今日の一言「喉が痛い」「眠れない、でも眠い」
まず、体調が悪いことを書いておく。
あと、帰宅時間が遅い。
仕事が非常に大量にある。
だが、「その大変さは、客観的にそうなのか? それはお前の能力が低いから時間がかかり、大量にあるということではないのか?」となったとき、それは「正論」である。
一方で、自分のことを優秀だなどと、思ったことはこれまでなかったが、しかし、業務に対する知識量も、スキルも、周囲に比べて、低くはないことが分かった。だがそれでも、それが適切に評価されるものかというと、果たして疑問である、ということが、今回の記事の主旨でもある。
そりゃそうだ。やるべきこと、なのだから、やるのである。
だが、字義どおりと、実際の行動・評価ベースのことは、全く違う。
言外に、「いわれたことしかやらないやつ」は、評価されないだろう。
もちろん、これが日本特有であって、海外でもそうかというのは別かもしれない。いわれたことに対して賃金が発生するというのは、本来の形かもしれない。
だが、業務レベルで見たときに、実際の現場作業として考えたときに、個人の能力と、管理者の把握可能な範囲として考えたときに、問題はややこしくなってくる。
仮に分かりやすい、報告書を作る業務、があったとしよう。
AとBとCのプロセスを経て、完成形Xとなるとしよう。
ここで、Bのプロセスは、なくても、完成形Xの体裁は整うとしたときに、Bのプロセスは省略してもよいのか。ただし、Bのプロセスがなければ、完成形X´(エックス・ダッシュ)に分かりづらいところや誤解が生じる可能性があるとする。
仕事として正しくは、そのリスク(分かりづらさ・誤解発生可能性)を上司に報告し、判断を仰ぐ、ということになるだろう。
だが果たして。
すべての業務のすべての粒度でそれができるのか、という問題が一つ。
上司の特性において、どこまでの粒度を求めているのか「人による」という問題が一つ。
「よく相談しなさい」
と言いつつ、
「そんなことも自分で考えられないのか!」
という人がいることを、想定の埒外におくことはできない。
逆にあったとしても、それはそれこそ、ロボット(自動化)の対象になるだろう。
人でしかできないことをやるべきだ――と口当たり良い風潮も、僕のイライラに寄与する。
人しかできない「業務」などない。
あるとすれば、「業務」を定型化する作業である。
そして、定型化できれば、人しかできないことではなくなる。
仕事は生み出され、そして自動化されるか、消えていく。
そんな中で、必ずしも「生み出すこと」「現状よりも向上させること」だけが評価の対象になるのだろうか、いや僕はすぐさま否という。
現状維持とは、それ自体で重要なことである。
これは前から書いているが、現状維持をするためには、まったく同じことをしていては成しえないのである。それがよほど単純作業でない限り。
能力とは、業務を成し遂げることができる力と、「意欲・関心」を足すのだったか? 忘れてしまったが、どちらにせよ、言葉遊びをしたいのではない。
要は、個人の能力は、人それぞれ、まちまちだ。
単純作業、定型作業の積み重ねが業務でよかった時代は、年齢というのは、ある程度有用な評価指標だったといえる。
意欲が低かろうが、個人の能力が低かろうが、取りあえず経験を積んでおけば、ある程度業務を成し遂げる力は身についているだろう、という予測が立っていたわけだ。
そうじゃない業務が多いとしたら。
いったい、どうやって、正しく、公平に、評価ができるというのだろうか。
Xという業務があったとする。
Aさんは、のべ10時間で完遂できるとする。
後任のBさんも、のべ10時間で完遂できたとする。
AさんとBさんは、同じ評価になるのか。
海外ではそうかもしれない。
<事例1>
しかし、X業務について、Aさんが非常に優秀なマニュアルや業務フローの整理を行って、もともとは20時間かかる業務を10時間で済むようにしていたのかもしれない。そのおかげで、Bさんもスムーズに引継ぎができて、さほど苦労もせずに10時間で業務が完成できたのかもしれない。
<事例2>
もしくは。
Aさんは自分のことしか考えずに、マニュアルも引き継ぎもろくにしていなかったかもしれない。そんな状況で、Bさんは、必死な努力で、10時間で業務が完成できるように試行錯誤を繰り返したのかもしれない。
あなたは、Aさん、Bさん、どちらを評価するだろうか。
事例1はAさんだし、事例2はBさんを評価してあげたいところだろう。サイコパス的――いやしかし、普通な仕事としての考え方なら、事例1も事例2も、AさんもBさんも同じ、とするのが「公平」なのかもしれない(何故なら、成果物Xは不変だからだ)。
