今日の一言「来年の目標なり考えねば」
恥ずかしい。
誤りだ。馬鹿だ、愚かだ。
いろんな感情が浮かぶ。
でも、帰りの道すがら、同じ記事を読むと、感覚が異なってくる。
よく分かる。よく言ってくれた。面白い。
不思議な感覚だったので、メモしておこうと思った。
「社交の場」というのは、なんだろう、いろいろ、想像してみるといい。学校でも会社でも、友人でも、恋人でも、家族でも、なんでもいい。考えてみるといい。――それだ。
そういった、社交の場で、このブログのようなことを言ったりすれば、すぐさま、「病んでいる」として、心配されるだろう。
まぁ、年がら年中こんなこと書いているのは病気かもしれないが、まぁまぁそれはおいておいて。
一つ思ったのは、このブログは、もてないだろうなぁ、ということだ。
もてる、というのは何か?
イケメンであることが絶対条件だけれども、人間は総合なので、顔や体形が悪かっただけで人生詰み、にはならないから安心しておけばよい。
それ以外にも、お金なり、「ひたむきに頑張る姿なり」、いろいろある。
いろいろある中で、「うだうだした思考」なんてものは、絶対にもてない。
人生幸せにしてくれるパートナーしか不要だ。
何せ、人生に意味など無いのだ。だから、限られた時間の中、黄昏の時間を美しく儚く燃え上がり尽きること……ただそれだけが求められるのだ。
そういった人生において、「考えること」なんてのは、一切不要だ。
タソガレ――なんて言葉を使う時点で、きっと赤面しなければならないのだ、社交の場においては。
そして、一人で飲んでいるよりも、酒は複数人の方がすすむ。だんだんと、何も考えられなくなっていく感覚……それを過ぎるとすぐに眠くなってしまうのだけれども、酔っぱらった感覚は悪くはない。
人は誰もが、何かに酔っぱらってないとやってらんねえんだ、というのは、調査兵団対抗組織の隊長アッカーマン氏の言であるが、その酔っぱらう元となるのがお酒である。
この記事は、お酒がはいった状態で書いている。
生きる意味フローチャート
Q1:宇宙のはじまりビッグバンは偶然生じたものだと思いますか?
A(endo):はい。偶然だと思います。
⇒宇宙のはじまりが偶然なら、宇宙・地球・人間、すべてもまた偶然の存在です。生きる意味などありません。以上。
明解である。
で、本当は、「いいえ、偶然ではありません」というと、他のフローチャート分岐に流れていくのだけれども、僕は、「はい、偶然だと思います」という答えなので、結論はすでに出ているのである。
生きる意味などない。
以上。この記事はおろか、このブログ終わり――である。
しかし、僕は、まだ言葉を終わらせられていない。何故だろう。
生きる意味はない……これについて、僕は納得していないのだ。
何故か?
それは、「実存」としての答えと、「世界的な意味」における答えでは、異なると思っているからだ。
ヘーゲル哲学が、世界史として世界は意志をもってジンテーゼに昇華されていくものだと美しく声高々に叫ぼうとも、キルケゴール氏は、「いや、世界なんて知るか。俺がどう生きるかが大事なんだ、バーカバーカ!」と言ったのである。
それを「実存」という。
今まさにある、「我」。我思う故に――というのは、もう古臭い考え方なのかもしれない。その、実際に生じている「我」というものについて、細かく分解していっても、そこに根源たる意識は見つけ出すことはできないかもしれない。いくら「思った」ところで、我という存在を導くことはできないかもしれない。
しかし、我は実際に存在する。
でなければ、いったい、この記事を書いているのは、何だ?(あえて、誰だ、とは言わない)
それを、現象学という。
エポケーだか、専門用語は忘れてしまったが、現象学の概念は覚えている。客観や、真理といったものを、一度「かっこ」の中に入れて、実際に、その表出していること、生じていること(=現象)についての、発生しているその条件を問うのが現象学である。
ヴィトゲンシュタインさんは、言語ゲームといって、「何か」について話し合うルールが先にあるのではなく、話し合いが生じるその現象において、その現象がそもそもルールなのであるという。
だから。
宇宙がどう、地球がどう、人類がどう、とか、そんなことは、いったんわきに置いておいて、かっこの中にくくってしまい、とりあえず、この僕、私、俺――いったい誰なのかはさっぱり分からないが、そのよく「自分」と表現する存在について、その存在する条件を問うのである。
それが、このブログの目的である(そうだったのか、そうだったのだ)。
まぁ、そうなんだろうなと思う。気持ち悪いし、もてない、それがこのブログだ。
――とか書くことが、きっと赤面だ。
気持ち悪かろうが何だろうが、もう、書き続けるしかないのだということを、今一度、この年の瀬に書いておこう。
お前は、もう逃れられないのだ、と。
お前は、何をしようが、この、答えのない問いに答えを出さなければ、何をしても、何を得ても、満たされることなど絶対にないのだ、と。
呪い、と表現したこともあった。それは、自らを戒めるためでもある。
人生の些事。仕事も、友人も、恋人も、創作も、遊びも、生きることそのものも、それは些事に過ぎない――というのは、誇張表現でしかないものの、しかし、そうした強い意志を持たなければ、半端な覚悟でいても、ただ、イライラ対処のためだけの記事を量産しても、ダメなのだ。
……話を少し戻そう。
であれば、僕が時折書いているような、「もっとこういったことを書く人に出会いたかった、もっと触れ合いたかった」ということが満たせるのではなかろうか、という希望がわく。
しかし、一つ、前提にしなければならないのは、まずもって、
・絶対的(普遍的)な真理は存在しない
ということである。
先ほど書いた通り、僕は、ビッグバンを偶然と思っている(※)。
世界的、人類共通の真理は信じていない。カオス的世界観をもっているといってよい。それが良い悪いではない。善悪でもない。ただ、混沌が世界の本質だと思っている。――本質? 本質といったものも存在しない。絶対無という表現が好きならそれを使ってもいい。仏教の「空(くう)」という表現でもいいと思う。とにかく、世界には意味もないし、人類にも意味はない。
そうしたときに、果たして、「生きる意味を徹底して考える」人が近くに寄り添ってくれたとして、果たして果たして、それは、自分に「生きがい」を与えてくれるようになるのだろうか。ならん。
――としたら、じゃあ、このブログの意義は何だ? お前がいつも、「自分のため」といいつつ、じゃあ何故公開するのだという問いに対して、「役に立ちたいから」と答えているにも関わらず、おまえ自身が、その意義を否定したのではないか?
――話が進まないので、そのあたりの疑問は黙っておいていただこう。
※ちょっと話がそれるので、コメ書きにする。上の「3分で分かる生きる意味」のフローチャートは面白いと思うけれど、でも、ビッグバンが偶然だからといって、地球生成も、人類生成もイコール偶然、とするのは飛躍している気がする。ビッグバンが偶然であっても、地球をつくったのはもしかして「神様」的存在かもしれない。ただ、その「3分生きる意味」で言いたいところは、「ビッグバン」それ自体ではなく、「すべてにおいての起源」という概念を挙げているのである。この点を理解せずに、理系的に批判してもあんまりおもしろくない。思考実験である。
しかし、さて、かなしきことに、記事が消えてしまった。だが、小まめな保存のおかげで、それほど被害がなかった。が、いったんここまでとしておこう。
(かっこ書きである。続く。というか、こっからが本当は書きたかったところなのだが……)
昨日の記事を読んで
こう、社交の場に出ていこうとする中で、自分のブログを読んだりすると赤面する。恥ずかしい。
誤りだ。馬鹿だ、愚かだ。
いろんな感情が浮かぶ。
でも、帰りの道すがら、同じ記事を読むと、感覚が異なってくる。
よく分かる。よく言ってくれた。面白い。
不思議な感覚だったので、メモしておこうと思った。
「社交の場」というのは、なんだろう、いろいろ、想像してみるといい。学校でも会社でも、友人でも、恋人でも、家族でも、なんでもいい。考えてみるといい。――それだ。
そういった、社交の場で、このブログのようなことを言ったりすれば、すぐさま、「病んでいる」として、心配されるだろう。
まぁ、年がら年中こんなこと書いているのは病気かもしれないが、まぁまぁそれはおいておいて。
一つ思ったのは、このブログは、もてないだろうなぁ、ということだ。
もてる、というのは何か?
イケメンであることが絶対条件だけれども、人間は総合なので、顔や体形が悪かっただけで人生詰み、にはならないから安心しておけばよい。
それ以外にも、お金なり、「ひたむきに頑張る姿なり」、いろいろある。
いろいろある中で、「うだうだした思考」なんてものは、絶対にもてない。
人生幸せにしてくれるパートナーしか不要だ。
何せ、人生に意味など無いのだ。だから、限られた時間の中、黄昏の時間を美しく儚く燃え上がり尽きること……ただそれだけが求められるのだ。
そういった人生において、「考えること」なんてのは、一切不要だ。
タソガレ――なんて言葉を使う時点で、きっと赤面しなければならないのだ、社交の場においては。
酒はよいものだ
とはいえ、友人たちと過ごした時間は、とても有意義だった。話そのもの自体も、2、3点ほど、納得というか、新しい考え方や知識を得ることができて、よかった。そして、一人で飲んでいるよりも、酒は複数人の方がすすむ。だんだんと、何も考えられなくなっていく感覚……それを過ぎるとすぐに眠くなってしまうのだけれども、酔っぱらった感覚は悪くはない。
人は誰もが、何かに酔っぱらってないとやってらんねえんだ、というのは、調査兵団対抗組織の隊長アッカーマン氏の言であるが、その酔っぱらう元となるのがお酒である。
この記事は、お酒がはいった状態で書いている。
3分で分かる生きる意味
唐突に話が変わる。偶然、以前読んだことのあるサイトにたどり着いた。生きる意味フローチャート
Q1:宇宙のはじまりビッグバンは偶然生じたものだと思いますか?
A(endo):はい。偶然だと思います。
⇒宇宙のはじまりが偶然なら、宇宙・地球・人間、すべてもまた偶然の存在です。生きる意味などありません。以上。
明解である。
で、本当は、「いいえ、偶然ではありません」というと、他のフローチャート分岐に流れていくのだけれども、僕は、「はい、偶然だと思います」という答えなので、結論はすでに出ているのである。
生きる意味などない。
以上。この記事はおろか、このブログ終わり――である。
しかし、僕は、まだ言葉を終わらせられていない。何故だろう。
生きる意味はない……これについて、僕は納得していないのだ。
何故か?
それは、「実存」としての答えと、「世界的な意味」における答えでは、異なると思っているからだ。
ヘーゲル哲学が、世界史として世界は意志をもってジンテーゼに昇華されていくものだと美しく声高々に叫ぼうとも、キルケゴール氏は、「いや、世界なんて知るか。俺がどう生きるかが大事なんだ、バーカバーカ!」と言ったのである。
それを「実存」という。
宇宙の起源と己の生きざま
世界は偶然に生じ、地球も、自分自身さえ偶然に生じたものだとしても、しかし、この世に生を受け……というよりも、この「俺」というその「意識」が生じた以上は、その時点で、問題はなかったことになどできない。今まさにある、「我」。我思う故に――というのは、もう古臭い考え方なのかもしれない。その、実際に生じている「我」というものについて、細かく分解していっても、そこに根源たる意識は見つけ出すことはできないかもしれない。いくら「思った」ところで、我という存在を導くことはできないかもしれない。
しかし、我は実際に存在する。
でなければ、いったい、この記事を書いているのは、何だ?(あえて、誰だ、とは言わない)
それを、現象学という。
エポケーだか、専門用語は忘れてしまったが、現象学の概念は覚えている。客観や、真理といったものを、一度「かっこ」の中に入れて、実際に、その表出していること、生じていること(=現象)についての、発生しているその条件を問うのが現象学である。
ヴィトゲンシュタインさんは、言語ゲームといって、「何か」について話し合うルールが先にあるのではなく、話し合いが生じるその現象において、その現象がそもそもルールなのであるという。
だから。
宇宙がどう、地球がどう、人類がどう、とか、そんなことは、いったんわきに置いておいて、かっこの中にくくってしまい、とりあえず、この僕、私、俺――いったい誰なのかはさっぱり分からないが、そのよく「自分」と表現する存在について、その存在する条件を問うのである。
それが、このブログの目的である(そうだったのか、そうだったのだ)。
合致していない記事も多いと思われるが
そういや、もう、だれにもこのブログを見せる気はないけれども、とある人がみたときに、永遠ぐるぐる、答えのないことを考えていて気持ち悪い、と言われたことがあった。まぁ、そうなんだろうなと思う。気持ち悪いし、もてない、それがこのブログだ。
――とか書くことが、きっと赤面だ。
気持ち悪かろうが何だろうが、もう、書き続けるしかないのだということを、今一度、この年の瀬に書いておこう。
お前は、もう逃れられないのだ、と。
お前は、何をしようが、この、答えのない問いに答えを出さなければ、何をしても、何を得ても、満たされることなど絶対にないのだ、と。
呪い、と表現したこともあった。それは、自らを戒めるためでもある。
人生の些事。仕事も、友人も、恋人も、創作も、遊びも、生きることそのものも、それは些事に過ぎない――というのは、誇張表現でしかないものの、しかし、そうした強い意志を持たなければ、半端な覚悟でいても、ただ、イライラ対処のためだけの記事を量産しても、ダメなのだ。
……話を少し戻そう。
前提とすべきこと
ふと、とあるブログさんの引用。さて、上に取り上げた方は、まぁ、きっと、僕と同じような感覚を味わったことがあるだろうと思う。ベランダに出ることさえできない日々が続いた。怖いのだ。誰かの目に触れることが恐怖でしかなかった。生きているのか死んでいるのか、分からないような日々が何年も続いた。地獄にどっぷりと肩まで浸かって、ただこの世に存在しているだけのゴミ。今が何年何月何日なのか、そんなことさえ分からない。昼と夜が何度も何度も逆転した。ずっと考えてきた。人生ってなんなんだろう?って。おそらく私は普通の人よりも「人生について考えてきた時間」が10年~20年くらい長いんじゃないかと思う。数字の根拠はない。ただ私は、みんなが学校に行ってる時、合コンしている時、就活している時、満員電車に揺られている時、上司に頭を下げている時、接待ゴルフをしている時、飲み屋で愚痴をこぼしている時、ず~~っと人生について考えていた。もともとがバカだから、長く考えたところで何の成果も答えも得られなかったけど。でも自分には、それしかないんです。ずっとひとりで人生について考えてきた地獄のような過去しかない。私にはそれしかない。だったら、そこから抽出したエキスを駆使して、何らかの新薬を開発し、それを自分と同じような人間にワクチンとして投与するしかない。何言ってるか、わかんないだろ?オレも分からん。適当なこと言ってるだけだから。だから私はブログを書いている。
であれば、僕が時折書いているような、「もっとこういったことを書く人に出会いたかった、もっと触れ合いたかった」ということが満たせるのではなかろうか、という希望がわく。
しかし、一つ、前提にしなければならないのは、まずもって、
・絶対的(普遍的)な真理は存在しない
ということである。
先ほど書いた通り、僕は、ビッグバンを偶然と思っている(※)。
世界的、人類共通の真理は信じていない。カオス的世界観をもっているといってよい。それが良い悪いではない。善悪でもない。ただ、混沌が世界の本質だと思っている。――本質? 本質といったものも存在しない。絶対無という表現が好きならそれを使ってもいい。仏教の「空(くう)」という表現でもいいと思う。とにかく、世界には意味もないし、人類にも意味はない。
そうしたときに、果たして、「生きる意味を徹底して考える」人が近くに寄り添ってくれたとして、果たして果たして、それは、自分に「生きがい」を与えてくれるようになるのだろうか。ならん。
――としたら、じゃあ、このブログの意義は何だ? お前がいつも、「自分のため」といいつつ、じゃあ何故公開するのだという問いに対して、「役に立ちたいから」と答えているにも関わらず、おまえ自身が、その意義を否定したのではないか?
