今日の一言「シロガネ⇔ストラグル面白い」「規則を覚えていてよかった」
ブログは、土曜日に必ず更新するのだ。
しかし、いやほんと、決めておいてよかった。さもないと、今日も何も書かないで終わったと思う。約40分ぐらいの時間だが、できるだけ多くを濃密に書いていきたい。
分からないからは上を参照。
ソーチャンどの推理パートまで読み進める。
いい。強大な敵が動き始めて、ウゴゴゴッって感じのとき、主人公側も手をしかけていて、布石を打っておくという構成はかっこいい。
夜天を引き裂くにおいて、主人公がピンチに陥るも、そんな中でも、敵の正体を知るための一手をかけていたというシーンがあるが、非常に上手い伏線のはりかただと思う。
逆に、前回の記事のコメントで途中力尽きてしまったが、5人が出会ってから、第一都市を解放に向かうまでのシーンは、やはりもう少しコンパクトにした方がいいなと改めて思った。
どうしたらいいのか?
これは難しいし、よく考えないといけないので、課題とさせて頂きたい。
ただ、思うに、僕がどうして(言葉はよくないが)冗長と感じてしまったのか、というのは、ストーリー展開に関連する「新情報」がシーンに盛り込まれていなかったからではないかと思う。
オークに襲われてもう都市が崩壊寸前、って状況において、読者的テンションはやっぱりそっちに意識が向かう。フィン君の心の変化というのが作品のテーマの一つとしても、まだそこまで興味をもてないでいた。
逆に、いったん都市解放をした後での、殿下の献身的な看病や、レッカ氏との少し俗物的な、しかし温かみのある約束をするシーンなどは良かったと思う。
話が飛ぶが、第三王女氏の母君の登場において、暗躍する敵の正体が関係するのではないかとふと思った。想像が当たっているかどうかは今後読み進めることで分かるだろう。
また話は飛ぶが、レッカが戦うシーンで、「ちぎって鼻毛ちぎって鼻毛」は誤字なのか、敢えてなのかが分からなかったが電車の中で吹き出してしまった。
また話は飛ぶが、ソーチャン氏のセリフが、ややキャライメージと一致しないシーンがある。「黙れよ」というのが、どっちかというと「しずまれよ」――というイメージなのである。語感的に確かに「だまれよ」(だま+られよ)という発音だとすればイメージに近いものの、「黙れよ」というとヤンキー的というか、ぶっきらぼう過ぎる感じがする。
――と、スマホのメモを見ながら書き起こす。(これ、ブログに書く内容だったかというと少し悩む。先方のサイトに書くべきではなかろうか……いや、そっちはもう少しまとめてから書きたい)
会議などでは、咳をしないようにと少し気を使ったりもするので、それもストレスである。
まぁ、熱はないし、喉の痛みもよくなったから、治りかけ状態だと思うのだが、咳はそれだけで体力を使う。
あと、なんだ。
仕事。
仕事かぁ……。
もうちょっと優先度を下げたい気がする。
しかし、責任感というわけではないが、やはり「完成」させたいという気持ちはある。
その、完成品の精度を、100%に近づけたいと思ってしまうので、それは仕事としてはよくないことだろう。
よく聞くところだと、70%ぐらいで周囲と進捗を共有しながらやっていった方がいいということだそうだが……。
しかし、結局、中途半端だと、あとから問題になったり、他の人の時間を使ってもらったりしたり、自分自身のスキルというか知識もあやふやになるし、必ずしもよいことともいえない。
バランスが大事……なのは分かっているが、難しいところである。
試験勉強は、……どうしよう。
前に、規則で、「12時間自由時間があれば」ということだが、睡眠はいかんとするのか。
咳のせいでよく眠れず、5時にいったん目が覚めて、布団でもぞもぞしつつ、気づいたら12時を過ぎていた。
16時過ぎには出かけて、帰りは恐らく、かなり遅くなるだろうと思うが、たとえば23時に帰ってくるとして、自由時間は何時間だったというのか。
5時の目覚めからカウントすれば、5時~16時+23時~24時で、12時間である。ルーチンやらなきゃ! となる。
目が覚めた12時からカウントすれば、12時~16時+1時間で、5時間である。免除である。
細かいけれど、このあたりの規定をしっかり考えておかなければ、また、ずるずる、「体調が悪い」「身体がだるい」「気持ちがのらない」「仕事が不安」とか、言い訳ばかりで何もできなくなる気がする。
とかく。規則は、感情よりも重要視しなければならない。人間は低きに流れる生き物だからだ。
なんか、偉い人とか稼いでいる人とか、ハイリーなパーソンがいる場にいきましょう、というのが自己啓発的によくきく。
あ、結構です、って俺は思ってしまうが、しかし、モチベーション維持としては大事だと思う。環境、大事。
スーツの人は少なく、子供を連れたおかあさんとか、おじいちゃんおばあちゃんとか。
平和な、日常の一コマだなぁと思った。
ふと、何だか哀しくなった。
同時に、何だか、面倒くさくなった。
ある、リーダーシップの講座で、講師が、「承認欲求が足りてない人には、面倒くさくても、注ぎ続けなければいけないんです」といっていた。ユーチューブの宣伝で流れていた。
シロガネ⇔ストラグルの主人公フィン君は、過酷な幼少期を過ごしたため、自分を大切にするという生き方ができないでいる。そこに、いくら周囲の大人たちが、子供らしい生き方を教えようとしても、それは難しいのだ。
つらかった気持ちと、同じだけの優しい気持ちを注げば、それでペイできるかというと、人の心はそういうもんじゃあない。
穴の開いたバケツ、という表現は、ありふれているだろうが嫌いじゃあない。
強固な入れ物があれば、揺らいで中身がこぼれても、また注げば満たされる。
しかし穴の開いたバケツにいくら注いでも、中身はたまったそばから流れ出していってしまう。
自分は生きていていいんだ。
自分はみんなの役に立てるんだ。
そういう気持ちが大事だと思う。
みなが、そういった気持ちを抱いて生きているというのが、「生き生き」ということだと思う。
しかし例えば、日露関係を悪化させた某政治家氏は、生きている価値があるのか。
実は二児の父親で、政治家としては失格でも、父親としての意義はあるのかもしれない。
しかし、なんか詭弁に思える。
と、いうよりも、「人はみなそれぞれ生きる意味がありつつも、しかし、同時に人個々は代替がきき、いずれ消滅し忘れ去られる」。
刻刻だっけか? あるアニメの敵の目的は、「人間存在の目的を知ること」だった。主人公一派は、「は? わけわからん」といって切り捨てるが、自己肯定感をどうしても得られない人間は陥りやすい罠だろうと思う。
ま、要するに、正解は、「個々人の環境に置いての有意性を不断に高めていく」ということなのである。
凡人はそれぐらいしかできない。
ソクラテスやアインシュタインのレベルに至らなければ、人個人は数百年のうちに跡形もなく忘却される。
そこにおいて、重要なのは、――時間切れ。
(かっこ書きである。――大事なのは、めっちゃ感動することだ! 日々すり減っていくような生き方は、一秒たりともすべきではない! そして、感動するには、つらいこともスパイスとして必要だ! 平穏なユートピアには争いもなければ、感動もないのではないか。感動し続けるという状態は、薬でハイになった状態が続くような感じで不健全ではないか。生きるとは何か。俺はどう生きるのか。何を感動するのか。何に感動できるのか。ああ、今日も問いの答えには近づけそうもなかった。しかし、この場、こうして書くことすらなければ、ただ日々すり減るだけだ。書け、書け、書いて悩み苦しみそして感動せよ)
前書き
ブログ規則、試験勉強規則を覚えている。ブログは、土曜日に必ず更新するのだ。
しかし、いやほんと、決めておいてよかった。さもないと、今日も何も書かないで終わったと思う。約40分ぐらいの時間だが、できるだけ多くを濃密に書いていきたい。
シロガネ⇔ストラグル読み進める
シロガネ⇔ストラグル分からないからは上を参照。
ソーチャンどの推理パートまで読み進める。
いい。強大な敵が動き始めて、ウゴゴゴッって感じのとき、主人公側も手をしかけていて、布石を打っておくという構成はかっこいい。
夜天を引き裂くにおいて、主人公がピンチに陥るも、そんな中でも、敵の正体を知るための一手をかけていたというシーンがあるが、非常に上手い伏線のはりかただと思う。
逆に、前回の記事のコメントで途中力尽きてしまったが、5人が出会ってから、第一都市を解放に向かうまでのシーンは、やはりもう少しコンパクトにした方がいいなと改めて思った。
どうしたらいいのか?
