今日の一言「とりあえず連載は進めるが、休憩に書く」
最近のことのメモである。
忙しい。この一言だけで十分だ。物理的に時間がない。
具体的には、ここ一、二週間、家に帰ってくるのが、22時~24時か、という日がほとんどな状況で、7時には出発しなければ間に合わない。
まぁこれも、一時的なものだと思われる。
が、どうにも、精神的なすり減りがある。
要するに、未来、である。
ユングは、意味は殆どすべてのことを耐えられるものにしてくれる、といっている。
ニーチェは、何故生きるかを知っているものは、すべてのどうやって生きるかに耐えられる、といっている。
――精神療法における意味の問題P.36参照
これまで、僕は仕事上の困難を何度か乗り越えてきた。大きなヤマでいえば2回ぐらいか。
で、まぁ今のプロジェクトというのも、プラス1回になるだろうと思う。それはそれでよい。
しかし、それを乗り越えたからといって、「だからなんだ?」という気持ちが高まっている、ということだ。
そもそも、こうした仕事を選んだという20代の僕の判断なのだから、「仕方がない」とは思う。
思うし、他の多くの仕事に比べたら、恵まれているだろうとも思う。が。
がしかし、どうにもモチベーションが上がらない。
まぁ、こっぱずかしい内容である。その他、多くのお忙しい方々に対して恐れ多い。
が、とりあえず、自分という低スペックにおいては十分忙しいということは、頑張ったということは認めておこうということである。つまり、気持ち的にはだいぶ限界であるということだ。
これは、僕の「感覚」なのであって、単なる言葉ではない。つまり、いかに取り繕った説明をなそうとしても、その「感覚」はなかなか取り払えないものである。
その、悪い感覚の一つは、人間とは利己的な存在である、というものである。
これは、事例は事欠かない。他者を犠牲にして、部下を駒のように使ったり、気に食わない者をいじめたりと、苛立たせる事象や事件はよくあることだ。
しかしもちろん、これらは人間の全面なのではなくて、もちろん素晴らしい人間性なるものをもっている人もいるわけである。サイコパスのような存在は例外だ、切り捨ててよい、ということだ。
という、「知識」的なことはあったとしても、どうしても、人間の利己的な面が気になってしまうお子様な自分なのである。
もう一つは、人間の生物学的・心理学的なとらえ方である。つまり、欲望に準じた存在であるということだ。一つ目の「利己的な」という面とも関連するが、要は、人間を機械のように捉えていることである。
人間は刺激に反応し、衝動を発散するだけの存在だ、という考え方である。
上の二つの感覚については、僕は、手放した方がよいと思っている。というよりも、そうあって欲しくない、と思っている。
でも、僕の感覚は、僕の生活は、市井や社会からの情報は、ますます僕をがっかりさせるものである。
大人という存在は、もっとかっこよく、憧れられるようなものであるべきだ、そうあるべきだった。
ところが、僕の崇高な(かっこ笑い)価値観は、人間たちへの失望へと繋がったのである。
意識高い系とは、揶揄されるニュアンスであるが、しかし単純に考えれば、よいことである。
その「意識高い」というのが、他者を見下したり、自己実現(かっこ笑い)のみ追求するような方向性になるから、よくないのである。
僕は、「より良い方向に協調し協働し向かっていく」という精神を求めているのだ。
ざっくり言えば、WIN-WINを目指せということだ。
誰かが得したら、誰かが損をするような考え方をするような人間は、滅びてしまえ、と思う。
――じゃあ、おまえが、その崇高な(かっこ笑い)人間になればいいじゃないか。
もちろん、目指すつもりである。が、あまりにも、がっかり感が強すぎて、モチベーションが上がらない。
しかし、やはり、休息は大事だなぁと思った。ふと思い出して、今敏(コン・サトシ)さんのブログ記事を読んだ。
母親の、「丈夫にうんであげられなくてごめん」という言葉が突き刺さった。哀しいね。
ぎりぎりまで、両親に会いたくないという気持ち、最初は不思議にも思ったけど、なんとなく分かった気がした。大事な人だからこそ、自分の弱った姿を見られたくない、ってのはあると思った。
しかしほんと、仕事が好きな人だったんだなぁ。大変だったろうけど、しかし、世の中に作品をうみだすって仕事は、きっとやりがいもあったんだろうと思う。
――しかしだ、僕の今やってる仕事だって、やりがいはあるのだ。あるのだけれども、しかし、もうなんか、疲れる。非常に疲れる。
やりがい――、こんな一言で片づけられる言葉じゃないと思う。どんな仕事だって、やりがいはあるはずだ。問題は、その「やりがい」ってのと、自分の価値観が一致しているかどうかである。
飲食店のホールの仕事で、お客さんの笑顔が見れて幸せ、――なんていうのは、確かに「やりがい」だろうが、僕は絶対そんなんにやりがいは覚えないと思う。料理人は、自分の作った作品(料理)を喜んでもらうのが幸せなのだろうが、僕はそれも無理だと思う。
