今日の一言「人との会話は重要と言わざるを得ない」
これをもって、大体、現在自分の問題意識については書ききったように思う。ゆえに、本記事としては、今、現在、僕が「真実」と思っていることをまとめてみようと思う。しかし、その真実という言い方もあまり好きではない。どちらかといえば、実感、といってよい。「自分の中では正しい」と思っていることを書き出してみるということだ。
たくさんの雑事に追われて、気が休まらないときは、何か、一つのことに集中するのがよい。その一貫とであるといってよい。(例えば、自分の呼吸に気を遣うだとか、瞑想するとか、単純な計算問題をとくだとか、良い作品に触れるとか、遠くの景色をぼーっと見つめるとか……)
元のマクロが、コメントもしっかり書かれていて、修正も容易だった。とてもありがたいと思った。
→「エクセルの表をHTMLに出力するマクロ」(遠藤修正版)
実感レベルが高いものは、今後も変わることがないだろうと思うもの。
低いものは、今のところは正しいと思っているが、変わる可能性もあるかなというもの。
これまで、1年ぐらいで書いてきた内容をまとめると、だいたいこんなようなものなのじゃあないかと思う。
今後、この実感表に、参照先となる記事のリンクを付けてみても面白いかもしれないが、作業量のわりにあわない気がするのでやめよう。
ただ、「僕」がどんな人か、というのは、こういう人だといってよいと思う。まぁこれに、「創作は大事」とか、自動車が好きとかその他趣味趣向があるわけだけれども、それよりももう一つ広い深い次元の感覚である。
特に、29、30あたりの、コミュニケーションの部分については、他者と時間を共有するにあたって重要である。
17の、多様性が重要である、という内容とも関わるが、このあたりの前提・実感が少ない人との会話は疲れる。徒労になることが多い。
逆に言えば、その実感がある人とは、基本的にどんな人(正義不正、善悪、ポジ・ネガ、インドア・アウトドア)とでも交流が可能とも思っている(相手が望むか別として)。
28の、宗教とは信仰を扱う科学である、というのは、これまで書いてきた記事の流れからすると大丈夫だと思うが、これだけ読まれると、何やら怪しい新興宗教に傾倒している人のように思われそうだ。
こういったように、文字表現も限界がある。長ければ読まれないし理解されなくなるし、短ければ誤解の可能性が大きくなる。といったわけで、やっぱり30の、理解しあえない、ということに落ち着くわけだけれども。
しかし、この表の目的は、表の完成にあるのではない。むしろ、ここに書いていることはもう自明のこととして、本当の問題に対して、より歩みを進めていきたいということである。
この表自体への異議というのも多いと思う。それらを十分に解きほぐし、実感レベルの調整や、そもそも削除したり、追加したりする作業も重要だろう。
ただ、それらの処理を優先しすぎると、結局、10年ぐらい経った今も、本当の問題に対して解決の見通しが立っていないのである。
本当の問題というのは、前の記事から、何度も書いていたから詳しくは書かないが、頭が悪い自分のために書いておけば、もう一度、本記事の目的を読みなさい、ということである。
(かっこ書きである。長くなったので一度ここで区切る。この表を作るという作業については、いずれやってみたいと思っていたことだ。最初からこういった表が作れたら、これまで、長々とブログなど書いてこなくてもよかったのではないか、ということも思う。ただ、上の表は、特に何も参照せず、特に筆が止まることもなくスラスラと書き出せた内容である。そのスラスラ具合を、実感レベルの参考値とした部分もある。この、スラスラというのは、きっと、これまで長々とブログを書いてきて、時にコメントなどでコミュニケーションをすることで、より実感としてインプットできたように思うのだ。だから、これまでやってきた内容が、たとえ一般の方にとっては、無駄としか思えないようなものであっても、能力が低い私にとっては、とても役立った、といえるのである。この点、馬鹿にされても傷つかない。そう、この傷つくというのは、ある意味、図星を突かれた場合に傷が深くなる傾向がある。次回、ある友人と会話をしていて、とてもダメージを受けた経験について書いてみたいと思う(かっこ書きががなんか次回予告と化してきたな))
本記事の目的
結局、今得ている真理は、「生きてるうちは、楽しいことも苦しいこともある。それが人生だ」的な、クソつまんねぇことだけだ。俺はやっぱり、「生きているから生きているんだ! それだけで素晴らしいんだ」的なのは、納得がいかない……納得がいかないというか、つまらない。快楽を得る方法なんてたくさんある。楽しいことなんてたくさんある。だけど、それがどうしたってんだ? だからなんだってんだ? ……いやこの感覚が馬鹿げているのもわかっている。どうして世界中の幸せ、素晴らしいことが、単に素晴らしいことだと認められないのだ。ニヒル気取ってかっこ悪いと、本当に思う。思うから、口に出さない。心の奥底にしまいこもうとする。けれども、だ。やっぱりそりゃあつまらねえよ。人生楽しまなきゃなんねえべ。そして時間はこうしている今も、着々と過ぎ去っていっているのだからしばらく前(といっても前回)の記事の一部。
これをもって、大体、現在自分の問題意識については書ききったように思う。ゆえに、本記事としては、今、現在、僕が「真実」と思っていることをまとめてみようと思う。しかし、その真実という言い方もあまり好きではない。どちらかといえば、実感、といってよい。「自分の中では正しい」と思っていることを書き出してみるということだ。
たくさんの雑事に追われて、気が休まらないときは、何か、一つのことに集中するのがよい。その一貫とであるといってよい。(例えば、自分の呼吸に気を遣うだとか、瞑想するとか、単純な計算問題をとくだとか、良い作品に触れるとか、遠くの景色をぼーっと見つめるとか……)
実感のまとめ
NO | カテゴリ | 内容 | 実感 レベル |
1 | 010人生・思考 | 人はいずれ死ぬ。有限の存在である。 | 高 |
2 | 010人生・思考 | 未来のことは誰も分からない。リスクはゼロにはならない。 | 高 |
3 | 010人生・思考 | 楽しむことが重要。苦しみ自体に価値はない。苦しみの低減を望まないのは生存欲求と反する。 | 中 |
4 | 010人生・思考 | 人の行動の原因は欲望である。欲望は理性との対義ではなく、理性も含んだ概念である(理性も欲望に基づく)。 | 中 |
5 | 010人生・思考 | 人生に意味が無ければ死んだ方がまし。同時に、自殺というのも人生の一つの手段に過ぎない。絶対的に否定されるべきものでもなければ、肯定されるべきものでもない。 | 中 |
6 | 010人生・思考 | ただ生きてるだけで意味があるというのは認められない。 | 低 |
7 | 010人生・思考 | 思考の抽象化が信念。科学的根拠、伝統、環境要素はその補助材料に過ぎない。 | 低 |
8 | 010人生・思考 | 人は、超自我(理性)を獲得することができる。それは欲望をコントロールする能力である。 | 低 |
9 | 010人生・思考 | 実感が大事。実感の積み重ねが価値観。価値観の総体が信念。 | 高 |
10 | 010人生・思考 | 理解には、記憶可能性と、運用可能性がある。 | 低 |
11 | 010人生・思考 | インプットとアウトプットのバランスが大事である。 | 中 |
