今日の一言「臨時の記事だ」「初心は忘れてはならない」
体調が良くないのもあり、少し早めに寝たら、午前3時に起きた。そして眠れないので、こういうときはせっかくなので、書こう。
ふと、イヌジン氏という方のブログを見つけた。
・幸せの、ありか。
・「書くこと」なんて、手段でしかない。
面白かった。そうそう、(上から目線をいつものごとく承知で書けば)こういうブログ氏を求めていたのである。
中々こういった面白い語り口で面白いことを(続けて)書き綴っている人に出会えないものだが、これはブクマ決定だな。
先日、面白そうだけど、ちょっと惜しいな、というのは、1行目で大体わかる、と書いたけれども、やっぱり、「分かる」。
で、2、3記事読んでみれば、確信へと変わるもんだなと、そう思った。
広い意味でのきっと「トラックバック」的な機能があるんだと思う。
僕は今、上のように「リンク」を貼ったわけだけれども、トラックバックは、「強制的に相互リンク」的な感じだ。要は相手の記事にも、自分が関連する記事を書いたことが通知されるのだ。
この機能によって、関連した人の輪が広がっていく、そんな感じ。
イヌジン氏は結婚されており、お子さんもいて、40代ぐらいということで、自分とは全然環境が違うけれども、でも、(上から目線(以下ry))「参考になる」気がするのである。
だったら、そうした人たちとの繋がりを、このインターネットという世界で広げていくというのも、僕の欲求ベースで面白そうだな、と、そう思ったのである。
コメントだ。
上にあげた二つの記事ではないが、「バズッた」(いっぱいブックマークとかイイネされている)記事において、「つまらないコメント」がたくさんついていたのを見て、僕は、今のこの忍者ブログでいいなと思った。
もちろん、機能的に忍者ブログだってコメントぐらいはあるので、同じような、「つまらないコメント」が大量になることだってありえるだろう。
だから、要は、「そうした人たちとの繋がりを、このインターネットという世界で広げていく」ということをやめようと思った、ということだ。
面白そうな試みだ。
いま、未来(ここ数年だろう)に不安要素を感じて身の振り方を考えている僕にとって、一つ、「楽しいと思える場づくり」に寄与するんじゃないかと、思った。
でも、それは、きっと眠れない夜の、寝ぼけた考えなのである。
忍者ブログは忍者ブログ的に、お忍びでよいのだ。
批判コメントを恐れている気持ちの小さい人間だって?
うん、それはそうだと思う。
ただ、それだけじゃない。そもそも、「マイナー」である人間だってことは、先日――いつだっけなぁの記事から、もう認めていいんじゃないかと、いくつか書いていた気がする。
多くの人に共感的なことを、僕はたぶん書けないんだろうから、多くの人に読まれるようになれば、批判的なコメントも多くなるだろうことは分かっているのである。
だが、そんなことの確認をするために、わざわざ多くの人に読んでもらう必要があるのか。
僕は今はないと思っている。
40代になれば変わるかもしれない。それは分からない、普遍ではなかろう。
でも今は、ない。
そうだ、僕が「書く」ことを必要としているのは、「あるべき人間像」的なサムシングと、僕の「自己」との境界を明確にする必要があるからなのだ。
このブログを読んだ人たちは、おそらく、僕のことを変人だと疑わないだろうが、自分で言うと嘘くさいが、でも、「社会的」には、意外とまともに思われているのである。これは、自尊でも傲慢でもないし、そのことが嬉しいかといわれると、別にそうでもない。当然だ、誰しも「自己」として生きたいし、生きるべきだ。
でもそれは、ある意味、「意識的に」やっていることである。――もちろん、この意識的というのは、毎回毎秒考えて行動しているという意味ではない。
それと、ある精神科医氏のブログでも述べられていて、僕もそう思うが、道徳、様式、マナーなんてものはくだらないが、しかし、それすら一定の基準を満たせない人は損をする、ということだ。――ここで、「くだらない」と書いたが、当然「価値」はあるのであって、でも僕の本心的なサムシングにおいては、「くだらない」という表現が適切だと思ったから、そう書いただけだ。だが、「バズった」状態になると、そういう一つ一つの表現に対しての不快感を抑えられなくて、攻撃的になる人が必ずいる。これはインターネットだけでなく、現実でも当然そうであり、だからこそ、マナー的なのが大事なのだ。
という、上の段落のような感覚が僕にはあるので、だからブログ(書くこと)が必要なのである。
上の段落のようなことは、真綿で首を絞められるようにじわじわと、でも確実に心が蝕まれていく。自己が侵食されていくようである。エヴァの使途の精神攻撃的な奴だ。
まぁだから結論として、このまま現状維持しますよ、という記事となる。
ただ、「そうした人たちとの繋がりを、このインターネットという世界で広げていく」というのも悪いことではないと思っているので、それはそれで、カクヨムとかNOTEとか、別の方向で模索していくとしよう。
(かっこ書きである。イヌジン氏の記事、ほとんど関係ないやん、という記事になった。いや、書かれて述べられていることは、もちろん100%ではないが、納得したり感心したりを多くしたのである。ただ、それは特に、僕が書こうという気にはならないだけだ。コメントってそういう性質かもしれない。つまり、「違う」と思ったことを人は書きたいと思うということだ。ただ、僕はそれとはちょっと違う。「違う」ことはとても多くあるので、いちいち目くじらを立てたくならない。むしろ「共感」したことを書きたい。これには表現が難しいところがあって、以前とある友人との会話の中で、「会話に共感しか求めてないなんてつまらねえな」と友人がおっしゃっていたが、僕はそれに「いや、大半の人は共感を欲しているはずだ」といって議論になった。そこで僕がいった「共感」と、僕が前に書いた「共感」は違うのだ。難しい。分かりづらい。カタルシス、という意味ではないのだ。いや、その意味もあるんだろうけれども、「そう! そうだよ! だからね、僕はこう思うんだ」的な感じなのである(あいまい)。ああ、そんなことを書いていて少し思った。未来が不安だなぁと書いたのは、それが、当然新しいプロジェクトだということはあるが、まぁそれは今までもそうだったし、まぁそんなものだろうなという気もするが、それだけじゃなくて、「多くの人を説得する必要がある」という内容が多く含まれている、ということが気を病んでいる面がある。僕は新しく資料なりツールなりフローなり作ることは好きであり、それを説明したり使ってもらったりするのも好きである。ただそれは、人の「欲求」がある程度方向づけられている場合においてである。興味のない人に興味をもたせるとか、反対意見の人を説得するとかは、好きじゃないのである。反対意見というのがそもそも大嫌いだ。反対するんじゃなくて、「じゃあどうすべきか」をもってもらいたい。原発も、辺野古移設も反対したほうがいいのかもしれない(すぐさま書いておけば、僕はそれらを述べるだけの知識も見解もない)。だが、事実、そうした「問題」「課題」は発生しているのだから、単に「反対」しただけでは、問題等は何も解決しないはずなのだ。もちろん、既得権益的なサムシングにおいて、実はその問題自体がねつ造された可能性を疑い続ける必要は大事だが、それはそれで、そういった「指摘」でなければいけない。――ということは、まぁみんなきっと分かっているんだろう。本当に感情的に「反対」する人なんて、実は少数なんじゃないかっても思う。野党が与党に対して攻勢を強めているのに支持率が下がらないことで攻めあぐねているといったニュースをみたが、そりゃあ、野党側が明確な代案を示していないからじゃあなかろうか。やれ責任だ、辞めろ、とかしか言ってない気がする(ニュース的な印象だけだ。きっとちゃんと調べれば、いいことたくさん言ってるんだろうと思う。だが、問題はそこじゃなくて、要は、多くのお忙しい方々は、政治のそういったなんちゃらに時間を十分に避けないということである。だからこそ、そこでこそ、マスメディアがしっかり頑張らなくてはいけなくて、それは、偏向報道せよということではなくて、問題の本質と、それに関する解決策が与党側はこうしようとしていて、野党側はこうしようとしていて、それぞれの支持母体はこういう人たちで、それぞれの案を採用した時のメリットはこうで、デメリットはこうあって――ということの整理である。そういった整理をもとに、国民が判断していく、それが間接民主政治(ちょっと使い方違うだろう)だ。当たり前のことだと思う。まぁもっとも、今の書いたことはきれいごとであって、森羅万象全部整理なんかしきれないし、そこに偏向的な何かが含まれる可能性だって永遠に否定できない。だからこそ、いずれは絶対に「信頼」という概念が立ち現れてくる。であるからにして、その「信頼」を崩すようなこと(例えば統計の不正)は許されない、ということは分かる。そういう意味で、批判はいったんはすべきであるが、要は「行動」であって、どう改善すべきかという点だ――って、かっこ書きの方が長くなる場合があるのは、これは何故なのか)
前書き
眠れない夜に書く記事。体調が良くないのもあり、少し早めに寝たら、午前3時に起きた。そして眠れないので、こういうときはせっかくなので、書こう。
ふと、イヌジン氏という方のブログを見つけた。
・幸せの、ありか。
・「書くこと」なんて、手段でしかない。
面白かった。そうそう、(上から目線をいつものごとく承知で書けば)こういうブログ氏を求めていたのである。
中々こういった面白い語り口で面白いことを(続けて)書き綴っている人に出会えないものだが、これはブクマ決定だな。
先日、面白そうだけど、ちょっと惜しいな、というのは、1行目で大体わかる、と書いたけれども、やっぱり、「分かる」。
で、2、3記事読んでみれば、確信へと変わるもんだなと、そう思った。
はてなブログ面白そうだ
そいで、はてなブログというものを、僕も登録したことはあるけれども、やっぱり、ブックマーク機能というのは面白いなと思った。広い意味でのきっと「トラックバック」的な機能があるんだと思う。
僕は今、上のように「リンク」を貼ったわけだけれども、トラックバックは、「強制的に相互リンク」的な感じだ。要は相手の記事にも、自分が関連する記事を書いたことが通知されるのだ。
この機能によって、関連した人の輪が広がっていく、そんな感じ。
イヌジン氏は結婚されており、お子さんもいて、40代ぐらいということで、自分とは全然環境が違うけれども、でも、(上から目線(以下ry))「参考になる」気がするのである。
だったら、そうした人たちとの繋がりを、このインターネットという世界で広げていくというのも、僕の欲求ベースで面白そうだな、と、そう思ったのである。
でもやめた、という記事
でも、ある機能というか、内容を見て、僕はやっぱりやめようと思った。コメントだ。
上にあげた二つの記事ではないが、「バズッた」(いっぱいブックマークとかイイネされている)記事において、「つまらないコメント」がたくさんついていたのを見て、僕は、今のこの忍者ブログでいいなと思った。
もちろん、機能的に忍者ブログだってコメントぐらいはあるので、同じような、「つまらないコメント」が大量になることだってありえるだろう。
だから、要は、「そうした人たちとの繋がりを、このインターネットという世界で広げていく」ということをやめようと思った、ということだ。
面白そうな試みだ。
いま、未来(ここ数年だろう)に不安要素を感じて身の振り方を考えている僕にとって、一つ、「楽しいと思える場づくり」に寄与するんじゃないかと、思った。
でも、それは、きっと眠れない夜の、寝ぼけた考えなのである。
忍者ブログは忍者ブログ的に、お忍びでよいのだ。
批判コメントを恐れている気持ちの小さい人間だって?
