今日の一言「定期更新だ」「1月14日に決めたことだったんだな」
いよいよ、来週3月30日(土)が最後のルーチン更新日だ。
目標達成できそうである。
小さな目標であるけれども、何であれ、「達成」できたというのは大事なことだ。
とかって、まず、「セルフマネジメント」――かっこ笑い、である。
こういう、横文字を何か「へっ」っと、鼻で笑ってしまう人は少なくなかろう。欧米コンプレックスか。
この前、「レジリエンス」という、ストレスに対する「復元力」について書いたけれども、なんでこう、横文字(というかカタカナ)が登場するのか。
最近覚えた言葉といえば、「フレイル」。なんか、ゲームの魔法のような言葉だが、「虚弱」という意味で、「健常」と「要介護」の中間をあらわす、介護分野で登場する言葉のようだ。新聞とかでも登場するので、「一般的に覚えとけ」ってことなんだと思う。
何故あえて、耳慣れない言葉を使うのか。
その理由は、おそらく、耳慣れないこと、そのものにあると思う。
要は、「虚弱」とかいったところで、なんとなく聞き流してしまう。
一方で、「フレイル」という言葉を使うと、なんとなく耳に残る。「スケイル」だか「ボイル」だか、なんか間違って印象に残ったり、忘れてしまう人もいるかもしれないが、それでも、「残る」。
それが目的なんだろう。
新しい概念を印象付けるための、キャッチコピーみたいなもんだと思う。そこに本質は、ない。
ない、けれども、きっかけとしての役割は果たしていることだろう。自己肯定感の章立てのはずだったのに、話がそれた。
何故か。人は目的的な存在だからだ。
人は、一般の動物とは違い、知的である。抽象的な思考ができる。「考える」こと自体は、猫でもしているかもしれない。3歳児ぐらいの知能はあるとか聞いたことがあるような気がする。
しかし、「無駄なことを考える」ことができるのは、人間しかいない。
先日、いつだかは忘れたけれども、「オタクは無駄なことをするのだ」とか、そういう記事を書いた気がする。
そのとき僕は、そもそも「オタク」という言葉も廃れている印象があることに触れたうえで、無駄なことをするということは、全然ありだ、と書いたはずだ。
あり、どころか、「無駄なことをする」ことこそが、人間としての特徴ともいえる。
さてその無駄とは?
無駄、というのは、無能・無意味・無価値、という意味もあるだろうが、ここでは、「直接的に役に立たないこと」という意味で捉えてみよう。
今すぐは使えないこと。無駄。
まぁそれはそれで書き進めてもいいのだが、しかし、「本当に無駄なこと」というのがあるのではないか、という疑義が生じた。
今すぐ役に立たないこと……という言い回しは、要は、いずれは役に立つ可能性があること、という含意である。
今、ナウに必要なことが重要だ、という意見に対する反論であるが、しかし、それはそうとして、「では、本当に無駄なものは、無駄ってことでいいんですね」という疑義に、何と答えようか。
これに対しては、具体例が必要だ。本当に無駄なもの、というモノ・コトが、僕はイメージできない。
いや、「ついついやってしまうこと」として、「ひげじょり手すさび」があったとする。これは無駄だろう。ひげは翌日にはのびてくる。触っていたとしても、なくなるわけでもない。無駄だ。
まぁそういう些細な無駄はたくさんあるだろう。だが、本当に意識して、無駄なことをしようと思う人はいるのだろうか?
いない、と僕は思っている。違うのだろうか。
無駄なことをする、というのは、それは二律背反なのではないだろうか。矛盾。
その「無駄」というのは、あくまでも、自分以外の存在、他者から見たときに、無駄にみえる、ということなのだと思われる。
他者からしたら、「それ、意味あるの?」と、「要領悪いなぁ」と思うようなことでも、本人にしてみたら無駄には思えないことはあるはずだ。
いや逆に、これまでの記載はすべて、「自由意志」が成り立つ世界においてのものだ。
奴隷や、強制労働、不条理な仕事において、自分の意志にかかわらず、「無駄なことをさせられる」ということはあるだろう。
しかしそれは、受動的なものである。
ここで書いてきたのは、能動的に無駄なことをする、というのはありえるだろうか、ということだ。
何らか、必要だと思ってやっているのである(強制させられる場合など、例外は多々あるにせよ)。
であるからにして、他者の意志によって僕らは生きるのではないのだから、「自己肯定感」――つまり、自分で自分を認めるということが重要だ、ということだ。
申し込んだのは「JPWiMAX:https://jpwimax.jp/」。
速度チェッカーで試してみると、60mbps~80mbpsほど。
50mbpsで動画再生に支障がないほどということなので、十分な速度といえる。実際、アマゾンプライムでの視聴も問題なかった。
オンラインゲームするとなると、100mbpsが必要、ということだが、GTA5のPC版をやってみたが、一瞬ラグいときはあったが、おおよそプレイするには問題なかった。
(これは、FPSとか、対人戦をゴリゴリする人はまた違った感覚になると思う。僕も昔はFPSとかやっていたけれども、もうそういったゴリゴリしたのはあまりやらないので、この辺りは問題ない)
気になる月額は、24か月間3500円で、その後12か月は4100円である。
これまでの回線は月額6500円ほどだったので、費用削減になったといえる。
(これまでの回線の速度は、110~130mbpsだった。ポケットwifi特有の速度制限:3日間で10GB制限もなかったわけだし、その点は品質ダウンである。そのあたりと、月額3000円程度安いということと、どう考えるか)
(かっこ書きである。とあるIPA(情報処理推進機構)の国家試験を受けようと思う。というのと、書類整理を進めた。やはり定期的にやらんといかん作業だな。だが、数年前? いつだか忘れたけれども、1年がかりでいろいろ整理していった結果、結構いい感じ(整理がまぁまぁできている状況)になっていて、それほど時間を要しなかった。まだまだ、すすめられる余地もあるが、焦らず着実に進めていきたい。ミニマリストは、一日ではなれない。完全なミニマリストを目指しているわけでもない。余裕があってもいい。僕が目指しているのは、「完璧な管理」だ。完璧とか絶対という万物普遍はありえない、と常々言っているが、「管理」はしたい。本文にもでてきたが、管理とは、英語ではマネジメントだ。まぁ正式な定義はともかく、僕の理解としては、所有するモノを知悉することだ。何がどこにあるかがすぐに分かることだ。「あ、これって、こんなところにあったんだ!」というのをなくしたい。いらないものを持ちたくない。ネット回線もしかり。靴下を統一するのもしかり――あ、これ、くつした、ユニクロでいつも買っているが、俺がいつも購入している商品をおかなくなりやがった!!(ほとんど同じだが、若干デザインを変えてきた)くっそぅぅ! これがあるから、ある程度大量買いしておきたかったのだが、だが、在庫を抱えるのはまた、ポリシーに反するわけであり、くっ、なんたる葛藤だ……。っと、補足すれば、こうやって文章に書くと、やけに「生きづらそうなやつだな」と思われるだろうが、むしろこれらは逆である。管理できていた方がよほど気持ちがいいのである。ああ、こう書くと、整然として埃一つない状態を「正」にしているようだが、少し違う。が、長くなるからもうやめる。だが、そういえば、ワンピースの作者の仕事場、というか自宅は、「モノ」にあふれていた。んで、なんかの調査かアンケートで、クリエイティブな人は雑然とした状態を好む、とされていた。その「雑然」と、「管理」は反しないことだと思っている。雑然というのは、空間に対しての量もあるが、その状態であっても、自分で何がどこにあるかが分かっていれば、それは「管理」されているといえるのである。巨大な居住スペースを擁していれば、管理していなくても、それなりに綺麗にみせることは可能だ。だが当の本人が、何がどこにあるか分かっていなければ、宝の持ち腐れどころか、ゴミ、だ)
前書き
定期更新を、当初予定通りに、土曜日に書けたのは久しぶりな気もする。いよいよ、来週3月30日(土)が最後のルーチン更新日だ。