何故なら、上の事例1も事例2も、ぶっちゃけ、「よくみていてあげる」ことをしなければ、到底分からないことだからだ。
同僚による、相互評価制みたいなのを導入すれば、ある程度こういった問題も解決するかもしれないが、それはそれでギスギスしそうだし、なんともいえない。
そうするとまぁ、上司が観るしかないが、しかし果たして、忙しい職場において、どこまで冷静に客観的に評価ができるのだろうか。いま、客観的、という言葉を使ったが、そもそも、上の事例において、AさんとBさんをどう評価するのが正しいのかも、その会社によって異なることすらあるのかもしれない。
ほんと難しい。
それで、忙しくて、ブログなんかも全然書けなかったりするが、これは、一番よくないことだと思って、今書いている。睡眠時間も、3時間ぐらいだが、目が覚めてしまって、眠りにつこうにもつけなかったので今に至る。
寝てない自慢かっこいい――とか、そういうことではない、むしろ、いい歳の大人が体調管理もできないのかと、叱責の対象にすらなるだろう。
つまり、個人的にどういった気持ちでいようが、別に組織や会社にとってはどうでもいいことなのである。もちろん、個人の健康状態がよくなければ、結果的に生産性が落ちるので、表面的には「体が大事だよ」というところであるが、実際は組織体が優先されるのは当たり前のことである。これは当たり前である、そして、そうあるべきでもある。組織が余裕があれば福利厚生を充実させてもいいが、余裕がなくなればやはりカットされるのはそこだろう。
年金や保険もそうだ。
生活保護受給者がパチンコにいってけしからん、みたいなことを思う人もいるようだ。だが、生活保護というのは、権利なのだから、別にスティグマではないというのが、一般的な考え方のようだ。だが、その生活保護はやはり税金でなされているのであるから、日本全体の活力が下がれば、生活保護の金額自体も低くなる。相互扶助の仕組みだ。
あ、どうでもいいことを書いた、自分の話を書くべきだ。
そう、忙しい時こそ、優先させるべきはブログであるということを、よかった、僕は忘れていなかったらしい。
――ここらへんが、僕が普通の人と違うのかもしれないが、ぶっちゃけ、他者と愚痴を言い合っても、決して僕のイライラは解消されないという点である。
「自分で考えないと」
どうしても、イライラは解消されないのだ。
その原因は、以前、いろいろ書いた気もするが、簡単に今回あげるとしたら、「思考スピード」が完全に一致することなどありえない、というのが一つ。他にも、時空間の共有制約の問題。承認欲求のたまり具合とたまっている状況などなど。
さっきまでは全然眠れなかった。
そう。どうしようもなくイライラしていても、こうやって書いていると段々落ち着いてくるのである。
これが、「普通の人」だと、飲み会とか対人コミュニケーション的に発散すると解消されるとのことだが、俺は残念だがよくわからん。
飲み会とかが絶対究極嫌、という意味ではないが、対人コミュニケーションするなら相互発展的な感じならいいと思う。いや、3割ぐらい愚痴が含まれたほうが盛り上がるかもしれないが、しかし、「ストレスの発散」が主目的にしなければいけないときに、対人コミュニケーションは余計にストレスであるということだ。
(かっこ書きである。面白くない記事だろうか。たぶん、そうだろう。けれども、価値はあると思う。書ききれていないが、きっと全然表現できていないが、それでも、喉が痛くて痰がからんで、帰りが23時過ぎで睡眠時間が3時間ぐらいでも眠れなくて、という状況があったということのメモは有益だろう。こういうこと、友人にいったとしよう。「そっか、大変だな。でも、会社は最後は守ってくれないぜ。まずは自分の体を優先しような」とか心配してくれたとしよう。「いやでもそれができたら苦労してないってwww」と思ってしまうだろう。つまり、自分の行動変容しなければ、問題は解決しないのであって、それは自分でも分かっているのであって、そうするための方法を必死に考え実践し続けているのであって、そこに共感してもらえたとしても特に何ら感慨はないのである――とまで書くと、さすがイライラしていると刺々しいなと思うが、しかしこれまでの自分も、きっとこれからの自分も、ここで言わんとしていることは何となく分かるだろう。まぁ、普通の人がこんなこと見たり聞いたりしたら、「こいつ友達いないだろうな」と思うだろうことは間違いないので、僕は言わない(書いてるが。いやだからこそブログはものすごい貴重な場なのである))
前書き
カテゴリはイライラ対処である、記事の内容は察する必要がある。まず、体調が悪いことを書いておく。
あと、帰宅時間が遅い。
