今日の一言「結節点としての役割」「超人たれ」
なんと力強い文章だろうか。
かっこいい。熱い。強い。頑強だ。
いやしかし、これは、単に文章の力強さだけの問題ではない。
何のことはない――たいてい人は、自分のことを肯定したいのであって、歩んできた道のりが誤りであったなどと思いたくはないのであって、似たようなことを思って生きているのである。私、自分も例外ではないだろう。
言葉としてではなく、現に、僕がその文章を書いた人、その人自身に対する尊敬の念が、上の引用文に魂を、活きた力強さを感じさせているのであろう。
ここに、言葉が先か、結果が先かという疑問が生じるのであるが、その二者択一的な思考自体が、無価値とまでは言わないが、重要なことではないと思う。結局、相互関連し、僕は感動した、ということである。
1時間ぐらいで、大体5000字を超えるのであるが、それぐらいの時間がないと、頭を切り替えられない。
しかし、1000字ぐらいが、読む人にとってちょうどいいと、コメントを頂いた。
その通りだと思う。
思うのであるが、やはり、5000字ぐらいが最小のまとまりなのである。書いていることはループしている部分があるし、些末なことや、本筋と関係ないことや、そもそも脱線することが多いけれども、それをひっくるめて一つのまとまりなのである。
プロセスのメモという点が強い。思考過程。
だが、今回は、30分の時間制限である。
時間が取れない。
繰り返し書いているが、決して物理時間として、1時間が捻出できないのではない。
身体が、気持ちが全く動かないのである。
昨日は休日であった、にも関わらず、一日中なにもできなかった。一回の食事と、部屋に掃除機をかけたぐらいだ。
こうやって書くと、「なにやってんの?ワラ」としか思わないのであるが、しかし、昨日の俺は、動けなかった。まったく。
今、こうしてPCに向かって、ブログを30分でも書いておこうと思っている、この今の感覚からは、到底想像できないほどの倦怠感。「ナニモシタクナイ」「ナニモカンガエタクナイ」
――それでも、最小限のルーチン、筋トレ・腕振り運動はやった。
時間としては、15分ぐらいだ。
うーむ、しかし、ものすごい物足りなさがある。
だからなんだっつー気持ちが強い。いや、じゃあ、いつもの記事はどうなんだ、というと、結局「で?」という終わり方をしているのであるが、「とりあえず全部吐き出した」的な思いはあるのである。
思うに、5000字は、気持ちの整理も含めた時間・量なのだろう。
――であれば、これを短くすることで、頭の切り替えを素早くして、効率的な人生を送れるようになるのかもしれない。
しれない、が、まぁ、すぐには無理だろう。ああ、しかし、昨日の、24時間のうちに、どうして、一つの記事ぐらい書けなかったのか。本当に、今考えると思い返すと疑問である。しかし、どうしようもなく動けなかった。これだけは、事実として書いておこう。
あの、どうしようもなく動けないときに、どこまで活動できるかが、これまでも、今年としても重要になりそうである。
いっつも、この手のことを書こうとすると、「いや、もっと忙しい人もいるだろうし」というのが浮かぶのであるが、もういい、そういうの、無視する。俺は忙しい、と、宣言しよう。
俺は忙しい。
忙しい。
忙しいのである。
ああ、そうだったのか。
自分で認めていなかったのか。
そもそも、「残業が多いってのは、それは能力が足りないからだ」という言説を、僕自身信じている気がする。まぁそれはいい。それは事実だとしよう。
が、現実問題として、自分の能力として、時間がかかるのである。それだけの量なのである。
一月に入ってから、体感で平日の8割ぐらいが、21時、22時まで残業である気がする。具体的に時間をかけば、「いや、俺もっと遅いし」という人が大勢いるだろうので、気が引けるけれども、その人は家まで15分の距離なのかもしれないし、自家用車での通勤かもしれないし、いろいろ条件は異なるだろうし、仕事の内容にもよるだろうし、まぁだから繰り返しになっているが、比較はしても仕方がない。
俺はどう思っているかというと、忙しい、のである。
平日が忙しいと、休日にも影響するということも認めておこう。
昨日は何もできなかった。悔しい。
ああ、ようやく、「自分」になってきた気がする。
この状態になってようやく、活動的なことができる。
考えることができる。制御できる。動ける。
ここ最近は、ゾンビ的であった。
人の言葉が頭に入ってこなくなる。
ニュースとかブログとか読んでも、意味は分かるのに、何も感じなくなる。
ゾンビから人間に戻るための結節点がブログなのだと、そう思う。
そして、今年の目標の「考える」とか「創作」ってのは、人間状態じゃなきゃできない。
ルーチンは、ゾンビ状態でもできる。
ルーチンができていても、同じやり方で人生を改善できるわけではないということ、それを今回の気づきということで書いておこうか。
といったところで、30分、2500字ぐらい。まだ全然書き足りないけれども、お出かけなので時間切れ。
(かっこ書きである。あー。昨日何もできなかったと書いたけれども、マジェスティックプリンスを最後までみた。面白かった。劇場版までアマゾンプライムでやっていたのでみてしまったぐらい面白かった。面白かった、のだけれども、なんか、どこで感動すればいいのか分からなかった。うーん……。搭乗型ロボットものがあまり好みじゃないのかなぁ。「ブラスト・オフ」(発進)のシーンは、かっこいい……のだろうか。ポーズ決めて、バーン! っと飛び出していくシーンに、なんか大げさ感があって、微妙に思った。あと、「覚醒」って概念がちょっと受け入れがたかった。もちろん、最初からアッシュという機体の「ジュリアシステム」をどう乗りこなすのか、というのがテーマであったし、伏線としても十分に思うのだけれど――エネルギーの羽みたいなの生えて、ってのが、いや、映像としてはかっこいいんだけど、なんだか僕の気持と作品の熱量とに距離感があった。――でも、劇場版の、プロトタイプがピーキーすぎて扱えなかったんだけど、仲間がそれぞれの機体の特徴を伝えて、なんとか扱えるようになっていった、というシーンはとってもかっこよかったし、面白かった。ただ、ガンダムのオルフェンズと比べると、オルフェンズの方が面白かった気がする、けど、それは機体がどうこうというよりかは、群像劇としての云々による感覚な気がする。うーん、何かここら辺も書き足りないけれども、ほんと時間切れ)
超人
いきなり引用から始める。正直俺は永劫回帰的な意味での超人に近づきつつあるような気がする。この一生を何度繰り返そうが、別の道は歩まないという強い肯定感。幼少期にオタ方面の満足を得てしまったら、きっと俺の小説作品はなにひとつ生まれることなく終わっていただろうリンクフリーなのか分からないが、非常に、強く感銘を受けたために引用してしまった。
――螺旋のモノリス
なんと力強い文章だろうか。
かっこいい。熱い。強い。頑強だ。
いやしかし、これは、単に文章の力強さだけの問題ではない。
何のことはない――たいてい人は、自分のことを肯定したいのであって、歩んできた道のりが誤りであったなどと思いたくはないのであって、似たようなことを思って生きているのである。私、自分も例外ではないだろう。
言葉としてではなく、現に、僕がその文章を書いた人、その人自身に対する尊敬の念が、上の引用文に魂を、活きた力強さを感じさせているのであろう。
ここに、言葉が先か、結果が先かという疑問が生じるのであるが、その二者択一的な思考自体が、無価値とまでは言わないが、重要なことではないと思う。結局、相互関連し、僕は感動した、ということである。
短い記事を書くためには
1時間の可用時間がなければ、僕は最近ブログを書いていない。1時間ぐらいで、大体5000字を超えるのであるが、それぐらいの時間がないと、頭を切り替えられない。
しかし、1000字ぐらいが、読む人にとってちょうどいいと、コメントを頂いた。
その通りだと思う。
思うのであるが、やはり、5000字ぐらいが最小のまとまりなのである。書いていることはループしている部分があるし、些末なことや、本筋と関係ないことや、そもそも脱線することが多いけれども、それをひっくるめて一つのまとまりなのである。
プロセスのメモという点が強い。思考過程。
だが、今回は、30分の時間制限である。
時間が取れない。
繰り返し書いているが、決して物理時間として、1時間が捻出できないのではない。
身体が、気持ちが全く動かないのである。
昨日は休日であった、にも関わらず、一日中なにもできなかった。一回の食事と、部屋に掃除機をかけたぐらいだ。
こうやって書くと、「なにやってんの?ワラ」としか思わないのであるが、しかし、昨日の俺は、動けなかった。まったく。
今、こうしてPCに向かって、ブログを30分でも書いておこうと思っている、この今の感覚からは、到底想像できないほどの倦怠感。「ナニモシタクナイ」「ナニモカンガエタクナイ」
――それでも、最小限のルーチン、筋トレ・腕振り運動はやった。
1000字を超えた
はい。ということで、上の二つの小見出しまでで、1000字ちょい、である。時間としては、15分ぐらいだ。
うーむ、しかし、ものすごい物足りなさがある。
だからなんだっつー気持ちが強い。いや、じゃあ、いつもの記事はどうなんだ、というと、結局「で?」という終わり方をしているのであるが、「とりあえず全部吐き出した」的な思いはあるのである。
思うに、5000字は、気持ちの整理も含めた時間・量なのだろう。
――であれば、これを短くすることで、頭の切り替えを素早くして、効率的な人生を送れるようになるのかもしれない。
しれない、が、まぁ、すぐには無理だろう。ああ、しかし、昨日の、24時間のうちに、どうして、一つの記事ぐらい書けなかったのか。本当に、今考えると思い返すと疑問である。しかし、どうしようもなく動けなかった。これだけは、事実として書いておこう。
あの、どうしようもなく動けないときに、どこまで活動できるかが、これまでも、今年としても重要になりそうである。
残業(平日)
話しに関連はないが、家に帰る時間が、21時を超えるかどうかが、平日の活動を左右する気がする。いっつも、この手のことを書こうとすると、「いや、もっと忙しい人もいるだろうし」というのが浮かぶのであるが、もういい、そういうの、無視する。俺は忙しい、と、宣言しよう。
俺は忙しい。
忙しい。
忙しいのである。
ああ、そうだったのか。
自分で認めていなかったのか。
そもそも、「残業が多いってのは、それは能力が足りないからだ」という言説を、僕自身信じている気がする。まぁそれはいい。それは事実だとしよう。
が、現実問題として、自分の能力として、時間がかかるのである。それだけの量なのである。
一月に入ってから、体感で平日の8割ぐらいが、21時、22時まで残業である気がする。具体的に時間をかけば、「いや、俺もっと遅いし」という人が大勢いるだろうので、気が引けるけれども、その人は家まで15分の距離なのかもしれないし、自家用車での通勤かもしれないし、いろいろ条件は異なるだろうし、仕事の内容にもよるだろうし、まぁだから繰り返しになっているが、比較はしても仕方がない。
俺はどう思っているかというと、忙しい、のである。
平日が忙しいと、休日にも影響するということも認めておこう。
昨日は何もできなかった。悔しい。
ブログを書く時間は貴重であり幸せである
幸せ、って言葉は最近嫌いなのであるが、まぁしかし、この時間は大事である。ああ、ようやく、「自分」になってきた気がする。
この状態になってようやく、活動的なことができる。
考えることができる。制御できる。動ける。
ここ最近は、ゾンビ的であった。
人の言葉が頭に入ってこなくなる。
ニュースとかブログとか読んでも、意味は分かるのに、何も感じなくなる。
ゾンビから人間に戻るための結節点がブログなのだと、そう思う。
そして、今年の目標の「考える」とか「創作」ってのは、人間状態じゃなきゃできない。
ルーチンは、ゾンビ状態でもできる。
ルーチンができていても、同じやり方で人生を改善できるわけではないということ、それを今回の気づきということで書いておこうか。
といったところで、30分、2500字ぐらい。まだ全然書き足りないけれども、お出かけなので時間切れ。
(かっこ書きである。あー。昨日何もできなかったと書いたけれども、マジェスティックプリンスを最後までみた。面白かった。劇場版までアマゾンプライムでやっていたのでみてしまったぐらい面白かった。面白かった、のだけれども、なんか、どこで感動すればいいのか分からなかった。うーん……。搭乗型ロボットものがあまり好みじゃないのかなぁ。「ブラスト・オフ」(発進)のシーンは、かっこいい……のだろうか。ポーズ決めて、バーン! っと飛び出していくシーンに、なんか大げさ感があって、微妙に思った。あと、「覚醒」って概念がちょっと受け入れがたかった。もちろん、最初からアッシュという機体の「ジュリアシステム」をどう乗りこなすのか、というのがテーマであったし、伏線としても十分に思うのだけれど――エネルギーの羽みたいなの生えて、ってのが、いや、映像としてはかっこいいんだけど、なんだか僕の気持と作品の熱量とに距離感があった。――でも、劇場版の、プロトタイプがピーキーすぎて扱えなかったんだけど、仲間がそれぞれの機体の特徴を伝えて、なんとか扱えるようになっていった、というシーンはとってもかっこよかったし、面白かった。ただ、ガンダムのオルフェンズと比べると、オルフェンズの方が面白かった気がする、けど、それは機体がどうこうというよりかは、群像劇としての云々による感覚な気がする。うーん、何かここら辺も書き足りないけれども、ほんと時間切れ)
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今日の一言「眠れない夜に書く」「眠れないというか生活リズムが狂ったというか」
何故なら、例えそれが小さなモノであっても、それにかかる物理スペース(空間)や、思考スペースが占有されるからだ。
といったようなことを読んだり思ったりして、整理を進めているということは昨年ぐらいから書いている。その中で、とあるブログさんを見つけた。
ミニマリズムの本質を履き違えている人多すぎるから、本当のミニマリズムを教えてやる
ふむふむ……と読んでいて、面白いなぁと思ってブックマークしていた。先日、ふと、他の記事を読んでいると、以下の記事を見つけた。
「続ければ上手くいく」は人生を無駄にする、思考停止の合言葉
――つまり、「継続は力なり」というのは、思考停止でよくないことだ、と。
ちょうど、「継続は力なり」という言葉が好きだ、と書いていたので、これについて少し書かねばならない。
上の記事の主張としては、
・成功の原因を成功者が「コツコツ続けてきたことだ」というのが嫌い
・継続できたのは結果でしかない
・継続できた原因を考えるべき
というものである。(ざっくり)
あれ、なんか、僕の思っていることとそれほど違いはないのでは、と思った。
さらに、
なるほど確かに、「継続は力なり」という言葉は、何も考えずに受け取ろうとすると、非常に危険な標語(プロパガンダ)かもしれない。
カズレーザー(?)という、金髪赤い服のお笑い芸人さんのインタビュー記事みたいなので、「好きなことしか続けられないッス」みたいなことが書かれていた気がするが、その通りだと僕も思っている。
一方で、「大きなこと」は、続けなければ成し遂げられないと思っている。
上のブロガーさんが、続けること自体の否定をしたいのであれば、僕は、「いや、続けることは大事だ」と否定する。けれども、そうではなくて、要は、「上手くいかない」「勝ち目のない」場所(フィールド)で、無理やり続けさせられている状態というものを否定しようという趣旨なのだろう。
それであれば、僕は大いに賛成である。
「バカ」というセンセーショナルな言葉によって、「え、俺って、バカなんだろうか……?」と気になって、本を手に取るような人は、たいてい大丈夫である。「おめでとう、君はバカではない」――一方で、読んでみてもチンプンカンプンだったら、危ないかもしれない。
その一方で。別に、「バカ」だからといって、気に病む必要もない。賢いことと幸せとが相関しないだろうということは、何となく感じ取れるはずだ。
何を言いたいかというと、「僕はバカではない!」と、言いたいだけかもしれない、思いたいだけかもしれない……が、そこが重要ではなくて、要するに、「継続は力なり」という言葉一つとってみても、単純に賛成・反対と言えない、ということである。
初めの小見出しで挙げたブログさんにおいて、「継続は力なり、なんて言ってるのは思考停止だ」というのを見て、「いやそんなことない!」とムキになってしまえば、それはバカなのである。
よく読めば、それは表現的な差異でしかなく、向かっていること、考えていることというのは、近いはずなのである。
もう一つ、幸茸さんという方の「論戦に振り回されないための二十の原則」という記事も読んだけれども、納得した(個々の方策がどうこう、というよりも、そもそも、論戦をするべきかどうかという点の考え方について)。
話がちょっと変わるけれども、ある友人が、「共感だけを求める関係なんて、俺にはいらない」と仰っていた。僕は、「是(なるほど)」と思いつつも、でも、たぶん、大半の人は「共感」して欲しいんじゃあないかなぁと思った。
だから、論戦なんてのは、普段すべきことではないと思うわけである。引用:「最も重視するのは論戦から利益を得る或いは損害を受けないことである」「論戦に振り回されて時間や労力を空費することを避けるためにどうすればよいか」
さて、もちろんこの後に、「そうはいっても、仕事をする上では、前提を共有しなければいけないし、成果物のイメージを共有しないといけないし、その過程で軋轢や衝突が発生する場合があるのであって、論戦は避けられない。ましてや、政治や外交といった場も無視するわけにはいかない」といったことが必要になっていくが、僕のブログの主旨からそれる……というより、単に興味がわかないから小見出しをチェンジ。
全然、書く暇をとれなかった。
にも関わらず、僕は、この場を欲した。
大の大人がブログを書き続けているんだぞ!わかっているのか!