目標達成できそうである。
小さな目標であるけれども、何であれ、「達成」できたというのは大事なことだ。
自己肯定感
要所で聞かれることであるが、セルフマネジメントにおいて、自己肯定感は重要だ。とかって、まず、「セルフマネジメント」――かっこ笑い、である。
こういう、横文字を何か「へっ」っと、鼻で笑ってしまう人は少なくなかろう。欧米コンプレックスか。
この前、「レジリエンス」という、ストレスに対する「復元力」について書いたけれども、なんでこう、横文字(というかカタカナ)が登場するのか。
最近覚えた言葉といえば、「フレイル」。なんか、ゲームの魔法のような言葉だが、「虚弱」という意味で、「健常」と「要介護」の中間をあらわす、介護分野で登場する言葉のようだ。新聞とかでも登場するので、「一般的に覚えとけ」ってことなんだと思う。
何故あえて、耳慣れない言葉を使うのか。
その理由は、おそらく、耳慣れないこと、そのものにあると思う。
要は、「虚弱」とかいったところで、なんとなく聞き流してしまう。
一方で、「フレイル」という言葉を使うと、なんとなく耳に残る。「スケイル」だか「ボイル」だか、なんか間違って印象に残ったり、忘れてしまう人もいるかもしれないが、それでも、「残る」。
それが目的なんだろう。
新しい概念を印象付けるための、キャッチコピーみたいなもんだと思う。そこに本質は、ない。
ない、けれども、きっかけとしての役割は果たしていることだろう。自己肯定感の章立てのはずだったのに、話がそれた。
セルフマネジメント
話を戻す。自己肯定感についてだ。セルフマネジメント、つまり、自分をコントロールする、調整する、管理する場面において、自己肯定感は重要だ。何故か。人は目的的な存在だからだ。
人は、一般の動物とは違い、知的である。抽象的な思考ができる。「考える」こと自体は、猫でもしているかもしれない。3歳児ぐらいの知能はあるとか聞いたことがあるような気がする。
しかし、「無駄なことを考える」ことができるのは、人間しかいない。
先日、いつだかは忘れたけれども、「オタクは無駄なことをするのだ」とか、そういう記事を書いた気がする。
そのとき僕は、そもそも「オタク」という言葉も廃れている印象があることに触れたうえで、無駄なことをするということは、全然ありだ、と書いたはずだ。
あり、どころか、「無駄なことをする」ことこそが、人間としての特徴ともいえる。
さてその無駄とは?
無駄、というのは、無能・無意味・無価値、という意味もあるだろうが、ここでは、「直接的に役に立たないこと」という意味で捉えてみよう。
今すぐは使えないこと。無駄。
本当に無駄なこと
おおおおう、話がそれている。自己肯定感は何故重要か? という問いじゃあなかったのか。今俺は、「無駄なことをしたっていいじゃないか。むしろ、無駄なこと=抽象的なことであり、それこそが人間の最たる特徴である」ということを書こうとしていた。まぁそれはそれで書き進めてもいいのだが、しかし、「本当に無駄なこと」というのがあるのではないか、という疑義が生じた。
今すぐ役に立たないこと……という言い回しは、要は、いずれは役に立つ可能性があること、という含意である。
今、ナウに必要なことが重要だ、という意見に対する反論であるが、しかし、それはそうとして、「では、本当に無駄なものは、無駄ってことでいいんですね」という疑義に、何と答えようか。
これに対しては、具体例が必要だ。本当に無駄なもの、というモノ・コトが、僕はイメージできない。
いや、「ついついやってしまうこと」として、「ひげじょり手すさび」があったとする。これは無駄だろう。ひげは翌日にはのびてくる。触っていたとしても、なくなるわけでもない。無駄だ。
まぁそういう些細な無駄はたくさんあるだろう。だが、本当に意識して、無駄なことをしようと思う人はいるのだろうか?
いない、と僕は思っている。違うのだろうか。
無駄なことをする、というのは、それは二律背反なのではないだろうか。矛盾。
他者という存在
つまり、本人にとって、無駄なことをしている認識はないはずだ、という仮説。その「無駄」というのは、あくまでも、自分以外の存在、他者から見たときに、無駄にみえる、ということなのだと思われる。
他者からしたら、「それ、意味あるの?」と、「要領悪いなぁ」と思うようなことでも、本人にしてみたら無駄には思えないことはあるはずだ。
いや逆に、これまでの記載はすべて、「自由意志」が成り立つ世界においてのものだ。
奴隷や、強制労働、不条理な仕事において、自分の意志にかかわらず、「無駄なことをさせられる」ということはあるだろう。
しかしそれは、受動的なものである。
ここで書いてきたのは、能動的に無駄なことをする、というのはありえるだろうか、ということだ。
だからね
なので、奇跡的に自己肯定感の話に戻るけれども、上のように、無駄なことは僕らはしないのである。何らか、必要だと思ってやっているのである(強制させられる場合など、例外は多々あるにせよ)。
であるからにして、他者の意志によって僕らは生きるのではないのだから、「自己肯定感」――つまり、自分で自分を認めるということが重要だ、ということだ。
雑記
と、いうことを、新しい回線、ポケットワイファイで書いているが、特に問題なし、である。申し込んだのは「JPWiMAX:https://jpwimax.jp/」。
速度チェッカーで試してみると、60mbps~80mbpsほど。
50mbpsで動画再生に支障がないほどということなので、十分な速度といえる。実際、アマゾンプライムでの視聴も問題なかった。
オンラインゲームするとなると、100mbpsが必要、ということだが、GTA5のPC版をやってみたが、一瞬ラグいときはあったが、おおよそプレイするには問題なかった。
(これは、FPSとか、対人戦をゴリゴリする人はまた違った感覚になると思う。僕も昔はFPSとかやっていたけれども、もうそういったゴリゴリしたのはあまりやらないので、この辺りは問題ない)
気になる月額は、24か月間3500円で、その後12か月は4100円である。
これまでの回線は月額6500円ほどだったので、費用削減になったといえる。
(これまでの回線の速度は、110~130mbpsだった。ポケットwifi特有の速度制限:3日間で10GB制限もなかったわけだし、その点は品質ダウンである。そのあたりと、月額3000円程度安いということと、どう考えるか)
(かっこ書きである。とあるIPA(情報処理推進機構)の国家試験を受けようと思う。というのと、書類整理を進めた。やはり定期的にやらんといかん作業だな。だが、数年前? いつだか忘れたけれども、1年がかりでいろいろ整理していった結果、結構いい感じ(整理がまぁまぁできている状況)になっていて、それほど時間を要しなかった。まだまだ、すすめられる余地もあるが、焦らず着実に進めていきたい。ミニマリストは、一日ではなれない。完全なミニマリストを目指しているわけでもない。余裕があってもいい。僕が目指しているのは、「完璧な管理」だ。完璧とか絶対という万物普遍はありえない、と常々言っているが、「管理」はしたい。本文にもでてきたが、管理とは、英語ではマネジメントだ。まぁ正式な定義はともかく、僕の理解としては、所有するモノを知悉することだ。何がどこにあるかがすぐに分かることだ。「あ、これって、こんなところにあったんだ!」というのをなくしたい。いらないものを持ちたくない。ネット回線もしかり。靴下を統一するのもしかり――あ、これ、くつした、ユニクロでいつも買っているが、俺がいつも購入している商品をおかなくなりやがった!!(ほとんど同じだが、若干デザインを変えてきた)くっそぅぅ! これがあるから、ある程度大量買いしておきたかったのだが、だが、在庫を抱えるのはまた、ポリシーに反するわけであり、くっ、なんたる葛藤だ……。っと、補足すれば、こうやって文章に書くと、やけに「生きづらそうなやつだな」と思われるだろうが、むしろこれらは逆である。管理できていた方がよほど気持ちがいいのである。ああ、こう書くと、整然として埃一つない状態を「正」にしているようだが、少し違う。が、長くなるからもうやめる。だが、そういえば、ワンピースの作者の仕事場、というか自宅は、「モノ」にあふれていた。んで、なんかの調査かアンケートで、クリエイティブな人は雑然とした状態を好む、とされていた。その「雑然」と、「管理」は反しないことだと思っている。雑然というのは、空間に対しての量もあるが、その状態であっても、自分で何がどこにあるかが分かっていれば、それは「管理」されているといえるのである。巨大な居住スペースを擁していれば、管理していなくても、それなりに綺麗にみせることは可能だ。だが当の本人が、何がどこにあるか分かっていなければ、宝の持ち腐れどころか、ゴミ、だ)