12 | 010人生・思考 | 言い訳や文句、後悔は役にたたない。反省と再行動は役に立つ。 | 低 |
13 | 010人生・思考 | ネガティブもポジティブも、相対概念で、真実ではなく現象である。 | 中 |
14 | 010人生・思考 | 現象とは、目の前に現れているモノ・コトそのものである。 | 低 |
15 | 010人生・思考 | 実存とは、人が個人として生きることを考えることである。 | 中 |
16 | 010人生・思考 | 科学は一つの答えを求める。価値観は多様性が求められる。 | 低 |
17 | 010人生・思考 | 多様性が求められる世界では、正当性は必ずしも必要ではない。 | 低 |
18 | 010人生・思考 | 自己判断・自己責任と謳われるが、自己判断は重く、自由と表裏一体の自己責任は重い。 | 低 |
19 | 010人生・思考 | 下手な一般論よりは、実存(私はこう思う)という主張が面白い。それは多様性の中の真実だからである。 | 中 |
20 | 020社会 | 思考とは、人類の幸福に使われるべきとされている。 | 低 |
21 | 020社会 | 正義は時代と環境と集団によって作られる。(正義の味方は、正義自体を決して名乗らない。正義とはその時々に変わる移ろいやすいものだ) | 中 |
22 | 020社会 | 理念としては世界平和、自由、平等、正義が大事。しかし実現性が問題となる。 | 高 |
23 | 020社会 | 社会とはルールの体系である。体系とは一定の法則のまとまりのことである。 | 高 |
24 | 020社会 | ルールとは約束と決まりである。しかしそのルールの根拠は「信頼」である。だから信頼、信用は大事である。 | 高 |
25 | 020社会 | テロリズムは悪だが、実行者にとっては救済で正義であり、テロではない。 | 低 |
26 | 020社会 | 人は一人では生きていけない。農耕牧畜を開始する前の狩猟採集生活も、集団で行動していた。 | 低 |
27 | 030科学 | 科学とは論理と再現性を可能とする思考実践体系である。 | 中 |
28 | 030科学 | 宗教とは信仰を取り扱う「科学」である。 | 高 |
29 | 040情報伝達 | コミュニケーションとは情報(意思)伝達のことである。そして、コミュニケーションの目的は、相手を自分の意図通りに行動させることである。 | 中 |
30 | 040情報伝達 | 人は100%お互いを理解しあえない。表現問題とフレーム問題について。言語の限界性のこと。 | 低 |
31 | 040情報伝達 | 感情とは脳の機能の一部である。他者を思いやる心の機能は、抽象化言語を手に入れることで獲得された。 | 低 |
32 | 050経済 | 資本主義においては労働者より資本家が優位である。 | 中 |
33 | 050経済 | 共産主義は利己的な人間本質に合わない。ただし、正義の在り方を考える上での材料とはなる。 | 低 |
34 | 050経済 | 投資はギャンブルではない。違いは、不確定要素(確率)の高低と、再生産性(価値の創造)である。(例)宝くじはお金の総量は変わらないが、投資は企業の営利活動によって収益の増加の可能性がある。 | 低 |
35 | 900その他 | プログラミングは誰でもできる。 | 中 |
36 | 900その他 | ルーチン日課を続けることは 散漫な注意を集中さそることに意味がある。 | 高 |
37 | 900その他 | 創作をすることは重要である。人生は物語であるから。 | 高 |
エクセルの表をHTMLに出力するマクロ
上の表作成には、なんでも保管庫2さんの、『センタリングバージョン(Ver.3)』を元にさせて頂いた。ただ、そのままだと、テーブルタグの行の終了タグ(</TR>)が挿入されなかたっため、マクロコードを解析させて頂き、修正したものを作成した。 '右端かどうかのチェック
Select Case Selection(Selection.Count).Column
Case Rng.Column
strTR = "</tr>"
Case Else
strTR = ""
End Select
strHTML = strHTML & strTR
追加したのは上の、選択範囲が右端だったら、読み込んだHTML文に、行の終了タグを挿入するというもの。元のマクロが、コメントもしっかり書かれていて、修正も容易だった。とてもありがたいと思った。
→「エクセルの表をHTMLに出力するマクロ」(遠藤修正版)
実感について
上の表の実感は、現在突発的に思いつく限り、書き出して、その実感レベルを感覚で「高」「中」「低」で割り振ったものである。実感レベルが高いものは、今後も変わることがないだろうと思うもの。
低いものは、今のところは正しいと思っているが、変わる可能性もあるかなというもの。
これまで、1年ぐらいで書いてきた内容をまとめると、だいたいこんなようなものなのじゃあないかと思う。
今後、この実感表に、参照先となる記事のリンクを付けてみても面白いかもしれないが、作業量のわりにあわない気がするのでやめよう。
ただ、「僕」がどんな人か、というのは、こういう人だといってよいと思う。まぁこれに、「創作は大事」とか、自動車が好きとかその他趣味趣向があるわけだけれども、それよりももう一つ広い深い次元の感覚である。
特に、29、30あたりの、コミュニケーションの部分については、他者と時間を共有するにあたって重要である。
17の、多様性が重要である、という内容とも関わるが、このあたりの前提・実感が少ない人との会話は疲れる。徒労になることが多い。
逆に言えば、その実感がある人とは、基本的にどんな人(正義不正、善悪、ポジ・ネガ、インドア・アウトドア)とでも交流が可能とも思っている(相手が望むか別として)。
28の、宗教とは信仰を扱う科学である、というのは、これまで書いてきた記事の流れからすると大丈夫だと思うが、これだけ読まれると、何やら怪しい新興宗教に傾倒している人のように思われそうだ。
こういったように、文字表現も限界がある。長ければ読まれないし理解されなくなるし、短ければ誤解の可能性が大きくなる。といったわけで、やっぱり30の、理解しあえない、ということに落ち着くわけだけれども。
突き詰めようという目的ではない
今後、表の内容は更新することになるだろう。ただ、なんだかこれまで経験したことがないような不思議なこと、よくわからない感覚に陥った時は、それが、どういったものなのか、この表にできるだけ立ち戻りたいと思う。それが新規の感覚であればラッキーうれしいことであるし、結局は分類が上手くできなくて悩んでしまっただけであれば、残念ではあるが、この表の強度がより高まることになるから、やはりラッキーである。しかし、この表の目的は、表の完成にあるのではない。むしろ、ここに書いていることはもう自明のこととして、本当の問題に対して、より歩みを進めていきたいということである。
この表自体への異議というのも多いと思う。それらを十分に解きほぐし、実感レベルの調整や、そもそも削除したり、追加したりする作業も重要だろう。
ただ、それらの処理を優先しすぎると、結局、10年ぐらい経った今も、本当の問題に対して解決の見通しが立っていないのである。
本当の問題というのは、前の記事から、何度も書いていたから詳しくは書かないが、頭が悪い自分のために書いておけば、もう一度、本記事の目的を読みなさい、ということである。
