今日の一言「目標達成は小さなことでも嬉しいことだ」
なんと、拍手コメントを久々に頂いた。これは取り上げねばなるまい。
最近観た作品でいけば、『インターステラー』が面白かった。
インターステラー(以下「インステ」)は、クリストファー・ノーラン監督の2014年の作品だ――とかって、レビュー記事では書かれるが、すみません、僕は「云々主演」とか「云々監督」と言われてもよく分からない。
ただ、ノーラン氏は、映画「インセプション」も手掛けたという。ああ――あの作品か、あれは面白かった、と、そういう繋がりでは記憶に残すことができる。
そして僕はふと思う。
「面白い作品教えて」
と言われて、その作品を挙げるとき、どういったことを書けば(言えば)よいのだろうか。
これは、自己紹介や、雑談においても重要な気がする。そういうことを意識して書いていきたい。
(ちなみに、いつものごとく、僕の記事は、「構成」を事前に考えたりしていない。ほぼ、僕の思考の流れがそのままトレースされている。まぁだから僕と話すと、こんな感じなんだということが分かると思う――ただ、これは、この思考の流れは、常に表に出すわけではない。基本的に「空気読む」ことが前提となる。というか、この流れになることは、対面コミュニケーションでは殆どないのではないか、とすら思う。何故ならば、コミュニケーションは、相互情報共有であるのであって、一方的に話すのは授業や講演やプレゼンだ。会話、とは異なる。ただ、本当はこういった素直な思考状態で人と会話したいとは思っている。飲み会とかでも、そういうことができる場面も、僅かかもしれないが、大人になるにつれて増やしてくることができた。しかし、プロスポーツの話とか、興味のない話はとことんつまらない。だが、それは趣味指向性の話であって、小説がつまらないと思う人に本の話題があっても楽しめないのと同じレベルであって、そこが問題なのではない。要するに、「深み」が必要だと思うのだ)
ネタバレ気にしないという人もいるが、しかし、物語のワクワク感は、「先の見えなさ」にあると思っている。
(ちなみに、拍手コメ氏が、インステを見たことあるかどうかはもちろん不明だ)
しかし、ネタバレをせずに、その作品について語るというのは、しかも興味をもってもらえるように語るというのは難しいことだろう。
だが、試みる。
序盤、は恐らく退屈だろうと思う。
ある家族(主人公たち)の生活が描かれる。地球が舞台だ。だが、現代と少し違う。文明が衰退している可能性があることが、時折のエピソードで描かれる。
自然災害等で、徐々に地球の環境が悪化していることも描かれる。それでも、「普通」の生活を過ごしている。
物語のプロットポイント1(※)は、主人公の家の中で起きる不思議な出来事から、とある「施設」に導かれることだ。そこで、地球の置かれた状況と、それに抗おうとする人たちの存在が明らかにされる。
主人公は、家族か、地球を救うというミッションか、どちらかを選ぶことを迫られる。
もちろん、物語なので、葛藤を経て、主人公は地球を救うことを選択する(これはネタバレではない。家族を選んだら、物語はそのまま平穏に、かつ凋落する地球のもとに滅びゆくだけだろう)。
僕がここで推したいポイントとしては、実はその葛藤が、終盤での重要な問題解決のキーになっていたということだ。
※転機。日常から問題へと投げ出されるシーン。
そもそも、あらすじには、「オチ」を含むものと含まないものがあるとのことだが、どちらにせよ、物語を初めて楽しもうとする人たちの気概をそぐものであってはならないだろう。
僕は、インステを、「宇宙」「時間」「滅び」のキーワードを挙げたいと思う。
もうちょっと深めに表現すると、「重力」とか「事象の地平線の先」ということになるかもしれない。
僕らの目は、光をとらえて、物質の存在を認識する。
じゃあ光って何なんだ、といったときに、「光子」(フォトン)という、波の性質ももつ粒子である、と物理学はいう。
一方で、「重力」という概念もある。質量をもつ物体が引き合う力だ。質量が大きければ大きいほど、重力は強い。そしてこの重力は、光子にも影響をおよぼず。
すなわち、超質量をもつ存在、ブラックホールでは、光の源である光子すらも、その重力によって飛び出すことができなくなるのだ。だからブラックホールは「真っ暗」なのだ。
そして、相対性理論によると、重力が強いところは、弱いところに比べて時間の進みが遅くなる。(例えとして表現すれば、重力が強い惑星から、重力が弱い惑星をみると、弱い惑星の人たちは物凄いスピードで動いているように見えるということだ)
インステは、表現する。
引き離された主人公と家族の、時間の隔たり。
そして、ブラックホールに飛び込んだ時の、二度と戻れないであろう事象の地平線の先を。
まぁその、万人に興味をもってもらえるであろうレビューって難しいだろう。
人の興味は様々だからだ。例えば、主人公の娘も、キーパーソンであるが、子供のころの演技がうまいとかいうので興味が惹かれる人もいるだろう。
もしくは、荒廃を予感させる地球の映像や遠大な宇宙の映像に感銘を受ける人もいるだろう。
様々だ。
僕の場合は、映像が奇麗なのも勿論重要であると思うが、やっぱりストーリーが気になるところである。次はどうなるんだろうという期待。それが視聴モチベーションとなる。
なんだっけ。ああ、そうそう、目標達成である。
それだけだっけ? 何か、頭の中に何も浮かばなくなった。
こういうときは、美味しいドリンクに限る。
あーそれには、片付いた部屋が必要だ。――ある程度片付く。よし。
ああ、だが、余計に、何も浮かばなくなった。
まぁ、いいことなのかもしれない。何も考えないというのも、大事なことだ。
あ、思い出した。
「努力が認められた」
という言葉は、成り立たないと思う。
その、認めることが可能なのは、「成果」だ。
僕は、こういった、「効率すべて」的な考え方が嫌いである。
例えば、「雑談」は無駄の典型、とされる。でも、雑談ぐらいあってもいいと思う。
ただし、僕は雑談は嫌いだ。それは、雑談だから嫌いなのではない、上に書いてきたように、「興味がない話題」の場合が多いからだ。
好きな人と、何も考えずに、ただマリオカートをやる時間は、無駄だろう。
無駄なんだが、僕は好きだ。楽しい。充実している。
充実? なんの生産もしていない行為が?
人は、誰かのために成長するのでもなければ、誰かのために生きているのでもない。
人は、「やりたい」「したい」という欲望があるから、生きているのだ。
その結果、その「やりたい」「したい」が、人のためになることが、最も充実感を得られるように生得的にインプットされているのだ。これを否定しても、例外的な反証にしかならない。
だから、「必ず人は〇〇だ」という表現をしたところで意味はない。例外はいる。人を害するのが好きな人もいる。だが、一般的(大多数……これは、半数程度なのかもしれないが)には、人は、人のためになることをして、嫌な気持になるようにはできていないのだ。
だから、取引先の人に、「あなたと仕事ができて良かったです。あなたのおかげで上手くいきました」ということは、大事なことなのだ。
それを言うことは、メールなど文章を起こすことは、直接的に金銭的なサムシングを生むことはない。それよりかは、時給換算時間対効果としてマイナスだろう。
効率、という言葉には、そうした生産性の面の腐臭がする。
だから嫌いだ。
無駄があってもいいじゃないか。それは換言すれば「ゆとり」だ。
前にも書いたが、「ゆとり教育」は、批判されまくったわけだが、だが、その理念は間違ってなかったと思う。「教え込まれること」ではなく、「自主的に学ぶこと」が重要なのは明らかなのだ。仕事だってそうだろう? 「自分で考えてみろ」とか言われたことはないだろうか。
まぁすぐさま書きたくなるのは、一方で効率は重要だと思っているし、「自分で考えろ」という無責任な指示が嫌いだったりもするし、要は僕は面倒くさい人間である。
「無駄とは何か」
「効率とは何か」
「ゆとりとは何か」
「自分で考えるとは何か」
「自主性とは何か」
いろいろ生じる。書きたい。でも、別に誰かに理解してもらおうとは思わない――いや、理解してもらえたら嬉しいが、されなくても構わないと思う。なんとなく、理解してくれる人もいるということは、なんとなく、信じられるようになった、なってきた。だから、いい。
まぁいいや、長くなってきたから、やめる。この記事はインステの紹介記事ってことでよいだろう。