――話が進まないので、そのあたりの疑問は黙っておいていただこう。
※ちょっと話がそれるので、コメ書きにする。上の「3分で分かる生きる意味」のフローチャートは面白いと思うけれど、でも、ビッグバンが偶然だからといって、地球生成も、人類生成もイコール偶然、とするのは飛躍している気がする。ビッグバンが偶然であっても、地球をつくったのはもしかして「神様」的存在かもしれない。ただ、その「3分生きる意味」で言いたいところは、「ビッグバン」それ自体ではなく、「すべてにおいての起源」という概念を挙げているのである。この点を理解せずに、理系的に批判してもあんまりおもしろくない。思考実験である。
実存として戦え
もう一つ、とある方……過去の自分さんの記事を引用しよう。しかし、さて、かなしきことに、記事が消えてしまった。だが、小まめな保存のおかげで、それほど被害がなかった。が、いったんここまでとしておこう。
まー長くなっちまったから、ここまでちゃんと読んでくれている人などいないと思うが、どっちかというと、ここからが書こうと思ったことである。(ので、この時点でタイトルを修正)
ちなみに、今回の記事は、先日の記事を読んで赤面したものの、今年7月中旬の「戦う相手は誰だ? ゴールはどこだ?」を読んだら、「おや、これ、面白いんじゃないか」と思ったことが起因している。
(かっこ書きである。続く。というか、こっからが本当は書きたかったところなのだが……)
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今日の一言「分かりやすさとは」「黄昏時の一杯のコーヒー」
創造価値。
体験価値。
そして実存価値だ。
三つ目の価値については、僕はまだ理解できていない。しかし、二つ目まではとても単純だ。
三つの価値は、より根源に近づいている。すなわち、創造価値よりも体験価値が容易く(経験しやすく)、体験価値よりも実存価値の方が、人間にとって普遍的であるということだ。
仕事で失敗し、恋愛で失敗し、コミュニケーションで失敗し落ち込み、絶望しているそこの貴方であっても、創造価値がダメでも、体験価値がダメでも、普遍的な実存価値は手に入れることができるのである。
だから――人生は、人は、ただ、そこに命が与えられ、生きることそのこと・それ自体が素晴らしく、価値があるものなのである。
――といっておけば、大抵失敗しない。
そこに行き着くプロセスが理解できていなくても、何か大いなる真・善・美があるということを掲げていれば、それは「誤り」にはならないのである(※)。
ニーチェの……ニヒリズムといった思想においても、「結論」なるものは、「新しい価値の創造」である。
永劫回帰、永遠回帰で、終わりなきメリーゴーランドのように、ただ同じことの繰り返しが人生の「答え」であったとしても、「だからこそ」独力で、自由の中に自分の判断を基にして、力を手に入れて、価値をつくりあげていくような生き方――超人になれ、と、そう言うのである。
決して、ニヒリズムは、厭世思想なのではない。むしろ、ショーペンハウアーが先だって、世界の表層は苦しみなのだと、厭世感をうたったりしていた。
とりあえず、今、学校教育で教えるような思想は、絶対的に、結論的には「善」だったり、生きることの肯定を前提とされているのだ。
仏教しかり。人生の本質は苦しみだとして、すべてにおいて執着を離れろと――それは、「悟り」という仏教の目的に対してすら執着してはならないと言いつつも、それは決して、ラピュタのバルス的な滅びの呪文などではない。苦しみの中でも、積極的な人生肯定、自由な生き方をするための方法を説いているのである。
自殺して、人類は滅ぶべきだ、とかいう思想は、どこにも、絶対に、出回っていない。なぜか? 危険だし、役に立たないからだ。
※なんかすげーものが普遍的にあって、それの顕在化(表層化)が世界である――といった思想を、汎神論という。ヘーゲル哲学においては、テーゼ、アンチテーゼ、ジンテーゼといった流れで、すべては「世界精神」として真理や善に昇華していく、とされる。
僕は、そういった言葉に価値を感じられない。
というのは、疲れたとか、面倒だということ「ない」ということではなくて、むしろ、その感覚は「すべて」において広まっているからだ。
仕事が面倒だから、アーリーリタイアをするために投資をして、3000万円以上稼いでいるサラリーマンの人もいるし、実際に、早期退職を実行して、悠々自適な生活をしている人もいる。
ただ、あまり羨ましいと思えないのは何故か。
そもそも、「悠々自適」な生活自体が、思い描けないからである。その、悠々自適な生活もまた、「面倒」で「疲れた」ものであるだろうと思ってしまうのである。
疲れたとか、面倒だ、という人がいるが、じゃあ、疲れたり、面倒じゃないことって何かあるだろうか?
お金が欲しいという人もいる。じゃあ、お金があって、何をしたいのか? 美味しいご飯? 女? 家? 車? 称賛? 名誉?
まわりまわって、結局全部「面倒」で「疲れる」ものだと僕は思っている。その多寡(多い少ない)はあるだろうが、結局のところ、生きることそれ自体は、面倒で疲れるものなのだ。
面倒とか、疲れたとかいう人は、さっさと自死したほうが、よほど幸せだと思うのである。
――でも。
人生は疲れたり面倒なものだけれども、一方で、素晴らしいもの(芸術やコミュニケーション)もあったりするから、だましだまし、それなりに生きていくことが正しい、とされているのである。
たいてい、どんな思想も、自己啓発も、生き方に関しての考え方はこの骨格・ロジックになっている。これ以外のものをみたことがない。
いや、あることはある。それこそ、先にあげた、「大いなる真善美がある」とするものだ。その大いなるものは、神であったり、教祖様であったり、宇宙であったり自然であったり科学であったりお金であったり。
まとめると、
・大いなる真善美があるとするもの
・人生の本質は苦しみであるが、良いこと・素晴らしいこともあるから、それだけで価値があるとするもの
この二つである。
僕が知っている思想は、大きく、この二つしかない。
いろいろ、難しく書いたり、素晴らしい表現で描かれたりしているけれども、どっちかしかないのだ。
・大いなる真善美がある(ヘーゲル的・スピリチュアル的)
・人生楽ありゃ苦もあるさ(ニーチェ的・仏教的)
ということだ。
でまぁ、一般論的なことばかり書いていると面白くないから、僕はどう思うかを書けば、二つ目の方が感覚的に近い。
ただ、楽あって苦もある世界が、「それだけで素晴らしいものである」という発想の理解ができていない。
世界というものが、果たして、存在することが本当に正しいのかどうか。
ただ、この疑問の立て方は間違っている。
そもそも、世界に、そのものに「意志」は存在しない。なぜなら、存在するとしてしまえば、一点目の価値観(世界の歴史は大いなる真理に近づいているのだ。それは一面を切り取ってしまえば無価値で無意味にみえるかもしれないが、それはジンテーゼをつくりだすためのテーゼであり、アンチテーゼであるのだ)に近い発想になるからだ。
カオス的、混沌の世界。それが世界の真の顔だ。
ただ生きている。それだけで価値だ――いや、価値だの意味だの言ってること自体がナンセンスだ。ただ、あるがまま、それだけなのだ、と。
それがゆえに、「生きる意味」なるものを考えることの無意味性の証明は、以上となる。
意味など存在しないのだから、考えること自体に意味はないのだ。
ただ、目の前の生活に全力投球したまえ。以上、であるのだ。
生きる意味を考えることに意味はないのかもしれない。
しかし、意味を問うのが、それもまた人間の本質とも言える。
どんな偉い人が言ったって、どんな歴史上の偉人がいったって、どんな親しい人がいったって、疲れたり面倒だと思ったものはそのとおり、疲れたり面倒なものなんだし、頭の中に生じた空虚感ってのは、それは決して、誰かに満たしてもらえるものなんかじゃないってことだ。
統一的な真理も、価値も、意味も、存在などしない。
しかし、だからといって、すべてに意味がないといえるわけでもない。
人は、時間に制約された存在である。
人は、身体に制約された存在である。
人は、欲望に制約された存在である。
その、制約の中にこそ、意味があるのだ。
そこから演繹(敷衍)してみれば、死後の世界を考えることが、意味のあることか、ないことか、自ずと答えはでてくる。
答えは――。
表面的には、「ない」。
何故ならば、人は、時間に制約された存在だからである。時間とは、言い換えれば寿命といってもよい。もちろん、寿命というものは、自分自身で絶対に分かるものではない――ゆいつ。唯一理解できる可能性があるとしたら、それは自死という方法によってだ。だが、その、自らの正常な判断において、自死を選び取ることが、本当にできるのか、というのは非常に難しい問題であり、それ自体も答えなど、表層上しか求められないであろう。わかりづらい表現になったので補足すれば、自死を選択し、実行したときの自分の状態が、正常であったかどうかは誰にも分らない――それは、自分自身にとっても分からないからだ。そして、自死を実行できたのならば、それは寿命であろうし、実行できなかったのなら寿命ではなかったに過ぎないからだ。
しかし、その無いという結論は、「生きる意味を考えることに意味はない」とするのと、同じ次元においてだ。
死後の世界という超越を創造することによって、制約された時空における生命活動に相互に影響させることができるのであれば、それはまた、真実であり、決して、意味のないものではない。
唯一、身体は、鍛えることはできる。しかしそれは、劇的な変身を伴うものではない。
「飲むだけで、着るだけで劇的ダイエット!」的なものに憧れる人がたえないのは、それだけ、身体という規定(制約)が動かしがたいものであるからだ。
僕は、コミュニケーション(恋愛やビジネスやスクールカーストでも、その他云々すべて)では見た目が9割だと思っている。
不良が、猫をかわいがってあげることでトキメキきゅんきゅんさせるというのも、それは、反転した見た目の応用利用に過ぎない。もやしっ子的ながり勉タイプが、重いものをひゅっともってあげたり男らしいところを見せることでトキキュンさせるのも、また然り。
もちろん、長く付き合うことによって、その最初の見た目というアドバンテージだったりウィークポイントだったりは変化していくものであるけれども、コミュニケーションの土台には、やはり見た目が大きく関係するのである。ちなみに、この見た目には、話し方や声といったもの、匂いといった目に見えない部分もそうだし、化粧や服飾ファッションといったテクニック部分も含めて考えたほうが良い。
そういう意味で、マジェスティックプリンスという作品の、ドーベルマンという部隊のリーダーが、「ヒーローに重要なこと? それは……顔がいいことだ」といったのはとても潔くて好感がもてた。
で、なんだっけ? 欲望についてか。
長く書いていると――ここまでで15分、30分ぐらい? だと、何だかよくわからなくなってくる。トランス状態だ。
まぁ、この没頭感的なのに入り込みたいから、僕はこうやって書いているのかもしれない。
逆に、そう、欲望の話と関連するけれども、ここまで没頭できることは、他に、今、僕にはない。
プログラミングしているときとかは、もう時間がワープしているような感じだけれども。
ネットサーフィンとか、ウォーキングデッドとか見ているときもそんな感じだけれども、その、「形に残る」的な意味においては、この記事を書くこと以上に、「楽しい」ことはない。
ああ……。今小見出しを見てみて、「欲望を問う」ということで、これは何を書いておきたかったかというと、つまり、欲望というのは、目先の快楽を追求するものであるのだけれども、ただし、「常にそれは本当に僕が欲しているものなのか?」という問いを深く、長く、強くかけられる人ほど、「真実的な」「普遍的な」「長期的な」「恒久的な」欲望に到達できる可能性がある、ということである。
