
ここで、2.は矛盾である。しかし、
3.私は遠藤である
4.遠藤である ならば 生きる意味を考えなければならない
というのは、今のところ、真である。
では、
5.幸せである ならば 生きる意味を見つけられている
6.生きる意味がなければ幸せではない
というのは成り立つだろうか?
そもそも、問いが矛盾なのだろうか?
いや、問いをすること自体に、正も偽も存在しない。問いの内容が正しいか、矛盾かどうかである。
その、文章のことを、論理学では「命題変項」という。真偽というのを、「命題定項」という。
生きる意味があることの証明
証明、なんて仰々しい言葉を用いたが、ただの言葉遊びである。ただ、自分は、生きる意味があることの証明をしてみようと思う。
1.意味とは価値のことである
2.価値は、相互関係(影響)により生じる
3.私は生きている
4.生きているならば相互関係が生じる
5.私は生きていて(3)、相互関係を生じさせているから(4)、価値がある(2)
6.私が生きていること(3)は価値がある(2)ことだから、意味がある(1)
7.6を簡略化すると、私には生きている意味があることを導ける
[以上証明完了]
なんてつまらない証明だろうか!
しかし、僕は普段から、「ああ、僕なんて、生きている意味があるんだろうか……」なんていっているが、しかし、上の証明の次元においては、生きる意味があることを、ちっとも疑っていないのである。
しかし、上の証明が、多くの、自殺を企図する人たちに、何ら救いにならないことは明らかである。
では、何が足りないのか?
……。一見、矛盾は見当たらない。しかし、不思議と、上の証明は嫌悪される。何故か? どこに綻びがあるのか?
それは、いっちばん最初からである。つまり、意味とか、価値の定義がよろしくないのである。
意味とは
いや、定義自体は間違っていない。ただ、「生きる意味とは何だろうか?」と問うときの言語表現には、言外の意味が込められているのである。それは、「生きる【良い】意味とは何だろうか?」ということだ。
良い。
このカッコ内の言葉は、良いでも、充実したでも、幸せでも、何でもかんでも構わない。
ここで分かることは、「意味」という言葉を用いたとき、僕らは、非常に「恣意的な」意味を内包させているということである。
例えば、「無駄な意味」という表現は成り立つのだろうか?
僕は、成り立つ、と思う。ただし、意味という語に、「価値」という同義語をあてるならば、成り立たなくなるだろう。
価値とは何か? それは、「良い」とか「役に立つ」性質や程度のことである。無駄、というのは、役に立つという語の反義語である。ということは、無駄な価値というのは、形容矛盾である。
しかし、広義にとらえるならば、無駄な価値(反価値)を含めて、「価値」という語で表現することも構わないだろう。
ただし、こういった言葉の用い方は、言葉遊びに過ぎないだろう。言語は、文脈において意味を放つ。「価値がある!」といったときに、「無駄だ!」という意味を込めて叫ぶ人はいない。
価値という語自体には、反価値という意味が込められていようが、文脈においては明らかに「役に立つ性質」という意味で用いられるのである。
話を戻す。
生きる意味とは何か。
さっきの証明からもう一度引用しよう。
>1.意味とは価値のことである
>2.価値は、相互関係(影響)により生じる
2.の、相互関係を生じさせるもの、ということだが、ここに、「良い」という意味を含ませてみる。
そうすると、中間的な表現はすっ飛ばして、
>6.私が生きていること(3)は価値がある(2)ことだから、意味がある(1)
という部分に、
「6.私が生きていること(3)は【良い意味での】価値がある(2)ことだから、意味がある(1)」
という「良い性質」を加えてみて、もう一度考えてみる。
さぁ、遠藤くん、君は、良い相互関係(影響)を生み出しているのだろうか?
良い影響
生きる意味を考えることは意味がある または 生きる意味を考えることは無意味だ上の論理式は、真(正しい)ものである。
意味があるかは不明であるが、論理的には正しい。
何故ならば、悪魔の証明のように、どちらの文章(命題変項)も、100%証明することは不可能だからである。
生きる意味が完全に無意味だということを、証明できる人はいるだろうか?
「俺は、そんな難しいこと考えることは、絶対に無意味だと思うね!」
という人がいたとしよう。しかしそれは結局、一人称の文章である。論理的ではない。再現性もない。
そう、君がそう思うならそうなんだろうね。と言われるレベルである。
しかし、逆もしかり。
生きる意味を考えることは絶対に正しい! と言い切ることもできない。
そうなってくると、だ。
結局、最初に取り上げた、彼の方の仰る通り、「信じられるのは、己の感覚のみ」みたいなことになってくる。
思考によってこねくりまわされた論理や言葉には、感情がこもっていない。実感がない。それらは、ふぅと息を吹きかけるだけで飛んで壊れてしまうような、幻影に過ぎないのではなかろうか。
そうするとやっぱり、自分とは何かってのを、とことん突き詰めていくしかないってことなのか。
きっとそれは正しいのだ。
にもかかわらず、僕は、まだ、違和感を覚えている。何故か?
それは、良いという感覚自体もまた、盤石なものとは思えないからなのだ。(最初に書いた違和感のように、自分と他者との境界線が曖昧である以上、自分の感覚というものが絶対的な拠り所であると思えないという事態に起因しそうだ)
であれば僕は何がしたいのか?
僕は何なのか?
僕は誰なのか?
