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やる気がわかない最近のメモ
2017/11/29 23:14 | Comments(0) | イライラ対処
今日の一言「やる気が起きない」「この記事は何のオチもないだろうつまらないだろう」

面白いことがない

 ある方が、「充実感は必ずしも必要ではない」と仰っていた。
 僕は、充実感はあった方がよいと思う。が、今は、それどころか、そもそも、面白いと思うことがない。意欲がわかない。やる気が起きない。空虚である、無気力である……。

 ……といった表現も適切かどうかわからないほど、何だか感覚がない。

 先日車内トラブルに見舞われて少々痛い思いもしたため、怒りというかイライラは高まった。
 おいしいごはん食べたり、疲れてお布団にザバッと倒れこむのは気持ち良かったりする。

 いろいろと、感情はあると思う。だから、僕は正常だ。……という言葉自体むなしい。



 善い人になりたい。
 ――というのとおなじぐらい、「せいじょう」という言葉もまた空虚である。空しい。

 言葉が虚しい。

 感覚が虚しい。

好きな女性ということ

 僕に好意を示してくれる女性が二人ほどいる。
 一緒にご飯を食べたり、遊びに行ったりしている。

 楽しいし、よい人だなぁとも思う。

 ただ、それが、「好き」ということなのかというとよく分からない。
 好きという気持ちがよく分からない。分からなくなった? そもそも最初から分かっていない?

 その、なんか、「最近の若者は、自分から女性に告白をしなくて、相手から告白されるのをひたすら待っている」といった言説も聞いたり読んだりする。僕も、はたからみたらきっとそういう存在に思われるのだろうけれども、僕は本当に付き合いたいとか思ったら特に躊躇いなく告白する。

 結婚したことがあるということで、そういう女性との付き合い方とか、コミュ能力あるんでしょ、みたいに言われることもある。誤解である。告白してダメだったり、何度もふられたり、そもそも相手にされなかったり、いろいろである。いろいろやってみた中で、成功したこともたまたまあるというだけである。

 努力したのである。

 努力家なのである。

 継続することは得意なのである。

 頑張ることはできるのである。



 ――それらがいま、反転して僕の様々な意欲を、やる気を、動機を奪っている。そんな気がする。

頑張れば何でもできるの幻想

 努力は大切だ。
 しかし、頑張れば何でもできる――というのは嘘である。頑張れば、「それなりに」「その人にあった程度に」できる、のである。

 だからこそ、だれにとっても努力は必要なのであるが、しかし、同時に、心身に不相応な欲求は叶わない。

 ――同時に、その「不相応な」といったレベルは、誰も分からない。勝手に自分で線を引くだけである。しかし、その線……できることレベルは、時間の経過とともに低くなっていく。減っていく。

 キャリアアップとか、投資の増大とか、逆に時間経過とともに増やすことができるものもあるではないか? と思われるだろう。それはそうだ。ただ、僕が言いたいのは、「無限の可能性」的な意味においてである。

 優れた科学者は、更に偉大な研究をするかもしれない。ただ、野球選手として大成する可能性は、小学校の頃よりは少ないはずだ。そんな、当たり前のことを言っているに過ぎない。こういった例であれば誰しも頷くだろう。

 つまり、可能性の深さは深まる可能性はあるが、可能性の幅は狭くなっていくということである。

 逆に、大人になるというのは、その可能性の幅をおのずから狭くして、「俺が(私が)生きる道はここだ」と、胸を張っていえるようになることだ。

「何者でもない」うちは、いくらお金を稼いでいても、結婚していても、顔が老けていても、子供なのだ。

仕事が忙しいのもある

 働き始めて、2年目から3年目ぐらいが、ものすごく忙しかった気がする。泊まり込みで……みたいなことも何回かあった気がする。
 それと比べると、まぁ、知識や経験も増えたし、そこまでは遅くまでなることもあまりないため、忙しくないといえるかもしれない。

 でも、精神的な疲労は今も相当感じている。土日が休みだったりするが、半分は体を休めるのに使って、半分は精神を休めるのに使うような感じだったりする。
 土日に遊びの予定などはいると、体も精神もあまり休めないまま一週間が始まる、といった感じ。




 何もしたくない、ということをしたい、といった感じ。

 何もしたくない。

 ごはん食べるのも、なんか惰性で動いている気がする。



 疲れたとか、面倒だとか、そういった言葉が、適切なのかも分からない。

それでも文字おこしするのは何故?

 何もしたくないといいながら、何故ブログを書いているのか。記事を書いているのか。

 僕が唯一、今、価値を認めていることだからだ。

 ブログを書かなくても、まぁ、お菓子食べたり、ウォーキングデッド見たり、LINEしたり友人と話したり、まぁいろいろやるのである。
 なんか、やる気が起きないなぁと思いながらも、何かやってるのである。

 でもそれは、なんかすり減っている気がするのである。

 寝る、ということすらそうだ。
 土日で、昼過ぎまで寝ると、まぁ睡眠はとれた気がする。けれども、結局体がだるいし、時間を無駄にした感で気分も悪くなるのである。


 唯一、悪循環にならない、唯一罪悪感を感じないこと、それが、「書く」ことである。
(でも、今はその、書くことも非常につらい……というか、面倒というか、やめてしまいたいと思っているが)

 たいてい僕は、面白くないことだったり、ためにならないことだったり、くだらないことだったりを書いているけれども、基本、楽しいから、書きたいから書いている。
 今は違う、と書いておこう。今は、書くのも特にやりたくないのだ。

