今日の一言「興味のない人はつまらないだろうね」「まぁ他者の感覚とか評価は考えない方がよいよ」
・生きがい
・ライフワーク
・人生の目的
・存在理由(レーゾンデートル)
・自己の価値
んあー、整理しようと、すっきり書き始めようとすると、非常にイライラしだす。
まず、僕は「欲しいものがない」と発言したところに、「それは嘘だ」と言われた。「お前は、人との関係を求めている」と。
なるほど、「もの」というのが、物的な何かを想定するのは、愚かな考えである。世界に広がる事物(モノ・コト)がすべて、欲求の対象として成り立つのは言うまでもない。
では、「欲しいもの」という定義を拡張したとして、改めて僕は自分自身に問う。
「お前は何が欲しいのか」
この問いに、僕は現在答えられない。
・人間関係
・地位名誉
・賞賛・承認
・金
・時間
・家族
・健康な(頑強な)身体
たいてい、多くの人は、「安定」という言葉で回答するのではないか。リスクを取り続け、力動的に(乾坤一擲な勝負の積み重ねによって)生きていく人もいることはいるだろうが、長らく生きるにつれて、人は牙を、爪をひっこめて、手にした「安定」を守ろうとしていく。すぐさま書くべきは、これは大事なことであり、悪いことではない。むしろそうすべきとすら思う。
その「安定」なるものの中味は、上に僕が挙げたもののどれかに当てはまるのではなかろうか。他にあるだろうか? いや、ない。
人間の生きる意味は、結局のところ、概念理解(抽象的にまとめようとすれば)の中では、
・富(生理的欲求を満たす手段)
・名誉(承認・人間関係)
・時間(身体)
だけである。ミーシー(もれなく、重複なく)になっている気がする。この点反論がぜひ欲しい部分である。「こんなこともあるんじゃないかな?」というのが欲しい。例えば、自分で反論すれば、「家族(恋人)」とか「子ども」といった概念はどうだろうか? 僕が上にあげた3つは、結局、「自分」という枠組みにおいての欲求体系である。
つまり、「献身」というカテゴリーを増やしてもよいのではないか、ということだ。
自分よりも大切なものを見出すということ、そういった性質が人間にはあるのではないか? という提議である。
その献身という概念は、時に宗教であったり、国家であったり、社会(コミュニティ)であったり、会社であったり、家族であったり、子どもであったりする。
その対象が、大きなもの(宗教とか国家)なのか、小さなもの(家族とか子ども)なのか、どちらに興味が惹かれるかというのは、これまた人それぞれいろいろあるだろう。
こういった人間性、すなわち、個人にとっての正解(真理)というのは、答えがないものである。「お前がそう思うならそうなのだろう。お前の中ではな」というものだ。
たいていの人は、30代にもなれば、自分がどういった方向性の人間なのか、自分に対しての理解はある程度できているはずである。いつも思うに残念ながら僕は、この大きな前提すらままなっていない。だから、人と話していても噛み合わない……というか、興味の方向性が一致しないことが沢山ある。
これは仕方がないことである。僕は、その「大きな選択」部分についての問題を抱えているが、他の大勢の人たちは、すでに「大きな選択」はクリアしていて、次の、個々具体的な「どう生きるのか」という問題に移っているのである。だから、僕が「生きる意味」について話したいとしても、その意味が伝わらないのである。
世の中のたくさんの優れた人たち、実際、尊敬もできる人たちが大勢いるのに、「師匠」と仰いで教えを請いたいと思える人がいない。
ある友人は、「尊敬できない(自分にメリットを与えてくれない)人とは、一切付き合わない」と言っていたが、僕は、そもそも、「尊敬」レベルに人を思えることが少ないので、そんなことしていたら殆どの人と縁を切らなきゃいけなくなる(かっこわらい)。
ただ、この「尊敬」というのも、「生活レベル」とか、個々具体的な面(仕事とか・遊びとか)では思いつく人は結構いるのである。
この状況もよくないと思う。