目の前のやつがむかついたからといって、ケンカをふっかければ、勝つかもしれないが、負けるかもしれないし、社会的信用を失墜するかもしれないし、刺されて命を落とすかもしれない。
そこで、生じた欲望――いやそれは欲動と表現を変えたほうがよいのかもしれないが、本当に、自分として為すべきことなのかを問うことが重要だと思う。
皮肉である。
無気力を生じさせるのが、意味を問うことであるにもかかわらず、結局、意味を問うことでしか自分自身を保持することができないのだ。
(かっこ書きである。トランス状態――恍惚状態が終わり、途端にまた、無気力に陥る。仕事が忙しいとか、土日も予定があるとか、たいした問題ではないのだ。なんかの作品でみたけれど、「もっと、あの人の人生にちゃんと関われたらよかったな」みたいなセリフがあって、面白いというか、感傷的な感覚になった。なるほど、俺は、他者からの干渉も求めていなかったし、「自分がされて嫌なことはしない」というポリシーの元、あまり他者への干渉もしたことがなかったなと思った。まぁこの時点で、「干渉」という言葉を持ち出す時点で頭が狂ってるのかもしれない。相互依存――やや、ちがうちがう、相互関係とか、扶助とか、助け合いとか、そんなんでいいじゃないか。しかしそれは、「人に迷惑をかけてはならない」というポリシーと、またもや相反するものである。つまり、世界は複雑なのだ。唯一子供に正しいこととして教えることができるとしたら、世界は複雑で、どこまでも調整と折衷の中で、相対的な幸福を求めていくしかないのである、ということである。だって、世界が美しいものだったり、人間が素晴らしいものだったら、もう何千年も何万年も経っているのだから、世界平和が成し遂げられ、凄惨な殺人事件とか喧嘩とかなくなっててもいいじゃないか、と思うだろう。いや今もなお、素晴らしい神の国に近づく過程なのだ……といった言説を信じることは、決して馬鹿らしいことではないと思うけれども、ヘーゲル的な思想を無批判に、手放しで喜び賛同できるほど、僕ら人間はもう単純ではないということだ。――この記事の結論は、とても薄いものになった。ただ、30年という自分の人生の総まとめではあるだろう。これ以上書いても、新しいことは生じないと思う。薄っぺらい気もするが、でも、僕の記憶力ではこれが限界だったのだ。まぁ、ただ、価値はあると思う。何故ならば、こういった記事について、僕は今まで、あまり多く読む機会を得なかったからだ。こういった記事をもっと書いてくれる人が多く増えてくれることを期待してやまない。では、こういった記事とは何か? その感覚を普遍的に伝えられる手段を、僕はまだ持ち合わせていない。ただ、わかる人にはきっと、流し読みだけでも伝わると思う。願わくは、未来の自分にとっては、せめて伝わって欲しいと思う。さらに、それをもとに、新たなことを書いてくれることを願ってやまない)
三つの価値と肯定的世界観
人生には三つの価値がある。創造価値。
体験価値。
そして実存価値だ。
三つ目の価値については、僕はまだ理解できていない。しかし、二つ目まではとても単純だ。
三つの価値は、より根源に近づいている。すなわち、創造価値よりも体験価値が容易く(経験しやすく)、体験価値よりも実存価値の方が、人間にとって普遍的であるということだ。
仕事で失敗し、恋愛で失敗し、コミュニケーションで失敗し落ち込み、絶望しているそこの貴方であっても、創造価値がダメでも、体験価値がダメでも、普遍的な実存価値は手に入れることができるのである。
だから――人生は、人は、ただ、そこに命が与えられ、生きることそのこと・それ自体が素晴らしく、価値があるものなのである。
――といっておけば、大抵失敗しない。
そこに行き着くプロセスが理解できていなくても、何か大いなる真・善・美があるということを掲げていれば、それは「誤り」にはならないのである(※)。
ニーチェの……ニヒリズムといった思想においても、「結論」なるものは、「新しい価値の創造」である。
永劫回帰、永遠回帰で、終わりなきメリーゴーランドのように、ただ同じことの繰り返しが人生の「答え」であったとしても、「だからこそ」独力で、自由の中に自分の判断を基にして、力を手に入れて、価値をつくりあげていくような生き方――超人になれ、と、そう言うのである。
決して、ニヒリズムは、厭世思想なのではない。むしろ、ショーペンハウアーが先だって、世界の表層は苦しみなのだと、厭世感をうたったりしていた。
とりあえず、今、学校教育で教えるような思想は、絶対的に、結論的には「善」だったり、生きることの肯定を前提とされているのだ。
仏教しかり。人生の本質は苦しみだとして、すべてにおいて執着を離れろと――それは、「悟り」という仏教の目的に対してすら執着してはならないと言いつつも、それは決して、ラピュタのバルス的な滅びの呪文などではない。苦しみの中でも、積極的な人生肯定、自由な生き方をするための方法を説いているのである。
自殺して、人類は滅ぶべきだ、とかいう思想は、どこにも、絶対に、出回っていない。なぜか? 危険だし、役に立たないからだ。
※なんかすげーものが普遍的にあって、それの顕在化(表層化)が世界である――といった思想を、汎神論という。ヘーゲル哲学においては、テーゼ、アンチテーゼ、ジンテーゼといった流れで、すべては「世界精神」として真理や善に昇華していく、とされる。
疲れたとか面倒くさいということ
面倒だとか、疲れたとか言う人がいる。僕は、そういった言葉に価値を感じられない。
というのは、疲れたとか、面倒だということ「ない」ということではなくて、むしろ、その感覚は「すべて」において広まっているからだ。
仕事が面倒だから、アーリーリタイアをするために投資をして、3000万円以上稼いでいるサラリーマンの人もいるし、実際に、早期退職を実行して、悠々自適な生活をしている人もいる。
ただ、あまり羨ましいと思えないのは何故か。
そもそも、「悠々自適」な生活自体が、思い描けないからである。その、悠々自適な生活もまた、「面倒」で「疲れた」ものであるだろうと思ってしまうのである。
疲れたとか、面倒だ、という人がいるが、じゃあ、疲れたり、面倒じゃないことって何かあるだろうか?
お金が欲しいという人もいる。じゃあ、お金があって、何をしたいのか? 美味しいご飯? 女? 家? 車? 称賛? 名誉?
まわりまわって、結局全部「面倒」で「疲れる」ものだと僕は思っている。その多寡(多い少ない)はあるだろうが、結局のところ、生きることそれ自体は、面倒で疲れるものなのだ。
面倒とか、疲れたとかいう人は、さっさと自死したほうが、よほど幸せだと思うのである。
――でも。
人生は疲れたり面倒なものだけれども、一方で、素晴らしいもの(芸術やコミュニケーション)もあったりするから、だましだまし、それなりに生きていくことが正しい、とされているのである。
たいてい、どんな思想も、自己啓発も、生き方に関しての考え方はこの骨格・ロジックになっている。これ以外のものをみたことがない。
いや、あることはある。それこそ、先にあげた、「大いなる真善美がある」とするものだ。その大いなるものは、神であったり、教祖様であったり、宇宙であったり自然であったり科学であったりお金であったり。
まとめると、
・大いなる真善美があるとするもの
・人生の本質は苦しみであるが、良いこと・素晴らしいこともあるから、それだけで価値があるとするもの
この二つである。
僕が知っている思想は、大きく、この二つしかない。
いろいろ、難しく書いたり、素晴らしい表現で描かれたりしているけれども、どっちかしかないのだ。
二大価値観
簡単に書けば、・大いなる真善美がある(ヘーゲル的・スピリチュアル的)
・人生楽ありゃ苦もあるさ(ニーチェ的・仏教的)
ということだ。
でまぁ、一般論的なことばかり書いていると面白くないから、僕はどう思うかを書けば、二つ目の方が感覚的に近い。
ただ、楽あって苦もある世界が、「それだけで素晴らしいものである」という発想の理解ができていない。
世界というものが、果たして、存在することが本当に正しいのかどうか。
ただ、この疑問の立て方は間違っている。
そもそも、世界に、そのものに「意志」は存在しない。なぜなら、存在するとしてしまえば、一点目の価値観(世界の歴史は大いなる真理に近づいているのだ。それは一面を切り取ってしまえば無価値で無意味にみえるかもしれないが、それはジンテーゼをつくりだすためのテーゼであり、アンチテーゼであるのだ)に近い発想になるからだ。
カオス的、混沌の世界。それが世界の真の顔だ。
ただ生きている。それだけで価値だ――いや、価値だの意味だの言ってること自体がナンセンスだ。ただ、あるがまま、それだけなのだ、と。
それがゆえに、「生きる意味」なるものを考えることの無意味性の証明は、以上となる。
意味など存在しないのだから、考えること自体に意味はないのだ。
ただ、目の前の生活に全力投球したまえ。以上、であるのだ。
生きる意味を考えることに意味はないとすることもまた意味がない
まどろっこしい小見出しになったが、要は、だからといって、頭の中に生じる不快感だとか、疲れただとか、面倒だとかいった感覚を、なかったことにはできない、ということである。生きる意味を考えることに意味はないのかもしれない。
しかし、意味を問うのが、それもまた人間の本質とも言える。
どんな偉い人が言ったって、どんな歴史上の偉人がいったって、どんな親しい人がいったって、疲れたり面倒だと思ったものはそのとおり、疲れたり面倒なものなんだし、頭の中に生じた空虚感ってのは、それは決して、誰かに満たしてもらえるものなんかじゃないってことだ。
統一的な真理も、価値も、意味も、存在などしない。
しかし、だからといって、すべてに意味がないといえるわけでもない。
人は、時間に制約された存在である。
人は、身体に制約された存在である。
人は、欲望に制約された存在である。
その、制約の中にこそ、意味があるのだ。
そこから演繹(敷衍)してみれば、死後の世界を考えることが、意味のあることか、ないことか、自ずと答えはでてくる。
答えは――。
表面的には、「ない」。
何故ならば、人は、時間に制約された存在だからである。時間とは、言い換えれば寿命といってもよい。もちろん、寿命というものは、自分自身で絶対に分かるものではない――ゆいつ。唯一理解できる可能性があるとしたら、それは自死という方法によってだ。だが、その、自らの正常な判断において、自死を選び取ることが、本当にできるのか、というのは非常に難しい問題であり、それ自体も答えなど、表層上しか求められないであろう。わかりづらい表現になったので補足すれば、自死を選択し、実行したときの自分の状態が、正常であったかどうかは誰にも分らない――それは、自分自身にとっても分からないからだ。そして、自死を実行できたのならば、それは寿命であろうし、実行できなかったのなら寿命ではなかったに過ぎないからだ。
しかし、その無いという結論は、「生きる意味を考えることに意味はない」とするのと、同じ次元においてだ。
死後の世界という超越を創造することによって、制約された時空における生命活動に相互に影響させることができるのであれば、それはまた、真実であり、決して、意味のないものではない。
欲望を問うということ
時間も、身体も、動かしようがない。唯一、身体は、鍛えることはできる。しかしそれは、劇的な変身を伴うものではない。
「飲むだけで、着るだけで劇的ダイエット!」的なものに憧れる人がたえないのは、それだけ、身体という規定(制約)が動かしがたいものであるからだ。
僕は、コミュニケーション(恋愛やビジネスやスクールカーストでも、その他云々すべて)では見た目が9割だと思っている。
不良が、猫をかわいがってあげることでトキメキきゅんきゅんさせるというのも、それは、反転した見た目の応用利用に過ぎない。もやしっ子的ながり勉タイプが、重いものをひゅっともってあげたり男らしいところを見せることでトキキュンさせるのも、また然り。