これは難しいし、よく考えないといけないので、課題とさせて頂きたい。
ただ、思うに、僕がどうして(言葉はよくないが)冗長と感じてしまったのか、というのは、ストーリー展開に関連する「新情報」がシーンに盛り込まれていなかったからではないかと思う。
オークに襲われてもう都市が崩壊寸前、って状況において、読者的テンションはやっぱりそっちに意識が向かう。フィン君の心の変化というのが作品のテーマの一つとしても、まだそこまで興味をもてないでいた。
逆に、いったん都市解放をした後での、殿下の献身的な看病や、レッカ氏との少し俗物的な、しかし温かみのある約束をするシーンなどは良かったと思う。
話が飛ぶが、第三王女氏の母君の登場において、暗躍する敵の正体が関係するのではないかとふと思った。想像が当たっているかどうかは今後読み進めることで分かるだろう。
また話は飛ぶが、レッカが戦うシーンで、「ちぎって鼻毛ちぎって鼻毛」は誤字なのか、敢えてなのかが分からなかったが電車の中で吹き出してしまった。
また話は飛ぶが、ソーチャン氏のセリフが、ややキャライメージと一致しないシーンがある。「黙れよ」というのが、どっちかというと「しずまれよ」――というイメージなのである。語感的に確かに「だまれよ」(だま+られよ)という発音だとすればイメージに近いものの、「黙れよ」というとヤンキー的というか、ぶっきらぼう過ぎる感じがする。
――と、スマホのメモを見ながら書き起こす。(これ、ブログに書く内容だったかというと少し悩む。先方のサイトに書くべきではなかろうか……いや、そっちはもう少しまとめてから書きたい)
体調が悪い
咳がとまらない。会議などでは、咳をしないようにと少し気を使ったりもするので、それもストレスである。
まぁ、熱はないし、喉の痛みもよくなったから、治りかけ状態だと思うのだが、咳はそれだけで体力を使う。
あと、なんだ。
仕事。
仕事かぁ……。
もうちょっと優先度を下げたい気がする。
しかし、責任感というわけではないが、やはり「完成」させたいという気持ちはある。
その、完成品の精度を、100%に近づけたいと思ってしまうので、それは仕事としてはよくないことだろう。
よく聞くところだと、70%ぐらいで周囲と進捗を共有しながらやっていった方がいいということだそうだが……。
しかし、結局、中途半端だと、あとから問題になったり、他の人の時間を使ってもらったりしたり、自分自身のスキルというか知識もあやふやになるし、必ずしもよいことともいえない。
バランスが大事……なのは分かっているが、難しいところである。
出かける
さて、時間がそろそろ無くなってきた。試験勉強は、……どうしよう。
前に、規則で、「12時間自由時間があれば」ということだが、睡眠はいかんとするのか。
咳のせいでよく眠れず、5時にいったん目が覚めて、布団でもぞもぞしつつ、気づいたら12時を過ぎていた。
16時過ぎには出かけて、帰りは恐らく、かなり遅くなるだろうと思うが、たとえば23時に帰ってくるとして、自由時間は何時間だったというのか。
5時の目覚めからカウントすれば、5時~16時+23時~24時で、12時間である。ルーチンやらなきゃ! となる。
目が覚めた12時からカウントすれば、12時~16時+1時間で、5時間である。免除である。
細かいけれど、このあたりの規定をしっかり考えておかなければ、また、ずるずる、「体調が悪い」「身体がだるい」「気持ちがのらない」「仕事が不安」とか、言い訳ばかりで何もできなくなる気がする。
とかく。規則は、感情よりも重要視しなければならない。人間は低きに流れる生き物だからだ。
なんか、偉い人とか稼いでいる人とか、ハイリーなパーソンがいる場にいきましょう、というのが自己啓発的によくきく。
あ、結構です、って俺は思ってしまうが、しかし、モチベーション維持としては大事だと思う。環境、大事。
カフェでのひと時
仕事の合間に、少しだけ時間ができて、それで、アイスコーヒー(そんなに美味しくなかった。どうしてコンビニコーヒーの方が美味しいのだろう)を飲みながら、ふと、平日の生活をする人たちを見ていた。スーツの人は少なく、子供を連れたおかあさんとか、おじいちゃんおばあちゃんとか。
平和な、日常の一コマだなぁと思った。
ふと、何だか哀しくなった。
同時に、何だか、面倒くさくなった。
ある、リーダーシップの講座で、講師が、「承認欲求が足りてない人には、面倒くさくても、注ぎ続けなければいけないんです」といっていた。ユーチューブの宣伝で流れていた。
シロガネ⇔ストラグルの主人公フィン君は、過酷な幼少期を過ごしたため、自分を大切にするという生き方ができないでいる。そこに、いくら周囲の大人たちが、子供らしい生き方を教えようとしても、それは難しいのだ。
つらかった気持ちと、同じだけの優しい気持ちを注げば、それでペイできるかというと、人の心はそういうもんじゃあない。
穴の開いたバケツ、という表現は、ありふれているだろうが嫌いじゃあない。
強固な入れ物があれば、揺らいで中身がこぼれても、また注げば満たされる。
しかし穴の開いたバケツにいくら注いでも、中身はたまったそばから流れ出していってしまう。
自己肯定感
自分はできる。自分は生きていていいんだ。
自分はみんなの役に立てるんだ。
そういう気持ちが大事だと思う。
みなが、そういった気持ちを抱いて生きているというのが、「生き生き」ということだと思う。
しかし例えば、日露関係を悪化させた某政治家氏は、生きている価値があるのか。
実は二児の父親で、政治家としては失格でも、父親としての意義はあるのかもしれない。
しかし、なんか詭弁に思える。
と、いうよりも、「人はみなそれぞれ生きる意味がありつつも、しかし、同時に人個々は代替がきき、いずれ消滅し忘れ去られる」。
刻刻だっけか? あるアニメの敵の目的は、「人間存在の目的を知ること」だった。主人公一派は、「は? わけわからん」といって切り捨てるが、自己肯定感をどうしても得られない人間は陥りやすい罠だろうと思う。
ま、要するに、正解は、「個々人の環境に置いての有意性を不断に高めていく」ということなのである。
凡人はそれぐらいしかできない。
ソクラテスやアインシュタインのレベルに至らなければ、人個人は数百年のうちに跡形もなく忘却される。
そこにおいて、重要なのは、――時間切れ。
(かっこ書きである。――大事なのは、めっちゃ感動することだ! 日々すり減っていくような生き方は、一秒たりともすべきではない! そして、感動するには、つらいこともスパイスとして必要だ! 平穏なユートピアには争いもなければ、感動もないのではないか。感動し続けるという状態は、薬でハイになった状態が続くような感じで不健全ではないか。生きるとは何か。俺はどう生きるのか。何を感動するのか。何に感動できるのか。ああ、今日も問いの答えには近づけそうもなかった。しかし、この場、こうして書くことすらなければ、ただ日々すり減るだけだ。書け、書け、書いて悩み苦しみそして感動せよ)
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今日の一言「喉が痛い」「眠れない、でも眠い」
まず、体調が悪いことを書いておく。
あと、帰宅時間が遅い。
仕事が非常に大量にある。
だが、「その大変さは、客観的にそうなのか? それはお前の能力が低いから時間がかかり、大量にあるということではないのか?」となったとき、それは「正論」である。
一方で、自分のことを優秀だなどと、思ったことはこれまでなかったが、しかし、業務に対する知識量も、スキルも、周囲に比べて、低くはないことが分かった。だがそれでも、それが適切に評価されるものかというと、果たして疑問である、ということが、今回の記事の主旨でもある。
そりゃそうだ。やるべきこと、なのだから、やるのである。
だが、字義どおりと、実際の行動・評価ベースのことは、全く違う。
言外に、「いわれたことしかやらないやつ」は、評価されないだろう。
もちろん、これが日本特有であって、海外でもそうかというのは別かもしれない。いわれたことに対して賃金が発生するというのは、本来の形かもしれない。