うん、それはそうだと思う。
ただ、それだけじゃない。そもそも、「マイナー」である人間だってことは、先日――いつだっけなぁの記事から、もう認めていいんじゃないかと、いくつか書いていた気がする。
多くの人に共感的なことを、僕はたぶん書けないんだろうから、多くの人に読まれるようになれば、批判的なコメントも多くなるだろうことは分かっているのである。
だが、そんなことの確認をするために、わざわざ多くの人に読んでもらう必要があるのか。
僕は今はないと思っている。
40代になれば変わるかもしれない。それは分からない、普遍ではなかろう。
でも今は、ない。
「現実」との輪郭
むしろ、だからこそ、良い。そうだ、僕が「書く」ことを必要としているのは、「あるべき人間像」的なサムシングと、僕の「自己」との境界を明確にする必要があるからなのだ。
このブログを読んだ人たちは、おそらく、僕のことを変人だと疑わないだろうが、自分で言うと嘘くさいが、でも、「社会的」には、意外とまともに思われているのである。これは、自尊でも傲慢でもないし、そのことが嬉しいかといわれると、別にそうでもない。当然だ、誰しも「自己」として生きたいし、生きるべきだ。
でもそれは、ある意味、「意識的に」やっていることである。――もちろん、この意識的というのは、毎回毎秒考えて行動しているという意味ではない。
それと、ある精神科医氏のブログでも述べられていて、僕もそう思うが、道徳、様式、マナーなんてものはくだらないが、しかし、それすら一定の基準を満たせない人は損をする、ということだ。――ここで、「くだらない」と書いたが、当然「価値」はあるのであって、でも僕の本心的なサムシングにおいては、「くだらない」という表現が適切だと思ったから、そう書いただけだ。だが、「バズった」状態になると、そういう一つ一つの表現に対しての不快感を抑えられなくて、攻撃的になる人が必ずいる。これはインターネットだけでなく、現実でも当然そうであり、だからこそ、マナー的なのが大事なのだ。
という、上の段落のような感覚が僕にはあるので、だからブログ(書くこと)が必要なのである。
上の段落のようなことは、真綿で首を絞められるようにじわじわと、でも確実に心が蝕まれていく。自己が侵食されていくようである。エヴァの使途の精神攻撃的な奴だ。
まぁだから結論として、このまま現状維持しますよ、という記事となる。
ただ、「そうした人たちとの繋がりを、このインターネットという世界で広げていく」というのも悪いことではないと思っているので、それはそれで、カクヨムとかNOTEとか、別の方向で模索していくとしよう。
(かっこ書きである。イヌジン氏の記事、ほとんど関係ないやん、という記事になった。いや、書かれて述べられていることは、もちろん100%ではないが、納得したり感心したりを多くしたのである。ただ、それは特に、僕が書こうという気にはならないだけだ。コメントってそういう性質かもしれない。つまり、「違う」と思ったことを人は書きたいと思うということだ。ただ、僕はそれとはちょっと違う。「違う」ことはとても多くあるので、いちいち目くじらを立てたくならない。むしろ「共感」したことを書きたい。これには表現が難しいところがあって、以前とある友人との会話の中で、「会話に共感しか求めてないなんてつまらねえな」と友人がおっしゃっていたが、僕はそれに「いや、大半の人は共感を欲しているはずだ」といって議論になった。そこで僕がいった「共感」と、僕が前に書いた「共感」は違うのだ。難しい。分かりづらい。カタルシス、という意味ではないのだ。いや、その意味もあるんだろうけれども、「そう! そうだよ! だからね、僕はこう思うんだ」的な感じなのである(あいまい)。ああ、そんなことを書いていて少し思った。未来が不安だなぁと書いたのは、それが、当然新しいプロジェクトだということはあるが、まぁそれは今までもそうだったし、まぁそんなものだろうなという気もするが、それだけじゃなくて、「多くの人を説得する必要がある」という内容が多く含まれている、ということが気を病んでいる面がある。僕は新しく資料なりツールなりフローなり作ることは好きであり、それを説明したり使ってもらったりするのも好きである。ただそれは、人の「欲求」がある程度方向づけられている場合においてである。興味のない人に興味をもたせるとか、反対意見の人を説得するとかは、好きじゃないのである。反対意見というのがそもそも大嫌いだ。反対するんじゃなくて、「じゃあどうすべきか」をもってもらいたい。原発も、辺野古移設も反対したほうがいいのかもしれない(すぐさま書いておけば、僕はそれらを述べるだけの知識も見解もない)。だが、事実、そうした「問題」「課題」は発生しているのだから、単に「反対」しただけでは、問題等は何も解決しないはずなのだ。もちろん、既得権益的なサムシングにおいて、実はその問題自体がねつ造された可能性を疑い続ける必要は大事だが、それはそれで、そういった「指摘」でなければいけない。――ということは、まぁみんなきっと分かっているんだろう。本当に感情的に「反対」する人なんて、実は少数なんじゃないかっても思う。野党が与党に対して攻勢を強めているのに支持率が下がらないことで攻めあぐねているといったニュースをみたが、そりゃあ、野党側が明確な代案を示していないからじゃあなかろうか。やれ責任だ、辞めろ、とかしか言ってない気がする(ニュース的な印象だけだ。きっとちゃんと調べれば、いいことたくさん言ってるんだろうと思う。だが、問題はそこじゃなくて、要は、多くのお忙しい方々は、政治のそういったなんちゃらに時間を十分に避けないということである。だからこそ、そこでこそ、マスメディアがしっかり頑張らなくてはいけなくて、それは、偏向報道せよということではなくて、問題の本質と、それに関する解決策が与党側はこうしようとしていて、野党側はこうしようとしていて、それぞれの支持母体はこういう人たちで、それぞれの案を採用した時のメリットはこうで、デメリットはこうあって――ということの整理である。そういった整理をもとに、国民が判断していく、それが間接民主政治(ちょっと使い方違うだろう)だ。当たり前のことだと思う。まぁもっとも、今の書いたことはきれいごとであって、森羅万象全部整理なんかしきれないし、そこに偏向的な何かが含まれる可能性だって永遠に否定できない。だからこそ、いずれは絶対に「信頼」という概念が立ち現れてくる。であるからにして、その「信頼」を崩すようなこと(例えば統計の不正)は許されない、ということは分かる。そういう意味で、批判はいったんはすべきであるが、要は「行動」であって、どう改善すべきかという点だ――って、かっこ書きの方が長くなる場合があるのは、これは何故なのか)
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今日の一言「定期更新だ」「土曜日じゃなかったの?」
あと、文字が、ブラウザの100%拡大率で、12ポンド? 以上ないと、見づらい。あと、文字の間隔が、せめて、0.5文字分ぐらいは空いていて欲しい。もしくは、適切な段落分けをして欲しい。
と、他者のブログにケチをつけられるほどのことを書けるわけでもないが、大事なことだと思う。いや、字間が詰まっていても、1画面に収まるぐらいなら「読もう」という気持ちにもなるんだけどね。
あーその、なんだ、あと、やっぱり、ブログという形態をもつならば、その人はどんな人なのかという前情報(バックストーリー)は欲しい。それは、もちろん、男女という別がどうこうという属性的なことではない。そのブログがもつ「テーマ性」に関連する情報は必要だということだ。
例えば、「婚活」のブログだとしたときに、それは、男の書き手なのか、女なのかは重要情報だ。一方、アウトドアに関するブログだったら、男女はさほど重要ではない。逆に、「女性がアウトドアを始める際の注意点!」とかって内容なら、書き手がどっちだろうかというのはやや重要性がある――が、さほど重要ではあるまい。女性に対してのエクササイズのコーチが、男性であっても構わないように。
さて、今回の記事だが、前回の臨時記事を受けて少し何か書こうかと思う。
前回の記事は、ぼく個人的な「転機」が訪れそうな予感、前触れ的な奴と、体調がすこぶるよくないということであった。
時間にして、5時間13分47秒。
後半は、喉を傷めながらでつらかったが、何とか、当初目標の2月中というのは達成だ。ぱちぱち、拍手。
ちょうど、2月1日の記事から開始したことが分かる。
なんかいいね、こういう使い方をすると、「ブログを活用している」感があってよい。
当初は2月末まで、というところだったので、予定より4日ぐらいは早く終わったことになる。
振り返ると、やはり、前半はハイペースで、後半のモチベーションの下がり具合が厳しかった。平日はやはり10分~1時間使えたらよいほうだった。メインは土日で進めたが、土日が使えない場合もあって、「間に合わんじゃないか」と思ったりもしたが、今週で頑張れた。
音読は、脳の使用部位も多く活性化しやすく、かつ録音されたものを通勤通学で聞き返すこともでき、かつ目に見える勉強した時間が記録されるという良いことが多い。あと、誰にでも簡単に取り組めるし、難しい問題を考えて結局ノートが白紙とか、暗記した割に次の日にたくさん忘れていてモチベーションが下がったりとかいったこともないので、非常に有効な手段だ。付加要素として、意識すれば発声練習や、プレゼン力向上にもなる。ダイエットにもなるかもしれない。
デメリットは、家で、一人でいるときしかできないことと、意外に体力と喉を使うことだ。誰にでも簡単にできるが、長時間やるとなると、ある程度慣れが必要だ。初めのうちは5分といわずに、1分でもいいから、毎日実践するようにして、体を慣れさせるといい。
そして、今回の記事は、一冊読み終えて、どれだけアウトプットできるか試してみようと思う。
物語とは何か。人生もまた、一つの大きな物語といえるけれども、ここでは、フィクションのこと、創作物のことに限定しようか。
前掲書は、その物語を作るにあたって大切なことが6つある――そういう本である。
僕のサイトでも、感想や批評をするときに、6つの要素を指標にしている。これは、その作品の要素のバランスを考えるうえで役立つからだ。
僕のサイトでは、
・ストーリー
・人物描写
・キャラクター
・風景描写
・ウィット
・感動
・リアリティ
を指標にしている――あれやべぇ、6つじゃなくて7つだった(にがわらい)。
対して『工学的ストーリー創作入門』においては、
・コンセプト
・人物
・テーマ
・構成
・シーンの展開
・文体
の6つである。
言葉が異なっているが、一致している部分もあるので少し整理する。エクセルであれば、表にしたいところだが、文章ですまない。
【本】――【俺】
・コンセプト ――感動・リアリティ
・人物 ――人物描写・キャラクター
・テーマ ――ウィット
・構成 ――ストーリー・リアリティ
・シーンの展開――ストーリー
・文体 ――人物描写・風景描写
こんな感じだ。つまり、重複しているが、一応、網羅性はある状態。
まず、僕が反省すべきは、「ストーリー」という言葉を、僕は、「構成」という意味で使っていたことである。「物語の流れ」という意味で使っていた。
一方で、前掲書では、ストーリーはあくまで、物語全体を示す用語としてあって、構成は別に「構成」という表現をしている。
さらに特筆すべきは、「構成」をさらに、「シーンの展開」として階層化している点である。
いわゆる、「起承転結」というのは、あくまで「構成」レベル――「プロット」「骨格」ともいわれる段階――であり、それはあくまで建造物の「設計図」状態だ。
その設計図から、実際の建物を資材を用いて建てていくのが、「シーン」であり、「文体」だということだ。
しかしすぐさま書いておけば、絶対ダメというわけでもなければ、プロでその方法で書いている人もいるということだ。
ただ、パンツァーは熟練工の失われし技術のようであり、素人がやろうとしても、まず物語は完成しないのだということだ。理由はいろいろ述べられていて、僕は納得した。
対して、パンツァーでないやり方とは、6つの要素をしっかりと考えたうえで書き始める方法だということだ。
その、6つがないままに書き始めてはいけない。そうすると、途中で大幅に書き直す羽目になったり、そもそも完結に至らなくなったりするということだ。界隈でいわれるエターナルってやつになるのだ。
もう少し具体的に書けば、6つのうち、
・コンセプト
・人物
・テーマ
・構成
これははっきりさせておいた方がいいということだった。
僕はさらに、「テーマ」は少し優先度を下げてもいいかなと思った。というのは、「売れる」作品には確かに「テーマ」は必要だろうが、趣味的要素が高い場合――と書くと失言を免れないが、要は「俺が書きたい物語を書きたいのだ」という目的を第一主眼にする場合は、あえてテーマを優先させなくてもいいだろうと思ったからだ。逆にその、「俺が表現したいんだ!」という思いがそのままテーマかもしれない。