なんだかんだいって、人は、人の中でしか生きられないと思う。それをよしとするか、悪しきとするかは別として。――ただ、それだって、僕が「大きな選択」をしさえすれば、「必要最小限の人と関わって生を充実させること」といった方策だってとりようがあるのである。僕が巡回しているブログさんの中では、そういった生き方を提示し、実践されているかたも多い(多い少ないという言葉は、まったくもって感覚である。きっと、日本人口の割合からしたら少ないのだろう。まぁそれはいっても仕方がない。インターネット世界における多い少ないというのはあてにならない。まぁかといって、数字が示されたとして、それが「実感」からほど遠ければ、それはそれで「ここ具体的」には全く役に立たないが)。
「安定」
では無いと思う。
安定という意味であれば、今はとても落ち着いているといえる。帰りが遅いし、イライラすることもあるけれども、まぁ、全世界的に考えれば、大したことないだろう。こんなものである。車とか家とかも、買おうと思えば買える(さすがに家はローン組まないと無理だろうが。ただ、中古物件も視野に入れたらまぁ行ける気がする)。
んじゃー何が不満なの? と。
ちなみに、苛立ち混じりながら書いておけば、楽して今の生活を手にしたとは思いたくはない。いや、もっと大変な思いをして、僕の今の生活にもたどり着けていない人もいるだろう、たくさんいるだろう。それでも、誰がなんというと、俺は「大変」だった。
でも、他者の大変さを否定する気なんて、全然ない。みんな大変なんだ。それでいいじゃないか。そして、人生なんてものは、大半は運だ。
――おぉ、新しい概念が登場した。運。運命。
この考え方が、僕の中に、呪いのように浸透してきている気がする。
前に書いたけれども、人が充実感を覚えるためには、「自己コントロール感」が必要である。
自分の行動で、未来が変わるということ。別に、良い方向に変わるというだけじゃない。ただ、自分が何かすることによって、自分も、世界も変えられるという気持ち、感覚。これが無いと、何をやっても何も変わらない(いや変わらないわけではなく、その自分の行為が影響を及ぼさないということ)のであれば、やる気や気力なんて湧き上がるはずもない。
僕が無気力(なのかは分からないが)なのは、この、自己コントロール感が失われてきたことが原因である気がした。うん、やっぱり書いていると面白いね。ここまで書いてきてようやく面白くなってきた。
運命……ときくと、プロテスタントたちの倫理を思い出す。マックス・ウェーバーという人の著作で、「なんで神を信仰する人たちが資本を蓄えるようになったのか。そもそもその人たち、どうやら、予定論(運命論)を信じてたらしいよ? つまり、神に救われる人たちってのは、もう初めから決まっていて、人々の行為行動によって左右されるようなものじゃないってこと。そんな人が都合よく行動して神の判断を変えられるはずないじゃない? ってのが運命論。そんなものを信じているのに、どうして勤勉に労働に励むことができたわけ?」というお話。
で、答えは、「こんなに勤勉に頑張ることができる俺(私)なら、神に救われる対象者に入ってるに違いない!」って思うことで、働いてお金を手にして、お金持ちになっても、それを蓄財しさらに勤勉に働く……という繰り返しによって(拡大再生産)資本主義の元となる資本が蓄積されていったのだという(大学でこういう勉強していたので大よそ合ってると思うけど、間違っていたらごめんなさい)。
資本主義って宗教から成り立ってきたんだね! というと言い過ぎな気がするけど、日本とかは、「お上」から働けっていわれて、慶安のお触書とか五榜の掲示とか、庶民の生活が規定されて、それで「運命」を受け入れて働いてきたわけだ。その点、プロテスタントたちは、自らの意思で(それは神という信仰を糧にしていたとはいえ、自主性といってよいはずだ)勤労を指向したのである。
何だろう。友人には、人間関係が欲しいんだろ、って言われた。まぁ、今あるものを全部破壊しようとは思わない。
「欲しいものないんなら、いまある資産を全部寄付しろ!」
とか思う人もいるだろうが、そうしようとは思わない。
上の事実から、僕は結局、今ある生活を欲しているという結論が導かれるかもしれない。なんのことはない、僕も、「安定」を欲しているだけなのではないか、と。
そうなんだろうか……?