だが、業務レベルで見たときに、実際の現場作業として考えたときに、個人の能力と、管理者の把握可能な範囲として考えたときに、問題はややこしくなってくる。
仮に分かりやすい、報告書を作る業務、があったとしよう。
AとBとCのプロセスを経て、完成形Xとなるとしよう。
ここで、Bのプロセスは、なくても、完成形Xの体裁は整うとしたときに、Bのプロセスは省略してもよいのか。ただし、Bのプロセスがなければ、完成形X´(エックス・ダッシュ)に分かりづらいところや誤解が生じる可能性があるとする。
仕事として正しくは、そのリスク(分かりづらさ・誤解発生可能性)を上司に報告し、判断を仰ぐ、ということになるだろう。
だが果たして。
すべての業務のすべての粒度でそれができるのか、という問題が一つ。
上司の特性において、どこまでの粒度を求めているのか「人による」という問題が一つ。
「よく相談しなさい」
と言いつつ、
「そんなことも自分で考えられないのか!」
という人がいることを、想定の埒外におくことはできない。
逆にあったとしても、それはそれこそ、ロボット(自動化)の対象になるだろう。
人でしかできないことをやるべきだ――と口当たり良い風潮も、僕のイライラに寄与する。
人しかできない「業務」などない。
あるとすれば、「業務」を定型化する作業である。
そして、定型化できれば、人しかできないことではなくなる。
仕事は生み出され、そして自動化されるか、消えていく。
そんな中で、必ずしも「生み出すこと」「現状よりも向上させること」だけが評価の対象になるのだろうか、いや僕はすぐさま否という。
現状維持とは、それ自体で重要なことである。
これは前から書いているが、現状維持をするためには、まったく同じことをしていては成しえないのである。それがよほど単純作業でない限り。
能力とは、業務を成し遂げることができる力と、「意欲・関心」を足すのだったか? 忘れてしまったが、どちらにせよ、言葉遊びをしたいのではない。
要は、個人の能力は、人それぞれ、まちまちだ。
単純作業、定型作業の積み重ねが業務でよかった時代は、年齢というのは、ある程度有用な評価指標だったといえる。
意欲が低かろうが、個人の能力が低かろうが、取りあえず経験を積んでおけば、ある程度業務を成し遂げる力は身についているだろう、という予測が立っていたわけだ。
そうじゃない業務が多いとしたら。
いったい、どうやって、正しく、公平に、評価ができるというのだろうか。
Xという業務があったとする。
Aさんは、のべ10時間で完遂できるとする。
後任のBさんも、のべ10時間で完遂できたとする。
AさんとBさんは、同じ評価になるのか。
海外ではそうかもしれない。
<事例1>
しかし、X業務について、Aさんが非常に優秀なマニュアルや業務フローの整理を行って、もともとは20時間かかる業務を10時間で済むようにしていたのかもしれない。そのおかげで、Bさんもスムーズに引継ぎができて、さほど苦労もせずに10時間で業務が完成できたのかもしれない。
<事例2>
もしくは。
Aさんは自分のことしか考えずに、マニュアルも引き継ぎもろくにしていなかったかもしれない。そんな状況で、Bさんは、必死な努力で、10時間で業務が完成できるように試行錯誤を繰り返したのかもしれない。
あなたは、Aさん、Bさん、どちらを評価するだろうか。
事例1はAさんだし、事例2はBさんを評価してあげたいところだろう。サイコパス的――いやしかし、普通な仕事としての考え方なら、事例1も事例2も、AさんもBさんも同じ、とするのが「公平」なのかもしれない(何故なら、成果物Xは不変だからだ)。
何故なら、上の事例1も事例2も、ぶっちゃけ、「よくみていてあげる」ことをしなければ、到底分からないことだからだ。
同僚による、相互評価制みたいなのを導入すれば、ある程度こういった問題も解決するかもしれないが、それはそれでギスギスしそうだし、なんともいえない。
そうするとまぁ、上司が観るしかないが、しかし果たして、忙しい職場において、どこまで冷静に客観的に評価ができるのだろうか。いま、客観的、という言葉を使ったが、そもそも、上の事例において、AさんとBさんをどう評価するのが正しいのかも、その会社によって異なることすらあるのかもしれない。
ほんと難しい。
それで、忙しくて、ブログなんかも全然書けなかったりするが、これは、一番よくないことだと思って、今書いている。睡眠時間も、3時間ぐらいだが、目が覚めてしまって、眠りにつこうにもつけなかったので今に至る。
寝てない自慢かっこいい――とか、そういうことではない、むしろ、いい歳の大人が体調管理もできないのかと、叱責の対象にすらなるだろう。
つまり、個人的にどういった気持ちでいようが、別に組織や会社にとってはどうでもいいことなのである。もちろん、個人の健康状態がよくなければ、結果的に生産性が落ちるので、表面的には「体が大事だよ」というところであるが、実際は組織体が優先されるのは当たり前のことである。これは当たり前である、そして、そうあるべきでもある。組織が余裕があれば福利厚生を充実させてもいいが、余裕がなくなればやはりカットされるのはそこだろう。
年金や保険もそうだ。
生活保護受給者がパチンコにいってけしからん、みたいなことを思う人もいるようだ。だが、生活保護というのは、権利なのだから、別にスティグマではないというのが、一般的な考え方のようだ。だが、その生活保護はやはり税金でなされているのであるから、日本全体の活力が下がれば、生活保護の金額自体も低くなる。相互扶助の仕組みだ。
あ、どうでもいいことを書いた、自分の話を書くべきだ。
そう、忙しい時こそ、優先させるべきはブログであるということを、よかった、僕は忘れていなかったらしい。
――ここらへんが、僕が普通の人と違うのかもしれないが、ぶっちゃけ、他者と愚痴を言い合っても、決して僕のイライラは解消されないという点である。
「自分で考えないと」
どうしても、イライラは解消されないのだ。
その原因は、以前、いろいろ書いた気もするが、簡単に今回あげるとしたら、「思考スピード」が完全に一致することなどありえない、というのが一つ。他にも、時空間の共有制約の問題。承認欲求のたまり具合とたまっている状況などなど。
さっきまでは全然眠れなかった。
そう。どうしようもなくイライラしていても、こうやって書いていると段々落ち着いてくるのである。
これが、「普通の人」だと、飲み会とか対人コミュニケーション的に発散すると解消されるとのことだが、俺は残念だがよくわからん。
飲み会とかが絶対究極嫌、という意味ではないが、対人コミュニケーションするなら相互発展的な感じならいいと思う。いや、3割ぐらい愚痴が含まれたほうが盛り上がるかもしれないが、しかし、「ストレスの発散」が主目的にしなければいけないときに、対人コミュニケーションは余計にストレスであるということだ。
(かっこ書きである。面白くない記事だろうか。たぶん、そうだろう。けれども、価値はあると思う。書ききれていないが、きっと全然表現できていないが、それでも、喉が痛くて痰がからんで、帰りが23時過ぎで睡眠時間が3時間ぐらいでも眠れなくて、という状況があったということのメモは有益だろう。こういうこと、友人にいったとしよう。「そっか、大変だな。でも、会社は最後は守ってくれないぜ。まずは自分の体を優先しような」とか心配してくれたとしよう。「いやでもそれができたら苦労してないってwww」と思ってしまうだろう。つまり、自分の行動変容しなければ、問題は解決しないのであって、それは自分でも分かっているのであって、そうするための方法を必死に考え実践し続けているのであって、そこに共感してもらえたとしても特に何ら感慨はないのである――とまで書くと、さすがイライラしていると刺々しいなと思うが、しかしこれまでの自分も、きっとこれからの自分も、ここで言わんとしていることは何となく分かるだろう。まぁ、普通の人がこんなこと見たり聞いたりしたら、「こいつ友達いないだろうな」と思うだろうことは間違いないので、僕は言わない(書いてるが。いやだからこそブログはものすごい貴重な場なのである))
前書き
カテゴリはイライラ対処である、記事の内容は察する必要がある。まず、体調が悪いことを書いておく。
あと、帰宅時間が遅い。