(続く……のか? 例えば、「良い」というのが良く分からないと書いたけれども、先日の「ぐちゃー」っとした記事について、書いているときは本当に消そう消そうと思っていたし、次の日にも消そうと思っていたのだけれども、拍手ボタンが2回という表示になっていたため、ああ、じゃあ消さなくてもいいかなって思い始めてしまった。ということは、僕自身の「良い」という感覚は、他者の評価によって簡単に翻ってしまうものなのだろうか。だがこのことも、人間としてはさほど不思議ではない。例えば、良いのか悪いのか分からないような作品ができあがったときに、自分の尊敬する方が、「おお、これは面白いじゃないか」と言ってくださったら、そりゃあもう傑作を生みだしたような気持になるのではなかろうか。そして、そんなときの評価ってのが、実は嘘や欺瞞だったとき、「裏切られた」という心性は高ぶるのではなかろうか。でもそれって、勝手な感情に思える。結局、芯をもって、自分を信じられていれば、他者の流動的な評価になど惑わされずに済むのだから。)
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汎用型支援ロボット(007)
ただ、そんなことを思ってもどうせ、見た目がいくら精巧でも、所詮は機械に過ぎない。オンラインゲームの、NPCに話しかけるような、そんなものだ。僕のこの、得体のしれない不快感だって、こいつは分かるはずがないのだ。
「……ん?」
しかしそいつは、僕の言葉に、目を大きく見開き、口を小さく開けて眉尻を下げた。「驚いている」そういった表情だった。紛れもなく。
「申し訳ございません。伊吹純也(いぶき じゅんや)様。29歳。男性。既にそのようにセットアップされております。私が申し上げたかったのは、お名前をどのようにお呼びしたらよいかということです。愛称などで呼ばれたいという方も多いと理解しております」
理解、ね。
テキストベースの、人工知能が発明されたのは、1960年代だったという。それは、人が適当に書き込んだ言葉に、簡単な反応をすることができたらしい。「疲れた」といえば、「どうして疲れているのですか?」とか、反応する。当時はそれでもすごいと話題になったみたいだが、そのうち、結局ランダムで言葉を並べているだけで、「人工無能」なんて呼ばれて、すぐに飽きられたとのことだ。
結局、今のこいつの言葉も、プログラミングされ組み込まれた、ただの音声に過ぎないだろう。こいつが、自分で考えて、納得し、知識として獲得したなんてことはないのだ。
そんなことを思うと、何だか、急激に気持ちが冷めてきた。新しい電子製品、例えば、スマートホンだとか、パソコンだとか買ったときは、どんなことができるのか、使い勝手はどうなんだろうと、とてもワクワクした気持ちが生じてくるものだ。しかし、これは、何か、違う。物ではない。
(続く)
今日の一言「つかれたー」「ものすごくぐちゃっと書きたくなった」
イライラ対処というカテゴリだが、別に苛々しているわけではない。ただ決して、玲瓏清みわたった気分というわけでもない。ただ、単に疲れている。
書いたところで癒えるものではないが、しかし、猛然と獰猛に噛み千切られていく時間の中で、ただ一点の楔を打ち込む。そして突き立てた杭に僅かばかりをひっかけ、いま、ここ、を思索する。
何点か、思ったことはあって、書いておきたいこともあったのだが、いま思い出せるのは、ある人生の先輩が、リアリティと没入感の関係について記載されていたことである。
彼の方は、軍事知識に造詣が深いため、ガンスリンガーガールという、心身に重傷を負った少女が、秘密国家機関により戦闘用に改造(義体化)される作品は、面白くないという。
なるほど確かに、当該作品は、何故少女が対象なのかは明かされない。
その方は、物語の設定の、現実との距離感について「固さ」、と表現されていたが、ノリ、重さ、といってもよいだろう。すなわち、作品のテイストと、現実世界との乖離が大きいほど、没入感(感情移入の度合)が減じてしまうだろうという見解、これはもっともに思える。
この見解は、かなり頑強性をもった示唆と思う。
ひとつ、僕の、軍事知識の欠乏による、現実認識の欠如。
これは大きな理由のひとつだろう。
ただ、これは、その人自身の現実認識の多寡が問題であって、没入感が損なわれる原因とは言えない。(なにせ、その人は、その人のもつ現実感(=知識が欠乏した現実)を「正」としているのである)
一瞬、詭弁のようであるが、
「物語の設定の現実との距離感が、物語のテイスト(固さ・ノリ)と一致している場合、没入感(感情移入の度合)が強くなり、面白いと感じられる可能性が高くなる」
という見解(示唆)のポイントは、万物普遍で正当完璧な「世界」認識ではない。
では何故、僕自身は、現実感に折り合いをつけられているのか。
これは無意識である(この無意識というのは重要。無意識ゆえに、おそらく、軍事知識を綿密に与えられて、その作品の矛盾を列挙されたとしても、それほど大きく面白いと思う感情は左右されないと思われる)。
その折り合いとは何か。
少女が機械の身体を与えられるのは、ひとつ、単純にその方がかわいいからだ。(は?)
理由にもならない理由だが、別にその点をそれほど拘っていない、というのが理由でもある。
例えば、少年も義体化の対象であったと、そんな後付けの設定があればいいのでは、と思うというのもある。もちろん、本編で少年の義体化の例は触れられていないので、この想定は意味がない。
それは、義体化する上で、「条件付け」という洗脳も必要になるのだが、その条件付けが、「愛情」に似たものであるという示唆がなされていることだ。
これは実際にそういった表現がなされるシーンもあるし、この「愛情」というのが、悲劇的な結果に結びつくエピソードもあるため、「条件付け」と「愛情」との関係については、関連性があることは間違いないだろう。
義体化された少女には、担当官と呼ばれる男性があてがわれ、兄妹のように四六時中一緒にいるので、フラテッロ(イタリア語で兄妹という意)と呼ばれる。
身の回りの世話や、戦闘訓練などの責任は、一手にその担当官が担うわけである。
そうした生活を送る中で、担当官の命令は絶対である。拳銃のエイムを鍛えるように命じられた義体は、雨が降っても、一睡もせずに練習し続ける。担当官がやめろと言うまでは。
そこまでの狂わしい服従の心を、僕らは知っている。時に命を奪うこともある熱病、恋って奴だ。
条件付けとは、人のもつ、異性を恋しいと思う気持ちを利用(転用)した技術なのではないだろうか。
だから、義体は、少女でなければならなかった――。
……と、そんなこと思いながら見たり読んだりしていたわけではなくて、先日、彼の方の記事を読んで思ったのだった。
まぁ、だったら、別に少年と女の人とのフラテッロだって良さそうだし、あんまり理由になってないだろう。
ただまぁ、少年兵って別に珍しくないだろうし、やっぱりか弱そうで可愛らしい女の子の方が、敵も油断するとか、そんなのもあるんじゃなかろうか。
というのも、言い訳じみた記載である。
もともと、他にも書いておこうと思ったことはあったし、そもそも、連載を決めた小説も、書き進められた部分はあるのだけれども、単純に、その投稿、切り張りに時間をとれていない。
そもそも、睡眠時間を削ってまで、ブログを書くということはしないことにしている、していた。
が、今日は、もう限界だ。そんなことをやっていたら、もうしばらく更新ができなそうである。
そこまでして、ブログ更新をしないといけないのは何故か?
何故なんだ?
ブログで収入を得ている人も多いらしい。
僕は、一銭も得たことがない!