 でも、書いている。それはきっと、僕が、明日の自分に許してもらえるからなのだ。


(かっこ書きである。――ので、こういう無気力期間がやってくるので、「ルーチン」が必要なのである。ルーチンは、もはや、体の一部である。心の一部である。どれほど調子が悪かろうと、意欲がわかなかろうと、無意識であっても行動できる――それがルーチンだ。意識してルーチンをやってるうちは、まだ、最終形態ではない。1か月ぐらい続けられたら、十分、その調子で長期間続けられる可能性が大きくなるが、突如訪れる無気力感によって、簡単に崩壊してしまうものである。ルーチンという横文字使ってかっこ悪いが、要は、習慣化、ということである。んで、その習慣化というのが、大人になるにつれ、難しくなる。それが可能性の幅を縮める原因でもある。でも、可能性の幅が小さいのが大人の特徴でもあるので、それはそれでよい。つまり、子供のうちに、良い習慣をたくさん身に着けていた方が、大人になってからも有利だ、ということだ。別に習慣というのは、筋トレとかそういったものだけではない。ポジティブなモノの考え方とか、あいさつやありがとうごめんなさいをちゃんと言えるだとか、そういった目に見えにくい習慣というのもある。ので、「考える力」なんてものより、十分な習慣を身に着ける教育の方が大事だ――みたいなことをいって、「いややっぱり考える力が必要だよ」みたいな論争というか意見交換をある方としたのも最近だったような気がする。ま、その、「良い習慣」というものじたい、社会環境や時代によって変わったりするから、それを見定める力、見出す力として「考える力」というのは大切だとは思う。けど、そんなもん、子供にわかるはずないのだから、教育という視点でいけば、まずは優先すべきは、習慣化であると考えている。ってまぁ、そんな他人のことはどうでもいいのである。まずは、俺が、自分が、どうやって、なんで、なんのために、なにをするのか、ということだ。――知らん。とりあえず風呂入って寝る。あぁ……PSVITAも買ったのに全然やってないし、なんかいろいろやる気が起きない)

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一呼吸つけた
2017/11/25 23:35 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「休日がとても大切」

何もしない時間が必要

 友人との飲み会をぶっちした。ぶっちってなんだろう。さぼり、という意味。行けるけれども行かなかったという意味。
 しかし、少し落ち着いて考えてみる。飲み会に行くことで、時間が使われる。何かを行うという時間だ。それを行うことで、精神の落ち着きが取れなくなるとしたら、それは「ぶっち」なのではなくて、正当な「行けない理由」ではなかろうか。

 つまるところ、何に時間を使うかは、自由である。

 この自由は、とても素晴らしいものだけれども、時に、自由には「責任」が伴うので、その自由自体が重いものになる。
 飲み会に行けなかった……のではなく、会社の強制参加の飲み会のように、絶対に行かなければならないようなものであれば、「ああ、面倒くさいなぁ」と思いながらも、その結果生じること(例えば、体調が悪くなったり、精神的に落ち着かなかったり)の責任は、自分にはない。何せ、選択ができなかったからである。

 一方。行くも自由、行かないも自由だったときに、その責任をかぶるのは、自分一人だ。

お金について

 友人と遊ぶのも自由。
 恋人をつくるのも自由。
 仕事をするのも自由。

 本当にそうか?

 たぶん、そうではない。自由の幅は、過去専制君主時代に比べれば広がっていても、自然や社会の中で人が生きるのであれば、その自由は必ず制限される。

 その制限される自由の幅は、資本主義社会であれば、「お金」というツールによって広がったり狭まったりする。

 一般的、卑近には、お金は欲求を満たす手段である。よい寝床も、よい食事も、よい異性もお金がないと手に入らない。
 しかし、お金の価値は三つあるといわれるが、そのうちの一つは、「価値を保存できること」である。
 欲しいものなんて、そうそうすぐには生じない。必要なものなんて、すべて理解しているわけでもない。
 突然必要になったり、欲しくなったりする。その際に、手に入れられるかどうかの選択の幅を広げてくれるのがお金だというわけだ。

 だから、お金は、あればあったほどよい。

人脈について

 お金は目に見えるから分かりやすい。
 では、俗に言われる人脈というものはどうか。

 確かに、人は一人では生きていけないので、助けてくれる人は多いほうが良い。ビジネスをするにあたっても、初対面の人よりも、顔見知りの方が頼みやすかったりする。

 だから、人脈もあればあったほうだけよい。

有限性と将来性について

 お金も、人脈もあればあった方が良い。

 では、幸せはどうか?

 幸せもあればあった方が良い。理由はない。幸せという言葉の定義は、「あればあったほうだけ」豊かであったり、うれしかったり、気持ち良かったりするものだからだ。そういう定義なのである。そういった概念なのである。
 だから、幸せを求めるのは自然なことである。

 問題は、その幸せという言葉の「中身」である。

 幸せがよいか、不幸がよいかという問いの立て方は無駄である。
 しかし、一方、生きることがよいか、死ぬことがよいかという問いは無駄ではない。
 生きる意味を考えるべきか、考えないほうがよいかというのも無駄ではない。

 そういったすべての上に立つのが、「幸せ」という言葉である。

 ――だから故に、幸せについて考えることは無駄である。

 もっと簡単に書けば、幸せについて考えることは無駄である。何故なら、幸せであるしかないからだ。幸せでなければ失格だ。失敗だ。間違いだ。

 だから、選択を迫られたとき、難しく考える必要はない。その選択が幸せであるか、そうでないか、それだけを考えればよい。

 ところが、有限性の中では、その選択が正しかったかどうか、その判断ができない可能性がある。
 10年先の選択としては正しかったことが、5年先で方向転換を余儀なくされたとしたら、その選択は失敗だったことになる。

選択の難しさ

 何故選択することが難しいのか。
 判断基準は、「幸せ」であるかどうか、だけである。それなのに、何故?
 その理由は、選択が、「いま・このとき」のためだけにあるものではないからだ。

 人間が、抽象的な言語を使用するようになったこと――いいかえれば、抽象的な言語を使えるから人間だともいえるが、それゆえに、人は、「未来」を想像することができる。


 何故人は悩むのか。

 未来があるからだ。

 未来がなければ、選択など簡単である。いま、このとき、瞬間における幸せを選び取ればよいだけである。

 しかし、理想的な身体を手に入れるため、病気にならない健康な体を手に入れるため、食事制限したり、ダイエットしたり、筋トレしたりするのである。それ自体は、「いま・このとき」の幸せの放棄である。諦めである。