上のは、ときたま引用させてもらっているシロクマさんの記事であるが、いやあよく分かる。ブログを書くというのは、まぁ、たいしたことではない。始めようと思えばネット環境があれば誰でもすぐに始められる。問題は、「続ける」ことである。
先の論戦の話ではないが、「言葉に残る」というのは、それだけ弱点でもある。
バカの壁の話ではないが、想像力が欠如(それは意図的に行うことだってある)した状態で言葉をとらえれば、誤解の嵐になる。単に表現の差異にどこまでも拘って、論戦の主旨がずれていく、ってこともある。
何を言いたいのか? 「俺すごいんだぜ?」ということか? まぁその、「すごい」方向性が、果たして社会的優位性があるかどうかは別として、「すごい」といっていいと思う。ただまぁ、いつもの「ネットゲーム症候群」に陥りそうになるが、別に、上の幸茸さんやシロクマさんのように、何年も良質な記事を書き続けている人も多いわけである。
その中で、思ったことを単に文字にしている、楽な作業をしているだけの僕が、「すごい」だなんておこがましいことこの上ないだろう。
これまで、言葉には、口には書いてこなかったが、上のように。これまでの記事から分かるように、僕は、他者と比べてすぐに落ち込む癖がある。
頑張っている人、すごい人をみると、自分の不甲斐なさを感じて、やる気がなくなる。真面目系屑だ。社会不適合者だ。
そういうのを矯正しようということで、
・他者と比べてはいけない
・継続は力なり
ということを標語にしているのである。
ただ、それは単に「現時点で」、「僕が」、やっているに過ぎない。最初に取り上げた、「継続は力なりは思考停止だ」と仰っていたブロガーさんの言うように、無理やり、嫌々頑張ることなんてのは、限度があるのだ。
だいたい。その頑張るってのは、何を目的に、何を達成するためにやっている行為なんだ?
――って書いてすぐさま書きたくなるのは、頑張ることを否定するわけではないということだ。大いに頑張るべきだ。必死にストイックに頑張るべきであるが、その達すべき目標や目的――そしてそれが自分にとってよいものかどうか、そこが重要だ。
ああ、だから、本筋とは異なるが、「頑張ることは大切だ!」という標語も、「頑張らなくていいんだよ」という標語も、僕はどーでもいいのである。だから、他者のアドバイス的なサムシングも、あんまり必要と思えないのである。必要なこととしては、「共感」ぐらいのものである。
が、しかし、その「共感」なんてものも、結局は、「ああ、この人は僕のことを分かってくれている」と「自分が」思うかどうかである。実際問題、本当に心から共感してもらっているかどうかなんて分からない――分かりようがない。
わかんないんだけど、まぁそういうのに、「まぁまぁ」って折り合いをつけていくのが大人なんだよ、と、シロクマさんの著書で書かれていた気がする。逆に、それを拗らせちゃうって人もいるってのが、承認欲求の問題だ。
という、他者がどうこう、というのは置いておいて、結局僕は、共感を欲しているんだろうか? だから、ブログを書かねばならぬ、と思うのだろうか? ……今の時点で僕自身もよく分からない。よく分からないのだけれども、「そうだよ、君は認められたいだけなんだ」というアドバイス的な何かを言われると、なんかムッとしそうである(かっこわらい)。たぶん、表現するとすれば、「認められたいと思っている自分を認めたくない」ということなのかもしれない。うーむ、だいぶ拗らせている奴だな(かっこわらい)。
なるほど確かに、「共感」として、「ああそうだよね。大変だよね。でも、君だけじゃなくて、みんないろいろ、苦労しているんだよ」といった結論。
他者との会話ってのは、どっかしらそういった結論が見えている。見て取ってしまう。いや、僕がそう思い込んでるだけなのか? いや違う。
もしくは、「そうかそうか。君がそう思うならそうなんだろうな。君の中ではな」といった結論。
ある友人が、「自分と同じレベルの人間がいないから、話してもかみ合わないし、つまらない」といっていた。上だけ切り取って書くと、すごい傲慢な人間のようであるが、そうではなくて、その「同じレベル」というのは、上も下もいる中でということである。自分より下のレベルの人と話してもつまらないし、上の人はレベルが高すぎて何言ってるかわからない。同じぐらいのレベルの人と話をしたい、といった趣旨である。
これはよくわかる話ではなかろうか。
んで、テレビの話題とか、共通の知人の話といった話題であれば、まぁ、共有・共感ってのはできる可能性が高いけれども、その友人が興味のある分野や、僕の興味のある分野なんかは、まぁ特殊といえば特殊なので、周りに話しても噛み合う可能性が相対的に低くなるのだ。
そして、これは、仕方がない。ものすごーっく、仕方がないことである。
この仕方がなさは、僕はもう諦めている。
一方で、この仕方のなさは、情報社会といわれる現代は、解決の見込みがあると思っている。いや逆に、解決の見込みがあるゆえに困難な時代であるとも思うのであるけれども――とまわりくどい言い方を避ければ、要は、インターネットである。
人生とは時間と空間である。そのうち、時間の扱いは昔から大きく変わっていないが、空間というのは進歩している。航空機の発達という、物理的な空間面から、テレビ電話など一瞬で地球の裏側まで情報を伝達するということもそうだ。
だがそれ以上に、ワールドワイドウェブということで、クモの巣のように、不特定多数に情報が発信できるようになったことが、大きな進歩だと思う。(テレビ電話を広げて、テレビ会議だとしてもコミュニケーションは「複数:複数」であるが、WWWは、「個人(又は複数):不特定多数」である)
要するに、物理的環境でコミュニケーションに満足できなくても、間口を広げることが容易になったということである。
それがゆえに、インターネットは、「リアルな関係を損ねる」ものであると、何十年か前はそんな言論が飛び交っていた気がする。人間関係の希薄化、とか。僕はなんか、嘘っぽいなぁと思っていたけれども、まぁそれが事実なのかどうかは置いておいて、結局、幼い子供が将来の夢はユーチューバーですというようになってきた。
歴史をみれば、保守派と革新派の対立の繰り返しだ。せめぎあいながら、変化は止められない。
だからまぁ、もう、今後は、物理的環境にとらわれるだけの必要もないと思う。経済的な面を会社に依存していると、追いつめられる可能性が高くなるように……。
面白くない面白くない面白くない!
なんだ、上の小見出しは。内容は。記事は。つまんねぇえええ!!
どうでもいいよ。他の人がどんな記事を書こうが、どう思おうが。政治がどうとか、時代がどうとか、仕事がどうとか、どうでもいいんだよ!
そんなことよりも、創作、1/9~1/15まで、毎日取り組むって目標どうなったんだよ!
――忘れてはいなかった。そのうち、3日ぐらいは、アウトプットした。2500字ぐらい書いた。――全然ダメじゃん!
うーむ。やはり、現状の生活(および設備・装備の状態)を続けていると、上手い具合に時間の確保ができない。
このままだと、去年と同じような感じになってしまうだろう。
原因の一つはわかっている。頭と心の切り替えがちゃんとできていないからだ。
仕事で疲れたなぁ、友人や彼女と遊んで楽しかったなぁ……の後に、一人の時間は、ある程度存在するのである。しかし、その余韻(疲れた・楽しかった)によって、何も有意な行動ができなくなる時間が発生している。
単に精神的な問題だけなら、気合いだ!! って感じで奮い立たせてもいいが、どうにもこうにも、身体が本当にだるい、という状態になったりする。これはいかんともしがたい。今日なんてある程度早く帰ったものの、もう何もできないぐらい疲れて、だるくて、動けなかった。
……ああ、そうだ。こういった、より実態に近いことを書いておかないとダメだ。
「自分は認められたいのか?」とか、そんな問いは、もはや(というか、今年としては)まったくもってどうでもいいことなのである。
生きる意味を(徹底して)考える、というのと、創作に力を入れる(作品を完成させる)を目指さなければならないのだ。
しかし、今回はもうだめ。強制終了。体がだるい……。
(かっこ書きである。「継続は力なり」という標語に対しての僕の考えをメモしておきたかった故に書き始めたが、正直時間の無駄だった気がする。別に、自分の中では前から分かっていたことだし、改めて書いておく必要性なんて感じられないからだ。ただ、まぁ、アウトプットしておくことによって、「いつ頃は間違いなく思っていた」ということは分かるから、歴史的な意味では意味があるが、でもその程度である。「共感」(承認欲求をみたすこと)が大事、という意味のことも書いた気がするが、これもまぁあまり重要性は思えない(この重要性は思えない、というのは、共感すること・されることの重要性という意味ではなくて、今ここで僕が記事にすること自体についての意味)。しかし、では一体、何を書いておけば、何から書き始めればよかったんだろう? と思うと、よく分からない。とりあえず、書きたくなったから書き始めた。変な時間にも関わらず、体がだるいにも関わらずだ。しかし、こう、なんだ。ブログ書いていないと死にそうになるのである。死にそうというのは飛躍表現だが、消えそうになるというか、イライラで思考が占有されるような。いやまぁもちろん、イライラだけじゃなくて、彼女とデートとかいちゃいちゃしていると心地よいのであるが、要は脳内麻薬のような、麻酔のような、一時的な痛みを止めるような感じ――ああ、こんな表現は不適切と思うけれども、ゲームとか、「消費的」な快楽を思うのである。ゲームも好きなんだけど、なんだろう、「仕事」とかがある以上、だいぶ満たされないのである。ああ、こうやってかっこ書きだと、なんか率直に書ける気がするが、要は、このあたりのことを書きたかったのだ。ゲームとか彼女と一緒にいて楽しいんだけど、仕事に引き戻されると単純に大変だったりつらい。その落差というか、「没頭のできなさ」が、余計にイライラというか苦しいのである。このまま、だらだらと(別にだらだらしている気もないけれど……)生きていくことはできる。楽しいこともあって苦しいこともあって、その繰り返しで生きていく。それでいいなら、今はとても幸せなんだろう……が、ものすごく違和感。この違和感を書いておく必要があるから、ブログを書く意味、続ける意味があるのだ。「ブログの必要性」って小見出しのところで、そこに少し気づいていた気がするのに、うまくもっていけなかった。それは何故か。久しぶりだからだ。ならば仕方がない。次の記事に託そう)
継続は力なりは思考停止なのか
余計なモノを捨てる、持たないということは大切だ。何故なら、例えそれが小さなモノであっても、それにかかる物理スペース(空間)や、思考スペースが占有されるからだ。
といったようなことを読んだり思ったりして、整理を進めているということは昨年ぐらいから書いている。その中で、とあるブログさんを見つけた。
ミニマリズムの本質を履き違えている人多すぎるから、本当のミニマリズムを教えてやる
ふむふむ……と読んでいて、面白いなぁと思ってブックマークしていた。先日、ふと、他の記事を読んでいると、以下の記事を見つけた。
「続ければ上手くいく」は人生を無駄にする、思考停止の合言葉
――つまり、「継続は力なり」というのは、思考停止でよくないことだ、と。
ちょうど、「継続は力なり」という言葉が好きだ、と書いていたので、これについて少し書かねばならない。
上の記事の主張としては、
・成功の原因を成功者が「コツコツ続けてきたことだ」というのが嫌い
・継続できたのは結果でしかない
・継続できた原因を考えるべき
というものである。(ざっくり)
あれ、なんか、僕の思っていることとそれほど違いはないのでは、と思った。
さらに、
といったことも書かれている。うん、まさにその通りと思う。>「継続は力なり」という言葉を言ってる側からしたら、その背景にある継続できた理由があって、試行錯誤した上で継続したら成功できたという前提を理解した上で言っているかもしれません。けど、成功者を神格化している聞き手からしたら「とにかく上手くいくまで続けよう!」という思考停止状態に陥ってしまうんじゃないか。そういう言葉を真に受けて、「続ける」以外のコマンドを失って延々と勝ち目のないフィールドで戦い続けてる人は沢山いる。
なるほど確かに、「継続は力なり」という言葉は、何も考えずに受け取ろうとすると、非常に危険な標語(プロパガンダ)かもしれない。
カズレーザー(?)という、金髪赤い服のお笑い芸人さんのインタビュー記事みたいなので、「好きなことしか続けられないッス」みたいなことが書かれていた気がするが、その通りだと僕も思っている。
一方で、「大きなこと」は、続けなければ成し遂げられないと思っている。
上のブロガーさんが、続けること自体の否定をしたいのであれば、僕は、「いや、続けることは大事だ」と否定する。けれども、そうではなくて、要は、「上手くいかない」「勝ち目のない」場所(フィールド)で、無理やり続けさせられている状態というものを否定しようという趣旨なのだろう。
それであれば、僕は大いに賛成である。
言葉に込める意味
昔、「バカの壁」という本があった。早々に、書籍整理の対象になって、今は手元にないけれども、要するに、「想像力」があるかどうか、というのが「壁」だ。「バカ」というセンセーショナルな言葉によって、「え、俺って、バカなんだろうか……?」と気になって、本を手に取るような人は、たいてい大丈夫である。「おめでとう、君はバカではない」――一方で、読んでみてもチンプンカンプンだったら、危ないかもしれない。
その一方で。別に、「バカ」だからといって、気に病む必要もない。賢いことと幸せとが相関しないだろうということは、何となく感じ取れるはずだ。
何を言いたいかというと、「僕はバカではない!」と、言いたいだけかもしれない、思いたいだけかもしれない……が、そこが重要ではなくて、要するに、「継続は力なり」という言葉一つとってみても、単純に賛成・反対と言えない、ということである。
初めの小見出しで挙げたブログさんにおいて、「継続は力なり、なんて言ってるのは思考停止だ」というのを見て、「いやそんなことない!」とムキになってしまえば、それはバカなのである。
よく読めば、それは表現的な差異でしかなく、向かっていること、考えていることというのは、近いはずなのである。
もう一つ、幸茸さんという方の「論戦に振り回されないための二十の原則」という記事も読んだけれども、納得した(個々の方策がどうこう、というよりも、そもそも、論戦をするべきかどうかという点の考え方について)。
話がちょっと変わるけれども、ある友人が、「共感だけを求める関係なんて、俺にはいらない」と仰っていた。僕は、「是(なるほど)」と思いつつも、でも、たぶん、大半の人は「共感」して欲しいんじゃあないかなぁと思った。
だから、論戦なんてのは、普段すべきことではないと思うわけである。引用:「最も重視するのは論戦から利益を得る或いは損害を受けないことである」「論戦に振り回されて時間や労力を空費することを避けるためにどうすればよいか」
さて、もちろんこの後に、「そうはいっても、仕事をする上では、前提を共有しなければいけないし、成果物のイメージを共有しないといけないし、その過程で軋轢や衝突が発生する場合があるのであって、論戦は避けられない。ましてや、政治や外交といった場も無視するわけにはいかない」といったことが必要になっていくが、僕のブログの主旨からそれる……というより、単に興味がわかないから小見出しをチェンジ。
久しぶりの記事
前回記事から2週間も経とうとしているのか。全然、書く暇をとれなかった。
にも関わらず、僕は、この場を欲した。
大の大人がブログを書き続けているんだぞ!わかっているのか!