もちろん、長く付き合うことによって、その最初の見た目というアドバンテージだったりウィークポイントだったりは変化していくものであるけれども、コミュニケーションの土台には、やはり見た目が大きく関係するのである。ちなみに、この見た目には、話し方や声といったもの、匂いといった目に見えない部分もそうだし、化粧や服飾ファッションといったテクニック部分も含めて考えたほうが良い。
そういう意味で、マジェスティックプリンスという作品の、ドーベルマンという部隊のリーダーが、「ヒーローに重要なこと? それは……顔がいいことだ」といったのはとても潔くて好感がもてた。
で、なんだっけ? 欲望についてか。
長く書いていると――ここまでで15分、30分ぐらい? だと、何だかよくわからなくなってくる。トランス状態だ。
まぁ、この没頭感的なのに入り込みたいから、僕はこうやって書いているのかもしれない。
逆に、そう、欲望の話と関連するけれども、ここまで没頭できることは、他に、今、僕にはない。
プログラミングしているときとかは、もう時間がワープしているような感じだけれども。
ネットサーフィンとか、ウォーキングデッドとか見ているときもそんな感じだけれども、その、「形に残る」的な意味においては、この記事を書くこと以上に、「楽しい」ことはない。
ああ……。今小見出しを見てみて、「欲望を問う」ということで、これは何を書いておきたかったかというと、つまり、欲望というのは、目先の快楽を追求するものであるのだけれども、ただし、「常にそれは本当に僕が欲しているものなのか?」という問いを深く、長く、強くかけられる人ほど、「真実的な」「普遍的な」「長期的な」「恒久的な」欲望に到達できる可能性がある、ということである。
目の前のやつがむかついたからといって、ケンカをふっかければ、勝つかもしれないが、負けるかもしれないし、社会的信用を失墜するかもしれないし、刺されて命を落とすかもしれない。
そこで、生じた欲望――いやそれは欲動と表現を変えたほうがよいのかもしれないが、本当に、自分として為すべきことなのかを問うことが重要だと思う。
意味を問うことの再浮上する重要性
だから、故に、問いをやめるわけにはいかないのだ。皮肉である。
無気力を生じさせるのが、意味を問うことであるにもかかわらず、結局、意味を問うことでしか自分自身を保持することができないのだ。
(かっこ書きである。トランス状態――恍惚状態が終わり、途端にまた、無気力に陥る。仕事が忙しいとか、土日も予定があるとか、たいした問題ではないのだ。なんかの作品でみたけれど、「もっと、あの人の人生にちゃんと関われたらよかったな」みたいなセリフがあって、面白いというか、感傷的な感覚になった。なるほど、俺は、他者からの干渉も求めていなかったし、「自分がされて嫌なことはしない」というポリシーの元、あまり他者への干渉もしたことがなかったなと思った。まぁこの時点で、「干渉」という言葉を持ち出す時点で頭が狂ってるのかもしれない。相互依存――やや、ちがうちがう、相互関係とか、扶助とか、助け合いとか、そんなんでいいじゃないか。しかしそれは、「人に迷惑をかけてはならない」というポリシーと、またもや相反するものである。つまり、世界は複雑なのだ。唯一子供に正しいこととして教えることができるとしたら、世界は複雑で、どこまでも調整と折衷の中で、相対的な幸福を求めていくしかないのである、ということである。だって、世界が美しいものだったり、人間が素晴らしいものだったら、もう何千年も何万年も経っているのだから、世界平和が成し遂げられ、凄惨な殺人事件とか喧嘩とかなくなっててもいいじゃないか、と思うだろう。いや今もなお、素晴らしい神の国に近づく過程なのだ……といった言説を信じることは、決して馬鹿らしいことではないと思うけれども、ヘーゲル的な思想を無批判に、手放しで喜び賛同できるほど、僕ら人間はもう単純ではないということだ。――この記事の結論は、とても薄いものになった。ただ、30年という自分の人生の総まとめではあるだろう。これ以上書いても、新しいことは生じないと思う。薄っぺらい気もするが、でも、僕の記憶力ではこれが限界だったのだ。まぁ、ただ、価値はあると思う。何故ならば、こういった記事について、僕は今まで、あまり多く読む機会を得なかったからだ。こういった記事をもっと書いてくれる人が多く増えてくれることを期待してやまない。では、こういった記事とは何か? その感覚を普遍的に伝えられる手段を、僕はまだ持ち合わせていない。ただ、わかる人にはきっと、流し読みだけでも伝わると思う。願わくは、未来の自分にとっては、せめて伝わって欲しいと思う。さらに、それをもとに、新たなことを書いてくれることを願ってやまない)
今日の一言「自分を行動させるものは何か」「欲望を取り戻すには」
実存的空虚感といったものが、蔓延していることを前提とする。そのため、そもそも、生きることについて問いを立てたことがない人にとっては無価値であろう。
初めに、その実存的空虚感(意味の喪失感)が何故起こっているのか。これは、とある本によれば、先進国であれ途上国であれ、資本主義国家であれ共産主義国家であれ、「ビザなし」で広まっているとされている。本当にそうなのか? もしそうだとしたら面白いと思うけれども、その点には触れない。
僕は、理由として、宗教やイデオロギーなど、伝統的な権威(価値)が相対的になったからだと思う。
言い換えれば、「自由」を手にしたからだ。――という方向で書きたかったけれども、共産主義国家や途上国でも関係なく広まっているとしたら、果たしてそれらの環境が「自由」なのかは、感覚的に謎なので、疑問が強まる。ただし、相対的に豊かさや情報が広まることによって、その環境下での自由が大きくなっているとすれば、案外間違いではないと思う。
では、なぜ伝統の喪失(=自由)が、意味の喪失感を生じさせるのか。
意志の根拠をもてなくなるからだ。雑に書けば、自分で判断し、決断し、行動することが重いからだ。
――さて自由になったとしよう。自由になって、自由がゆえに(自己)責任という重さはあるが、それゆえに謳歌できることも多いだろう。人生を楽しむことができる余地も増えるはずだ。
そのためには、自分の感性に従ったほうが良い。いろんな人がいて、いろんな考え方がある。いろんな生き方ができる。それが自由なのだ。
そこで重要になるのは、自分の気持ち、感情、欲望だ。
欲望に従って生きること。――ただ、その欲望とは、目先の快楽のみをさすのではなく、崇高な、理想的な、相互協力的な欲望も含まれる。人に感謝されて嬉しかったり、人の役に立って満足感を覚えたり、難しいことをやり遂げた時の達成感。それらを求めるのも、欲望だ。
そう。
伝統が失われた場合、次に重要なのは欲望なのだ。
その欲望も徐々に消えていく場合がある。そして、それこそが、実存的空虚感といった状態である。
欲望の対義は、絶望だ。
絶望とは、法界悋気……ルサンチマン(怨恨)や、すっぱいぶどうのような合理化などとは異なる。「ああしたいけど、僕には力がないから無理なんだ……」というのは、絶望ではない。失望だ(絶望と失望を使い分けてみたが、言葉の微妙な表現に特に意味はない)。
本当は求めたいモノ・コトがあるにも関わらず、それへの到達が不可能だと「あきらめ」てしまった状態と、そもそも、求めたいモノ・コトがあるのかどうかもわからない状態では、大きく異なるのである。
では、何故欲望が消えるなんてことはあるのだろうか。
人は、パンのみに生きるにあらず、だからである。
40代ぐらいで、無職で、孤独で、たまにバイトをしたりして、日々を牛丼などのファストフードで食いつないでいる人もいる。――と書けば、なんか「大変そうだなぁ」と思うわけだけれども、果たして、どうして、そういった感じを思うのだろうか。
ご飯食べて眠れるだけ十分ではないか。がんばってお金をためたら、女性と性欲を満たすこともできるかもしれない。
もちろん、そうしたことで満足して人生を送っている人もいる。
一方で、お金もあるのに、「むなしい」なんて言っている人は、ただの贅沢ではないか。おごりではないか。なまけものではないか。
下をみればいくらでも下はあるものだし、上をみればいくらでも上がある。当たり前だ。本当の下の人は、下にいけばいくほど少なくなるし、逆もしかりだ。統計というよりも、算数的というか。
さらに、上も下も、それを決める評価軸など存在しないのである。
あるとすれば、それこそ「欲望」なのである。
お金を欲する人は、お金の多寡が評価軸だし、モテたい人はイケメン(顔や性格)度が評価軸だし、支配欲がある人は権力が評価軸だ。それらの評価軸は様々で、曲がっていたり、交錯したり、重なっていたり、一様ではない。
だから、他者と比較することに意味はないのだ。
そして、今、さらに、「欲望」が出現した。
そう。評価を求めること……「よい人生」なるものを求めるためには、やはり「欲望」が必要なのだ。
先日も書いたが、素直に、僕が今求めるものを書くのであれば、「なにもないこと」を欲している。
矛盾ではないか。
欲望とは、何か欲する、内なる声……欲しいものだとか、欲しいことだとか。
それなのに、「なにもないこと(もの)を欲する」というのは、言葉として、文章としてなりたっていないのではないか。
しかし、考え方や目線を変えれば、例えば、小欲や瞑想や坐禅によってアタラクシア(心の平静状態)や涅槃を求める生き方だってあるわけだし、「なにもない」を欲するというのもそこまで矛盾ではないかもしれない。
ただ、ここで、僕は思ってしまうに、それは、「無」や「死」とは異なるものなのだろうか、ということである。
死は避けられない……一方で人は、いや生物は、自己保存欲求など(生きたい・知りたい・仲間になりたい)をインプットされているため、死をできるだけ回避しようとするのである。フランスの哲学者(バタイユさん)なんかは、芸術なんかも、死からの逃避によって美しく仕上がるのだとか言っていた気がする。そうした表現はびびっとくる(感動する)ものである。フランクルさんの言うところの体験価値だ。
死への希求……ああ、これも、誰かが言っていた(書いていた)気がする。これは誰だったかなぁ。忘れたなぁ。どうこうした場合に、人は死を求めるようになる……とかそんな文脈だったような気もするけれども。
教科書に書いてあることって、ある程度客観性があるし、人類社会にとって「役に立つこと」である。
有害図書っていう存在もあるようだ。
ということはだ。逆に考えれば、今あるものは、今まで残ってきたもの(考え)は、「よいもの」だけであるということだ。(キノの旅の「本の国」ってのがそれ系の話である)
どうにも、とりあえず、「死んじゃいけない」とか、そういった考えが前提にある。
なんかそういう、最初から存在する圧力、バイアスってものを、いったん全部取り払いたい。
結論として、結果として、もしくは妥協案かもしれないが、最終的に「死ぬのはよくない」ということになったとしても、最初からその前提ありきで考えたら、感じたら、欲望を思ったら、――とりあえず僕は、僕の中では、やっぱりどこかで支障、故障が発生する気がする。
完全自殺マニュアルじゃあないから、別に死ぬことを肯定するわけでも、勧めるわけでもないが、やっぱり落ち着いて考えたいと思う。
こう、つかみどころのない、雲や霞を食べたいとか言ってるようなものである。
忙しいなら、時間をつくればいいじゃない?
というアドバイスが浮かぶと思う。なるほど、それは一つ方法としてよさそうだ。
が、例えば、今日もわりかし早く帰ってきたけれども、イライラというか、気分の落ち着かなさは何らここ最近と変わらなかった。
なにもないものが欲しい、とは、もっといってしまえば、別に「時間」が欲しいわけでもないのである。
どっちかというとトランス状態、瞑想状態が近いのかもしれない。
じゃあ寝たら?