 何故物語を書くのか。
 手っ取り早く、だれかほかの人のつくった物語に興じればよいではないか。ゲームやアニメ、ドラマや映画、様々なエンターテイメントがある。

 自分の頭で考えるのはとても大変だ。
 それは、未来に、楽しい面白い物語をつくれたときの、だれかほかの人を楽しませられた時の未来の幸せを求めているからだ。

何もしない時間

 テレビも、人との会話も、勉強も、仕事も、睡眠も、全部やめてしまって、何もない時間が欲しい。

 実は、そんな時間がとても貴重なのだ。

 何もない時間。

 何も考えなくてよい時間。

 何もしなくてよい時間。

 ただ、あったかい部屋で、コーヒーと少しの甘いものをつまみ、椅子に深く腰掛け、外の流れる雲を見つめる。ゆったりとした音楽と、風のそよぐ音が耳をかすめていく。
 そんな時間がとても素敵だと思う。

 古い一軒家の縁側に座る老人のようか。

 何も生産しない時間。

 一般には無駄だといわれるような時間。



 僕は、何か、「目的」や、「目標」なるものを目指して、――いや、目指さなければならないと思っていた。いや、今も思っている。

 ただ、それは何らかの「もの」や「こと」なのではなくて、むしろ、「なにもないもの」や「なにもないこと」なのかもしれない。


 努力すること、頑張ることというのは、何かを手に入れるための手段である。
 僕は、それにどうしても本気になれないでいる。

 それは、本当に欲するものではない気がしているからだ。

 でも、少し考え方を変えて、「なにもないもの」を求めるための努力であれば、もう少し本気になれるかもしれない。

なにもないものと死とは違うのか

 何もしないことをよしとするなら、それは死人と同じではないか。

 しかし、何かに対して感動すること……その、ゆったりとした時間に身体をまかせるということ、それ自体は決して、死人とは違う。

 無であるが、無ではない。――四句否定、テトラレンマ。

 

 しかし、今のように、凪のような心でいられない時間帯もある。
 こういうときはどうしたらよいのか。酒だ、酒をもってこい。
 昔、10年くらい前に、発泡酒というか、第三のビールというかを飲んだ時は、まずいな、と思った。最近は、確かに普通のビールとの違いは分かるけれども、発泡酒とかも、これはこれでおいしいなと思う。それで100円ぐらいなのだから、安い。
 ちなみに、第三のビールは、「リキュール」って書いてあるとそれらしい。発泡酒とは違うらしい。難しいね。

 でも、なんでアルコールが必要なのか。別においしい果物ジュースでもよいのではないか。

 僕もそう思っていた。けれども、やっぱり、アルコールがあると、気分がよくなるのである。「お酒飲んでる感」があるのである。これは何故なんだろうか。

 気持ちをリセットするのに、お酒が必要なんだろうか。そういう意味で、タバコを吸う人も同じなのだろうか。――またしても極論だが、煙草も麻薬も、その違いはあんまりないと思ってる。違いは単に、体への悪影響さだろう。

 鎮静剤だって、使い方を誤れば毒になる。薬と毒の違いもあんまりない。益虫も害虫も、「人にとってどうか」という判断のもとに下された区別だ。

どうでもいいことを書いているのは気分が良い

 ああ……ほんと、どうでもいいな。
 だから何だって話だ。

 でも、この「どうでもいい」という気持ちがわいてくると、すぐに、生きていること自体も、そんなに意味があるようには思えない。

 だから逆に、この「どうでもいい」ことを大切にしたいと思ったりする。

 役に立つこと、無駄なこと、有益なこと無駄なこと。効率が良いこと悪いこと。

「良いこと」

 が、よいことだとみんな思っている。僕もそう思っている。でも、良いことを求めても、きっとそれはイコール、幸せではないと思っている。

 何度も書いているけれども、良いことと悪いこと……その区別が、そもそも問いとして無意味だ。

 幸せという概念は、ただそれ自体が良いものである。
 良いという概念は、ただそれ自体が良いものである。

 良いものがよいか、悪いものがよいかという問いは無意味である。良いものは良い。ただ、その「良い」の中身は分からない。


 中身。

 そう考えていけば、まさに、中身なのである。つまり、抽象的な思考は無意味である。

 演繹的に、最高の真理からトップダウン的に生き方を示すなんて、無理なのだ。

 漸進的に、失敗しながら、調整しながら、それでも良い方向性を探しながら進んでいく。それしかないんだ。


 そうなんだ……、なんか、すごく憂鬱である。


(かっこ書きである。憂鬱な理由は次回記事に書こう。ウォーキングデッド見進める。退屈な部分も多いので早送りしながら見る。これ、ゾンビじゃなくてもよい気がしてくる。つまりが、世界というルールがなくなった場合の男女というか、社会集団のあり様を表現した作品だと思う。ゾンビはわき役である。社会ルールがなくなったとき、人はどう行動するかという社会実験である。保安官のリックさんは、道徳の化身。善というのは、時に現実と矛盾する場面に出くわす。そんな中、家族と仲間と道徳と、そのはざまで悩むリックさんの決断は時に遅く、イライラさせられたり、逆に不条理に思ったりするけれども、こういう人がリーダーじゃないと人間集団って上手く機能しないのかもしれないなぁと思ったり。一方、同じく保安官のショーンさんは、「合理的」の化身。仲間も、必要に応じて殺しちゃう(ゾンビの囮として見殺しにしちゃう)。その行動は時に短期にうつったり、非情にうつったりするけれども、極限状態で悩んでたら自分が喰われちゃう。まぁ仕方がないかなぁと思ったりする。その結果よいほうこうに事が運んだりもするし。でも彼がリーダーになったら、きっと弱肉強食的なモヒカン的世界になるんだろうと思う。『暴力の人類史』を読んで面白かったのは、その、強いものが支配するという構造に、人間集団は必ずしもならなかった、という点である。その理由について、「それがまた一方で合理的であった」からだという説明は、納得しそうで、ちょっと腑に落ちない部分もあるけれども、でも面白いと思った。人間としての尊厳という言葉や、命の尊さって言葉が、なんか空虚に感じることがあると思う。平和が大切とみんな知ってるはずなのに、ナショナリズムは横行して、テロリズムでまた中東の方で何百人が死んだとかニュースが流れる。それでも、人は、「正義」ってものを信じられるんだろうか。――いや、ここで正義という言葉を持ち出すのは不適切だ。テロリズムもまた、その集団においては正義だったりする。そうでなければ、多くの人は、顔をみたまま人を殺せるようには生物的にインプットされていない(と信じたい)。人の顔には、「汝殺すなかれ」という表現が組み込まれているといったことを、何かで読んだことがある気がする。だから、スイッチ一つで何万人も殺せるような装置はやっぱり危険だと思う。面と向かって人を殺すというのは、やっぱり、特殊な訓練が必要だと思う。漫画やアニメの登場人物が逡巡するシーンに、「え、なんでそこで躊躇うの?」と疑問に思うことは多いけれども、まぁ、覚悟や経験がなければ仕方がないと思うし、それが人間として普通だとも思う。……ってなんの話だ? リアリティの話である。ウォーキングデッドのある生存者の家長は、ウォーカー(ゾンビ)を、病人だとして、頭を打ち抜いたりぞんざいな扱いをすることを禁じている。それが危険なことだと周囲から言われても議論をする気もない。信じていたのだ。ウォーカーは、ただの病気だと、必ず治るものだと……妻を救えるものだと。それは、視聴者からみたら滑稽な選択で考えで、愚かともうつるが、しかし、それはまた彼にとって真実で、むしろそれがなくなったら、彼は生きる意味を失うだろう――と思っていたら、シーズン2の何話かで、やっぱり酒浸りになってしまった(かっこ笑い)。まぁその、……生きるって大変だよな)