上のは、ときたま引用させてもらっているシロクマさんの記事であるが、いやあよく分かる。ブログを書くというのは、まぁ、たいしたことではない。始めようと思えばネット環境があれば誰でもすぐに始められる。問題は、「続ける」ことである。
彼らは既に何年もブログを書き続けて、それが生活の一部となっているわけだ。尊いことも、卑しいことも、ユニークなことも、平凡なことも、とにかくもブログ記事として書き続けている。それも、アラサー、アラフォーといった人々が、何年もブログを続けているのである。そのことの意味を、そののっぴきならなさを、決して軽くみることはできない。上のは引用のとおり、ブログなんてのは「恥部」であるともいえる。
先の論戦の話ではないが、「言葉に残る」というのは、それだけ弱点でもある。
バカの壁の話ではないが、想像力が欠如(それは意図的に行うことだってある)した状態で言葉をとらえれば、誤解の嵐になる。単に表現の差異にどこまでも拘って、論戦の主旨がずれていく、ってこともある。
何を言いたいのか? 「俺すごいんだぜ?」ということか? まぁその、「すごい」方向性が、果たして社会的優位性があるかどうかは別として、「すごい」といっていいと思う。ただまぁ、いつもの「ネットゲーム症候群」に陥りそうになるが、別に、上の幸茸さんやシロクマさんのように、何年も良質な記事を書き続けている人も多いわけである。
その中で、思ったことを単に文字にしている、楽な作業をしているだけの僕が、「すごい」だなんておこがましいことこの上ないだろう。
これまで、言葉には、口には書いてこなかったが、上のように。これまでの記事から分かるように、僕は、他者と比べてすぐに落ち込む癖がある。
頑張っている人、すごい人をみると、自分の不甲斐なさを感じて、やる気がなくなる。真面目系屑だ。社会不適合者だ。
そういうのを矯正しようということで、
・他者と比べてはいけない
・継続は力なり
ということを標語にしているのである。
ただ、それは単に「現時点で」、「僕が」、やっているに過ぎない。最初に取り上げた、「継続は力なりは思考停止だ」と仰っていたブロガーさんの言うように、無理やり、嫌々頑張ることなんてのは、限度があるのだ。
だいたい。その頑張るってのは、何を目的に、何を達成するためにやっている行為なんだ?
――って書いてすぐさま書きたくなるのは、頑張ることを否定するわけではないということだ。大いに頑張るべきだ。必死にストイックに頑張るべきであるが、その達すべき目標や目的――そしてそれが自分にとってよいものかどうか、そこが重要だ。
ああ、だから、本筋とは異なるが、「頑張ることは大切だ!」という標語も、「頑張らなくていいんだよ」という標語も、僕はどーでもいいのである。だから、他者のアドバイス的なサムシングも、あんまり必要と思えないのである。必要なこととしては、「共感」ぐらいのものである。
が、しかし、その「共感」なんてものも、結局は、「ああ、この人は僕のことを分かってくれている」と「自分が」思うかどうかである。実際問題、本当に心から共感してもらっているかどうかなんて分からない――分かりようがない。
わかんないんだけど、まぁそういうのに、「まぁまぁ」って折り合いをつけていくのが大人なんだよ、と、シロクマさんの著書で書かれていた気がする。逆に、それを拗らせちゃうって人もいるってのが、承認欲求の問題だ。
という、他者がどうこう、というのは置いておいて、結局僕は、共感を欲しているんだろうか? だから、ブログを書かねばならぬ、と思うのだろうか? ……今の時点で僕自身もよく分からない。よく分からないのだけれども、「そうだよ、君は認められたいだけなんだ」というアドバイス的な何かを言われると、なんかムッとしそうである(かっこわらい)。たぶん、表現するとすれば、「認められたいと思っている自分を認めたくない」ということなのかもしれない。うーむ、だいぶ拗らせている奴だな(かっこわらい)。
ブログの必要性
というような、こじらせ系のことについては、ブログでしか扱えないと思うのである。なるほど確かに、「共感」として、「ああそうだよね。大変だよね。でも、君だけじゃなくて、みんないろいろ、苦労しているんだよ」といった結論。
他者との会話ってのは、どっかしらそういった結論が見えている。見て取ってしまう。いや、僕がそう思い込んでるだけなのか? いや違う。
もしくは、「そうかそうか。君がそう思うならそうなんだろうな。君の中ではな」といった結論。
ある友人が、「自分と同じレベルの人間がいないから、話してもかみ合わないし、つまらない」といっていた。上だけ切り取って書くと、すごい傲慢な人間のようであるが、そうではなくて、その「同じレベル」というのは、上も下もいる中でということである。自分より下のレベルの人と話してもつまらないし、上の人はレベルが高すぎて何言ってるかわからない。同じぐらいのレベルの人と話をしたい、といった趣旨である。
これはよくわかる話ではなかろうか。
んで、テレビの話題とか、共通の知人の話といった話題であれば、まぁ、共有・共感ってのはできる可能性が高いけれども、その友人が興味のある分野や、僕の興味のある分野なんかは、まぁ特殊といえば特殊なので、周りに話しても噛み合う可能性が相対的に低くなるのだ。
そして、これは、仕方がない。ものすごーっく、仕方がないことである。
この仕方がなさは、僕はもう諦めている。
一方で、この仕方のなさは、情報社会といわれる現代は、解決の見込みがあると思っている。いや逆に、解決の見込みがあるゆえに困難な時代であるとも思うのであるけれども――とまわりくどい言い方を避ければ、要は、インターネットである。
人生とは時間と空間である。そのうち、時間の扱いは昔から大きく変わっていないが、空間というのは進歩している。航空機の発達という、物理的な空間面から、テレビ電話など一瞬で地球の裏側まで情報を伝達するということもそうだ。
だがそれ以上に、ワールドワイドウェブということで、クモの巣のように、不特定多数に情報が発信できるようになったことが、大きな進歩だと思う。(テレビ電話を広げて、テレビ会議だとしてもコミュニケーションは「複数:複数」であるが、WWWは、「個人(又は複数):不特定多数」である)
要するに、物理的環境でコミュニケーションに満足できなくても、間口を広げることが容易になったということである。
それがゆえに、インターネットは、「リアルな関係を損ねる」ものであると、何十年か前はそんな言論が飛び交っていた気がする。人間関係の希薄化、とか。僕はなんか、嘘っぽいなぁと思っていたけれども、まぁそれが事実なのかどうかは置いておいて、結局、幼い子供が将来の夢はユーチューバーですというようになってきた。
歴史をみれば、保守派と革新派の対立の繰り返しだ。せめぎあいながら、変化は止められない。
だからまぁ、もう、今後は、物理的環境にとらわれるだけの必要もないと思う。経済的な面を会社に依存していると、追いつめられる可能性が高くなるように……。
共感とか時代とか面白くない
面白くない。面白くない面白くない面白くない!
なんだ、上の小見出しは。内容は。記事は。つまんねぇえええ!!
どうでもいいよ。他の人がどんな記事を書こうが、どう思おうが。政治がどうとか、時代がどうとか、仕事がどうとか、どうでもいいんだよ!
そんなことよりも、創作、1/9~1/15まで、毎日取り組むって目標どうなったんだよ!
――忘れてはいなかった。そのうち、3日ぐらいは、アウトプットした。2500字ぐらい書いた。――全然ダメじゃん!
うーむ。やはり、現状の生活(および設備・装備の状態)を続けていると、上手い具合に時間の確保ができない。
このままだと、去年と同じような感じになってしまうだろう。
原因の一つはわかっている。頭と心の切り替えがちゃんとできていないからだ。
仕事で疲れたなぁ、友人や彼女と遊んで楽しかったなぁ……の後に、一人の時間は、ある程度存在するのである。しかし、その余韻(疲れた・楽しかった)によって、何も有意な行動ができなくなる時間が発生している。
単に精神的な問題だけなら、気合いだ!! って感じで奮い立たせてもいいが、どうにもこうにも、身体が本当にだるい、という状態になったりする。これはいかんともしがたい。今日なんてある程度早く帰ったものの、もう何もできないぐらい疲れて、だるくて、動けなかった。
……ああ、そうだ。こういった、より実態に近いことを書いておかないとダメだ。
「自分は認められたいのか?」とか、そんな問いは、もはや(というか、今年としては)まったくもってどうでもいいことなのである。
生きる意味を(徹底して)考える、というのと、創作に力を入れる(作品を完成させる)を目指さなければならないのだ。
しかし、今回はもうだめ。強制終了。体がだるい……。
(かっこ書きである。「継続は力なり」という標語に対しての僕の考えをメモしておきたかった故に書き始めたが、正直時間の無駄だった気がする。別に、自分の中では前から分かっていたことだし、改めて書いておく必要性なんて感じられないからだ。ただ、まぁ、アウトプットしておくことによって、「いつ頃は間違いなく思っていた」ということは分かるから、歴史的な意味では意味があるが、でもその程度である。「共感」(承認欲求をみたすこと)が大事、という意味のことも書いた気がするが、これもまぁあまり重要性は思えない(この重要性は思えない、というのは、共感すること・されることの重要性という意味ではなくて、今ここで僕が記事にすること自体についての意味)。しかし、では一体、何を書いておけば、何から書き始めればよかったんだろう? と思うと、よく分からない。とりあえず、書きたくなったから書き始めた。変な時間にも関わらず、体がだるいにも関わらずだ。しかし、こう、なんだ。ブログ書いていないと死にそうになるのである。死にそうというのは飛躍表現だが、消えそうになるというか、イライラで思考が占有されるような。いやまぁもちろん、イライラだけじゃなくて、彼女とデートとかいちゃいちゃしていると心地よいのであるが、要は脳内麻薬のような、麻酔のような、一時的な痛みを止めるような感じ――ああ、こんな表現は不適切と思うけれども、ゲームとか、「消費的」な快楽を思うのである。ゲームも好きなんだけど、なんだろう、「仕事」とかがある以上、だいぶ満たされないのである。ああ、こうやってかっこ書きだと、なんか率直に書ける気がするが、要は、このあたりのことを書きたかったのだ。ゲームとか彼女と一緒にいて楽しいんだけど、仕事に引き戻されると単純に大変だったりつらい。その落差というか、「没頭のできなさ」が、余計にイライラというか苦しいのである。このまま、だらだらと(別にだらだらしている気もないけれど……)生きていくことはできる。楽しいこともあって苦しいこともあって、その繰り返しで生きていく。それでいいなら、今はとても幸せなんだろう……が、ものすごく違和感。この違和感を書いておく必要があるから、ブログを書く意味、続ける意味があるのだ。「ブログの必要性」って小見出しのところで、そこに少し気づいていた気がするのに、うまくもっていけなかった。それは何故か。久しぶりだからだ。ならば仕方がない。次の記事に託そう)
今日の一言「トップダウンとボトムアップは同時並行が必要」
・創作を進めるための方針(その1)
・創作を進める方針(その2)
は、合計1万字を超える長文となった。
ヤフーニュースで、「それ、正月病では?」といった記事が、おそらく6000字ぐらいだが、「何言ってるかわからない」「結局どうすればいいの?」「長い」といったコメントが多かったことを考えると、まぁ、相当面白い(起承転結がしっかりしていて波乱万丈)記事でなければ、まともに読まれることはないのであるのが良く分かる。
ただ、別に長くても、ポイントというか、段落というか、文章構成が理解できる範囲であれば、読み飛ばしていい部分がすぐ分かるので、それほど苦痛ではない。
全部の文章がつながっていて、段落も改行も何もなされていないにも関わらず、話がポンポン切り替わったり、話の前提が何もないまま進んでいく文章はつらい。
というか、そう、この「前提」というのが非常に大事。「新型うつ」といったところで、そもそも、普通のうつ病に関する前提知識がなければ、それを比較して考えることすらできない。もっと突き詰めて言えば、「うつ病」という概念について「知っている」というのは、人それぞれレベルが異なるわけだ。一般的に言われていることを知っているレベルから、自身がうつ病を経験したことがある人から、専門医まで様々。そうした場合、とりあえず文章としては、その、「この記事において」必要となる範囲での概念について、振り返っておく必要がある。その「前提」の記述というのが、記事を面白くできるかどうかを左右する。
これは、小説といったエンターテイメントであっても同じ。これは、「世界観」と言われたりする。この世界観を共有できないと、小説は面白くならない。同じようなシーンを描いても、感動できるかどうかは異なる。
僕は、このブログにおいて、以前書いたけれども、中学生レベルで分かることを目標として、いつも書いている。その中学生レベルってのが何かってのは、厳密に定義などできないのだけれども、とりあえず「自分」基準だ。中学生ぐらいから、こういった日記的な、思考の記録というか、ログというか、ブログというかを書き始めたわけだけれども、その当時の自分に語って聞かせて、ある程度理解させられるレベルを目指している。
という、ここら辺が「前提」であって、すなわちさっさとこの小見出しにおける目的を書けば、先日の記事を振り返ろうということである。
で、振り返ると、以下のサイクルが重要であるという確認だ。
「目的の概念を描くこと」→「気持ちを固めること」→「目標を定めること」→「生活に組み入れること」
――というのは当たり前なのであるが、じゃあ、具体的にどうしたら、明確化できるのか、ということを記述する。
先日の記事にならって書けば、「目的の概念を描くこと」となる。
「創作をしよう」
というのは、標語である。それだけでは目的ではない。
定義が必要。創作とは「ブログ」「小説」「作曲」である。そのうち、「小説」に絞って。ではその「小説」をするのは何故必要なのか? ……と考えていくのが概念化(言語化)である。
先日の記事から引用すれば、
たいてい、「目的を立てる」ということをイメージするとき、ステップ1の概念化だけで終わってしまう人が多い。そういう人は、計画倒れする。
ステップ1だけでは、目的とは言わない。目的を立てるというのは、ステップ2までが必要。
会社の販売目標とか、学校でいい成績をとるとか、そういった目標がどうにも嫌になったりするのは、このステップ2が十分にできていないからだ。たいてい、他者から与えられた目標の場合、面倒くさかったりする。
それは、目標自体が悪いこともあるけれども、それだけとは限らない。
気持ちの固定化ができていない場合があるからいけないのだ。
気持ちの固定化というのは、先日の記事の引用であって、よい表現が浮かばないけれども、価値のインプットとか、良い表現ではないが、刷り込みとか、そういったもの。
ステップ1で打ち立てた目的というのが、「ああ、これを、僕は達成したいんだ!」といった思いを、強くもてるかどうかってのが大事。
逆に。
このステップ2をできない場合、ステップ1がよくないか、もしくは、それこそ現状の心身体調の悪さ疑ったほうがいい。
もちろん、ステップ2を飛ばして、次のステップ3を実践することも可能だけれども、その目的が困難であればあるほど、挫折や、計画倒れになる可能性が非常に高いことを意識しておくべきだ。
では、具体的に、このステップ2を進めるためにはどうしたらいいか?