(かっこ書きである。いやその、努力ってのは、主観である。というかそもそも、努力ってなんだ? がんばる、ってことだ。頑張るってなんだ? 辞書をひく。「忍耐して努力し通す」とある。忍耐? また難しい言葉が出てきた。つまり、耐えろということだ。苦痛を感じろということだ。嫌な思いをしろ、ということだ。それが努力だ。――いやじゃッ!(かっこ笑い) 同時にいつも書いておくが、努力自体を否定することはない。ストイックというのもいい。成長だって大事だ。だが、「嫌な思いをする」ということが、何故大事なのか? 構造上欠陥じゃないか? 人は苦しむために生まれたのか? ――そうだ、と仏陀は言っている? 俺は違うと思う。人生はふつーに過ごしていれば四苦八苦で「苦」だ、だけど、正しい実践(八正道)すれば涅槃寂静だぜ、というプロットだと思う。曹洞宗を広めた道元氏は、修証一如といって、悟りと修業は一体なんだぜ、といった。修業は苦しいが、悟りを得るための手段ではなく、修行自体が悟りなのだということだ。だから、修業が苦しいと思っているうちは、そもそも悟りにまだ遠いのだ。努力、をはき違えてはいけない。新しいことに出くわしたとき、俺らは恐怖する。そりゃそうだ、今までの方法が通じない。戦えば負けるかもしれない。だがそれは、「生き残りたい」という欲求に基づくものだ。そのために、苦しいが、頑張るのである。それは「主体的」だ。自分がやりたいからやるのだ。やりたくないことをやることが努力なんかじゃない。え? 理不尽な仕事を振られたときは、やりたくなくてもやらなきゃいけないって? そうだ。やりたくないがやらなければいけない。だが、次元をあげて考えてみたまえ、「やりたくない」のはその仕事自体だが、その仕事を達成しなければその会社で給料をもらえないから、やるのだ。その会社で働き続けたいからやる、のだ。その次元では、「やりたい」のだ。いやいや、現実感情とかけ離れすぎて、納得いかない人ばかりだろう。だが、何かをなすためには、時に感情に反することもする必要がある。だが、その「なすこと」自体は、自分の「やりたい」ことなのではなかろうか。その「なしたいこと」すらもやりたくない、と思うのであれば、残念だがその会社は辞めるべきだろう。――いやいや遠藤よ、俺は、働くことすら嫌でいやで仕方がないのだ、その場合はどうしたらいいのだ。働かなくても生きていける努力をすればよい。それすら嫌なら死ねばよい。だが、そこで、「死にたくない」と思うのであれば、いやいや仕事をするのも、「やりたいこと」なのだということをよく考えるといい。俺は、生きること自体がもう嫌だと思っていた。こんな苦しい毎日なのに、何故就職して、働かなければいけないのかと思っていた。その次元においては、「死ぬ」ということが「やりたいこと」になる。俺は、その次元においては、「自殺」ということを否定しない。――だが、すぐさま書いておきたいのは、逆に言えば、「新しいこと」というのは、避けられないのである。要するに、これから先、ずっと苦しみだけかもしれないが、逆に、一筋の希望が見つかる可能性があるのだ。その、よくわからねぇ可能性、その可能性が「無い」と、人間風情がどうして言い切れる? だから、自殺はよくないのだ)
前書き
おめでとう。この記事を投稿すれば、2019年1月14日に立てた週間更新という目標は達成される。おすすめの映画
「アマプラでおススメの映画とか!!!!」なんと、拍手コメントを久々に頂いた。これは取り上げねばなるまい。
最近観た作品でいけば、『インターステラー』が面白かった。
インターステラー(以下「インステ」)は、クリストファー・ノーラン監督の2014年の作品だ――とかって、レビュー記事では書かれるが、すみません、僕は「云々主演」とか「云々監督」と言われてもよく分からない。
ただ、ノーラン氏は、映画「インセプション」も手掛けたという。ああ――あの作品か、あれは面白かった、と、そういう繋がりでは記憶に残すことができる。
そして僕はふと思う。
「面白い作品教えて」
と言われて、その作品を挙げるとき、どういったことを書けば(言えば)よいのだろうか。
これは、自己紹介や、雑談においても重要な気がする。そういうことを意識して書いていきたい。
(ちなみに、いつものごとく、僕の記事は、「構成」を事前に考えたりしていない。ほぼ、僕の思考の流れがそのままトレースされている。まぁだから僕と話すと、こんな感じなんだということが分かると思う――ただ、これは、この思考の流れは、常に表に出すわけではない。基本的に「空気読む」ことが前提となる。というか、この流れになることは、対面コミュニケーションでは殆どないのではないか、とすら思う。何故ならば、コミュニケーションは、相互情報共有であるのであって、一方的に話すのは授業や講演やプレゼンだ。会話、とは異なる。ただ、本当はこういった素直な思考状態で人と会話したいとは思っている。飲み会とかでも、そういうことができる場面も、僅かかもしれないが、大人になるにつれて増やしてくることができた。しかし、プロスポーツの話とか、興味のない話はとことんつまらない。だが、それは趣味指向性の話であって、小説がつまらないと思う人に本の話題があっても楽しめないのと同じレベルであって、そこが問題なのではない。要するに、「深み」が必要だと思うのだ)
インターステラー
まず、ネタバレをしない、というのは、僕のポリシーだ。ネタバレ気にしないという人もいるが、しかし、物語のワクワク感は、「先の見えなさ」にあると思っている。
(ちなみに、拍手コメ氏が、インステを見たことあるかどうかはもちろん不明だ)
しかし、ネタバレをせずに、その作品について語るというのは、しかも興味をもってもらえるように語るというのは難しいことだろう。
だが、試みる。
序盤、は恐らく退屈だろうと思う。
ある家族(主人公たち)の生活が描かれる。地球が舞台だ。だが、現代と少し違う。文明が衰退している可能性があることが、時折のエピソードで描かれる。
自然災害等で、徐々に地球の環境が悪化していることも描かれる。それでも、「普通」の生活を過ごしている。
物語のプロットポイント1(※)は、主人公の家の中で起きる不思議な出来事から、とある「施設」に導かれることだ。そこで、地球の置かれた状況と、それに抗おうとする人たちの存在が明らかにされる。
主人公は、家族か、地球を救うというミッションか、どちらかを選ぶことを迫られる。
もちろん、物語なので、葛藤を経て、主人公は地球を救うことを選択する(これはネタバレではない。家族を選んだら、物語はそのまま平穏に、かつ凋落する地球のもとに滅びゆくだけだろう)。
僕がここで推したいポイントとしては、実はその葛藤が、終盤での重要な問題解決のキーになっていたということだ。
※転機。日常から問題へと投げ出されるシーン。
どんな話か
あらすじ、は「推し」において必要なのか。そもそも、あらすじには、「オチ」を含むものと含まないものがあるとのことだが、どちらにせよ、物語を初めて楽しもうとする人たちの気概をそぐものであってはならないだろう。
僕は、インステを、「宇宙」「時間」「滅び」のキーワードを挙げたいと思う。
もうちょっと深めに表現すると、「重力」とか「事象の地平線の先」ということになるかもしれない。
僕らの目は、光をとらえて、物質の存在を認識する。
じゃあ光って何なんだ、といったときに、「光子」(フォトン)という、波の性質ももつ粒子である、と物理学はいう。
一方で、「重力」という概念もある。質量をもつ物体が引き合う力だ。質量が大きければ大きいほど、重力は強い。そしてこの重力は、光子にも影響をおよぼず。
すなわち、超質量をもつ存在、ブラックホールでは、光の源である光子すらも、その重力によって飛び出すことができなくなるのだ。だからブラックホールは「真っ暗」なのだ。
そして、相対性理論によると、重力が強いところは、弱いところに比べて時間の進みが遅くなる。(例えとして表現すれば、重力が強い惑星から、重力が弱い惑星をみると、弱い惑星の人たちは物凄いスピードで動いているように見えるということだ)
インステは、表現する。
引き離された主人公と家族の、時間の隔たり。
そして、ブラックホールに飛び込んだ時の、二度と戻れないであろう事象の地平線の先を。
あらすじ終わり
面白さ、表現できただろうか。分からない、ワカラナイ。まぁその、万人に興味をもってもらえるであろうレビューって難しいだろう。
人の興味は様々だからだ。例えば、主人公の娘も、キーパーソンであるが、子供のころの演技がうまいとかいうので興味が惹かれる人もいるだろう。
もしくは、荒廃を予感させる地球の映像や遠大な宇宙の映像に感銘を受ける人もいるだろう。
様々だ。
僕の場合は、映像が奇麗なのも勿論重要であると思うが、やっぱりストーリーが気になるところである。次はどうなるんだろうという期待。それが視聴モチベーションとなる。
最近、努力について
もともと、何を書こうと思っていたか忘れてしまった。なんだっけ。ああ、そうそう、目標達成である。
それだけだっけ? 何か、頭の中に何も浮かばなくなった。
こういうときは、美味しいドリンクに限る。
あーそれには、片付いた部屋が必要だ。――ある程度片付く。よし。
ああ、だが、余計に、何も浮かばなくなった。
まぁ、いいことなのかもしれない。何も考えないというのも、大事なことだ。
あ、思い出した。
「努力が認められた」
という言葉は、成り立たないと思う。
その、認めることが可能なのは、「成果」だ。
僕は、こういった、「効率すべて」的な考え方が嫌いである。
例えば、「雑談」は無駄の典型、とされる。でも、雑談ぐらいあってもいいと思う。
ただし、僕は雑談は嫌いだ。それは、雑談だから嫌いなのではない、上に書いてきたように、「興味がない話題」の場合が多いからだ。
好きな人と、何も考えずに、ただマリオカートをやる時間は、無駄だろう。
無駄なんだが、僕は好きだ。楽しい。充実している。
充実? なんの生産もしていない行為が?