その、「無理」というのは、努力のあきらめ、ではない。
前の記事に書いた通り、
ストイックであることを否定しない。
ただ、自分の価値観というか、「本能」的なものに反したものは、「無理」である。
何か、楽しいことを探そう。
面白いことを探そう。
何か集中できることを探そう。
何か、一生懸命になれることを探そう。
何か、奉仕できることを探そう。
目は、世界を見るという機能を、自分自身を見ないことによって果たす――前掲書。
「俺は」
という自己にとらわれているうちは、決して、反転して自己を知ることはできないのだ。
それは、何か行動することによって得られる。
――が、その行動は、意識しなければ、流されるままとなる。
この整合性をどのようにとるのか。まだ僕はよく分かっていない。――ええと、つまり、自分を意識しすぎると、結局自分ってものが分からなくなるということだが、しかし、環境や状況に流されるままであっても、結局「忙しさ」に精神をすり減らされることになる。
忙しさは、別に悪いことではない。
以前ある方が、「充足は、必ずしも必要ではない」と仰っていたが、僕はやっぱり、それは違うと思う。忙しくても満たされていることはあると思う。苦悩にも意味は見いだせるものだと思う。だが、それらの根底に、やはり「満たされている」ということは必要ではなかろうか。
その満たされている、そのモノ、が何かというのは不明だ。いやむしろ、それが不明だからこそ、それを見つけなければならないのだ。
(かっこ書きである。司星者セイン2巻届く、少し読む。ズァグ氏の魔女王との謁見シーンで震える。くっそかっけぇぇってか、魔女王怖ぇぇ。下賜された魔女王の血の盃の真意を知って、全身の血が凍りつくようだった。すべて見透かしたうえで、そして許す、とは。戦闘シーンもよいけど、こういったシーンを巧く描けるのはさすがだなぁ)
仕事が忙しい
特に、タイトルに意味はない。最近のことのメモである。
忙しい。この一言だけで十分だ。物理的に時間がない。
具体的には、ここ一、二週間、家に帰ってくるのが、22時~24時か、という日がほとんどな状況で、7時には出発しなければ間に合わない。
まぁこれも、一時的なものだと思われる。
が、どうにも、精神的なすり減りがある。
要するに、未来、である。
ユングは、意味は殆どすべてのことを耐えられるものにしてくれる、といっている。
ニーチェは、何故生きるかを知っているものは、すべてのどうやって生きるかに耐えられる、といっている。
――精神療法における意味の問題P.36参照
これまで、僕は仕事上の困難を何度か乗り越えてきた。大きなヤマでいえば2回ぐらいか。
で、まぁ今のプロジェクトというのも、プラス1回になるだろうと思う。それはそれでよい。
しかし、それを乗り越えたからといって、「だからなんだ?」という気持ちが高まっている、ということだ。
そもそも、こうした仕事を選んだという20代の僕の判断なのだから、「仕方がない」とは思う。
思うし、他の多くの仕事に比べたら、恵まれているだろうとも思う。が。
がしかし、どうにもモチベーションが上がらない。
未来と意味
「忙しいことを認めよう」と先日書いたので、もう一つ認めておこう。
僕は、中・高校生ぐらいのときから、ほんと、何で生きているのかさっぱり分からなかった。死にたいって毎晩思って泣いていた時期もあった。泣きつかれて、もう一回だけ頑張ってやるって思って、国公立の大学に入ることはできた。頑張ってその程度かって感じでもあるが、とりあえず、頑張ったってことにしよう。先日の記事で、上のようなことを書いた。
まぁ、こっぱずかしい内容である。その他、多くのお忙しい方々に対して恐れ多い。
が、とりあえず、自分という低スペックにおいては十分忙しいということは、頑張ったということは認めておこうということである。つまり、気持ち的にはだいぶ限界であるということだ。
人間存在の理解
僕のよくないところを書いておこう。これは、僕の「感覚」なのであって、単なる言葉ではない。つまり、いかに取り繕った説明をなそうとしても、その「感覚」はなかなか取り払えないものである。
その、悪い感覚の一つは、人間とは利己的な存在である、というものである。
これは、事例は事欠かない。他者を犠牲にして、部下を駒のように使ったり、気に食わない者をいじめたりと、苛立たせる事象や事件はよくあることだ。
しかしもちろん、これらは人間の全面なのではなくて、もちろん素晴らしい人間性なるものをもっている人もいるわけである。サイコパスのような存在は例外だ、切り捨ててよい、ということだ。
という、「知識」的なことはあったとしても、どうしても、人間の利己的な面が気になってしまうお子様な自分なのである。
もう一つは、人間の生物学的・心理学的なとらえ方である。つまり、欲望に準じた存在であるということだ。一つ目の「利己的な」という面とも関連するが、要は、人間を機械のように捉えていることである。