(かっこ書きである。長くなったので一度ここで区切る。この表を作るという作業については、いずれやってみたいと思っていたことだ。最初からこういった表が作れたら、これまで、長々とブログなど書いてこなくてもよかったのではないか、ということも思う。ただ、上の表は、特に何も参照せず、特に筆が止まることもなくスラスラと書き出せた内容である。そのスラスラ具合を、実感レベルの参考値とした部分もある。この、スラスラというのは、きっと、これまで長々とブログを書いてきて、時にコメントなどでコミュニケーションをすることで、より実感としてインプットできたように思うのだ。だから、これまでやってきた内容が、たとえ一般の方にとっては、無駄としか思えないようなものであっても、能力が低い私にとっては、とても役立った、といえるのである。この点、馬鹿にされても傷つかない。そう、この傷つくというのは、ある意味、図星を突かれた場合に傷が深くなる傾向がある。次回、ある友人と会話をしていて、とてもダメージを受けた経験について書いてみたいと思う(かっこ書きががなんか次回予告と化してきたな))
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本記事の目的
本記事の目的については、時間短縮のために、前回記事を引用。(かっこ書きである。次回、ある、プロの企業研究家の記事を読んで思ったことと、今回の記事の「信念や目標について」と関係する部分について取り上げ、さらにこの「問題」について表現することを試みたい。
ということで、引用。
企業研究とは仕事とは何かを理解すること
http://college.nikkei.co.jp/article/85045216.html
社会貢献よりも会社貢献ができるのが人材
http://college.nikkei.co.jp/article/85224918.html
株式投資も、就職活動における企業研究も、基本は同じであると理解している。
もちろん、株式投資においては、バランスシート(貸借対照表)や、P/L(損益計算書)といった財務分析も欠かせないことに思われる。しかし、数ある企業のうち、根っこになるのは、その企業の「ビジネスモデル」=どうやってお金を稼いでいるのか、を理解することである。
〇自分の身は自分で守る 〇未来は見通せない
http://college.nikkei.co.jp/article/87242915.html
会社が永遠ではないことはもはやグローバル化した現在の経営では当然すぎることで、長年の歴史のある財閥系大企業が不祥事で消え去ったり、外資や他社に買収されたり、これまでの経営環境では考えられなかったことがいくらでも起きるのが今のビジネスなのです。会社員としての本丸・給与ですらそんな状況ですから、残業、福利厚生、平均年齢、退職金などの派生的情報はいくら調べたところで、今後どんどん変わっていくことでしょう。「平均残業時間」なども気になるでしょうが、その職務も、対応する人間も、締切も、立場も、顧客も違う環境下で出た平均値を比較すること自体、ほぼ意味がありません。~略~どんな会社にも必ずブラックな面やブラックは事象があるのです。自分が健康を損なったりしないように生き抜く力となるのは、本稿が繰り返し訴える、自分の判断力です。人が用意した「答」ではありません。逆に「ブラックは絶対お断り」という考えは、理系的にいえばゼロリスク幻想です。「リスクがない」「ハザードが発生しない」会社自体があり得ないものであり、許容できないリスクかどうかの判断は自分で下すしかありません。もちろん違法行為が許されるものではなく、遅ればせながら国も対策は講じていますが、基本、自分の身は自分で守るのが原則です。
自分の身は自分で守る?
言ってることは結局、自分で考えて答えを出したんだったら、それが失敗でもちゃんと自分で責任取りましょうね、ということだ。で、そもそも、「仕事」とは何かということをしっかりと理解しましょうね、ということだ。
しかし、そうした言説を、まず疑ってかかったほうがいい。二つ、考え方を紹介しよう。
一つは、私の株式投資の師匠が仰っていたことだ。私のつたない記憶から文字に起こす。
「資本主義社会で一番偉いのは投資家だよ。労働者じゃないよ。株を50%保有していたら、その会社はその投資家のものだよ」
もう一つは、ある漫画家の作品だ。
「資本主義の悪魔」
短いし、漫画で読みやすいから説明は特にしない。
上の二つのことが真実かどうか、そんなことは分からない。仕事でやりがいを見つけて頑張って人から認められて生きて死ぬ人だって大勢いるのである。その構造について、敢えて「間違っている」とか「搾取されている」という必要はない。マトリックスの機械が管理している世界だって、そこで機械に搾取され生きている人たちは、幸せかもしれないのだ。真実が必ず人を幸せにするとは限らないのだ。
だが、とりあえず、私は、上の二つの例について、共感すると表明する。
生活するということについて
ので、私は、自分の仕事に対しての「キャリア」(この言葉も空虚であるが)を磨くことも必要だと思うし、投資(お金)に関して学ぶこともとても重要だと思っている。そのための勉強をすることには何の疑問もない。
しかしだ、それらは、やはり僕にとって、「手段」でしかないということだ。
先日の記事をもう一度引用する。
「没入することしか生きる道がないのか」ということについて、結局全然触れられなかった。簡単に答えを書くと、上にかいたような「日々の営み」が人生そのものだ(没入する)ということを、僕は認められない、ということだ。「いいことも、悪いこともあるのが人生だよね!」とかっていう、甘ったれたクソつまらねえ格言じみた、訳知り顔で語り散らかす思想や考えなど、俺は認めない、ということだ。そんなんだったら、さっさと自殺した方がましだ。人生に意味はある、絶対にだ。――そう信じたいだけかもしれない、それでも、こればかりは、信じるしかない
たぶん……、多くの人が疑問なく感じ、考えているのが、上の下線部と思っている。
言葉はよくないが、一般大衆は、そうして生きていくしかない。
それで、少し偉い人になると、歴史に名を残すような業績をあげようとする。
それらの、人としての営みが、無意味無価値とは思わない。「ストレンジトゥエルブ」を読了したが、その尊い神々も、「人間の世界ってのは、生き物を殺して食わねえと成り立たない肥溜めの臭い世界だけどな、まー、そんなに、嫌いでもないぜ」と仰られていた。
まさか、こんな凡人塵芥の自分がだ、神と同じような感覚なはずはないのだけれども、なんというか、似た感覚ではある。
しかたがない、この世界はくるっている、でも愛おしい、みたいな。
ニヒル気取ってかっこ悪い
なんて、ちょっと俺は他のみんなとは違うんだぜ、という感覚……中二病とでも言うのだろうか。ただ、先日書いた記事の中の、「私の問題」とはまさにそれで、「苦しいことも楽しいことも、それに没入できない」ということだ。
これを、「達観」と表現すれば、無執着の体現でもあり、それはゴウタマさん的には正しい道といえる。
精神医学的に言えば、「解離性人格」といえる。
ネット用語的にいえば、「中二病」である。
それを「わかった」上で、さぁどうしようということだ。逆に、それを「問題」というのであるから、解決すべきとは思っているのである。
しかし、「無執着」で「達観」している僕が、なぜそういった「問題」を抱えるのだろうか?