そうなんだろうか?
うーん。
うーん……。
前も書いたような気がするが、俺は、人の役に立ちたい。ただ、何でもいいというわけじゃなくて、僕が心底「楽しい」と思えることをすることで、人が役に立ったと思ってもらえるような、そんな行為行動を続けることで生活していきたい、そう思う。
うん、上の表現は、わりかし僕の本心に近い気がする。別に自己中に生きたいと思うわけでもないのである。
まぁ、一般的には「人の役に立ちたい」って言っておけば聞こえはいいかな、とも思うし、使いやすい表現な気がするな。とか書いてしまうと、胡散臭いといわれそうだが、まぁ、人の役に立ちたいというのは本心である。それが、所属欲求だとか承認欲求だとか、そんな言葉で置き換えられるものであっても、確かに僕はそれはもっと欲しいなとは思う。
ただ、その次の表現、「心底楽しいと思えることをすることによって」という、ここが結構重要である。
楽しくないことをして、まぁ他者に喜んでもらっても、まぁ、喜んでもらったこと自体は嬉しいと思うかもしれないけど、昨日の記事で引用した、「体力・精神力の前借り」のようなもので、それを続けることは不可能だと思っている。
楽しいことをしていると、それが物理時間的に多くても、そんなに苦にならないのだ。
そうだな……上の表現は、ほんと、結構よいかもしれない。最近、仕事がいやだなぁと思うのは、どっちかというと、忙しいからというよりも、誰かの役に立っている感じが少ないからかもしれない。
――それだな。それが大きいな。なんか、「やって当たり前」的な感じなんだよな。いやそりゃ、プロフェッショナル(かっこわらい)なので、できて当然だし、当たり前なんだろうけど、そんな風に仕事をふられてこなしても、「はいじゃあ次これね」みたいな感じだと、まぁモチベーションは下がるわな。
みんなが「やらされてる感」の中でいると、まぁ面白くないわな。そりゃさ。家族とか、プライベートとか、大事なことはみんなそれぞれあるだろうさ。でもさ、どうせ仕事するなら、なんかちゃんと目的とか、やりがいとか、みんなで共有した方がいいんじゃないの? とは思う。
いや、別にいいんだよ。単純作業とか、ライン作業とか、定型業務だけやるような仕事ならそれでもいい。そしたら、九時五時みたいに、しっかり時間で管理されてやってりゃいい。そこにやりがいを求めるなんて、それは逆に酷なものである。奴隷に生きる希望を持てというのは、死ねというよりつらいかもしれない。
時間切れだ。
うん、ただ、この記事では、
「僕は、人の役に立ちたい。ただ、それは手段を問わないわけではなくて、僕が心底楽しいと思えることをすることによって、人の役に立って、それで生活できるようにしたい」
という表現を引き出せたことで価値があったと思う。
うん、この表現は近いな。いや本心だ。表現ではなく、事実を示している(シニフィアン(意味するもの:表現、記号)ではなく、シニフィエ(意味されているもの))な気がする。
(かっこ書きである。んあー、ただ、今回の記事は珍しくまとまったので、別にかっこ書きはいらないかもしれない。――ただ、読み返してみて、なんかやっぱり物足りないなと思った。具体性が少ないんだ。結局、その「心底楽しいと思えること」ってのが、じゃあ何? ってのが必要である)
生きる意味の定義
「生きる意味」に似たキーワードを挙げていく。・生きがい
・ライフワーク
・人生の目的
・存在理由(レーゾンデートル)
・自己の価値
んあー、整理しようと、すっきり書き始めようとすると、非常にイライラしだす。
欲しいものがないという詭弁
ある友人との会話をきっかけとして書き始めよう。まず、僕は「欲しいものがない」と発言したところに、「それは嘘だ」と言われた。「お前は、人との関係を求めている」と。
なるほど、「もの」というのが、物的な何かを想定するのは、愚かな考えである。世界に広がる事物(モノ・コト)がすべて、欲求の対象として成り立つのは言うまでもない。
では、「欲しいもの」という定義を拡張したとして、改めて僕は自分自身に問う。