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今日の一言「臨時の記事だ」「30分制限」
仕事&プライベートで片付けなければいけない問題がいくつかあって、落ち着かない。
落ち着かないが、整理した。
プライベート問題も、大きく分けると2つのことだが、実際に作業ベース(タスク)に落とし込むと、実に7つもの作業があった。これは落ち着かないわけだ。この7つを、順序良くこなす必要がある。
そのうち一つが、タイトルに書いてあるネット回線の見直しである。
これ、以下の昔の記事(2017/6/21)で「検討しなきゃ~」って書いておいて、結局そのままになっていた。
格安SIMへの乗り換え
http://unfixation.gjpw.net/arrange/20170621
今回、もろもろの問題が起きたのがきっかけだが、結論として、3年で約10万円ほどのコストダウンが図られる試算となった。
そこに行き着くまでに、様々なタスクがあって、面倒という気持ちが高まる限りであるが、しかし、それによって調べて学んだこともあるし、結果として上々であると思おう。
30分制限、としたが、もう、書くべきことは見当たらない。
ああ、やる気でないなぁ、どこに行ってしまったんだ。
なんのやる気か。
そう、そう、そうだ。
やる気を探す旅をやめたくなるやる気のなさだ。分かりづらいな。
こういうときは、過去の記事を読んでみる。
面白い。
自画自賛気持ち悪い、と思われるだろうが、でも面白くなかろうか?
全部が全部面白いとは全く思わないのだが、時折、珠玉が光るのである。
やる気が出ない時こそ、書け。こういうときの記事は逆に貴重だ。
間違いなく、異動になるだろうことが、新しい環境になるだろうことが、僕を憂鬱にさせているのだ。
とある先輩が、「栄転とか思ってるんだろうが、俺は認めないからな(意訳)」と言ってきたことも棘が引っ掛かっている。とある先輩は「俺の部下に早く戻ってきてくれよ」と言ってくれたりするし、まぁ要するに、他者の評価とか感想とか気にしていてもきりがないのだ。一喜一憂することほど時間の浪費はない。
小説の世界でもそうだ。「面白い」と言ってくれる人もいれば、「ゴミ以下」と言ってくる人もいる。
そういう時、何をジャイロスコープにすればよいのか。何を一里塚にするべきか。何を結節点とするべきか。何を依り代にするべきか。
いやぁ、「自分」しかないでしょう、と思う。
自分が、「これはくそ面白い」と思うことや、「これは正しい」と思うこと、または、「過去の自分よりも成長している」と感じること、それぐらいっしょや。
エセカリスマは、信者からの信仰によって、自我同一性を保っている。
しかし、本当に尊敬される人は、ある意味評価軸から自由になっている。
誰かがこういうからこうする、のではなく、「したいからする」だけだと。
そういった姿が、凡人からすれば超越してみえて、結果的に尊敬されるということにつながっているだけだ。
いやーすごいっすねぇ、さすがっすねぇえ、と、にへらにへら近寄ってくる人は胡散臭い。
褒められなれていないというのが単純に原因な気がするが、過剰に褒められても本気に思えない。
まぁ、人を評価するときは、そうじゃいけないのかもしれんが。
(かっこ書きである。つらい。疲れた。今日、絶対文章書ける状況じゃなかった。眠い。もうヤダ。――だが、書いた。偉い。褒める。自画自賛。自己満足。いやぁしかし、「文章」って、その書いている状態が一切わからない。わかる必要がない、というのもある。読み手としては、その「内容」が必要なのであって、その文章が紡がれる作者の状態なんてどうでもいいのだ。小説作品において、作者がつかれているからといって、展開がぐだぐだだったら怒るだろう。しかしちょっとタイムしてみたときに、ブログ、というのは、「作者」自身と密接に関わってしかるべきだと思う。何月何日、晴れ、といった天気はどうでもいいかもしれないが、その書いた時の状況はあった方が面白いと思う。リアルタイム性もあってよい。そう、その「晴れ」というのも、じとじとした前日に比べて気持ちがよかったが、花粉が飛んでいたせいでつらかった、という状態を示すために必要な情報なら書いてしかるべきだろう。そんなもん、誰が読むのか? 俺が読んでやるよ。実際、ぐだぐだな数年前の記事も読んでやった。いいじゃないか、悪くない、悪くないぞ。絶対こんなもん、書店のエッセイコーナーや、自己啓発本なんかじゃ読めなかろう。レアだ。希少価値だ。真面目な話、ぐだぐだしている状況の分析も重要である。ニュースやレッスン本なんかは、「正しい」ことが書かれているかもしれないが、その「正しい」にのっかれない僕ら(「ら」ってのが俺一人かもしれんが)凡人の性質ってのは、十分に考慮すべきだと思うのである。例えば、筋トレを毎日やるのはよくないと言われるが、超負荷超回復のガチ筋トレではそうだろうが、強弱の調整をつけてやっていくなど工夫のしようはある。「毎日やる」といったほうが、むしろ続けられるという人もいるのである。習慣化するというのも、人それぞれのサガによって、方法が異なることだろうと思う。眠い、そろそろ終わっていいか。しかし、まとまりが聞いてない記事の時は、どうにも、終わりが見えずに、「足りない」「足りない」という強迫観念に襲われる)
前書き
くっそやる気が起きないモード継続中だ。仕事&プライベートで片付けなければいけない問題がいくつかあって、落ち着かない。
落ち着かないが、整理した。
プライベート問題も、大きく分けると2つのことだが、実際に作業ベース(タスク)に落とし込むと、実に7つもの作業があった。これは落ち着かないわけだ。この7つを、順序良くこなす必要がある。
そのうち一つが、タイトルに書いてあるネット回線の見直しである。
これ、以下の昔の記事(2017/6/21)で「検討しなきゃ~」って書いておいて、結局そのままになっていた。
格安SIMへの乗り換え
http://unfixation.gjpw.net/arrange/20170621
今回、もろもろの問題が起きたのがきっかけだが、結論として、3年で約10万円ほどのコストダウンが図られる試算となった。
そこに行き着くまでに、様々なタスクがあって、面倒という気持ちが高まる限りであるが、しかし、それによって調べて学んだこともあるし、結果として上々であると思おう。
前向きに
とでも思わないとやってられないぜ、ははは。30分制限、としたが、もう、書くべきことは見当たらない。
ああ、やる気でないなぁ、どこに行ってしまったんだ。
なんのやる気か。
そう、そう、そうだ。
やる気を探す旅をやめたくなるやる気のなさだ。分かりづらいな。
こういうときは、過去の記事を読んでみる。
――2017年3月30日の記事だ。言語、とは、記号である。無限の世界を、分類することである。モノ・コトに、延々、名前をつけていっても、終わりはない。だから、僕が、いくら、僕のことを、こうしてブログに書いていっても、100記事、1000記事、10000記事になろうが、「僕」という表現は、完結しないのである。これについて、「自分」が常に変化しているからである、とコメント頂いたわけであるが、この指摘は非常に鋭くて僕の魂魄に突き刺さった。ただし、その観点とは別に、そもそも、表現できることに限りはないのである。自分というものを正確に完璧に表現できる言語など、存在しえないのである。
面白い。
自画自賛気持ち悪い、と思われるだろうが、でも面白くなかろうか?