というアドバイスも浮かびそうだ。
しかし、睡眠もまた解決させない。むしろ、睡眠はさらなる憂鬱感を高めたりもする。
そうやって、突き詰めて考えていくと、自然に浮かんでくるのが、「じゃあ死ねよめんどくせぇ奴だな」という言葉である。
……ひどい、哀しくなる(かっこわらい)。
そこで、新たに、救済、福音となるような言葉、問いというのが、「生きる意味を徹底して考えるがよい」ということである。
だから、それに関する本(たとえば、物理学の本や生物学や宇宙に関しての本なんかもそのうちの一つだし、医学や精神医学や心理学(ビジネス本や啓発本も含めてもよいし)、哲学だってそうだし、歴史だってそうだ)を読むのは、自己の呵責を生じさせないし、ましてや、こうした記事を書くことも、何ら責められるものではない。
だから、僕は書かねばならぬのである。これはもはや、使命感というか、――いやそんな大層なものではなく、「それしかできない」というか、呪縛のようなものかもしれない。
(かっこ書きである。で、タイトルと内容が一致していないという事案が発生。「言葉」と「行動」と「感情」が一致していないと。これもまぁ、「言行一致」がかっこよい、とされるけれども、まぁ、矛盾に満ちた表現である。じゃあ、ビジネスマナーとか、建前とか、コミュニケーションにおける形式的な様式というのは、なんなのか。いやまぁ、それを、「感情」や思考から切り離して、もはや自然に行うことができるようになるのが「大人」なのかもしれないが(キノの旅の「大人の国」がそれ系の話である)。ので、別に、言葉や感情と、行動が一致してなかろうが、感情と言葉が別であろうが、そんなの、大した問題じゃあないのである。じゃあ何が問題なのかといえば、「人を騙している」ということである。――というのは表現ミスだ。騙してもよいのだ。問題は、その「意図」である。騙すという言葉を使うと、ネガティブな印象を皆思うだろう。しかし、きれいなウソってのもあるだろう。それと同じだ。消極的な嘘というのもある。率直に気持ち悪い奴だと思っても、それを表現しないで黙っているという場合がそれだ。伝えてはいないから、嘘ではないが、しかし、心の中では見下したり、けなしたりしているのである。でもそういうことを、率直にいつでも相手に伝えることが必ずしもよいことではないだろう。「好き」という感情。「好き」「愛している」という言葉――そしてその言葉を表現する行動。そこに、感情がなくても言葉と行動ができるのが、「サイコパス」と呼ばれたりする。しかしそもそも、感情なんてものが、本当に誰にも共通に備わっているのだろうか(=哲学的ゾンビ・クオリア)。そして、自分自身で感じている――と思っているのが、本当に「感情」なるものなのだろうか。感情なんて、そもそも、「好き」「嫌い」といった単純なものにわけられるのか。確かに脳の「側坐核」が情報のレッテル貼りをしているが、顕在化した意識において、それを行動にまで影響させる過程において、果たしてそんな単純な「好き」「嫌い」の原理で動いているのだろうか。では、「疲れた」という感覚は、感情なのか。イライラは、「好き」「嫌い」のどちらなのか。イライラが好きというのは形容矛盾なので、たぶん「嫌い」カテゴリなのだろうが、しかし、イライラって嫌いってことなの? 何に対して? 対象は? よくわからないけれどもイライラするってこと、ない? あるよね。それは何に対してイライラしているのか。それは好き嫌い関係するのか。そして突然だけれども、目が明かなくなってきたので強制終了)
伝統の喪失
根拠なく書いていく。この記事は、意味への信仰を、多くの人が失っているという仮定に立つ。実存的空虚感といったものが、蔓延していることを前提とする。そのため、そもそも、生きることについて問いを立てたことがない人にとっては無価値であろう。
初めに、その実存的空虚感(意味の喪失感)が何故起こっているのか。これは、とある本によれば、先進国であれ途上国であれ、資本主義国家であれ共産主義国家であれ、「ビザなし」で広まっているとされている。本当にそうなのか? もしそうだとしたら面白いと思うけれども、その点には触れない。
僕は、理由として、宗教やイデオロギーなど、伝統的な権威(価値)が相対的になったからだと思う。
言い換えれば、「自由」を手にしたからだ。――という方向で書きたかったけれども、共産主義国家や途上国でも関係なく広まっているとしたら、果たしてそれらの環境が「自由」なのかは、感覚的に謎なので、疑問が強まる。ただし、相対的に豊かさや情報が広まることによって、その環境下での自由が大きくなっているとすれば、案外間違いではないと思う。
では、なぜ伝統の喪失(=自由)が、意味の喪失感を生じさせるのか。
意志の根拠をもてなくなるからだ。雑に書けば、自分で判断し、決断し、行動することが重いからだ。
欲望の復興
話しをさっさと進めたい。――さて自由になったとしよう。自由になって、自由がゆえに(自己)責任という重さはあるが、それゆえに謳歌できることも多いだろう。人生を楽しむことができる余地も増えるはずだ。
そのためには、自分の感性に従ったほうが良い。いろんな人がいて、いろんな考え方がある。いろんな生き方ができる。それが自由なのだ。
そこで重要になるのは、自分の気持ち、感情、欲望だ。
欲望に従って生きること。――ただ、その欲望とは、目先の快楽のみをさすのではなく、崇高な、理想的な、相互協力的な欲望も含まれる。人に感謝されて嬉しかったり、人の役に立って満足感を覚えたり、難しいことをやり遂げた時の達成感。それらを求めるのも、欲望だ。
そう。
伝統が失われた場合、次に重要なのは欲望なのだ。
欲望の喪失
ところが。その欲望も徐々に消えていく場合がある。そして、それこそが、実存的空虚感といった状態である。
欲望の対義は、絶望だ。
絶望とは、法界悋気……ルサンチマン(怨恨)や、すっぱいぶどうのような合理化などとは異なる。「ああしたいけど、僕には力がないから無理なんだ……」というのは、絶望ではない。失望だ(絶望と失望を使い分けてみたが、言葉の微妙な表現に特に意味はない)。
本当は求めたいモノ・コトがあるにも関わらず、それへの到達が不可能だと「あきらめ」てしまった状態と、そもそも、求めたいモノ・コトがあるのかどうかもわからない状態では、大きく異なるのである。
では、何故欲望が消えるなんてことはあるのだろうか。
人は、パンのみに生きるにあらず、だからである。
40代ぐらいで、無職で、孤独で、たまにバイトをしたりして、日々を牛丼などのファストフードで食いつないでいる人もいる。――と書けば、なんか「大変そうだなぁ」と思うわけだけれども、果たして、どうして、そういった感じを思うのだろうか。
ご飯食べて眠れるだけ十分ではないか。がんばってお金をためたら、女性と性欲を満たすこともできるかもしれない。
もちろん、そうしたことで満足して人生を送っている人もいる。
一方で、お金もあるのに、「むなしい」なんて言っている人は、ただの贅沢ではないか。おごりではないか。なまけものではないか。
他者との比較は誤り
しかし、他者と、他環境と比較することは、何の解決にもならないと、この点については何度も書いてきた。下をみればいくらでも下はあるものだし、上をみればいくらでも上がある。当たり前だ。本当の下の人は、下にいけばいくほど少なくなるし、逆もしかりだ。統計というよりも、算数的というか。
さらに、上も下も、それを決める評価軸など存在しないのである。
あるとすれば、それこそ「欲望」なのである。
お金を欲する人は、お金の多寡が評価軸だし、モテたい人はイケメン(顔や性格)度が評価軸だし、支配欲がある人は権力が評価軸だ。それらの評価軸は様々で、曲がっていたり、交錯したり、重なっていたり、一様ではない。
だから、他者と比較することに意味はないのだ。
そして、今、さらに、「欲望」が出現した。
そう。評価を求めること……「よい人生」なるものを求めるためには、やはり「欲望」が必要なのだ。
正しい欲望とは存在するか
ここから、欲望に絞って書いていく。先日も書いたが、素直に、僕が今求めるものを書くのであれば、「なにもないこと」を欲している。
矛盾ではないか。
欲望とは、何か欲する、内なる声……欲しいものだとか、欲しいことだとか。
それなのに、「なにもないこと(もの)を欲する」というのは、言葉として、文章としてなりたっていないのではないか。
しかし、考え方や目線を変えれば、例えば、小欲や瞑想や坐禅によってアタラクシア(心の平静状態)や涅槃を求める生き方だってあるわけだし、「なにもない」を欲するというのもそこまで矛盾ではないかもしれない。
ただ、ここで、僕は思ってしまうに、それは、「無」や「死」とは異なるものなのだろうか、ということである。
死は避けられない……一方で人は、いや生物は、自己保存欲求など(生きたい・知りたい・仲間になりたい)をインプットされているため、死をできるだけ回避しようとするのである。フランスの哲学者(バタイユさん)なんかは、芸術なんかも、死からの逃避によって美しく仕上がるのだとか言っていた気がする。そうした表現はびびっとくる(感動する)ものである。フランクルさんの言うところの体験価値だ。
死への希求……ああ、これも、誰かが言っていた(書いていた)気がする。これは誰だったかなぁ。忘れたなぁ。どうこうした場合に、人は死を求めるようになる……とかそんな文脈だったような気もするけれども。
焚書坑儒
昔、儒学という学問が中国であって、それらが現政府を批判する思想だとして弾圧されたことがあった。教科書に書いてあることって、ある程度客観性があるし、人類社会にとって「役に立つこと」である。
有害図書っていう存在もあるようだ。
ということはだ。逆に考えれば、今あるものは、今まで残ってきたもの(考え)は、「よいもの」だけであるということだ。(キノの旅の「本の国」ってのがそれ系の話である)
どうにも、とりあえず、「死んじゃいけない」とか、そういった考えが前提にある。
なんかそういう、最初から存在する圧力、バイアスってものを、いったん全部取り払いたい。
結論として、結果として、もしくは妥協案かもしれないが、最終的に「死ぬのはよくない」ということになったとしても、最初からその前提ありきで考えたら、感じたら、欲望を思ったら、――とりあえず僕は、僕の中では、やっぱりどこかで支障、故障が発生する気がする。
完全自殺マニュアルじゃあないから、別に死ぬことを肯定するわけでも、勧めるわけでもないが、やっぱり落ち着いて考えたいと思う。
切り捨てるもの選択するもの
しかし、なにもないものが欲しいというのは、とても難しいことである。こう、つかみどころのない、雲や霞を食べたいとか言ってるようなものである。
忙しいなら、時間をつくればいいじゃない?
というアドバイスが浮かぶと思う。なるほど、それは一つ方法としてよさそうだ。
が、例えば、今日もわりかし早く帰ってきたけれども、イライラというか、気分の落ち着かなさは何らここ最近と変わらなかった。
なにもないものが欲しい、とは、もっといってしまえば、別に「時間」が欲しいわけでもないのである。
どっちかというとトランス状態、瞑想状態が近いのかもしれない。
じゃあ寝たら?
というアドバイスも浮かびそうだ。
しかし、睡眠もまた解決させない。むしろ、睡眠はさらなる憂鬱感を高めたりもする。
そうやって、突き詰めて考えていくと、自然に浮かんでくるのが、「じゃあ死ねよめんどくせぇ奴だな」という言葉である。
……ひどい、哀しくなる(かっこわらい)。
そこで、新たに、救済、福音となるような言葉、問いというのが、「生きる意味を徹底して考えるがよい」ということである。
だから、それに関する本(たとえば、物理学の本や生物学や宇宙に関しての本なんかもそのうちの一つだし、医学や精神医学や心理学(ビジネス本や啓発本も含めてもよいし)、哲学だってそうだし、歴史だってそうだ)を読むのは、自己の呵責を生じさせないし、ましてや、こうした記事を書くことも、何ら責められるものではない。
だから、僕は書かねばならぬのである。これはもはや、使命感というか、――いやそんな大層なものではなく、「それしかできない」というか、呪縛のようなものかもしれない。
(かっこ書きである。で、タイトルと内容が一致していないという事案が発生。「言葉」と「行動」と「感情」が一致していないと。これもまぁ、「言行一致」がかっこよい、とされるけれども、まぁ、矛盾に満ちた表現である。じゃあ、ビジネスマナーとか、建前とか、コミュニケーションにおける形式的な様式というのは、なんなのか。いやまぁ、それを、「感情」や思考から切り離して、もはや自然に行うことができるようになるのが「大人」なのかもしれないが(キノの旅の「大人の国」がそれ系の話である)。ので、別に、言葉や感情と、行動が一致してなかろうが、感情と言葉が別であろうが、そんなの、大した問題じゃあないのである。じゃあ何が問題なのかといえば、「人を騙している」ということである。――というのは表現ミスだ。騙してもよいのだ。問題は、その「意図」である。騙すという言葉を使うと、ネガティブな印象を皆思うだろう。しかし、きれいなウソってのもあるだろう。それと同じだ。消極的な嘘というのもある。率直に気持ち悪い奴だと思っても、それを表現しないで黙っているという場合がそれだ。伝えてはいないから、嘘ではないが、しかし、心の中では見下したり、けなしたりしているのである。でもそういうことを、率直にいつでも相手に伝えることが必ずしもよいことではないだろう。「好き」という感情。「好き」「愛している」という言葉――そしてその言葉を表現する行動。そこに、感情がなくても言葉と行動ができるのが、「サイコパス」と呼ばれたりする。しかしそもそも、感情なんてものが、本当に誰にも共通に備わっているのだろうか(=哲学的ゾンビ・クオリア)。そして、自分自身で感じている――と思っているのが、本当に「感情」なるものなのだろうか。感情なんて、そもそも、「好き」「嫌い」といった単純なものにわけられるのか。確かに脳の「側坐核」が情報のレッテル貼りをしているが、顕在化した意識において、それを行動にまで影響させる過程において、果たしてそんな単純な「好き」「嫌い」の原理で動いているのだろうか。では、「疲れた」という感覚は、感情なのか。イライラは、「好き」「嫌い」のどちらなのか。イライラが好きというのは形容矛盾なので、たぶん「嫌い」カテゴリなのだろうが、しかし、イライラって嫌いってことなの? 何に対して? 対象は? よくわからないけれどもイライラするってこと、ない? あるよね。それは何に対してイライラしているのか。それは好き嫌い関係するのか。そして突然だけれども、目が明かなくなってきたので強制終了)
今日の一言「毎日疲れたとかやる気ないとかつまらないとか言ってる気がする」「言ってはいない、思ってるだけだ」
穏やかな気持ちでいたいと思いながら、ますますイライラを高めていく自分にさらにいらだつという悪循環である。
しかしこう……無気力だ虚無だと言っているのと比べて、イライラしている方がよほど人間的ではなかろうか……んなはずはない。まぁ、人間的かどうかは置いておいて、それが良いことだとは到底思えない。
とか言うと、「怒ったり、不満をぶちまけることも大切だよ!」なんてしたり顔で言われたりしたらもうさらにイライラは高まっていく。
じゃあ、お前、いったい、どうして欲しいんだよ? なんて言って欲しいんだ? どうやったら助けてあげられるんだ?
――放っておいて欲しい、のだろうと思う。
こう、なんだ、人との関わり合いはとても重要だと思いつつも、やっぱり、「疲れる」。
「話せばすっきりするさ!」
って言う方法だってあるんだろうが、どうにも性にあわない、のかもしれない。
なんなんだろうな。
――これは、自分との対話って面が強いと思う。特にこのイライラ対処は。
対話……というか、口論なり、言い争いなり、ケンカなりかもしれない。
抑えがたき自分の感情を、理性なる自分が調整しようとしているのかもしれない。
これが、他者との会話や関わりになると、「他者」という調整相手が増えるために、余計に疲れてしまうのかもしれない。
自分の最初に印象というか、浮かんだ言葉を使うとわかりづらいが、要は、「人は人、己は己」という言説である。
これを突き詰めると、他者の考えは正しいけれども、そうじゃない考えもある、ということで、どこまでいっても相対主義や懐疑主義に陥る。
本当に正しいことって、必要なんじゃないか?
――そんなもの無い。とニーチェさんはいう。真理や神なんてのは、ルサンチマンを抱えた弱者がつくりあげた幻想蒙昧に過ぎないと。
――だから。真理なんてものは捨て去って、「力への意志」……つまり、欲望のなすところを目指せと。自分の感覚を信じろと。
人生は永遠回帰なのだと。
お前は、今のこの生活、この時間を、毎回毎回繰り返すのだ。すべての条件、すべての感情、すべての環境がそのまま繰り返される、終わりなきメリーゴーランドなのだと。
そうした人生において、お前は、今行おうとしていることを、この先、何度も何度も何度も何度も何度も繰り返すのだけれども、それでも、今お前は、その為そうとしていることを、やる気になるのか?