「お前は何が欲しいのか」
この問いに、僕は現在答えられない。
・人間関係
・地位名誉
・賞賛・承認
・金
・時間
・家族
・健康な(頑強な)身体
たいてい、多くの人は、「安定」という言葉で回答するのではないか。リスクを取り続け、力動的に(乾坤一擲な勝負の積み重ねによって)生きていく人もいることはいるだろうが、長らく生きるにつれて、人は牙を、爪をひっこめて、手にした「安定」を守ろうとしていく。すぐさま書くべきは、これは大事なことであり、悪いことではない。むしろそうすべきとすら思う。
その「安定」なるものの中味は、上に僕が挙げたもののどれかに当てはまるのではなかろうか。他にあるだろうか? いや、ない。
人間の生きる意味は、結局のところ、概念理解(抽象的にまとめようとすれば)の中では、
・富(生理的欲求を満たす手段)
・名誉(承認・人間関係)
・時間(身体)
だけである。ミーシー(もれなく、重複なく)になっている気がする。この点反論がぜひ欲しい部分である。「こんなこともあるんじゃないかな?」というのが欲しい。例えば、自分で反論すれば、「家族(恋人)」とか「子ども」といった概念はどうだろうか? 僕が上にあげた3つは、結局、「自分」という枠組みにおいての欲求体系である。
つまり、「献身」というカテゴリーを増やしてもよいのではないか、ということだ。
自分よりも大切なものを見出すということ、そういった性質が人間にはあるのではないか? という提議である。
その献身という概念は、時に宗教であったり、国家であったり、社会(コミュニティ)であったり、会社であったり、家族であったり、子どもであったりする。
その対象が、大きなもの(宗教とか国家)なのか、小さなもの(家族とか子ども)なのか、どちらに興味が惹かれるかというのは、これまた人それぞれいろいろあるだろう。
こういった人間性、すなわち、個人にとっての正解(真理)というのは、答えがないものである。「お前がそう思うならそうなのだろう。お前の中ではな」というものだ。
たいていの人は、30代にもなれば、自分がどういった方向性の人間なのか、自分に対しての理解はある程度できているはずである。いつも思うに残念ながら僕は、この大きな前提すらままなっていない。だから、人と話していても噛み合わない……というか、興味の方向性が一致しないことが沢山ある。
これは仕方がないことである。僕は、その「大きな選択」部分についての問題を抱えているが、他の大勢の人たちは、すでに「大きな選択」はクリアしていて、次の、個々具体的な「どう生きるのか」という問題に移っているのである。だから、僕が「生きる意味」について話したいとしても、その意味が伝わらないのである。
疎外感の理由
どうにも、僕が人を頼れない理由は、上に書いてきたような部分にある気がする。世の中のたくさんの優れた人たち、実際、尊敬もできる人たちが大勢いるのに、「師匠」と仰いで教えを請いたいと思える人がいない。
ある友人は、「尊敬できない(自分にメリットを与えてくれない)人とは、一切付き合わない」と言っていたが、僕は、そもそも、「尊敬」レベルに人を思えることが少ないので、そんなことしていたら殆どの人と縁を切らなきゃいけなくなる(かっこわらい)。
ただ、この「尊敬」というのも、「生活レベル」とか、個々具体的な面(仕事とか・遊びとか)では思いつく人は結構いるのである。
この状況もよくないと思う。
なんだかんだいって、人は、人の中でしか生きられないと思う。それをよしとするか、悪しきとするかは別として。――ただ、それだって、僕が「大きな選択」をしさえすれば、「必要最小限の人と関わって生を充実させること」といった方策だってとりようがあるのである。僕が巡回しているブログさんの中では、そういった生き方を提示し、実践されているかたも多い(多い少ないという言葉は、まったくもって感覚である。きっと、日本人口の割合からしたら少ないのだろう。まぁそれはいっても仕方がない。インターネット世界における多い少ないというのはあてにならない。まぁかといって、数字が示されたとして、それが「実感」からほど遠ければ、それはそれで「ここ具体的」には全く役に立たないが)。