それではさっそく、その要素一つずつについて、書いてあったことと僕が思ったことを書いていきたい……といった時点で、すでに3000字に到達しようとしており、やや疲れてきた。
まぁそのなんだ、今書いてきたことは、ほぼ一か月前に読んだ冒頭の方の内容で、すでに忘却の彼方かと思っていたが、意外に覚えていることは分かった。これが音読(かつ、リーディング(ウォークマンでの流し聞き))の効果だともいえる。そんな、「覚えるぞっ!!」という意気込みなくて、仕事から帰ってきてイヤイヤ、「あーめんどくせー」と思いながらやっても、半分寝ながら聞いていたとしても、ある程度残るものがあるのである。この、モチベーションに反した効果があるという意味で、音読は中々いい方法なのだ。見て、聞いて、書いて、発声して、と、インプットもアウトプットも総動員することが大事なのだ。――と、本の内容よりも音読の効果をうたっている記事になってしまった。
(かっこ書きである。役に立つかもコーナーはお休みした。ストーリーは、コンセプト、人物、テーマ、構成、シーン展開、文体、の6つの要素で出来上がっている、ということがお役立ちポイントとしておこう。まぁその、アウトラインをきめてから書くということを毛嫌いする人も多いだろう。創作なのに形式ばっていいのか! と。かくいう僕も、このブログを、起承転結しっかり型に当てはめて書きなさい、その方が多くの方に読んでもらえて成功しますよ、と言われたら、「うっせーばーかばーか」と低脳になるだろう。ただ、知識として知っておいて損はないと思ったし、自由に書きつつ、その理想形に近づけていくことを念頭においてもいいかもしれない。何より、編集者的な人たちがどういった基準をもっているのか知ることは、出版を目指すにあたって重要であることは間違いなかろう。編集者という仕事が、いったいどういった評価がなされているか僕は知る由はないが、しかし、「仕事」とするのであれば、必ず「効率」が付きまとう。僕は、「効率を追求する」という言葉に生理的嫌悪があるが、しかし、本当の意味での効率は当然追求すべきだと思う。表面的な知識や技術を継承しただけで現場業務を回して、人員削減しようという方策は、短期的には効率的だろうが、リスクに弱い。それは本当の効率化なのだろうか。効率と「ゆとり」は、両輪として重要だと思う。まぁその、ゆとりと「さぼり」の境界もあいまいだし、難しい。そう、難しいのだ。難しいからこそ、「6つの要素」とか、まずは基準が必要だ。その基準がつまらないものと思うかもしれない。その感覚は重要だ。だが、つまらないから、「なくてもいい」ものではない。つまらないと思ったら、別の軸――仮説を立てなければならない。それは結構労力だ、だが、同時に楽しいことでもある。楽しいと思えない人は、前例の基準を、ひたむきに守ろうとするだろう。それはそれで、ある程度成功する。なにせ、先人が長らく考え作り出した基準なのだから、エッセンスがつまっている。だが、だからといって、無批判に、自己の思考なくその基準を守るだけであれば、いずれ頽廃する。現状維持とは、漸近的な成長のことであるということに気づかなければいけない。――あーなんか、偉そうなこと書いたけど、カッコ書き内だから許されるはずだ(こんきょなし)。でも、なんかまさに今思いついた「現状維持とは漸近的な成長である」って言葉は、なんか自画自賛したい。けど、明日読んだら赤面する気もする。おもしろき、いとおもしろき)
前書き
なんか、いいこと書いてありそうなブログさんを見つけても、それが、「どこが君の意見で、どこが引用なんだい?」というのが、一行目で分からないと、ちょっと残念感が漂う。あと、文字が、ブラウザの100%拡大率で、12ポンド? 以上ないと、見づらい。あと、文字の間隔が、せめて、0.5文字分ぐらいは空いていて欲しい。もしくは、適切な段落分けをして欲しい。
と、他者のブログにケチをつけられるほどのことを書けるわけでもないが、大事なことだと思う。いや、字間が詰まっていても、1画面に収まるぐらいなら「読もう」という気持ちにもなるんだけどね。
あーその、なんだ、あと、やっぱり、ブログという形態をもつならば、その人はどんな人なのかという前情報(バックストーリー)は欲しい。それは、もちろん、男女という別がどうこうという属性的なことではない。そのブログがもつ「テーマ性」に関連する情報は必要だということだ。
例えば、「婚活」のブログだとしたときに、それは、男の書き手なのか、女なのかは重要情報だ。一方、アウトドアに関するブログだったら、男女はさほど重要ではない。逆に、「女性がアウトドアを始める際の注意点!」とかって内容なら、書き手がどっちだろうかというのはやや重要性がある――が、さほど重要ではあるまい。女性に対してのエクササイズのコーチが、男性であっても構わないように。
さて、今回の記事だが、前回の臨時記事を受けて少し何か書こうかと思う。
前回の記事は、ぼく個人的な「転機」が訪れそうな予感、前触れ的な奴と、体調がすこぶるよくないということであった。
音読目標達成
『工学的ストーリー創作入門』の音読が終わった。約314ページ。時間にして、5時間13分47秒。
後半は、喉を傷めながらでつらかったが、何とか、当初目標の2月中というのは達成だ。ぱちぱち、拍手。
ちょうど、2月1日の記事から開始したことが分かる。
なんかいいね、こういう使い方をすると、「ブログを活用している」感があってよい。
当初は2月末まで、というところだったので、予定より4日ぐらいは早く終わったことになる。
振り返ると、やはり、前半はハイペースで、後半のモチベーションの下がり具合が厳しかった。平日はやはり10分~1時間使えたらよいほうだった。メインは土日で進めたが、土日が使えない場合もあって、「間に合わんじゃないか」と思ったりもしたが、今週で頑張れた。
音読は、脳の使用部位も多く活性化しやすく、かつ録音されたものを通勤通学で聞き返すこともでき、かつ目に見える勉強した時間が記録されるという良いことが多い。あと、誰にでも簡単に取り組めるし、難しい問題を考えて結局ノートが白紙とか、暗記した割に次の日にたくさん忘れていてモチベーションが下がったりとかいったこともないので、非常に有効な手段だ。付加要素として、意識すれば発声練習や、プレゼン力向上にもなる。ダイエットにもなるかもしれない。
デメリットは、家で、一人でいるときしかできないことと、意外に体力と喉を使うことだ。誰にでも簡単にできるが、長時間やるとなると、ある程度慣れが必要だ。初めのうちは5分といわずに、1分でもいいから、毎日実践するようにして、体を慣れさせるといい。
そして、今回の記事は、一冊読み終えて、どれだけアウトプットできるか試してみようと思う。
6つのコア要素
まず、ストーリーとは何か。ストーリーと、物語は同義だ。物語とは何か。人生もまた、一つの大きな物語といえるけれども、ここでは、フィクションのこと、創作物のことに限定しようか。
前掲書は、その物語を作るにあたって大切なことが6つある――そういう本である。
僕のサイトでも、感想や批評をするときに、6つの要素を指標にしている。これは、その作品の要素のバランスを考えるうえで役立つからだ。
僕のサイトでは、
・ストーリー
・人物描写
・キャラクター
・風景描写
・ウィット
・感動
・リアリティ
を指標にしている――あれやべぇ、6つじゃなくて7つだった(にがわらい)。
対して『工学的ストーリー創作入門』においては、
・コンセプト
・人物
・テーマ
・構成
・シーンの展開
・文体
の6つである。
言葉が異なっているが、一致している部分もあるので少し整理する。エクセルであれば、表にしたいところだが、文章ですまない。
【本】――【俺】
・コンセプト ――感動・リアリティ
・人物 ――人物描写・キャラクター
・テーマ ――ウィット
・構成 ――ストーリー・リアリティ
・シーンの展開――ストーリー
・文体 ――人物描写・風景描写
こんな感じだ。つまり、重複しているが、一応、網羅性はある状態。
まず、僕が反省すべきは、「ストーリー」という言葉を、僕は、「構成」という意味で使っていたことである。「物語の流れ」という意味で使っていた。
一方で、前掲書では、ストーリーはあくまで、物語全体を示す用語としてあって、構成は別に「構成」という表現をしている。
さらに特筆すべきは、「構成」をさらに、「シーンの展開」として階層化している点である。
いわゆる、「起承転結」というのは、あくまで「構成」レベル――「プロット」「骨格」ともいわれる段階――であり、それはあくまで建造物の「設計図」状態だ。
その設計図から、実際の建物を資材を用いて建てていくのが、「シーン」であり、「文体」だということだ。
パンツァー(いきなり書く人)はダメ
終始一貫して述べられているのは、パンツァーという、戦車かと思ったが、「勢いで書いちゃう人」のことをそういうとのことだが、それはよくないということであった。しかしすぐさま書いておけば、絶対ダメというわけでもなければ、プロでその方法で書いている人もいるということだ。
ただ、パンツァーは熟練工の失われし技術のようであり、素人がやろうとしても、まず物語は完成しないのだということだ。理由はいろいろ述べられていて、僕は納得した。
対して、パンツァーでないやり方とは、6つの要素をしっかりと考えたうえで書き始める方法だということだ。
その、6つがないままに書き始めてはいけない。そうすると、途中で大幅に書き直す羽目になったり、そもそも完結に至らなくなったりするということだ。界隈でいわれるエターナルってやつになるのだ。
もう少し具体的に書けば、6つのうち、
・コンセプト
・人物
・テーマ
・構成
これははっきりさせておいた方がいいということだった。
僕はさらに、「テーマ」は少し優先度を下げてもいいかなと思った。というのは、「売れる」作品には確かに「テーマ」は必要だろうが、趣味的要素が高い場合――と書くと失言を免れないが、要は「俺が書きたい物語を書きたいのだ」という目的を第一主眼にする場合は、あえてテーマを優先させなくてもいいだろうと思ったからだ。逆にその、「俺が表現したいんだ!」という思いがそのままテーマかもしれない。
それではさっそく、その要素一つずつについて、書いてあったことと僕が思ったことを書いていきたい……といった時点で、すでに3000字に到達しようとしており、やや疲れてきた。
まぁそのなんだ、今書いてきたことは、ほぼ一か月前に読んだ冒頭の方の内容で、すでに忘却の彼方かと思っていたが、意外に覚えていることは分かった。これが音読(かつ、リーディング(ウォークマンでの流し聞き))の効果だともいえる。そんな、「覚えるぞっ!!」という意気込みなくて、仕事から帰ってきてイヤイヤ、「あーめんどくせー」と思いながらやっても、半分寝ながら聞いていたとしても、ある程度残るものがあるのである。この、モチベーションに反した効果があるという意味で、音読は中々いい方法なのだ。見て、聞いて、書いて、発声して、と、インプットもアウトプットも総動員することが大事なのだ。――と、本の内容よりも音読の効果をうたっている記事になってしまった。
(かっこ書きである。役に立つかもコーナーはお休みした。ストーリーは、コンセプト、人物、テーマ、構成、シーン展開、文体、の6つの要素で出来上がっている、ということがお役立ちポイントとしておこう。まぁその、アウトラインをきめてから書くということを毛嫌いする人も多いだろう。創作なのに形式ばっていいのか! と。かくいう僕も、このブログを、起承転結しっかり型に当てはめて書きなさい、その方が多くの方に読んでもらえて成功しますよ、と言われたら、「うっせーばーかばーか」と低脳になるだろう。ただ、知識として知っておいて損はないと思ったし、自由に書きつつ、その理想形に近づけていくことを念頭においてもいいかもしれない。何より、編集者的な人たちがどういった基準をもっているのか知ることは、出版を目指すにあたって重要であることは間違いなかろう。編集者という仕事が、いったいどういった評価がなされているか僕は知る由はないが、しかし、「仕事」とするのであれば、必ず「効率」が付きまとう。僕は、「効率を追求する」という言葉に生理的嫌悪があるが、しかし、本当の意味での効率は当然追求すべきだと思う。表面的な知識や技術を継承しただけで現場業務を回して、人員削減しようという方策は、短期的には効率的だろうが、リスクに弱い。それは本当の効率化なのだろうか。効率と「ゆとり」は、両輪として重要だと思う。まぁその、ゆとりと「さぼり」の境界もあいまいだし、難しい。そう、難しいのだ。難しいからこそ、「6つの要素」とか、まずは基準が必要だ。その基準がつまらないものと思うかもしれない。その感覚は重要だ。だが、つまらないから、「なくてもいい」ものではない。つまらないと思ったら、別の軸――仮説を立てなければならない。それは結構労力だ、だが、同時に楽しいことでもある。楽しいと思えない人は、前例の基準を、ひたむきに守ろうとするだろう。それはそれで、ある程度成功する。なにせ、先人が長らく考え作り出した基準なのだから、エッセンスがつまっている。だが、だからといって、無批判に、自己の思考なくその基準を守るだけであれば、いずれ頽廃する。現状維持とは、漸近的な成長のことであるということに気づかなければいけない。――あーなんか、偉そうなこと書いたけど、カッコ書き内だから許されるはずだ(こんきょなし)。でも、なんかまさに今思いついた「現状維持とは漸近的な成長である」って言葉は、なんか自画自賛したい。けど、明日読んだら赤面する気もする。おもしろき、いとおもしろき)