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タイトル考える時間すらもったいない
2017/11/21 23:37 | Comments(0) | イライラ対処
今日の一言「でもあえて言おう。指が重い、疲れた」「この記事では『疲れた』が頻発するため、ネガティブを完璧に排除すべきという思考体系をお持ちの方は読まない方がよい」

この疲れたことの表現を

 その、ツイッターとか、一昔前のSNS(ミクシィ)なんかだと、「疲れたー」といった一言の記事が投降されたりする。アメーバブログも、なんだかそういった傾向がある気がするのは偏見かもしれない。

 そういった短い記事に、僕は価値を見出せないのである。
 長くないと、ダメだ。

 それも、「疲れた疲れた疲れた」などと、コピペですむような奴はだめだ。しっかりと異なる表現で、それでいて、意味は破綻していなくて(論理的である必要などはない。ただ、そこに何らかのつながりがなければ、A.I.でなくても、単語の組み合わせと乱数を使えば簡単に「会話もどき」マシーンが作り出せるだろう)。


 しかし、今、僕がこのブログにおいて、この記事において表現「したい」ことといえば、「疲れた」という3文字になるだろう。

 どんなに頭をひねって、雅な言葉をつむぎだそうとしたとしても、その「テーマ性」は「疲れた」なのだ。

 それはどんだけ面白くないことだろうか。

夢をみた

 昔の、夢だった。夢とは、夜に見る奴のほうだ。「将来の夢」的なのではない。
 知人と、女性関係の話について語っていたので、その影響だろうか。
 起きてから、いやな気分になった。

 その夢の内容が良いか悪いかと言ったら、悪くはなかった。
 けれども、基本的に夢とは、良いものではないと思う。その夢が「良いもの」であろうが、「悪いもの」であろうが、それは「夢」であり、虚ろであるため、現実ではなく、いざ目が覚めて現実に戻った時、それは一概に虚しさを与えるのである。

 その一時の快楽について、「ああよかった。気持ちよかった」と満足できる人は幸いである。
 そういった人こそ、本当の悟りを得ているのかもしれない。


 何の話だ?

キノの旅

 お、アマゾンプライムで、キノの旅のアニメの新作やってるじゃないか。旧作はあるのを見つけて、時間をみつけて少しずつ見ていた。
 この作品は好きである。喋るモトラド(バイク)と旅人キノが、いろんな、変な……特徴のある国を旅をして、いろんな人と関わっていく。なんやかんや、ライトノベル的なのを初めて読んだのって、この作品だった気がする。

 お、前からある方が語っていて気になっていた、マジェスティックプリンスも出てるじゃないか。こりゃ「いぬやしき」なんてみている場合じゃねえ。でもキノの旅は気になる。

書かねばならぬ

 ところで、もう今すぐ寝たいぐらい眠い。
 目があまり開いていない。
 でも、書いている。何故か? はたからみたらお馬鹿さんである。でも、僕は、これが今すべき最重要課題であると認識している。

 書くことが。
 いただいたラインによるメッセージや、同窓会の案内に対する回答、友人グループからの忘年会の誘いへの回答、など……それら、現実におけるプライベート的なすべきことよりも、こうやって書くことが優先だというのか?

 そうだ、と僕は、その点は自信をもって言う。この判断は間違っていない。その根拠は、「これまでそうだったから」だ。つまり経験である。それも個人的な。だから、誰にでも当てはまるわけではない。そんなこと書き残して何になる? さぁな。でも、この、断片さ、壊れ具合が、人の話をシャットアウトしようというその姿勢が、「疲れた」というテーマ性をよく表現しているような気がする。

生きる意味がない

 若者を騙して何人も殺害した容疑者が、「生きる意味がない」などと、父親にもらしていたことが分かったという。
 何をどうして、そういった経緯が分かったのかは知らないが、やめてほしいものだ。

 生きる意味……なんてものを考えたりする人たち――すなわち僕のような人が、ますます奇異な目で、犯罪者のような軽蔑した目でみられるではないか。やめてほしい。
 僕は自動二輪車が好きで乗っているが、爆音のうるさい奴らが大嫌いである。まぁ、自動二輪車が嫌いな人にとっては同じ穴のムジナだろうが、なんでもかんでもひとくくりにされるのは気分がよくない。なにその、小学校の頃の連帯責任とか。え、小学校だけじゃなく、大人でもそういうのあるって? なにそれ、江戸時代の5人組なの?