再度問う僕の欲しいもの
さて、少し回り道をした。僕が今求めているもの、欲しいものは何だろうか?「安定」
では無いと思う。
安定という意味であれば、今はとても落ち着いているといえる。帰りが遅いし、イライラすることもあるけれども、まぁ、全世界的に考えれば、大したことないだろう。こんなものである。車とか家とかも、買おうと思えば買える(さすがに家はローン組まないと無理だろうが。ただ、中古物件も視野に入れたらまぁ行ける気がする)。
んじゃー何が不満なの? と。
ちなみに、苛立ち混じりながら書いておけば、楽して今の生活を手にしたとは思いたくはない。いや、もっと大変な思いをして、僕の今の生活にもたどり着けていない人もいるだろう、たくさんいるだろう。それでも、誰がなんというと、俺は「大変」だった。
でも、他者の大変さを否定する気なんて、全然ない。みんな大変なんだ。それでいいじゃないか。そして、人生なんてものは、大半は運だ。
――おぉ、新しい概念が登場した。運。運命。
この考え方が、僕の中に、呪いのように浸透してきている気がする。
前に書いたけれども、人が充実感を覚えるためには、「自己コントロール感」が必要である。
自分の行動で、未来が変わるということ。別に、良い方向に変わるというだけじゃない。ただ、自分が何かすることによって、自分も、世界も変えられるという気持ち、感覚。これが無いと、何をやっても何も変わらない(いや変わらないわけではなく、その自分の行為が影響を及ぼさないということ)のであれば、やる気や気力なんて湧き上がるはずもない。
僕が無気力(なのかは分からないが)なのは、この、自己コントロール感が失われてきたことが原因である気がした。うん、やっぱり書いていると面白いね。ここまで書いてきてようやく面白くなってきた。
運命……ときくと、プロテスタントたちの倫理を思い出す。マックス・ウェーバーという人の著作で、「なんで神を信仰する人たちが資本を蓄えるようになったのか。そもそもその人たち、どうやら、予定論(運命論)を信じてたらしいよ? つまり、神に救われる人たちってのは、もう初めから決まっていて、人々の行為行動によって左右されるようなものじゃないってこと。そんな人が都合よく行動して神の判断を変えられるはずないじゃない? ってのが運命論。そんなものを信じているのに、どうして勤勉に労働に励むことができたわけ?」というお話。
で、答えは、「こんなに勤勉に頑張ることができる俺(私)なら、神に救われる対象者に入ってるに違いない!」って思うことで、働いてお金を手にして、お金持ちになっても、それを蓄財しさらに勤勉に働く……という繰り返しによって(拡大再生産)資本主義の元となる資本が蓄積されていったのだという(大学でこういう勉強していたので大よそ合ってると思うけど、間違っていたらごめんなさい)。
資本主義って宗教から成り立ってきたんだね! というと言い過ぎな気がするけど、日本とかは、「お上」から働けっていわれて、慶安のお触書とか五榜の掲示とか、庶民の生活が規定されて、それで「運命」を受け入れて働いてきたわけだ。その点、プロテスタントたちは、自らの意思で(それは神という信仰を糧にしていたとはいえ、自主性といってよいはずだ)勤労を指向したのである。
話をそらしたな
……あれ。僕が欲しいものって何? って話じゃなかったっけ。何だろう。友人には、人間関係が欲しいんだろ、って言われた。まぁ、今あるものを全部破壊しようとは思わない。
「欲しいものないんなら、いまある資産を全部寄付しろ!」
とか思う人もいるだろうが、そうしようとは思わない。
上の事実から、僕は結局、今ある生活を欲しているという結論が導かれるかもしれない。なんのことはない、僕も、「安定」を欲しているだけなのではないか、と。
そうなんだろうか……?