それは、「人生は意味があって、とても楽しいものだ」ということを信じているからでもあるのだ。
――これは、矛盾した思想といえる。楽しい、というのもまた、無執着であれば、手放していかなければならないものだからだ。
涅槃(悟り)の境地と、「楽しい」「快楽」の状態とは、相いれないものなのである。つまり、昔の人があこがれて念仏を唱えた、極楽浄土ってのは、決して、酒池肉林の快楽の世界ではないのである。阿弥陀経にも、正しい教えが満ち満ちていて……みたいな表現もある。
没入することを探すのではない
このように、僕の「問題」を解決するために、徹底的に討論していこう、考えていこう、というのが、このブログの目的である。つまり、人類存在の意義を求める果てしない闘いということである(?!)。大げさである。人類がどうこうではない。実存主義だ。まずは、この自分自身が、「我は何者か。我はどこからきたのか。我はどこに行くのか」ということである。
これは、何か、自分が熱中できる何か(没入すること)を求めようとするわけではない。
それすらも、クエスチョンをするということだ。
(かっこ書きである。非常に恥ずかしい記事ではあるが、とりあえず、大上段に自分の感覚を、自分の問題意識について書いておいた。これは、10年前からあった感覚ではあるが、しかし、ここまで、明確に問題として打ち出したことはなかった。10年前は、様々な可能性があった。恋人をつくること。会社に入ること。結婚すること。大切な人の死を経験すること。いろいろ、若造としては、やってみることがたくさんあった。そういった経験もなしに、先日から書いてきたような「問題」を書くなどと、おこがましいと思っていたわけである。しかし、それらの経験は、残念なことに、僕に、全能感・充実感・人生観を与えてくれるには至らなかった。結局、今得ている真理は、「生きてるうちは、楽しいことも苦しいこともある。それが人生だ」的な、クソつまんねぇことだけだ。俺はやっぱり、「生きているから生きているんだ! それだけで素晴らしいんだ」的なのは、納得がいかない……納得がいかないというか、つまらない。快楽を得る方法なんてたくさんある。楽しいことなんてたくさんある。だけど、それがどうしたってんだ? だからなんだってんだ? ……いやこの感覚が馬鹿げているのもわかっている。どうして世界中の幸せ、素晴らしいことが、単に素晴らしいことだと認められないのだ。ニヒル気取ってかっこ悪いと、本当に思う。思うから、口に出さない。心の奥底にしまいこもうとする。けれども、だ。やっぱりそりゃあつまらねえよ。人生楽しまなきゃなんねえべ。そして時間はこうしている今も、着々と過ぎ去っていっているのだから)
今日の一言「正確な記述を試みる」「分かりやすさへの配慮は無視する」「ここ数日15分記事のまとめ的な試み」
これは、10代前半から後半にかけての出来事に、端を発していると考えられる。
この問題について解決することができれば越したことがないが、せいぜい、1時間程度の記事への取り組みで、解決までこぎつけられる可能性はない。
よってこの記事では、その問題について、表現することを目的とする。
(しかし、それすらも、十分にできない可能性が高い。この問題は、非常に複雑であるのだ。――と書くと、いかにも、高尚な悩みに心身を埋没させているようであるが、他者から見たときに、それは重大にはとても思えないものだろう。それでも、その問題の実態を表現することには、非常に大きな価値を感じているのである)
先般の記事で、「信念をもつことが大事」と書いた。
ここで、果たして、信念をもたない人が存在するのか? という疑問が生じることであるが、「価値観」を持たない人はいないだろうが、それを洗練・昇華させ、「信念」にまでしている人はそう多くはないと思う。言うに及ばず、僕にもそんな信念は存在しない。
存在しないが、僕は、信念をもつべきだと考えている。
さて、以前作成した図であるが、価値観とは、以下のように整理される。

実感は、信仰(信じていること)と、論理的に納得したものの総体である。そして、その実感の総体(まとまり)が、価値観であるということだ。
基本的に、価値観は、イコール自己である。
つまり、ぼくの世界認識というか、他者存在の認識については、
「価値観をもたない人は一人としていないが、信念を持っている人は少ない」
というものである。
さて、価値観は誰にでもあるもの、と書いた。しかし、幼い子供についても、本当に価値観をもっているといえるのか?
これは、上と矛盾するようだが、「否」である。
子供は、価値観を持っていない。しかし、「実感」はある。
痛い悲しいむかつく、楽しい嬉しい、これらの感情や情動については、生まれたての赤ん坊でも持っているものである(――赤ん坊の感情や情動については、専門書があるだろうので、ここでは適当な感覚を書いているに過ぎない)。
子供のころの経験が大切だというのは、そうした実感が、後々、価値観となっていくからである。
いってしまえば、「世界・人間なんてくそったれだ」と思ったわけである(当然、そんな表現が当時に思い付いたかどうかは知らない)。
ここで、いじめられる側にも原因があるとか、そもそも、お前が感じたことやされたことは、一般にいじめとも言えないようなものだ(いやがらせだ)とか、そういったことは取りあえず置いておく。
そして、そういった過去の出来事について、何らか言及して、現在を肯定したり否定したりしようというものでもない。
ここで一つ、他のブログさんを例に書いておきたい。
そのブログさんは、過去に家族から受けた仕打ちについて、大人になった現在も、ずっと忘れられず、苦しんでいる。現在は、すでにその家族からも離れて暮らしているが、過去に受けた仕打ちが、普通に暮らそうとしてもフラッシュバックのように蘇って苦しんでいるのだ。
その苦しみについて、「苦しい!!!」といつもブログに書いている。僕は、ひどいことだとは思うが、正直、いつも同じ表現で苦しいと書かれても、面白くないと思っている。苦しいという感情を否定したいわけではないが、その苦しさというのを、もっと具体的に表現できなければ、他者の感情を引きずりこむようなことはできないのである。
最初はその苦難の人生に同情する人はいるかもしれないが、ずーっと同じことを言い続けているその人を見れば、「いい加減、もう立ち直ったら?」と思っていくのである。そう言ってあげる人はまだ優しいが、その他大勢は、何も言わずにその人から去っていくだろう。
しかし、そんな中で、そういった人の心性について、そのブログさんも言及していた記事があった。
「俺がずっと苦しんでいるのは、それは、今が解放されたから終わりというわけではないのだ。今が良くても、そのされてきた仕打ちは、ずっと何十年も蓄積されきたのだ。今がよくても、蓄積されたその苦しみは、簡単になくならないのだ」
と。