仕事が非常に大量にある。
だが、「その大変さは、客観的にそうなのか? それはお前の能力が低いから時間がかかり、大量にあるということではないのか?」となったとき、それは「正論」である。
一方で、自分のことを優秀だなどと、思ったことはこれまでなかったが、しかし、業務に対する知識量も、スキルも、周囲に比べて、低くはないことが分かった。だがそれでも、それが適切に評価されるものかというと、果たして疑問である、ということが、今回の記事の主旨でもある。
やるべきこととやらないべきこと
やるべきことをやるのは当然である。そりゃそうだ。やるべきこと、なのだから、やるのである。
だが、字義どおりと、実際の行動・評価ベースのことは、全く違う。
言外に、「いわれたことしかやらないやつ」は、評価されないだろう。
もちろん、これが日本特有であって、海外でもそうかというのは別かもしれない。いわれたことに対して賃金が発生するというのは、本来の形かもしれない。
だが、業務レベルで見たときに、実際の現場作業として考えたときに、個人の能力と、管理者の把握可能な範囲として考えたときに、問題はややこしくなってくる。
仮に分かりやすい、報告書を作る業務、があったとしよう。
AとBとCのプロセスを経て、完成形Xとなるとしよう。
ここで、Bのプロセスは、なくても、完成形Xの体裁は整うとしたときに、Bのプロセスは省略してもよいのか。ただし、Bのプロセスがなければ、完成形X´(エックス・ダッシュ)に分かりづらいところや誤解が生じる可能性があるとする。
仕事として正しくは、そのリスク(分かりづらさ・誤解発生可能性)を上司に報告し、判断を仰ぐ、ということになるだろう。
だが果たして。
すべての業務のすべての粒度でそれができるのか、という問題が一つ。
上司の特性において、どこまでの粒度を求めているのか「人による」という問題が一つ。
「よく相談しなさい」
と言いつつ、
「そんなことも自分で考えられないのか!」
という人がいることを、想定の埒外におくことはできない。
正しい評価
第一、完全に定型的な業務などありゃしないのである。逆にあったとしても、それはそれこそ、ロボット(自動化)の対象になるだろう。
人でしかできないことをやるべきだ――と口当たり良い風潮も、僕のイライラに寄与する。
人しかできない「業務」などない。
あるとすれば、「業務」を定型化する作業である。
そして、定型化できれば、人しかできないことではなくなる。
仕事は生み出され、そして自動化されるか、消えていく。
そんな中で、必ずしも「生み出すこと」「現状よりも向上させること」だけが評価の対象になるのだろうか、いや僕はすぐさま否という。
現状維持とは、それ自体で重要なことである。
これは前から書いているが、現状維持をするためには、まったく同じことをしていては成しえないのである。それがよほど単純作業でない限り。
人それぞれ固有の問題
しかし一方で、個人の能力という問題もある。能力とは、業務を成し遂げることができる力と、「意欲・関心」を足すのだったか? 忘れてしまったが、どちらにせよ、言葉遊びをしたいのではない。
要は、個人の能力は、人それぞれ、まちまちだ。
単純作業、定型作業の積み重ねが業務でよかった時代は、年齢というのは、ある程度有用な評価指標だったといえる。
意欲が低かろうが、個人の能力が低かろうが、取りあえず経験を積んでおけば、ある程度業務を成し遂げる力は身についているだろう、という予測が立っていたわけだ。
そうじゃない業務が多いとしたら。
いったい、どうやって、正しく、公平に、評価ができるというのだろうか。
Xという業務があったとする。
Aさんは、のべ10時間で完遂できるとする。
後任のBさんも、のべ10時間で完遂できたとする。
AさんとBさんは、同じ評価になるのか。
海外ではそうかもしれない。
<事例1>
しかし、X業務について、Aさんが非常に優秀なマニュアルや業務フローの整理を行って、もともとは20時間かかる業務を10時間で済むようにしていたのかもしれない。そのおかげで、Bさんもスムーズに引継ぎができて、さほど苦労もせずに10時間で業務が完成できたのかもしれない。
<事例2>
もしくは。
Aさんは自分のことしか考えずに、マニュアルも引き継ぎもろくにしていなかったかもしれない。そんな状況で、Bさんは、必死な努力で、10時間で業務が完成できるように試行錯誤を繰り返したのかもしれない。
あなたは、Aさん、Bさん、どちらを評価するだろうか。
事例1はAさんだし、事例2はBさんを評価してあげたいところだろう。サイコパス的――いやしかし、普通な仕事としての考え方なら、事例1も事例2も、AさんもBさんも同じ、とするのが「公平」なのかもしれない(何故なら、成果物Xは不変だからだ)。
上司の能力
しかし、ことは単純ではない。何故なら、上の事例1も事例2も、ぶっちゃけ、「よくみていてあげる」ことをしなければ、到底分からないことだからだ。
同僚による、相互評価制みたいなのを導入すれば、ある程度こういった問題も解決するかもしれないが、それはそれでギスギスしそうだし、なんともいえない。
そうするとまぁ、上司が観るしかないが、しかし果たして、忙しい職場において、どこまで冷静に客観的に評価ができるのだろうか。いま、客観的、という言葉を使ったが、そもそも、上の事例において、AさんとBさんをどう評価するのが正しいのかも、その会社によって異なることすらあるのかもしれない。
本題のイライラ
まぁ、てなことを、日々思いながら、個人としては、どうするのが最適かを考えながら仕事をしているわけであるが、正直よくわからん。ほんと難しい。
それで、忙しくて、ブログなんかも全然書けなかったりするが、これは、一番よくないことだと思って、今書いている。睡眠時間も、3時間ぐらいだが、目が覚めてしまって、眠りにつこうにもつけなかったので今に至る。
寝てない自慢かっこいい――とか、そういうことではない、むしろ、いい歳の大人が体調管理もできないのかと、叱責の対象にすらなるだろう。
つまり、個人的にどういった気持ちでいようが、別に組織や会社にとってはどうでもいいことなのである。もちろん、個人の健康状態がよくなければ、結果的に生産性が落ちるので、表面的には「体が大事だよ」というところであるが、実際は組織体が優先されるのは当たり前のことである。これは当たり前である、そして、そうあるべきでもある。組織が余裕があれば福利厚生を充実させてもいいが、余裕がなくなればやはりカットされるのはそこだろう。
年金や保険もそうだ。
生活保護受給者がパチンコにいってけしからん、みたいなことを思う人もいるようだ。だが、生活保護というのは、権利なのだから、別にスティグマではないというのが、一般的な考え方のようだ。だが、その生活保護はやはり税金でなされているのであるから、日本全体の活力が下がれば、生活保護の金額自体も低くなる。相互扶助の仕組みだ。
あ、どうでもいいことを書いた、自分の話を書くべきだ。
そう、忙しい時こそ、優先させるべきはブログであるということを、よかった、僕は忘れていなかったらしい。
――ここらへんが、僕が普通の人と違うのかもしれないが、ぶっちゃけ、他者と愚痴を言い合っても、決して僕のイライラは解消されないという点である。
「自分で考えないと」
どうしても、イライラは解消されないのだ。
その原因は、以前、いろいろ書いた気もするが、簡単に今回あげるとしたら、「思考スピード」が完全に一致することなどありえない、というのが一つ。他にも、時空間の共有制約の問題。承認欲求のたまり具合とたまっている状況などなど。
終わりへ
――と、ここまでかいてきて、もうそろそろ、また行く時間が近づいてきたが、ようやっと眠くなってきた――なってきてしまった。やばいな(かっこわらい)。さっきまでは全然眠れなかった。
そう。どうしようもなくイライラしていても、こうやって書いていると段々落ち着いてくるのである。
これが、「普通の人」だと、飲み会とか対人コミュニケーション的に発散すると解消されるとのことだが、俺は残念だがよくわからん。