今日の一言「臨時の記事だ」「体調が良くない」
これは、自らの行動で引き寄せるものもあれば、まったく無関係のところから湧いて出てくることもある。
しかし何れにせよ、どちらも、自分の身に起こったことだ。
それに対しての、反応は必ず必要になる。
逃げるか、戦うか、情報収集するか、呆然とするか、行動は複数考えられる。
何もしないということも含めて、行動になる。
さて、自分に起こった転機を、どう対処するか。
ここで、物語であれば、フックとなるようなイベントを提起するのだが、自分については、単に異動になりそうだということでしかない。
拒否する明確な理由もなければ、進んで異動先でやりたいことがあるわけでもない。
そういう意味では、与えられた機会だと考えて、進んで精いっぱいやるのがよいことだろうと思う。
思う、のだが、果たして、僕は、本当にそう思っているのだろうか。
で、まぁ、一応、成功と失敗というくだらない二分で考えれば、今のところそれぞれは動いているのだから、成功と言っていいと思う。しかしすぐさま書けば、まぁまぁ、いろいろ、大変なことも多かった。――多かった、具体的に書けることは、きっと多くない。記録を探せば思い出すかもしれないが、潜在的に刻まれた「多かった」という感覚を立証する程度ではなかろう。
でもまぁ、大変だったのだ。
それで、次も大変だろうと思われる。
いやここで、「大変」という抽象的な言葉は無意味であって、じゃあ、今の所属のままであれば大変じゃないか、といえば、それはそれで大変だろうし、とはいえ、今と比べたら、大変だろうというだけだ。そして、その「だろう」は、分からないから推測に過ぎない。実は大変じゃないかもしれない。今の所属のままのほうが大変かもしれない。分からない。誰も。
先日は、その、イライラ度が高かったから過激な言葉になっていたが、別にそんな、人類の敵だと思うほどに飲み会が嫌ではないのだ。適度に、2か月に一回ぐらいあってもいいと思う(そりゃ少ないよ、と言われるかもしれんが、まぁ僕としてはそれぐらいでいい気がする)。
ただ、要は、誰に相談したところで、結局、矢面に立つのは自分だという意識が強い。
この考え方を、そもそも、心理学とか、メンタリティとか、スピリチュアルとか、行動科学とか、その他いろいろな方法では排除しようとするんだと思う。
「自分」「自分」「自分」
ってこだわることは、百害である。
自分を捨てて、公共の精神を身に着けることが、大人であり、素晴らしい人間であり、それがひいては自分のためでもある――それは分かっている。
分かっているが、凡人として、悟りの境地はまだ遠い。
その前提において、誰かに相談して、そのアドバイスが仮に大正解だったとしても、そのアドバイスを選択し、行動するのは自分だということに変わりはない。
その正解かもしれないアドバイスを得るために、誰かとコミュニケーションをするというのは大事かもしれない。
しかし、それは、時に、選択肢を広げるだけで、余計に惑う可能性があることは忘れてはならない。
他人のせいにする人がいるかもしれない。そういう人は、ある意味幸せである。
自分の責任を放棄して、相手を攻撃することに時間を使うことができるのだ。
僕は、できない。
社会のため、家族のため、子供のため、いろいろ意味はあると思う。
必ずしも、自分の人生は、自分だけのものではないのだ。
でも、自分のものでもあるはずだ。
であれば、何か起こったことを他人のせいにして、自分は悪くないと殻にこもることを僕はよしとしない。
もちろん、その「他人」を叩き潰さなければ自分がつぶされてしまうような状況であれば別だ。それは、責任の放棄などではなく、戦闘である。戦いだ。戦わなくては勝てない。逃げるが勝ちというのもあるが、それは戦略的撤退といって、ある意味での戦いだ。
ただ、そんな戦いが発展する前に対処するのが、本来賢い生き方である。「賢い」ことが、少年漫画的には、「悪い大人」的に描かれる場合もあるが、それはミスリードである。賢いことは正しい。簡単だ、楽しいのと苦しいのはどっちがいい? 楽しいのだ。では、賢いのと愚かなのはどちらがいい? 賢いのだ。以上証明終了、だ。
いや待ってくれ、愚かなこともある意味幸せな場合がある、と?
そう、それは、僕がずっと書き続けていることの一つでもある。「知らなくてもいいことがある」というわけだ。それはそうだ。だが、もうまさに、目の前に迫った転機、機会、事象に対して、さぁもう知らなかったことにはできないのである。
擬宝珠の説明から離れたな。
――と書いてきたことで、大分もう、気持ちとしての整理はついた。
不思議なことで、特に、その異動先のこととか、具体的なサムシングは別に不要なのだ。
要は、その仕事に対して自分がどう立ち向かうかの「姿勢」の問題であり、そこで実際何をするかは、その場で、その時間で対応していくことであるのだ。逆に、今できることは、その「姿勢」の確認程度しかない。
その、予想される仕事の内容に関する関連情報を調べるとか、そこに属していた経験のある人から情報を聞くとか、体調を整えるとか、様々やるべきことはあるが、そうした個々の行動の上に立つものが、「気持ち」だと思う。
心とは、しなやかであったほうが、ストレス耐性が強いとされる。
ストレスフリーな世界が望ましいとされる現代と反するが、しかし、しなやかさという表現においては、「意志」が感じられない。
何かなそうという、強固な意志、決意。動機。
本来、そういったことを、友人や家族、同僚たちと話し合うべきなんだろうか。
しかし、しかし、しかし……。
どうにも苦手だ。何故か。弱みをさらすようなものなのか。信頼していると口では、思考では思っていても、他者という存在を身体が拒否しているのか。過去に諸々あった事柄が、雲のように曖昧模糊としながらも、じわじわと僕の身体にまとわりついているからなのか。
(かっこ書きである。ブログのエディタに、文字数チェッカーがついていたらいいな。もしくは、ワードに貼り付けながら書いたほうがよいか。まぁどちらにせよ、強制的にアプリケーションが落ちて消えてしまうということは何度も経験済みだ。小まめなバックアップが何より大事。ところで、このかっこ書きの手前までで、約3000字である。以前、1000字ぐらいにおさめたらどうか、ということをやっていた気がするが、ちょうどいいのは3000な気がする。口頭(早め)で1分で話せるのが、400字ぐらいということなので、7~8分ぐらいだろう。これを口頭で聞いたらどうか。10分を、一方的に話されたら、たいてい人はうんざりする。会話とは、おそらく、30秒~1分程度の短い内容の応酬なのだと思う。ストップウォッチ片手に今度はかってみようかな(冗談)。一方で、文章で(3000字)書くと、これも推測だが、30分~1時間程度だと思う。ということは、口頭の方が断然情報効率は良いはずなのである。が、僕はそうは思わない。そういう面もあると思うが、文章にするにはするで、「残る」という意味が大きい。それと、口頭で言ったことって、実際問題相手に伝わっていないという可能性が大いにあるだろう。「頭の回転が速い人」とかいう表現があるが、あれは、話題となる事象についての予備知識・本知識があるからである。または類縁する内容について知っているか。もちろんそれらを瞬時にカテゴライズし、発言に結び付ける能力の速さはあるだろう。しかし、どんなに頭の良い人でも、回転が速くても、門外漢の話題にそこまでの能力は発揮できない。――というのはどうでもいいか。何だろうその、新しい環境になることに対しての不安の描写だったわけだが、上手く書ききれたのだろうか、分からない。分からないが、3000字超えたら機械的に投稿しよう。きっと何かは表現できているはずだ)
前書き
転機、というのは、しばしば運命的に降りかかるものである。これは、自らの行動で引き寄せるものもあれば、まったく無関係のところから湧いて出てくることもある。
しかし何れにせよ、どちらも、自分の身に起こったことだ。
それに対しての、反応は必ず必要になる。
逃げるか、戦うか、情報収集するか、呆然とするか、行動は複数考えられる。
何もしないということも含めて、行動になる。
さて、自分に起こった転機を、どう対処するか。
ここで、物語であれば、フックとなるようなイベントを提起するのだが、自分については、単に異動になりそうだということでしかない。
拒否する明確な理由もなければ、進んで異動先でやりたいことがあるわけでもない。
そういう意味では、与えられた機会だと考えて、進んで精いっぱいやるのがよいことだろうと思う。
思う、のだが、果たして、僕は、本当にそう思っているのだろうか。
これまでを振り返って
特に転職したこともないので、キャリアなんて言葉を使うと烏滸がましいが、これまで、新規プロジェクトを任されることが多かった。多かった、と書くとまた抽象的だから、具体的には3回だと思う。3回とはいえ、それぞれ3~4年だと考えると、まぁまぁの頻度だと思う。で、まぁ、一応、成功と失敗というくだらない二分で考えれば、今のところそれぞれは動いているのだから、成功と言っていいと思う。しかしすぐさま書けば、まぁまぁ、いろいろ、大変なことも多かった。――多かった、具体的に書けることは、きっと多くない。記録を探せば思い出すかもしれないが、潜在的に刻まれた「多かった」という感覚を立証する程度ではなかろう。
でもまぁ、大変だったのだ。
それで、次も大変だろうと思われる。
いやここで、「大変」という抽象的な言葉は無意味であって、じゃあ、今の所属のままであれば大変じゃないか、といえば、それはそれで大変だろうし、とはいえ、今と比べたら、大変だろうというだけだ。そして、その「だろう」は、分からないから推測に過ぎない。実は大変じゃないかもしれない。今の所属のままのほうが大変かもしれない。分からない。誰も。
相談することの無意味性
先日の、飲み会の話に関連する。先日は、その、イライラ度が高かったから過激な言葉になっていたが、別にそんな、人類の敵だと思うほどに飲み会が嫌ではないのだ。適度に、2か月に一回ぐらいあってもいいと思う(そりゃ少ないよ、と言われるかもしれんが、まぁ僕としてはそれぐらいでいい気がする)。
ただ、要は、誰に相談したところで、結局、矢面に立つのは自分だという意識が強い。
この考え方を、そもそも、心理学とか、メンタリティとか、スピリチュアルとか、行動科学とか、その他いろいろな方法では排除しようとするんだと思う。
「自分」「自分」「自分」
ってこだわることは、百害である。
自分を捨てて、公共の精神を身に着けることが、大人であり、素晴らしい人間であり、それがひいては自分のためでもある――それは分かっている。
分かっているが、凡人として、悟りの境地はまだ遠い。
その前提において、誰かに相談して、そのアドバイスが仮に大正解だったとしても、そのアドバイスを選択し、行動するのは自分だということに変わりはない。
その正解かもしれないアドバイスを得るために、誰かとコミュニケーションをするというのは大事かもしれない。
しかし、それは、時に、選択肢を広げるだけで、余計に惑う可能性があることは忘れてはならない。
他人のせいにする人がいるかもしれない。そういう人は、ある意味幸せである。
自分の責任を放棄して、相手を攻撃することに時間を使うことができるのだ。
僕は、できない。
自分の人生は自分のものだ
ちょっと違う、という人もいるかもしれない。社会のため、家族のため、子供のため、いろいろ意味はあると思う。
必ずしも、自分の人生は、自分だけのものではないのだ。
でも、自分のものでもあるはずだ。
であれば、何か起こったことを他人のせいにして、自分は悪くないと殻にこもることを僕はよしとしない。
もちろん、その「他人」を叩き潰さなければ自分がつぶされてしまうような状況であれば別だ。それは、責任の放棄などではなく、戦闘である。戦いだ。戦わなくては勝てない。逃げるが勝ちというのもあるが、それは戦略的撤退といって、ある意味での戦いだ。
ただ、そんな戦いが発展する前に対処するのが、本来賢い生き方である。「賢い」ことが、少年漫画的には、「悪い大人」的に描かれる場合もあるが、それはミスリードである。賢いことは正しい。簡単だ、楽しいのと苦しいのはどっちがいい? 楽しいのだ。では、賢いのと愚かなのはどちらがいい? 賢いのだ。以上証明終了、だ。
いや待ってくれ、愚かなこともある意味幸せな場合がある、と?