この表現、指摘、感覚については、僕も非常に面白いと思った。
一見、何の不自由なく、恵まれた生活を送っているように見える人でも、過去に受けた傷によって、ずっと苦しんでいることもあるということだ。
これを、トラウマ(心的外傷)といったりするのかもしれない。抑圧された情動が突然噴き出すということもあるだろう。
ここまでで確認したいことは、以下のとおり整理できる。
1.実感とは子供のときから醸成される
2.過去に苦しい・辛いことが発生したとき、それは実感としてインプットされる
3.2.でインプットされたことが、いずれ価値観として確立していく
4.2.で発生したことがたとえいくら苦しくて辛いことでも、他者からみたら分かりづらい(人は、今目の前に存在する人しか見えない)
僕が、自分自身確認しておくべきは、その自分の過去というのが、「世界の否定」であったということである。よい表現が浮かばないが、「人生とは苦しみである」という考えが、10代前半に……というか、10歳のときに思ったわけだ。
人生のスタートが、いわば「ゼロ」になった。いや、「マイナス」かもしれない。そういった表現はどっちでもいいのだが、幼い子供(10歳がそうかは分らんが)だからといって、誰しも人生楽しくワクワクしているわけではないということだ。
で、そこから考えると、いいことあったり、悪いことあったり、いろいろ波に乗って、いまは「プラス」だと思う。
そして、そこから発生したのが、冒頭に書いた、「大きな問題」である。
前回の「信念が必要だ」という記事や、長期的な目標を立てることが重要だ、というのとも関連するけれども、僕が、人生というゲームに何故没入できないのかという原因が、その「実感」の積み重ねというか、人生の始まりの座標のせいではないか、という確認である。
なかなか、他者に理解してもらえないこと……なのか、他者は理解しているが、僕の方が他者が理解していると思えないだけなのか分からないが、
「たのしいこともくるしいことも、それが自分のものだと感じられないということ」
が、問題である。
解離性人格障害の本とか、EDENという漫画のソフィアという女性の来歴が語られるシーンを読むと、まぁあんな感じである。
もちろん、それが、深刻な状態として僕の中にあるのか、というと、とんでもない、凡人レベルでそんなはずはあるまい。手首を切りつけて血がどばどば流れるのをみても、「自分の感覚じゃないみたい」とか、そんなこと思うはずもない。というか、痛いの嫌だ!(かっこわらい)
なので、どうしても、この「問題」について、語ったり、書いたりすると、大げさにとらえられてしまってよくない。そういうレベルではないのである。むしろ、歯を磨いたりご飯を食べたりするのと同じレベルで、「あー今日、上司に小言を言われて嫌だったよー」とか、そんな日常の愚痴レベルで、僕はこの問題を悩んでいるに過ぎないのだ。
だが、僕の性格上、「問題」は解決したいのである。
その解決の方法が、「目標」だったり、「信念」であるということだ。
これを、数年後の自分が読んで、何らかのヒントにできたらいい。
それでもって、これまた、先日の「仲間」が欲しいという記事と繋がるけれども、この、少々得体のしれない問題について、一緒に取り組んで解決できる人がいたらいいなぁということである。
といっても、すでに、師匠とか仲間(勝手に僕が認定している)がいるから、とても恵まれているのである。
この生きる世界は、生き物を殺してご飯を食べて排泄して、寝て起きて、人を傷つけ助けて、友人や家族と笑ったり憎んだり、そういった尊い営みの繰り返しである。
僕も、普通の人間なので、そういった営みの繰り返しの中に生きているわけであるが、そのすべての行為行動言動の中で、根底にあるのが、その「問題」であるということである。
(かっこ書きである。次回、ある、プロの企業研究家の記事を読んで思ったことと、今回の記事の「信念や目標について」と関係する部分について取り上げ、さらにこの「問題」について表現することを試みたい。ちなみに、メインタイトルの「没入することしか生きる道がないのか」ということについて、結局全然触れられなかった。簡単に答えを書くと、上にかいたような「日々の営み」が人生そのものだ(没入する)ということを、僕は認められない、ということだ。「いいことも、悪いこともあるのが人生だよね!」とかっていう、甘ったれたクソつまらねえ格言じみた、訳知り顔で語り散らかす思想や考えなど、俺は認めない、ということだ。そんなんだったら、さっさと自殺した方がましだ。人生に意味はある、絶対にだ。――そう信じたいだけかもしれない、それでも、こればかりは、信じるしかない)
この記事の目的
私は、大きな問題を抱えている。これは、10代前半から後半にかけての出来事に、端を発していると考えられる。
この問題について解決することができれば越したことがないが、せいぜい、1時間程度の記事への取り組みで、解決までこぎつけられる可能性はない。
よってこの記事では、その問題について、表現することを目的とする。
(しかし、それすらも、十分にできない可能性が高い。この問題は、非常に複雑であるのだ。――と書くと、いかにも、高尚な悩みに心身を埋没させているようであるが、他者から見たときに、それは重大にはとても思えないものだろう。それでも、その問題の実態を表現することには、非常に大きな価値を感じているのである)
信念とは何か
信念とは、価値観の総体である。ここでいう総体とは、たくさんの個々具体的な要素を、一つにまとめたものと考えてよい。そして、さらにその総体(=統合体)を、ブラッシュアップ(洗練)させたものと捉える。先般の記事で、「信念をもつことが大事」と書いた。
ここで、果たして、信念をもたない人が存在するのか? という疑問が生じることであるが、「価値観」を持たない人はいないだろうが、それを洗練・昇華させ、「信念」にまでしている人はそう多くはないと思う。言うに及ばず、僕にもそんな信念は存在しない。
存在しないが、僕は、信念をもつべきだと考えている。
さて、以前作成した図であるが、価値観とは、以下のように整理される。
実感は、信仰(信じていること)と、論理的に納得したものの総体である。そして、その実感の総体(まとまり)が、価値観であるということだ。
基本的に、価値観は、イコール自己である。
つまり、ぼくの世界認識というか、他者存在の認識については、
「価値観をもたない人は一人としていないが、信念を持っている人は少ない」
というものである。
幼い子供は価値観を持つのか?
まだ、話の本題に入るどころか、前提の前提ぐらいの内容だ。この当たりのことは、これまでの記事に断片的に書いているから、目新しくないと思ったら読み飛ばして構わない。さて、価値観は誰にでもあるもの、と書いた。しかし、幼い子供についても、本当に価値観をもっているといえるのか?