飲み会とかが絶対究極嫌、という意味ではないが、対人コミュニケーションするなら相互発展的な感じならいいと思う。いや、3割ぐらい愚痴が含まれたほうが盛り上がるかもしれないが、しかし、「ストレスの発散」が主目的にしなければいけないときに、対人コミュニケーションは余計にストレスであるということだ。
(かっこ書きである。面白くない記事だろうか。たぶん、そうだろう。けれども、価値はあると思う。書ききれていないが、きっと全然表現できていないが、それでも、喉が痛くて痰がからんで、帰りが23時過ぎで睡眠時間が3時間ぐらいでも眠れなくて、という状況があったということのメモは有益だろう。こういうこと、友人にいったとしよう。「そっか、大変だな。でも、会社は最後は守ってくれないぜ。まずは自分の体を優先しような」とか心配してくれたとしよう。「いやでもそれができたら苦労してないってwww」と思ってしまうだろう。つまり、自分の行動変容しなければ、問題は解決しないのであって、それは自分でも分かっているのであって、そうするための方法を必死に考え実践し続けているのであって、そこに共感してもらえたとしても特に何ら感慨はないのである――とまで書くと、さすがイライラしていると刺々しいなと思うが、しかしこれまでの自分も、きっとこれからの自分も、ここで言わんとしていることは何となく分かるだろう。まぁ、普通の人がこんなこと見たり聞いたりしたら、「こいつ友達いないだろうな」と思うだろうことは間違いないので、僕は言わない(書いてるが。いやだからこそブログはものすごい貴重な場なのである))
今日の一言「細切れ時間を有効に使うのが受験の秘訣」「難易度高い」
そうではなくて、5分でも、いや1分でもその目的にかける時間を使うというのは、その目的に対する行為のハードルを下げてくれるということでもある。
どうしても困難な課題にぶちあたったら、「機械的に時間を作る」ということを試してみるといい。新しい言葉を作ったわけではない、要はいつも書いている「ルーチン」の活用である。
ということで、意外と前回やった「規則」を作るのが楽しかったので、記事タイトルの奴を作ってみる。
2 試験日から合格発表までは適用しないこととする。
3 第2項において不合格であることが分かった日から、次の試験まで本規則を適用することとする。
第二条 平日は、帰宅時間が20時前のときは、テキストの1節の音読を行う。
2 第1項において、1節が4ページ以上ある場合は、必要に応じて分割して構わない。
第三条 休日は、イベントがある場合(12時間以上一人の時間が確保できない場合)以外は、テキストの2節の音読を行う。
2 第1項において、1節が4ページ以上ある場合は、必要に応じて分割して構わない。
不合格を想定しているというのは、マーフィー法則的によくない気がするぞ。が、しかし、ここは奮い立つ的な意味でこのままにしよう。
これ、不合格だと永遠ループになるってことだからな。
そういう意味で、規則を作って、さすがに今回はやってないが、部屋の見えるところに紙で貼っておく、というのは有効だと思う。
もちろん、あんまりたくさん規則ばっかり作って、自分で記憶範囲外になってしまったら全く意味がない。
しかし、これも、「やる」と決めないと中々進められない。
なんのことかと不明な方は、すぐさま以下にて読むのである。
シロガネ⇔ストラグル
「激辛批評」希望作品なので、利き腕をぐるんぐるん回しながら、さーていっちょやったりますか、的に思っているのだが、いかんせん、一気読みできないものをどう着手すればよいか、やや戸惑うところである。
とりあえず、気になったところを、スマホでメモしながら読み進めていくほかあるまい。
まで読み進める。
オークたちとの戦闘や、アゴス神の登場シーンなど、圧巻である。
なにより、敵の「道化師」がいい感じに謎めいて、中盤へのストーリーの期待を膨らませてくれている。
しかし、
「あのーなんかいい感じにいい感じでアレしてください」
から「道化師うごごご」までが、ちょっと間延びして感じた。
いい表現が浮かばないが、要するに、もっとコンパクトにしていいと思った(個人の感想です)。
「さぁ王国救いにいくぜっ!」
というシーンから、ひと呼吸おきたくなるとはいえ、オブスキュアや世界観の説明をある程度盛り込まないといけないとはいえ、しかし、もうちょっとテンポよくいきたい気がした(個人の感想です)。
(かっこ書きである。清書的なまとめ的なのをせずに、こうやってポツポツ感想書いていくのってどうなのか。基本的にこれまでは、全部まとめてから、必要に応じて2度読み、3度読みしながら感想や批評をまとめていっていた。が、おそらく、今回は作者さんのプロモーション的にも、早めにレスポンスした方がよい気がした。――とにかく、前提として書いておくべきなのは、「面白い」のはもはや当然の域であり、これが「超面白ィぇぇ!」になるにはどうしたらよいのかを考えながら感想など書くつもりである)
前書き
今日の一言で書いたテクニーク的なものの本質は、「やる気」の維持にあると思う。要するに、まとまった時間の確保、というのはある程度「意識的に」やる必要があって、「いざ!」ということである。そうではなくて、5分でも、いや1分でもその目的にかける時間を使うというのは、その目的に対する行為のハードルを下げてくれるということでもある。
どうしても困難な課題にぶちあたったら、「機械的に時間を作る」ということを試してみるといい。新しい言葉を作ったわけではない、要はいつも書いている「ルーチン」の活用である。
ということで、意外と前回やった「規則」を作るのが楽しかったので、記事タイトルの奴を作ってみる。
試験勉強規則
第一条 本規則は、4月または10月の試験日の前日まで適用する。2 試験日から合格発表までは適用しないこととする。
3 第2項において不合格であることが分かった日から、次の試験まで本規則を適用することとする。
第二条 平日は、帰宅時間が20時前のときは、テキストの1節の音読を行う。
2 第1項において、1節が4ページ以上ある場合は、必要に応じて分割して構わない。
第三条 休日は、イベントがある場合(12時間以上一人の時間が確保できない場合)以外は、テキストの2節の音読を行う。
2 第1項において、1節が4ページ以上ある場合は、必要に応じて分割して構わない。
規則について雑感
適当に作っておこうと思ったが、いざ作ってみると、第一条の第3項がエグい。不合格を想定しているというのは、マーフィー法則的によくない気がするぞ。が、しかし、ここは奮い立つ的な意味でこのままにしよう。
これ、不合格だと永遠ループになるってことだからな。
そういう意味で、規則を作って、さすがに今回はやってないが、部屋の見えるところに紙で貼っておく、というのは有効だと思う。
もちろん、あんまりたくさん規則ばっかり作って、自分で記憶範囲外になってしまったら全く意味がない。
小説を読み進める
自サイトに投稿されている作品が増えてきて、読まなきゃと思っている。しかし、これも、「やる」と決めないと中々進められない。
まぁ、ご無理はなさらず、都合の良い時にどうぞ。……嘘です!!!!! なるべくはやくよんでほしいです!!!!!!!!!!!(涎)発破をかけられたので、通勤など、細切れ時間でも読み進めることとした。
なんのことかと不明な方は、すぐさま以下にて読むのである。
シロガネ⇔ストラグル
「激辛批評」希望作品なので、利き腕をぐるんぐるん回しながら、さーていっちょやったりますか、的に思っているのだが、いかんせん、一気読みできないものをどう着手すればよいか、やや戸惑うところである。
とりあえず、気になったところを、スマホでメモしながら読み進めていくほかあるまい。
数日後……
「道化師とは一体……うごごご!」まで読み進める。
オークたちとの戦闘や、アゴス神の登場シーンなど、圧巻である。
なにより、敵の「道化師」がいい感じに謎めいて、中盤へのストーリーの期待を膨らませてくれている。
しかし、
「あのーなんかいい感じにいい感じでアレしてください」
から「道化師うごごご」までが、ちょっと間延びして感じた。
いい表現が浮かばないが、要するに、もっとコンパクトにしていいと思った(個人の感想です)。
「さぁ王国救いにいくぜっ!」