仕事が非常に大量にある。
だが、「その大変さは、客観的にそうなのか? それはお前の能力が低いから時間がかかり、大量にあるということではないのか?」となったとき、それは「正論」である。
一方で、自分のことを優秀だなどと、思ったことはこれまでなかったが、しかし、業務に対する知識量も、スキルも、周囲に比べて、低くはないことが分かった。だがそれでも、それが適切に評価されるものかというと、果たして疑問である、ということが、今回の記事の主旨でもある。
やるべきこととやらないべきこと
やるべきことをやるのは当然である。そりゃそうだ。やるべきこと、なのだから、やるのである。
だが、字義どおりと、実際の行動・評価ベースのことは、全く違う。
言外に、「いわれたことしかやらないやつ」は、評価されないだろう。
もちろん、これが日本特有であって、海外でもそうかというのは別かもしれない。いわれたことに対して賃金が発生するというのは、本来の形かもしれない。
だが、業務レベルで見たときに、実際の現場作業として考えたときに、個人の能力と、管理者の把握可能な範囲として考えたときに、問題はややこしくなってくる。
仮に分かりやすい、報告書を作る業務、があったとしよう。
AとBとCのプロセスを経て、完成形Xとなるとしよう。
ここで、Bのプロセスは、なくても、完成形Xの体裁は整うとしたときに、Bのプロセスは省略してもよいのか。ただし、Bのプロセスがなければ、完成形X´(エックス・ダッシュ)に分かりづらいところや誤解が生じる可能性があるとする。
仕事として正しくは、そのリスク(分かりづらさ・誤解発生可能性)を上司に報告し、判断を仰ぐ、ということになるだろう。
だが果たして。
すべての業務のすべての粒度でそれができるのか、という問題が一つ。
上司の特性において、どこまでの粒度を求めているのか「人による」という問題が一つ。
「よく相談しなさい」
と言いつつ、
「そんなことも自分で考えられないのか!」
という人がいることを、想定の埒外におくことはできない。
正しい評価
第一、完全に定型的な業務などありゃしないのである。逆にあったとしても、それはそれこそ、ロボット(自動化)の対象になるだろう。
人でしかできないことをやるべきだ――と口当たり良い風潮も、僕のイライラに寄与する。
人しかできない「業務」などない。
あるとすれば、「業務」を定型化する作業である。
そして、定型化できれば、人しかできないことではなくなる。
仕事は生み出され、そして自動化されるか、消えていく。
そんな中で、必ずしも「生み出すこと」「現状よりも向上させること」だけが評価の対象になるのだろうか、いや僕はすぐさま否という。
現状維持とは、それ自体で重要なことである。
これは前から書いているが、現状維持をするためには、まったく同じことをしていては成しえないのである。それがよほど単純作業でない限り。
人それぞれ固有の問題
しかし一方で、個人の能力という問題もある。能力とは、業務を成し遂げることができる力と、「意欲・関心」を足すのだったか? 忘れてしまったが、どちらにせよ、言葉遊びをしたいのではない。
要は、個人の能力は、人それぞれ、まちまちだ。
単純作業、定型作業の積み重ねが業務でよかった時代は、年齢というのは、ある程度有用な評価指標だったといえる。
意欲が低かろうが、個人の能力が低かろうが、取りあえず経験を積んでおけば、ある程度業務を成し遂げる力は身についているだろう、という予測が立っていたわけだ。
そうじゃない業務が多いとしたら。
いったい、どうやって、正しく、公平に、評価ができるというのだろうか。
Xという業務があったとする。
Aさんは、のべ10時間で完遂できるとする。
後任のBさんも、のべ10時間で完遂できたとする。
AさんとBさんは、同じ評価になるのか。
海外ではそうかもしれない。
<事例1>
しかし、X業務について、Aさんが非常に優秀なマニュアルや業務フローの整理を行って、もともとは20時間かかる業務を10時間で済むようにしていたのかもしれない。そのおかげで、Bさんもスムーズに引継ぎができて、さほど苦労もせずに10時間で業務が完成できたのかもしれない。
<事例2>
もしくは。
Aさんは自分のことしか考えずに、マニュアルも引き継ぎもろくにしていなかったかもしれない。そんな状況で、Bさんは、必死な努力で、10時間で業務が完成できるように試行錯誤を繰り返したのかもしれない。
あなたは、Aさん、Bさん、どちらを評価するだろうか。
事例1はAさんだし、事例2はBさんを評価してあげたいところだろう。サイコパス的――いやしかし、普通な仕事としての考え方なら、事例1も事例2も、AさんもBさんも同じ、とするのが「公平」なのかもしれない(何故なら、成果物Xは不変だからだ)。