これは、上と矛盾するようだが、「否」である。
子供は、価値観を持っていない。しかし、「実感」はある。
痛い悲しいむかつく、楽しい嬉しい、これらの感情や情動については、生まれたての赤ん坊でも持っているものである(――赤ん坊の感情や情動については、専門書があるだろうので、ここでは適当な感覚を書いているに過ぎない)。
子供のころの経験が大切だというのは、そうした実感が、後々、価値観となっていくからである。
過去の苦しみは理由(言い訳)になるのか
記事の最初の方に、10代前半ぐらいから嫌な思いをしてきた、と書いた。いってしまえば、「世界・人間なんてくそったれだ」と思ったわけである(当然、そんな表現が当時に思い付いたかどうかは知らない)。
ここで、いじめられる側にも原因があるとか、そもそも、お前が感じたことやされたことは、一般にいじめとも言えないようなものだ(いやがらせだ)とか、そういったことは取りあえず置いておく。
そして、そういった過去の出来事について、何らか言及して、現在を肯定したり否定したりしようというものでもない。
ここで一つ、他のブログさんを例に書いておきたい。
そのブログさんは、過去に家族から受けた仕打ちについて、大人になった現在も、ずっと忘れられず、苦しんでいる。現在は、すでにその家族からも離れて暮らしているが、過去に受けた仕打ちが、普通に暮らそうとしてもフラッシュバックのように蘇って苦しんでいるのだ。
その苦しみについて、「苦しい!!!」といつもブログに書いている。僕は、ひどいことだとは思うが、正直、いつも同じ表現で苦しいと書かれても、面白くないと思っている。苦しいという感情を否定したいわけではないが、その苦しさというのを、もっと具体的に表現できなければ、他者の感情を引きずりこむようなことはできないのである。
最初はその苦難の人生に同情する人はいるかもしれないが、ずーっと同じことを言い続けているその人を見れば、「いい加減、もう立ち直ったら?」と思っていくのである。そう言ってあげる人はまだ優しいが、その他大勢は、何も言わずにその人から去っていくだろう。
しかし、そんな中で、そういった人の心性について、そのブログさんも言及していた記事があった。
「俺がずっと苦しんでいるのは、それは、今が解放されたから終わりというわけではないのだ。今が良くても、そのされてきた仕打ちは、ずっと何十年も蓄積されきたのだ。今がよくても、蓄積されたその苦しみは、簡単になくならないのだ」
と。
この表現、指摘、感覚については、僕も非常に面白いと思った。
一見、何の不自由なく、恵まれた生活を送っているように見える人でも、過去に受けた傷によって、ずっと苦しんでいることもあるということだ。
これを、トラウマ(心的外傷)といったりするのかもしれない。抑圧された情動が突然噴き出すということもあるだろう。
自分のこと
上の内容から、「僕は、過去に苦しい思いをしたから、今が恵まれていても、実は苦しんでいるのだ、助けてください」と言いたいのではない。ここまでで確認したいことは、以下のとおり整理できる。
1.実感とは子供のときから醸成される
2.過去に苦しい・辛いことが発生したとき、それは実感としてインプットされる
3.2.でインプットされたことが、いずれ価値観として確立していく
4.2.で発生したことがたとえいくら苦しくて辛いことでも、他者からみたら分かりづらい(人は、今目の前に存在する人しか見えない)
僕が、自分自身確認しておくべきは、その自分の過去というのが、「世界の否定」であったということである。よい表現が浮かばないが、「人生とは苦しみである」という考えが、10代前半に……というか、10歳のときに思ったわけだ。
人生のスタートが、いわば「ゼロ」になった。いや、「マイナス」かもしれない。そういった表現はどっちでもいいのだが、幼い子供(10歳がそうかは分らんが)だからといって、誰しも人生楽しくワクワクしているわけではないということだ。
で、そこから考えると、いいことあったり、悪いことあったり、いろいろ波に乗って、いまは「プラス」だと思う。
そして、そこから発生したのが、冒頭に書いた、「大きな問題」である。
私の問題について
ようやく、ここから話の本題の前提に入っていくことができる。前回の「信念が必要だ」という記事や、長期的な目標を立てることが重要だ、というのとも関連するけれども、僕が、人生というゲームに何故没入できないのかという原因が、その「実感」の積み重ねというか、人生の始まりの座標のせいではないか、という確認である。
なかなか、他者に理解してもらえないこと……なのか、他者は理解しているが、僕の方が他者が理解していると思えないだけなのか分からないが、
「たのしいこともくるしいことも、それが自分のものだと感じられないということ」
が、問題である。
解離性人格障害の本とか、EDENという漫画のソフィアという女性の来歴が語られるシーンを読むと、まぁあんな感じである。
もちろん、それが、深刻な状態として僕の中にあるのか、というと、とんでもない、凡人レベルでそんなはずはあるまい。手首を切りつけて血がどばどば流れるのをみても、「自分の感覚じゃないみたい」とか、そんなこと思うはずもない。というか、痛いの嫌だ!(かっこわらい)
なので、どうしても、この「問題」について、語ったり、書いたりすると、大げさにとらえられてしまってよくない。そういうレベルではないのである。むしろ、歯を磨いたりご飯を食べたりするのと同じレベルで、「あー今日、上司に小言を言われて嫌だったよー」とか、そんな日常の愚痴レベルで、僕はこの問題を悩んでいるに過ぎないのだ。
だが、僕の性格上、「問題」は解決したいのである。
その解決の方法が、「目標」だったり、「信念」であるということだ。
整理
まず、上のような問題について、今書いてきたような内容で、分かりやすいのかどうか、僕はよく分からない。今できる、僕の出力できる最高スペックで書いてみたけれども、これでも分からなければ、とりあえずここ数年としては仕方がないだろう。これを、数年後の自分が読んで、何らかのヒントにできたらいい。
それでもって、これまた、先日の「仲間」が欲しいという記事と繋がるけれども、この、少々得体のしれない問題について、一緒に取り組んで解決できる人がいたらいいなぁということである。
といっても、すでに、師匠とか仲間(勝手に僕が認定している)がいるから、とても恵まれているのである。
この生きる世界は、生き物を殺してご飯を食べて排泄して、寝て起きて、人を傷つけ助けて、友人や家族と笑ったり憎んだり、そういった尊い営みの繰り返しである。
僕も、普通の人間なので、そういった営みの繰り返しの中に生きているわけであるが、そのすべての行為行動言動の中で、根底にあるのが、その「問題」であるということである。
(かっこ書きである。次回、ある、プロの企業研究家の記事を読んで思ったことと、今回の記事の「信念や目標について」と関係する部分について取り上げ、さらにこの「問題」について表現することを試みたい。ちなみに、メインタイトルの「没入することしか生きる道がないのか」ということについて、結局全然触れられなかった。簡単に答えを書くと、上にかいたような「日々の営み」が人生そのものだ(没入する)ということを、僕は認められない、ということだ。「いいことも、悪いこともあるのが人生だよね!」とかっていう、甘ったれたクソつまらねえ格言じみた、訳知り顔で語り散らかす思想や考えなど、俺は認めない、ということだ。そんなんだったら、さっさと自殺した方がましだ。人生に意味はある、絶対にだ。――そう信じたいだけかもしれない、それでも、こればかりは、信じるしかない)
今日の一言「習慣って怖いなぁ」
書かないと、その、落ち着かないというか、変な感じ。このフワフワっとした感じを乗り越えて、自然に何も考えずに行動できるようになってくると、「習慣」と言えるようになる。
自分の行動を制御するというのは、結構面白いことだなと思う。それを是非成果に結び付けたいものだ。