やる気になるのだとすれば、やればよい。
そうじゃないと思うのなら、やめたほうがよいだろう。
確かに、今なそうとしていることが、「永遠に繰り返されるとしても、それでもやるべきことか?」という問いかけは、力強さを思わせる。
ところが、その実践的側面を考えたときに、まずもって、人は自分の呼吸を意識するのも大変なのに、絶え間なく過ぎ去る時間と、空間(そして身体)の制約の中で、逐一の決断を本当に意識的に行えるのだろうか――いや無理である。
すべてを意識することは不可能である。――とはいいつつ、結構何度も試してみたことはある。より実践的に、24時間をセクション(ある単位ごと)に区切って、それぞれの時間帯に自分はどういった状態でどういった判断を行っているのか、明確に規定しようとしたり。
人間の行為行動は、必ずしもすべて意識下において行われるものではないので、無理な試みであった。それでも、無駄なこととは思わない。スケジュール管理なんて、その一端である。しかし、感情や悩みというものが存在する以上、常に明確な判断などできないのである。
時間の意識がなければ、実は判断は単純なのである。
今この瞬間の快をとるか、どうか、それだけだ。
しかし、人は、未来を想像する。
例えば、遅い時間に目の前の甘いプリンを食べることは、将来の健康に悪影響だろうが、いま・この瞬間においては、悩む必要などない。食べろ。そうして、背徳的な甘美にすら身を包み込むだろう。
未来。
しかし、未来とは、本当にやってくるのだろうか?
明日という時間が、どうしてまぎれもなく自分のものだと信じられるのか?
なんの根拠もない。根拠もないが、しかし、単に信じる。
しかしだ。その、途方もなく、朧げな未来という奴があるおかげで、「悩み」が生じるのだ。
今こうして、夜も更けて、体も疲れた状態で、なお、書き続けること……それが、何故必要なのか。わからない。悩む。でも、これまでの経験上、僕は、今、書くことを選択する。他の様々なことよりも優先させて。
今日の記事は、正直分からない。ただ、分かりやすくするための努力はしよう。
分かりやすくするためには、何が必要なのか? ――素直さだ。
ええと、素直に書くと、疲れた。
疲れた……とは何か。疲れたという言葉を説明すると、「体のだるさ」と、「つまらなさ」と、「やる気の出なさ」である。
とにかく……こう、人とかかわることをできるだけ避けたいと思ってしまう。
親しい人だろうが、優しい女性だろうが、親だろうがなんだろうが、もうとにかく会いたくも話したくもない。
――なんでこう、人を怖がるのだろう?
怖い? 俺が? 人を? 何故?
てきとーに、「怖い」という表現を使ったら、案外しっくりきたのが不思議だが、しかし、別に怖いわけではない。ただ、「いらいら」させられる。
イライラとは何か? 疲れたとは違うのか?
うーん、ここら辺の内容は、もっと落ち着いたときに書いておくべきだ。
とにかく、この記事は、このどうしようもない感情というか気持ちを、できるだけ書き残しておこう、表現しておこうというものである。
そして、人を遠ざけたいという感覚……これが何でなんだろうということをもう少し掘り下げてみたい。
(かっこ書きである。全然まとまらないけど、体の方が限界である。寝よう。ああ、しかし、書き足りない。今日、早く帰られたのに、いらいらし過ぎて何も手につかなかった。そしたらウォーキングデッド見てしまった。またダラダラ2時間ぐらいみてしまったよ。うん、これはまず、絶対禁止しよう。昨日宣言したのに、まったく何やってんだか。……あ、もしかしたら、これもイライラの原因だったのかもしれない。……いや、それはちょっと違うな。そもそも見る前からイライラしてたし。だいたい、この「いらいら」って表現がそもそも気に食わないんだよな。イライラってなんだよほんと。もっとちゃんと表現しろよ、と思う。「てめーむかつくんだよ」的なこといってる人と変わらないじゃないか。「むかつく」っていわれても、具体的に何がどう気に食わないのかいわないと、コミュニケーションとしては失敗である。――いや、まぁ、「威圧」とか「恐怖による支配」という意味では役に立つのだろうけれども、そういう奴らがホント好きじゃない。ああ、そうだ、少し思い出したが、「利用される」というのが非常に気に食わない。が、しかし、「利用」という言葉がよくないけれども、「助け合う」というのと、根本的にはあまり違わないとは思う。問題は、そこに「人格」を認めているかどうかだ。人を人として扱ったうえで、「役に立ってもら」っているのかどうか、ということ。それを助けてもらう、というのか、利用している、というのか、もはや感覚の問題だ。ああ、もう、目が明かなくなってきから強制終了)
疲れた
どうして、こう、やること、なすこと、会う人、話す人、読んだり、聞いたり、――その他いろいろ、イライラさせられるのか。穏やかな気持ちでいたいと思いながら、ますますイライラを高めていく自分にさらにいらだつという悪循環である。
しかしこう……無気力だ虚無だと言っているのと比べて、イライラしている方がよほど人間的ではなかろうか……んなはずはない。まぁ、人間的かどうかは置いておいて、それが良いことだとは到底思えない。
とか言うと、「怒ったり、不満をぶちまけることも大切だよ!」なんてしたり顔で言われたりしたらもうさらにイライラは高まっていく。
じゃあ、お前、いったい、どうして欲しいんだよ? なんて言って欲しいんだ? どうやったら助けてあげられるんだ?
――放っておいて欲しい、のだろうと思う。
こう、なんだ、人との関わり合いはとても重要だと思いつつも、やっぱり、「疲れる」。
「話せばすっきりするさ!」
って言う方法だってあるんだろうが、どうにも性にあわない、のかもしれない。
矛盾注意報
おま、放っておいて欲しいとかいっておいて、ブログ書くのは何なんだ、と思う。なんなんだろうな。
――これは、自分との対話って面が強いと思う。特にこのイライラ対処は。
対話……というか、口論なり、言い争いなり、ケンカなりかもしれない。
抑えがたき自分の感情を、理性なる自分が調整しようとしているのかもしれない。
これが、他者との会話や関わりになると、「他者」という調整相手が増えるために、余計に疲れてしまうのかもしれない。
ニヒリズム
他者の言葉を受け入れられない、他者を認められない……というのは、反転した全許容のせいもある。自分の最初に印象というか、浮かんだ言葉を使うとわかりづらいが、要は、「人は人、己は己」という言説である。
これを突き詰めると、他者の考えは正しいけれども、そうじゃない考えもある、ということで、どこまでいっても相対主義や懐疑主義に陥る。
本当に正しいことって、必要なんじゃないか?
――そんなもの無い。とニーチェさんはいう。真理や神なんてのは、ルサンチマンを抱えた弱者がつくりあげた幻想蒙昧に過ぎないと。
――だから。真理なんてものは捨て去って、「力への意志」……つまり、欲望のなすところを目指せと。自分の感覚を信じろと。
人生は永遠回帰なのだと。
お前は、今のこの生活、この時間を、毎回毎回繰り返すのだ。すべての条件、すべての感情、すべての環境がそのまま繰り返される、終わりなきメリーゴーランドなのだと。
そうした人生において、お前は、今行おうとしていることを、この先、何度も何度も何度も何度も何度も繰り返すのだけれども、それでも、今お前は、その為そうとしていることを、やる気になるのか?
やる気になるのだとすれば、やればよい。
そうじゃないと思うのなら、やめたほうがよいだろう。
分かりやすい人生訓である
超人になれとニーチェさんは言うけれども、どうやったらなれるんだ、と。確かに、今なそうとしていることが、「永遠に繰り返されるとしても、それでもやるべきことか?」という問いかけは、力強さを思わせる。
ところが、その実践的側面を考えたときに、まずもって、人は自分の呼吸を意識するのも大変なのに、絶え間なく過ぎ去る時間と、空間(そして身体)の制約の中で、逐一の決断を本当に意識的に行えるのだろうか――いや無理である。
すべてを意識することは不可能である。――とはいいつつ、結構何度も試してみたことはある。より実践的に、24時間をセクション(ある単位ごと)に区切って、それぞれの時間帯に自分はどういった状態でどういった判断を行っているのか、明確に規定しようとしたり。
人間の行為行動は、必ずしもすべて意識下において行われるものではないので、無理な試みであった。それでも、無駄なこととは思わない。スケジュール管理なんて、その一端である。しかし、感情や悩みというものが存在する以上、常に明確な判断などできないのである。
悩むということ
判断が難しいのは、時間が未来に向かって常に流れ続けていることも一つ原因だ。時間の意識がなければ、実は判断は単純なのである。
今この瞬間の快をとるか、どうか、それだけだ。
しかし、人は、未来を想像する。
例えば、遅い時間に目の前の甘いプリンを食べることは、将来の健康に悪影響だろうが、いま・この瞬間においては、悩む必要などない。食べろ。そうして、背徳的な甘美にすら身を包み込むだろう。
未来。
しかし、未来とは、本当にやってくるのだろうか?
明日という時間が、どうしてまぎれもなく自分のものだと信じられるのか?
なんの根拠もない。根拠もないが、しかし、単に信じる。
しかしだ。その、途方もなく、朧げな未来という奴があるおかげで、「悩み」が生じるのだ。
今こうして、夜も更けて、体も疲れた状態で、なお、書き続けること……それが、何故必要なのか。わからない。悩む。でも、これまでの経験上、僕は、今、書くことを選択する。他の様々なことよりも優先させて。
わかりやすい記事にしよう
昨日の記事は、分かりやすかった。今日の記事は、正直分からない。ただ、分かりやすくするための努力はしよう。
分かりやすくするためには、何が必要なのか? ――素直さだ。
ええと、素直に書くと、疲れた。
疲れた……とは何か。疲れたという言葉を説明すると、「体のだるさ」と、「つまらなさ」と、「やる気の出なさ」である。
とにかく……こう、人とかかわることをできるだけ避けたいと思ってしまう。
親しい人だろうが、優しい女性だろうが、親だろうがなんだろうが、もうとにかく会いたくも話したくもない。
――なんでこう、人を怖がるのだろう?
怖い? 俺が? 人を? 何故?
てきとーに、「怖い」という表現を使ったら、案外しっくりきたのが不思議だが、しかし、別に怖いわけではない。ただ、「いらいら」させられる。
イライラとは何か? 疲れたとは違うのか?