そうなんだろうか?
うーん。
うーん……。
前も書いたような気がするが、俺は、人の役に立ちたい。ただ、何でもいいというわけじゃなくて、僕が心底「楽しい」と思えることをすることで、人が役に立ったと思ってもらえるような、そんな行為行動を続けることで生活していきたい、そう思う。
うん、上の表現は、わりかし僕の本心に近い気がする。別に自己中に生きたいと思うわけでもないのである。
まぁ、一般的には「人の役に立ちたい」って言っておけば聞こえはいいかな、とも思うし、使いやすい表現な気がするな。とか書いてしまうと、胡散臭いといわれそうだが、まぁ、人の役に立ちたいというのは本心である。それが、所属欲求だとか承認欲求だとか、そんな言葉で置き換えられるものであっても、確かに僕はそれはもっと欲しいなとは思う。
ただ、その次の表現、「心底楽しいと思えることをすることによって」という、ここが結構重要である。
楽しくないことをして、まぁ他者に喜んでもらっても、まぁ、喜んでもらったこと自体は嬉しいと思うかもしれないけど、昨日の記事で引用した、「体力・精神力の前借り」のようなもので、それを続けることは不可能だと思っている。
楽しいことをしていると、それが物理時間的に多くても、そんなに苦にならないのだ。
そうだな……上の表現は、ほんと、結構よいかもしれない。最近、仕事がいやだなぁと思うのは、どっちかというと、忙しいからというよりも、誰かの役に立っている感じが少ないからかもしれない。
――それだな。それが大きいな。なんか、「やって当たり前」的な感じなんだよな。いやそりゃ、プロフェッショナル(かっこわらい)なので、できて当然だし、当たり前なんだろうけど、そんな風に仕事をふられてこなしても、「はいじゃあ次これね」みたいな感じだと、まぁモチベーションは下がるわな。
みんなが「やらされてる感」の中でいると、まぁ面白くないわな。そりゃさ。家族とか、プライベートとか、大事なことはみんなそれぞれあるだろうさ。でもさ、どうせ仕事するなら、なんかちゃんと目的とか、やりがいとか、みんなで共有した方がいいんじゃないの? とは思う。
いや、別にいいんだよ。単純作業とか、ライン作業とか、定型業務だけやるような仕事ならそれでもいい。そしたら、九時五時みたいに、しっかり時間で管理されてやってりゃいい。そこにやりがいを求めるなんて、それは逆に酷なものである。奴隷に生きる希望を持てというのは、死ねというよりつらいかもしれない。
時間切れだ。
うん、ただ、この記事では、
「僕は、人の役に立ちたい。ただ、それは手段を問わないわけではなくて、僕が心底楽しいと思えることをすることによって、人の役に立って、それで生活できるようにしたい」
という表現を引き出せたことで価値があったと思う。
うん、この表現は近いな。いや本心だ。表現ではなく、事実を示している(シニフィアン(意味するもの:表現、記号)ではなく、シニフィエ(意味されているもの))な気がする。
(かっこ書きである。んあー、ただ、今回の記事は珍しくまとまったので、別にかっこ書きはいらないかもしれない。――ただ、読み返してみて、なんかやっぱり物足りないなと思った。具体性が少ないんだ。結局、その「心底楽しいと思えること」ってのが、じゃあ何? ってのが必要である)
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コメント
相手のために役立つこと
自分が精一杯のことして、相手が最高に喜んでくれたら、一番幸せですよね
posted by みゅうat 2017/10/24 06:19 [ コメントを修正する ]
このブログを読んでいて私が思う遠藤さんが欲しいものは、ただひたすら「答え」なんじゃないかなと感じます。