これは、残念なことに、体系化できていないから、うまく説明できない。ただ、僕の場合は、ものすごい長い文章だったり、思考時間だったりが必要である。要はとにかく「なぜ?」「どうして?」と突き詰めていくのである。
「創作しよう」
が目的であるのに、数時間と1万字が必要だったのだ。いやむしろ、まだ全然足りない。けれども、いつまでもこれをやっていても、進みがよくないのは確かなので、次にうつる。
2.気持ちを固める
3.目標設定する
ここまでのまとめは上のとおり。
さて、目標とは何か。数値化できて、検証できるものが、目標である。
検証というのは、実績を測れるものである。「レビューを15つ書く」というのが、先日立てた目標である。本当は、そのレビューの文字数とか、「いついつまでに」といった期限を決めたりとか、事細かに設定が必要なのであるが、とりあえず、「15」という数字を挙げれば、数値化・検証が可能になるので、これは目標といえる。
補足。繰り返し書いていることだけれども、「目的」と「目標」は違う。「目的」は、「創作しよう」というものなので、これだと、なんだか、具体性がないわけだ。数字じゃないし、検証できない。だから、目標ではない。
さて、インプット側はそれとして、アウトプット側としては、「連載作品の完結」であった。
ので、さっそく、一つの、このブログでも連載している作品の続きを検討した。
久しぶりであったので(というのは単に言い訳)、600字ぐらいで集中力が切れた。
実際は、未投稿分を含め、読み返してみて、いくつか表現やシーンの追加などを行ったので、もう少し書いている気はする。とはいえ、このペースだと終わる気がしない。
ただ、しばらく時間をおいて、よいところもあった。一部面白いかな、と思った場面もあったりした。
自分の作品であっても、しばらく経つと、他人の作品である。
あと、プロットレベルで、表現とか一切きにせず書いた内容も、まぁそれはそれで使えるんじゃないか、といった部分もあったりしてよかった。ので、思いついたら、取り敢えず書いておくのがいいんじゃなかろうか。
ただ、このブログみたいに、ほんとうにゼロ秒思考で書いていると、後からまとめて使うなんてことができないぐらい量が多くなってしまうので、絶対的に良い方法かというとそれも悩ましいけれども。
僕は「継続は力なり」という言葉が好きなのであるが、習慣化するというか、続けることがとても大事だと思っている。
コツコツ真面目にやるだけが人生じゃない。
とか、そんなこと言われたり、聞いたことあるかもしれないが、まぁ、まともに受け取ってはいけない。
継続することと、真面目にやることは、イコールではない。
人は元来飽きっぽいものであるし、「面倒くさい」ということを回避するために、様々な道具を生み出したり、知恵を絞ったりしてきたのである。「知恵を絞る」というのは、実はそっちの方が面倒なんじゃあ……? という場面もあるにせよ、そこはやっぱり、「同じことをコツコツやる」ことが脳のパフォーマンスを衰えさせることを、感覚的に知っていたのであろう。
まぁなんと言われようが、一朝一夕で完成したり身に着けたりできることなんて、大したことではないのである。――いやもちろん、素晴らしい能力を持った人は、一日で素晴らしいものを作れるだろう。涼宮ハルヒ氏は、いろんな部活動に所属して能力を発揮したけれど、やっぱりつまらねぇって思ってしまった、とか。先日、ゲーム廃人のインタビュー的なのを見たが、定職に就かずYOUTUBEで収入を得ているというその方は、中学生ぐらいまで、勉強もスポーツも万能で、モテにモテていたらしい。自分に相手になる人がいなくて、気づいたら、世界中と競えるオンラインゲームの世界にのめりこんでいったのだという。羨ましいような羨ましくないようなエピソードであるが、そんな例外的な話は、「ふんふん、へー」的に聞いておけばよい。ゲームや漫画のヒーロー・ヒロインに憧れている場合じゃない。お前は、どうなんだ、と。凡人としての自分を認められているのか? と。
凡人であれば、だ。やっぱり一朝一夕で完成したり身に着けたりできることは少ないのだから、やり続ける必要がある。――でこの「やりつづける」というのを、徹夜で根詰めて、とかいうのは、またしても愚かしいことである。人間の集中力は、5分だか15分だか30分だかが限界とか、聞いたことがあるだろう。もう一つ、コツコツ続けていても、効率は上がらないのである。
だから、様々、間に挟みながらやっていくのがいい。
あー、最初に取りあげたヤフーニュースでもあったけれど、「元気ってのは、行動しているとわきあがるものである。エネルギー切れで休めばいいってのは浅慮だ」みたいなのは、僕もそういう面があると思う。「頑張ったね。休みな」というのは、励ましとしてはいいかもしれないが、必ずしもまともなアドバイスなどではない。このバランス感覚は、なかなか表現が難しい。このあたりの理解がない人は、上のヤフーニュース読んでも、「で、結局なんなの?」と思うことだと思う。
逆に、そのあたりを分かってくると、「他者のアドバイス」の意味がよく分からなくなってきてしまうのが、困ったところであるが、この辺りも、まだまだ表現が足りなくてモヤモヤするところである、がこれは別の話なので今回はカット。
要は、続けることは大事なのだけど、「ぶっ続け」ではない、ということだ。
だから、習慣化するのがとても大事、ということ。
だから、ステップ4の、生活に取り入れる(習慣化)が大事、ということ。
うーむ、この小説との落差よ……。
まぁいいや、取り敢えずメモを中心に書いていく。
ぶっちゃけ、タブレットに、マウスとキーボードつなげりゃいいわけだよな。
ただ、ここは、この「創作」よりも大目標たる、住環境整備というか、モノを少なくしようという方針と抵触するので難しいところ。
ただ、その、別の場所で書くというのも大事なんだよな。
例えば、会社帰りに、どっか喫茶店によって書く、とか。近くに図書館があればいいけど。そういう手段をとるなら、やっぱりタブレット欲しいな。会社の鞄に入れても重くないぐらいだとベスト。
なんか面白そうだなぁと思いながら、少しこのあたりは冷静に考えなければいけない。
仕事が21時に終わったとして、30分だか1時間だかの時間捻出のために喫茶店などによるというのはちょっと無駄が大きい。
んじゃー、朝は? とか、代替案はいろいろ浮かぶけれども、要は、そんなことしてたらもっと大きな目標というか目的である、「体調」面がダメだろう。
なんといっても、「身体」「仕事」「友人」「家族・恋人」「趣味・遊び」「学び」「富」「環境」といった、8つの項目のうち、「身体」「環境」の保持は大前提である。
そのとき、あんまり大きく生活を変えないほうがいい。無理は禁物。
例えば、朝の時間の活用がよいと、いろんな本とか記事で言われている。一理ある。けれども、これまで朝にちゃんと起きてなかった人が、さぁ、朝に自己啓発するぞ! と思ったところで、無理である。いや、無理ではないけれども、エネルギーが非常に大きくかかる。そのエネルギーの大きさは、ステップ1:目的の概念化とステップ2:気持ちの固定化が、どこまでしっかりできているかによって変わってくる。それがしっかりしてたら、たいていのことではブレない。
とにかく、来週一週間(1/9~1/15)は、毎日、必ず、「書くことに向かう」ことにする。たとえ、アウトプットできなくてもよしとする。
それをやってみて、まず、できるか、できないか。
できたのなら、それが続けられそうかを検証する。
できなかったのなら、その原因を確認し、方針を再度練る。
この「習慣化」は、地道な作業である。すぐにできるなんて思わない方がいい。失敗することもある。
そう、その失敗のとき、再度立ち上がれるかどうかってのも、やっぱり、ステップ1・2が重要なのだけれども、とりあえず時間切れのためここまで。
(かっこ書きである。「時間切れ」って体よくいつも使っているが、出かける予定時間前だったり、普段であれば、24時を過ぎるとやめることにしている。寝る時間だ。あとは、飽きてしまってどうしても先を書けなくなった場合もある――がそれって、時間切れじゃあないな。「強制終了」ってのも使うけれども、ほぼ「時間切れ」と同じ意味である。飽きて書けなくなったときだけ「強制終了」にしようか。どうでもいいことのようで、結構重要である。ちなみに、創作を再開して思ったのは、こう、「いい表現」や「いいシーン」を描こうとすると、何度も同じところを読み返したりするわけだけれども、その行為が段々、その作品自体への「面白さ」ってのを失わせていくのである。ある人が言っていたというか書いていたというか、「実験的にとかって思って書いていると、大抵失敗する」というのがあった。少し違うかもしれないが、僕は、「自分で面白いと思っていないと、完結させようという気持ちがなくなる」のかなぁと思った。前回の記事で書いたけれど、やっぱり、「エタる」のを避けて完結させるってのは、とても大変なことだと思う。ま、「人生」は、「エタ」ろうがどうだろうが、やる気があろうがなかろうが、時間経過は止められないのであって、その点楽なものだと思う。ある意味において、生きるというのは楽なことである。もちろん、戦争や紛争がない命の値段が高い地域において。ただ、幸せに生きるとか、満足して生きるとか、何らか修飾語が付き始めると、これは難しい)
実践せねばなるまい
先日の記事、・創作を進めるための方針(その1)
・創作を進める方針(その2)
は、合計1万字を超える長文となった。
ヤフーニュースで、「それ、正月病では?」といった記事が、おそらく6000字ぐらいだが、「何言ってるかわからない」「結局どうすればいいの?」「長い」といったコメントが多かったことを考えると、まぁ、相当面白い(起承転結がしっかりしていて波乱万丈)記事でなければ、まともに読まれることはないのであるのが良く分かる。
ただ、別に長くても、ポイントというか、段落というか、文章構成が理解できる範囲であれば、読み飛ばしていい部分がすぐ分かるので、それほど苦痛ではない。
全部の文章がつながっていて、段落も改行も何もなされていないにも関わらず、話がポンポン切り替わったり、話の前提が何もないまま進んでいく文章はつらい。
というか、そう、この「前提」というのが非常に大事。「新型うつ」といったところで、そもそも、普通のうつ病に関する前提知識がなければ、それを比較して考えることすらできない。もっと突き詰めて言えば、「うつ病」という概念について「知っている」というのは、人それぞれレベルが異なるわけだ。一般的に言われていることを知っているレベルから、自身がうつ病を経験したことがある人から、専門医まで様々。そうした場合、とりあえず文章としては、その、「この記事において」必要となる範囲での概念について、振り返っておく必要がある。その「前提」の記述というのが、記事を面白くできるかどうかを左右する。
これは、小説といったエンターテイメントであっても同じ。これは、「世界観」と言われたりする。この世界観を共有できないと、小説は面白くならない。同じようなシーンを描いても、感動できるかどうかは異なる。
僕は、このブログにおいて、以前書いたけれども、中学生レベルで分かることを目標として、いつも書いている。その中学生レベルってのが何かってのは、厳密に定義などできないのだけれども、とりあえず「自分」基準だ。中学生ぐらいから、こういった日記的な、思考の記録というか、ログというか、ブログというかを書き始めたわけだけれども、その当時の自分に語って聞かせて、ある程度理解させられるレベルを目指している。
という、ここら辺が「前提」であって、すなわちさっさとこの小見出しにおける目的を書けば、先日の記事を振り返ろうということである。
で、振り返ると、以下のサイクルが重要であるという確認だ。
「目的の概念を描くこと」→「気持ちを固めること」→「目標を定めること」→「生活に組み入れること」
生活に取り入れる必要性
何か新しいことを始めるときに必要なのは、その目的を明確化することである。――というのは当たり前なのであるが、じゃあ、具体的にどうしたら、明確化できるのか、ということを記述する。
ステップ1:概念化・言語化
まず、言語化である。先日の記事にならって書けば、「目的の概念を描くこと」となる。
「創作をしよう」
というのは、標語である。それだけでは目的ではない。
定義が必要。創作とは「ブログ」「小説」「作曲」である。そのうち、「小説」に絞って。ではその「小説」をするのは何故必要なのか? ……と考えていくのが概念化(言語化)である。
先日の記事から引用すれば、
人生は困難である
↓
だから物語が必要だ
↓
感銘を受ける物語に出会うのは運による
↓
だから自分でも創り出したい
といった流れによって、「小説」をすることを今年の目標にした、と。ここまでで、ステップ1の、「目的の概念を描くこと(概念化(言語化))」が完了となる。ステップ2:気持ちの固定化(価値のインプット)
軽視されがちなのが、このステップ2である。たいてい、「目的を立てる」ということをイメージするとき、ステップ1の概念化だけで終わってしまう人が多い。そういう人は、計画倒れする。
ステップ1だけでは、目的とは言わない。目的を立てるというのは、ステップ2までが必要。
会社の販売目標とか、学校でいい成績をとるとか、そういった目標がどうにも嫌になったりするのは、このステップ2が十分にできていないからだ。たいてい、他者から与えられた目標の場合、面倒くさかったりする。
それは、目標自体が悪いこともあるけれども、それだけとは限らない。
気持ちの固定化ができていない場合があるからいけないのだ。
気持ちの固定化というのは、先日の記事の引用であって、よい表現が浮かばないけれども、価値のインプットとか、良い表現ではないが、刷り込みとか、そういったもの。
ステップ1で打ち立てた目的というのが、「ああ、これを、僕は達成したいんだ!」といった思いを、強くもてるかどうかってのが大事。
逆に。
このステップ2をできない場合、ステップ1がよくないか、もしくは、それこそ現状の心身体調の悪さ疑ったほうがいい。
もちろん、ステップ2を飛ばして、次のステップ3を実践することも可能だけれども、その目的が困難であればあるほど、挫折や、計画倒れになる可能性が非常に高いことを意識しておくべきだ。
では、具体的に、このステップ2を進めるためにはどうしたらいいか?