人間は刺激に反応し、衝動を発散するだけの存在だ、という考え方である。
上の二つの感覚については、僕は、手放した方がよいと思っている。というよりも、そうあって欲しくない、と思っている。
でも、僕の感覚は、僕の生活は、市井や社会からの情報は、ますます僕をがっかりさせるものである。
大人という存在は、もっとかっこよく、憧れられるようなものであるべきだ、そうあるべきだった。
ところが、僕の崇高な(かっこ笑い)価値観は、人間たちへの失望へと繋がったのである。
意識高い系なのか
僕は、意識高い系、と言われるタイプの人間なのか?意識高い系とは、揶揄されるニュアンスであるが、しかし単純に考えれば、よいことである。
その「意識高い」というのが、他者を見下したり、自己実現(かっこ笑い)のみ追求するような方向性になるから、よくないのである。
僕は、「より良い方向に協調し協働し向かっていく」という精神を求めているのだ。
ざっくり言えば、WIN-WINを目指せということだ。
誰かが得したら、誰かが損をするような考え方をするような人間は、滅びてしまえ、と思う。
――じゃあ、おまえが、その崇高な(かっこ笑い)人間になればいいじゃないか。
もちろん、目指すつもりである。が、あまりにも、がっかり感が強すぎて、モチベーションが上がらない。
仕事から離れて
つかの間の休息。別途友人と会う予定もあるため、あまり一人でいる時間はない。しかし、やはり、休息は大事だなぁと思った。ふと思い出して、今敏(コン・サトシ)さんのブログ記事を読んだ。
母親の、「丈夫にうんであげられなくてごめん」という言葉が突き刺さった。哀しいね。
ぎりぎりまで、両親に会いたくないという気持ち、最初は不思議にも思ったけど、なんとなく分かった気がした。大事な人だからこそ、自分の弱った姿を見られたくない、ってのはあると思った。
しかしほんと、仕事が好きな人だったんだなぁ。大変だったろうけど、しかし、世の中に作品をうみだすって仕事は、きっとやりがいもあったんだろうと思う。
――しかしだ、僕の今やってる仕事だって、やりがいはあるのだ。あるのだけれども、しかし、もうなんか、疲れる。非常に疲れる。
やりがい――、こんな一言で片づけられる言葉じゃないと思う。どんな仕事だって、やりがいはあるはずだ。問題は、その「やりがい」ってのと、自分の価値観が一致しているかどうかである。
飲食店のホールの仕事で、お客さんの笑顔が見れて幸せ、――なんていうのは、確かに「やりがい」だろうが、僕は絶対そんなんにやりがいは覚えないと思う。料理人は、自分の作った作品(料理)を喜んでもらうのが幸せなのだろうが、僕はそれも無理だと思う。
その、「無理」というのは、努力のあきらめ、ではない。
前の記事に書いた通り、
ストイックであることを否定しない。
努力することを否定しない。
継続することを否定しない。
平坦な人生などない。
苦労のない人生などない。
楽な人生などない。
と思う。ただ、自分の価値観というか、「本能」的なものに反したものは、「無理」である。
俺は何に楽しみを見出すのか
とりあえず、これだろう。目下、課題だ。何か、楽しいことを探そう。
面白いことを探そう。
何か集中できることを探そう。
何か、一生懸命になれることを探そう。
何か、奉仕できることを探そう。
目は、世界を見るという機能を、自分自身を見ないことによって果たす――前掲書。
「俺は」
という自己にとらわれているうちは、決して、反転して自己を知ることはできないのだ。
それは、何か行動することによって得られる。
――が、その行動は、意識しなければ、流されるままとなる。
この整合性をどのようにとるのか。まだ僕はよく分かっていない。――ええと、つまり、自分を意識しすぎると、結局自分ってものが分からなくなるということだが、しかし、環境や状況に流されるままであっても、結局「忙しさ」に精神をすり減らされることになる。
忙しさは、別に悪いことではない。
以前ある方が、「充足は、必ずしも必要ではない」と仰っていたが、僕はやっぱり、それは違うと思う。忙しくても満たされていることはあると思う。苦悩にも意味は見いだせるものだと思う。だが、それらの根底に、やはり「満たされている」ということは必要ではなかろうか。
その満たされている、そのモノ、が何かというのは不明だ。いやむしろ、それが不明だからこそ、それを見つけなければならないのだ。
(かっこ書きである。司星者セイン2巻届く、少し読む。ズァグ氏の魔女王との謁見シーンで震える。くっそかっけぇぇってか、魔女王怖ぇぇ。下賜された魔女王の血の盃の真意を知って、全身の血が凍りつくようだった。すべて見透かしたうえで、そして許す、とは。戦闘シーンもよいけど、こういったシーンを巧く描けるのはさすがだなぁ)
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