生産性と人生
人生で最も大切なことは、「欲望」だ。人は、誰かのために成長するのでもなければ、誰かのために生きているのでもない。
人は、「やりたい」「したい」という欲望があるから、生きているのだ。
その結果、その「やりたい」「したい」が、人のためになることが、最も充実感を得られるように生得的にインプットされているのだ。これを否定しても、例外的な反証にしかならない。
だから、「必ず人は〇〇だ」という表現をしたところで意味はない。例外はいる。人を害するのが好きな人もいる。だが、一般的(大多数……これは、半数程度なのかもしれないが)には、人は、人のためになることをして、嫌な気持になるようにはできていないのだ。
だから、取引先の人に、「あなたと仕事ができて良かったです。あなたのおかげで上手くいきました」ということは、大事なことなのだ。
それを言うことは、メールなど文章を起こすことは、直接的に金銭的なサムシングを生むことはない。それよりかは、時給換算時間対効果としてマイナスだろう。
効率、という言葉には、そうした生産性の面の腐臭がする。
だから嫌いだ。
無駄があってもいいじゃないか。それは換言すれば「ゆとり」だ。
前にも書いたが、「ゆとり教育」は、批判されまくったわけだが、だが、その理念は間違ってなかったと思う。「教え込まれること」ではなく、「自主的に学ぶこと」が重要なのは明らかなのだ。仕事だってそうだろう? 「自分で考えてみろ」とか言われたことはないだろうか。
まぁすぐさま書きたくなるのは、一方で効率は重要だと思っているし、「自分で考えろ」という無責任な指示が嫌いだったりもするし、要は僕は面倒くさい人間である。
話題提供されると指の動きが加速する
上のようなことを書くと、途端にいろいろ思考が生じてくる。これは面白い。「無駄とは何か」
「効率とは何か」
「ゆとりとは何か」
「自分で考えるとは何か」
「自主性とは何か」
いろいろ生じる。書きたい。でも、別に誰かに理解してもらおうとは思わない――いや、理解してもらえたら嬉しいが、されなくても構わないと思う。なんとなく、理解してくれる人もいるということは、なんとなく、信じられるようになった、なってきた。だから、いい。
まぁいいや、長くなってきたから、やめる。この記事はインステの紹介記事ってことでよいだろう。
(かっこ書きである。いやその、努力ってのは、主観である。というかそもそも、努力ってなんだ? がんばる、ってことだ。頑張るってなんだ? 辞書をひく。「忍耐して努力し通す」とある。忍耐? また難しい言葉が出てきた。つまり、耐えろということだ。苦痛を感じろということだ。嫌な思いをしろ、ということだ。それが努力だ。――いやじゃッ!(かっこ笑い) 同時にいつも書いておくが、努力自体を否定することはない。ストイックというのもいい。成長だって大事だ。だが、「嫌な思いをする」ということが、何故大事なのか? 構造上欠陥じゃないか? 人は苦しむために生まれたのか? ――そうだ、と仏陀は言っている? 俺は違うと思う。人生はふつーに過ごしていれば四苦八苦で「苦」だ、だけど、正しい実践(八正道)すれば涅槃寂静だぜ、というプロットだと思う。曹洞宗を広めた道元氏は、修証一如といって、悟りと修業は一体なんだぜ、といった。修業は苦しいが、悟りを得るための手段ではなく、修行自体が悟りなのだということだ。だから、修業が苦しいと思っているうちは、そもそも悟りにまだ遠いのだ。努力、をはき違えてはいけない。新しいことに出くわしたとき、俺らは恐怖する。そりゃそうだ、今までの方法が通じない。戦えば負けるかもしれない。だがそれは、「生き残りたい」という欲求に基づくものだ。そのために、苦しいが、頑張るのである。それは「主体的」だ。自分がやりたいからやるのだ。やりたくないことをやることが努力なんかじゃない。え? 理不尽な仕事を振られたときは、やりたくなくてもやらなきゃいけないって? そうだ。やりたくないがやらなければいけない。だが、次元をあげて考えてみたまえ、「やりたくない」のはその仕事自体だが、その仕事を達成しなければその会社で給料をもらえないから、やるのだ。その会社で働き続けたいからやる、のだ。その次元では、「やりたい」のだ。いやいや、現実感情とかけ離れすぎて、納得いかない人ばかりだろう。だが、何かをなすためには、時に感情に反することもする必要がある。だが、その「なすこと」自体は、自分の「やりたい」ことなのではなかろうか。その「なしたいこと」すらもやりたくない、と思うのであれば、残念だがその会社は辞めるべきだろう。――いやいや遠藤よ、俺は、働くことすら嫌でいやで仕方がないのだ、その場合はどうしたらいいのだ。働かなくても生きていける努力をすればよい。それすら嫌なら死ねばよい。だが、そこで、「死にたくない」と思うのであれば、いやいや仕事をするのも、「やりたいこと」なのだということをよく考えるといい。俺は、生きること自体がもう嫌だと思っていた。こんな苦しい毎日なのに、何故就職して、働かなければいけないのかと思っていた。その次元においては、「死ぬ」ということが「やりたいこと」になる。俺は、その次元においては、「自殺」ということを否定しない。――だが、すぐさま書いておきたいのは、逆に言えば、「新しいこと」というのは、避けられないのである。要するに、これから先、ずっと苦しみだけかもしれないが、逆に、一筋の希望が見つかる可能性があるのだ。その、よくわからねぇ可能性、その可能性が「無い」と、人間風情がどうして言い切れる? だから、自殺はよくないのだ)
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今日の一言「カテゴリ的に「生活」的な記事」「臨時の記事だ」
小さいことだが、若干ストレスであることに違いはない。
あと、ワイヤレスのBluetoothキーボードの「記号」の配置が若干違っていて、プラスとか、かっことか、それが地味にストレスになる。
そして、先日、固定回線をやめて、ポケットワイファイを導入したと書いた。
追記したい。
アマゾンプライムの超高画質をみていると、3日間で10GBなんて、あっという間に到達することが分かった。調べておけよ、という話だが、要するに、1時間で6GBぐらい使っているということなのだ。すごいな!!
標準画質に落とすと、1時間に300MBぐらいになる。
まぁそれは、さほど参考にならない数字だ。スペック的なことと、生活的なことは関係しない。
問題は、僕は、なんやかんや、動画を見ているということだ。休日だと、4時間以上みている場合などざらにある。
まあそりゃそうだ。20分のアニメを12話1クールみたとすれば、4時間である。土日かけて全部みるなんて、普通にある。ということは、超高画質でみていれば、2日間で、24GBも使うことになるのだ。
しかしながら、けものフレンズの1話から5話ぐらいまでみたところで、ストリーミングがしょっちゅう切断されるようになった。満足に動画が楽しめない程度までひどい。
標準画質に落としてみても、ダメだった。セッションを一度切ってみてもダメだった。
休日のお昼辺りは混み合っているのだろうか。
こうした状態がずっと続くのであれば、正直、非常に不満足で、後悔である。
確かに、通信料を気にせず、一日中パケットを垂れ流しにしているという楽しみは確かにあった。
それは、札束でいっぱいになった浴槽に浸かるような幸せだ。
だが、実際問題、こうして、ブログを書いて、投稿するという作業においては、さほどの通信量など必要ないのである。
これまで、何の気なしに、次のおすすめ動画、的なのをようつべで見続けたりしてしまったこともあったが、今後は、動画の視聴も「コスト」を意識せざるえなくなるだろう。
これは、不自由か?
考え方次第と思える。本当に僕がやりたいことは、何か。一日中動画を見続けることなのか。
というような、問い、を発せられるきっかけになったことがよかったと思っている。
そして、ポケットワイファイなるものも使ってみた実体験にもとづく感想をかけるというのも、メリットだったと思う。
ただ、経験しなければ分からないこともある。
余剰資金で解決する程度の問題であれば、どんどん経験すべきだ。ただ、同じ失敗を繰り返すようならば、何らかの対策が必要だろう。
固定回線に比するメリットを挙げようと思えば他にもある。引っ越しをする際にも、手続きが簡便だ。何せ設置機器がない。
居住空間における、動かしがたい物があるというのも、負債であると思う。いらないものは本当になくしたいと思う。
予備をなくすというのではない。同じ消ゴムが複数あってもいい。だが、予備があることを忘れてしまって、さらに買たしてしまうのは避けねばならない。
ねそべってうーむ、
(かっこ書きである。寝そべって打つのはやはり、難しいな。そして、3日で10GBの通信制限にひっかかる。規約通り、500kbps程度まで速度が下がった。やはりこの速度までなると、動画視聴は日常のネットサーフィンでも支障があるな。ただ、原因がアマゾンプライムの「超高画質」(1時間につき6.84GB)であると分かっているので、もう少し使い方を検討すればなんとか使えないことはないと思う。が、これは少々今後も検討する余地がありそうだ。「いまどき固定回線なんかよりポケットWIFIの方がお得だよ~」というのは、まぁ大多数の人にとってはそうなのだろうが、アマプラなど動画視聴やオンラインゲームをメインで使用する人たちは要用検討が必要だろう)
前書き
残念だ。タブレットからだと、このブログエディタのショートカットキーが使えないようだ。要するに、小見出し-ー「前書き」とかーーが、CTRL+2で、H2タグが挿入されない。小さいことだが、若干ストレスであることに違いはない。
あと、ワイヤレスのBluetoothキーボードの「記号」の配置が若干違っていて、プラスとか、かっことか、それが地味にストレスになる。
Pocket Wi-Fiについて
そして、先日、固定回線をやめて、ポケットワイファイを導入したと書いた。
追記したい。
アマゾンプライムの超高画質をみていると、3日間で10GBなんて、あっという間に到達することが分かった。調べておけよ、という話だが、要するに、1時間で6GBぐらい使っているということなのだ。すごいな!!