そう、それは、僕がずっと書き続けていることの一つでもある。「知らなくてもいいことがある」というわけだ。それはそうだ。だが、もうまさに、目の前に迫った転機、機会、事象に対して、さぁもう知らなかったことにはできないのである。
ちょっと役に立つかもコーナー
「擬宝珠」(ぎぼし)と読む。橋や寺社の柱の上に取り付けられた、先が尖った円形の装飾。木の腐食を防ぐ役割もあるらしい。金属のケースが多い。如意宝珠を模して(擬して)作られたという。如意宝珠とは、仏教における霊験を表す珠で、意のままに願いを叶える宝という意味があるという。それ自体が信仰の対象となる。仏像が手にもっていたりする、雫みたいなやつ。Fateの聖杯みたいなやつ(というのは僕の勝手な付け加え)。擬宝珠の説明から離れたな。
今後について
というわけで、この記事は、今後の自分の方策についての、感情的基盤を確立する意味になる。――と書いてきたことで、大分もう、気持ちとしての整理はついた。
不思議なことで、特に、その異動先のこととか、具体的なサムシングは別に不要なのだ。
要は、その仕事に対して自分がどう立ち向かうかの「姿勢」の問題であり、そこで実際何をするかは、その場で、その時間で対応していくことであるのだ。逆に、今できることは、その「姿勢」の確認程度しかない。
その、予想される仕事の内容に関する関連情報を調べるとか、そこに属していた経験のある人から情報を聞くとか、体調を整えるとか、様々やるべきことはあるが、そうした個々の行動の上に立つものが、「気持ち」だと思う。
心とは、しなやかであったほうが、ストレス耐性が強いとされる。
ストレスフリーな世界が望ましいとされる現代と反するが、しかし、しなやかさという表現においては、「意志」が感じられない。
何かなそうという、強固な意志、決意。動機。
本来、そういったことを、友人や家族、同僚たちと話し合うべきなんだろうか。
しかし、しかし、しかし……。
どうにも苦手だ。何故か。弱みをさらすようなものなのか。信頼していると口では、思考では思っていても、他者という存在を身体が拒否しているのか。過去に諸々あった事柄が、雲のように曖昧模糊としながらも、じわじわと僕の身体にまとわりついているからなのか。
(かっこ書きである。ブログのエディタに、文字数チェッカーがついていたらいいな。もしくは、ワードに貼り付けながら書いたほうがよいか。まぁどちらにせよ、強制的にアプリケーションが落ちて消えてしまうということは何度も経験済みだ。小まめなバックアップが何より大事。ところで、このかっこ書きの手前までで、約3000字である。以前、1000字ぐらいにおさめたらどうか、ということをやっていた気がするが、ちょうどいいのは3000な気がする。口頭(早め)で1分で話せるのが、400字ぐらいということなので、7~8分ぐらいだろう。これを口頭で聞いたらどうか。10分を、一方的に話されたら、たいてい人はうんざりする。会話とは、おそらく、30秒~1分程度の短い内容の応酬なのだと思う。ストップウォッチ片手に今度はかってみようかな(冗談)。一方で、文章で(3000字)書くと、これも推測だが、30分~1時間程度だと思う。ということは、口頭の方が断然情報効率は良いはずなのである。が、僕はそうは思わない。そういう面もあると思うが、文章にするにはするで、「残る」という意味が大きい。それと、口頭で言ったことって、実際問題相手に伝わっていないという可能性が大いにあるだろう。「頭の回転が速い人」とかいう表現があるが、あれは、話題となる事象についての予備知識・本知識があるからである。または類縁する内容について知っているか。もちろんそれらを瞬時にカテゴライズし、発言に結び付ける能力の速さはあるだろう。しかし、どんなに頭の良い人でも、回転が速くても、門外漢の話題にそこまでの能力は発揮できない。――というのはどうでもいいか。何だろうその、新しい環境になることに対しての不安の描写だったわけだが、上手く書ききれたのだろうか、分からない。分からないが、3000字超えたら機械的に投稿しよう。きっと何かは表現できているはずだ)
今日の一言「悪かった」「飲み会は有意義な面もあるが」
とかって書き始めるのが、逆噴射聡一郎氏風なのだと書いたら、フォロワーの方々に総スカン&総フルボッコにあうだろう、怖い。
きれいな文章を書きたい……そう思う面はある。ただし、文体というのは、自分の書きやすいように書いて、その結果で洗練されていくものなのだということを、最近音読ルーチンに組み入れている『工学的ストーリー創作入門』に書いてあった――のかは正直分からないが、僕はそう読み取った。
まずもって、わかりやすい文章と、きれいな文章と、ささる文章と、そもそもストーリーとは別だ。
それはともかく、このブログで追及すべきは、そのどれでもない。
この俺自身の思考の「再現性」が最も高いものが正解だ。
要するに、後から読んで、「何故」そう思ったのか、いやそもそも、「何を」思ったのか、それが分かるかどうか、そこに価値が含まれる。
誤字脱字は無いほうがよかろうが、実は、あってもなくても、伝えたいことの「伝達率」は変わらなかったりする。
そもそも、対面コミュニケーションでも、音節(しゃべってる音)が何割かは欠落しているという。完璧な言葉を頭にインプットして、それで解釈しているわけではないのだ。音は途切れ途切れなのだが、それを脳内にインプットすることで、脳内で補完しているのである。
一方、文章はそれは不可能だ。
文章の間の言外の意味、というのはあろうが、そこを限りなく正確に伝えるのは、それは芸術の域である。
であるならば、思考や感情を書き残そうと思えば、必ず、「長く」なるのである。
だから、ある程度の文章量が必要である。そう、「事実」のメモであれば、箇条書きでよいのだが、それを目的とはしていないのだ。
これは何故だろうか。
それは、飲み会が多かったからである。
何回あったかの具体的な数字は書かないが、僕は、週に2回以上あれば、多かったとこれまでも、これからも書くだろうと思う。
僕は、飲み会が好きではない。
勘違いしないように書いておかねばならないが、これは、会社の飲み会が嫌とか、知らない人との飲み会が嫌とか、そういうのではなく、飲み会自体が嫌なのである。
これは、仲の良い友人等とでもそうである。
ただ、そうはいっても、嫌でもない場合がある。
まず、時間が決まっている場合。
逆に書けば、二次会とか大嫌いである。三次会四次会とか、吐き気を催す(勘違いしないように書くが、お酒の多い少ないではない)。
まず、そもそも、何故飲み会が好きではないかというと、そもそも、人と話して愚痴を言い合うということに一切メリットを感じないことである。
これは、別に飲み会じゃなくても同じである。愚痴が好きではない、いやましてや、他者の愚痴とかものすごくどうでもよい。――いやすぐさま書けば、大事にすべき両親兄弟恋人家族等々との関係においては、あってもいいし、むしろ聞いてあげるべき場面もあるだろうが、しかし大多数の場合はどうでもいい。
――いやいや、すぐさま書けば、「愚痴」は好きである。いやむしろ、このブログ自体壮大な愚痴といえなくもない。
だが、「愚痴る」ならば、本気で愚痴って欲しい。
たかだか、数時間の飲み会で愚痴って、それで翌日すっきりする程度の話の内容なら、ぶっちゃけどうでもいい。(そもそも、それって、一人で話しててもいいんじゃないのか。「俺」である必要はあるのか。愚痴を聞いてくれるAIロボットでも早く開発されればいい(俺はどうでもいいが))。
あと、長時間他者と一緒にいると、「疲れる」。
これは、特に、「評価」が関係する相手だと加速的に疲れる。
だから、どうでもいい相手との飲み会の方が楽である。――しかし同時に、どうでもいい相手だと、そもそもどうでもいいから、その飲み会自体がどうでもいいので、やっぱり総じて飲み会は好きではないのである。
――「師よ、この魔導書の意味が分からないのですが……」「不立文字。言葉に捉われるのではなく、心で印を組むのです」とかって使う、たぶん。
「鐘楼」(しょうろう)と読む。寺院にある時を告げる鐘がある建物。
そもそも、「大変だ」「不安だ」「心配だ」など、いろいろ言う人に限って、「じゃあ、何が大変か、紙に書いてみましょう」というと、「将来」「恋愛」とか、漠然としたものしか浮かばないだろう。
漠然としているから逆に「不安」なのだろうが、そんな状況で、他者が手を指し伸ばしてくれることなんて、無い。差し伸ばして、助けられることも、無い。
だから、「相談」ということの意義が正直よく分からない孤独な人間である。
いやもちろん、相談することで、「ああ、そういう解決策もあるね」となることはあるだろう。――が、それは勘違いである。そういった方策を出してもらえるという状況自体が、本当に切羽詰まった状況ではないのだ。
本当にメンタルやられている時に、他者など何の役にも立たない、と思っている(もちろん、いつものごとく、少々過激に書いているだけだ。「何の」とか「絶対」とかっていう修飾は、真理になどなりえない。論理矛盾だ。そういう表現を使って話をする人を、僕は胡散臭いと思う)。
で、まぁそうね、イライラしていると言葉が過激になってしまうからよくない。
過激な自分を抑えなきゃいけない、って面もあって、飲み会とかが好きじゃないのかもしれない、じゃあ、全力で自分出していけばいいじゃん、というのは、それこそ絶対にダメである。
何故かというと、自分はマイノリティだからであって、そもそも、僕が少し楽しいかなと思うのは、今書いてきているような、「そもそも飲み会とかいらなくね?」といった話なのである。そんなこと言われてもみんな困るだろう。だから、表層的に楽しくする必要があるのだ――それが、つまらないのである。
じゃあ、小見出しの通り、「行かなきゃよくね?」ということだが、しかし、社会人、組織人たるもの、そうはいかない。なにせ、どんな仕事も、人と人とのかかわりあいで成り立っているのだ。
その人とは意気投合して、いろいろ話したし、楽しかった。
しかし、その人自身も、自分がマイノリティ側だと思っていたようである。いろいろ、つまらないなと思うことも多いようだ。
なので、要は、面白い人もいるのである。
だから、先ほどの、「なんの」とか「ぜったい」とかの修飾はありえない、というように、飲み会全般がつまらないかというと、まぁそういう訳でもないのである。
それに、何より、こうやってブログを書くネタが――ネタ、というよりも、もうこのムシャクシャした感じ(これを単純に「イライラ」と僕は表現しているが、これは何なんだろうか。よく分からない感覚なのである。いい表現が欲しい。焦燥感というわけでもないが、なんか落ち着かない感じ)が提供されるので、それはそれで良いかなと思っている。
しかし、もう一歩大きな視点で考えたとき、これっていらない感情のようにも思うわけだ。
人生、楽しむべきだ。
これは、中学生ぐらいに到達した哲学だが、まわりまわって、やっぱりこれは正しいと「実感」している。
その楽しいというのは、もちろん刹那的な快楽を指すわけではないが、間違っていない考え方だと思う。
それは、くだらない二項対立の、「楽しい方がよいか、苦しい方がよいか」というくだらないレベルにおいて。
それはそうと、そうした哲学的真理においていえば、その、なんか、煩わしい人間関係って必要なんだろうか。
いやいやいや、すぐさま、「そうした艱難辛苦含めて人間なんだよ」という言説や思考がふりまかれるわけだが、しかしそれはそれで思考停止ではなかろうか。