うらやましいなと、思う。と同時に、まぁ、このブログは、稼げなくていいかな、と思う。と、いうよりも、その方がいいだろうと。
そして、思い出した、その一つは、他者との比較の無意味性についてだ。
そもそも、じゃあ、何をもって優劣とするのか。知識の量か、判断力か、カリスマ性か。ただし、そうなってくると、「学歴」という基準から問いがズレてくるため、ここまでにする。
言いたいこととしては、コンプレックスとは、対象(モノ・コト)について、その人自身が拘るかどうか、によって発生するということである。
※とはいえ、きっと、東大卒の人で、「学歴コンプレックス」という状態の人はいないだろうが。
自然演繹では矛盾から如何なる命題も導ける
↑の記事は、何だかすごい明快な気がするのだけれども、やっぱり僕の頭程度では理解できない。そもそも記号の図示が良く分からない。誰か僕に分かるように教えて欲しい……。
んで、上の記事の作者は、どうやら東大卒のようである。なるほど、やっぱり東大卒の人はすげーんだな……みたいに思ったりしないでもなくもない。仕事上、東大とかそれに準じる高偏差値の大学出身の人と関わったりもしていると、頭の回転の速さとか処理能力に圧倒される場合が少なくない。
また、同じこと書いたり、言ったりしても、後から「実は東大卒です」みたいなことを聞くと、おーすげーなぁみたいになることも、なくはない。これって既に学歴コンプレックスと言われても仕方がないようにも思う。
物を書くのは畢竟一人称である
「稼げるブログ」とか、「役に立つブログ」ってのは、きっとそういうもんなんだろう。
事実ならば再現性。思考ならば論理性。
そういう意味で、リアリティと没入感に関して書かれた記事は、論理的で読みやすくて、分かりやすかった。
ただ、僕の場合、そんなことばっかり考えて、ブログ書こうと思ったら、きっとものすごくつまらないだろうと思うのである。
最近、書こうと思っても、「時間がない」とか言い訳して書けなくなったのは、その、頭の良い人たちの記事を読んで、感動したからってのはありそうだ。
もっとちゃんとしたこと書かなきゃいけないって、そんな風に。
実際問題、再び、最近、帰宅が23時オーバーの傾向が強いため、本当に書いている暇がないというのはあるのだけれども、一番大事なことは何か?
仕事?
違う。
生きる意味を明白にして、生きることだろう。もしくは、死ぬことだろう。
仕事は生きがいかもしれない。手段かもしれない。それすらよく分かっていないその状況で、考えることを放棄して、ただ、一瞬も止め置けない過ぎ去る時間に身を任せるというのが、一番許せないことである。
眠い? ふざけんな、そんなこと言ってる場合じゃない。
仕事が終わらない? ふざけんな、そんなことばかりやってる場合じゃない。もっと大事なことがあんだろうが、お前には。
ああ、段々とイライラしてきた。書いていると落ち着くといつも書いているけれども、今回は逆パターンだ。
これは、「論理性」なんかを考え始めたからってのはありそうだ。
論理っていうけどな、それって、実は、感情だって場合はよくあることだ(よくあることだ、なんていうと、その根拠は? みたいになるけどな!)。
いかにも、「論理的です(キリッ)」みたいに説明すると、その論拠が不明でも、納得してしまうことがあるだろう。
いやそもそも、「電気」の仕組みをどこまで完璧に人は理解できているのか。その電磁気学と、実学は異なるということかもしれないが、結局、「再現性」は100%の真理ではない。
となったとき、「不安」を取り除くことができるのは、「安心」という「感情」を与えることである。
結局、所与の条件で、その環境において、時間の許す範囲で、正しいと思われる根拠を集めて、それを適切に(その適切というのも、相手に応じてという意味に過ぎないが)並び組み立てる。それが仕事である。
先日、僕は何かつくるのが好きなんだと思った、と、書いた。
そりゃ、仕事で、誰かから感謝されたり、すごいねと頼りにされたりするのはうれしいことだ。けれども、それは、「真理」ではない。たまたま上手くいった程度のものだ。いやもちろん、「仕事」ってのは、その「たまたま」上手くいったのを、その要素を抽出して、「誰でも同じように利益が出せるようにすること」だという、よくある啓蒙の言を無視するのではない。
ので、「たまたま」を創り出す人、クリエイティブな層のみが、生き残れる社会になっていくということである。
まーそりゃ避けられないことな気がする。
ので、僕は、その「上手くいく」ことを日々探してやってきているのであるが、結局、……これは性格もあいまって、「いくら成功したとしても、それが喜びにはならない」ということである。
いや、これは、仕事に限らない。
何かいいことがあっても、「たまたま」。逆に、悪いことがあっても、最近は、まぁ何とかなるだろうとしか思えなくなっているが、どっちにせよ、超越的な(運命的な)なんらかに平伏してしまっている気がする。
能動感がないのだ。自分で自分を生きている感覚がないのだ。欲がないのだ。無気力なのだ……いや、行動はしているし、感情もあるので、決して無気力ではないのだが……。
その原因は、やはり、時間に身を任せざるを得ない状況になるということであって、その流れにおぼれている状態で、藁を掴むというのが、この、「書く」ということなのだ、と、今思った。
だから、この記事は、論理性もほとんどなければ、感情の吐露すら上手くいっていない。
けれども、書かなければならなかった。書かなければ、ついぞ溺れてしまうのだ。
(全デリートしたい気分。しかし敢えて載せて、明日読んで、やっぱり駄目なら消そう。しかし、時折消える記事があるブログというのは、印象が悪いということを聞いたことがある。まぁ、それこそお金を稼ぐようなブログであれば、言ったことに責任をもって頂きたいところもあるし、「納豆ダイエットすごいですよ!」的なこと書いておいて、実は嘘でしたって該当記事を削除するようなブログは、二度と見るか! と思いたくもなるだろう。この記事は、というよりも、このブログ全体がそもそも、そんな思いを抱かせるような内容ではなかろう。)
リアリティ
内容の無い記事は書きたくないが、まとまった時間が取れないので、つらつら徒然に書く。イライラ対処というカテゴリだが、別に苛々しているわけではない。ただ決して、玲瓏清みわたった気分というわけでもない。ただ、単に疲れている。
書いたところで癒えるものではないが、しかし、猛然と獰猛に噛み千切られていく時間の中で、ただ一点の楔を打ち込む。そして突き立てた杭に僅かばかりをひっかけ、いま、ここ、を思索する。
何点か、思ったことはあって、書いておきたいこともあったのだが、いま思い出せるのは、ある人生の先輩が、リアリティと没入感の関係について記載されていたことである。
彼の方は、軍事知識に造詣が深いため、ガンスリンガーガールという、心身に重傷を負った少女が、秘密国家機関により戦闘用に改造(義体化)される作品は、面白くないという。
なるほど確かに、当該作品は、何故少女が対象なのかは明かされない。
その方は、物語の設定の、現実との距離感について「固さ」、と表現されていたが、ノリ、重さ、といってもよいだろう。すなわち、作品のテイストと、現実世界との乖離が大きいほど、没入感(感情移入の度合)が減じてしまうだろうという見解、これはもっともに思える。
この見解は、かなり頑強性をもった示唆と思う。
個々人の現実感
一方、では僕は、何故ガンスリンガーガールを面白いと思うのか。(ただし、アニメ二期を除く。そしてこれがそもそも、今回の話題のポイントにもなりえる)ひとつ、僕の、軍事知識の欠乏による、現実認識の欠如。
これは大きな理由のひとつだろう。
ただ、これは、その人自身の現実認識の多寡が問題であって、没入感が損なわれる原因とは言えない。(なにせ、その人は、その人のもつ現実感(=知識が欠乏した現実)を「正」としているのである)
一瞬、詭弁のようであるが、
「物語の設定の現実との距離感が、物語のテイスト(固さ・ノリ)と一致している場合、没入感(感情移入の度合)が強くなり、面白いと感じられる可能性が高くなる」
という見解(示唆)のポイントは、万物普遍で正当完璧な「世界」認識ではない。
では何故、僕自身は、現実感に折り合いをつけられているのか。
これは無意識である(この無意識というのは重要。無意識ゆえに、おそらく、軍事知識を綿密に与えられて、その作品の矛盾を列挙されたとしても、それほど大きく面白いと思う感情は左右されないと思われる)。
その折り合いとは何か。
少女が機械の身体を与えられるのは、ひとつ、単純にその方がかわいいからだ。(は?)