標準画質に落とすと、1時間に300MBぐらいになる。
まぁそれは、さほど参考にならない数字だ。スペック的なことと、生活的なことは関係しない。
問題は、僕は、なんやかんや、動画を見ているということだ。休日だと、4時間以上みている場合などざらにある。
まあそりゃそうだ。20分のアニメを12話1クールみたとすれば、4時間である。土日かけて全部みるなんて、普通にある。ということは、超高画質でみていれば、2日間で、24GBも使うことになるのだ。
50MBPSで動画が見れるは本当か
回線速度は、60MBPSから80MBPSぐらい速度が出ている。しかしながら、けものフレンズの1話から5話ぐらいまでみたところで、ストリーミングがしょっちゅう切断されるようになった。満足に動画が楽しめない程度までひどい。
標準画質に落としてみても、ダメだった。セッションを一度切ってみてもダメだった。
休日のお昼辺りは混み合っているのだろうか。
こうした状態がずっと続くのであれば、正直、非常に不満足で、後悔である。
総じて後悔はしていない
後悔だ、と書いておいて、すぐさま後悔していないとか、精神異常なのか。確かに、通信料を気にせず、一日中パケットを垂れ流しにしているという楽しみは確かにあった。
それは、札束でいっぱいになった浴槽に浸かるような幸せだ。
だが、実際問題、こうして、ブログを書いて、投稿するという作業においては、さほどの通信量など必要ないのである。
これまで、何の気なしに、次のおすすめ動画、的なのをようつべで見続けたりしてしまったこともあったが、今後は、動画の視聴も「コスト」を意識せざるえなくなるだろう。
これは、不自由か?
考え方次第と思える。本当に僕がやりたいことは、何か。一日中動画を見続けることなのか。
というような、問い、を発せられるきっかけになったことがよかったと思っている。
そして、ポケットワイファイなるものも使ってみた実体験にもとづく感想をかけるというのも、メリットだったと思う。
結果はともあれ
まぁ、実際問題、毎回、通信速度制限に当たらなくても、動画視聴がカクカクしてしまうようであれば、これは再度要検討になるだろう。やっぱり、映画もアニメもみたい。ただ、経験しなければ分からないこともある。
余剰資金で解決する程度の問題であれば、どんどん経験すべきだ。ただ、同じ失敗を繰り返すようならば、何らかの対策が必要だろう。
固定回線に比するメリットを挙げようと思えば他にもある。引っ越しをする際にも、手続きが簡便だ。何せ設置機器がない。
居住空間における、動かしがたい物があるというのも、負債であると思う。いらないものは本当になくしたいと思う。
予備をなくすというのではない。同じ消ゴムが複数あってもいい。だが、予備があることを忘れてしまって、さらに買たしてしまうのは避けねばならない。
ねそべってうーむ、
(かっこ書きである。寝そべって打つのはやはり、難しいな。そして、3日で10GBの通信制限にひっかかる。規約通り、500kbps程度まで速度が下がった。やはりこの速度までなると、動画視聴は日常のネットサーフィンでも支障があるな。ただ、原因がアマゾンプライムの「超高画質」(1時間につき6.84GB)であると分かっているので、もう少し使い方を検討すればなんとか使えないことはないと思う。が、これは少々今後も検討する余地がありそうだ。「いまどき固定回線なんかよりポケットWIFIの方がお得だよ~」というのは、まぁ大多数の人にとってはそうなのだろうが、アマプラなど動画視聴やオンラインゲームをメインで使用する人たちは要用検討が必要だろう)
今日の一言「定期更新だ」「1月14日に決めたことだったんだな」
いよいよ、来週3月30日(土)が最後のルーチン更新日だ。
目標達成できそうである。
小さな目標であるけれども、何であれ、「達成」できたというのは大事なことだ。
とかって、まず、「セルフマネジメント」――かっこ笑い、である。
こういう、横文字を何か「へっ」っと、鼻で笑ってしまう人は少なくなかろう。欧米コンプレックスか。
この前、「レジリエンス」という、ストレスに対する「復元力」について書いたけれども、なんでこう、横文字(というかカタカナ)が登場するのか。
最近覚えた言葉といえば、「フレイル」。なんか、ゲームの魔法のような言葉だが、「虚弱」という意味で、「健常」と「要介護」の中間をあらわす、介護分野で登場する言葉のようだ。新聞とかでも登場するので、「一般的に覚えとけ」ってことなんだと思う。
何故あえて、耳慣れない言葉を使うのか。
その理由は、おそらく、耳慣れないこと、そのものにあると思う。
要は、「虚弱」とかいったところで、なんとなく聞き流してしまう。
一方で、「フレイル」という言葉を使うと、なんとなく耳に残る。「スケイル」だか「ボイル」だか、なんか間違って印象に残ったり、忘れてしまう人もいるかもしれないが、それでも、「残る」。
それが目的なんだろう。
新しい概念を印象付けるための、キャッチコピーみたいなもんだと思う。そこに本質は、ない。
ない、けれども、きっかけとしての役割は果たしていることだろう。自己肯定感の章立てのはずだったのに、話がそれた。
何故か。人は目的的な存在だからだ。
人は、一般の動物とは違い、知的である。抽象的な思考ができる。「考える」こと自体は、猫でもしているかもしれない。3歳児ぐらいの知能はあるとか聞いたことがあるような気がする。
しかし、「無駄なことを考える」ことができるのは、人間しかいない。
先日、いつだかは忘れたけれども、「オタクは無駄なことをするのだ」とか、そういう記事を書いた気がする。
そのとき僕は、そもそも「オタク」という言葉も廃れている印象があることに触れたうえで、無駄なことをするということは、全然ありだ、と書いたはずだ。
あり、どころか、「無駄なことをする」ことこそが、人間としての特徴ともいえる。
さてその無駄とは?
無駄、というのは、無能・無意味・無価値、という意味もあるだろうが、ここでは、「直接的に役に立たないこと」という意味で捉えてみよう。
今すぐは使えないこと。無駄。
まぁそれはそれで書き進めてもいいのだが、しかし、「本当に無駄なこと」というのがあるのではないか、という疑義が生じた。
今すぐ役に立たないこと……という言い回しは、要は、いずれは役に立つ可能性があること、という含意である。
今、ナウに必要なことが重要だ、という意見に対する反論であるが、しかし、それはそうとして、「では、本当に無駄なものは、無駄ってことでいいんですね」という疑義に、何と答えようか。
これに対しては、具体例が必要だ。本当に無駄なもの、というモノ・コトが、僕はイメージできない。
いや、「ついついやってしまうこと」として、「ひげじょり手すさび」があったとする。これは無駄だろう。ひげは翌日にはのびてくる。触っていたとしても、なくなるわけでもない。無駄だ。
まぁそういう些細な無駄はたくさんあるだろう。だが、本当に意識して、無駄なことをしようと思う人はいるのだろうか?