これは、残念なことに、体系化できていないから、うまく説明できない。ただ、僕の場合は、ものすごい長い文章だったり、思考時間だったりが必要である。要はとにかく「なぜ?」「どうして?」と突き詰めていくのである。
「創作しよう」
が目的であるのに、数時間と1万字が必要だったのだ。いやむしろ、まだ全然足りない。けれども、いつまでもこれをやっていても、進みがよくないのは確かなので、次にうつる。
ステップ3:目標設定
1.目的を立てる2.気持ちを固める
3.目標設定する
ここまでのまとめは上のとおり。
さて、目標とは何か。数値化できて、検証できるものが、目標である。
検証というのは、実績を測れるものである。「レビューを15つ書く」というのが、先日立てた目標である。本当は、そのレビューの文字数とか、「いついつまでに」といった期限を決めたりとか、事細かに設定が必要なのであるが、とりあえず、「15」という数字を挙げれば、数値化・検証が可能になるので、これは目標といえる。
補足。繰り返し書いていることだけれども、「目的」と「目標」は違う。「目的」は、「創作しよう」というものなので、これだと、なんだか、具体性がないわけだ。数字じゃないし、検証できない。だから、目標ではない。
さて、インプット側はそれとして、アウトプット側としては、「連載作品の完結」であった。
ので、さっそく、一つの、このブログでも連載している作品の続きを検討した。
久しぶりであったので(というのは単に言い訳)、600字ぐらいで集中力が切れた。
実際は、未投稿分を含め、読み返してみて、いくつか表現やシーンの追加などを行ったので、もう少し書いている気はする。とはいえ、このペースだと終わる気がしない。
ただ、しばらく時間をおいて、よいところもあった。一部面白いかな、と思った場面もあったりした。
自分の作品であっても、しばらく経つと、他人の作品である。
あと、プロットレベルで、表現とか一切きにせず書いた内容も、まぁそれはそれで使えるんじゃないか、といった部分もあったりしてよかった。ので、思いついたら、取り敢えず書いておくのがいいんじゃなかろうか。
ただ、このブログみたいに、ほんとうにゼロ秒思考で書いていると、後からまとめて使うなんてことができないぐらい量が多くなってしまうので、絶対的に良い方法かというとそれも悩ましいけれども。
ステップ4:生活に組み入れること(習慣化)
あー、それで、一番かもしれない重要なのが、このステップ4である。僕は「継続は力なり」という言葉が好きなのであるが、習慣化するというか、続けることがとても大事だと思っている。
コツコツ真面目にやるだけが人生じゃない。
とか、そんなこと言われたり、聞いたことあるかもしれないが、まぁ、まともに受け取ってはいけない。
継続することと、真面目にやることは、イコールではない。
人は元来飽きっぽいものであるし、「面倒くさい」ということを回避するために、様々な道具を生み出したり、知恵を絞ったりしてきたのである。「知恵を絞る」というのは、実はそっちの方が面倒なんじゃあ……? という場面もあるにせよ、そこはやっぱり、「同じことをコツコツやる」ことが脳のパフォーマンスを衰えさせることを、感覚的に知っていたのであろう。
まぁなんと言われようが、一朝一夕で完成したり身に着けたりできることなんて、大したことではないのである。――いやもちろん、素晴らしい能力を持った人は、一日で素晴らしいものを作れるだろう。涼宮ハルヒ氏は、いろんな部活動に所属して能力を発揮したけれど、やっぱりつまらねぇって思ってしまった、とか。先日、ゲーム廃人のインタビュー的なのを見たが、定職に就かずYOUTUBEで収入を得ているというその方は、中学生ぐらいまで、勉強もスポーツも万能で、モテにモテていたらしい。自分に相手になる人がいなくて、気づいたら、世界中と競えるオンラインゲームの世界にのめりこんでいったのだという。羨ましいような羨ましくないようなエピソードであるが、そんな例外的な話は、「ふんふん、へー」的に聞いておけばよい。ゲームや漫画のヒーロー・ヒロインに憧れている場合じゃない。お前は、どうなんだ、と。凡人としての自分を認められているのか? と。
凡人であれば、だ。やっぱり一朝一夕で完成したり身に着けたりできることは少ないのだから、やり続ける必要がある。――でこの「やりつづける」というのを、徹夜で根詰めて、とかいうのは、またしても愚かしいことである。人間の集中力は、5分だか15分だか30分だかが限界とか、聞いたことがあるだろう。もう一つ、コツコツ続けていても、効率は上がらないのである。
だから、様々、間に挟みながらやっていくのがいい。
あー、最初に取りあげたヤフーニュースでもあったけれど、「元気ってのは、行動しているとわきあがるものである。エネルギー切れで休めばいいってのは浅慮だ」みたいなのは、僕もそういう面があると思う。「頑張ったね。休みな」というのは、励ましとしてはいいかもしれないが、必ずしもまともなアドバイスなどではない。このバランス感覚は、なかなか表現が難しい。このあたりの理解がない人は、上のヤフーニュース読んでも、「で、結局なんなの?」と思うことだと思う。
逆に、そのあたりを分かってくると、「他者のアドバイス」の意味がよく分からなくなってきてしまうのが、困ったところであるが、この辺りも、まだまだ表現が足りなくてモヤモヤするところである、がこれは別の話なので今回はカット。
要は、続けることは大事なのだけど、「ぶっ続け」ではない、ということだ。
だから、習慣化するのがとても大事、ということ。
だから、ステップ4の、生活に取り入れる(習慣化)が大事、ということ。
習慣化をするには
さて。本記事の主題がここからなのだけれど、ここまでで5000字に届こうとしている。うーむ、この小説との落差よ……。
まぁいいや、取り敢えずメモを中心に書いていく。
その1:環境整備
ある方が、ネット用と執筆用のPCを分けていると書かれていて、非常に有用な方法だと思っている。あー、ノートPCだかタブレットだか欲しいな。ぶっちゃけ、タブレットに、マウスとキーボードつなげりゃいいわけだよな。
ただ、ここは、この「創作」よりも大目標たる、住環境整備というか、モノを少なくしようという方針と抵触するので難しいところ。
ただ、その、別の場所で書くというのも大事なんだよな。
例えば、会社帰りに、どっか喫茶店によって書く、とか。近くに図書館があればいいけど。そういう手段をとるなら、やっぱりタブレット欲しいな。会社の鞄に入れても重くないぐらいだとベスト。
なんか面白そうだなぁと思いながら、少しこのあたりは冷静に考えなければいけない。
仕事が21時に終わったとして、30分だか1時間だかの時間捻出のために喫茶店などによるというのはちょっと無駄が大きい。
んじゃー、朝は? とか、代替案はいろいろ浮かぶけれども、要は、そんなことしてたらもっと大きな目標というか目的である、「体調」面がダメだろう。
なんといっても、「身体」「仕事」「友人」「家族・恋人」「趣味・遊び」「学び」「富」「環境」といった、8つの項目のうち、「身体」「環境」の保持は大前提である。
その2:取り敢えず書く
生活に取り入れるには、とにかく、その行為に費やす時間を強制的に確保することである。そのとき、あんまり大きく生活を変えないほうがいい。無理は禁物。
例えば、朝の時間の活用がよいと、いろんな本とか記事で言われている。一理ある。けれども、これまで朝にちゃんと起きてなかった人が、さぁ、朝に自己啓発するぞ! と思ったところで、無理である。いや、無理ではないけれども、エネルギーが非常に大きくかかる。そのエネルギーの大きさは、ステップ1:目的の概念化とステップ2:気持ちの固定化が、どこまでしっかりできているかによって変わってくる。それがしっかりしてたら、たいていのことではブレない。
とにかく、来週一週間(1/9~1/15)は、毎日、必ず、「書くことに向かう」ことにする。たとえ、アウトプットできなくてもよしとする。
それをやってみて、まず、できるか、できないか。
できたのなら、それが続けられそうかを検証する。
できなかったのなら、その原因を確認し、方針を再度練る。
この「習慣化」は、地道な作業である。すぐにできるなんて思わない方がいい。失敗することもある。
そう、その失敗のとき、再度立ち上がれるかどうかってのも、やっぱり、ステップ1・2が重要なのだけれども、とりあえず時間切れのためここまで。
(かっこ書きである。「時間切れ」って体よくいつも使っているが、出かける予定時間前だったり、普段であれば、24時を過ぎるとやめることにしている。寝る時間だ。あとは、飽きてしまってどうしても先を書けなくなった場合もある――がそれって、時間切れじゃあないな。「強制終了」ってのも使うけれども、ほぼ「時間切れ」と同じ意味である。飽きて書けなくなったときだけ「強制終了」にしようか。どうでもいいことのようで、結構重要である。ちなみに、創作を再開して思ったのは、こう、「いい表現」や「いいシーン」を描こうとすると、何度も同じところを読み返したりするわけだけれども、その行為が段々、その作品自体への「面白さ」ってのを失わせていくのである。ある人が言っていたというか書いていたというか、「実験的にとかって思って書いていると、大抵失敗する」というのがあった。少し違うかもしれないが、僕は、「自分で面白いと思っていないと、完結させようという気持ちがなくなる」のかなぁと思った。前回の記事で書いたけれど、やっぱり、「エタる」のを避けて完結させるってのは、とても大変なことだと思う。ま、「人生」は、「エタ」ろうがどうだろうが、やる気があろうがなかろうが、時間経過は止められないのであって、その点楽なものだと思う。ある意味において、生きるというのは楽なことである。もちろん、戦争や紛争がない命の値段が高い地域において。ただ、幸せに生きるとか、満足して生きるとか、何らか修飾語が付き始めると、これは難しい)
今日の一言「続いた」
人生は困難である
↓
だから物語が必要だ
↓
感銘を受ける物語に出会うのは運による
↓
だから自分でも創り出したい
という流れである。
だから、上に書いてきたけれども、そもそも、人生が困難じゃなかったら、創作も必要ない。
ここで、もっといえば、「ひだまりスケッチ」的な、日常ほのぼの的な物語を欲しているわけではないということだ。
すぐさま書いておけば、日常ほのぼの系を否定するのでは決してない。しかしそれは、例えば「ゲーム」のようなものだと思っている。僕はゲームも好きだし、今でもやったりしているけれど、時間的消費であるという認識が強まっている。ああ……こういう表現をするから誤解というか敵をつくりやすいのであるが、別に消費するのも悪いことだとは思っていないのだけれども、要は、結果的に精神がすり減ってしまう、ということなのであって……。要は人生楽しく過ごしたいという、凡人誰しも思うのと同じなのであるけれども、そのための手段として、それだけだと足りないなと思うのであって……と、このあたりは書けば書くほど失敗するので強制終了。
さて、バランス感覚ということであるが、創作をするというのが必要だ、というところまでは確認したとして、どこまで重要視するか、ということになる。
ここまで、身体と思考と大別して、思考部分について記述してきたのであった。
しかし当然ながら、身体というのも重要な要素である。
身体があるから欲望があるともいえる。
終わりがあるから芸術が尊いものになるように。
永遠なる美とか真理ってものが美しいと思われるのは、永遠ってものが、どこを探しても存在しないからともいえる。
「侘び・寂び」や黄昏って表現によって、日本人はよくその「終わり」ってものを理解していた……とかいう、民族うんたらはまぁどうでもいいけれども、僕もどこからしら、そういった儚さ的な表現に心をうたれることがある。
それは、「お涙頂戴」的に忌避されがちな感情ではあるけれども、その根源たるテーマは、僕は嫌いではない。ただ、こう、なんだろう、ドキュメンタリーというのが、どうにも苦手ではある。特殊清掃のドキュメンタリーは面白かったけれども、何か「切り取られた感」があって嫌だ。(いや、見始めるときっと見入ってしまうのだけど)
それよりだったら、いっそのこと、もう完全に物語(創造)の方がよかったりする。その方が……きっとこれは納得される方が少ないと思うけれども、僕は、その方が「純粋」に思えるのだ。
前書いたけれども、アンドロイドとか、ロボット系に僕が弱いのは、逆にこう、複雑性がないからな気がしている。
(プラネタリアンという作品が、アマゾンプライムに追加されて見たけれど面白かった。前に動画サイトで断片的に見て興味をもっていたけれど、完全版が見られてよかった。よかったけれども、その、回想編だけでよかったかなぁ。星の人になった主人公のその後の話――シェルターで子供たちに星について教えてあげる――は、世界観を知るにはよかったけれど、まぁなくてもよかったかなぁ)
住環境も大切。最近、だいぶ部屋の物を少なくした。先日も、服や下着を45L分ぐらい処分した。クローゼットが7割ぐらいになった。スーツとYシャツがまぁ多いけれど、これは仕方がないか。クリーニング屋で、シーズンオフで預かってくれるサービスとかもあった気がするが、検討してみようかな。アウトソーシング(外部委託)大事。
そもそも資本主義の発展は、専門化、分化した方がより大きな価値を生み出せるという理論から成っている。
本もだいぶ減ったので、本棚も7割ぐらいである。
あとは、古いノートPCと外付けHDDの処分、ぐらいかな。しばらくは、現状を維持する方向でよいかもしれない。
って、長いなこの記事。数えてみると7000字を超えている。途中コーヒーを淹れながら1時間ぐらい経った。一度切ろうか。
小説も、これぐらいのペースで書いていけたらいいんだけど。
というか、これは、余計な話しが多すぎるのがよくない。しかし、こう、余計な話がないと考えられないのも事実である。ただ、余計な話ばっかりで、最初に書こうと思った「実践」的なことが書けないとダメだ。次の小見出しに託す。
しかし、先の「サイコパス的な」とおり、理念を語るだけでは殆ど何の意味もない。会社では効率が重視されるが、同時に「ゆとり」がなければ自己(組織)批判・内省も進まずに、価値を高めていくことができない。そうした「ゆとり」の大切さがわかっていても、目の前の業務が積み重なれば、そうした理念は形骸化する。
要するに、インプットとアウトプットは大切だが、それをどうやって自分の生活に取り入れていくのか、その実践的な記述を、本記事に託そうと思ったわけである――が、みてのとおり、7000字は定義的な、理念的な、感想的な表現に終始したわけである。
創作は大切だ! 俺はやるぜッ!