うーん、ここら辺の内容は、もっと落ち着いたときに書いておくべきだ。
とにかく、この記事は、このどうしようもない感情というか気持ちを、できるだけ書き残しておこう、表現しておこうというものである。
そして、人を遠ざけたいという感覚……これが何でなんだろうということをもう少し掘り下げてみたい。
(かっこ書きである。全然まとまらないけど、体の方が限界である。寝よう。ああ、しかし、書き足りない。今日、早く帰られたのに、いらいらし過ぎて何も手につかなかった。そしたらウォーキングデッド見てしまった。またダラダラ2時間ぐらいみてしまったよ。うん、これはまず、絶対禁止しよう。昨日宣言したのに、まったく何やってんだか。……あ、もしかしたら、これもイライラの原因だったのかもしれない。……いや、それはちょっと違うな。そもそも見る前からイライラしてたし。だいたい、この「いらいら」って表現がそもそも気に食わないんだよな。イライラってなんだよほんと。もっとちゃんと表現しろよ、と思う。「てめーむかつくんだよ」的なこといってる人と変わらないじゃないか。「むかつく」っていわれても、具体的に何がどう気に食わないのかいわないと、コミュニケーションとしては失敗である。――いや、まぁ、「威圧」とか「恐怖による支配」という意味では役に立つのだろうけれども、そういう奴らがホント好きじゃない。ああ、そうだ、少し思い出したが、「利用される」というのが非常に気に食わない。が、しかし、「利用」という言葉がよくないけれども、「助け合う」というのと、根本的にはあまり違わないとは思う。問題は、そこに「人格」を認めているかどうかだ。人を人として扱ったうえで、「役に立ってもら」っているのかどうか、ということ。それを助けてもらう、というのか、利用している、というのか、もはや感覚の問題だ。ああ、もう、目が明かなくなってきから強制終了)
今日の一言「矮小な自分を恐れる必要はない」「面白くなさよりも分かりづらくなることを危惧しなさい」
この小見出しは、必ずしも内容と一致しているかというとそうではない。けれども、重要なのは、「こういうことを書こうと思った」という方針が見えることである。実際書いている内容が異なろうが、小見出しを書いた時点では、「そう思った」のである。
ただ、分かりづらいなとは思うけれども、何となく、「こういうことを書きたいだろうな」ということは、自分自身の書いたことなので分かる。
それで、分かりづらい理由をさらに考えてみたときに、その時の「感情」が見えないことが一番の原因に思った。
例えば、
自分で書いたものについてもそうなのだから、ましてや他者が読んだときに一体何を理解可能なのだろうか、と思う。
ただ、この記事は、カテゴリが「イライラ対処」であるし、単に、いじめによる自殺といった事件のニュースを見て、腹立たしく感じたことの表現なのだ。
僕はいじめ反対である。ところが、このいじめというのは、社会や集団の構造上発生する可能性がゼロにはできないものだとも思っている。ここに、僕の「理想」なるものと、現実と折り合いをつけなければいけないという葛藤が生じ、イライラが生じるのである。
上の僕の記事におけるポイントは、最初の「その場限りの、賞味5分の感傷に過ぎない」という部分だ。多くの人は、いじめによる自殺といったニュースを見れば、「ひどい」といった同情的な感情が生じる。「いじめはよくないことだ」と口々に言う。だが、その感情を、いかに自分の行動や生活に反映することができるのか。実際に実践しているのか、その点が疑問である。それを、「賞味5分の感傷」と表現している。――ちなみに、これは別に僕の表現ではなく、EDENという漫画の一シーンからの抜粋。
でも、その11月29日の記事を読んでみて、面白いかどうかは別として、「分かりづらさ」はなかった。その点はよかったと思う。まぁ、「単にイライラして無気力なんだね」というだけのテーマなので、分かりづらさも分かりやすさもへったくれもないが。
しかし、2012年の記事の方も、まぁいってしまえば、「いじめのニュースにイライラした」というだけなのだ。
ただ、そのことが、何となく明確に書いていないので分かりづらいのである。
そういう意味で、「匿名」のブログってよいと思う。実名でお金稼ぐ目的でやってるブログと、こういうブログとは別の方が良い。こういうブログが不要な人もいるだろう。でも僕は必要だ。
でもそれらはできるだけ最小限の方が良い。ぼかしすぎると、未来の自分に対しても何がなんだか分からなくなってしまう。それじゃあ意味がない。
いや、考えることは必要だ。でも、考えるのであれば、ぜひ、そのプロセス(過程)も書いておくべきだ。むしろ、結論よりも過程の方が重要になることもある。
というか、前にも書いた気がするが、「結論なんてそんなに重要じゃない」のである。
その結論を、いかに自分のものとするか。自分の考えにするか。様々な条件や環境下においても、普遍性をもたせられるか。そっちの方――つまり、実践性が重要である。陽明学すげえ――とかノイズを書くと分けわからなくなる可能性もあるが、これもまたゼロ秒思考である。
そういったノイズを書くのも悪くない。ゼロ秒思考の良い面でもある。
ただ、ノイズばっかりになると確かに骨子(メイン軸)が分からなくなるので、そこらはテクニックでカバーする。例えば、「ダッシュ(――)」といった記号で分離するとか、改行して段落わけるとか。小見出しつけるのも有効だ。
ゼロ秒思考とか言葉の定義づけをしても、それもいわばその一とその二に還元される内容である。
言いたいことはシンプルだ。
シンプルに書いたほうが良い、ということだ。ただ、それは、ノイズを否定するというわけではないという、ことだ。むしろ、ノイズが、そのシンプルな内容の本質だったりする。
シンプルに書いたことは、ただの「シニフィアン」=「意味を表現しているもの」であり、ノイズこそが、「シニフィエ」=「意味されるもの」ではないか、ということだ。(ソシュールの言語学)
そういう意味で、先日読んだ本で、哲学者カントとニーチェの事物に関する捉え方の違いというのが面白かった。
――ええと、カントとニーチェである。
ニーチェといえば、「神は死んだ」という表現が有名である。
カントは、とっても几帳面(道徳的)な人だったというのが有名である。
さて、認識の話である。
カントは、絶対正しい認識がある=真理があるという立場である。同じリンゴであっても、人間と動物、微生物のそれぞれの立場において、リンゴという認識が異なる。
人間は、赤くて丸い食べ物で甘酸っぱいという認識をもつかもしれない。
動物は、丸い物体という認識をもつかもしれない(色が判別しづらい動物だったとして)。
アメーバは、そもそも、丸いという認識すらもてないかもしれない。
それぞれの身体的限界性によって、認識は異なるということの例である。
ここまでは、カントもニーチェも同じである。
カントは、さらに、「神の認識」があると考えていた。つまり、リンゴという物体の分子素粒子レベルでの認識から、リンゴの来歴、未来の価値まで含めた完全な認識である。
ニーチェは、「そんな神の認識なんてないッス。どこまでいっても、それぞれの個体(人間や動物やその他)の身体と欲望によって、認識なんて異なるッス」といった。
ニーチェの哲学が斬新であったのは、神という概念をとっぱらったというのもそうだが、「真理」とか「完全」といった概念を壊したことである。
まぁ、ここまでのことは、多くの人が知っていると思うが、ニーチェはさらに、「その上で」新たな価値体系を築こうとした――とされているが、そこらへんの内容がどうにも僕はよく理解できないので、もう少し勉強しようと思っている。
いや、その、永劫回帰――あんまり意味のない人生の中で、何かの真理に頼らず、独力として、ただ生きることに意味をもたせて……すなわち「超人」として生きることが重要だ――といった表現は何となく分かっている。
問題は、その「超人」たるものが、そもそもどうやってなれるんだ――いや、なれるというか、そういう「感覚」、つまり、「意味がないけれども生きた方がいい」、という結論的感覚にどうやったらなれるのか、というのがさっぱりわからない。
その点は、精神科医のフランクルさんも、三つの価値を説く中でおっしゃっておられて、――すなわち、体験価値、創造価値、実存価値というものの、3つ目の、「ただ生きていること自体が重要なのだ」ということなのだけれども、それがよく分からない。
いや、分からないのではなくて、言いたいことは分かるのだけれども、なんだか「そう思えない」のである。
そういえば、――これはノイズだが――ある友人と話をしていて、「いやお前それは分かっていないだろ」と言われたこともあった。その「分かる」という意味を、言葉としての意味として分かったかどうか、という点であれば、僕は分かっているのだ。ただ、「その言ってることが自分の感覚として浸透したか」という意味であれば、僕は分かっていないのである。
そう、これは、他の人と話していてもそういう話題になることがある。なんだか、不満に思うことが多い。「分かる」という言葉が、実は多元的・多次元であることをちゃんと分かっていて、その人たちはいっているのか、という点と、その「分かる」ということを、相手にどこまで求めようとしているのか、自分自身で理解しているのか、という点が疑問だ。
これを話し出すと、コミュニケーションとは何か、という話しをしたくなる。
コミュニケーションとは、情報伝達のことである。で、その情報伝達とは、何のために行われるのか。究極には、相手に自分の思う行動(これは思考も含まれる)を行ってもわるためである。
そういう意味で、僕は、人の話を「聞かない」し、人の話を「分からない」のである。そういう意味で、周りの人が言うなら、僕は、心より浸透した考えをもって、「ああそうだね、僕は人の話を聞かないし分かっていないよ」と答えられる。ただ、その人の言わんとしていることは「分かっている」。「そういう考えもあるんだね」という意味において。「そういう考えもあるんだね――でも僕はそう思わないよ」という意味ではないが、その、「完全なる認識」にならなければ、「わかったことにならない」というのは、僕はそれは違うと思う。
そういうことを書き出すと、段々さらに過激になっていくけれども、人は究極的には分かり合えないと思っている。――この表現もまた微妙であり、あまり使いたくないのだけれども、まぁこれは、「人間嫌い」と僕がたまに使うのと同じレベルの、他愛のない表現だ。
長くなったな。この話とりあえず終わり。
でも、なんかたまたま手に取った本を読んでみたら、いろいろ思うところは発生した。
その行為は、僕が、仕事や遊びや睡眠や食事をすることによって、なんだかすり減った感じがすることを、生じさせなかった。
だから、書くことと、本を読むことは、できるだけやったほうが良い。
ということを書くために、上の小見出し「認識について」を書いたわけだが、――つまり、5・6年前の過去の記事は、その「認識について」小見出し部分しかないようなものが多いのである。
そうすると、この、「実存的な意味において」の表現が全く分からないので、結果的に「わかりづらい」ということになるのだ。
以上、この記事は、面白くないかもしれないが、とても分かりやすい記事になったはずだ。
こういう記事を、是非、これからも目指して書いたほうが良い、というまとめを書いて終わりとする。
(かっこ書きである。かっこ書きなのだけれど、本文の方に書ききれたので、特に書くことがない。そう、このかっこ書きは、補足とかいう生ぬるいものではなくて、むしろ「本題」なのであったりする。まぁ位置づけは特に定まっていないけれど、かっこ書きの方が、「率直さ」は高いと思う。ある意味、適当なことを書いているだけでもある。しかしその、「適当なこと」というのが、本当にでたらめ、創造上の産物、なのであれば別だが、まがいなりにも、僕の頭の中には浮かんだものであるのであれば、「有効な日記を書くために:その三」あたりで書いた、プロセス重視という面で大事だとも思う。あえて、かっこ書きで補足するとすれば、今回は、あえて、「じゃあそもそも、なんでブログに書くんだ」という、いつも問いが発生することをスルー(無視)したことである。そもそも、「自分のため」に書くのであれば、率直に書くのであれば、そのために時折匿名性を維持するための工夫も必要なのであれば、パスワードロック付きのローカル日記にでも書いていたほうがよいのではないか? という疑問についてだ。この疑問は常に生じるのだけれども、まぁ、これは何度も記事にもして「自分自身を納得させ」ているので、あえて触れなかった。――ああ、でも、もうひとつ補足しておいた方がいい。その、本を読んで思うところがあったのは、とても良いところだけれども、そもそも、「イライラ対処」的な状況の時に、そんなことできないだろう、という現実問題である。無気力のときの怖さってのを、知っている人は知っていると思うけれども、あれはホント怖いものである。ああ、怖い。ルーチンさえ脅かされる。そういや、筋トレルーチンは400日超えたのか。それはまぁすごい気がするな。腕振り運動とスクワットは、できたりできなかったりしているけれども、最近は継続できている。創作ルーチンは駄目だなぁ……いや、でも、あれってそもそも、21時前に帰れたら又は特別な事情(イベント等)がない場合やる、っていう免除規定だったんだから、あながち、ダメな期間ってそんなない気もするんだけど……ちゃんとカウントできていないから、どのみちだめだな。そういや、連載も止まっちゃってるじゃないか。うーむ……。しかしその、連載がとまってるとか、ルーチンが崩壊したとか、そんなことそもそも気にできなくなるのが無気力期間であるのだから、そういう意味で、若干、今は回復傾向であるということか。そう、だから、ルーチンというのも、レベル1と、レベル2があるのである。意識して実行できているのがレベル1。意識せずに完全な習慣化された場合はレベル2である。この、レベル1からレベル2へのハードルは結構高い。結構高いので、そのプロセスを、もう少し細かく観察してみてもよいかもしれない。――あと一つ、かっこ書きも結局長くなってしまったけれど、一つ書いておけば、ウォーキングデッドを見ているのも時間が奪われている原因だな。あれ、面白いっちゃ面白いんだけど、なんというか、「得るものがない」感が半端ない(かっこわらい)。というか、なんか、こう、ダラダラ感がある。続きが気になって見ちゃうんだけど、まぁ、その――なんか、見終わっても感慨がないんだよな。それぞれのエピソードに意味はあるし、面白いし、感動もするんだけど、なんか、全体として「無意味感」が強い。――そういう意味で、僕の今の感覚をとっても良く表現している作品な気がして、よいっちゃあよいんだけど、なんか、はっきり書けば「すり減ってる」感が強まるというか、「やる気がなくなる」んだよな。うーん、その、リアリティ・グロテスク・無情・無常感では、ゲームオブスローンズの方が高いのだけど、ゲームオブスローンズは、なんか上手く表現できないけど、楽しい。なんだろう、なんか違うんだよなぁ。こう、人間ドラマ的な表現でいえば似ている気がするんだけど。まぁ、ウォーキングデッド、ダリル氏がかっこよいんだよなー。なんか最初のはみだし感というか、不良感があっていけすかない奴だと思っていた印象が、物語が進むにつれてどんどん変わってきたのがよかった。そういう意味だと、あんましブレてないのって、主人公のリック氏だけな気がする。他の面々は、まぁ、いい意味でも、悪い意味でも成長している。大人でも環境が変わると、いろいろ変わるんだね~という意味で面白い。そして、その成長むなしく突然物語から退場していく……のだけど、まぁ長くなったな。とりあえず、エピソード3まで全部見終わったところで、しばらく見ないようにしようという誓いを込めて、以上)
5、6年前の日記を読んで
まだ、この小見出しを付けない頃のブログ記事を読んでいて、分かりづらいなと感じた。この小見出しは、必ずしも内容と一致しているかというとそうではない。けれども、重要なのは、「こういうことを書こうと思った」という方針が見えることである。実際書いている内容が異なろうが、小見出しを書いた時点では、「そう思った」のである。