遠藤さんが感じる疑問、抱える苦悩、というか抱いている、あるいは抱いた思い、それらに対する「明確な答え」ってものを常々欲しているように見えました。
そのため、友人との「人間関係を求めている」という指摘も、ある意味では正しく、ある意味では的を射ていないように感じるんだと思います。人間関係を求めているというよりは、「何かしら答えをくれる(可能性のある)人を求めている」ということなのでは、と。
まぁ、この「明確な答え」っていうのが厄介なもので、人によって違ったり、疑問や思いによって違ったりするというか、今回の場合で言えば遠藤さんにしか最終的には出せない答えだと思うんですよね。
人に相談したり、ブログで書き連ねたことに対して、相手や読者が「こうなんだろ?」とか「こうなんじゃない?」とか反応をしたとして、それが本人の中で(意識、無意識に関わらず)求めていた答えと合致するもの、合致する部分があれば「ああ、そういうことか」と納得したりするんじゃないかと思うわけですが、遠藤さんの場合はそこで毎回「そうかもしれない、でも何か違う気もする」と感じたりする。
始めから答えが固まり切っていないのか、求めていた答えを得たことでそれが疑問に変質し、別の答え(新たな疑問)が生じ続けているのか。
はっきりしたことは本人にしか結論を出せない、それを本人も分かった上で、しかし現状その答えってものに辿り着けていないし見えてもいないので、道標になること(なりそうなこと)を探し求めている。
今回なんとなーく思ったのはこんなところでした。
遠藤さんが感じる疑問、抱える苦悩、というか抱いている、あるいは抱いた思い、それらに対する「明確な答え」ってものを常々欲しているように見えました。
そのため、友人との「人間関係を求めている」という指摘も、ある意味では正しく、ある意味では的を射ていないように感じるんだと思います。人間関係を求めているというよりは、「何かしら答えをくれる(可能性のある)人を求めている」ということなのでは、と。
まぁ、この「明確な答え」っていうのが厄介なもので、人によって違ったり、疑問や思いによって違ったりするというか、今回の場合で言えば遠藤さんにしか最終的には出せない答えだと思うんですよね。
人に相談したり、ブログで書き連ねたことに対して、相手や読者が「こうなんだろ?」とか「こうなんじゃない?」とか反応をしたとして、それが本人の中で(意識、無意識に関わらず)求めていた答えと合致するもの、合致する部分があれば「ああ、そういうことか」と納得したりするんじゃないかと思うわけですが、遠藤さんの場合はそこで毎回「そうかもしれない、でも何か違う気もする」と感じたりする。
始めから答えが固まり切っていないのか、求めていた答えを得たことでそれが疑問に変質し、別の答え(新たな疑問)が生じ続けているのか。
はっきりしたことは本人にしか結論を出せない、それを本人も分かった上で、しかし現状その答えってものに辿り着けていないし見えてもいないので、道標になること(なりそうなこと)を探し求めている。
今回なんとなーく思ったのはこんなところでした。
◆みゅうさん
ありがとうございます。
>自分が精一杯のことして、相手が最高に喜んでくれたら、一番幸せですよね
以前僕は、他者にやさしくするのは、自分がやさしくされたいから「に過ぎない」と思っていました。
そういった偽善をとことん嫌いだと思っていました。
今は、偽善だろうが何だろうが、その行為そのものが尊いのではないか、と思い始めています。
以前バールさんがおっしゃっていましたが、「偽善が問題なのは、それを隠したりごまかしたりしようとするからだ」と仰っていて、それに対して近い思いを抱いたものです。
みゅうさんは、どんなことをしたとき、人に感謝してもらえた、喜んでもらえたと思いますか?