全部が全部面白いとは全く思わないのだが、時折、珠玉が光るのである。
書け書け書き続けろ
だから、書き続けろ。やる気が出ない時こそ、書け。こういうときの記事は逆に貴重だ。
間違いなく、異動になるだろうことが、新しい環境になるだろうことが、僕を憂鬱にさせているのだ。
とある先輩が、「栄転とか思ってるんだろうが、俺は認めないからな(意訳)」と言ってきたことも棘が引っ掛かっている。とある先輩は「俺の部下に早く戻ってきてくれよ」と言ってくれたりするし、まぁ要するに、他者の評価とか感想とか気にしていてもきりがないのだ。一喜一憂することほど時間の浪費はない。
小説の世界でもそうだ。「面白い」と言ってくれる人もいれば、「ゴミ以下」と言ってくる人もいる。
そういう時、何をジャイロスコープにすればよいのか。何を一里塚にするべきか。何を結節点とするべきか。何を依り代にするべきか。
いやぁ、「自分」しかないでしょう、と思う。
自分が、「これはくそ面白い」と思うことや、「これは正しい」と思うこと、または、「過去の自分よりも成長している」と感じること、それぐらいっしょや。
誰かを尊敬することも大事だが
先日、「尊敬する能力が必要だ」と書いたけれども、しかし、本当に尊敬されるべき人は、尊敬されることをさほど望んでいない、と勝手に思う。エセカリスマは、信者からの信仰によって、自我同一性を保っている。
しかし、本当に尊敬される人は、ある意味評価軸から自由になっている。
誰かがこういうからこうする、のではなく、「したいからする」だけだと。
そういった姿が、凡人からすれば超越してみえて、結果的に尊敬されるということにつながっているだけだ。
いやーすごいっすねぇ、さすがっすねぇえ、と、にへらにへら近寄ってくる人は胡散臭い。
褒められなれていないというのが単純に原因な気がするが、過剰に褒められても本気に思えない。
まぁ、人を評価するときは、そうじゃいけないのかもしれんが。
(かっこ書きである。つらい。疲れた。今日、絶対文章書ける状況じゃなかった。眠い。もうヤダ。――だが、書いた。偉い。褒める。自画自賛。自己満足。いやぁしかし、「文章」って、その書いている状態が一切わからない。わかる必要がない、というのもある。読み手としては、その「内容」が必要なのであって、その文章が紡がれる作者の状態なんてどうでもいいのだ。小説作品において、作者がつかれているからといって、展開がぐだぐだだったら怒るだろう。しかしちょっとタイムしてみたときに、ブログ、というのは、「作者」自身と密接に関わってしかるべきだと思う。何月何日、晴れ、といった天気はどうでもいいかもしれないが、その書いた時の状況はあった方が面白いと思う。リアルタイム性もあってよい。そう、その「晴れ」というのも、じとじとした前日に比べて気持ちがよかったが、花粉が飛んでいたせいでつらかった、という状態を示すために必要な情報なら書いてしかるべきだろう。そんなもん、誰が読むのか? 俺が読んでやるよ。実際、ぐだぐだな数年前の記事も読んでやった。いいじゃないか、悪くない、悪くないぞ。絶対こんなもん、書店のエッセイコーナーや、自己啓発本なんかじゃ読めなかろう。レアだ。希少価値だ。真面目な話、ぐだぐだしている状況の分析も重要である。ニュースやレッスン本なんかは、「正しい」ことが書かれているかもしれないが、その「正しい」にのっかれない僕ら(「ら」ってのが俺一人かもしれんが)凡人の性質ってのは、十分に考慮すべきだと思うのである。例えば、筋トレを毎日やるのはよくないと言われるが、超負荷超回復のガチ筋トレではそうだろうが、強弱の調整をつけてやっていくなど工夫のしようはある。「毎日やる」といったほうが、むしろ続けられるという人もいるのである。習慣化するというのも、人それぞれのサガによって、方法が異なることだろうと思う。眠い、そろそろ終わっていいか。しかし、まとまりが聞いてない記事の時は、どうにも、終わりが見えずに、「足りない」「足りない」という強迫観念に襲われる)
今日の一言「ルーチン更新だ」「まったく思いつかない」
その「時間」という絶対性に対して、例えば、コールドスリープ技術などは、「待った」をかけるものであって、面白いと思う。
くそ、やる気が起きないモードである。
どうしたもんか。
こういうときは、「頭を白紙にしたいときのBGM」を聴くのもよいだろう。
おっし、こういうときはコーヒーでも淹れよう。
――ふぅ、旨い。
やる気は戻らず。
「期待」されるということは、重荷でもある。
その、ストレスチェック的なので、結婚とか、慶事と呼ばれるものであっても、ストレスは大きいものなのだという。
要は、ストレスは、外圧である。
んで、人間には、その外圧に抵抗する能力が備わっている。レジデンスとかいうんだっけ。違った、「レジリエンス」だった。レジデンスは住居のことだ。
ふと、書物を手に取る。ジョルジュ・バタイユの『内的体験』P.381だ。
「身体の痛みをしてなお思考できる人を尊敬する」
ということに関連している。
上の引用における太字下線部分は、僕が引いたものだが、原書には、「眠りこけてしまった」ところが傍点であった。
これが意味するところは(おそらく。すべておそらくだが)、思考、哲学という次元は、身体、生理的な次元とは切り離せないということであろう。
18世紀のヘーゲル氏などは、弁証法ということで、世界の摂理を哲学で明らかにしようとした偉大な方である。
しかし、「いや、別に世界とかどうでもいいし」とその少し後にキルケゴール氏は実存哲学を打ち出したのである。
俺は、どっちかというと、「世界とかどうでもいいし」派である。
何故そうなったのかは、よく分からない。中学生ぐらいの失恋が原因だったと言ってしまえば簡単だが、勉強や部活など、学生時代に「価値」とされるものでの挫折が原因だったともいえる。
取り敢えずそういうことだと思っている。だが、過去の原因を、フロイト氏の精神療法のように引きずり出したところで、別に心的外傷ほどでもないので、重要ではないとも思っている。
しかし、「自分」というものを追求したとしても、仏教的にいえば、縁起であり、諸法無我であり、確固たる自己というものはありえない。
確かに、絶対普遍はありえないが、そこには「関係」というのは存在する。
関係はしている。
ということは、相互影響は発生しているのだ。
世界と自分。
世界は大きいので、自分の影響は、原子における、素粒子(クォーク)を陽子や中性子に閉じ込める強い力と、それと比べると非常に小さい電磁気力との差のようである。
しかし、原子というシステムは、強い力も、弱い力も、電磁気力も含めて、総エネルギーなのだ。
世界に対しての自分の影響は小さかろうが、自分がなくなれば、世界はその一部を失うのだ。
それでいいじゃないか。という考えもある。
つまり、家族。大事な人の関係において、自分の価値を感じ続ける方法。
それが充足できれば、趣味のコミュニティでも、会社でも、社会でも、広げていってもいい。
広げる、という言葉を使ったが、その、認められたいという欲求、承認欲求ともいうが、それが、家族の範囲では収まらない人もいる。社会や、国など、大きなところで発揮しなければ満足できない人もいる。
人、それぞれの欲求範囲がある。
先日かいつか、分からないが前に書いたのは、人の根源は欲求であるということだ。
その欲求の多寡で、人の生活が決まる。