理由にもならない理由だが、別にその点をそれほど拘っていない、というのが理由でもある。
例えば、少年も義体化の対象であったと、そんな後付けの設定があればいいのでは、と思うというのもある。もちろん、本編で少年の義体化の例は触れられていないので、この想定は意味がない。
条件付けの理由
僕がガンスリンガーガールの現実感(リアリティ)をそれほど意識しなかったのは、次の理由が大きい。それは、義体化する上で、「条件付け」という洗脳も必要になるのだが、その条件付けが、「愛情」に似たものであるという示唆がなされていることだ。
これは実際にそういった表現がなされるシーンもあるし、この「愛情」というのが、悲劇的な結果に結びつくエピソードもあるため、「条件付け」と「愛情」との関係については、関連性があることは間違いないだろう。
義体化された少女には、担当官と呼ばれる男性があてがわれ、兄妹のように四六時中一緒にいるので、フラテッロ(イタリア語で兄妹という意)と呼ばれる。
身の回りの世話や、戦闘訓練などの責任は、一手にその担当官が担うわけである。
そうした生活を送る中で、担当官の命令は絶対である。拳銃のエイムを鍛えるように命じられた義体は、雨が降っても、一睡もせずに練習し続ける。担当官がやめろと言うまでは。
そこまでの狂わしい服従の心を、僕らは知っている。時に命を奪うこともある熱病、恋って奴だ。
条件付けとは、人のもつ、異性を恋しいと思う気持ちを利用(転用)した技術なのではないだろうか。
だから、義体は、少女でなければならなかった――。
……と、そんなこと思いながら見たり読んだりしていたわけではなくて、先日、彼の方の記事を読んで思ったのだった。
まぁ、だったら、別に少年と女の人とのフラテッロだって良さそうだし、あんまり理由になってないだろう。
ただまぁ、少年兵って別に珍しくないだろうし、やっぱりか弱そうで可愛らしい女の子の方が、敵も油断するとか、そんなのもあるんじゃなかろうか。
つれづれ
ああ、……つれづれ、特に考えないで書いたので、よく分からない意見になったろう。というのも、言い訳じみた記載である。
もともと、他にも書いておこうと思ったことはあったし、そもそも、連載を決めた小説も、書き進められた部分はあるのだけれども、単純に、その投稿、切り張りに時間をとれていない。
そもそも、睡眠時間を削ってまで、ブログを書くということはしないことにしている、していた。
が、今日は、もう限界だ。そんなことをやっていたら、もうしばらく更新ができなそうである。
そこまでして、ブログ更新をしないといけないのは何故か?
何故なんだ?
ブログで収入を得ている人も多いらしい。
僕は、一銭も得たことがない!
うらやましいなと、思う。と同時に、まぁ、このブログは、稼げなくていいかな、と思う。と、いうよりも、その方がいいだろうと。
そして、思い出した、その一つは、他者との比較の無意味性についてだ。
学歴コンプレックス
28年度で、東大の入学者総数は、全学部で約3000人である。しかし、その中でも優劣はある。学部間の優劣もあるだろう。ゼミの優劣もあるだろう。そもそも、世界規模で見たら、東大のランクも一位ではない。(※)そもそも、じゃあ、何をもって優劣とするのか。知識の量か、判断力か、カリスマ性か。ただし、そうなってくると、「学歴」という基準から問いがズレてくるため、ここまでにする。
言いたいこととしては、コンプレックスとは、対象(モノ・コト)について、その人自身が拘るかどうか、によって発生するということである。
※とはいえ、きっと、東大卒の人で、「学歴コンプレックス」という状態の人はいないだろうが。
一般的コンプレックス
僕は基本的に学歴コンプレックスはないのだけれども、たまに、気になることがないわけでもない。自然演繹では矛盾から如何なる命題も導ける
↑の記事は、何だかすごい明快な気がするのだけれども、やっぱり僕の頭程度では理解できない。そもそも記号の図示が良く分からない。誰か僕に分かるように教えて欲しい……。
んで、上の記事の作者は、どうやら東大卒のようである。なるほど、やっぱり東大卒の人はすげーんだな……みたいに思ったりしないでもなくもない。仕事上、東大とかそれに準じる高偏差値の大学出身の人と関わったりもしていると、頭の回転の速さとか処理能力に圧倒される場合が少なくない。
また、同じこと書いたり、言ったりしても、後から「実は東大卒です」みたいなことを聞くと、おーすげーなぁみたいになることも、なくはない。これって既に学歴コンプレックスと言われても仕方がないようにも思う。
物を書くのは畢竟一人称である
大学の研究室にいると、基本的に「一人称」というのは認められない。僕個人がこうしたとか、僕個人がこう思ったとか、そういう個別的なことは、だからどうしたと言われて終わりである。事実ならば再現性が、思考ならば論理性が、要求される。「私は・・・と思う」という文章は書けないのである。あーなるほどなぁと、思う。確かに、文系(人文科学)であっても、「研究」では、とにかく主観が悪とされ、排除される。客観的、論理的な思考が要求される。
「稼げるブログ」とか、「役に立つブログ」ってのは、きっとそういうもんなんだろう。
事実ならば再現性。思考ならば論理性。
そういう意味で、リアリティと没入感に関して書かれた記事は、論理的で読みやすくて、分かりやすかった。
ただ、僕の場合、そんなことばっかり考えて、ブログ書こうと思ったら、きっとものすごくつまらないだろうと思うのである。
論理性の放棄
あー。最近、書こうと思っても、「時間がない」とか言い訳して書けなくなったのは、その、頭の良い人たちの記事を読んで、感動したからってのはありそうだ。
もっとちゃんとしたこと書かなきゃいけないって、そんな風に。
実際問題、再び、最近、帰宅が23時オーバーの傾向が強いため、本当に書いている暇がないというのはあるのだけれども、一番大事なことは何か?
仕事?