 どうでもいいことを書いてしまった。これも疲れている証拠である。
 あの、「人生に絶望した」という表現について、よく犯罪者から引き出して大々的に報道しようとしたりする気がするけど、犯罪の動機を何故人は欲しがるのだろうか?
「納得」したいからだ。
「あいつは、犯罪を犯すような動機があった」と、理解したいからだ。

「そういう奴ら」というのを、スクリーニングの(ふるいにかける)ための方法を欲しているのだ。

 だから、アニメばっかりみていたとか、ゲームばっかりしていたとか、そういう「分かりやすい」理由を欲するのである。そういうのを好きな人と付き合わなければ、自分たちは安全なのだと、意識的・無意識的に思っているのである。

 ただ、いまやゲームもアニメも、それほど忌避されるものではなくなってきている。だからより一層、「犯罪者たるもの」が必要になってきている。

 次にスポットがあてられるとしたら、「絶望」である。

絶望とは

 絶望、と一言で表現したけれども、どっちかというと、精神科医フランクル氏のいうところの、「実存的空虚感」である。もっと砕くと、「生きている意味がわからない」的な感覚である。

 正直。この疲れた思考と身体においては、頑張ろうが頑張らまいが、生きようが死のうが、気持ちよかろうが悪かろうが、大した意味はないと思っている。

 そして同時に、こういった思考がよくないものだと、言われていることも分かっている。
 いやお前、それは「わかっている」とは言わないのだぞと言われるが、分かることは分かるのだ。ただ、それが「間違っている」とは思えない状態である、というだけだ。

 ちなみに、何故間違っているのだろうか。それは、答えがないからだ。証明できないからだ。客観的ではないからだ。そういうものを考えることは、思うことは、感じることは、「間違っている」のである。


⇒いやお前、そんな、楽しいことばかりじゃないぞ。いやな思いや、苦しいと思うことも含めて、人間なんだ、感情なんだぞ?

 否。明確に否定する。それは、お前、それこそ人間の可能性に対する否定だぞ。――この表現嫌いだが、あえて使おう。その「人生楽ありゃ苦もあるさ」ってのは、諦めである。いいことも悪いこともあるのが人生? お前、そりゃ結果的に悪いこともあるかもしれないが、「悪いことがあっていい」というのは、お前らが嫌いな、「必要悪」みたいな考え方に過ぎないじゃないか。

 違うだろ。本当は、すべて良いことであるべきだ。悪いことなどあっちゃならないのだ。



 ……などといったことも含めて、「どうでもいい」という感覚。空虚感。そういった表現。


 例えば、僕が何らかの悪いことを犯したとして、このブログの記事が発見されたとしたら、まぁまぁ、きっと、「ああ、なるほどな」と、何が「なるほど」なのかも分からないままに、みんな「納得」するのである。ニュース報道的には、「会社や友人環境など恵まれていたようですが、ある一面で悩みを抱えていたようです」みたいにキャスターが言うのである。

 ま、確かに。生きる意味がない、ってのは、無気力ってのは、「人の命なんてどうでもいい」とか思ってそうに感じられるかもしれない。意味がないから殺してもよい、と思っているとか。

 そんなの、無気力でも、絶望でもなんでもない。
 無気力や絶望ってのは、「人を殺したい」という欲求すら浮かばない。いやむしろ、いくら絶望していたとしても、人を殺した瞬間、それは、欲求に変化するのである。(ここで「いや、人がどれぐらいで死ぬのか試してみたかったとか言うやつもいるじゃん」という反論があるとしたら、それはもともと無気力でも絶望もしていないので関係ない)

 何か、行動をしたいという思い、そして、その行動自体の意味について、意義を失っている状態、それが無気力である。
 絶望とは、欲求がなくなった状態である。

睡眠欲には勝てない

 ――だめだ。目が明かない。もうタッチタイピングで書くしかない。誤変換が多発するだろう。

 ああ、その、なんだ、「疲れた」という表現をするため、それなりの長さになったわけだが、さらに疲れた。でも、睡眠欲と闘いながら、書くということを優先させたのは、――そして、こんな意味のつながりがおかしい記事を投稿するのは……。


(かっこ書きである。何故書くのか。それは、書くことが、唯一、僕の現在の心(精神というか、目的というか、目標というか)において、「ダメ」と言われないことだからである。仕事をすることも、友人などと遊ぶことも、ゲームをやることも、ダメとは言われないけれども、なんだか、罪悪感や焦燥感が与えられるのだ。だからたぶん、消費的な行為行動で満足して生きることができるなら、それはもう満足した豚であって、悪いことではない。不満足なソクラテスが本当によいかは僕は分からない。でも、ただ食って寝て増えてといった本能的なものだけで人間が生きているのだとしたら、――いやむしろ、そうだとしたら、人類が抽象化の言語を獲得し、他のホモ属を淘汰し、地球の食物連鎖ピラミッドの頂点に達したのだろうか。……どうでもいいや、眠い)

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書くことがないのか書きたい気がないのか
2017/11/14 23:45 | Comments(0) | イライラ対処
今日の一言「今日の目標はブログを書くことでした」

時間の感じる単位について

 11月である。
 前回、記事を書いたのは11月5日である。一週間はあっという間である。

 昔、社会人という存在になってからしばらくして、「一週間の単位」について愕然としたことがあった。若いころは、一日、一日が単位だった気がする。社会人は、一週間程度が単位な気がした。
 今は、それがさらに加速して、1か月ぐらいが、単位として感じられている気がする。

 この「単位」とは、時間経過を認識する期間である。確かに24時間が一日で、寝て起きて食べてを繰り返すわけであるが、それらが、ひとまとまりになったような感覚がある。それが単位である。経験単位とか、感覚単位とか言い表そうか。なんだか適当な言葉が浮かばないので、単位というのは造語である。

 以前にもまして、感覚単位が実時間に対して長くなった、ということである。

 そして、このことは、「書く」という行為がなくなったことで、更に加速していると考えられる。

いろいろやってる

 具体的な時間を書くと、忙しい自慢的でイヤであるけれど、後から読んだときに感覚として伝わってくるから書くと、23時を過ぎて帰ってくることが多い。土日も、予定が埋まっていることが多い(個人で完結する用事ではなく、人と関わる予定)。