ただ、分かりづらいなとは思うけれども、何となく、「こういうことを書きたいだろうな」ということは、自分自身の書いたことなので分かる。
それで、分かりづらい理由をさらに考えてみたときに、その時の「感情」が見えないことが一番の原因に思った。
例えば、
というのは、2012年7月ごろの記事だけれども、まぁよく分からない(かっこわらい)。大津のいじめは社会に大変な影響を与えた。しかしそれは、文科省のいじめ統計をみれば、その場限りの、賞味5分の感傷に過ぎない。人間の脳は、一貫性と安定性を求める。しかし人間は、個人であり、差異は発生せざるをえない。もちろん、ジェンダーのように、社会的に構築されただけで、生物的差異に起因しない場合はある。そうした衝突を調整するのがルールである。そうしたルールに反した場合にいじめは起こる。ここでいうルールとは、空気も含められる。いじめを許す空気が支配的であれば、むしろ、いじめ反対と叫ぶことがルール破りである。言うまでもなく、いじめを防ぐには、ルールに対する自覚と責任と、ルールに対する許容である。肩にふけが落ちていたことがいじめの原因であったとしても、具体的には、それをみた個人のルールに反していただけであり、その発起人の許容度が低いことが真の原因である。――幸福追求オブセッションと関係性を成り立たせるもの
自分で書いたものについてもそうなのだから、ましてや他者が読んだときに一体何を理解可能なのだろうか、と思う。
ただ、この記事は、カテゴリが「イライラ対処」であるし、単に、いじめによる自殺といった事件のニュースを見て、腹立たしく感じたことの表現なのだ。
僕はいじめ反対である。ところが、このいじめというのは、社会や集団の構造上発生する可能性がゼロにはできないものだとも思っている。ここに、僕の「理想」なるものと、現実と折り合いをつけなければいけないという葛藤が生じ、イライラが生じるのである。
上の僕の記事におけるポイントは、最初の「その場限りの、賞味5分の感傷に過ぎない」という部分だ。多くの人は、いじめによる自殺といったニュースを見れば、「ひどい」といった同情的な感情が生じる。「いじめはよくないことだ」と口々に言う。だが、その感情を、いかに自分の行動や生活に反映することができるのか。実際に実践しているのか、その点が疑問である。それを、「賞味5分の感傷」と表現している。――ちなみに、これは別に僕の表現ではなく、EDENという漫画の一シーンからの抜粋。
正直な気持ちを書いておく方が面白い
で、まぁ、何を言いたいか先に書いてしまえば、「もう12月だなぁ」……いやではなくて、先日11月の最後に書いた記事について。あれは、本当に苦痛の中で書いていた。今は、まぁ普通の状況。でも、11月29日の記事は、書くこと自体が嫌だった。でも、その11月29日の記事を読んでみて、面白いかどうかは別として、「分かりづらさ」はなかった。その点はよかったと思う。まぁ、「単にイライラして無気力なんだね」というだけのテーマなので、分かりづらさも分かりやすさもへったくれもないが。
しかし、2012年の記事の方も、まぁいってしまえば、「いじめのニュースにイライラした」というだけなのだ。
ただ、そのことが、何となく明確に書いていないので分かりづらいのである。
未来に有効な日記にするには
其の一
自分を大きく見せようとか、そういった感覚など、全部捨て去ってしまったほうが良い。そういう意味で、「匿名」のブログってよいと思う。実名でお金稼ぐ目的でやってるブログと、こういうブログとは別の方が良い。こういうブログが不要な人もいるだろう。でも僕は必要だ。
其の二
率直に、できるだけ素直に書いたほうが良い。でも、昔は、SNSに書いていたときもあったし、ネット社会怖いとか思っていたりもした。そういう意味では、今もそのネット社会に対するこわさというのはずっと持っておいたほうが良い。そういう意味で、匿名性は担保したほうが良い。そのために、若干事実と異なることを書くのも仕方がないと思う(例えば、実際にあったイベントに関してどうしても書きたいのなら、それの日付をぼかしたり。一緒に行った人の人数をぼかしたり)。でもそれらはできるだけ最小限の方が良い。ぼかしすぎると、未来の自分に対しても何がなんだか分からなくなってしまう。それじゃあ意味がない。
其の三
ゼロ秒思考で書くのが良い。いや、考えることは必要だ。でも、考えるのであれば、ぜひ、そのプロセス(過程)も書いておくべきだ。むしろ、結論よりも過程の方が重要になることもある。
というか、前にも書いた気がするが、「結論なんてそんなに重要じゃない」のである。
その結論を、いかに自分のものとするか。自分の考えにするか。様々な条件や環境下においても、普遍性をもたせられるか。そっちの方――つまり、実践性が重要である。陽明学すげえ――とかノイズを書くと分けわからなくなる可能性もあるが、これもまたゼロ秒思考である。
そういったノイズを書くのも悪くない。ゼロ秒思考の良い面でもある。
ただ、ノイズばっかりになると確かに骨子(メイン軸)が分からなくなるので、そこらはテクニックでカバーする。例えば、「ダッシュ(――)」といった記号で分離するとか、改行して段落わけるとか。小見出しつけるのも有効だ。
まとめ
そのいち、そのに……とか書いたけれども、全部まとめると、「率直に書く」という言葉で集約されてしまう。その一の「自分を大きく見せないようにしよう」というのと、「率直に書く」というその二の内容の違いなんて、今考えるとよくわからない。ゼロ秒思考とか言葉の定義づけをしても、それもいわばその一とその二に還元される内容である。
言いたいことはシンプルだ。
シンプルに書いたほうが良い、ということだ。ただ、それは、ノイズを否定するというわけではないという、ことだ。むしろ、ノイズが、そのシンプルな内容の本質だったりする。
シンプルに書いたことは、ただの「シニフィアン」=「意味を表現しているもの」であり、ノイズこそが、「シニフィエ」=「意味されるもの」ではないか、ということだ。(ソシュールの言語学)
そういう意味で、先日読んだ本で、哲学者カントとニーチェの事物に関する捉え方の違いというのが面白かった。
認識について
いきなり話が変わるけれども、この小見出しを挿入する目的は、先日の11月29日記事において、「書くことのみが僕に許されたことである」ということへの補足として、「本を読むのも罪悪感を生じさせない場合がある」ということを書いておきたいということである。――ええと、カントとニーチェである。
ニーチェといえば、「神は死んだ」という表現が有名である。
カントは、とっても几帳面(道徳的)な人だったというのが有名である。
さて、認識の話である。
カントは、絶対正しい認識がある=真理があるという立場である。同じリンゴであっても、人間と動物、微生物のそれぞれの立場において、リンゴという認識が異なる。
人間は、赤くて丸い食べ物で甘酸っぱいという認識をもつかもしれない。
動物は、丸い物体という認識をもつかもしれない(色が判別しづらい動物だったとして)。
アメーバは、そもそも、丸いという認識すらもてないかもしれない。
それぞれの身体的限界性によって、認識は異なるということの例である。
ここまでは、カントもニーチェも同じである。
カントは、さらに、「神の認識」があると考えていた。つまり、リンゴという物体の分子素粒子レベルでの認識から、リンゴの来歴、未来の価値まで含めた完全な認識である。
ニーチェは、「そんな神の認識なんてないッス。どこまでいっても、それぞれの個体(人間や動物やその他)の身体と欲望によって、認識なんて異なるッス」といった。
ニーチェの哲学が斬新であったのは、神という概念をとっぱらったというのもそうだが、「真理」とか「完全」といった概念を壊したことである。
まぁ、ここまでのことは、多くの人が知っていると思うが、ニーチェはさらに、「その上で」新たな価値体系を築こうとした――とされているが、そこらへんの内容がどうにも僕はよく理解できないので、もう少し勉強しようと思っている。
いや、その、永劫回帰――あんまり意味のない人生の中で、何かの真理に頼らず、独力として、ただ生きることに意味をもたせて……すなわち「超人」として生きることが重要だ――といった表現は何となく分かっている。
問題は、その「超人」たるものが、そもそもどうやってなれるんだ――いや、なれるというか、そういう「感覚」、つまり、「意味がないけれども生きた方がいい」、という結論的感覚にどうやったらなれるのか、というのがさっぱりわからない。
その点は、精神科医のフランクルさんも、三つの価値を説く中でおっしゃっておられて、――すなわち、体験価値、創造価値、実存価値というものの、3つ目の、「ただ生きていること自体が重要なのだ」ということなのだけれども、それがよく分からない。
いや、分からないのではなくて、言いたいことは分かるのだけれども、なんだか「そう思えない」のである。
そういえば、――これはノイズだが――ある友人と話をしていて、「いやお前それは分かっていないだろ」と言われたこともあった。その「分かる」という意味を、言葉としての意味として分かったかどうか、という点であれば、僕は分かっているのだ。ただ、「その言ってることが自分の感覚として浸透したか」という意味であれば、僕は分かっていないのである。
そう、これは、他の人と話していてもそういう話題になることがある。なんだか、不満に思うことが多い。「分かる」という言葉が、実は多元的・多次元であることをちゃんと分かっていて、その人たちはいっているのか、という点と、その「分かる」ということを、相手にどこまで求めようとしているのか、自分自身で理解しているのか、という点が疑問だ。
これを話し出すと、コミュニケーションとは何か、という話しをしたくなる。
コミュニケーションとは、情報伝達のことである。で、その情報伝達とは、何のために行われるのか。究極には、相手に自分の思う行動(これは思考も含まれる)を行ってもわるためである。
そういう意味で、僕は、人の話を「聞かない」し、人の話を「分からない」のである。そういう意味で、周りの人が言うなら、僕は、心より浸透した考えをもって、「ああそうだね、僕は人の話を聞かないし分かっていないよ」と答えられる。ただ、その人の言わんとしていることは「分かっている」。「そういう考えもあるんだね」という意味において。「そういう考えもあるんだね――でも僕はそう思わないよ」という意味ではないが、その、「完全なる認識」にならなければ、「わかったことにならない」というのは、僕はそれは違うと思う。
そういうことを書き出すと、段々さらに過激になっていくけれども、人は究極的には分かり合えないと思っている。――この表現もまた微妙であり、あまり使いたくないのだけれども、まぁこれは、「人間嫌い」と僕がたまに使うのと同じレベルの、他愛のない表現だ。
長くなったな。この話とりあえず終わり。
本を読んだ方が良い
ええと、その、なんもやる気しない、と先日の記事で書いた。でも、なんかたまたま手に取った本を読んでみたら、いろいろ思うところは発生した。
その行為は、僕が、仕事や遊びや睡眠や食事をすることによって、なんだかすり減った感じがすることを、生じさせなかった。
だから、書くことと、本を読むことは、できるだけやったほうが良い。
ということを書くために、上の小見出し「認識について」を書いたわけだが、――つまり、5・6年前の過去の記事は、その「認識について」小見出し部分しかないようなものが多いのである。
そうすると、この、「実存的な意味において」の表現が全く分からないので、結果的に「わかりづらい」ということになるのだ。
以上、この記事は、面白くないかもしれないが、とても分かりやすい記事になったはずだ。
こういう記事を、是非、これからも目指して書いたほうが良い、というまとめを書いて終わりとする。
(かっこ書きである。かっこ書きなのだけれど、本文の方に書ききれたので、特に書くことがない。そう、このかっこ書きは、補足とかいう生ぬるいものではなくて、むしろ「本題」なのであったりする。まぁ位置づけは特に定まっていないけれど、かっこ書きの方が、「率直さ」は高いと思う。ある意味、適当なことを書いているだけでもある。しかしその、「適当なこと」というのが、本当にでたらめ、創造上の産物、なのであれば別だが、まがいなりにも、僕の頭の中には浮かんだものであるのであれば、「有効な日記を書くために:その三」あたりで書いた、プロセス重視という面で大事だとも思う。あえて、かっこ書きで補足するとすれば、今回は、あえて、「じゃあそもそも、なんでブログに書くんだ」という、いつも問いが発生することをスルー(無視)したことである。そもそも、「自分のため」に書くのであれば、率直に書くのであれば、そのために時折匿名性を維持するための工夫も必要なのであれば、パスワードロック付きのローカル日記にでも書いていたほうがよいのではないか? という疑問についてだ。この疑問は常に生じるのだけれども、まぁ、これは何度も記事にもして「自分自身を納得させ」ているので、あえて触れなかった。――ああ、でも、もうひとつ補足しておいた方がいい。その、本を読んで思うところがあったのは、とても良いところだけれども、そもそも、「イライラ対処」的な状況の時に、そんなことできないだろう、という現実問題である。無気力のときの怖さってのを、知っている人は知っていると思うけれども、あれはホント怖いものである。ああ、怖い。ルーチンさえ脅かされる。そういや、筋トレルーチンは400日超えたのか。それはまぁすごい気がするな。腕振り運動とスクワットは、できたりできなかったりしているけれども、最近は継続できている。創作ルーチンは駄目だなぁ……いや、でも、あれってそもそも、21時前に帰れたら又は特別な事情(イベント等)がない場合やる、っていう免除規定だったんだから、あながち、ダメな期間ってそんなない気もするんだけど……ちゃんとカウントできていないから、どのみちだめだな。そういや、連載も止まっちゃってるじゃないか。うーむ……。しかしその、連載がとまってるとか、ルーチンが崩壊したとか、そんなことそもそも気にできなくなるのが無気力期間であるのだから、そういう意味で、若干、今は回復傾向であるということか。そう、だから、ルーチンというのも、レベル1と、レベル2があるのである。意識して実行できているのがレベル1。意識せずに完全な習慣化された場合はレベル2である。この、レベル1からレベル2へのハードルは結構高い。結構高いので、そのプロセスを、もう少し細かく観察してみてもよいかもしれない。――あと一つ、かっこ書きも結局長くなってしまったけれど、一つ書いておけば、ウォーキングデッドを見ているのも時間が奪われている原因だな。あれ、面白いっちゃ面白いんだけど、なんというか、「得るものがない」感が半端ない(かっこわらい)。というか、なんか、こう、ダラダラ感がある。続きが気になって見ちゃうんだけど、まぁ、その――なんか、見終わっても感慨がないんだよな。それぞれのエピソードに意味はあるし、面白いし、感動もするんだけど、なんか、全体として「無意味感」が強い。――そういう意味で、僕の今の感覚をとっても良く表現している作品な気がして、よいっちゃあよいんだけど、なんか、はっきり書けば「すり減ってる」感が強まるというか、「やる気がなくなる」んだよな。うーん、その、リアリティ・グロテスク・無情・無常感では、ゲームオブスローンズの方が高いのだけど、ゲームオブスローンズは、なんか上手く表現できないけど、楽しい。なんだろう、なんか違うんだよなぁ。こう、人間ドラマ的な表現でいえば似ている気がするんだけど。まぁ、ウォーキングデッド、ダリル氏がかっこよいんだよなー。なんか最初のはみだし感というか、不良感があっていけすかない奴だと思っていた印象が、物語が進むにつれてどんどん変わってきたのがよかった。そういう意味だと、あんましブレてないのって、主人公のリック氏だけな気がする。他の面々は、まぁ、いい意味でも、悪い意味でも成長している。大人でも環境が変わると、いろいろ変わるんだね~という意味で面白い。そして、その成長むなしく突然物語から退場していく……のだけど、まぁ長くなったな。とりあえず、エピソード3まで全部見終わったところで、しばらく見ないようにしようという誓いを込めて、以上)