(かっこ書きである。引用除けば、1600字程度の記事だ。短いな。やる気の低下が原因だ。しかし、ルーチン更新はよい試みだった。そういえば、3月までという期限があった気がする。だが、更新しよう。ええと、いや、取り敢えず目標達成だ! おめでとう、自分! あ、違った、「3月30日(土)まで」と書いてあった。自分で決めたルールは、守らなければならない。「がちがち過ぎない?」「そんなんで疲れない?」とか周囲から言われることはあるが、違うんだ。そういう問題じゃないんだ。逆に、ルールは、俺に生きる希望を与えてくれるのだ。桎梏ではないのだ。最近、仕事面では、ますます期待されたり、褒められたりすることが多くなった。喜ばしいことだと思うか? 否。いや――「だめなやつ」と言われるのは非常に落ち込むわけであるが、かといって、褒められたところで嬉しいのではなく、「ああ、よかった」程度なのだ。プラスではなく、ようやくゼロになったかのような。人の評価を気にしすぎている? ああ、そうだろう。しかし、「気にしない気にしない」と念じたところで、そんなん無駄である。承認欲求ちゅうのは、どこにでも付きまとうのである。ホリエモン氏とか、高い自己肯定感をもっている人は、自由に生きているようであるが、それは、「他者がなんといおうが、俺は俺だし、認めてくれる人は認めてくれるし、生きてくぶんに資産も十分だし困らないし」という超越状態だからである。凡人から超越者を目指すという方法もあるが、果たして。投資の神様のバフェット氏のルールを自分のルールとして行動すると成功するというが、「自分が先例としてルールとしたい人」って、どこにいるんだろうか。俺が不幸なのは、その、人を尊敬するという能力の欠如かもしれない。だがこれは、学ぼうと思って学べるものでもない。探さなければいけない。探して見つからなければ、自分がなるしかない。そのためのルールでもある。――ってあれだな、いつものごとく、かっこ書きになると筆が進むようになってくる。多分、このカッコ書きと本文とでは、文章量は逆転するかもしれないがかかった時間は半分程度だろう。誰かを、尊敬する、か。この尊敬というのはキーワードかもしれない。メンターとか。まぁそういう人がいた方が逆に絶対楽だよな。楽……か。なんか、楽したい、というのも感覚として合わないんだよな。楽、というよりかは、充足したい。それ、表現として違うのか? 分からない、が、違うとは思う。うーむ……目がかゆい……ってこのやる気のなさは、もしや花粉症のせいなのかもしれない。となると、「生理的な云々」という今回の記事と珍しく関連して、かっこ書きも終わることとなる)
前書き
進退窮まった。――という言葉は、前にも後ろにも進めないという状況を示すようだが、時間的意味であれば、前に進むしかない。その「時間」という絶対性に対して、例えば、コールドスリープ技術などは、「待った」をかけるものであって、面白いと思う。
くそ、やる気が起きないモードである。
どうしたもんか。
こういうときは、「頭を白紙にしたいときのBGM」を聴くのもよいだろう。
ネタがないとかないとか言ってなかったか
おいおい、ネタなんて、「感情」があれば、いくらでも書ける。毎日だって余裕だ、なんて前回とかに書いてなかったか。おっし、こういうときはコーヒーでも淹れよう。
――ふぅ、旨い。
やる気は戻らず。
「期待」されるということは、重荷でもある。
その、ストレスチェック的なので、結婚とか、慶事と呼ばれるものであっても、ストレスは大きいものなのだという。
要は、ストレスは、外圧である。
んで、人間には、その外圧に抵抗する能力が備わっている。レジデンスとかいうんだっけ。違った、「レジリエンス」だった。レジデンスは住居のことだ。
ジョルジュ・バタイユ内的体験
もはや、断片となり、記事の文章は意味をなさない。ゲシュタルト崩壊である。ふと、書物を手に取る。ジョルジュ・バタイユの『内的体験』P.381だ。
すべての問題はある意味ではその問題の時間割だ。それは先決すべき問いを含んでいる。――ここで(私がじぶんの人間としての個別者としての本質を示しているこの世界において)、そして今、私はなにをなすべきか(何をしなければならないか、あるいは何をするのが私の利益となるのか、またあるいは、私はどんなことをする欲望をもっているのか)という問いだ。黙読すると、1分かからない程度だが、これ、600字程度あった。
こうして書きながら私は諸問題の根底に触れるつもりだった。そのくせ、この仕事を自らに課しながら、私は眠り込んでしまった。
こういう答え方には、その日一日の疲れが映っていたようだ、だがそれはまた、私の世界を見る見方の忠実な似姿でもある。
かくも深いところから表現されているのは、認識の操作における私という存在の本質である。すなわち、ある種の性向が認識への欲望を妨げるということは、どうでもいいことではありえないのだ。
哲学は、もしそれが自分の限界点にまで達しようと努力するところのものであるならば、まず、哲学者という生身の人間において、一つの緊急な問題を解かねばなるまい。すなわち、この仕事(自分の限界点にまで達しようと努力する仕事)は火急のものなのか、この私にとって火急のものなのか、人間一般にとって火急のものなのか、という問題を。大多数の人間にとって哲学は火急のものではないという事実は、通常、一面ではマズ生キルコトダ(食うことだ)という点に起因し、他面、哲学をやるだけの時間が実際にあるような人々の無能ぶり(知性の欠如、浮薄な性質)に起因する。
要約(駄約)すると
フランスの著名な哲学者さんの文章であるが、これは、いくどか書いてきている、「身体の痛みをしてなお思考できる人を尊敬する」
ということに関連している。
上の引用における太字下線部分は、僕が引いたものだが、原書には、「眠りこけてしまった」ところが傍点であった。
これが意味するところは(おそらく。すべておそらくだが)、思考、哲学という次元は、身体、生理的な次元とは切り離せないということであろう。
18世紀のヘーゲル氏などは、弁証法ということで、世界の摂理を哲学で明らかにしようとした偉大な方である。
しかし、「いや、別に世界とかどうでもいいし」とその少し後にキルケゴール氏は実存哲学を打ち出したのである。
俺は、どっちかというと、「世界とかどうでもいいし」派である。
何故そうなったのかは、よく分からない。中学生ぐらいの失恋が原因だったと言ってしまえば簡単だが、勉強や部活など、学生時代に「価値」とされるものでの挫折が原因だったともいえる。
取り敢えずそういうことだと思っている。だが、過去の原因を、フロイト氏の精神療法のように引きずり出したところで、別に心的外傷ほどでもないので、重要ではないとも思っている。
しかし、「自分」というものを追求したとしても、仏教的にいえば、縁起であり、諸法無我であり、確固たる自己というものはありえない。
無価値ではない
逆にそのこと(諸法無我)は、「無価値」を示すのではない。確かに、絶対普遍はありえないが、そこには「関係」というのは存在する。
関係はしている。
ということは、相互影響は発生しているのだ。
世界と自分。
世界は大きいので、自分の影響は、原子における、素粒子(クォーク)を陽子や中性子に閉じ込める強い力と、それと比べると非常に小さい電磁気力との差のようである。
しかし、原子というシステムは、強い力も、弱い力も、電磁気力も含めて、総エネルギーなのだ。
世界に対しての自分の影響は小さかろうが、自分がなくなれば、世界はその一部を失うのだ。
それでいいじゃないか。という考えもある。
つまり、家族。大事な人の関係において、自分の価値を感じ続ける方法。
それが充足できれば、趣味のコミュニティでも、会社でも、社会でも、広げていってもいい。