いない、と僕は思っている。違うのだろうか。
無駄なことをする、というのは、それは二律背反なのではないだろうか。矛盾。
その「無駄」というのは、あくまでも、自分以外の存在、他者から見たときに、無駄にみえる、ということなのだと思われる。
他者からしたら、「それ、意味あるの?」と、「要領悪いなぁ」と思うようなことでも、本人にしてみたら無駄には思えないことはあるはずだ。
いや逆に、これまでの記載はすべて、「自由意志」が成り立つ世界においてのものだ。
奴隷や、強制労働、不条理な仕事において、自分の意志にかかわらず、「無駄なことをさせられる」ということはあるだろう。
しかしそれは、受動的なものである。
ここで書いてきたのは、能動的に無駄なことをする、というのはありえるだろうか、ということだ。
何らか、必要だと思ってやっているのである(強制させられる場合など、例外は多々あるにせよ)。
であるからにして、他者の意志によって僕らは生きるのではないのだから、「自己肯定感」――つまり、自分で自分を認めるということが重要だ、ということだ。
申し込んだのは「JPWiMAX:https://jpwimax.jp/」。
速度チェッカーで試してみると、60mbps~80mbpsほど。
50mbpsで動画再生に支障がないほどということなので、十分な速度といえる。実際、アマゾンプライムでの視聴も問題なかった。
オンラインゲームするとなると、100mbpsが必要、ということだが、GTA5のPC版をやってみたが、一瞬ラグいときはあったが、おおよそプレイするには問題なかった。
(これは、FPSとか、対人戦をゴリゴリする人はまた違った感覚になると思う。僕も昔はFPSとかやっていたけれども、もうそういったゴリゴリしたのはあまりやらないので、この辺りは問題ない)
気になる月額は、24か月間3500円で、その後12か月は4100円である。
これまでの回線は月額6500円ほどだったので、費用削減になったといえる。
(これまでの回線の速度は、110~130mbpsだった。ポケットwifi特有の速度制限:3日間で10GB制限もなかったわけだし、その点は品質ダウンである。そのあたりと、月額3000円程度安いということと、どう考えるか)
(かっこ書きである。とあるIPA(情報処理推進機構)の国家試験を受けようと思う。というのと、書類整理を進めた。やはり定期的にやらんといかん作業だな。だが、数年前? いつだか忘れたけれども、1年がかりでいろいろ整理していった結果、結構いい感じ(整理がまぁまぁできている状況)になっていて、それほど時間を要しなかった。まだまだ、すすめられる余地もあるが、焦らず着実に進めていきたい。ミニマリストは、一日ではなれない。完全なミニマリストを目指しているわけでもない。余裕があってもいい。僕が目指しているのは、「完璧な管理」だ。完璧とか絶対という万物普遍はありえない、と常々言っているが、「管理」はしたい。本文にもでてきたが、管理とは、英語ではマネジメントだ。まぁ正式な定義はともかく、僕の理解としては、所有するモノを知悉することだ。何がどこにあるかがすぐに分かることだ。「あ、これって、こんなところにあったんだ!」というのをなくしたい。いらないものを持ちたくない。ネット回線もしかり。靴下を統一するのもしかり――あ、これ、くつした、ユニクロでいつも買っているが、俺がいつも購入している商品をおかなくなりやがった!!(ほとんど同じだが、若干デザインを変えてきた)くっそぅぅ! これがあるから、ある程度大量買いしておきたかったのだが、だが、在庫を抱えるのはまた、ポリシーに反するわけであり、くっ、なんたる葛藤だ……。っと、補足すれば、こうやって文章に書くと、やけに「生きづらそうなやつだな」と思われるだろうが、むしろこれらは逆である。管理できていた方がよほど気持ちがいいのである。ああ、こう書くと、整然として埃一つない状態を「正」にしているようだが、少し違う。が、長くなるからもうやめる。だが、そういえば、ワンピースの作者の仕事場、というか自宅は、「モノ」にあふれていた。んで、なんかの調査かアンケートで、クリエイティブな人は雑然とした状態を好む、とされていた。その「雑然」と、「管理」は反しないことだと思っている。雑然というのは、空間に対しての量もあるが、その状態であっても、自分で何がどこにあるかが分かっていれば、それは「管理」されているといえるのである。巨大な居住スペースを擁していれば、管理していなくても、それなりに綺麗にみせることは可能だ。だが当の本人が、何がどこにあるか分かっていなければ、宝の持ち腐れどころか、ゴミ、だ)
前書き
定期更新を、当初予定通りに、土曜日に書けたのは久しぶりな気もする。いよいよ、来週3月30日(土)が最後のルーチン更新日だ。
目標達成できそうである。
小さな目標であるけれども、何であれ、「達成」できたというのは大事なことだ。
自己肯定感
要所で聞かれることであるが、セルフマネジメントにおいて、自己肯定感は重要だ。とかって、まず、「セルフマネジメント」――かっこ笑い、である。
こういう、横文字を何か「へっ」っと、鼻で笑ってしまう人は少なくなかろう。欧米コンプレックスか。
この前、「レジリエンス」という、ストレスに対する「復元力」について書いたけれども、なんでこう、横文字(というかカタカナ)が登場するのか。
最近覚えた言葉といえば、「フレイル」。なんか、ゲームの魔法のような言葉だが、「虚弱」という意味で、「健常」と「要介護」の中間をあらわす、介護分野で登場する言葉のようだ。新聞とかでも登場するので、「一般的に覚えとけ」ってことなんだと思う。
何故あえて、耳慣れない言葉を使うのか。
その理由は、おそらく、耳慣れないこと、そのものにあると思う。
要は、「虚弱」とかいったところで、なんとなく聞き流してしまう。
一方で、「フレイル」という言葉を使うと、なんとなく耳に残る。「スケイル」だか「ボイル」だか、なんか間違って印象に残ったり、忘れてしまう人もいるかもしれないが、それでも、「残る」。
それが目的なんだろう。
新しい概念を印象付けるための、キャッチコピーみたいなもんだと思う。そこに本質は、ない。
ない、けれども、きっかけとしての役割は果たしていることだろう。自己肯定感の章立てのはずだったのに、話がそれた。
セルフマネジメント
話を戻す。自己肯定感についてだ。セルフマネジメント、つまり、自分をコントロールする、調整する、管理する場面において、自己肯定感は重要だ。何故か。人は目的的な存在だからだ。
人は、一般の動物とは違い、知的である。抽象的な思考ができる。「考える」こと自体は、猫でもしているかもしれない。3歳児ぐらいの知能はあるとか聞いたことがあるような気がする。
しかし、「無駄なことを考える」ことができるのは、人間しかいない。
先日、いつだかは忘れたけれども、「オタクは無駄なことをするのだ」とか、そういう記事を書いた気がする。
そのとき僕は、そもそも「オタク」という言葉も廃れている印象があることに触れたうえで、無駄なことをするということは、全然ありだ、と書いたはずだ。
あり、どころか、「無駄なことをする」ことこそが、人間としての特徴ともいえる。
さてその無駄とは?
無駄、というのは、無能・無意味・無価値、という意味もあるだろうが、ここでは、「直接的に役に立たないこと」という意味で捉えてみよう。
今すぐは使えないこと。無駄。
本当に無駄なこと
おおおおう、話がそれている。自己肯定感は何故重要か? という問いじゃあなかったのか。今俺は、「無駄なことをしたっていいじゃないか。むしろ、無駄なこと=抽象的なことであり、それこそが人間の最たる特徴である」ということを書こうとしていた。まぁそれはそれで書き進めてもいいのだが、しかし、「本当に無駄なこと」というのがあるのではないか、という疑義が生じた。
今すぐ役に立たないこと……という言い回しは、要は、いずれは役に立つ可能性があること、という含意である。
今、ナウに必要なことが重要だ、という意見に対する反論であるが、しかし、それはそうとして、「では、本当に無駄なものは、無駄ってことでいいんですね」という疑義に、何と答えようか。
これに対しては、具体例が必要だ。本当に無駄なもの、というモノ・コトが、僕はイメージできない。
いや、「ついついやってしまうこと」として、「ひげじょり手すさび」があったとする。これは無駄だろう。ひげは翌日にはのびてくる。触っていたとしても、なくなるわけでもない。無駄だ。
まぁそういう些細な無駄はたくさんあるだろう。だが、本当に意識して、無駄なことをしようと思う人はいるのだろうか?