という、その「成果」というのが、たとえ、自己満足だろうが何だろうが、例えば、グラフ化して示すとか、そういうものでも、「目に見える成果」なのであり、行動付け、ルーチン化するには有効であるといえるだろう。
さて、昨日の「目標」の話。
というテーゼ。「目標が大切」ということについて、あまり批判はないのではないか。
ただ、ここでいう目標というのは、できるだけ、長いスパンのものである。
「明日はこうしよう!」
というのも、目標といってよいが、しかし、短期目標は、往々にしてその場限りである。一日一日を乗り切る、という意味では重要ではあるが、それらは、「その場限り」の生活になってしまう。
それでは、人生を本気で楽しむことはできないと思っている。何故ならば、24時間いっときも、どんなときも、必ず「快感情」を生じさせ続けることはできないからである。人生は浮き沈みが激しいものだ、という意見にも、批判はあまりないだろう。つまりそういうものなのだ。いいことあったら悪いこともあったりする、そんなもんである。
そういった人生というものであったとき、「その場限り」の目標だけでとどめてしまうのは、かなりリスキーな生き方だと僕は思う。だから、長期的な、より長い目標が必要だと思うのだ。それを、言い換えれば、「信念」や「自我」といってもよいかもしれないと思う。
「子供の成長」
といったのは、日々人生に新たな刺激を与えるものであり、「目標」なるものが、天啓のように与えられるのである。
恋人との甘い生活でもよいし、スポーツに熱狂するのもよい。
それらは、「目標」を受動的に与えてくれる装置だ。
でも、本来、そういった「装置」に頼らなくても、目標というのは自ら創造し、生み出すことができるものだと私は思っている。
つまりだ、僕は、目標自体を創造したいのである。与えられた目標をこなすのも大事だけれども、自分自身で目標を創りあげて、その中で精一杯生きてみたいのである。
その結果は、失敗だろうが、成功だろうが、きっと充実して、楽しいものに違いないと思うのだ。
だから、なんだか、ずっと、得体のしれない違和感が、つきまとっていたのかもしれない。なんか、「ズレ」を感じるな、というのは、そもそも、解釈が間違っていたのかもしれない。
目標は目指すものではなく、到達するものでもなく、PDCAサイクルでブラッシュアップするものでもなく、ただ――自ずから、創り上げるものだったのか。
そう考えると、これまでの考えや、感情というものの解釈も、変わってくるかもしれない。これは大きな気付きかもしれない。
眠い。終わり。――と13分ぐらい。
(かっこ書きである。眠い。眠いけど、睡眠よりも書くことを優先させた。創作ルーチンも進めた。むっちゃくちゃ豪放磊落な人物を描きたくなって、書いていた。メールとか返せていない。今度の飲み会の場所も探さなきゃ。ストレンジトゥエルブも読まなきゃ、某氏のブログに舞い戻れない。これはつらい。仕事が終わんねー。本読まなきゃ。ああ、もう、眠い。筋トレしなきゃ、お風呂はいんなきゃ。時間が――ない、わけではなくて、つくれていない。それは偏に能力の低さである)
取り敢えず書く
もう、ルーチン、免除規定なのだけど、書く。書かないと、その、落ち着かないというか、変な感じ。このフワフワっとした感じを乗り越えて、自然に何も考えずに行動できるようになってくると、「習慣」と言えるようになる。
自分の行動を制御するというのは、結構面白いことだなと思う。それを是非成果に結び付けたいものだ。
という、その「成果」というのが、たとえ、自己満足だろうが何だろうが、例えば、グラフ化して示すとか、そういうものでも、「目に見える成果」なのであり、行動付け、ルーチン化するには有効であるといえるだろう。
さて、昨日の「目標」の話。
目標を立てるのは何故重要なのか
人生を楽しむためには、目標が必要である。というテーゼ。「目標が大切」ということについて、あまり批判はないのではないか。
ただ、ここでいう目標というのは、できるだけ、長いスパンのものである。
「明日はこうしよう!」
というのも、目標といってよいが、しかし、短期目標は、往々にしてその場限りである。一日一日を乗り切る、という意味では重要ではあるが、それらは、「その場限り」の生活になってしまう。
それでは、人生を本気で楽しむことはできないと思っている。何故ならば、24時間いっときも、どんなときも、必ず「快感情」を生じさせ続けることはできないからである。人生は浮き沈みが激しいものだ、という意見にも、批判はあまりないだろう。つまりそういうものなのだ。いいことあったら悪いこともあったりする、そんなもんである。
そういった人生というものであったとき、「その場限り」の目標だけでとどめてしまうのは、かなりリスキーな生き方だと僕は思う。だから、長期的な、より長い目標が必要だと思うのだ。それを、言い換えれば、「信念」や「自我」といってもよいかもしれないと思う。
目標の受動装置
例えば、「子供の成長」
といったのは、日々人生に新たな刺激を与えるものであり、「目標」なるものが、天啓のように与えられるのである。
恋人との甘い生活でもよいし、スポーツに熱狂するのもよい。
それらは、「目標」を受動的に与えてくれる装置だ。
でも、本来、そういった「装置」に頼らなくても、目標というのは自ら創造し、生み出すことができるものだと私は思っている。
つまりだ、僕は、目標自体を創造したいのである。与えられた目標をこなすのも大事だけれども、自分自身で目標を創りあげて、その中で精一杯生きてみたいのである。
その結果は、失敗だろうが、成功だろうが、きっと充実して、楽しいものに違いないと思うのだ。
ゴールではなくクリエイト
そうか目標は到達するものではなく、創り上げるものだったのか。だから、なんだか、ずっと、得体のしれない違和感が、つきまとっていたのかもしれない。なんか、「ズレ」を感じるな、というのは、そもそも、解釈が間違っていたのかもしれない。
目標は目指すものではなく、到達するものでもなく、PDCAサイクルでブラッシュアップするものでもなく、ただ――自ずから、創り上げるものだったのか。
そう考えると、これまでの考えや、感情というものの解釈も、変わってくるかもしれない。これは大きな気付きかもしれない。
眠い。終わり。――と13分ぐらい。
(かっこ書きである。眠い。眠いけど、睡眠よりも書くことを優先させた。創作ルーチンも進めた。むっちゃくちゃ豪放磊落な人物を描きたくなって、書いていた。メールとか返せていない。今度の飲み会の場所も探さなきゃ。ストレンジトゥエルブも読まなきゃ、某氏のブログに舞い戻れない。これはつらい。仕事が終わんねー。本読まなきゃ。ああ、もう、眠い。筋トレしなきゃ、お風呂はいんなきゃ。時間が――ない、わけではなくて、つくれていない。それは偏に能力の低さである)
今日の一言「ストレンジトゥエルブ面白い」「ナイツ&マジックも面白そう」
はい、その、カウントダウンタイマーで厳密に15分はかってみることにしました。
とりあえず、無料で見れたのは1話だけだったので、続き見るかは保留。
とりあえずこれもメモ。
その、なんだ、目標の話だ。
ということで、
ブログは書くのは何故か? →仲間を求める心性だ!
という話から派生したのであった。
どう派生したのか? それは、ブログ=仲間という方程式が成り立つことは間違いないとして、では、私は、その「仲間」というのを、どういった方向性で想定しているのか? ということを考えたわけである。
そしたとき、そもそも、このブログのテーマは、「どう生きるか」ということであって、もっと書けば、「素晴らしい人生を送るためには」「わが人生にいっぺんの悔いなし」的な感じを得るにはどうしたらいいか、という問題提起である。
そこに、僕は、「絶対に目標は必要である」というテーゼを置く。これは、「目標はあったほうがいい」というレベルではなく、あるべきだ、というものである。
何故か?