広げる、という言葉を使ったが、その、認められたいという欲求、承認欲求ともいうが、それが、家族の範囲では収まらない人もいる。社会や、国など、大きなところで発揮しなければ満足できない人もいる。
人、それぞれの欲求範囲がある。
先日かいつか、分からないが前に書いたのは、人の根源は欲求であるということだ。
その欲求の多寡で、人の生活が決まる。
(かっこ書きである。引用除けば、1600字程度の記事だ。短いな。やる気の低下が原因だ。しかし、ルーチン更新はよい試みだった。そういえば、3月までという期限があった気がする。だが、更新しよう。ええと、いや、取り敢えず目標達成だ! おめでとう、自分! あ、違った、「3月30日(土)まで」と書いてあった。自分で決めたルールは、守らなければならない。「がちがち過ぎない?」「そんなんで疲れない?」とか周囲から言われることはあるが、違うんだ。そういう問題じゃないんだ。逆に、ルールは、俺に生きる希望を与えてくれるのだ。桎梏ではないのだ。最近、仕事面では、ますます期待されたり、褒められたりすることが多くなった。喜ばしいことだと思うか? 否。いや――「だめなやつ」と言われるのは非常に落ち込むわけであるが、かといって、褒められたところで嬉しいのではなく、「ああ、よかった」程度なのだ。プラスではなく、ようやくゼロになったかのような。人の評価を気にしすぎている? ああ、そうだろう。しかし、「気にしない気にしない」と念じたところで、そんなん無駄である。承認欲求ちゅうのは、どこにでも付きまとうのである。ホリエモン氏とか、高い自己肯定感をもっている人は、自由に生きているようであるが、それは、「他者がなんといおうが、俺は俺だし、認めてくれる人は認めてくれるし、生きてくぶんに資産も十分だし困らないし」という超越状態だからである。凡人から超越者を目指すという方法もあるが、果たして。投資の神様のバフェット氏のルールを自分のルールとして行動すると成功するというが、「自分が先例としてルールとしたい人」って、どこにいるんだろうか。俺が不幸なのは、その、人を尊敬するという能力の欠如かもしれない。だがこれは、学ぼうと思って学べるものでもない。探さなければいけない。探して見つからなければ、自分がなるしかない。そのためのルールでもある。――ってあれだな、いつものごとく、かっこ書きになると筆が進むようになってくる。多分、このカッコ書きと本文とでは、文章量は逆転するかもしれないがかかった時間は半分程度だろう。誰かを、尊敬する、か。この尊敬というのはキーワードかもしれない。メンターとか。まぁそういう人がいた方が逆に絶対楽だよな。楽……か。なんか、楽したい、というのも感覚として合わないんだよな。楽、というよりかは、充足したい。それ、表現として違うのか? 分からない、が、違うとは思う。うーむ……目がかゆい……ってこのやる気のなさは、もしや花粉症のせいなのかもしれない。となると、「生理的な云々」という今回の記事と珍しく関連して、かっこ書きも終わることとなる)
今日の一言「臨時の記事だ」「精神を落ち着ける必要がある」
別に、更新しなくても、誰からも咎められるわけではないが、――そうこれは、メンテナンスである。
筋トレやストレッチが、身体の調子を整えるものであるとすれば、文章を書くというのは、精神のメンテナンスである。別に行わなくても、すぐさま体調を崩すことはないが、やらないでいる期間が長いと、いずれ蝕まれていく、みたいなそんな感じ。
欲望があるから、皆生きている。生活をよくしようと、科学を生み出し、会社を作って一人でなせないことをなそうとする。
昨今は、「答えが見つからない」のではなく、「答えがなくなっている」のだ、って表現を、何かのニュースで見かけたが、ソースが見つからなくなった。やはりメモしないとダメだな。まぁ別に記憶したいフレーズを覚えられるならそれでいいが、そこから情報を広げようとしたときに、ソースは重要だ。
逆に言えば、何でもかんでもソースソースとか言ってるのもつまらないと思う。根拠があるかどうかはともかく、自分が「びびっ」ときたなら、その「びびっ」をベースに根拠を探したっていいのだ。根拠は? 俺だ。
小見出しに関係ないことを書いた。
実践的なメモをしよう。
何もやる気が起きないときに、僕が実践している方法だ。と書くと、さも上手くやっているようだが、3番の散歩とかは、中々できない。そもそも、「くっそやる気が起きないとき」は、服装もだらーっとしているわけで、近所を歩くほどの服装をするのも億劫であるので、あまり実践的ではない。
実践的ではないが、とにかく身体の調子は悪くないが、精神的にまいってしまっているときは、割と効果があることはある。「体を動かす」というのは、インドア派も認めざるを得ない効果があるのである。
いや、だが、行動指標なんてものは、たいてい、単純な方がうまくいく。
複雑だと覚えきれないし、複雑なことを思考できる状態なら、そもそも行動指標も不要な状態だ。
上で想定している事態は、「くっそやる気が起きないとき」であり、まぁ、優秀な方々には無縁だろう。
まぁその、トラブル発生だ。
プライベートのことであり、仕事や恋愛云々ではない。先日も同じようなことを書いた気がするが、それとは別件だ。具体的に書いてしまうと、だいぶ特定的になってしまうのでやめておくが、困っている。
が、まぁその、困っているが、人生というながーいもので考えると、大した問題ではない。
客観的にみても、「へー」ぐらいなものだ。
だから、共感してもらえないだろうというのもあって、具体的に書かないのもあるけれども、だが、だが、だがしかし、HSPな自分としては(とりあえず、覚えたての言葉を使ってみる症候群。ハイリーセンシティブパーソン、だっけか。横文字というか略字を覚えるのは割と好きだが、激しく間違って覚えている場合がある)非常に気分が落ち着かなくなるのである。
そのトラブルのせいで、何日か(1週間)ぐらいは不安定な精神状態だったが、まぁ、方向性、というか、「こうしよう」という決断が芽生え始めたあたりから、だんだん落ち着いていった。
「どうしようか」
という、判断ができる状態が、僕は落ち着かないんだなぁと自己分析する。
「こうしよう」と決めてしまったほうが、明らかに楽なのである。
感覚的に、だ。
それこそ、ソースも、根拠も、論理も、なかった。なんとなく違う、と思った。
なんでか、という答えの一つが、上のトラブルの結果なんだろうと、少し思ったというのが今回の記事の動機である(動機が後にならないと分からないというのも如何かと思うがいたしかたない)。
まぁ、その。
書かないとやっぱり駄目だな。
具体的には全然書いていないけれども、それでも、自分の頭の中にはそのトラブル事象が想起され、ある程度整理されるのである。具体的に書けば、もっと整理されるのだろうか。
実名でSNSとかするのって、どうなんだろう。
きっと、意味はあると思う。
思うが、リスクが大きすぎると思う。トラブルの具体的な内容について、関係者も目にする可能性があるわけだし、まぁ今回は自分の正当性も多少はある(と控えめに書いているが、要するに「騙された」ぐらいに思っている)ので書いてもいいんだけれども、それでも、名誉棄損とか、まぁその、ねぇ……。
ただ、ポジティブに捉えなおしている部分もあって、具体的に書いていないから何がなんやらになってしまうが、「トラブル」は、大きく二つのトラブルに分けられて、その一つのトラブルが原因で、もう一つのもっと大きいトラブルに気付いた、という状況であった。
なので、その二つのトラブルによって困ってしまった(現状も解決していない。いずれ、解決したらさらっと話題は触れることがありそうだ)わけであるが、ただ、早めに気づけた、という点で良かったかなとも思う。