世界平和が大事だとかいっちゃうのであれば、そうした人間関係の軋轢を低減……いやむしろゼロに近づける方法を模索すべきである。
究極、人と人との関係が完全に希薄になればよい。
つまり、折衝系の業務とかは、すべて間(あいだ)にロボット(AIでも何でも呼び方は構わないが、とにかく「人」ではないもの)を介在させるとか。
要は、相手が「人」だから、感情をもつのである。
ドアに足をぶつけて、痛い思いをして、でも、ドアに何時間も延々と怒り続ける人はいるだろうか。
一方、同じ痛みでも、人がぶつかってきた場合は、それは、相手を殺したいと思うほどの強い感情が湧き出る場合もある。
人だからいけないのである。
モノが相手なら、感情は発生しない(たぶん、ね。検証も何もなく思いつきだから、反例ある研究とかあったら面白いと思う)。
であれば、感情労働的な部分に、もっとロボット的なサムシングをどんどん導入していったらいいのではないか。介護分野にロボット導入とか、まぁ実現性はともかく、よいことじゃなかろうか。外国人労働者を増やすというのも、暫定的な措置としていいのかもしれないが、根本的な解決じゃないのはすぐわかることである。
(かっこ書きである。愚痴愚痴した記事だから、強制終了。しかし、こういった、「例えば、人間と人間との関係なんて無い方がいいんじゃないか」とかって言って、「いやでもそれは――」とかって話ができると面白いと思う。仕事のあの部署の誰誰がどうこうで――とか、近所の誰それさんのお子さんがどうこうで――とか、過去に付き合った人がこうで――とか、まぁ、一秒で忘れる(かっこわらい)。あと、話題もそうだけれども、「いやでもそれは――」とかいう議論的なのができる場合も、はなっから感情論とか道徳論的に「ありえない」とかそういうスタンスでも面白くない。ストーリーである。「What If?」である。でもまぁ、いきなりそれほど親しくない人が相手で、そんな話ができるなんて、そりゃあありえないわけである。だから、飲み会って場がそもそも、非効率でしかない。まぁ、要は、楽しきゃいいんだけど。あと、そもそも口頭で話したとしても、すぐ忘れちゃうじゃん(それは俺の記憶力が悪いだけだ)。だったら、いい話とかあったら文書に残さないと、もったいないなと逆に思う。――いやまぁ、分かってるよ。こう、会話の中でスパークが起きて、新しいアイディアが沸いてとかいうのはある。でもそれって、そもそも違う分野の人とかと話さないとあんま意味ない。で、相手がかまってちゃんじゃなければ、それ相応の、自分も提供できる話題や知識がなければ意味がなかろう。マーケティングの話をされても、「へー」としかならないかもしれない。しかし、「へー」ってなってる段階では、何ら成長も発展もない。「ああ、その話はここまでは知ってるけど、こういう場合はどうなの?」とか、質問できるレベルじゃないと、会話としての意義は少ない。少ないし、話し手の方も、そうじゃなきゃ話している実感というか、手ごたえがなくてつまらないだろう。ただ独善的に語って満足できるような人は、自分のブログで発信だけしてればいいだろう。え? 俺? 僕は、まぁそうだなぁ……、とにかく、この手のモヤモヤ(むしゃくしゃ)が発生した場合は、書くこと以外に解消方法が、無い。無い、ことはよくわかった。今回、上のようなほぼ「本音」的なことも踏まえて話せた飲み会が一部であった。その飲み会はとても楽しかった。――楽しかったけれども、結局、そういったことを人に話したとしても、僕のイライラ(モヤモヤ)はナウ晴れなかったのである。で一方で、こうやって、ここまで長々と書いてきたおかげで、まぁ取り敢えず風呂にでも入るか~的な穏やかな気持ちになった、わーい)
前書き
よう、俺だ。とかって書き始めるのが、逆噴射聡一郎氏風なのだと書いたら、フォロワーの方々に総スカン&総フルボッコにあうだろう、怖い。
きれいな文章を書きたい……そう思う面はある。ただし、文体というのは、自分の書きやすいように書いて、その結果で洗練されていくものなのだということを、最近音読ルーチンに組み入れている『工学的ストーリー創作入門』に書いてあった――のかは正直分からないが、僕はそう読み取った。
まずもって、わかりやすい文章と、きれいな文章と、ささる文章と、そもそもストーリーとは別だ。
それはともかく、このブログで追及すべきは、そのどれでもない。
この俺自身の思考の「再現性」が最も高いものが正解だ。
要するに、後から読んで、「何故」そう思ったのか、いやそもそも、「何を」思ったのか、それが分かるかどうか、そこに価値が含まれる。
誤字脱字は無いほうがよかろうが、実は、あってもなくても、伝えたいことの「伝達率」は変わらなかったりする。
そもそも、対面コミュニケーションでも、音節(しゃべってる音)が何割かは欠落しているという。完璧な言葉を頭にインプットして、それで解釈しているわけではないのだ。音は途切れ途切れなのだが、それを脳内にインプットすることで、脳内で補完しているのである。
一方、文章はそれは不可能だ。
文章の間の言外の意味、というのはあろうが、そこを限りなく正確に伝えるのは、それは芸術の域である。
であるならば、思考や感情を書き残そうと思えば、必ず、「長く」なるのである。
だから、ある程度の文章量が必要である。そう、「事実」のメモであれば、箇条書きでよいのだが、それを目的とはしていないのだ。
飲み会について
さて、珍しく、一週間の振り返りを、「悪かった」と書いた。これは何故だろうか。
それは、飲み会が多かったからである。
何回あったかの具体的な数字は書かないが、僕は、週に2回以上あれば、多かったとこれまでも、これからも書くだろうと思う。
僕は、飲み会が好きではない。
勘違いしないように書いておかねばならないが、これは、会社の飲み会が嫌とか、知らない人との飲み会が嫌とか、そういうのではなく、飲み会自体が嫌なのである。
これは、仲の良い友人等とでもそうである。
ただ、そうはいっても、嫌でもない場合がある。
まず、時間が決まっている場合。
逆に書けば、二次会とか大嫌いである。三次会四次会とか、吐き気を催す(勘違いしないように書くが、お酒の多い少ないではない)。
まず、そもそも、何故飲み会が好きではないかというと、そもそも、人と話して愚痴を言い合うということに一切メリットを感じないことである。
これは、別に飲み会じゃなくても同じである。愚痴が好きではない、いやましてや、他者の愚痴とかものすごくどうでもよい。――いやすぐさま書けば、大事にすべき両親兄弟恋人家族等々との関係においては、あってもいいし、むしろ聞いてあげるべき場面もあるだろうが、しかし大多数の場合はどうでもいい。
――いやいや、すぐさま書けば、「愚痴」は好きである。いやむしろ、このブログ自体壮大な愚痴といえなくもない。
だが、「愚痴る」ならば、本気で愚痴って欲しい。
たかだか、数時間の飲み会で愚痴って、それで翌日すっきりする程度の話の内容なら、ぶっちゃけどうでもいい。(そもそも、それって、一人で話しててもいいんじゃないのか。「俺」である必要はあるのか。愚痴を聞いてくれるAIロボットでも早く開発されればいい(俺はどうでもいいが))。
あと、長時間他者と一緒にいると、「疲れる」。
これは、特に、「評価」が関係する相手だと加速的に疲れる。
だから、どうでもいい相手との飲み会の方が楽である。――しかし同時に、どうでもいい相手だと、そもそもどうでもいいから、その飲み会自体がどうでもいいので、やっぱり総じて飲み会は好きではないのである。
ちょっと役立つかもコーナー
「不立文字」(ふりゅうもんじ)と読む。禅の言葉。達磨大師が残した四聖句の一つ。経典などの文字によらず、坐禅によって真理を直接体験することが重要である、という意味。――「師よ、この魔導書の意味が分からないのですが……」「不立文字。言葉に捉われるのではなく、心で印を組むのです」とかって使う、たぶん。
「鐘楼」(しょうろう)と読む。寺院にある時を告げる鐘がある建物。
じゃあ行かなきゃいいじゃん
そんな愚痴をだな、結局自分は思って書いているのであるが、僕の価値観としては、飲み会での愚痴よりも、よほど文字にすることのほうが重要で有意義であると思う。そもそも、「大変だ」「不安だ」「心配だ」など、いろいろ言う人に限って、「じゃあ、何が大変か、紙に書いてみましょう」というと、「将来」「恋愛」とか、漠然としたものしか浮かばないだろう。
漠然としているから逆に「不安」なのだろうが、そんな状況で、他者が手を指し伸ばしてくれることなんて、無い。差し伸ばして、助けられることも、無い。
だから、「相談」ということの意義が正直よく分からない孤独な人間である。
いやもちろん、相談することで、「ああ、そういう解決策もあるね」となることはあるだろう。――が、それは勘違いである。そういった方策を出してもらえるという状況自体が、本当に切羽詰まった状況ではないのだ。
本当にメンタルやられている時に、他者など何の役にも立たない、と思っている(もちろん、いつものごとく、少々過激に書いているだけだ。「何の」とか「絶対」とかっていう修飾は、真理になどなりえない。論理矛盾だ。そういう表現を使って話をする人を、僕は胡散臭いと思う)。
で、まぁそうね、イライラしていると言葉が過激になってしまうからよくない。
過激な自分を抑えなきゃいけない、って面もあって、飲み会とかが好きじゃないのかもしれない、じゃあ、全力で自分出していけばいいじゃん、というのは、それこそ絶対にダメである。
何故かというと、自分はマイノリティだからであって、そもそも、僕が少し楽しいかなと思うのは、今書いてきているような、「そもそも飲み会とかいらなくね?」といった話なのである。そんなこと言われてもみんな困るだろう。だから、表層的に楽しくする必要があるのだ――それが、つまらないのである。
じゃあ、小見出しの通り、「行かなきゃよくね?」ということだが、しかし、社会人、組織人たるもの、そうはいかない。なにせ、どんな仕事も、人と人とのかかわりあいで成り立っているのだ。
でも良いこともあった
しかし、結果的に、今回参加した飲み会の中で、僕と同じような意見の人と出会うことができた。その人とは意気投合して、いろいろ話したし、楽しかった。
しかし、その人自身も、自分がマイノリティ側だと思っていたようである。いろいろ、つまらないなと思うことも多いようだ。
なので、要は、面白い人もいるのである。
だから、先ほどの、「なんの」とか「ぜったい」とかの修飾はありえない、というように、飲み会全般がつまらないかというと、まぁそういう訳でもないのである。
それに、何より、こうやってブログを書くネタが――ネタ、というよりも、もうこのムシャクシャした感じ(これを単純に「イライラ」と僕は表現しているが、これは何なんだろうか。よく分からない感覚なのである。いい表現が欲しい。焦燥感というわけでもないが、なんか落ち着かない感じ)が提供されるので、それはそれで良いかなと思っている。
しかし、もう一歩大きな視点で考えたとき、これっていらない感情のようにも思うわけだ。
人生、楽しむべきだ。
これは、中学生ぐらいに到達した哲学だが、まわりまわって、やっぱりこれは正しいと「実感」している。
その楽しいというのは、もちろん刹那的な快楽を指すわけではないが、間違っていない考え方だと思う。
それは、くだらない二項対立の、「楽しい方がよいか、苦しい方がよいか」というくだらないレベルにおいて。
それはそうと、そうした哲学的真理においていえば、その、なんか、煩わしい人間関係って必要なんだろうか。
いやいやいや、すぐさま、「そうした艱難辛苦含めて人間なんだよ」という言説や思考がふりまかれるわけだが、しかしそれはそれで思考停止ではなかろうか。