◆白銀さん
コメントありがとうございます。いつも深い洞察いただいて嬉しく、そして参考にしています。
>ただひたすら「答え」
そうだと、思いました。
答えを欲しているのだと思います。だから、「〇〇を求めている」という〇〇という部分に、いくらたくさんの言葉や事象をいれても、それは僕にとっての答えにはならなかったのだろうと思いました。
お前は答えを求めている。
こういわれたら、僕は抽象的に否定できなかったと思います。
では次に、その答えは、どこで見いだされるものなのか。人間関係の中かもしれない、仕事からなのかもしれない、創作からなのかもしれない、家族からなのかもしれない……。
>始めから答えが固まり切っていないのか、求めていた答えを得たことでそれが疑問に変質し、別の答え(新たな疑問)が生じ続けているのか。
これ、特に新しい視点がひらけたコメントでした。
というのは、もし後者だったら、以前もコメントいただいた気がしますが、それこそ永遠延々と僕は考え続けていそうだなぁと(笑)。
実際、10代後半~20代前半ぐらいはそんな感じだった気がしますが、最近は「それは誤った考え方である」と思うようになってきたのです。
・求め続けるのが人生だ
・答えを探し続けるのが人間だ
・楽しみや苦しみの波の中でもがいてそして幸せを求めていくしかないのだ
などといった言説に対して、どうしても「OK~♪」という気持ちになれないのです。
ああ……そういう意味で、白銀さんの仰る、「君は答えを求めているのだ」というのは、まさにそうなんだろうなぁと思います。
ありがとうございます。
>自分が精一杯のことして、相手が最高に喜んでくれたら、一番幸せですよね
以前僕は、他者にやさしくするのは、自分がやさしくされたいから「に過ぎない」と思っていました。
そういった偽善をとことん嫌いだと思っていました。
今は、偽善だろうが何だろうが、その行為そのものが尊いのではないか、と思い始めています。
以前バールさんがおっしゃっていましたが、「偽善が問題なのは、それを隠したりごまかしたりしようとするからだ」と仰っていて、それに対して近い思いを抱いたものです。
みゅうさんは、どんなことをしたとき、人に感謝してもらえた、喜んでもらえたと思いますか?
◆白銀さん
コメントありがとうございます。いつも深い洞察いただいて嬉しく、そして参考にしています。
>ただひたすら「答え」
そうだと、思いました。
答えを欲しているのだと思います。だから、「〇〇を求めている」という〇〇という部分に、いくらたくさんの言葉や事象をいれても、それは僕にとっての答えにはならなかったのだろうと思いました。
お前は答えを求めている。
こういわれたら、僕は抽象的に否定できなかったと思います。
では次に、その答えは、どこで見いだされるものなのか。人間関係の中かもしれない、仕事からなのかもしれない、創作からなのかもしれない、家族からなのかもしれない……。
>始めから答えが固まり切っていないのか、求めていた答えを得たことでそれが疑問に変質し、別の答え(新たな疑問)が生じ続けているのか。
これ、特に新しい視点がひらけたコメントでした。
というのは、もし後者だったら、以前もコメントいただいた気がしますが、それこそ永遠延々と僕は考え続けていそうだなぁと(笑)。
実際、10代後半~20代前半ぐらいはそんな感じだった気がしますが、最近は「それは誤った考え方である」と思うようになってきたのです。
・求め続けるのが人生だ
・答えを探し続けるのが人間だ
・楽しみや苦しみの波の中でもがいてそして幸せを求めていくしかないのだ
などといった言説に対して、どうしても「OK~♪」という気持ちになれないのです。
ああ……そういう意味で、白銀さんの仰る、「君は答えを求めているのだ」というのは、まさにそうなんだろうなぁと思います。
posted by endoat 2017/10/29 22:47 [ コメントを修正する ]
>みゅうさんは、どんなことをしたとき、人に感謝してもらえた、喜んでもらえたと思いますか?
やはり、愛する人が喜ぶようなことをしてあげられた時ですね。詳細はケースバイケースですが。
posted by みゅうat 2017/11/01 19:38 [ コメントを修正する ]
なるほど……
やはり愛する人をつくらなければ、充実した人生を送るのは難しそうですね…
お返事ありがとうございます!
やはり愛する人をつくらなければ、充実した人生を送るのは難しそうですね…
お返事ありがとうございます!
posted by 遠藤at 2017/11/01 20:24 [ コメントを修正する ]