ええと、そうだ、30分しか時間がないんだった。
(かっこ書きである。慌てて、かっこ書きである。30分だと、これぐらいしか書けない。上までで、2300字ぐらい。3000字いかないと、やっぱり少なく感じる。途中、どうでもいい「ソース」探していた時間がもったいなかったな。結局見つからなかったし。ちなみに、字数は別にどうでもいい。どうでもいいが、拘っている。指標にはなる。どんぐらいの時間でどんぐらいの内容を書けるのか、ということは、把握しておいた方がよい。ちなみに「書くことがない」というのは、嘘だ。多くの人は「ネタが尽きた」というが、それは、ある意味本当だが、ある意味嘘だ。「ある特定のことに関する書きたいことがなくなった」ということである。書くことなんて、絶対にあるのだ。僕はそう思っている。だから、「毎日更新してみろよ?」と煽られても、僕は書けるし、2年間ぐらい毎日書いていた時期もある(むろん、内容はともかくである。おしてしるべし)。仮に、昏睡して1週間ぐらい寝込んでいたとしよう。夢や走馬燈もみなかったとしよう。それでも、書くことはある。いやそのたとえは変か。むしろ、寝込んだ理由とか逆に色々書くことがありそうだ。でもそうしたら、逆にだ、日々、生活、生きていたら、いくらでもネタはあるはずだ。何せ、無感情でなどいられないからだ。――ただし、である。「記憶」は大事である。忘れる。まぁうん、忘れる。一週間前の感情など、まったく覚えていない(が、今回は何とか掘り起こして、「不安」や「イライラ」や「焦燥」を、「トラブル」として表現した)。感情があれば書くことはある。それが面白いかどうかは別問題だが、「書き方」によっては十分面白くなる。何せ人は、自分は安全な場所で人の生活を覗き見たいのだ(と書くと悪意がある書き方であって、これも色々と補足させて頂きたいが、――というかそもそも、その「感情」というのが、自分の場合書いているそばから発生するがゆえに、どんどん脱線したり長くなっていくのであろうなぁあああ時間切れ)
前書き
一応ルーチン更新はしているとはいえ、PCから更新が滞っていたので、ここいらで記事を書く。別に、更新しなくても、誰からも咎められるわけではないが、――そうこれは、メンテナンスである。
筋トレやストレッチが、身体の調子を整えるものであるとすれば、文章を書くというのは、精神のメンテナンスである。別に行わなくても、すぐさま体調を崩すことはないが、やらないでいる期間が長いと、いずれ蝕まれていく、みたいなそんな感じ。
くそやる気が起きない場合の対処方法
人間の根源は、欲望だ。欲望があるから、皆生きている。生活をよくしようと、科学を生み出し、会社を作って一人でなせないことをなそうとする。
昨今は、「答えが見つからない」のではなく、「答えがなくなっている」のだ、って表現を、何かのニュースで見かけたが、ソースが見つからなくなった。やはりメモしないとダメだな。まぁ別に記憶したいフレーズを覚えられるならそれでいいが、そこから情報を広げようとしたときに、ソースは重要だ。
逆に言えば、何でもかんでもソースソースとか言ってるのもつまらないと思う。根拠があるかどうかはともかく、自分が「びびっ」ときたなら、その「びびっ」をベースに根拠を探したっていいのだ。根拠は? 俺だ。
小見出しに関係ないことを書いた。
実践的なメモをしよう。
くそ何もやる気が起きないモード時の対処方法
【前提】
・ルーチンを作っておく
【対処】
1.風呂に入ってみる
2.文章を書く(ゼロ秒思考)
3.外の空気を吸う(散歩)
4.ルーチンの最低レベル分だけやる
5.カウントダウン行動法を実施する
何もやる気が起きないときに、僕が実践している方法だ。と書くと、さも上手くやっているようだが、3番の散歩とかは、中々できない。そもそも、「くっそやる気が起きないとき」は、服装もだらーっとしているわけで、近所を歩くほどの服装をするのも億劫であるので、あまり実践的ではない。
実践的ではないが、とにかく身体の調子は悪くないが、精神的にまいってしまっているときは、割と効果があることはある。「体を動かす」というのは、インドア派も認めざるを得ない効果があるのである。
トラブル対応
上のことを掘り下げようと思ったのだが、なんか、箇条書きにすると、特に説明も不要なぐらい単純だ。飽きた。いや、だが、行動指標なんてものは、たいてい、単純な方がうまくいく。
複雑だと覚えきれないし、複雑なことを思考できる状態なら、そもそも行動指標も不要な状態だ。
上で想定している事態は、「くっそやる気が起きないとき」であり、まぁ、優秀な方々には無縁だろう。
まぁその、トラブル発生だ。
プライベートのことであり、仕事や恋愛云々ではない。先日も同じようなことを書いた気がするが、それとは別件だ。具体的に書いてしまうと、だいぶ特定的になってしまうのでやめておくが、困っている。
が、まぁその、困っているが、人生というながーいもので考えると、大した問題ではない。
客観的にみても、「へー」ぐらいなものだ。
だから、共感してもらえないだろうというのもあって、具体的に書かないのもあるけれども、だが、だが、だがしかし、HSPな自分としては(とりあえず、覚えたての言葉を使ってみる症候群。ハイリーセンシティブパーソン、だっけか。横文字というか略字を覚えるのは割と好きだが、激しく間違って覚えている場合がある)非常に気分が落ち着かなくなるのである。
そのトラブルのせいで、何日か(1週間)ぐらいは不安定な精神状態だったが、まぁ、方向性、というか、「こうしよう」という決断が芽生え始めたあたりから、だんだん落ち着いていった。
「どうしようか」
という、判断ができる状態が、僕は落ち着かないんだなぁと自己分析する。
「こうしよう」と決めてしまったほうが、明らかに楽なのである。
決まった状態を好む
前に、コメント欄などで、「君は考えることが好きなのであって、結論を出したいわけじゃないのだね」とアドバイスいただいたが、僕はそれを、なんか感覚的に拒絶した。感覚的に、だ。
それこそ、ソースも、根拠も、論理も、なかった。なんとなく違う、と思った。
なんでか、という答えの一つが、上のトラブルの結果なんだろうと、少し思ったというのが今回の記事の動機である(動機が後にならないと分からないというのも如何かと思うがいたしかたない)。
まぁ、その。
書かないとやっぱり駄目だな。
具体的には全然書いていないけれども、それでも、自分の頭の中にはそのトラブル事象が想起され、ある程度整理されるのである。具体的に書けば、もっと整理されるのだろうか。
実名でSNSとかするのって、どうなんだろう。
きっと、意味はあると思う。
思うが、リスクが大きすぎると思う。トラブルの具体的な内容について、関係者も目にする可能性があるわけだし、まぁ今回は自分の正当性も多少はある(と控えめに書いているが、要するに「騙された」ぐらいに思っている)ので書いてもいいんだけれども、それでも、名誉棄損とか、まぁその、ねぇ……。
ただ、ポジティブに捉えなおしている部分もあって、具体的に書いていないから何がなんやらになってしまうが、「トラブル」は、大きく二つのトラブルに分けられて、その一つのトラブルが原因で、もう一つのもっと大きいトラブルに気付いた、という状況であった。
なので、その二つのトラブルによって困ってしまった(現状も解決していない。いずれ、解決したらさらっと話題は触れることがありそうだ)わけであるが、ただ、早めに気づけた、という点で良かったかなとも思う。
ええと、そうだ、30分しか時間がないんだった。