違う。
生きる意味を明白にして、生きることだろう。もしくは、死ぬことだろう。
仕事は生きがいかもしれない。手段かもしれない。それすらよく分かっていないその状況で、考えることを放棄して、ただ、一瞬も止め置けない過ぎ去る時間に身を任せるというのが、一番許せないことである。
眠い? ふざけんな、そんなこと言ってる場合じゃない。
仕事が終わらない? ふざけんな、そんなことばかりやってる場合じゃない。もっと大事なことがあんだろうが、お前には。
ああ、段々とイライラしてきた。書いていると落ち着くといつも書いているけれども、今回は逆パターンだ。
これは、「論理性」なんかを考え始めたからってのはありそうだ。
論理っていうけどな、それって、実は、感情だって場合はよくあることだ(よくあることだ、なんていうと、その根拠は? みたいになるけどな!)。
いかにも、「論理的です(キリッ)」みたいに説明すると、その論拠が不明でも、納得してしまうことがあるだろう。
いやそもそも、「電気」の仕組みをどこまで完璧に人は理解できているのか。その電磁気学と、実学は異なるということかもしれないが、結局、「再現性」は100%の真理ではない。
となったとき、「不安」を取り除くことができるのは、「安心」という「感情」を与えることである。
結局、所与の条件で、その環境において、時間の許す範囲で、正しいと思われる根拠を集めて、それを適切に(その適切というのも、相手に応じてという意味に過ぎないが)並び組み立てる。それが仕事である。
先日、僕は何かつくるのが好きなんだと思った、と、書いた。
そりゃ、仕事で、誰かから感謝されたり、すごいねと頼りにされたりするのはうれしいことだ。けれども、それは、「真理」ではない。たまたま上手くいった程度のものだ。いやもちろん、「仕事」ってのは、その「たまたま」上手くいったのを、その要素を抽出して、「誰でも同じように利益が出せるようにすること」だという、よくある啓蒙の言を無視するのではない。
たまたまをルーチン化
が。その、上手くいった条件を使って利益を出すのは、今後、ロボットとか、AIとかいわれる技術によって、可能になっていく、なっている、のである。ので、「たまたま」を創り出す人、クリエイティブな層のみが、生き残れる社会になっていくということである。
まーそりゃ避けられないことな気がする。
ので、僕は、その「上手くいく」ことを日々探してやってきているのであるが、結局、……これは性格もあいまって、「いくら成功したとしても、それが喜びにはならない」ということである。
いや、これは、仕事に限らない。
何かいいことがあっても、「たまたま」。逆に、悪いことがあっても、最近は、まぁ何とかなるだろうとしか思えなくなっているが、どっちにせよ、超越的な(運命的な)なんらかに平伏してしまっている気がする。
能動感がないのだ。自分で自分を生きている感覚がないのだ。欲がないのだ。無気力なのだ……いや、行動はしているし、感情もあるので、決して無気力ではないのだが……。
その原因は、やはり、時間に身を任せざるを得ない状況になるということであって、その流れにおぼれている状態で、藁を掴むというのが、この、「書く」ということなのだ、と、今思った。
だから、この記事は、論理性もほとんどなければ、感情の吐露すら上手くいっていない。
けれども、書かなければならなかった。書かなければ、ついぞ溺れてしまうのだ。
(全デリートしたい気分。しかし敢えて載せて、明日読んで、やっぱり駄目なら消そう。しかし、時折消える記事があるブログというのは、印象が悪いということを聞いたことがある。まぁ、それこそお金を稼ぐようなブログであれば、言ったことに責任をもって頂きたいところもあるし、「納豆ダイエットすごいですよ!」的なこと書いておいて、実は嘘でしたって該当記事を削除するようなブログは、二度と見るか! と思いたくもなるだろう。この記事は、というよりも、このブログ全体がそもそも、そんな思いを抱かせるような内容ではなかろう。)
今日の一言「やりがいの搾取とかいうけれど」「たのしきゃいいよね」
>入力が終日なかった日は自動的に前日の文字数を転写する感じになったら便利じゃねえかな
仰るとおりと思い、機能追加した。
創作進捗グラフ作成ツールVer.0.4(←DLはこちら)
その程度指摘されなくても作れよ、的な感じでもある。
ただ、「前日の文字数を転写」というのが、意外に悩んだ。前日転写っていっても、その前日が空白のこともある。結局マクロのループ処理でセルを一つずつ調べながら、入力日より前のセルにおいて、初めて空白が発生したセルの前日の文字数を順番に貼り付けていく仕様とした。
あわせて、前月の末日を検索し、当月シートの前月の末日セル(C8)に転写する機能を追加した(これは関数により実装)。
それにしても、度重なる仕様追加により、ご利用の方に、データ移行の負荷をおかけしている。申し訳ない限りです。この場でお詫びいたします。
せめて、年次集計機能はデータ移行不要で実装できるよう検討しよう。
そういった仕事ばかりであればいいんだけど、そうじゃないのも多いし、実際案を出しても文句ばっかり言われたりもするので辟易なところ。文句と要望の違いは難しいけれども、「こういうのがあったらいいなぁ」というのはいいのだけれども、「できて当然だろ」とかいわれると、何だか哀しくなる。まー仕事にそんな感情を持ち込むな、と言われそうだが、やりがいってのはあった方がいいと思う。
しかし今度は、そのやりがいを搾取するような、労働基準法を無視するような働かせ方をするところがあったりと、そのバランスは非常に難しい。
まーあれだよな、大工さんが趣味で日曜大工はやらないだろうし、プログラマーが趣味でプログラム書くことはないだろうし、小説家が趣味で小説書かないだろうし、ま、ほどほどやるのがよいってのもある。
だから、本当に好きなことを仕事にするというのは、ある意味危険なことかもしれない。仕事になってしまうと、好きなことが、好きに思えなくなったりすると、その人の本当に好きなことが反転して無くなってしまうということだから。
でもまー、そうだなぁ、「楽しいこと」してお金が得られて、衣食住が満たされて生活できるってのが、一般的に「幸せ」って奴なんだろうな。
そのつくるというのは、創るであったり、作るであったり。
やっぱり、生きている以上は、何か「生産」したいよね。
なんとなく、(そんな典型的な人など殆どいないだろうが)グルメだとか、ギャンブルだとか高級ブランド商品を購入するだとか、そういった消費がメインの生き方の人を、僕はどこかしら馬鹿にしている、軽蔑している気がする(そんなこと思ったこともなかったが)。
コミュニケーションってのも、何らか生産的であるべきだなぁと思っていたこともあったけれども、これは、最近ある精神科医さんが、「空疎なコミュニケーションってのも非常に重要。それができない奴は上手く生きてけない」とか仰ってて、それもそうだなぁと思った。
というか、この話になると、そもそも、「生産的」とは何か、というのがそもそも僕は疑問に思ってしまうが。生きる意味とか、そんな非生産的な代表のようなことをテーマにしたりしている僕が、生産的とか言葉を使うのは甚だお笑い草である。