この一行で本来、7000字はOKであったのである。
しかしこの面倒くさい自分は、ここまで時間を費やさないと、しっかりと動けないのである。
しかし同時に、仕方がないとも思う。それは、日々が忙しいからだ。「仕事が」とか、そういう意味ではなくて、ノイズ的な……いや、そんな表現はよくない。ご飯食べたり、睡眠とったりと、生活や身体状況のことだ。生活をする、――これだけで、とても忙しいのである。
だから、本当に素晴らしい業績をする場合、内助の功的な、家族のサポートが大事だったりする――のは、昔の話(か、本当に一握りの業種)であって、今や夫婦ともに働いていることだってあるし――まぁそうはいっても、家電の充実や24時間のストアなど、それこそアウトソーシングできる要素が増えているから、一概に昔と比較することもできない。――そうだから、本当に、何かと比較するということが、僕は本当に無駄であると思っている。比較してどうこう思い悩んでいる時間があれば、自分でも、周囲の環境でも、少しでも良くする行動をすべきだろうと思う。
話がやっぱりそれる。そんなことは置いておいて、つまり、みんな誰しも「忙しい」のであるから、しっかりと「気持ち」をもっていないと、簡単に周囲の状況に流されてしまうのである。
400日ぐらい筋トレのルーチンをやってきたわけだけれども、これは、それこそ誰かと比較したら、もっとハードなトレーニングや、効果を出している人もいるわけである。しかし、自分としては、一時期はとても大変だった。疲れたり、イライラしながら帰宅した後に、悶々としたり眠かったりする中、全然関係ない筋トレをするという気持ちの切り替えは、今、こうやって書いているときは想像できないほど大変である。
それでも続けることができたのは、「気持ち」を整えたからである。もちろん、ブログに書いて、コメントもらったり反応を頂いたことや、免除規定(例外規定)というテクニック的なものも関係するけれども、何事においても、プライオリティ(優先順位)を最大にするという気持ち(意志)を固めたからである。
これは、単に「ダイエットしよう!」とか思うのと、まったく違う。
何が違うのか……ちょっと未だ表現できないけれども、つまり、「自己と一致」しているかどうかである。
陳腐な表現になってしまうが、「本当にやりたいこと」かどうか、である。筋トレとか、苦しいことが何故やりたいことになるのかといえば、刹那的な苦しさを超えて、得たいものがあるからである。卑近な自分の例であれば、単純に筋肉を付けたいということだけではなくて、「継続することができる」という自分の意志の確認でもある。このことからすれば、筋トレをさぼってしまうというのは、「自分に対しての裏切り」なのである。
もちろん、他者を騙したり裏切ったりするのは最悪なことだ。
しかし、それと同様に、自分を騙したり裏切ったりするのも最悪である。
他人に負けてもいい。だが、(過去の)自分には絶対に負けんじゃねぇ!
って表現が好きである。
いやもちろん、他人に負けちゃいけない場面だってあるし、体力の衰え的に過去の自分に絶対勝てるかっていうとそれも違うわけだから、単に表現だけれども、標語としてはそういうことだ。
――という、また、概念的なことを書いてしまったが、そうじゃなくて、要はどうやったら、今年の目標である「創作」を進められるのか、ということである。
まず、インプットを増やすためには、小説読むことである。
じゃあ、初めにどうすればよいかといえば、数値目標を決めることである。
この、数値を決めるというのは、目標設定においてよく言われることであるが、単純にこれだけでは役に立たない考え方である。
例えば、じゃあ、一年間に100冊読もう! としても、その100冊の根拠が全く不明である。
(そもそも、たくさん読んだからよいか、どうか、というのは別の次元の話なので置いておく)
数値目標を立てるのは勿論重要だが、その際、どうやって数値目標を立てるのかの方策が必要だ。
これは、現状理解が不可欠である。
つまり、今としては、どれぐらい読んでいるのか、ということだ。
――昨年は……うーん、よく分からない。紙の本だと5冊……ぐらい。キンドルで3、4冊ぐらい……か。後はWEB(小説サイト)の方では、まぁまぁ読んでいる気がする。少なくても10作品以上。
こうやって思い返すと、思った以上に少ないなぁという感想になる。
ただ、こうやって考えると、そもそも、冊数で数えるのも(文量が違うだろうし、面白さも違うだろうし)妥当かとか思ってくるし、同じ本を読み返したくなって読んだのはどうなのかとかも考えなきゃいけないし、とにかく、いきなり「100冊!」とかって数字を挙げようとも思わなくなるだろう。
それと、これも僕が勝手に思っているだけだけれども、面白い本を読んだとして、今度それをアウトプットに転じようとするには、「感想」や「批評」を考える(書く)のも重要だと思う。
この、とても長い記事の最初の方に書いたけれども、これは、「言葉でしか思考できない」というものに繋がる。どういった場面だったからどう思ったのか、どういった描写に対してどう感じたのか。これが無いと、「感動したッ!」となって、以上……、となる。まぁそれはそれでいいのだけれども、ちょっともったいなくもあるのだ。
ええと、中々先に進まないので、暫定目標として、2018年中に、15本の感想・批評を書く、ということを挙げる。
何故15本かというと、一か月一本だと12本だから……とかそういうわけではなくて、2017年に読んだ本数が15ぐらいだからである。感想や批評を書きたくなる作品に出会うには、それ以上読まなきゃいけないだろうし、ちょうどよいかと思ったのだ。
現在連載中の作品が2作品ぐらいあるが、これを完結させたい。どういった方向性でもいいから。打ち切りみたいな終わり方でもいいから、終わらせたい。そんないい加減でいいのか、というのはあるけれども、「エタる」(エターナル(永遠)になる=未完になる)作品が多い中、「終わらせる」というのは一つ重要なことだと思っている。
先日、バイオハザードの映画(ダムネーション)を見て面白かったけれど、何かこう、問題が完全に解決したのか、というとそういうわけでもないし、明確な「終わり」って感じはしなかったけれど、ちゃんと物語としては完結していたと思う。
以前、アイアムアヒーローについて、終わり方が打ち切りみたいで不満だと書いたけれど、「もう主人公にこれ以上、物語の革新に迫る起伏は起こりません」という意味であれば、十分完結しているとは思うわけである。当然、現実世界においては、無意味に人は死んでいくのであり、名もなき、世界の真理にかすりもしない人なんて大多数である。ただ、「物語」、「作品」として存在する以上、外連味でもいいから、「意味」をもたせて欲しいのである。ましてや、序盤からずっと期待し楽しんでいた作品なのであれば、期待も大きくなるしなおさらである。
ということで、目標は立ったわけだが、なんか足りない。これだけでは、確実に失敗する気がする。
これはまだ、具体的な行動方策にまで落とし込めていないからである。
こんだけ書いてきたけれども、まだもう少し考え、書く必要がありそうだ。
(かっこ書きである。結局、ちゃんと具体策が出せなかった。かなしい。基本的に、「目的の概念を描くこと」→「気持ちを固めること」→「目標を定めること」→「生活に組み入れること」といった流れでなければ、明確に行動ができない(僕は)。しかし、日々の生活でこんなサイクルを実施することなんてできないので、まぁ流されるように行動することが大半になる――そしてそれがつらいのだ。だから、より大きな目的、すなわち「生きる意味」なんてものを求めるのである。「生きる意味」については、概念化段階と、気持ちの固定化の中間ぐらいの状態なので、まだまだフラフラしている。「創作する!」ってのも、今年最初の記事が、「目的の概念化」に位置付けられて、今回の記事がようやく、「気持ちを固めること」と「目標を定めること」の中間あたりに位置づけられる。これだと、風が吹けば飛んでいくぐらいの、弱い状態だ。たぶん、少しでも生活変化が加われば、簡単になくなってしまうだろう。まだ足りない)
バランス感覚
長くなったけれども、結局は、人生は困難である
↓
だから物語が必要だ
↓
感銘を受ける物語に出会うのは運による
↓
だから自分でも創り出したい
という流れである。
だから、上に書いてきたけれども、そもそも、人生が困難じゃなかったら、創作も必要ない。
ここで、もっといえば、「ひだまりスケッチ」的な、日常ほのぼの的な物語を欲しているわけではないということだ。
すぐさま書いておけば、日常ほのぼの系を否定するのでは決してない。しかしそれは、例えば「ゲーム」のようなものだと思っている。僕はゲームも好きだし、今でもやったりしているけれど、時間的消費であるという認識が強まっている。ああ……こういう表現をするから誤解というか敵をつくりやすいのであるが、別に消費するのも悪いことだとは思っていないのだけれども、要は、結果的に精神がすり減ってしまう、ということなのであって……。要は人生楽しく過ごしたいという、凡人誰しも思うのと同じなのであるけれども、そのための手段として、それだけだと足りないなと思うのであって……と、このあたりは書けば書くほど失敗するので強制終了。
さて、バランス感覚ということであるが、創作をするというのが必要だ、というところまでは確認したとして、どこまで重要視するか、ということになる。
ここまで、身体と思考と大別して、思考部分について記述してきたのであった。
しかし当然ながら、身体というのも重要な要素である。
身体があるから欲望があるともいえる。
終わりがあるから芸術が尊いものになるように。
永遠なる美とか真理ってものが美しいと思われるのは、永遠ってものが、どこを探しても存在しないからともいえる。
「侘び・寂び」や黄昏って表現によって、日本人はよくその「終わり」ってものを理解していた……とかいう、民族うんたらはまぁどうでもいいけれども、僕もどこからしら、そういった儚さ的な表現に心をうたれることがある。
それは、「お涙頂戴」的に忌避されがちな感情ではあるけれども、その根源たるテーマは、僕は嫌いではない。ただ、こう、なんだろう、ドキュメンタリーというのが、どうにも苦手ではある。特殊清掃のドキュメンタリーは面白かったけれども、何か「切り取られた感」があって嫌だ。(いや、見始めるときっと見入ってしまうのだけど)
それよりだったら、いっそのこと、もう完全に物語(創造)の方がよかったりする。その方が……きっとこれは納得される方が少ないと思うけれども、僕は、その方が「純粋」に思えるのだ。
前書いたけれども、アンドロイドとか、ロボット系に僕が弱いのは、逆にこう、複雑性がないからな気がしている。
(プラネタリアンという作品が、アマゾンプライムに追加されて見たけれど面白かった。前に動画サイトで断片的に見て興味をもっていたけれど、完全版が見られてよかった。よかったけれども、その、回想編だけでよかったかなぁ。星の人になった主人公のその後の話――シェルターで子供たちに星について教えてあげる――は、世界観を知るにはよかったけれど、まぁなくてもよかったかなぁ)
住環境の整理状況
なんだっけ……そう、身体だ。住環境も大切。最近、だいぶ部屋の物を少なくした。先日も、服や下着を45L分ぐらい処分した。クローゼットが7割ぐらいになった。スーツとYシャツがまぁ多いけれど、これは仕方がないか。クリーニング屋で、シーズンオフで預かってくれるサービスとかもあった気がするが、検討してみようかな。アウトソーシング(外部委託)大事。
そもそも資本主義の発展は、専門化、分化した方がより大きな価値を生み出せるという理論から成っている。
本もだいぶ減ったので、本棚も7割ぐらいである。
あとは、古いノートPCと外付けHDDの処分、ぐらいかな。しばらくは、現状を維持する方向でよいかもしれない。
って、長いなこの記事。数えてみると7000字を超えている。途中コーヒーを淹れながら1時間ぐらい経った。一度切ろうか。
小説も、これぐらいのペースで書いていけたらいいんだけど。
というか、これは、余計な話しが多すぎるのがよくない。しかし、こう、余計な話がないと考えられないのも事実である。ただ、余計な話ばっかりで、最初に書こうと思った「実践」的なことが書けないとダメだ。次の小見出しに託す。
創作を推し進めるためには
インプットとアウトプットが大事なのは言うまでもない。しかし、先の「サイコパス的な」とおり、理念を語るだけでは殆ど何の意味もない。会社では効率が重視されるが、同時に「ゆとり」がなければ自己(組織)批判・内省も進まずに、価値を高めていくことができない。そうした「ゆとり」の大切さがわかっていても、目の前の業務が積み重なれば、そうした理念は形骸化する。
要するに、インプットとアウトプットは大切だが、それをどうやって自分の生活に取り入れていくのか、その実践的な記述を、本記事に託そうと思ったわけである――が、みてのとおり、7000字は定義的な、理念的な、感想的な表現に終始したわけである。
創作は大切だ! 俺はやるぜッ!
この一行で本来、7000字はOKであったのである。
しかしこの面倒くさい自分は、ここまで時間を費やさないと、しっかりと動けないのである。
しかし同時に、仕方がないとも思う。それは、日々が忙しいからだ。「仕事が」とか、そういう意味ではなくて、ノイズ的な……いや、そんな表現はよくない。ご飯食べたり、睡眠とったりと、生活や身体状況のことだ。生活をする、――これだけで、とても忙しいのである。
だから、本当に素晴らしい業績をする場合、内助の功的な、家族のサポートが大事だったりする――のは、昔の話(か、本当に一握りの業種)であって、今や夫婦ともに働いていることだってあるし――まぁそうはいっても、家電の充実や24時間のストアなど、それこそアウトソーシングできる要素が増えているから、一概に昔と比較することもできない。――そうだから、本当に、何かと比較するということが、僕は本当に無駄であると思っている。比較してどうこう思い悩んでいる時間があれば、自分でも、周囲の環境でも、少しでも良くする行動をすべきだろうと思う。
話がやっぱりそれる。そんなことは置いておいて、つまり、みんな誰しも「忙しい」のであるから、しっかりと「気持ち」をもっていないと、簡単に周囲の状況に流されてしまうのである。
400日ぐらい筋トレのルーチンをやってきたわけだけれども、これは、それこそ誰かと比較したら、もっとハードなトレーニングや、効果を出している人もいるわけである。しかし、自分としては、一時期はとても大変だった。疲れたり、イライラしながら帰宅した後に、悶々としたり眠かったりする中、全然関係ない筋トレをするという気持ちの切り替えは、今、こうやって書いているときは想像できないほど大変である。
それでも続けることができたのは、「気持ち」を整えたからである。もちろん、ブログに書いて、コメントもらったり反応を頂いたことや、免除規定(例外規定)というテクニック的なものも関係するけれども、何事においても、プライオリティ(優先順位)を最大にするという気持ち(意志)を固めたからである。
これは、単に「ダイエットしよう!」とか思うのと、まったく違う。
何が違うのか……ちょっと未だ表現できないけれども、つまり、「自己と一致」しているかどうかである。
陳腐な表現になってしまうが、「本当にやりたいこと」かどうか、である。筋トレとか、苦しいことが何故やりたいことになるのかといえば、刹那的な苦しさを超えて、得たいものがあるからである。卑近な自分の例であれば、単純に筋肉を付けたいということだけではなくて、「継続することができる」という自分の意志の確認でもある。このことからすれば、筋トレをさぼってしまうというのは、「自分に対しての裏切り」なのである。
もちろん、他者を騙したり裏切ったりするのは最悪なことだ。
しかし、それと同様に、自分を騙したり裏切ったりするのも最悪である。
他人に負けてもいい。だが、(過去の)自分には絶対に負けんじゃねぇ!