例えば、「いやいや、どうせ死ぬんですから、人生楽しんだ方がいいッスよ。目標なんて、かたっくるしいこと考えっこなしッス。うぇーぃ」という人もいるだろう。
しかし、そういったものを含めて、僕は、「目標」と呼ぶ。
楽しきゃおっけいーうぇーいの人も、――いやむしろ、そういったひとたちは、すでに人生の目標……ひいては、目的を得ているといえるのだ。
そこに問題があるとしたら、「目標や目的を無しとする目標や目的」という状態が、10年……50年、臨終、といったときに、それで良かったと思えるかどうか、その点のみである。
僕は、死に瀕して、「ああ、俺の人生って何だったんだろう?」なんて思うことが、一番悲劇だと思っているわけである。
そんな可能性があるとしたら、今、一時の快楽を我慢することなど、全然苦にはならないのである。
人の一生……といっても、その言葉が表す状況や、各々がイメージするものは異なる。
例えば、「時間」という概念。これは、「時間は誰にでも平等である」ということが言われたりするけれども、実は、その概念も人が作り上げたものである。もう少し卑近な例で行くと、時間の感じ方は文化によって違うとかいう、そんな話である。
もう一つ、「人生」や、今わの際、とかいったって、急逝する可能性もあるのだから、そんな、死ぬときのことなど考えるのは無意味だ、という考えもある。
それもまた事実である。
それらをひっくるめて、全状況として、「自分……
――時間切れ。
(かっこ書きである。エディタ起動してからいろいろで、15分、いやぁ短いなぁ。まずそもそも、ナイツとストレンジは予定外であった。あと、創作ルーチンで、意外に書き進んでしまったことが今日という日がひっ迫した原因であった。一気に書けるときはあるんだなぁ。しかしこう、自分で書いている最中に他の物語に当たるのは、あんまり良くないかもしれない。オンラインゲーム症候群的な意味合いもあれば、書きたいことが分からなくなったりブレちゃったりする可能性もある。行き詰ったときはいいだろうけれども。ええと、それで、次回。結局、なんで目標立てなきゃいけないの? ということが書き切れていない気がする。というよりも、「目標が大事」なんてことは、誰もが何の疑問ももっていないことで、書く必要性がないのでは? という疑問ももっともである。ただ、そりゃあ、個々具体的な「生き方」において――例えば仕事とか、恋愛とか――目標ないし戦略戦術が大切だなんて、分かりきっていることだろう。ただ、僕が書いておきたいというか、念頭に置きたいのは、そういうレベルなんじゃなくて、金言というか、モットーというか、「信念」的なのをもつべきではないか、という提起である。そういう意味で、「目標」というよりかは、「自分がどんな状況でも貫き通したいという生き方」を、持つべきではないか、といったことを表現したいわけである。それは言い換えれば「自我」といったりするわけであるが……と、とにかく強制終了、次回にする)
15分スタート
えーその、画像はって、タイトル買いて、ここまでで一分経過。はい、その、カウントダウンタイマーで厳密に15分はかってみることにしました。
ナイツ&マジック
1話アマゾンで無料で見れたので、見てみました。映像がきれいでよかった。転生モノで、世界観など、真新しさはあまりなかったけれども、キャラクターが何となく好き。主人公の友達になる子たちはあんましビビッとこないけれども、主人公の屈託のなさ(ロボットにあこがれる純な心とその努力行動力)がよかった。でも、なんか、「生涯の友となることを、まだ知らなかった」とかなんとか、ナレーションがイマイチ。こう、第三者視点で語られるのが、あんまり好みじゃない。かといって、必ずしもダメかというとそうでもなくて、このあたりもう少しちゃんと書きたい。とりあえず、無料で見れたのは1話だけだったので、続き見るかは保留。
ストレンジトゥエルブ
AA小説、みたいなジャンル? なんだか面白かった。まだ2話しか読んでいないけれども、続きが気になる。とりあえずこれもメモ。
残り10分
えー焦る。その、なんだ、目標の話だ。
僕はやはり目標がないとダメなようだ――というのは、そもそも、その行動や生き方自体が、目標がなければ、「よいのかわるいのか」自体が、自分自身判断ができないからである。……と長くなりそうだので、その「目標の必要性」といった内容を次回
ということで、
ブログは書くのは何故か? →仲間を求める心性だ!
という話から派生したのであった。
どう派生したのか? それは、ブログ=仲間という方程式が成り立つことは間違いないとして、では、私は、その「仲間」というのを、どういった方向性で想定しているのか? ということを考えたわけである。
そしたとき、そもそも、このブログのテーマは、「どう生きるか」ということであって、もっと書けば、「素晴らしい人生を送るためには」「わが人生にいっぺんの悔いなし」的な感じを得るにはどうしたらいいか、という問題提起である。
そこに、僕は、「絶対に目標は必要である」というテーゼを置く。これは、「目標はあったほうがいい」というレベルではなく、あるべきだ、というものである。
何故か?
例えば、「いやいや、どうせ死ぬんですから、人生楽しんだ方がいいッスよ。目標なんて、かたっくるしいこと考えっこなしッス。うぇーぃ」という人もいるだろう。
しかし、そういったものを含めて、僕は、「目標」と呼ぶ。
楽しきゃおっけいーうぇーいの人も、――いやむしろ、そういったひとたちは、すでに人生の目標……ひいては、目的を得ているといえるのだ。
そこに問題があるとしたら、「目標や目的を無しとする目標や目的」という状態が、10年……50年、臨終、といったときに、それで良かったと思えるかどうか、その点のみである。
僕は、死に瀕して、「ああ、俺の人生って何だったんだろう?」なんて思うことが、一番悲劇だと思っているわけである。
そんな可能性があるとしたら、今、一時の快楽を我慢することなど、全然苦にはならないのである。
人生とは
とはいえ、僕が上に書いているのは、あくまで、概念上の「人生」というキーワードに過ぎない。人の一生……といっても、その言葉が表す状況や、各々がイメージするものは異なる。
例えば、「時間」という概念。これは、「時間は誰にでも平等である」ということが言われたりするけれども、実は、その概念も人が作り上げたものである。もう少し卑近な例で行くと、時間の感じ方は文化によって違うとかいう、そんな話である。
もう一つ、「人生」や、今わの際、とかいったって、急逝する可能性もあるのだから、そんな、死ぬときのことなど考えるのは無意味だ、という考えもある。
それもまた事実である。
それらをひっくるめて、全状況として、「自分……
――時間切れ。
(かっこ書きである。エディタ起動してからいろいろで、15分、いやぁ短いなぁ。まずそもそも、ナイツとストレンジは予定外であった。あと、創作ルーチンで、意外に書き進んでしまったことが今日という日がひっ迫した原因であった。一気に書けるときはあるんだなぁ。しかしこう、自分で書いている最中に他の物語に当たるのは、あんまり良くないかもしれない。オンラインゲーム症候群的な意味合いもあれば、書きたいことが分からなくなったりブレちゃったりする可能性もある。行き詰ったときはいいだろうけれども。ええと、それで、次回。結局、なんで目標立てなきゃいけないの? ということが書き切れていない気がする。というよりも、「目標が大事」なんてことは、誰もが何の疑問ももっていないことで、書く必要性がないのでは? という疑問ももっともである。ただ、そりゃあ、個々具体的な「生き方」において――例えば仕事とか、恋愛とか――目標ないし戦略戦術が大切だなんて、分かりきっていることだろう。ただ、僕が書いておきたいというか、念頭に置きたいのは、そういうレベルなんじゃなくて、金言というか、モットーというか、「信念」的なのをもつべきではないか、という提起である。そういう意味で、「目標」というよりかは、「自分がどんな状況でも貫き通したいという生き方」を、持つべきではないか、といったことを表現したいわけである。それは言い換えれば「自我」といったりするわけであるが……と、とにかく強制終了、次回にする)