いない、と僕は思っている。違うのだろうか。
無駄なことをする、というのは、それは二律背反なのではないだろうか。矛盾。
他者という存在
つまり、本人にとって、無駄なことをしている認識はないはずだ、という仮説。その「無駄」というのは、あくまでも、自分以外の存在、他者から見たときに、無駄にみえる、ということなのだと思われる。
他者からしたら、「それ、意味あるの?」と、「要領悪いなぁ」と思うようなことでも、本人にしてみたら無駄には思えないことはあるはずだ。
いや逆に、これまでの記載はすべて、「自由意志」が成り立つ世界においてのものだ。
奴隷や、強制労働、不条理な仕事において、自分の意志にかかわらず、「無駄なことをさせられる」ということはあるだろう。
しかしそれは、受動的なものである。
ここで書いてきたのは、能動的に無駄なことをする、というのはありえるだろうか、ということだ。
だからね
なので、奇跡的に自己肯定感の話に戻るけれども、上のように、無駄なことは僕らはしないのである。何らか、必要だと思ってやっているのである(強制させられる場合など、例外は多々あるにせよ)。
であるからにして、他者の意志によって僕らは生きるのではないのだから、「自己肯定感」――つまり、自分で自分を認めるということが重要だ、ということだ。
雑記
と、いうことを、新しい回線、ポケットワイファイで書いているが、特に問題なし、である。申し込んだのは「JPWiMAX:https://jpwimax.jp/」。
速度チェッカーで試してみると、60mbps~80mbpsほど。
50mbpsで動画再生に支障がないほどということなので、十分な速度といえる。実際、アマゾンプライムでの視聴も問題なかった。
オンラインゲームするとなると、100mbpsが必要、ということだが、GTA5のPC版をやってみたが、一瞬ラグいときはあったが、おおよそプレイするには問題なかった。
(これは、FPSとか、対人戦をゴリゴリする人はまた違った感覚になると思う。僕も昔はFPSとかやっていたけれども、もうそういったゴリゴリしたのはあまりやらないので、この辺りは問題ない)
気になる月額は、24か月間3500円で、その後12か月は4100円である。
これまでの回線は月額6500円ほどだったので、費用削減になったといえる。
(これまでの回線の速度は、110~130mbpsだった。ポケットwifi特有の速度制限:3日間で10GB制限もなかったわけだし、その点は品質ダウンである。そのあたりと、月額3000円程度安いということと、どう考えるか)
(かっこ書きである。とあるIPA(情報処理推進機構)の国家試験を受けようと思う。というのと、書類整理を進めた。やはり定期的にやらんといかん作業だな。だが、数年前? いつだか忘れたけれども、1年がかりでいろいろ整理していった結果、結構いい感じ(整理がまぁまぁできている状況)になっていて、それほど時間を要しなかった。まだまだ、すすめられる余地もあるが、焦らず着実に進めていきたい。ミニマリストは、一日ではなれない。完全なミニマリストを目指しているわけでもない。余裕があってもいい。僕が目指しているのは、「完璧な管理」だ。完璧とか絶対という万物普遍はありえない、と常々言っているが、「管理」はしたい。本文にもでてきたが、管理とは、英語ではマネジメントだ。まぁ正式な定義はともかく、僕の理解としては、所有するモノを知悉することだ。何がどこにあるかがすぐに分かることだ。「あ、これって、こんなところにあったんだ!」というのをなくしたい。いらないものを持ちたくない。ネット回線もしかり。靴下を統一するのもしかり――あ、これ、くつした、ユニクロでいつも買っているが、俺がいつも購入している商品をおかなくなりやがった!!(ほとんど同じだが、若干デザインを変えてきた)くっそぅぅ! これがあるから、ある程度大量買いしておきたかったのだが、だが、在庫を抱えるのはまた、ポリシーに反するわけであり、くっ、なんたる葛藤だ……。っと、補足すれば、こうやって文章に書くと、やけに「生きづらそうなやつだな」と思われるだろうが、むしろこれらは逆である。管理できていた方がよほど気持ちがいいのである。ああ、こう書くと、整然として埃一つない状態を「正」にしているようだが、少し違う。が、長くなるからもうやめる。だが、そういえば、ワンピースの作者の仕事場、というか自宅は、「モノ」にあふれていた。んで、なんかの調査かアンケートで、クリエイティブな人は雑然とした状態を好む、とされていた。その「雑然」と、「管理」は反しないことだと思っている。雑然というのは、空間に対しての量もあるが、その状態であっても、自分で何がどこにあるかが分かっていれば、それは「管理」されているといえるのである。巨大な居住スペースを擁していれば、管理していなくても、それなりに綺麗にみせることは可能だ。だが当の本人が、何がどこにあるか分かっていなければ、宝の持ち腐れどころか、ゴミ、だ)
今日の一言「臨時の記事だ」「30分制限」
仕事&プライベートで片付けなければいけない問題がいくつかあって、落ち着かない。
落ち着かないが、整理した。
プライベート問題も、大きく分けると2つのことだが、実際に作業ベース(タスク)に落とし込むと、実に7つもの作業があった。これは落ち着かないわけだ。この7つを、順序良くこなす必要がある。
そのうち一つが、タイトルに書いてあるネット回線の見直しである。
これ、以下の昔の記事(2017/6/21)で「検討しなきゃ~」って書いておいて、結局そのままになっていた。
格安SIMへの乗り換え
http://unfixation.gjpw.net/arrange/20170621
今回、もろもろの問題が起きたのがきっかけだが、結論として、3年で約10万円ほどのコストダウンが図られる試算となった。
そこに行き着くまでに、様々なタスクがあって、面倒という気持ちが高まる限りであるが、しかし、それによって調べて学んだこともあるし、結果として上々であると思おう。
30分制限、としたが、もう、書くべきことは見当たらない。
ああ、やる気でないなぁ、どこに行ってしまったんだ。
なんのやる気か。
そう、そう、そうだ。
やる気を探す旅をやめたくなるやる気のなさだ。分かりづらいな。
こういうときは、過去の記事を読んでみる。
面白い。
自画自賛気持ち悪い、と思われるだろうが、でも面白くなかろうか?
全部が全部面白いとは全く思わないのだが、時折、珠玉が光るのである。
やる気が出ない時こそ、書け。こういうときの記事は逆に貴重だ。
間違いなく、異動になるだろうことが、新しい環境になるだろうことが、僕を憂鬱にさせているのだ。
とある先輩が、「栄転とか思ってるんだろうが、俺は認めないからな(意訳)」と言ってきたことも棘が引っ掛かっている。とある先輩は「俺の部下に早く戻ってきてくれよ」と言ってくれたりするし、まぁ要するに、他者の評価とか感想とか気にしていてもきりがないのだ。一喜一憂することほど時間の浪費はない。
小説の世界でもそうだ。「面白い」と言ってくれる人もいれば、「ゴミ以下」と言ってくる人もいる。
そういう時、何をジャイロスコープにすればよいのか。何を一里塚にするべきか。何を結節点とするべきか。何を依り代にするべきか。
いやぁ、「自分」しかないでしょう、と思う。
自分が、「これはくそ面白い」と思うことや、「これは正しい」と思うこと、または、「過去の自分よりも成長している」と感じること、それぐらいっしょや。
エセカリスマは、信者からの信仰によって、自我同一性を保っている。
しかし、本当に尊敬される人は、ある意味評価軸から自由になっている。
誰かがこういうからこうする、のではなく、「したいからする」だけだと。
そういった姿が、凡人からすれば超越してみえて、結果的に尊敬されるということにつながっているだけだ。
いやーすごいっすねぇ、さすがっすねぇえ、と、にへらにへら近寄ってくる人は胡散臭い。
褒められなれていないというのが単純に原因な気がするが、過剰に褒められても本気に思えない。
まぁ、人を評価するときは、そうじゃいけないのかもしれんが。
(かっこ書きである。つらい。疲れた。今日、絶対文章書ける状況じゃなかった。眠い。もうヤダ。――だが、書いた。偉い。褒める。自画自賛。自己満足。いやぁしかし、「文章」って、その書いている状態が一切わからない。わかる必要がない、というのもある。読み手としては、その「内容」が必要なのであって、その文章が紡がれる作者の状態なんてどうでもいいのだ。小説作品において、作者がつかれているからといって、展開がぐだぐだだったら怒るだろう。しかしちょっとタイムしてみたときに、ブログ、というのは、「作者」自身と密接に関わってしかるべきだと思う。何月何日、晴れ、といった天気はどうでもいいかもしれないが、その書いた時の状況はあった方が面白いと思う。リアルタイム性もあってよい。そう、その「晴れ」というのも、じとじとした前日に比べて気持ちがよかったが、花粉が飛んでいたせいでつらかった、という状態を示すために必要な情報なら書いてしかるべきだろう。そんなもん、誰が読むのか? 俺が読んでやるよ。実際、ぐだぐだな数年前の記事も読んでやった。いいじゃないか、悪くない、悪くないぞ。絶対こんなもん、書店のエッセイコーナーや、自己啓発本なんかじゃ読めなかろう。レアだ。希少価値だ。真面目な話、ぐだぐだしている状況の分析も重要である。ニュースやレッスン本なんかは、「正しい」ことが書かれているかもしれないが、その「正しい」にのっかれない僕ら(「ら」ってのが俺一人かもしれんが)凡人の性質ってのは、十分に考慮すべきだと思うのである。例えば、筋トレを毎日やるのはよくないと言われるが、超負荷超回復のガチ筋トレではそうだろうが、強弱の調整をつけてやっていくなど工夫のしようはある。「毎日やる」といったほうが、むしろ続けられるという人もいるのである。習慣化するというのも、人それぞれのサガによって、方法が異なることだろうと思う。眠い、そろそろ終わっていいか。しかし、まとまりが聞いてない記事の時は、どうにも、終わりが見えずに、「足りない」「足りない」という強迫観念に襲われる)
前書き
くっそやる気が起きないモード継続中だ。仕事&プライベートで片付けなければいけない問題がいくつかあって、落ち着かない。
落ち着かないが、整理した。
プライベート問題も、大きく分けると2つのことだが、実際に作業ベース(タスク)に落とし込むと、実に7つもの作業があった。これは落ち着かないわけだ。この7つを、順序良くこなす必要がある。
そのうち一つが、タイトルに書いてあるネット回線の見直しである。
これ、以下の昔の記事(2017/6/21)で「検討しなきゃ~」って書いておいて、結局そのままになっていた。
格安SIMへの乗り換え
http://unfixation.gjpw.net/arrange/20170621
今回、もろもろの問題が起きたのがきっかけだが、結論として、3年で約10万円ほどのコストダウンが図られる試算となった。
そこに行き着くまでに、様々なタスクがあって、面倒という気持ちが高まる限りであるが、しかし、それによって調べて学んだこともあるし、結果として上々であると思おう。
前向きに
とでも思わないとやってられないぜ、ははは。30分制限、としたが、もう、書くべきことは見当たらない。
ああ、やる気でないなぁ、どこに行ってしまったんだ。
なんのやる気か。
そう、そう、そうだ。
やる気を探す旅をやめたくなるやる気のなさだ。分かりづらいな。
こういうときは、過去の記事を読んでみる。
――2017年3月30日の記事だ。言語、とは、記号である。無限の世界を、分類することである。モノ・コトに、延々、名前をつけていっても、終わりはない。だから、僕が、いくら、僕のことを、こうしてブログに書いていっても、100記事、1000記事、10000記事になろうが、「僕」という表現は、完結しないのである。これについて、「自分」が常に変化しているからである、とコメント頂いたわけであるが、この指摘は非常に鋭くて僕の魂魄に突き刺さった。ただし、その観点とは別に、そもそも、表現できることに限りはないのである。自分というものを正確に完璧に表現できる言語など、存在しえないのである。
面白い。
自画自賛気持ち悪い、と思われるだろうが、でも面白くなかろうか?
