今日の一言「定期的な目標が必要」
時間が立つとこうなってしまう。よくない。ということで、ブログルーチンを復活させよう、と思った。
本則
(更新回数)
第一条 週に1回以上更新する。週は、月曜日から日曜日までを単位とする。
(更新日)
第二条 更新日は原則土曜日とする。平日に更新した場合も回数には含めないこととする。
(免除規定)
第三条 土曜日にイベント(半日以上一人になれる時間がない場合)があるときは、ルーチンを免除とする。ただし、この場合は、可能な限り事前にスケジュールを確認し、土曜日以外の日に更新する。
附則
(施行期日)
第一条 この規則は2019/5/11(土)から施行する。
ルールを日本語で表現しようとすると意外に難しい。
上の意図としては、基本土曜日(0:00~23:59)には更新する、と。
平日に更新してもよいが、土曜日更新はする。
ただし、土曜日更新がイベントによってできない場合は、土曜日以外の日の更新をルーチンの1回にカウントする。
ということだ。
面倒である。しかし、面倒とは何か。不快で煩雑で煩わしいことだ。
しかし、シンプルなルールは、あった方が整理しやすくてよい。
ここでの整理とは、自分の行動についてだ。
「あー、今週の土曜日どうしようかなぁ」
「あー、あの仕事来週重いなぁ気がかりだなぁ」
とか、人間は感情的である。
しかし、ルール(ここではルーチン)があれば、とりあえずそんな感情はわきにおいて、やることはやる必要があるのである。
んで、実際行動していると、気分が変わって爽快になることがあるのは、みなご存知のとおりである。
だが、ポイントはそこではない。
ルールはあくまでも、「主体的なルール」であるべきだ。
「前からそうだった」「無理やり従わされている」
という状態では、決して、行動をしたとしても気分爽快になどなりゃしないのだ。
だが、じゃあ、一からルールを全部考える必要があるか? というと、そうではない。
今回、ルーチン更新規則を文章化してみたが、面倒くさいと感じる人もいるだろう。一から書く必要なんてない。あるものを使ってもいい。
すでにあるルールを、そのまま理解せずに「行動」だけすれば、それは不快である。
そのルールを理解し、自分の中に落とし込んでやろうとすれば、それはもう「自分の」ルールなのである。
(かっこ書きである。「忙しい」――これは言い訳ではない、実際問題そうだ。だが、だからといって、「本来するべきこと」をしないのは道理に合わない。仕事が仮に大事だとしても、俺はやはり「創作」「生きる意味を徹底して考えること」を大事にしたい。それに繋がっているかどうかは別として、そのきっかけには間違いなくなっているのはこのブログである。それを更新しなくなるということは、人生を捨てたも同然である。もしくは、「忙しい」仕事に人生をすべて投げ打つという選択をした、ということになる。それも悪くないのだろうが、「仕事」は裏切る。「組織」も裏切る。――このながれで、「人(他者)」も裏切る……を足してもいいが、そこまで書くと非難轟轟度が格段に高まるのでやめる。人は集団に属してしか生きられないが、集団のために生きるのではない、という前提において、果たして個人の生きる意味というのは存在するのか、というのがテーマである。ここでもちろん、集団を、ライフステージごとに変えていって、そこでの意義を最大限高める、という生き方が通常であると思うが、俺はそれに非常に懐疑的である。だからこそ、それを、「忙しい」とそっちのけになってしまうが、忘れないために、ブログは大事だ、というのが本記事の目的である)
前書き
今、小見出しを考えてしまった。最初の小見出しは「前書き」で決まっているのであった。それすらも忘れていた。思い出せたが。時間が立つとこうなってしまう。よくない。ということで、ブログルーチンを復活させよう、と思った。
目標
ブログルーチン規則本則
(更新回数)
第一条 週に1回以上更新する。週は、月曜日から日曜日までを単位とする。
(更新日)
第二条 更新日は原則土曜日とする。平日に更新した場合も回数には含めないこととする。
(免除規定)
第三条 土曜日にイベント(半日以上一人になれる時間がない場合)があるときは、ルーチンを免除とする。ただし、この場合は、可能な限り事前にスケジュールを確認し、土曜日以外の日に更新する。
附則
(施行期日)
第一条 この規則は2019/5/11(土)から施行する。
ルールを日本語で表現しようとすると意外に難しい。
上の意図としては、基本土曜日(0:00~23:59)には更新する、と。
平日に更新してもよいが、土曜日更新はする。
ただし、土曜日更新がイベントによってできない場合は、土曜日以外の日の更新をルーチンの1回にカウントする。
ということだ。
面倒くさいのでは
こんなルールなんてもんを考えるのは面倒である……のか?面倒である。しかし、面倒とは何か。不快で煩雑で煩わしいことだ。
しかし、シンプルなルールは、あった方が整理しやすくてよい。
ここでの整理とは、自分の行動についてだ。
「あー、今週の土曜日どうしようかなぁ」
「あー、あの仕事来週重いなぁ気がかりだなぁ」
とか、人間は感情的である。
しかし、ルール(ここではルーチン)があれば、とりあえずそんな感情はわきにおいて、やることはやる必要があるのである。
んで、実際行動していると、気分が変わって爽快になることがあるのは、みなご存知のとおりである。
だが、ポイントはそこではない。
ルールはあくまでも、「主体的なルール」であるべきだ。
「前からそうだった」「無理やり従わされている」
という状態では、決して、行動をしたとしても気分爽快になどなりゃしないのだ。
だが、じゃあ、一からルールを全部考える必要があるか? というと、そうではない。
今回、ルーチン更新規則を文章化してみたが、面倒くさいと感じる人もいるだろう。一から書く必要なんてない。あるものを使ってもいい。
すでにあるルールを、そのまま理解せずに「行動」だけすれば、それは不快である。
そのルールを理解し、自分の中に落とし込んでやろうとすれば、それはもう「自分の」ルールなのである。
(かっこ書きである。「忙しい」――これは言い訳ではない、実際問題そうだ。だが、だからといって、「本来するべきこと」をしないのは道理に合わない。仕事が仮に大事だとしても、俺はやはり「創作」「生きる意味を徹底して考えること」を大事にしたい。それに繋がっているかどうかは別として、そのきっかけには間違いなくなっているのはこのブログである。それを更新しなくなるということは、人生を捨てたも同然である。もしくは、「忙しい」仕事に人生をすべて投げ打つという選択をした、ということになる。それも悪くないのだろうが、「仕事」は裏切る。「組織」も裏切る。――このながれで、「人(他者)」も裏切る……を足してもいいが、そこまで書くと非難轟轟度が格段に高まるのでやめる。人は集団に属してしか生きられないが、集団のために生きるのではない、という前提において、果たして個人の生きる意味というのは存在するのか、というのがテーマである。ここでもちろん、集団を、ライフステージごとに変えていって、そこでの意義を最大限高める、という生き方が通常であると思うが、俺はそれに非常に懐疑的である。だからこそ、それを、「忙しい」とそっちのけになってしまうが、忘れないために、ブログは大事だ、というのが本記事の目的である)
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