って表現が好きである。
いやもちろん、他人に負けちゃいけない場面だってあるし、体力の衰え的に過去の自分に絶対勝てるかっていうとそれも違うわけだから、単に表現だけれども、標語としてはそういうことだ。
――という、また、概念的なことを書いてしまったが、そうじゃなくて、要はどうやったら、今年の目標である「創作」を進められるのか、ということである。
創作目標:小説インプット
創作とは、三つあると書いた。本記事ではとりあえず、「小説」に絞って書いていこう。まず、インプットを増やすためには、小説読むことである。
じゃあ、初めにどうすればよいかといえば、数値目標を決めることである。
この、数値を決めるというのは、目標設定においてよく言われることであるが、単純にこれだけでは役に立たない考え方である。
例えば、じゃあ、一年間に100冊読もう! としても、その100冊の根拠が全く不明である。
(そもそも、たくさん読んだからよいか、どうか、というのは別の次元の話なので置いておく)
数値目標を立てるのは勿論重要だが、その際、どうやって数値目標を立てるのかの方策が必要だ。
これは、現状理解が不可欠である。
つまり、今としては、どれぐらい読んでいるのか、ということだ。
――昨年は……うーん、よく分からない。紙の本だと5冊……ぐらい。キンドルで3、4冊ぐらい……か。後はWEB(小説サイト)の方では、まぁまぁ読んでいる気がする。少なくても10作品以上。
こうやって思い返すと、思った以上に少ないなぁという感想になる。
ただ、こうやって考えると、そもそも、冊数で数えるのも(文量が違うだろうし、面白さも違うだろうし)妥当かとか思ってくるし、同じ本を読み返したくなって読んだのはどうなのかとかも考えなきゃいけないし、とにかく、いきなり「100冊!」とかって数字を挙げようとも思わなくなるだろう。
それと、これも僕が勝手に思っているだけだけれども、面白い本を読んだとして、今度それをアウトプットに転じようとするには、「感想」や「批評」を考える(書く)のも重要だと思う。
この、とても長い記事の最初の方に書いたけれども、これは、「言葉でしか思考できない」というものに繋がる。どういった場面だったからどう思ったのか、どういった描写に対してどう感じたのか。これが無いと、「感動したッ!」となって、以上……、となる。まぁそれはそれでいいのだけれども、ちょっともったいなくもあるのだ。
ええと、中々先に進まないので、暫定目標として、2018年中に、15本の感想・批評を書く、ということを挙げる。
何故15本かというと、一か月一本だと12本だから……とかそういうわけではなくて、2017年に読んだ本数が15ぐらいだからである。感想や批評を書きたくなる作品に出会うには、それ以上読まなきゃいけないだろうし、ちょうどよいかと思ったのだ。
創作目標:小説アウトプット
次に、アウトプットのための目標。現在連載中の作品が2作品ぐらいあるが、これを完結させたい。どういった方向性でもいいから。打ち切りみたいな終わり方でもいいから、終わらせたい。そんないい加減でいいのか、というのはあるけれども、「エタる」(エターナル(永遠)になる=未完になる)作品が多い中、「終わらせる」というのは一つ重要なことだと思っている。
先日、バイオハザードの映画(ダムネーション)を見て面白かったけれど、何かこう、問題が完全に解決したのか、というとそういうわけでもないし、明確な「終わり」って感じはしなかったけれど、ちゃんと物語としては完結していたと思う。
以前、アイアムアヒーローについて、終わり方が打ち切りみたいで不満だと書いたけれど、「もう主人公にこれ以上、物語の革新に迫る起伏は起こりません」という意味であれば、十分完結しているとは思うわけである。当然、現実世界においては、無意味に人は死んでいくのであり、名もなき、世界の真理にかすりもしない人なんて大多数である。ただ、「物語」、「作品」として存在する以上、外連味でもいいから、「意味」をもたせて欲しいのである。ましてや、序盤からずっと期待し楽しんでいた作品なのであれば、期待も大きくなるしなおさらである。
ということで、目標は立ったわけだが、なんか足りない。これだけでは、確実に失敗する気がする。
これはまだ、具体的な行動方策にまで落とし込めていないからである。
こんだけ書いてきたけれども、まだもう少し考え、書く必要がありそうだ。
(かっこ書きである。結局、ちゃんと具体策が出せなかった。かなしい。基本的に、「目的の概念を描くこと」→「気持ちを固めること」→「目標を定めること」→「生活に組み入れること」といった流れでなければ、明確に行動ができない(僕は)。しかし、日々の生活でこんなサイクルを実施することなんてできないので、まぁ流されるように行動することが大半になる――そしてそれがつらいのだ。だから、より大きな目的、すなわち「生きる意味」なんてものを求めるのである。「生きる意味」については、概念化段階と、気持ちの固定化の中間ぐらいの状態なので、まだまだフラフラしている。「創作する!」ってのも、今年最初の記事が、「目的の概念化」に位置付けられて、今回の記事がようやく、「気持ちを固めること」と「目標を定めること」の中間あたりに位置づけられる。これだと、風が吹けば飛んでいくぐらいの、弱い状態だ。たぶん、少しでも生活変化が加われば、簡単になくなってしまうだろう。まだ足りない)
今日の一言「体調管理、住環境、人間関係も重要」「創作をする理由とは」「単純なことを表現するだけなのにものすごい長い記事になりそう」
本記事においては、目標の一つ、「創作」について十分に推し進めるための方策について記載したい。
何度も「創作」という言葉を使っているが、これは以下に分類される。
・ブログ
・小説
・作曲
ブログが創作に含まれるというのは違和感があるが、僕が創作という言葉に込めている意味は、「想像して新しく作品をつくり(創り)だすこと」ということである。
つくる――という言葉は、漢字で「作る」(無形・小規模)と、「造る」(有形・大規模)に大きく分かれるが、さらに、「新しく・初めて」という意味が込められると、「創る」と書かれる。
僕のブログは、何か調べて構築するという「作る」という意味よりは、自分の思考の表現であると思っている。この言い方は、「思考の垂れ流し」「落書き」のようなネガティブな表現も可能である。けれども、悪いとは思っていなくて、その理由は、結局のところ、「日本語」という表現をこえて、「自分」なるものの表現はできないと思っているからである。
もちろん、自分を構成する要素というのは、身体であったり(もっと細かくすると、顔だったり乳房の大きさだったり)、感情だったり、価値観だったり、様々存在する。しかし大別すると、物理的な所有物(身体)と、目に見えない思考に属するものとで、二つに分けられる。心身二元論――そのとき、身体のことは脇に置けば、思考系(信仰とか価値観とかその他目に見えない自分の構成要素)は、「日本語」という表現に依拠している。
なるほど、上の考えは、中学生ぐらいから思っていたことではあるけれども、最近は、更に日本語(言葉)で表現もできない、「感情要素」という存在についても考慮するようになった。つまり、口でいかに立派なことを言ってようが、「いざ」という時の行動……言動は、そのまま「自分」であるのであって、その動きは言葉を超えるものであるといえる。
その、感情的な面というのを忘れてはいけないと思う。
それは、人間であるというカテゴリに属する以上は、逃げ出せない、無視できないものだ。どんなエリートや年配者、高僧であっても、感情という縛りは無視できない。
それに、こういった文脈で書けば、「感情」というのは、まぁまぁ、ネガティブな表現に思われる。「女性は感情的だ」的な表現もその最たる一つだと思う。ただ、当然感情とは悪いことばかりではない。「良い感情」なるものも当然あるわけだ。
――話しがそれている。
ブログ、小説、作曲、これが僕の考える創作活動である、ということだ。そのうち、ブログというのが、「どこが創作なのか?」と思ったため、その説明を書きたくなったのであるが、あまり重要ではないな。
いやむしろ、その「ブログ」を、創作活動としてしまうことの危険を思ったのである。
簡単に書けば、ブログはとても「楽」なのである。
商品レビューとか、何か哲学とか、テーマを絞って書くブログってのは、大変だと思う。一言でブログといっても、その種類はいろいろあるわけだ。
もちろん、ある程度、文の量があるブログというのは、まぁまぁ大変なのである。一方、ツイッターでもいいような短い記事が多いブログとか、日記のような、一言二言だとか、料理の写真を掲載するだけのものだったり(まぁ写真は大変なのだが)、そういったものもブログというツールを使っていればブログなのである。
僕が書いているブログは、基本的に、100%全力である。
たまに、力を発揮できていないときもあるけれども、これ以上ない表現で書いている。別に、専門用語とか、難しい言葉を使うという意味ではなくて、「最大限分かりやすく書いている」ということである。
先日、やたら「全裸」と書いたけれども、目指すところはソレである。
突き詰めたいのである。
それは、「成長」を目的にはしているけれども、むしろ、「現状を余すことなく表現すること」を目的にしている。
「立派なこと」は言えるし、書ける。
世界平和のため、日本のため、会社のため、家族のため。
会社の経営理念(の主旨)だって暗唱できるし、日本国憲法で謳われる理念だって覚えている。
ただ、それは「サイコパス」でも可能である。――というのは、非常に最近興味がある部分なのだけれども……つまり、感情と行動がどこまで一致するべきなのだろうか、という点に興味がある。
そうではなくて、「自分」というのが、自分というのに、本当に一致したいという欲求である。――分かりづらい表現になった。このあたりがまだまだ非常に不十分。
――話しがそれている。小見出しと内容がそもそも一致していないじゃないか。(最初に書いた小見出しは「創作をするためには身体がクリアーである必要がある」といったものだった)
小見出しを直そう。
→ブログを書くことは創作としていいのか。
→よい。自己がしっかりしていないと、描きたいテーマも定まらない。
では次に、何故創作をする必要があるのか、という点について考えていこう。
まず、先日「8つの輪」という、人生で重要な項目を挙げた。
1.健康
2.家族
3.友人
4.趣味
5.仕事
6.富
7.時間
暗唱したらこの程度しか浮かばなかった。なんか足りない。読み返してみる。――「自己啓発・学び」が足りなかった。
ふむ、しかし、この「自己啓発」ってのは、僕は基礎だと思う。
自己啓発書とかいって、なんか怪しげな雰囲気がつきまとう言葉になってしまっているけれども、そもそも、人生に軸を持たずに生きるってのは、僕は逆にきついことだと思う。
絶え間ない快楽が与えられる恵まれた環境をもっている人であれば良いのだけれども、たいていは、「現実」と「自分」の間には深い溝がある。
その溝を埋めるのは、「努力」と「運」である。
なんでこの話しになったかというと、その溝を埋めるのが、「物語」であるからだ。
ここでいう物語は、おとぎ話といった意味だけではない。さっき書いた憲法や、会社の経営理念も物語の一種だ。
ようは、信仰のことである。宗教や、スピリチュアル的な書き方が気に食わなければ、テーマでも、目的でも何だっていい。
これまで、「困難」を味わったことがない人は、おそらく殆どいないだろう。
もしかしたら、挫折的なのはない人がいるかもしれない。けれども、誰しも「努力」したことはあるはずだ。勉強なんて全然したことがないっていうヤンチャな人だって、かわいい子をGETしようと頑張ったり、スクールカーストを維持するため体力増強に力を入れたりしたかもしれない。
基本的に、人生ってのは、困難の連続だと考えてよい。
それでもって、その困難を乗り越えて「生きていく」のが人生というものである。
上の表現は、僕の考えなので、もしかしたら違う認識の人もいるかもしれない。上の認識がもし「絶対的な誤り」であれば、これまでの、そしてこれからの僕の思考については全般的にパラダイムシフト(使ってみたかっただけ。「変更」という表現で構わない)する必要があるが、まぁ、これまでの経験やその他学習的なのから考えて、間違ってはいないと思っている。要は、ゴウタマさんや、ショーペンハウアーさんが言っている、「人生は苦しみである」ということである。
話しが少しそれているが、物語とは、その「困難」を乗り越えるために必要不可欠なものである。
上の表現も僕の考えなので、これは更に認識が違う人も多くなっていくだろう。
別に物語なんてなくても、困難を克服し、生きていくことは可能である、という人もいるだろう。――単に、僕は不可能である、と思っているに過ぎない。しかし、これは(僕にとって)ある程度、この10年くらいで強固になった考えである。
そもそも、きっとこれからも、僕は何らか、「書く」こと(そして読むこと)をやめられないと思うのである。
ちなみに、話しがまたそれてしまいそうだけれども、さっきから登場している「自分」ってのは、「記憶」であるとも思っている。
認知症という問題は、介護の現場を少しみるだけでも相当難しい問題であるとわかる。
介護は家族でするもの、というのが従来日本社会の在り方であったということであるが、これは本当に難しいと思う。その難しさは、むしろ「家族」であることに由来すると僕は思う。家族は、やはり、大事なものであって、「好き」なものであって、一緒にいるべきものであると思う。――もちろん、そうではない「家族」もあるわけだが、それは本来の意味での家族ではなくて、制度上の、形式的な家族である、と思う。もちろん、その形式が、本来の家族に近づくための一つの要素でもあるのだけれども、「決定的に壊れた家族」なるものもあるのだし、決して、絶対的な関係であるとは思わない方がいい、と僕は思う。
その前提で考えたとき、認知症――特に今回強調したいのは、「忘れてしまう」ということについてだ。つまり、家族の存在を忘れてしまうということ。
とても可愛がっていた子どもや孫たちの顔も、さらには存在すらも忘れてしまう。献身的に支えてくれていた周囲の家族のことも、誰だったのか覚えていない。優しい介護士さんぐらいに思っている。
被介護者がそんな状態であったとき、介護をする側はどう思うだろうか。
姿かたちは、愛する人だったとして、その人が自分のことを一切覚えていなかったら?