 まぁそうすると、実際は、書く時間なんて取れないのである……というと嘘であり、睡眠時間を6時間程度確保したとしても、物理的な時間は十分にあるのである。

 あるけれども、この「書く」というのは、ある程度の「精神的余裕」がなければ成し遂げられないことである。――本来は。


 にも関わらず、僕がしばらく、毎日のように長々とブログを書くことができていたのは、それは、「精神的余裕」の無さゆえに、ゼロ秒思考(あんまり考えず、頭に浮かんだことをアウトプットする)によって書いていたのである。――今ふと、「ゼロ秒思考」って、やっぱり思考してないじゃん、と感じた。ただ、ここでいう思考は、「頭に浮かんだこと」という意味であるので、その浮かんだことを間髪入れずに「文字化」するという作業、それがゼロ秒思考アウトプットである。

 なんでこんなことをしていたかというと、「得体のしれないイライラ感」等により、とにかく落ち着かなかったからである。


 では最近は、そういった感覚がなくなったのか?

 否である。


他者に対しても気兼ねなく接している

 僕が抱える問題は、何ら解決していないと思う。
 その問題というのは、このブログのタイトルにあるものだ。

 ところが、体の疲れだったり、精神的な疲れだったりが相まって、書くことというか、考えることが、もうとてつもなく面倒になっている。

 静かに消えてなくなりたい……というのとは少し違う気がするが、「何もない時間」を欲していると思う。

全然筆が進まない

 久々に、「イライラ対処」のカテゴリにした。全然、書いていて楽しくない。――つまり、いまは、「書かなくていい期間」なのかもしれない。

 が、冒頭に書いたように、感覚単位が恐ろしく早くなっているため、いったん、今日は何とか、たとえ何時に帰ろうが、なんでもいいからブログを書こうと思ったのだ。

 そういった点で、今日の僕はよく頑張った。今日はとにかく書こうと思ったのは昼過ぎのことであったが、そこからしばらくして、状況もかわったのに、いま、こうして書くことができているのは、素直にほめてあげよう。えらいえらい。


 あー、ええと、寝具に十数万使ってみたというのとか、生きる意味って何だかずっと考えてます的なことを対人的に打ち明けたりとか、来週のデート的な約束をしたりとか、まぁ、書くことはある気がする、ある気がするが、気持ちが全然のらない……のにかかわらず、こうやってぐだぐだ書いているというのは、なんとも、読者をいらだたせるだけではないか?

 そうだろうけれども、でも、この……なんともいえない、やる気のなさというか、気力のなさを、なんとか表現したいと思っている。――それより、こう、友人と遊んだりとか、女性と食事にでかけたりとか、そういった行為の瑞々しさがどうにも感じられない。

 以前、赤面必須の、「恋」についても書いたことがあった気がするけど、そんな感覚って、もうないのかなぁと思ったりする。恋……。なんか、若いころは、「女の子と付き合いたい!」って思っていた気がする。それはなんというか、「女性と付き合う」という、そういうことができる自分、というのに憧れていた――とか、そんな解釈、あとからならいくらでもできるんだけど。

気分がのってきた

 ああ……分かった、気がする。
 なんというか、「こういうことを書いたら(言ったら)こう思われるだろうな」的な思考回路が先に進みすぎて、なんだか何も書きたく(言いたく)なくなっているのだろう。


 ほんとうは、100人いたら、90人は知っている事柄があったとしても、自分が対面した人が、その知らない10人だったとしたら、その事柄についての話はとても興味深いものかもしれない。

 コミュニケーションっていうか、人との関係って本当はそういうものなんだと思う。一回性と唯一性というのはフランクルさんの言葉だけど、本当にそれはそうだと思う。



 もう一つ理由として、「こうやって思われたい自分」というのを、無意識に醸成してしまっている気がする。ええい……そんなまどろっこしい書き方なんて今までしてなかったろう――つまりだ、僕は「いい人」と思われたがっているのではないか?


 その、ある人に悩みを打ち明けた……という表現もどうにも気に食わない。ええと、人が生きる意味について語り合ったとでもいおうか。その話の流れで、「お前は頑固な人間だ」というのと、「人の話を聞かない」と言われた。

 頑固、という表現は、ある程度親しくなった人に、笑いながら、あるいは真顔で言われることがたびたびあるので、まぁ、他者からみたらそういう人間なんだろうなぁと自分でも思うようにしている――が、僕の中では、全然そんなこと思っていないのである。――という表現がまさに、頑固で、人の話を聞かない、と言われる所以だとも思っているのだが。





 そうそう、ある人には、「お前は、結局納得してないんだろ」とか「わかってないんだろ」とかも言われたことがある。結構傷つく。

 頑固ってなんだ? 人の話を聞かないって何だ? 「わかる」ってなんだ?

けれども時間がない

 なんか、「書きたい」思いは、ここまで書いてきてようやく戻ってきた。が、もう時間ぎれである。
 まぁ、その、なんだろ。

 僕は、やっぱり、いいひとでありたいと思う。善人でありたいと思う。みなと仲良くしたいと思う。

 これらは真に、心から思うのであるが、その良いだとか善いだとかいう、その感覚が、結局多様であると思っている。
 僕は、「真に」、普遍的に「良く」ありたいと思う。

 ただ、それは、子供じみた空想であるともわかっている。人は、一回性と唯一性の中で、折衷主義といわれようが、たゆまぬ不断の努力によって、よい生き方を模索し調整しながら生きていく必要があるのである。

 ――というような、一般論的なのが、どうしても腹立たしいのだ。どうしろっていうのだ?! そして、「どうすればいいんだよ!」というと、「それを『考える力』を養って、一人ひとり考えていかなければならないのです」とか言われるわけだが、それが輪をかけて腹立たしいのである。

 僕は、考えることは好きだが、考えることだけで実践――生活、現象がなければ意味がないと思っている。そして、一般的な真実が、必ずしも個人としての、実存としての真実でもないと思っている。