というシーンから、ひと呼吸おきたくなるとはいえ、オブスキュアや世界観の説明をある程度盛り込まないといけないとはいえ、しかし、もうちょっとテンポよくいきたい気がした(個人の感想です)。
(かっこ書きである。清書的なまとめ的なのをせずに、こうやってポツポツ感想書いていくのってどうなのか。基本的にこれまでは、全部まとめてから、必要に応じて2度読み、3度読みしながら感想や批評をまとめていっていた。が、おそらく、今回は作者さんのプロモーション的にも、早めにレスポンスした方がよい気がした。――とにかく、前提として書いておくべきなのは、「面白い」のはもはや当然の域であり、これが「超面白ィぇぇ!」になるにはどうしたらよいのかを考えながら感想など書くつもりである)
今日の一言「定期的な目標が必要」
時間が立つとこうなってしまう。よくない。ということで、ブログルーチンを復活させよう、と思った。
本則
(更新回数)
第一条 週に1回以上更新する。週は、月曜日から日曜日までを単位とする。
(更新日)
第二条 更新日は原則土曜日とする。平日に更新した場合も回数には含めないこととする。
(免除規定)
第三条 土曜日にイベント(半日以上一人になれる時間がない場合)があるときは、ルーチンを免除とする。ただし、この場合は、可能な限り事前にスケジュールを確認し、土曜日以外の日に更新する。
附則
(施行期日)
第一条 この規則は2019/5/11(土)から施行する。
ルールを日本語で表現しようとすると意外に難しい。
上の意図としては、基本土曜日(0:00~23:59)には更新する、と。
平日に更新してもよいが、土曜日更新はする。
ただし、土曜日更新がイベントによってできない場合は、土曜日以外の日の更新をルーチンの1回にカウントする。
ということだ。
面倒である。しかし、面倒とは何か。不快で煩雑で煩わしいことだ。
しかし、シンプルなルールは、あった方が整理しやすくてよい。
ここでの整理とは、自分の行動についてだ。
「あー、今週の土曜日どうしようかなぁ」
「あー、あの仕事来週重いなぁ気がかりだなぁ」
とか、人間は感情的である。
しかし、ルール(ここではルーチン)があれば、とりあえずそんな感情はわきにおいて、やることはやる必要があるのである。
んで、実際行動していると、気分が変わって爽快になることがあるのは、みなご存知のとおりである。
だが、ポイントはそこではない。
ルールはあくまでも、「主体的なルール」であるべきだ。
「前からそうだった」「無理やり従わされている」
という状態では、決して、行動をしたとしても気分爽快になどなりゃしないのだ。
だが、じゃあ、一からルールを全部考える必要があるか? というと、そうではない。
今回、ルーチン更新規則を文章化してみたが、面倒くさいと感じる人もいるだろう。一から書く必要なんてない。あるものを使ってもいい。
すでにあるルールを、そのまま理解せずに「行動」だけすれば、それは不快である。
そのルールを理解し、自分の中に落とし込んでやろうとすれば、それはもう「自分の」ルールなのである。
(かっこ書きである。「忙しい」――これは言い訳ではない、実際問題そうだ。だが、だからといって、「本来するべきこと」をしないのは道理に合わない。仕事が仮に大事だとしても、俺はやはり「創作」「生きる意味を徹底して考えること」を大事にしたい。それに繋がっているかどうかは別として、そのきっかけには間違いなくなっているのはこのブログである。それを更新しなくなるということは、人生を捨てたも同然である。もしくは、「忙しい」仕事に人生をすべて投げ打つという選択をした、ということになる。それも悪くないのだろうが、「仕事」は裏切る。「組織」も裏切る。――このながれで、「人(他者)」も裏切る……を足してもいいが、そこまで書くと非難轟轟度が格段に高まるのでやめる。人は集団に属してしか生きられないが、集団のために生きるのではない、という前提において、果たして個人の生きる意味というのは存在するのか、というのがテーマである。ここでもちろん、集団を、ライフステージごとに変えていって、そこでの意義を最大限高める、という生き方が通常であると思うが、俺はそれに非常に懐疑的である。だからこそ、それを、「忙しい」とそっちのけになってしまうが、忘れないために、ブログは大事だ、というのが本記事の目的である)
前書き
今、小見出しを考えてしまった。最初の小見出しは「前書き」で決まっているのであった。それすらも忘れていた。思い出せたが。時間が立つとこうなってしまう。よくない。ということで、ブログルーチンを復活させよう、と思った。
目標
ブログルーチン規則本則
(更新回数)
第一条 週に1回以上更新する。週は、月曜日から日曜日までを単位とする。
(更新日)
第二条 更新日は原則土曜日とする。平日に更新した場合も回数には含めないこととする。
(免除規定)
第三条 土曜日にイベント(半日以上一人になれる時間がない場合)があるときは、ルーチンを免除とする。ただし、この場合は、可能な限り事前にスケジュールを確認し、土曜日以外の日に更新する。
附則
(施行期日)
第一条 この規則は2019/5/11(土)から施行する。
ルールを日本語で表現しようとすると意外に難しい。
上の意図としては、基本土曜日(0:00~23:59)には更新する、と。
平日に更新してもよいが、土曜日更新はする。
ただし、土曜日更新がイベントによってできない場合は、土曜日以外の日の更新をルーチンの1回にカウントする。
ということだ。
面倒くさいのでは
こんなルールなんてもんを考えるのは面倒である……のか?面倒である。しかし、面倒とは何か。不快で煩雑で煩わしいことだ。
しかし、シンプルなルールは、あった方が整理しやすくてよい。
ここでの整理とは、自分の行動についてだ。
「あー、今週の土曜日どうしようかなぁ」
「あー、あの仕事来週重いなぁ気がかりだなぁ」
とか、人間は感情的である。
しかし、ルール(ここではルーチン)があれば、とりあえずそんな感情はわきにおいて、やることはやる必要があるのである。
んで、実際行動していると、気分が変わって爽快になることがあるのは、みなご存知のとおりである。
だが、ポイントはそこではない。
ルールはあくまでも、「主体的なルール」であるべきだ。
「前からそうだった」「無理やり従わされている」
という状態では、決して、行動をしたとしても気分爽快になどなりゃしないのだ。
だが、じゃあ、一からルールを全部考える必要があるか? というと、そうではない。
今回、ルーチン更新規則を文章化してみたが、面倒くさいと感じる人もいるだろう。一から書く必要なんてない。あるものを使ってもいい。
すでにあるルールを、そのまま理解せずに「行動」だけすれば、それは不快である。
そのルールを理解し、自分の中に落とし込んでやろうとすれば、それはもう「自分の」ルールなのである。
(かっこ書きである。「忙しい」――これは言い訳ではない、実際問題そうだ。だが、だからといって、「本来するべきこと」をしないのは道理に合わない。仕事が仮に大事だとしても、俺はやはり「創作」「生きる意味を徹底して考えること」を大事にしたい。それに繋がっているかどうかは別として、そのきっかけには間違いなくなっているのはこのブログである。それを更新しなくなるということは、人生を捨てたも同然である。もしくは、「忙しい」仕事に人生をすべて投げ打つという選択をした、ということになる。それも悪くないのだろうが、「仕事」は裏切る。「組織」も裏切る。――このながれで、「人(他者)」も裏切る……を足してもいいが、そこまで書くと非難轟轟度が格段に高まるのでやめる。人は集団に属してしか生きられないが、集団のために生きるのではない、という前提において、果たして個人の生きる意味というのは存在するのか、というのがテーマである。ここでもちろん、集団を、ライフステージごとに変えていって、そこでの意義を最大限高める、という生き方が通常であると思うが、俺はそれに非常に懐疑的である。だからこそ、それを、「忙しい」とそっちのけになってしまうが、忘れないために、ブログは大事だ、というのが本記事の目的である)
今日の一言「言い訳はいかんとの風潮は如何か」「状況説明と言い換えればよい」
(前回記事へのコメントはまた今度書きますッ!!)