話は少し飛躍するけれども、その時必要になるのも「物語」だと思う。
「愛する妻が自分のことをもう思い出せないとしても、自分の中には、彼女と過ごした思い出がたくさん詰まっているから、これからも彼女はずっと大切な存在だ――」
その信念を、「物語」という表現にしてしまうのは、あまりにも残酷だと思う。――だから、これも飛躍するけれども、基本的に、他者と分かり合おうなんて、思わない方がいい。いやむしろ、分かり合わなくていい。理解しようと、努力しさえすればいい。価値観の共有なんて、しなくていい。ただ、共感しようと努めればいい。
でも、上の介護の例において考えたとき、「家族は大事だ」という価値観を絶対視したとき、どうしても、その相手を愛しく思えず、憎しみの感情すら発生しだしたらどうだろう。
きっと、家族を心から愛せない自分と、愛さなければいけないという価値観との狭間で、精神はどんどん擦り減っていくことだろう。
そうした困難。
別に介護だけじゃないし、若い人は困難がないとか、年をとれば困難が減っていくとか、そんなこと全く関係ない。
裕福な人は困難がないとか、善人だったら困難が少ないとか、そんなことも関係ない。
困難だらけである。
いじめ、リストラ、DV、冤罪、事故、災害。
偉い人の引用が欲しければ、探せば簡単に見つかると思う。いやむしろ、単純に人生は素晴らしいものだと賞賛するような表現の方が少ないかもしれない。
――それでも。それでも生きていくのが大切だ。
と、そう心から思えるために必要なのが、物語である。
分かったと、その「物語」なるものが大切なのは分かったとしよう。
そうしたとき、じゃあ、「自分」として、その物語を創るということが、どうして重要になるのだろうか、という点を書かなければいけないだろう。
好きだからだ。以上。
結論は簡単だ。だが、それでは納得しない(自分も)。何故好きか。物語に触れるだけでいいのではないか。何故自分で創らなければいけないのか。
確か、EDENという漫画の作者が言っていたことだと思うのだけれども、
「エヴァンゲリオンという作品を最初みて、『ああ、やられた。自分のやりたいこと全部やられた』と思った。けれども、終わってから、何か、どこか、零れ落ちているものがある気がした。その両手から掬い損ねて零れたものを、何とか表現したかった」
的なことを読んだことがある。(上の文章は僕の創造であって、引用ではない。そもそもどこで読んだのか覚えていない)
好きだからだ、と理由を書いたけれども、もっといえば、自分のためだからだ、というのもある。
素晴らしい作品が多いこの世の中は、本当に素晴らしいと思う。
思うが、その素晴らしい作品に触れるインターバル(間隔)が、ものすごく辛いのである。
これもどっかで見たことある表現だが、
「私はライブに行くのが好きだ。その好きなアーティストのライブに参加するためには、全国津々浦々、いくら費用がかかろうが飛んでいく。ライブでは、この瞬間のために生きているのだというくらい熱狂する。そのライブが終わった後は、本当に死んだように何もする気がなくなる。そして、また次のライブに行く……」
といったもの。(上の文章も、僕の創造だ。元は何かあった気がするけれども、どこだったか思い出せない)
こう……なんだろう。「ふつーに」面白い作品はたくさんあるのであるけれども、こう、魂魄を揺るがせられるような、「自分」が揺るがせられるような、強い作品レベルになると、中々ない。
これは、単純ではない問題であって、同じ作品でも、見るタイミングや環境・条件によって、まったく違う印象になったりする。
本当に、偶然性が高い行為であるといえる。
まぁそもそも、本記事のわりかし最初に書いた通り、人生は「運」でもあるので、それはいたしかたない部分もある。
が、繰り返すが、何か失ったときは、「本当に辛い」のである。
本当に辛い。
鬱病の病的な辛さとは違うかもしれないが、この、本当に何もしたくなくなるほどの無気力感というのは、恐怖ですらある(自殺するなんて元気すらでない。ゆえに、うつ病で自殺するというのも、ある程度回復期に危険だったりするらしい)。
ので、そういった「運」に自分の人生を任せるというのも嫌だ、というのも一つある。人生は、「努力」と「運」の天秤、バランスによって進んでいくものなのだ。運だけ、努力だけではどうにもならない。
だから、自分でも作品を創ろうというわけである。
(かっこ書きである。長くなったので2回に分ける)
ブログは創作なのか(創作定義)
概要としての今年、2018年の目標は先日記載した。本記事においては、目標の一つ、「創作」について十分に推し進めるための方策について記載したい。
何度も「創作」という言葉を使っているが、これは以下に分類される。
・ブログ
・小説
・作曲
ブログが創作に含まれるというのは違和感があるが、僕が創作という言葉に込めている意味は、「想像して新しく作品をつくり(創り)だすこと」ということである。
つくる――という言葉は、漢字で「作る」(無形・小規模)と、「造る」(有形・大規模)に大きく分かれるが、さらに、「新しく・初めて」という意味が込められると、「創る」と書かれる。
僕のブログは、何か調べて構築するという「作る」という意味よりは、自分の思考の表現であると思っている。この言い方は、「思考の垂れ流し」「落書き」のようなネガティブな表現も可能である。けれども、悪いとは思っていなくて、その理由は、結局のところ、「日本語」という表現をこえて、「自分」なるものの表現はできないと思っているからである。
もちろん、自分を構成する要素というのは、身体であったり(もっと細かくすると、顔だったり乳房の大きさだったり)、感情だったり、価値観だったり、様々存在する。しかし大別すると、物理的な所有物(身体)と、目に見えない思考に属するものとで、二つに分けられる。心身二元論――そのとき、身体のことは脇に置けば、思考系(信仰とか価値観とかその他目に見えない自分の構成要素)は、「日本語」という表現に依拠している。
なるほど、上の考えは、中学生ぐらいから思っていたことではあるけれども、最近は、更に日本語(言葉)で表現もできない、「感情要素」という存在についても考慮するようになった。つまり、口でいかに立派なことを言ってようが、「いざ」という時の行動……言動は、そのまま「自分」であるのであって、その動きは言葉を超えるものであるといえる。
その、感情的な面というのを忘れてはいけないと思う。
それは、人間であるというカテゴリに属する以上は、逃げ出せない、無視できないものだ。どんなエリートや年配者、高僧であっても、感情という縛りは無視できない。
それに、こういった文脈で書けば、「感情」というのは、まぁまぁ、ネガティブな表現に思われる。「女性は感情的だ」的な表現もその最たる一つだと思う。ただ、当然感情とは悪いことばかりではない。「良い感情」なるものも当然あるわけだ。
――話しがそれている。
ブログ、小説、作曲、これが僕の考える創作活動である、ということだ。そのうち、ブログというのが、「どこが創作なのか?」と思ったため、その説明を書きたくなったのであるが、あまり重要ではないな。
いやむしろ、その「ブログ」を、創作活動としてしまうことの危険を思ったのである。
簡単に書けば、ブログはとても「楽」なのである。
商品レビューとか、何か哲学とか、テーマを絞って書くブログってのは、大変だと思う。一言でブログといっても、その種類はいろいろあるわけだ。
もちろん、ある程度、文の量があるブログというのは、まぁまぁ大変なのである。一方、ツイッターでもいいような短い記事が多いブログとか、日記のような、一言二言だとか、料理の写真を掲載するだけのものだったり(まぁ写真は大変なのだが)、そういったものもブログというツールを使っていればブログなのである。
僕が書いているブログは、基本的に、100%全力である。
たまに、力を発揮できていないときもあるけれども、これ以上ない表現で書いている。別に、専門用語とか、難しい言葉を使うという意味ではなくて、「最大限分かりやすく書いている」ということである。
先日、やたら「全裸」と書いたけれども、目指すところはソレである。
突き詰めたいのである。
それは、「成長」を目的にはしているけれども、むしろ、「現状を余すことなく表現すること」を目的にしている。
「立派なこと」は言えるし、書ける。
世界平和のため、日本のため、会社のため、家族のため。
会社の経営理念(の主旨)だって暗唱できるし、日本国憲法で謳われる理念だって覚えている。
ただ、それは「サイコパス」でも可能である。――というのは、非常に最近興味がある部分なのだけれども……つまり、感情と行動がどこまで一致するべきなのだろうか、という点に興味がある。
そうではなくて、「自分」というのが、自分というのに、本当に一致したいという欲求である。――分かりづらい表現になった。このあたりがまだまだ非常に不十分。
――話しがそれている。小見出しと内容がそもそも一致していないじゃないか。(最初に書いた小見出しは「創作をするためには身体がクリアーである必要がある」といったものだった)
小見出しを直そう。
→ブログを書くことは創作としていいのか。
→よい。自己がしっかりしていないと、描きたいテーマも定まらない。
何故創作が必要か
創作の定義を上の章で書いた。では次に、何故創作をする必要があるのか、という点について考えていこう。
まず、先日「8つの輪」という、人生で重要な項目を挙げた。
1.健康
2.家族
3.友人
4.趣味
5.仕事
6.富
7.時間
暗唱したらこの程度しか浮かばなかった。なんか足りない。読み返してみる。――「自己啓発・学び」が足りなかった。
ふむ、しかし、この「自己啓発」ってのは、僕は基礎だと思う。
自己啓発書とかいって、なんか怪しげな雰囲気がつきまとう言葉になってしまっているけれども、そもそも、人生に軸を持たずに生きるってのは、僕は逆にきついことだと思う。
絶え間ない快楽が与えられる恵まれた環境をもっている人であれば良いのだけれども、たいていは、「現実」と「自分」の間には深い溝がある。
その溝を埋めるのは、「努力」と「運」である。
なんでこの話しになったかというと、その溝を埋めるのが、「物語」であるからだ。
ここでいう物語は、おとぎ話といった意味だけではない。さっき書いた憲法や、会社の経営理念も物語の一種だ。
ようは、信仰のことである。宗教や、スピリチュアル的な書き方が気に食わなければ、テーマでも、目的でも何だっていい。
これまで、「困難」を味わったことがない人は、おそらく殆どいないだろう。
もしかしたら、挫折的なのはない人がいるかもしれない。けれども、誰しも「努力」したことはあるはずだ。勉強なんて全然したことがないっていうヤンチャな人だって、かわいい子をGETしようと頑張ったり、スクールカーストを維持するため体力増強に力を入れたりしたかもしれない。
基本的に、人生ってのは、困難の連続だと考えてよい。
それでもって、その困難を乗り越えて「生きていく」のが人生というものである。
上の表現は、僕の考えなので、もしかしたら違う認識の人もいるかもしれない。上の認識がもし「絶対的な誤り」であれば、これまでの、そしてこれからの僕の思考については全般的にパラダイムシフト(使ってみたかっただけ。「変更」という表現で構わない)する必要があるが、まぁ、これまでの経験やその他学習的なのから考えて、間違ってはいないと思っている。要は、ゴウタマさんや、ショーペンハウアーさんが言っている、「人生は苦しみである」ということである。
話しが少しそれているが、物語とは、その「困難」を乗り越えるために必要不可欠なものである。
上の表現も僕の考えなので、これは更に認識が違う人も多くなっていくだろう。
別に物語なんてなくても、困難を克服し、生きていくことは可能である、という人もいるだろう。――単に、僕は不可能である、と思っているに過ぎない。しかし、これは(僕にとって)ある程度、この10年くらいで強固になった考えである。
そもそも、きっとこれからも、僕は何らか、「書く」こと(そして読むこと)をやめられないと思うのである。
ちなみに、話しがまたそれてしまいそうだけれども、さっきから登場している「自分」ってのは、「記憶」であるとも思っている。
認知症という問題は、介護の現場を少しみるだけでも相当難しい問題であるとわかる。
介護は家族でするもの、というのが従来日本社会の在り方であったということであるが、これは本当に難しいと思う。その難しさは、むしろ「家族」であることに由来すると僕は思う。家族は、やはり、大事なものであって、「好き」なものであって、一緒にいるべきものであると思う。――もちろん、そうではない「家族」もあるわけだが、それは本来の意味での家族ではなくて、制度上の、形式的な家族である、と思う。もちろん、その形式が、本来の家族に近づくための一つの要素でもあるのだけれども、「決定的に壊れた家族」なるものもあるのだし、決して、絶対的な関係であるとは思わない方がいい、と僕は思う。
その前提で考えたとき、認知症――特に今回強調したいのは、「忘れてしまう」ということについてだ。つまり、家族の存在を忘れてしまうということ。
とても可愛がっていた子どもや孫たちの顔も、さらには存在すらも忘れてしまう。献身的に支えてくれていた周囲の家族のことも、誰だったのか覚えていない。優しい介護士さんぐらいに思っている。
被介護者がそんな状態であったとき、介護をする側はどう思うだろうか。
姿かたちは、愛する人だったとして、その人が自分のことを一切覚えていなかったら?
話は少し飛躍するけれども、その時必要になるのも「物語」だと思う。
「愛する妻が自分のことをもう思い出せないとしても、自分の中には、彼女と過ごした思い出がたくさん詰まっているから、これからも彼女はずっと大切な存在だ――」
その信念を、「物語」という表現にしてしまうのは、あまりにも残酷だと思う。――だから、これも飛躍するけれども、基本的に、他者と分かり合おうなんて、思わない方がいい。いやむしろ、分かり合わなくていい。理解しようと、努力しさえすればいい。価値観の共有なんて、しなくていい。ただ、共感しようと努めればいい。
何故創作が必要か(続き)
ひどいこと書いているし、こんなこと思ったり書いたりできる人間は、人間失格だといわれそうだし、サイコパスだといわれそうだし、「こんな人だと思わなかった」とか、まぁまぁ言われそうだし、言われたことも実際あるから、やっぱりどこか神経質になってしまう。でも、上の介護の例において考えたとき、「家族は大事だ」という価値観を絶対視したとき、どうしても、その相手を愛しく思えず、憎しみの感情すら発生しだしたらどうだろう。
きっと、家族を心から愛せない自分と、愛さなければいけないという価値観との狭間で、精神はどんどん擦り減っていくことだろう。
そうした困難。
別に介護だけじゃないし、若い人は困難がないとか、年をとれば困難が減っていくとか、そんなこと全く関係ない。
裕福な人は困難がないとか、善人だったら困難が少ないとか、そんなことも関係ない。
困難だらけである。
いじめ、リストラ、DV、冤罪、事故、災害。
偉い人の引用が欲しければ、探せば簡単に見つかると思う。いやむしろ、単純に人生は素晴らしいものだと賞賛するような表現の方が少ないかもしれない。
――それでも。それでも生きていくのが大切だ。
と、そう心から思えるために必要なのが、物語である。
分かったと、その「物語」なるものが大切なのは分かったとしよう。
そうしたとき、じゃあ、「自分」として、その物語を創るということが、どうして重要になるのだろうか、という点を書かなければいけないだろう。
好きだからだ。以上。
結論は簡単だ。だが、それでは納得しない(自分も)。何故好きか。物語に触れるだけでいいのではないか。何故自分で創らなければいけないのか。
確か、EDENという漫画の作者が言っていたことだと思うのだけれども、
「エヴァンゲリオンという作品を最初みて、『ああ、やられた。自分のやりたいこと全部やられた』と思った。けれども、終わってから、何か、どこか、零れ落ちているものがある気がした。その両手から掬い損ねて零れたものを、何とか表現したかった」
的なことを読んだことがある。(上の文章は僕の創造であって、引用ではない。そもそもどこで読んだのか覚えていない)
好きだからだ、と理由を書いたけれども、もっといえば、自分のためだからだ、というのもある。
素晴らしい作品が多いこの世の中は、本当に素晴らしいと思う。
思うが、その素晴らしい作品に触れるインターバル(間隔)が、ものすごく辛いのである。
これもどっかで見たことある表現だが、
「私はライブに行くのが好きだ。その好きなアーティストのライブに参加するためには、全国津々浦々、いくら費用がかかろうが飛んでいく。ライブでは、この瞬間のために生きているのだというくらい熱狂する。そのライブが終わった後は、本当に死んだように何もする気がなくなる。そして、また次のライブに行く……」
といったもの。(上の文章も、僕の創造だ。元は何かあった気がするけれども、どこだったか思い出せない)
こう……なんだろう。「ふつーに」面白い作品はたくさんあるのであるけれども、こう、魂魄を揺るがせられるような、「自分」が揺るがせられるような、強い作品レベルになると、中々ない。
これは、単純ではない問題であって、同じ作品でも、見るタイミングや環境・条件によって、まったく違う印象になったりする。
本当に、偶然性が高い行為であるといえる。
まぁそもそも、本記事のわりかし最初に書いた通り、人生は「運」でもあるので、それはいたしかたない部分もある。
が、繰り返すが、何か失ったときは、「本当に辛い」のである。
本当に辛い。
鬱病の病的な辛さとは違うかもしれないが、この、本当に何もしたくなくなるほどの無気力感というのは、恐怖ですらある(自殺するなんて元気すらでない。ゆえに、うつ病で自殺するというのも、ある程度回復期に危険だったりするらしい)。
ので、そういった「運」に自分の人生を任せるというのも嫌だ、というのも一つある。人生は、「努力」と「運」の天秤、バランスによって進んでいくものなのだ。運だけ、努力だけではどうにもならない。
だから、自分でも作品を創ろうというわけである。
(かっこ書きである。長くなったので2回に分ける)