全部が全部面白いとは全く思わないのだが、時折、珠玉が光るのである。
書け書け書き続けろ
だから、書き続けろ。やる気が出ない時こそ、書け。こういうときの記事は逆に貴重だ。
間違いなく、異動になるだろうことが、新しい環境になるだろうことが、僕を憂鬱にさせているのだ。
とある先輩が、「栄転とか思ってるんだろうが、俺は認めないからな(意訳)」と言ってきたことも棘が引っ掛かっている。とある先輩は「俺の部下に早く戻ってきてくれよ」と言ってくれたりするし、まぁ要するに、他者の評価とか感想とか気にしていてもきりがないのだ。一喜一憂することほど時間の浪費はない。
小説の世界でもそうだ。「面白い」と言ってくれる人もいれば、「ゴミ以下」と言ってくる人もいる。
そういう時、何をジャイロスコープにすればよいのか。何を一里塚にするべきか。何を結節点とするべきか。何を依り代にするべきか。
いやぁ、「自分」しかないでしょう、と思う。
自分が、「これはくそ面白い」と思うことや、「これは正しい」と思うこと、または、「過去の自分よりも成長している」と感じること、それぐらいっしょや。
誰かを尊敬することも大事だが
先日、「尊敬する能力が必要だ」と書いたけれども、しかし、本当に尊敬されるべき人は、尊敬されることをさほど望んでいない、と勝手に思う。エセカリスマは、信者からの信仰によって、自我同一性を保っている。
しかし、本当に尊敬される人は、ある意味評価軸から自由になっている。
誰かがこういうからこうする、のではなく、「したいからする」だけだと。
そういった姿が、凡人からすれば超越してみえて、結果的に尊敬されるということにつながっているだけだ。
いやーすごいっすねぇ、さすがっすねぇえ、と、にへらにへら近寄ってくる人は胡散臭い。
褒められなれていないというのが単純に原因な気がするが、過剰に褒められても本気に思えない。
まぁ、人を評価するときは、そうじゃいけないのかもしれんが。
(かっこ書きである。つらい。疲れた。今日、絶対文章書ける状況じゃなかった。眠い。もうヤダ。――だが、書いた。偉い。褒める。自画自賛。自己満足。いやぁしかし、「文章」って、その書いている状態が一切わからない。わかる必要がない、というのもある。読み手としては、その「内容」が必要なのであって、その文章が紡がれる作者の状態なんてどうでもいいのだ。小説作品において、作者がつかれているからといって、展開がぐだぐだだったら怒るだろう。しかしちょっとタイムしてみたときに、ブログ、というのは、「作者」自身と密接に関わってしかるべきだと思う。何月何日、晴れ、といった天気はどうでもいいかもしれないが、その書いた時の状況はあった方が面白いと思う。リアルタイム性もあってよい。そう、その「晴れ」というのも、じとじとした前日に比べて気持ちがよかったが、花粉が飛んでいたせいでつらかった、という状態を示すために必要な情報なら書いてしかるべきだろう。そんなもん、誰が読むのか? 俺が読んでやるよ。実際、ぐだぐだな数年前の記事も読んでやった。いいじゃないか、悪くない、悪くないぞ。絶対こんなもん、書店のエッセイコーナーや、自己啓発本なんかじゃ読めなかろう。レアだ。希少価値だ。真面目な話、ぐだぐだしている状況の分析も重要である。ニュースやレッスン本なんかは、「正しい」ことが書かれているかもしれないが、その「正しい」にのっかれない僕ら(「ら」ってのが俺一人かもしれんが)凡人の性質ってのは、十分に考慮すべきだと思うのである。例えば、筋トレを毎日やるのはよくないと言われるが、超負荷超回復のガチ筋トレではそうだろうが、強弱の調整をつけてやっていくなど工夫のしようはある。「毎日やる」といったほうが、むしろ続けられるという人もいるのである。習慣化するというのも、人それぞれのサガによって、方法が異なることだろうと思う。眠い、そろそろ終わっていいか。しかし、まとまりが聞いてない記事の時は、どうにも、終わりが見えずに、「足りない」「足りない」という強迫観念に襲われる)
今日の一言「ルーチン更新だ」「まったく思いつかない」
その「時間」という絶対性に対して、例えば、コールドスリープ技術などは、「待った」をかけるものであって、面白いと思う。
くそ、やる気が起きないモードである。
どうしたもんか。
こういうときは、「頭を白紙にしたいときのBGM」を聴くのもよいだろう。
おっし、こういうときはコーヒーでも淹れよう。
――ふぅ、旨い。
やる気は戻らず。
「期待」されるということは、重荷でもある。
その、ストレスチェック的なので、結婚とか、慶事と呼ばれるものであっても、ストレスは大きいものなのだという。
要は、ストレスは、外圧である。
んで、人間には、その外圧に抵抗する能力が備わっている。レジデンスとかいうんだっけ。違った、「レジリエンス」だった。レジデンスは住居のことだ。
ふと、書物を手に取る。ジョルジュ・バタイユの『内的体験』P.381だ。
「身体の痛みをしてなお思考できる人を尊敬する」
ということに関連している。
上の引用における太字下線部分は、僕が引いたものだが、原書には、「眠りこけてしまった」ところが傍点であった。
これが意味するところは(おそらく。すべておそらくだが)、思考、哲学という次元は、身体、生理的な次元とは切り離せないということであろう。
18世紀のヘーゲル氏などは、弁証法ということで、世界の摂理を哲学で明らかにしようとした偉大な方である。
しかし、「いや、別に世界とかどうでもいいし」とその少し後にキルケゴール氏は実存哲学を打ち出したのである。
俺は、どっちかというと、「世界とかどうでもいいし」派である。
何故そうなったのかは、よく分からない。中学生ぐらいの失恋が原因だったと言ってしまえば簡単だが、勉強や部活など、学生時代に「価値」とされるものでの挫折が原因だったともいえる。
取り敢えずそういうことだと思っている。だが、過去の原因を、フロイト氏の精神療法のように引きずり出したところで、別に心的外傷ほどでもないので、重要ではないとも思っている。
しかし、「自分」というものを追求したとしても、仏教的にいえば、縁起であり、諸法無我であり、確固たる自己というものはありえない。
確かに、絶対普遍はありえないが、そこには「関係」というのは存在する。
関係はしている。
ということは、相互影響は発生しているのだ。
世界と自分。
世界は大きいので、自分の影響は、原子における、素粒子(クォーク)を陽子や中性子に閉じ込める強い力と、それと比べると非常に小さい電磁気力との差のようである。
しかし、原子というシステムは、強い力も、弱い力も、電磁気力も含めて、総エネルギーなのだ。
世界に対しての自分の影響は小さかろうが、自分がなくなれば、世界はその一部を失うのだ。
それでいいじゃないか。という考えもある。
つまり、家族。大事な人の関係において、自分の価値を感じ続ける方法。
それが充足できれば、趣味のコミュニティでも、会社でも、社会でも、広げていってもいい。
広げる、という言葉を使ったが、その、認められたいという欲求、承認欲求ともいうが、それが、家族の範囲では収まらない人もいる。社会や、国など、大きなところで発揮しなければ満足できない人もいる。
人、それぞれの欲求範囲がある。
先日かいつか、分からないが前に書いたのは、人の根源は欲求であるということだ。
その欲求の多寡で、人の生活が決まる。
(かっこ書きである。引用除けば、1600字程度の記事だ。短いな。やる気の低下が原因だ。しかし、ルーチン更新はよい試みだった。そういえば、3月までという期限があった気がする。だが、更新しよう。ええと、いや、取り敢えず目標達成だ! おめでとう、自分! あ、違った、「3月30日(土)まで」と書いてあった。自分で決めたルールは、守らなければならない。「がちがち過ぎない?」「そんなんで疲れない?」とか周囲から言われることはあるが、違うんだ。そういう問題じゃないんだ。逆に、ルールは、俺に生きる希望を与えてくれるのだ。桎梏ではないのだ。最近、仕事面では、ますます期待されたり、褒められたりすることが多くなった。喜ばしいことだと思うか? 否。いや――「だめなやつ」と言われるのは非常に落ち込むわけであるが、かといって、褒められたところで嬉しいのではなく、「ああ、よかった」程度なのだ。プラスではなく、ようやくゼロになったかのような。人の評価を気にしすぎている? ああ、そうだろう。しかし、「気にしない気にしない」と念じたところで、そんなん無駄である。承認欲求ちゅうのは、どこにでも付きまとうのである。ホリエモン氏とか、高い自己肯定感をもっている人は、自由に生きているようであるが、それは、「他者がなんといおうが、俺は俺だし、認めてくれる人は認めてくれるし、生きてくぶんに資産も十分だし困らないし」という超越状態だからである。凡人から超越者を目指すという方法もあるが、果たして。投資の神様のバフェット氏のルールを自分のルールとして行動すると成功するというが、「自分が先例としてルールとしたい人」って、どこにいるんだろうか。俺が不幸なのは、その、人を尊敬するという能力の欠如かもしれない。だがこれは、学ぼうと思って学べるものでもない。探さなければいけない。探して見つからなければ、自分がなるしかない。そのためのルールでもある。――ってあれだな、いつものごとく、かっこ書きになると筆が進むようになってくる。多分、このカッコ書きと本文とでは、文章量は逆転するかもしれないがかかった時間は半分程度だろう。誰かを、尊敬する、か。この尊敬というのはキーワードかもしれない。メンターとか。まぁそういう人がいた方が逆に絶対楽だよな。楽……か。なんか、楽したい、というのも感覚として合わないんだよな。楽、というよりかは、充足したい。それ、表現として違うのか? 分からない、が、違うとは思う。うーむ……目がかゆい……ってこのやる気のなさは、もしや花粉症のせいなのかもしれない。となると、「生理的な云々」という今回の記事と珍しく関連して、かっこ書きも終わることとなる)