ブログ更新など目をつぶってでもできるなどと言っていた時期が僕にもありました。
忙しいと無理。
生活環境(職場とか対人関係とか)が変わると、ものすごく忙しい。
PCの前にゆっくり座るということすら殆どできていなかった気がする(注意:アマゾンプライムで動画はしっかりみていたが、それはゆっくりではないのである)。
PCで文字を書くことが殆どできなかったので、仕方がない、スマホから投稿するかとも考えたが、結局、忙しい、疲れた、という状況ではそれもできなかった。
結果は、そうだ。
だが、その結果に至るまでにどれほど苦労したかということは、たいてい何にも残らない。
残らない。
残らない!
この残らなさが嫌で僕はブログを書いているのかもしれない。
例えば、飲み会などは、非常に気を使うものであって、「楽しむ」どころでないのは当たり前なのであるが、しかし、第一印象的には「楽しんでいる」と思われることが多い。そのために、どれだけ思考や行動を注意深く行っているか、ということは伝わらない。
逆に、「伝わってはいけない」のであるが、その「大人な事情」的なのが非常にストレスなのは、常に書いて書いて書き続けていることである。
まぁその、世間は10連休ということであり、私も少し心を落ち着けようというわけである。
ああ、しかし、分かっていたはずだが、少しずつでも、更新していないと、「こういった感じ」になる。要するに、何を書いていいか全然分からない。
結果として、1は面白かった。これは、公開当時(2017年?)1話のみ無料でみれたときから、「これは面白そうだから、アマプラで見れるようにいずれなるだろうから、そのとき見てみよう」と思っていた感覚が当たっていた。面白かった。
2は、世間で言われているように、面白くなかった。とある友人のバズッたけもフレ2の記事を事前に読んでいたから、なんとなく面白くないのだろうと思っていたが、いやむしろ、その記事を事前に読んでいてよかったと思った。
違和感。
違和感の連続、しかし、おそらく自分ひとりではその違和感をうまく表現できずに悶々としていたことだろう。
(引用)
色々と共感したところは多いが、その一つが上の引用部分。
目的がよく分からない――いや、もくてきは分かっているのだけれども、その過程が見えないという状況。オムニバス形式の作品(※)ならまだしも、「家を探す」目的が序盤に提示されつつ、それと関係あるんだかないんだから分からない話が続くのは非常につらい。
※ドラえもんとかひだまりスケッチとかクレヨンしんちゃんをイメージ
法治国家――というと近代的でかっこよくて科学的っぽいが、しかし、「人が大事」と言われる所以は、「解釈」による。
超常現象的なのはオカルトと呼ばれて蔑まされるのに、「やっぱり最後は人との関係が大事だね」的に言われるのは何故か。矛盾である、と僕は思っている、思ってきた。
その理由の一つに、完全に機械化できていない現状があることが分かってきた、という話である。
クレジットカードの広告チラシに、年会費が永久無料、と書かれていた。
そのクレジットカードの「規約」と読んでみる。
年会費の条がある。
さらに読んでみる、「年会費は別途定める金額を請求する」と書かれている。
いやちょっとまて、広告には、「永久無料」と書いているじゃないか。そうすると、その条項の記載はおかしいのではないか。そもそも、その「別途定める」というのが、果たしてその「広告」なのか、他のどこに書いているのか? ホームページなど見ても、確かに、「年会費永久無料」とある。矛盾していない。矛盾していないが、しかし、その規約の記載はいったいなんなんだ。
――という事例である。
おそらく、「年会費が永久無料であることを規約に書いていない」と指摘する会員は一人もいないだろう。いたとしても、電話口で丁寧に対応していただき、「規約を変えないと絶対許せない!」という人もいないだろう。
そして現実問題、永久無料なのは間違いないだろう。
ビートレス(BEAT LESS)が何故それほど自分の中でヒットしなかったのか、これも分析して書きたかったことだが、そこまでの気力が起きなかった――けれども、そのなかで、「AI」をもちいた裁判の問題が取り上げられていて、それは面白かった。
裁判官にAIを使うということが議会で紛糾していて、それが原因でテロが起こったりする話であるが、裁判こそ、AIが用いられるべき分野であると僕は思う。
(AIが非常に高度で適切であるという前提において)
本来、裁判にまで発展しない状態で、双方が納得するのが望ましいことである。
裁判になるということは、お互いもうゆずれないというか、利害対立が明確になってしまったことが原因である。
そうしたとき、まったく感情を排して裁決するというのは、まさに、AI、ロボットが適していると思う。
それに、膨大な判例や、法律を分析し、適切な根拠を探し出すというのも、AIが得意とする分野に思われる。
レポートを書くAIや、要約するAIというのも、実用レベルかどうかは分からないが既に存在するようである。「〇〇法と〇〇の判例からして、有罪(無罪)」というのは分かりやすいはずだ。不安なら、はじめは人の最終チェックを入れてもいいだろう。それに、「世論度」的な、マスコミなどに取り上げられて厳罰化を望む声をどれほど反映するかなどの変数(係数)を設定するのを人間がやってもいいだろう。大学入試の不正問題みたいに、そこに不正を考える輩が発生するかもしれないが、それはまた別の問題であるし、それを懸念するならやはりAIに全部判定させた方が良いということになる。
逆に今の裁判が、ゆらぎがある(蓋然性? 同じ内容でも判断が異なる場合がある?)という意味で上のようなことを書いているのではない。ただ、裁判費用が高すぎる、というのは、それに見合う技術(知識)をもった裁判システムを構築するためのインフラが必要だからである。
裁判官しかり、弁護士しかり、検察しかり、裁判所(場所)しかり。
それらは、現在も適切に機能しているだろうが、しかし、裁判件数が爆発的に増えたとして、現在のシステムで適切な判決が維持できるかというと、疑問であろう。
いや、今回は、久々なので、ここまでで。
結論がなさ過ぎて、また投稿を躊躇いそうだが、毅然と、この平成最後の日に投稿する。
(かっこ書きである。けもフレ2は、作品自体はともかく、全部みたことで、「地獄の解釈」というのがあって無茶苦茶面白かった。結論、見てよかった、となった。あと、ついに、『シロガネ⇔ストラグル』が(恐らく期間限定で)公開された。これは大事件である。読む者を混沌と愉悦の境地へ誘うことだろう……)
(前回記事へのコメントはまた今度書きますッ!!)