 ……ああ、いろいろ、ようやく言葉が戻ってきた。カオスな感じでまとまらない感じ。論理的に、分かりやすい構成にしようとすればするほど、つまらなく、気力が失われていくあの感じ。ゼロ秒思考が戻ってきた!!(かっこわらい)

 ――しかし今日は終わる。


(かっこ書きである。んあー全然創作活動できていない。アウトプットはおろか、インプットも。こういうときは、とにかく、今続けられているルーチンに、必死にしがみつく必要がある。まさに、今が、生活(ルーチン)の危機である。この期間に、どれだけ生活を崩さずに、当初の目標に向かって気持ちをコントロールできるかにかかっている。今、この時期は、現状維持すら難しい状況。この時期に、新しいことはできるだけしないほうが良い。むしろ、今続けていることのシェイプアップすら必要だ。焦らず、ゆっくりと。時間は不可逆のためそれは言うは容易く行うは難しいが、それでも、焦らず、ゆっくり、今できていることを可能な限り壊さないように……。明日も遅くなりそうだが、なんとか、書くことに時間を、気持ちを向けたい。そういえば、ウォーキングデッドの1シーズンは何話かみたな。まぁまぁ面白そうである。ゾンビものって、バイオハザードの映画を一つ途中でみたぐらいか。なんか、ホラーといっても、暗い感じのホラーじゃなくてまぁみられる。続きも、時間があったらみたいなぁ)


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ブログを書きたくなる時
2017/11/05 11:41 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「違う意見に出会ってそれを上手く発散できない時」

ブログ更新遅くなったなぁ

 あまり認めたくないことではあるが、ブログを書くという行為の優先度が下がっている気がする。
 単に忙しい(気持ちが落ち着かない)という理由もある。しかし、物理的時間においては書けるはずなのだ。

 そんなことを思いながら、なかなかPCに向かって書くことができていなかったが、ある精神科医さんの記事で、「ブログを書きたくなる時」というのがあり、書きたくなった。
 そこでは、「人と会って話したとき」ブログを書きたくなるから、「ネタにつまったらもっと外に出て人に話すといいよ」と書かれていた。

 これは事実だろう。
 しかし、もう少しその心性を分析してみると、僕は、次のメカニズムなんじゃあないかなぁと思う。

1.人と会って話す
2.新しい考えや知識(事物)に触れる
3.自分の中で新しいスパーク(アイディア)が生じる
4.その場で上手く表現できない
5.ブログ書こう

 そして、このことを取り上げて僕が何を言いたいかというと、「人と会ったときにブログを書きたくなる」というよりかは、上の3.~4.のプロセスで消化不良が起きてることが原因なのではないかと思った、ということだ。

インプット型とアウトプット型人間

 これは、僕の思考の師匠が言っていた気がすることだが、人には二種類いるのだという。
 一つはインプット型人間。内面重視型である。
 もう一つは、アウトプット型人間。表現表出型である。

 ここでは、どっちが良い悪いということではなく、さらに、絶対100対0でその傾向が分かれるというものではない。人それぞれ、どっちかの傾向がある、ぐらいに考えておけばよい。

 上の小見出しの3.~4.の消化不良について、その人と会ったときに、ほぼ100%発散できる人は、きっと、家に帰ってもブログを書きたいなどとは思わないはずだ、ということを書きたかったわけである。
 と書くと、僕はすぐさま自分に対して疑問を呈する。「え、でも、体験したことをもっとみんなに知ってもらいたい! と思って、ブログとかフェイスブックとかで書いたりする人おるんじゃない」と。
 しかしそれは、共感志向型であって、どちらかというと、ブログという形態はとられないと思う。SNSが広く流行したのはそっちを求める人が多いからではなかろうか。


 ブログとSNSの違いについて、僕もどこかで整理した記事があった気がする、が探すほどではない。単に、ブログは文章が「長い」。SNSは「短い」。その程度の理解で(今回の記事としては)よい。

 だから、ブログってのは、どちらかというと、インプット型人間に適している媒体だと思う。
 人との場において、全部が全部、自分の気持ちを発散できる(※)人は、わざわざ面倒くさいブログなんて書かないだろう。

※大事な注釈。その発散できるというのは、「自分の表現を他者に分かってもらえた」という実感がもてる、という主観的な意味が非常に大きいことを書いておく。この注釈があることで、あとから読んだ未来の僕に対して、この記事が言いたいことがより明確に伝わると思う。


僕は何故最近ブログを書いていないか

 忙しいから(仕事・遊び(お出かけ、ゲームなど))。
 自分の表現が上手くできているから。

 上の二つが挙げられる。だが、後者は果たしてそうなのだろうか?



 それを考える前に、住環境についてメモしておきたい。

 部屋が汚くなっていた。この汚いというのは、清掃(ほこりが溜まっている)面と、整理整頓(物が散らかっている)面の両者であった。
 最近気づいたこととして、部屋が汚いと、やっぱり気分がよくないのである。清掃面においては、ある程度の期間でやっていたものの、整理整頓面の影響が大きいと思った。

 そして、その整理整頓とは、
・レシートを家計簿に打っていない
・書棚の本が横置きになっている
・DMや郵便物が放置されている
・洗濯物が乾いているのにかけっぱなし

 といったものがあげられるが、これは、少量・多量に関係なさそうである。
 少しでもそういった状態があれば、それが滓のように積み重なって、気分ゲージ(精神ポイント)をすり減らしていくのである。

 なんか落ち着かない、なんかイライラする、なんかやる気が起きない、なんか朝起きられない……これらの原因は、住環境に一因があると思ったのだ。

 ので、清掃・整理整頓を実施。
 今、コーヒーを淹れて、少し落ち着いている。


 ただ、ある友人の言であるが、「部屋が汚いから精神状態がよくないのか、精神状態がよくないから部屋が汚くなるのか」という、コロンブスの卵(にわとり先? 卵先?)論は、しっくり僕の中に落とし込まれた。どっちなんだろうなぁ。

 一つ書いておくべきは、精神状態が良いときに、いくら「頑張る」ことを決めたとしても、そんなもん何の役にも立たないのである。(何の、という形容詞は大げさに書いてるだけだ)