前書き
進退窮まった。――という言葉は、前にも後ろにも進めないという状況を示すようだが、時間的意味であれば、前に進むしかない。その「時間」という絶対性に対して、例えば、コールドスリープ技術などは、「待った」をかけるものであって、面白いと思う。
くそ、やる気が起きないモードである。
どうしたもんか。
こういうときは、「頭を白紙にしたいときのBGM」を聴くのもよいだろう。
ネタがないとかないとか言ってなかったか
おいおい、ネタなんて、「感情」があれば、いくらでも書ける。毎日だって余裕だ、なんて前回とかに書いてなかったか。おっし、こういうときはコーヒーでも淹れよう。
――ふぅ、旨い。
やる気は戻らず。
「期待」されるということは、重荷でもある。
その、ストレスチェック的なので、結婚とか、慶事と呼ばれるものであっても、ストレスは大きいものなのだという。
要は、ストレスは、外圧である。
んで、人間には、その外圧に抵抗する能力が備わっている。レジデンスとかいうんだっけ。違った、「レジリエンス」だった。レジデンスは住居のことだ。
ジョルジュ・バタイユ内的体験
もはや、断片となり、記事の文章は意味をなさない。ゲシュタルト崩壊である。ふと、書物を手に取る。ジョルジュ・バタイユの『内的体験』P.381だ。
すべての問題はある意味ではその問題の時間割だ。それは先決すべき問いを含んでいる。――ここで(私がじぶんの人間としての個別者としての本質を示しているこの世界において)、そして今、私はなにをなすべきか(何をしなければならないか、あるいは何をするのが私の利益となるのか、またあるいは、私はどんなことをする欲望をもっているのか)という問いだ。黙読すると、1分かからない程度だが、これ、600字程度あった。
こうして書きながら私は諸問題の根底に触れるつもりだった。そのくせ、この仕事を自らに課しながら、私は眠り込んでしまった。
こういう答え方には、その日一日の疲れが映っていたようだ、だがそれはまた、私の世界を見る見方の忠実な似姿でもある。
かくも深いところから表現されているのは、認識の操作における私という存在の本質である。すなわち、ある種の性向が認識への欲望を妨げるということは、どうでもいいことではありえないのだ。
哲学は、もしそれが自分の限界点にまで達しようと努力するところのものであるならば、まず、哲学者という生身の人間において、一つの緊急な問題を解かねばなるまい。すなわち、この仕事(自分の限界点にまで達しようと努力する仕事)は火急のものなのか、この私にとって火急のものなのか、人間一般にとって火急のものなのか、という問題を。大多数の人間にとって哲学は火急のものではないという事実は、通常、一面ではマズ生キルコトダ(食うことだ)という点に起因し、他面、哲学をやるだけの時間が実際にあるような人々の無能ぶり(知性の欠如、浮薄な性質)に起因する。
要約(駄約)すると
フランスの著名な哲学者さんの文章であるが、これは、いくどか書いてきている、「身体の痛みをしてなお思考できる人を尊敬する」
ということに関連している。
上の引用における太字下線部分は、僕が引いたものだが、原書には、「眠りこけてしまった」ところが傍点であった。
これが意味するところは(おそらく。すべておそらくだが)、思考、哲学という次元は、身体、生理的な次元とは切り離せないということであろう。
18世紀のヘーゲル氏などは、弁証法ということで、世界の摂理を哲学で明らかにしようとした偉大な方である。
しかし、「いや、別に世界とかどうでもいいし」とその少し後にキルケゴール氏は実存哲学を打ち出したのである。
俺は、どっちかというと、「世界とかどうでもいいし」派である。
何故そうなったのかは、よく分からない。中学生ぐらいの失恋が原因だったと言ってしまえば簡単だが、勉強や部活など、学生時代に「価値」とされるものでの挫折が原因だったともいえる。
取り敢えずそういうことだと思っている。だが、過去の原因を、フロイト氏の精神療法のように引きずり出したところで、別に心的外傷ほどでもないので、重要ではないとも思っている。
しかし、「自分」というものを追求したとしても、仏教的にいえば、縁起であり、諸法無我であり、確固たる自己というものはありえない。
無価値ではない
逆にそのこと(諸法無我)は、「無価値」を示すのではない。確かに、絶対普遍はありえないが、そこには「関係」というのは存在する。
関係はしている。
ということは、相互影響は発生しているのだ。
世界と自分。
世界は大きいので、自分の影響は、原子における、素粒子(クォーク)を陽子や中性子に閉じ込める強い力と、それと比べると非常に小さい電磁気力との差のようである。
しかし、原子というシステムは、強い力も、弱い力も、電磁気力も含めて、総エネルギーなのだ。
世界に対しての自分の影響は小さかろうが、自分がなくなれば、世界はその一部を失うのだ。
それでいいじゃないか。という考えもある。
つまり、家族。大事な人の関係において、自分の価値を感じ続ける方法。
それが充足できれば、趣味のコミュニティでも、会社でも、社会でも、広げていってもいい。
広げる、という言葉を使ったが、その、認められたいという欲求、承認欲求ともいうが、それが、家族の範囲では収まらない人もいる。社会や、国など、大きなところで発揮しなければ満足できない人もいる。
人、それぞれの欲求範囲がある。
先日かいつか、分からないが前に書いたのは、人の根源は欲求であるということだ。
その欲求の多寡で、人の生活が決まる。
(かっこ書きである。引用除けば、1600字程度の記事だ。短いな。やる気の低下が原因だ。しかし、ルーチン更新はよい試みだった。そういえば、3月までという期限があった気がする。だが、更新しよう。ええと、いや、取り敢えず目標達成だ! おめでとう、自分! あ、違った、「3月30日(土)まで」と書いてあった。自分で決めたルールは、守らなければならない。「がちがち過ぎない?」「そんなんで疲れない?」とか周囲から言われることはあるが、違うんだ。そういう問題じゃないんだ。逆に、ルールは、俺に生きる希望を与えてくれるのだ。桎梏ではないのだ。最近、仕事面では、ますます期待されたり、褒められたりすることが多くなった。喜ばしいことだと思うか? 否。いや――「だめなやつ」と言われるのは非常に落ち込むわけであるが、かといって、褒められたところで嬉しいのではなく、「ああ、よかった」程度なのだ。プラスではなく、ようやくゼロになったかのような。人の評価を気にしすぎている? ああ、そうだろう。しかし、「気にしない気にしない」と念じたところで、そんなん無駄である。承認欲求ちゅうのは、どこにでも付きまとうのである。ホリエモン氏とか、高い自己肯定感をもっている人は、自由に生きているようであるが、それは、「他者がなんといおうが、俺は俺だし、認めてくれる人は認めてくれるし、生きてくぶんに資産も十分だし困らないし」という超越状態だからである。凡人から超越者を目指すという方法もあるが、果たして。投資の神様のバフェット氏のルールを自分のルールとして行動すると成功するというが、「自分が先例としてルールとしたい人」って、どこにいるんだろうか。俺が不幸なのは、その、人を尊敬するという能力の欠如かもしれない。だがこれは、学ぼうと思って学べるものでもない。探さなければいけない。探して見つからなければ、自分がなるしかない。そのためのルールでもある。――ってあれだな、いつものごとく、かっこ書きになると筆が進むようになってくる。多分、このカッコ書きと本文とでは、文章量は逆転するかもしれないがかかった時間は半分程度だろう。誰かを、尊敬する、か。この尊敬というのはキーワードかもしれない。メンターとか。まぁそういう人がいた方が逆に絶対楽だよな。楽……か。なんか、楽したい、というのも感覚として合わないんだよな。楽、というよりかは、充足したい。それ、表現として違うのか? 分からない、が、違うとは思う。うーむ……目がかゆい……ってこのやる気のなさは、もしや花粉症のせいなのかもしれない。となると、「生理的な云々」という今回の記事と珍しく関連して、かっこ書きも終わることとなる)