世界平和が大事だとかいっちゃうのであれば、そうした人間関係の軋轢を低減……いやむしろゼロに近づける方法を模索すべきである。
究極、人と人との関係が完全に希薄になればよい。
つまり、折衝系の業務とかは、すべて間(あいだ)にロボット(AIでも何でも呼び方は構わないが、とにかく「人」ではないもの)を介在させるとか。
要は、相手が「人」だから、感情をもつのである。
ドアに足をぶつけて、痛い思いをして、でも、ドアに何時間も延々と怒り続ける人はいるだろうか。
一方、同じ痛みでも、人がぶつかってきた場合は、それは、相手を殺したいと思うほどの強い感情が湧き出る場合もある。
人だからいけないのである。
モノが相手なら、感情は発生しない(たぶん、ね。検証も何もなく思いつきだから、反例ある研究とかあったら面白いと思う)。
であれば、感情労働的な部分に、もっとロボット的なサムシングをどんどん導入していったらいいのではないか。介護分野にロボット導入とか、まぁ実現性はともかく、よいことじゃなかろうか。外国人労働者を増やすというのも、暫定的な措置としていいのかもしれないが、根本的な解決じゃないのはすぐわかることである。
(かっこ書きである。愚痴愚痴した記事だから、強制終了。しかし、こういった、「例えば、人間と人間との関係なんて無い方がいいんじゃないか」とかって言って、「いやでもそれは――」とかって話ができると面白いと思う。仕事のあの部署の誰誰がどうこうで――とか、近所の誰それさんのお子さんがどうこうで――とか、過去に付き合った人がこうで――とか、まぁ、一秒で忘れる(かっこわらい)。あと、話題もそうだけれども、「いやでもそれは――」とかいう議論的なのができる場合も、はなっから感情論とか道徳論的に「ありえない」とかそういうスタンスでも面白くない。ストーリーである。「What If?」である。でもまぁ、いきなりそれほど親しくない人が相手で、そんな話ができるなんて、そりゃあありえないわけである。だから、飲み会って場がそもそも、非効率でしかない。まぁ、要は、楽しきゃいいんだけど。あと、そもそも口頭で話したとしても、すぐ忘れちゃうじゃん(それは俺の記憶力が悪いだけだ)。だったら、いい話とかあったら文書に残さないと、もったいないなと逆に思う。――いやまぁ、分かってるよ。こう、会話の中でスパークが起きて、新しいアイディアが沸いてとかいうのはある。でもそれって、そもそも違う分野の人とかと話さないとあんま意味ない。で、相手がかまってちゃんじゃなければ、それ相応の、自分も提供できる話題や知識がなければ意味がなかろう。マーケティングの話をされても、「へー」としかならないかもしれない。しかし、「へー」ってなってる段階では、何ら成長も発展もない。「ああ、その話はここまでは知ってるけど、こういう場合はどうなの?」とか、質問できるレベルじゃないと、会話としての意義は少ない。少ないし、話し手の方も、そうじゃなきゃ話している実感というか、手ごたえがなくてつまらないだろう。ただ独善的に語って満足できるような人は、自分のブログで発信だけしてればいいだろう。え? 俺? 僕は、まぁそうだなぁ……、とにかく、この手のモヤモヤ(むしゃくしゃ)が発生した場合は、書くこと以外に解消方法が、無い。無い、ことはよくわかった。今回、上のようなほぼ「本音」的なことも踏まえて話せた飲み会が一部であった。その飲み会はとても楽しかった。――楽しかったけれども、結局、そういったことを人に話したとしても、僕のイライラ(モヤモヤ)はナウ晴れなかったのである。で一方で、こうやって、ここまで長々と書いてきたおかげで、まぁ取り敢えず風呂にでも入るか~的な穏やかな気持ちになった、わーい)
今日の一言「臨時の記事だ」「今日の一言が形骸に過ぎる」
ゼロ秒思考信者(教祖信徒合わせて1名)としては、これほど書きやすい方法はない。
それはそうと、珍しく、タイトル起因の記事である。要するに、「書いておこう」と思ったことが明確な場合だ。……となると、ゼロ秒思考は大方排除されてしまうのだろうが、それは仕方がない。
だが、「新しいところに登録する」というのは、作業量的な問題なのではない。(作業としてはお手軽、1分程度だろう)
断捨離とか敢えて言葉を使うまでもなく、管理できないモノが増えていくと、それだけ生産性が落ちるのだ。在庫管理もコストになる。
だが、物理的な面(お金とか場所とか)もそうだが、それだけでなく、精神的な面も重要である。
これは、人間の、忘却という素晴らしい機能によって、ある程度解決できる問題だ。
だが、変な執着……というか、無意識レベルへのインプットも含めて考えたときに、モノが多いのはデメリットしかない。
いつか使うだろうというものは、たいてい使わない。たいてい、なので、使うときもあるかもしれない。そこが陥りやすい罠である。捨てられなくなる原因だ。
だが、人間は、有限な存在であることを、常に忘れてはならない。
一人の人間が管理できるものは、限られているのだ。だから、組織の縦割りになりがちな面を、あながち否定はできない。某国の統計不正問題に関して、国のトップがその報告資料を読んでいなかったことにがっかりだ、的な意見が議会で出されていたというニュースを見たことがあるが、そんな意見を出すことががっかりである。ばかか。そんなもんいちいち読んでられるはずがない。もちろん、そんな問題を一切把握していなかった、というのは糾弾されるべきだが、所管に任せるというのは、組織や、そもそも専門分化した現代社会において当たり前のことである。
話がそれた。
整理をする。そういう記事である。
・小説家になろう
・カクヨム
・NOTE(NEW!)
・自サイト
・メクる
・ツイッター
・ピクシブ
・ここ(ブログ)
こんなところか。
正直、パッと思いつかなかったところもある。
まぁなので、自サイトに投稿していただいた作品とか、やりとりさせて頂いた方々が、気づいたらいなくなってる、とかいうのは、全然ふつーのことだと思っている。まぁ寂しいのだけれども(笑……)。
逆に、ずっといてくれたり、「久しぶりに戻ってきました」的なのが嬉しかったりする。そういうのもあるから、続けていこうというモチベーションになる。って何だか感傷的である、主旨が違う。
であるべきだと思っている。身もふたもない。
しかし、これは、非常に「効率」が悪い活動である。
もはや、あらゆる面で、自サイトが、なろうやカクヨムやNOTEあたりに楔を打ち込むことは不可能だろう。可能であったとしても、その投資は成果に見合わないだろう。それを日本語でなんというか、不可能、というやつだ。
ブログは、何か意味があるのか(かっこ笑い)。
特にない。
いやここでいう「ない」は、商業的な意味においてだ。
ブログで儲けようなんてのは微塵にない。むしろ何年か前に、カウンターとかも広告が邪魔になってきたので外したぐらいだ。だからそもそも、このブログ、一般PV的にあるのか分からない……いやないだろう多分。
でも、どうなのか、とも思う。
どうせだったら、もう少し、いままでどおり気軽に記事投稿して、それでいてちょっとたまにはフィードバックがあったりするなんてそんなことを淡く思ったりもする。
例えば、カクヨムで、このブログに書いた内容の抜粋推敲を載せたら、新しい方々からの反応をもらえたのである。特に肯定でも否定でもなく、僕が欲しかった反応だった。
僕は自己愛の塊なのかもしれないが、しかし、全肯定してもらいたいとか思っているわけではない。どこか一部分、欠片でも、何か誰かの参考になるようなことが書けていたら嬉しいと思うわけである。
それは、「こんな愚かな奴もいるんだな」というマウンティングの材料にしてもらってもいいとも思う。だがそういう人はどうか、愚かな奴弱者でも愛でるノブリスオブリージュを持っていただきたい。
また話がそれている。
なんかね、「浅い」と思わされるというか……。
いやその、「すごい」人のブログとかってのもあるが、それはそれで、格調が高すぎて面白くないのだ。
ちょうどいいのが中々見つからない(存在しない、とは言っていない。見つけられないだけだ、たぶん)。
だから、「面白い」記事を書ける人たちと繋がりたいという思いもあるのである。
きっといると思うのだ。
いやというか、その前に、何故、何を僕は「浅い」と思うのか、もう少し書かねばなるまい。
……おおぅ、分からない、なんなんだ、何故なんだ。
しかし同時に、ポジティブな人間である。
アンビバレンス(二律背反)が人の性質(さが)だと思っている。
最近音読に取り組んでいる『工学的ストーリー創作入門』において、「人物」とは、コンフリクト(葛藤・対立)だと書かれていた。
まぁその、現実に葛藤がない人はいるかもしれないが、ストーリーとして人の心を打つのは、やはり葛藤があるものである。(原則は。もちろん、主人公に必ずそれがあるわけでもなければ、必ず必要なわけではない)
表層的な面――すなわち、その人の言動や、癖、生活、趣味嗜好は、第一次の次元である。
たいてい、友人でも会社でも、初期の恋愛関係においても、この第一次の次元でふつー皆付き合っている。
しかし、本来人は一次元ではない。
その一次元の面を生み出している、バックストーリー(背景)がある。それは長年の経験かもしれないし、印象的な出来事、時にトラウマかもしれない。これが第二の次元だ。
せっかくなので、ブログであれば、せめて、第二次元まで触れていただきたい。
「お前はどうなんだ?」って? 僕は、そうだな、なんというか、むしろ第二次元しか書いていない気がする(かっこわらい)。心の闇みたいな(かっこわらい)。
いや、ここは難しい表現だな。愚痴をかけば、第二次元というわけじゃあない。
何でその表層的な反応が自分に現れるのか? という問いをもってしないと、面白くないということだ。
こんなことがあった→むかついた
これは、内面を描いてはいるけれども、第一次元に過ぎないと思う。表層的な反応だからだ。
そこに、「何故むかついたのか?」という「WHY」が混ぜ込められると、少し面白くなっていく。
その後、どうなるのか。どういった方向に向かっていくのか、この視点があると、さらに面白くなる。
僕の場合は、「結局みな死に向かっていくのだけれども、それでも(僕の)人生の意義とは何なのだろうか」という点である。
人が生きて、死ぬということに、何の意味もない。
当たり前だ。
意味とは、自ずからが創り出すものだからだ。
病気で苦しんでいる。
上司とそりがあわなくて心身疲弊している。
貧乏で明日が不安だ。
子供が反抗期でどう接していいか分からない。
40歳近いのに婚活がうまくいかない。
無為に生きてきてふと60歳を過ぎて虚無に襲われた。
いろんなテーマがあるだろう。
そのどれもが、実存的な苦しみである。そこに優劣もなければ、大きい小さいもない。主観において、それは絶対的である。
だが、いくら悩み苦しみがあろうが、唯一絶対普遍なのは、時間である。
その残酷な時間に対すれば、どのような悩み苦しみも霞む。
これは批判の的だろうが、「自殺」という手段だって残されているのである。「完全自殺マニュアル」は有害図書扱いのようであるが、それはそれで、救済だ。方法が述べられているだけだ。自殺の勧奨ではない。
方法の提示と実行には、隔絶たる差があるのだ。
だから――。
それゆえに、ネガティブは、ポジティブに反転せざるを得なくなる。
大事なのは、「せざるを得ない」という回りくどい表現部分である。
これが必然なのだ。