物事を決断したり実行したりすること

 気分が高揚してるときに、いざ頑張ろう! みたいに思って、実際三日坊主になったり、モチベーションが下がったりということを経験したことがある人は多いのではなかろうか。いや、多くあって欲しいが(かっこわらい)。

 僕も先日、ワイルドスピードに出演しているvin dieselとかthe rockとかの成長動画見て、「おお、年老いても筋肉あるとかっこいいな! 俺も頑張るぞ!」と思ったが、結局思ったままであった(笑)。

 まぁ、そうなんだけど、前から続けている筋トレのルーチンは継続している。最近は、腕ふり運動(スワイショウ)も追加している。この腕振り運動はいろいろやり方があるらしく、どれが一番良いかは不明だ。だが、細かいやり方にこだわるよりも、まずは、自分がやりやすいやりかたと、やりやすい時間に、やりやすい回数をやってみるのがよい。


 この、やりやすいところから、ということについて、どうにも、若いころはよく分かっていなかった。
 学校組織とか、まぁ会社でもそうなんだが、どうしても「競争」が多い。
 競争というのは、相手とのバトルだ。相手に勝る必要がある。

 その考え方を、まず捨て去ろうと、僕は一緒に仕事をする人たちに言ったりやってみせたりしている。
 いや、そもそもモチベーション高い人はいいんだけど、そういう人ばっかりじゃないのである。

 それと、この「競争意識を一度捨てること」は、あらゆる行動に対して役に立つ。
 趣味でも仕事でも遊びでも生活でも何でも使える。

 言葉を変えると、「自己肯定感をもつ」ということである。
 そして、敵は他者ではなく、自分自身だと知ることである。

ブログを書きたくなる時

 ちょっと話がズレてきたので強制変更。

 あー、まぁ、その、「何か他者と違うこと」が生じることによって、何か書きたくなる、というのはその通りだと思うが、僕の場合は、それだけではない、という結論にもっていこうと思っていたのだが、その書くプロセスがわけわからなくなったな。まぁ、小見出しごとにそれぞれまとまっている気はするから、単発の内容の組み合わせとして読んでいただきたい。

 ええとその、「他者」というのは、僕は、「自分自身も含まれている」と書きたかった。

 ので、別に外に出なくても、まぁ、書きたくなる時は存在するものだよね、というただ、それだけである。「で?」と言われてもそれ以上特にない。

 ただそもそも、「ブログを書きたくなる時」という問い自体、それ聞いてどうすんの? ということである。
 僕は、大半の動機(モチベーション)ってものが、「共感」であると思っている。

 人は共感したいし、されたい存在なのである、と思っているということだ。


 なんで? というのは、自分一人の存在を肯定できていないから――表現が難しいが、原理的に、肯定できないのだと思う。なぜなら、人は、一人では生きていけないから。……あーくだらねぇ格言だよなぁ、つまんねぇ言い方・表現だよなぁ。でも、「人は一人では生きていけない」というのは、「人はいずれ死ぬ」というのと同じぐらい根本的な表現である。

 僕は、一人でいる時間も好きだが、それはそれで、「完全な孤独・孤立」を求めているというわけではないということだ。このことも、若いころ(10代・20代)は、なかなか認められなかった。まぁ、今もあまり認めたくないけれども、僕は、一方で人間が嫌いと表現しつつ、一方ではやっぱり人間が好きなのである。

 ああそうそう、もう一つ最近でメモしようと思ったのは、――これも人との関係でイラっとした体験からだが、その「むかつくこと」が生じたとき、僕はその事象カウントを、その対象者に対してではなくて、「人一般」にカウントする傾向があることが分かった。
 電車内マナーができていない奴は、電車に乗っている全員が「くそったれ」であるという感覚を抱くということである。これは誤謬なのだが。


 ただ、そういう、「いらいらしたこと」ということで、最近わざわざブログを書こうとも思わなくなってしまった。
 以前は、「イライラ対処」といったカテゴリがどんどん埋まっていったのにな。

 これは、「いらいらしなくなった」ということよりも、「諦め度合い」が高まったというのもあるかもしれない。「誰も俺を分かってくれない」といった若々しい感性が失われてしまったからかもしれない。
「いや、別に分かってもらわなくてもいいし、「誰も」ってわけでもないし」といった感じになってきた気がする。

家族のこと

 コメントいただいたり、友人が家庭の問題に対処していたり、また別の友人が結婚したりとか、まぁその、家族ってのは、人が生活する単位として大事なものだよなぁと思った。

 僕は、生まれ育った町を出て、他の離れた――交通費が実家と往復数万かかる町で生活している。
 お盆時期と正月ぐらいは顔を見せに帰ったりしているけれども、人の寿命を考えたとき、あと何回会えるのかなと計算してみた。

 平均80歳なので、20年ぐらいだろう。健康寿命は大体70歳である。そしたら、残り10年ぐらいかもしれない。

 とりあえず20年として。一年に2回なので、40回である。大体、一緒に過ごす時間は、3日~5日なので、まぁ最大5日として、200日である。睡眠時間も含めたらもっと短い。

 つまり、両親(家族)と過ごすことができるのは、1年ないのである。



 多いのか、少ないのか。実感はわかなかった。でも、余命1年です、って言われたら、「短い」と思わないだろうか? 思う気がする。
 
「で?」

 ということであるけれども、まぁ、「時間を大切にしよう」ぐらいなもんか。

 ここで、じゃあ今すぐ「電話して声をきこう」というのもおかしな話である。さっきの、筋トレの話と同じである。


 だから、すべてにおいて、「漸進性」(ぜんしんせい:少しずつ進む)というのが大事なのだ。
 一方で、人は、時間は限られていて、「競争」が求められる。

 この矛盾を、どうやって「自分で」解決していくのか。言い換えれば、どうやって生きていくのか。


(かっこ書きである。創作関連が全然できていない。インプットもアウトプットも。うーん、11月である。そろそろ、来年度の目標も立て始めないと間に合わない。また片付けや買い物など雑事を終わらせたら考えようか、とりあえず強制終了)

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