前書き
久々のブログ更新である。ブログ更新など目をつぶってでもできるなどと言っていた時期が僕にもありました。
忙しいと無理。
生活環境(職場とか対人関係とか)が変わると、ものすごく忙しい。
PCの前にゆっくり座るということすら殆どできていなかった気がする(注意:アマゾンプライムで動画はしっかりみていたが、それはゆっくりではないのである)。
PCで文字を書くことが殆どできなかったので、仕方がない、スマホから投稿するかとも考えたが、結局、忙しい、疲れた、という状況ではそれもできなかった。
言い訳
新しい環境から1か月が過ぎた。取り急ぎ、うまくやっている。上々といっていいだろう。結果は、そうだ。
だが、その結果に至るまでにどれほど苦労したかということは、たいてい何にも残らない。
残らない。
残らない!
この残らなさが嫌で僕はブログを書いているのかもしれない。
例えば、飲み会などは、非常に気を使うものであって、「楽しむ」どころでないのは当たり前なのであるが、しかし、第一印象的には「楽しんでいる」と思われることが多い。そのために、どれだけ思考や行動を注意深く行っているか、ということは伝わらない。
逆に、「伝わってはいけない」のであるが、その「大人な事情」的なのが非常にストレスなのは、常に書いて書いて書き続けていることである。
まぁその、世間は10連休ということであり、私も少し心を落ち着けようというわけである。
ああ、しかし、分かっていたはずだが、少しずつでも、更新していないと、「こういった感じ」になる。要するに、何を書いていいか全然分からない。
けものフレンズ
けものフレンズがアマゾンプライムで掲載されるようになって、1から、2まで、あまり期間を置かずに全部みた。結果として、1は面白かった。これは、公開当時(2017年?)1話のみ無料でみれたときから、「これは面白そうだから、アマプラで見れるようにいずれなるだろうから、そのとき見てみよう」と思っていた感覚が当たっていた。面白かった。
2は、世間で言われているように、面白くなかった。とある友人のバズッたけもフレ2の記事を事前に読んでいたから、なんとなく面白くないのだろうと思っていたが、いやむしろ、その記事を事前に読んでいてよかったと思った。
違和感。
違和感の連続、しかし、おそらく自分ひとりではその違和感をうまく表現できずに悶々としていたことだろう。
(引用)
物語としても、「家を探す」という目標に対して、スケッチブックの絵を頼りに各地を彷徨うという、目的地に対して近付いているのか遠ざかっているのか分からない展開が続き、「ヒトのおうち」に最も関連がありそうなイエイヌに対して「ここは僕の家じゃない」とばっさり切り捨てた挙句、最終回では「パークが僕の家」と結論付ける。明確な目的地が提示されないために、話数が進んでも目標に近付いているのかが分からず、各話の物語も薄っぺらく積み重ねとして映らないために「この話必要だった?」と思うものばかりです。パークが家、という結論に至るなら、もはやどこに向かおうと関係がなく、どの話でも結論が出せてしまうことになり、積み重ねを作るそれまでの過程そのものが無意味に映ります。
色々と共感したところは多いが、その一つが上の引用部分。
目的がよく分からない――いや、もくてきは分かっているのだけれども、その過程が見えないという状況。オムニバス形式の作品(※)ならまだしも、「家を探す」目的が序盤に提示されつつ、それと関係あるんだかないんだから分からない話が続くのは非常につらい。
※ドラえもんとかひだまりスケッチとかクレヨンしんちゃんをイメージ
法律とか根拠とか
オムニバスじゃないが、上の話と全く違うことを書く。(これも4月中に思っていたことの断片である)法治国家――というと近代的でかっこよくて科学的っぽいが、しかし、「人が大事」と言われる所以は、「解釈」による。
超常現象的なのはオカルトと呼ばれて蔑まされるのに、「やっぱり最後は人との関係が大事だね」的に言われるのは何故か。矛盾である、と僕は思っている、思ってきた。
その理由の一つに、完全に機械化できていない現状があることが分かってきた、という話である。
クレジットカードの広告チラシに、年会費が永久無料、と書かれていた。
そのクレジットカードの「規約」と読んでみる。
年会費の条がある。
さらに読んでみる、「年会費は別途定める金額を請求する」と書かれている。
いやちょっとまて、広告には、「永久無料」と書いているじゃないか。そうすると、その条項の記載はおかしいのではないか。そもそも、その「別途定める」というのが、果たしてその「広告」なのか、他のどこに書いているのか? ホームページなど見ても、確かに、「年会費永久無料」とある。矛盾していない。矛盾していないが、しかし、その規約の記載はいったいなんなんだ。
――という事例である。
おそらく、「年会費が永久無料であることを規約に書いていない」と指摘する会員は一人もいないだろう。いたとしても、電話口で丁寧に対応していただき、「規約を変えないと絶対許せない!」という人もいないだろう。
そして現実問題、永久無料なのは間違いないだろう。
ビートレス
またアニメの話になるが、ビートレスは、映像とテーマは非常に好みだったけれども、最後まで見れなかった。5話ぐらいで体力が尽きてしまった。面白いと思えなかった。いっぽうで、けものふれんず2は最後まで見てしまった。この違いは何なのか。「ネタ感」だと思う。ガンダムファーストが、ファンには申し訳ないが、30代になって初めて見た感じとしては、正直面白いとは言えなかったが、最後までみたのと同じだと思う。いや、1970年代の作品としては素晴らしいと思う、しかし、古典は古典としての重要性はあっても、それが現代的な面白さがあるというのとは別問題である。ビートレス(BEAT LESS)が何故それほど自分の中でヒットしなかったのか、これも分析して書きたかったことだが、そこまでの気力が起きなかった――けれども、そのなかで、「AI」をもちいた裁判の問題が取り上げられていて、それは面白かった。
裁判官にAIを使うということが議会で紛糾していて、それが原因でテロが起こったりする話であるが、裁判こそ、AIが用いられるべき分野であると僕は思う。
(AIが非常に高度で適切であるという前提において)
本来、裁判にまで発展しない状態で、双方が納得するのが望ましいことである。
裁判になるということは、お互いもうゆずれないというか、利害対立が明確になってしまったことが原因である。
そうしたとき、まったく感情を排して裁決するというのは、まさに、AI、ロボットが適していると思う。
それに、膨大な判例や、法律を分析し、適切な根拠を探し出すというのも、AIが得意とする分野に思われる。
レポートを書くAIや、要約するAIというのも、実用レベルかどうかは分からないが既に存在するようである。「〇〇法と〇〇の判例からして、有罪(無罪)」というのは分かりやすいはずだ。不安なら、はじめは人の最終チェックを入れてもいいだろう。それに、「世論度」的な、マスコミなどに取り上げられて厳罰化を望む声をどれほど反映するかなどの変数(係数)を設定するのを人間がやってもいいだろう。大学入試の不正問題みたいに、そこに不正を考える輩が発生するかもしれないが、それはまた別の問題であるし、それを懸念するならやはりAIに全部判定させた方が良いということになる。
逆に今の裁判が、ゆらぎがある(蓋然性? 同じ内容でも判断が異なる場合がある?)という意味で上のようなことを書いているのではない。ただ、裁判費用が高すぎる、というのは、それに見合う技術(知識)をもった裁判システムを構築するためのインフラが必要だからである。
裁判官しかり、弁護士しかり、検察しかり、裁判所(場所)しかり。
それらは、現在も適切に機能しているだろうが、しかし、裁判件数が爆発的に増えたとして、現在のシステムで適切な判決が維持できるかというと、疑問であろう。
結論
結論、なし。いや、今回は、久々なので、ここまでで。
結論がなさ過ぎて、また投稿を躊躇いそうだが、毅然と、この平成最後の日に投稿する。
(かっこ書きである。けもフレ2は、作品自体はともかく、全部みたことで、「地獄の解釈」というのがあって無茶苦茶面白かった。結論、見てよかった、となった。あと、ついに、『シロガネ⇔ストラグル』が(恐らく期間限定で)公開された。これは大事件である。読む者を混沌と愉悦の境地へ誘うことだろう……)