だから、僕は一元的にポジティブな人をそれほど好きではない(いや、この書き方は微妙だ。好きだよ。一緒にいるならポジティブな人の方がいいだろう、たぶん。そうではなくて、「面白いか面白くないか」という部分の話だ)し、だからといって、ネガティブ一辺倒だとそれはそれで面白くないのである。
そういうことを、二律背反(アンビバレンス)という表現をしているのだ。使い方があっているかは知らん。ただ、アンビバレンスって表現がなんかかっこいいっしょ(中二的)。
(かっこ書きである。なんか偉そうな記事になったなぁ……これ、誰宛の文章なんだ。まぁ、いつものごとく、読者の一人は、未来の「俺」である。俺はどこか、10年や、20年前の「自分」に対して語りかけている気がする。自己愛性パーソナリティ障害だ(かっこわらい)。いやまぁその、日記ってそういった面もあることはあるが、どちらかというと、未来に対しての意味がメインな気もする。もう過ぎ去った過去への言葉って、なんか意味があるのだろうか……ある、というテーマで、また一つ記事を書けそうであるのだが、なんかこうとめどない。とめどない故に、ブログを書くことはそれほど苦ではない。それこそ似たようなことは15歳ぐらいからやっていたから、もうそうするとプロフェッショナル(笑)である。いやまぁ、今こんなんになっちまったのは、それが原因じゃないかという反転すべてを無に帰すようなことも同時に浮かぶが、いやしかし、それをやめようとして、実際やめた時期も何度かあって、それもまたしばらくして結局戻ってきているのである。必然。それはそうと、本題の、創作系活動を整理するって全然できていない。よし次の定期更新で少し触れよう)
前書き
おお、この、書き初めを「前書き」とすることの効用といったら!ゼロ秒思考信者(教祖信徒合わせて1名)としては、これほど書きやすい方法はない。
それはそうと、珍しく、タイトル起因の記事である。要するに、「書いておこう」と思ったことが明確な場合だ。……となると、ゼロ秒思考は大方排除されてしまうのだろうが、それは仕方がない。
NOTEに登録した
もう昨年末あたりから、いずれ登録しようと思っていたのだが、この体たらくである。だが、「新しいところに登録する」というのは、作業量的な問題なのではない。(作業としてはお手軽、1分程度だろう)
断捨離とか敢えて言葉を使うまでもなく、管理できないモノが増えていくと、それだけ生産性が落ちるのだ。在庫管理もコストになる。
だが、物理的な面(お金とか場所とか)もそうだが、それだけでなく、精神的な面も重要である。
これは、人間の、忘却という素晴らしい機能によって、ある程度解決できる問題だ。
だが、変な執着……というか、無意識レベルへのインプットも含めて考えたときに、モノが多いのはデメリットしかない。
いつか使うだろうというものは、たいてい使わない。たいてい、なので、使うときもあるかもしれない。そこが陥りやすい罠である。捨てられなくなる原因だ。
だが、人間は、有限な存在であることを、常に忘れてはならない。
一人の人間が管理できるものは、限られているのだ。だから、組織の縦割りになりがちな面を、あながち否定はできない。某国の統計不正問題に関して、国のトップがその報告資料を読んでいなかったことにがっかりだ、的な意見が議会で出されていたというニュースを見たことがあるが、そんな意見を出すことががっかりである。ばかか。そんなもんいちいち読んでられるはずがない。もちろん、そんな問題を一切把握していなかった、というのは糾弾されるべきだが、所管に任せるというのは、組織や、そもそも専門分化した現代社会において当たり前のことである。
話がそれた。
整理をする。そういう記事である。
自分が登録しているサイト等
創作関連で、自分が登録していたり、活動しているものをまとめてみよう。・小説家になろう
・カクヨム
・NOTE(NEW!)
・自サイト
・メクる
・ツイッター
・ピクシブ
・ここ(ブログ)
こんなところか。
正直、パッと思いつかなかったところもある。
まぁなので、自サイトに投稿していただいた作品とか、やりとりさせて頂いた方々が、気づいたらいなくなってる、とかいうのは、全然ふつーのことだと思っている。まぁ寂しいのだけれども(笑……)。
逆に、ずっといてくれたり、「久しぶりに戻ってきました」的なのが嬉しかったりする。そういうのもあるから、続けていこうというモチベーションになる。って何だか感傷的である、主旨が違う。
活動の優先度
ブログ>自サイト>その他。であるべきだと思っている。身もふたもない。
しかし、これは、非常に「効率」が悪い活動である。
もはや、あらゆる面で、自サイトが、なろうやカクヨムやNOTEあたりに楔を打ち込むことは不可能だろう。可能であったとしても、その投資は成果に見合わないだろう。それを日本語でなんというか、不可能、というやつだ。
ブログは、何か意味があるのか(かっこ笑い)。
特にない。
いやここでいう「ない」は、商業的な意味においてだ。
ブログで儲けようなんてのは微塵にない。むしろ何年か前に、カウンターとかも広告が邪魔になってきたので外したぐらいだ。だからそもそも、このブログ、一般PV的にあるのか分からない……いやないだろう多分。
でも、どうなのか、とも思う。
どうせだったら、もう少し、いままでどおり気軽に記事投稿して、それでいてちょっとたまにはフィードバックがあったりするなんてそんなことを淡く思ったりもする。
例えば、カクヨムで、このブログに書いた内容の抜粋推敲を載せたら、新しい方々からの反応をもらえたのである。特に肯定でも否定でもなく、僕が欲しかった反応だった。
僕は自己愛の塊なのかもしれないが、しかし、全肯定してもらいたいとか思っているわけではない。どこか一部分、欠片でも、何か誰かの参考になるようなことが書けていたら嬉しいと思うわけである。
それは、「こんな愚かな奴もいるんだな」というマウンティングの材料にしてもらってもいいとも思う。だがそういう人はどうか、愚かな奴弱者でも愛でるノブリスオブリージュを持っていただきたい。
また話がそれている。
傲慢な気持ちもある
いや、しかし、その、書いておかねばならない醜い感情なのだが、正直、なんかこう、面白くない記事が多いのである。なんかね、「浅い」と思わされるというか……。
いやその、「すごい」人のブログとかってのもあるが、それはそれで、格調が高すぎて面白くないのだ。
ちょうどいいのが中々見つからない(存在しない、とは言っていない。見つけられないだけだ、たぶん)。
だから、「面白い」記事を書ける人たちと繋がりたいという思いもあるのである。
きっといると思うのだ。
いやというか、その前に、何故、何を僕は「浅い」と思うのか、もう少し書かねばなるまい。
……おおぅ、分からない、なんなんだ、何故なんだ。
人はみな幸せに楽しく生きるべきである
僕はネガティブな人間である。しかし同時に、ポジティブな人間である。
アンビバレンス(二律背反)が人の性質(さが)だと思っている。
最近音読に取り組んでいる『工学的ストーリー創作入門』において、「人物」とは、コンフリクト(葛藤・対立)だと書かれていた。
まぁその、現実に葛藤がない人はいるかもしれないが、ストーリーとして人の心を打つのは、やはり葛藤があるものである。(原則は。もちろん、主人公に必ずそれがあるわけでもなければ、必ず必要なわけではない)
表層的な面――すなわち、その人の言動や、癖、生活、趣味嗜好は、第一次の次元である。
たいてい、友人でも会社でも、初期の恋愛関係においても、この第一次の次元でふつー皆付き合っている。
しかし、本来人は一次元ではない。
その一次元の面を生み出している、バックストーリー(背景)がある。それは長年の経験かもしれないし、印象的な出来事、時にトラウマかもしれない。これが第二の次元だ。
せっかくなので、ブログであれば、せめて、第二次元まで触れていただきたい。
「お前はどうなんだ?」って? 僕は、そうだな、なんというか、むしろ第二次元しか書いていない気がする(かっこわらい)。心の闇みたいな(かっこわらい)。
いや、ここは難しい表現だな。愚痴をかけば、第二次元というわけじゃあない。
何でその表層的な反応が自分に現れるのか? という問いをもってしないと、面白くないということだ。
こんなことがあった→むかついた
これは、内面を描いてはいるけれども、第一次元に過ぎないと思う。表層的な反応だからだ。
そこに、「何故むかついたのか?」という「WHY」が混ぜ込められると、少し面白くなっていく。
さらに第三次元を目指せ
だがそれだけ(第二の次元)だけでも、まだ足りない。その後、どうなるのか。どういった方向に向かっていくのか、この視点があると、さらに面白くなる。
僕の場合は、「結局みな死に向かっていくのだけれども、それでも(僕の)人生の意義とは何なのだろうか」という点である。
人が生きて、死ぬということに、何の意味もない。
当たり前だ。
意味とは、自ずからが創り出すものだからだ。
病気で苦しんでいる。
上司とそりがあわなくて心身疲弊している。
貧乏で明日が不安だ。
子供が反抗期でどう接していいか分からない。
40歳近いのに婚活がうまくいかない。
無為に生きてきてふと60歳を過ぎて虚無に襲われた。
いろんなテーマがあるだろう。
そのどれもが、実存的な苦しみである。そこに優劣もなければ、大きい小さいもない。主観において、それは絶対的である。
だが、いくら悩み苦しみがあろうが、唯一絶対普遍なのは、時間である。
その残酷な時間に対すれば、どのような悩み苦しみも霞む。
これは批判の的だろうが、「自殺」という手段だって残されているのである。「完全自殺マニュアル」は有害図書扱いのようであるが、それはそれで、救済だ。方法が述べられているだけだ。自殺の勧奨ではない。
方法の提示と実行には、隔絶たる差があるのだ。
だから――。
それゆえに、ネガティブは、ポジティブに反転せざるを得なくなる。
大事なのは、「せざるを得ない」という回りくどい表現部分である。
これが必然なのだ。
だから、僕は一元的にポジティブな人をそれほど好きではない(いや、この書き方は微妙だ。好きだよ。一緒にいるならポジティブな人の方がいいだろう、たぶん。そうではなくて、「面白いか面白くないか」という部分の話だ)し、だからといって、ネガティブ一辺倒だとそれはそれで面白くないのである。
そういうことを、二律背反(アンビバレンス)という表現をしているのだ。使い方があっているかは知らん。ただ、アンビバレンスって表現がなんかかっこいいっしょ(中二的)。
(かっこ書きである。なんか偉そうな記事になったなぁ……これ、誰宛の文章なんだ。まぁ、いつものごとく、読者の一人は、未来の「俺」である。俺はどこか、10年や、20年前の「自分」に対して語りかけている気がする。自己愛性パーソナリティ障害だ(かっこわらい)。いやまぁその、日記ってそういった面もあることはあるが、どちらかというと、未来に対しての意味がメインな気もする。もう過ぎ去った過去への言葉って、なんか意味があるのだろうか……ある、というテーマで、また一つ記事を書けそうであるのだが、なんかこうとめどない。とめどない故に、ブログを書くことはそれほど苦ではない。それこそ似たようなことは15歳ぐらいからやっていたから、もうそうするとプロフェッショナル(笑)である。いやまぁ、今こんなんになっちまったのは、それが原因じゃないかという反転すべてを無に帰すようなことも同時に浮かぶが、いやしかし、それをやめようとして、実際やめた時期も何度かあって、それもまたしばらくして結局戻ってきているのである。必然。それはそうと、本題の、創作系活動を整理するって全然できていない。よし次の定期更新で少し触れよう)