でもやっぱり、何だかつくりたいよね。
(ブログ書いているとイライラしてるのが落ち着く、とか書いたことが何度かあるけれども、それってつまり、有意味かどうか別として、記事を作り出しているという点が、僕の「欲動」を刺激しているからなのかもしれない。でもどうせつくるなら、やっぱり意味があるものがいいよなぁ)
バージョンアップ
>入力が終日なかった日は自動的に前日の文字数を転写する感じになったら便利じゃねえかな
仰るとおりと思い、機能追加した。
創作進捗グラフ作成ツールVer.0.4(←DLはこちら)
その程度指摘されなくても作れよ、的な感じでもある。
ただ、「前日の文字数を転写」というのが、意外に悩んだ。前日転写っていっても、その前日が空白のこともある。結局マクロのループ処理でセルを一つずつ調べながら、入力日より前のセルにおいて、初めて空白が発生したセルの前日の文字数を順番に貼り付けていく仕様とした。
あわせて、前月の末日を検索し、当月シートの前月の末日セル(C8)に転写する機能を追加した(これは関数により実装)。
それにしても、度重なる仕様追加により、ご利用の方に、データ移行の負荷をおかけしている。申し訳ない限りです。この場でお詫びいたします。
せめて、年次集計機能はデータ移行不要で実装できるよう検討しよう。
たのしい
まぁしかし、こういったツール作ったり、現状のルーチン業務を効率化するプログラムを考えるのは好きである。そういった仕事ばかりであればいいんだけど、そうじゃないのも多いし、実際案を出しても文句ばっかり言われたりもするので辟易なところ。文句と要望の違いは難しいけれども、「こういうのがあったらいいなぁ」というのはいいのだけれども、「できて当然だろ」とかいわれると、何だか哀しくなる。まー仕事にそんな感情を持ち込むな、と言われそうだが、やりがいってのはあった方がいいと思う。
しかし今度は、そのやりがいを搾取するような、労働基準法を無視するような働かせ方をするところがあったりと、そのバランスは非常に難しい。
まーあれだよな、大工さんが趣味で日曜大工はやらないだろうし、プログラマーが趣味でプログラム書くことはないだろうし、小説家が趣味で小説書かないだろうし、ま、ほどほどやるのがよいってのもある。
だから、本当に好きなことを仕事にするというのは、ある意味危険なことかもしれない。仕事になってしまうと、好きなことが、好きに思えなくなったりすると、その人の本当に好きなことが反転して無くなってしまうということだから。
でもまー、そうだなぁ、「楽しいこと」してお金が得られて、衣食住が満たされて生活できるってのが、一般的に「幸せ」って奴なんだろうな。
趣味
ある方が、「自分は、興味のあることを調べてまとめることに楽しいと感じる」と仰っていた。そういった自己分析ができるのはかっこいいなぁって思っていたが、そうだな、僕は、何か「つくる」ことが楽しいのかもしれない。そのつくるというのは、創るであったり、作るであったり。
やっぱり、生きている以上は、何か「生産」したいよね。
なんとなく、(そんな典型的な人など殆どいないだろうが)グルメだとか、ギャンブルだとか高級ブランド商品を購入するだとか、そういった消費がメインの生き方の人を、僕はどこかしら馬鹿にしている、軽蔑している気がする(そんなこと思ったこともなかったが)。
コミュニケーションってのも、何らか生産的であるべきだなぁと思っていたこともあったけれども、これは、最近ある精神科医さんが、「空疎なコミュニケーションってのも非常に重要。それができない奴は上手く生きてけない」とか仰ってて、それもそうだなぁと思った。
というか、この話になると、そもそも、「生産的」とは何か、というのがそもそも僕は疑問に思ってしまうが。生きる意味とか、そんな非生産的な代表のようなことをテーマにしたりしている僕が、生産的とか言葉を使うのは甚だお笑い草である。
でもやっぱり、何だかつくりたいよね。
(ブログ書いているとイライラしてるのが落ち着く、とか書いたことが何度かあるけれども、それってつまり、有意味かどうか別として、記事を作り出しているという点が、僕の「欲動」を刺激しているからなのかもしれない。でもどうせつくるなら、やっぱり意味があるものがいいよなぁ)
今日の一言「つらつら無為に書いていこう」「これはイライラ対処の記事である」
宣伝:創作進捗グラフ作成ツールVer0.3として、文字数カウント機能等を追加しました。
浄土宗や浄土真宗において拠り所とされるのは、浄土三部経といわれる、「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」であるが、そのあらすじを読んでみたけれども、深く感銘を受けるには至らなかった。(迦稜頻伽(カラヴィンカ)や共命鳥の話など、面白い内容は多かった)
そもそも、何故面白いと思えないかというのは、「浄土(極楽)」という考え方が馴染まないからである。
無量寿経の中に、極楽の描写がある。
ここら辺の教化は、キリスト教の天国の描写と変わらないのではないか。
阿弥陀様を、神やキリスト様と置き換えても問題ないように思われる。
その点においては、仏教が特別な何かだとは思えていない。そうではなく、僕が、仏教に対して期待しているのは、その「無常観」、諸行無常や諸法無我といった娑婆世界の見方である。
で、あるならば、6つの世界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)の輪廻を抜けて仏となるというのも、涅槃が達成されている極楽浄土というのも、それを「絶対視」するというのは矛盾に思える。
そういう点では、修行と悟りは同じことである(修証一如)といったり、悟りを得るためには悟ろうとすることすらやめねばならないとする、道元さんなど、禅の考え方はしっくりくる。
「只座る。それこそが仏の道であります」(只管打座)
宗教を信じない人のことを、無神論者、と言ったりするけれども、それは厳密には異なる。
宗教というのと、神を信じるというのとは異なるのだ。
仏教は、キリスト教やイスラム教の聖書のような、絶対的な拠り所となる書物はなくて、数万といわれる数の経典がある。だから、浄土信仰のようなものもあれば、密教的な(ヨーガの実践により悟りに至る)ものもあって様々である。
宗教という語を、「超越的なものへの信仰」という意味であれば、なるほど神を信じていなくても、それは宗教と呼ばれるべきものはあるかもしれない。
なるほど、そういう意味では、僕は、生きる意味を考えなければならないという、宗教にはまってしまっているのかもしれない。けれども、僕は完全に無神論者だといえよう。それも極度の。なにせ、神も、仏も、極楽すらも信じることができない、それどころか倦厭してしまうのだから。
最近、ツール作って、使ってもらって、いい感じだね~って言ってもらえて、とても楽しく充実した時間を過ごしていたら、仕事でとても不愉快極まりないことに出くわしたのである。
せっかくの楽しい気分が台無しである。そしてこの気分は、家に帰ってからも続いている。