(かっこ書きである。慌てて、かっこ書きである。30分だと、これぐらいしか書けない。上までで、2300字ぐらい。3000字いかないと、やっぱり少なく感じる。途中、どうでもいい「ソース」探していた時間がもったいなかったな。結局見つからなかったし。ちなみに、字数は別にどうでもいい。どうでもいいが、拘っている。指標にはなる。どんぐらいの時間でどんぐらいの内容を書けるのか、ということは、把握しておいた方がよい。ちなみに「書くことがない」というのは、嘘だ。多くの人は「ネタが尽きた」というが、それは、ある意味本当だが、ある意味嘘だ。「ある特定のことに関する書きたいことがなくなった」ということである。書くことなんて、絶対にあるのだ。僕はそう思っている。だから、「毎日更新してみろよ?」と煽られても、僕は書けるし、2年間ぐらい毎日書いていた時期もある(むろん、内容はともかくである。おしてしるべし)。仮に、昏睡して1週間ぐらい寝込んでいたとしよう。夢や走馬燈もみなかったとしよう。それでも、書くことはある。いやそのたとえは変か。むしろ、寝込んだ理由とか逆に色々書くことがありそうだ。でもそうしたら、逆にだ、日々、生活、生きていたら、いくらでもネタはあるはずだ。何せ、無感情でなどいられないからだ。――ただし、である。「記憶」は大事である。忘れる。まぁうん、忘れる。一週間前の感情など、まったく覚えていない(が、今回は何とか掘り起こして、「不安」や「イライラ」や「焦燥」を、「トラブル」として表現した)。感情があれば書くことはある。それが面白いかどうかは別問題だが、「書き方」によっては十分面白くなる。何せ人は、自分は安全な場所で人の生活を覗き見たいのだ(と書くと悪意がある書き方であって、これも色々と補足させて頂きたいが、――というかそもそも、その「感情」というのが、自分の場合書いているそばから発生するがゆえに、どんどん脱線したり長くなっていくのであろうなぁあああ時間切れ)
今日の一言「定期更新」「ルーチンは大事だ」
◇前書き
今週はきっと、土日とも書く時間が取れない気がするから、今、30分制限で書く。
前書き、という書き出しに甘えてしまっている。実際読みたくなる文章は「フック」が必要だ。
それと、「コンセプト」が明確になっている必要がある。
様々な投稿サイトなどで作品を読み始めるときに、タイトル、前書き、プロローグと第一話で、読み進めるかどうかが決まるといって過言ではない。
流麗な文章で始まったらいいのかというと、そうではない、というのは実感としてある。
最近読んだある作品は、文章力は正直、お前が言うなを脇に置いておいて、十分とはいえなかった。けれども、雪原の中を、仲間たちが、雪玉をぶつけふざけあいながらも、次の集落を目指すという風景は、十分にイメージできた。
何の難しい言葉など使われていなかったし、語順や表現としても普通、であった。でもそれでも十分なのだ。あ、そろそろ小見出しつけるか。
◇読み続けようと思う作品
しかし、上の作品は、一話目で閉じてしまった。「コンセプト」が見えなかったからである。
このアイディアとコンセプトの違いは、もう少し詳しく書いていった方がいいが、今回の記事では見送ろう。
簡単に書けば、「もし○○だったら?」という投げかけである。
恋愛至上主義にうんざりして、最終兵器彼女という作品は好きだったが本棚から排除した、というのをかなり昔に書いた気がするが、タイトルから分かるコンセプトの例として分かりやすい。「自分の彼女が、世界を救うための最終兵器だったら?」ということだ。
この、コンセプトを先に提示しておく、というのが大事だと、最近思った。
物語の書き始めにおいて、いきなり印象的な戦闘シーンをおく、というのはまぁ重要だが、少し陳腐……と書くと言い過ぎだが、もうちょっと工夫ができないかとも思っていたのである。
それに対して、その、印象的なシーンをおく、というのもその方向性を求めていいが、同時に、コンセプトを、たとえばタイトルとか前書きにおいて提示しておいて、それが十分魅力的であれば、序盤がやや設定的な記述になったとしても、読者の興味を一応維持できるだろうということだ。
フェイトステイナイトという作品は(片仮名にすると格好悪いが、スマホからということで許して欲しい)、「もしアーサー王やギルガメッシュなど過去の英雄を現世に召還して万能の願望器の争奪戦が起こったら?」というのがコンセプトだ(たぶん)。めちゃくちゃ中二心をくすぐるだろう。
◇今年の目標として
せっかく登録した「NOTE」の活用も考えたい。
しかし、今年は、カクヨム連載中の作品も進めたい。一応裏の目標として、あれは、ブッダが菩提樹の下で悟りを開いた歳までに、30話以上で完結するというのがある。
その裏の目標、俺は実は結構、まじめに考える度に恐怖なんだ。
「死ぬ」というのは怖いものだ。
だが、その歳になるまでに、俺は、「方向性」を示そうと思っている。今は大分、絞られてきているが、そこから着実に進んでいこうという覚悟である。
カウントダウン行動法のことは書いたっけ?
◇カウントダウン行動法
書いたことないな。書こう。
行動するときの最終兵器、秘密兵器、裏技、まぁなんでもいいが、そういったものだ。
朝起きられないとき。
頭が痛いとき。
やる気が起きないとき。
そういうときに、「まぁ、がんばるか」と思って取りかかるだろう。
それの強化版だ。
まず、行動するべきことを厳密に定義する。たとえば、朝起きる、というのは未熟だ。布団から起きあがって、二足で立つ、ぐらい具体的にしなければならない。
次に、30秒なり、10秒なり、それは、その人のやりやすい時間でいいが、俺は、30秒にしている。
あとは、カウントダウンする。
それだけだ。単純だ。
だが、その、0秒になったら、最初に定義した行動を必ずしなければならない。
必ず、だ。
このカウントダウン行動法……このネーミングは今考えたが、これをいつからやっているかは分からない。たぶん、高校生ぐらいかな。
何回使ったか分からないが、これを破ったことは一度もない。
一度も、だ。
絶対やる。
これを破ったら、僕は僕じゃなくなる、ぐらいに思っている。絶対的ルールだ。
それぐらい強烈なものだ。
逆に行うと、できる範囲で、精神的な云々で対処できる、物理的に可能な範囲の定義しか行わない、というのもポイントである。
◇35歳
でだ、その話を戻すと、その絶対ルールレベルで、一歩を進めていこうという掲示、が、その裏の目標である。
怖い。
逆に行えば、それまでは、色々試してみる時間と考えている。一種ターニングポイントにしようということだ。
もちろん、これまでの知見を考えれば、そんな一瞬で変化は起こらないのであって、その瞬間に向けて、徐々に行動法策を絞って鋭角的にしていく必要があるのである。
と思っている。
(かっこ書きである。カクヨムの記事を、最初から直近まで読み返してみた。面白いと思う。3年ぐらい前から書き始めたが、うん、合格だ。いや、つまらないと思う人にはつまらないと思うだろうし、まぁ読んだところで何か新しい知見は得られないだろうが、だが、文章作品として、俺はおKをだす。まったく知らないどこかで、まったく知らない誰かが、このレベルの作品を書いていれば、とりあえずブックマークはするだろう。そのレベルにはなっている。それを目標にしていたので、合格だ、と思った。もちろん、一部流し読みだったり、後半は疲れて、あんまり読めなかったが(かっこ笑い)。まぁ多くの人もそんな感じだろう。だが、それでいい。多くの書籍だって、斜め読み程度のものだってあるんだ。といったところで三十分、時間切れ)