そんな不愉快な思いを与えた人も、それも縁なのです。その人によって、どうふるまうべきかを学ぶことができて、よかったではありませんか。
……なんて思えるか! ボケ! ◎ね!(かっこわらい)
凡人、衆生は、悩みが尽きない生き物である。
しかし最早最近は、その悩みや怒りというのすら、それを軽減させていくことが良いことなのかどうかすらよく分からない。
もっと前には、
基本的に、ここら辺の思想信条というか、価値観というものは、今の今まで変わっていない、と言える。色々と、試みたことはあったけれども、しかし、根本は変わらなかった。
というよりも、「この世は苦しみである」というのは、全然、僕が思いついたことではなく(僕が強く感じたことではあるが)、紀元前5世紀ぐらいのゴウタマさんが仰ったことである。それが「仏教」という一大宗派が築かれて、現代も信者が大勢いるというのだから、僕の感覚を変えるというのは土台無理な話なのかもしれないのである。
ところが、最近の問題としては、上の過去記事において前提とされている、「楽」とか、「欲望」といったもの。
それがよく分からなくなっているのである。
いや全然新しくないじゃん、そんなの小学校の道徳の授業であるようなもんじゃん。
仰る通り。
言葉にすると難しい。踏み込んで書くとすると、自己言及的な生き方、ということである。
欲求と欲望の違い、ということで以前どこかで触れたことがあった。欲求とは、何か足りていないものを満たそうとすること。欲望とは、足りているか足りていないかにかかわらず、その対象を求めてやまないこと。そんな感じで定義した。(気がする)
ただ、この用語区別は分かりづらい部分があるので、ここで、「欲動」という、フロイトさんが仰る表現を使ってみようと思う。
欲動とは、もうそれ自体が目的となっているような欲求や欲望のこと。
無意識で兎に角求めちゃう! というのが欲動である。
自己言及的に生きるとは、生きていることに意味があるかどうかを考えるのではなく、ただ生きていることそれこそが目的なのだと、欲求・欲望・欲動だとして生きるということである。
……。
気分が高揚しているときであれば、「おお、素晴らしい教えだ! そうだ、生きているそれだけで十分なのだ!」などと思うかもしれない。
しかし今は、イライラの真っ最中である。そういった場合では、
・生きる意味を考えるということからの逃避ということではないか。
・現に不愉快な事象に面したり、理不尽な状況に陥ったり、まさに死に際したとき、生きることそのものが目的であったら、死という避けられない事象に対して何ら意味をなさない考えではないか。
・努力すること頑張ることストイックになることの否定ではないか。
・他者に胸を張って伝えられるものか。世界規模で肯定される生き方といえるのか。
などと否定語が浮かぶ。
時間切れである。
しかし、何か、表現したいことにまったく到達しなかった。
結局かけたのは、仏教は仏教でも、キリスト教的な(神様の信仰)的な仏教は好きじゃない、ということぐらいか。
いや、まぁ、このあたり(浄土信仰など)は、もう少し勉強してみるつもりである。少しさわりを読んだ限りだと、おそらく、可能性として、「阿弥陀仏」という、「ナンマイダー」と唱え帰依する対象の仏さまは、偶像としての神ではなく、涅槃の境地の象徴であるとも考えられるからだ。
「衣食住が満たされた極楽」という表現も、「悟りの境地」の、たとえ話――豪華絢爛酒池肉林という意味ではなくて、そういった衣食住に心が惑わされないような安らかな状態の表現であるとも考えられるからだ。
「南無阿弥陀仏とただ唱えるだけで極楽浄土にいけますよ」
というのも、それだけ聞けば、幼稚な迷信のように思ってしまうが、心を統一して、一つのことに集中して世の中の些事にとらわれなくなるという、実践的な意味もあるかもしれない。(そういった側面の強調が、密教やヨーガである)
本当は、「思考することの意味について」この記事と頂いたコメントについて、もうちょっと踏み込んだことを書きたかった、書いておきたかった。
恥ずかしい記事だと、上の記事では書いていたが、よほど今回の記事の方が退化しているといえるだろう。困った困った。
やはり、身体と精神が好調な状態でなければ、思考も十分にできないということなのだろう。
(いやしかし、そういったよくない状態の時にどれだけまともな記載ができるかというのが重要な気もする)
宣伝:創作進捗グラフ作成ツールVer0.3として、文字数カウント機能等を追加しました。
浄土信仰について
僕は、「仏教すげーぜ!」的なことをたまに書いている。それは本心なのだけれども、儀式的な仏教や極楽浄土を説くような信仰、全部が全部好きというわけではない。浄土宗や浄土真宗において拠り所とされるのは、浄土三部経といわれる、「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」であるが、そのあらすじを読んでみたけれども、深く感銘を受けるには至らなかった。(迦稜頻伽(カラヴィンカ)や共命鳥の話など、面白い内容は多かった)
そもそも、何故面白いと思えないかというのは、「浄土(極楽)」という考え方が馴染まないからである。
無量寿経の中に、極楽の描写がある。
「無量寿国のもろもろの天人、衣服・飲食・華香・瓔珞・繒蓋・幢幡・微妙の音声・所居の舎宅・宮殿・楼観、その形色に称う。高下大小なり。61あるいは一宝・二宝、乃至、無量の衆宝、意の所欲に随いて、念に応じてすなわち至る。」無量寿国(極楽浄土)は、清く美しく、着るものも食べるものも住むところも、心の思うがままに現れる、と。とにかく幸せなところなのだと。
ここら辺の教化は、キリスト教の天国の描写と変わらないのではないか。
阿弥陀様を、神やキリスト様と置き換えても問題ないように思われる。
その点においては、仏教が特別な何かだとは思えていない。そうではなく、僕が、仏教に対して期待しているのは、その「無常観」、諸行無常や諸法無我といった娑婆世界の見方である。
極楽浄土に至る道
諸行無常諸法無我とは、世のモノ・コトは永遠不変絶対なものはなく、移り変わっていくものである、ということである。で、あるならば、6つの世界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)の輪廻を抜けて仏となるというのも、涅槃が達成されている極楽浄土というのも、それを「絶対視」するというのは矛盾に思える。
そういう点では、修行と悟りは同じことである(修証一如)といったり、悟りを得るためには悟ろうとすることすらやめねばならないとする、道元さんなど、禅の考え方はしっくりくる。
「只座る。それこそが仏の道であります」(只管打座)
宗教を信じない人のことを、無神論者、と言ったりするけれども、それは厳密には異なる。
宗教というのと、神を信じるというのとは異なるのだ。
仏教は、キリスト教やイスラム教の聖書のような、絶対的な拠り所となる書物はなくて、数万といわれる数の経典がある。だから、浄土信仰のようなものもあれば、密教的な(ヨーガの実践により悟りに至る)ものもあって様々である。
宗教という語を、「超越的なものへの信仰」という意味であれば、なるほど神を信じていなくても、それは宗教と呼ばれるべきものはあるかもしれない。
なるほど、そういう意味では、僕は、生きる意味を考えなければならないという、宗教にはまってしまっているのかもしれない。けれども、僕は完全に無神論者だといえよう。それも極度の。なにせ、神も、仏も、極楽すらも信じることができない、それどころか倦厭してしまうのだから。
欲望を満たし続ける一切皆苦
さて。ところで、今、僕はとてもイライラしているのである。最近、ツール作って、使ってもらって、いい感じだね~って言ってもらえて、とても楽しく充実した時間を過ごしていたら、仕事でとても不愉快極まりないことに出くわしたのである。
せっかくの楽しい気分が台無しである。そしてこの気分は、家に帰ってからも続いている。
そんな不愉快な思いを与えた人も、それも縁なのです。その人によって、どうふるまうべきかを学ぶことができて、よかったではありませんか。
……なんて思えるか! ボケ! ◎ね!(かっこわらい)
凡人、衆生は、悩みが尽きない生き物である。
しかし最早最近は、その悩みや怒りというのすら、それを軽減させていくことが良いことなのかどうかすらよく分からない。
とにかく、気付いたことがある。いや、分かったことだ。10年ぐらい前の文章である。楽な仕事なんてないし、楽をして生きられることなんてないのだ。この世の中は苦しみに満ちている。どこまでいったって、ずっと永遠に苦しみが続くわけだ。なんて、仏教の一切皆苦と同じことなのだけど、言葉じゃなくて、実感として分かったよ。公務員なら楽、先生ならきついとか、そんなことを考えるようではもう 自殺 するしかない。死ぬしかないのだよ。分かってたんだけど、忘れてた。思い出したよ。人生は、特に、ボクの人生は苦しみしかないのだ。その苦しみの中で、どう苦しみと付き合っていくのかを、それを考えるしかなかったのだ。
――生きる意味を徹底して考える(2007/2/3)
もっと前には、
こんなことも言っている。欲望が満たされなくなったとき、人は悩むのだ。苦しむのだ。辛いのだ。結局人は、死ぬ。その直前まで、欲望を満たし続けなければならないのである。人の個性というのは、すなわち欲望の違いということができるであろう。無償の愛の典型とされるボランティア活動さえも、「人の役に立ちたい。」という欲望の域を抜けていないのだ。人はもっと、正直になるべきなのだ。もっと自分の利益を積極的に肯定し、追求してよいのだ。その個々人の欲望を調整するのが国家であるといえよう。
――生きる意味を徹底して考える(2004/11/22)
基本的に、ここら辺の思想信条というか、価値観というものは、今の今まで変わっていない、と言える。色々と、試みたことはあったけれども、しかし、根本は変わらなかった。
というよりも、「この世は苦しみである」というのは、全然、僕が思いついたことではなく(僕が強く感じたことではあるが)、紀元前5世紀ぐらいのゴウタマさんが仰ったことである。それが「仏教」という一大宗派が築かれて、現代も信者が大勢いるというのだから、僕の感覚を変えるというのは土台無理な話なのかもしれないのである。
ところが、最近の問題としては、上の過去記事において前提とされている、「楽」とか、「欲望」といったもの。
それがよく分からなくなっているのである。
自己言及的な生き方
そこで、現在新たに提示しているのが、フランクルさんとかが仰る、「人は皆、生きているだけで意味があるのだ」ということ。いや全然新しくないじゃん、そんなの小学校の道徳の授業であるようなもんじゃん。
仰る通り。
言葉にすると難しい。踏み込んで書くとすると、自己言及的な生き方、ということである。
欲求と欲望の違い、ということで以前どこかで触れたことがあった。欲求とは、何か足りていないものを満たそうとすること。欲望とは、足りているか足りていないかにかかわらず、その対象を求めてやまないこと。そんな感じで定義した。(気がする)
ただ、この用語区別は分かりづらい部分があるので、ここで、「欲動」という、フロイトさんが仰る表現を使ってみようと思う。
欲動とは、もうそれ自体が目的となっているような欲求や欲望のこと。
欲動
精神分析学の用語。人間を常に行動へと向ける無意識の衝動。フロイトによれば、心的なものと身体的なものとの境界概念と位置付けられ、自己保存欲動と性欲動(のちに生の欲動と死の欲動)とに二分された。――大辞林
無意識で兎に角求めちゃう! というのが欲動である。
自己言及的に生きるとは、生きていることに意味があるかどうかを考えるのではなく、ただ生きていることそれこそが目的なのだと、欲求・欲望・欲動だとして生きるということである。
……。
気分が高揚しているときであれば、「おお、素晴らしい教えだ! そうだ、生きているそれだけで十分なのだ!」などと思うかもしれない。
しかし今は、イライラの真っ最中である。そういった場合では、
・生きる意味を考えるということからの逃避ということではないか。
・現に不愉快な事象に面したり、理不尽な状況に陥ったり、まさに死に際したとき、生きることそのものが目的であったら、死という避けられない事象に対して何ら意味をなさない考えではないか。
・努力すること頑張ることストイックになることの否定ではないか。
・他者に胸を張って伝えられるものか。世界規模で肯定される生き方といえるのか。
などと否定語が浮かぶ。
全然書きたいことに到達しない
イライラに任せて書いては、到底まとまるはずはなかった。時間切れである。
しかし、何か、表現したいことにまったく到達しなかった。
結局かけたのは、仏教は仏教でも、キリスト教的な(神様の信仰)的な仏教は好きじゃない、ということぐらいか。
いや、まぁ、このあたり(浄土信仰など)は、もう少し勉強してみるつもりである。少しさわりを読んだ限りだと、おそらく、可能性として、「阿弥陀仏」という、「ナンマイダー」と唱え帰依する対象の仏さまは、偶像としての神ではなく、涅槃の境地の象徴であるとも考えられるからだ。
「衣食住が満たされた極楽」という表現も、「悟りの境地」の、たとえ話――豪華絢爛酒池肉林という意味ではなくて、そういった衣食住に心が惑わされないような安らかな状態の表現であるとも考えられるからだ。
「南無阿弥陀仏とただ唱えるだけで極楽浄土にいけますよ」
というのも、それだけ聞けば、幼稚な迷信のように思ってしまうが、心を統一して、一つのことに集中して世の中の些事にとらわれなくなるという、実践的な意味もあるかもしれない。(そういった側面の強調が、密教やヨーガである)
本当は、「思考することの意味について」この記事と頂いたコメントについて、もうちょっと踏み込んだことを書きたかった、書いておきたかった。
恥ずかしい記事だと、上の記事では書いていたが、よほど今回の記事の方が退化しているといえるだろう。困った困った。
やはり、身体と精神が好調な状態でなければ、思考も十分にできないということなのだろう。
(いやしかし、そういったよくない状態の時にどれだけまともな記載ができるかというのが重要な気もする)