上司の能力
しかし、ことは単純ではない。何故なら、上の事例1も事例2も、ぶっちゃけ、「よくみていてあげる」ことをしなければ、到底分からないことだからだ。
同僚による、相互評価制みたいなのを導入すれば、ある程度こういった問題も解決するかもしれないが、それはそれでギスギスしそうだし、なんともいえない。
そうするとまぁ、上司が観るしかないが、しかし果たして、忙しい職場において、どこまで冷静に客観的に評価ができるのだろうか。いま、客観的、という言葉を使ったが、そもそも、上の事例において、AさんとBさんをどう評価するのが正しいのかも、その会社によって異なることすらあるのかもしれない。
本題のイライラ
まぁ、てなことを、日々思いながら、個人としては、どうするのが最適かを考えながら仕事をしているわけであるが、正直よくわからん。ほんと難しい。
それで、忙しくて、ブログなんかも全然書けなかったりするが、これは、一番よくないことだと思って、今書いている。睡眠時間も、3時間ぐらいだが、目が覚めてしまって、眠りにつこうにもつけなかったので今に至る。
寝てない自慢かっこいい――とか、そういうことではない、むしろ、いい歳の大人が体調管理もできないのかと、叱責の対象にすらなるだろう。
つまり、個人的にどういった気持ちでいようが、別に組織や会社にとってはどうでもいいことなのである。もちろん、個人の健康状態がよくなければ、結果的に生産性が落ちるので、表面的には「体が大事だよ」というところであるが、実際は組織体が優先されるのは当たり前のことである。これは当たり前である、そして、そうあるべきでもある。組織が余裕があれば福利厚生を充実させてもいいが、余裕がなくなればやはりカットされるのはそこだろう。
年金や保険もそうだ。
生活保護受給者がパチンコにいってけしからん、みたいなことを思う人もいるようだ。だが、生活保護というのは、権利なのだから、別にスティグマではないというのが、一般的な考え方のようだ。だが、その生活保護はやはり税金でなされているのであるから、日本全体の活力が下がれば、生活保護の金額自体も低くなる。相互扶助の仕組みだ。
あ、どうでもいいことを書いた、自分の話を書くべきだ。
そう、忙しい時こそ、優先させるべきはブログであるということを、よかった、僕は忘れていなかったらしい。
――ここらへんが、僕が普通の人と違うのかもしれないが、ぶっちゃけ、他者と愚痴を言い合っても、決して僕のイライラは解消されないという点である。
「自分で考えないと」
どうしても、イライラは解消されないのだ。
その原因は、以前、いろいろ書いた気もするが、簡単に今回あげるとしたら、「思考スピード」が完全に一致することなどありえない、というのが一つ。他にも、時空間の共有制約の問題。承認欲求のたまり具合とたまっている状況などなど。
終わりへ
――と、ここまでかいてきて、もうそろそろ、また行く時間が近づいてきたが、ようやっと眠くなってきた――なってきてしまった。やばいな(かっこわらい)。さっきまでは全然眠れなかった。
そう。どうしようもなくイライラしていても、こうやって書いていると段々落ち着いてくるのである。
これが、「普通の人」だと、飲み会とか対人コミュニケーション的に発散すると解消されるとのことだが、俺は残念だがよくわからん。
飲み会とかが絶対究極嫌、という意味ではないが、対人コミュニケーションするなら相互発展的な感じならいいと思う。いや、3割ぐらい愚痴が含まれたほうが盛り上がるかもしれないが、しかし、「ストレスの発散」が主目的にしなければいけないときに、対人コミュニケーションは余計にストレスであるということだ。
(かっこ書きである。面白くない記事だろうか。たぶん、そうだろう。けれども、価値はあると思う。書ききれていないが、きっと全然表現できていないが、それでも、喉が痛くて痰がからんで、帰りが23時過ぎで睡眠時間が3時間ぐらいでも眠れなくて、という状況があったということのメモは有益だろう。こういうこと、友人にいったとしよう。「そっか、大変だな。でも、会社は最後は守ってくれないぜ。まずは自分の体を優先しような」とか心配してくれたとしよう。「いやでもそれができたら苦労してないってwww」と思ってしまうだろう。つまり、自分の行動変容しなければ、問題は解決しないのであって、それは自分でも分かっているのであって、そうするための方法を必死に考え実践し続けているのであって、そこに共感してもらえたとしても特に何ら感慨はないのである――とまで書くと、さすがイライラしていると刺々しいなと思うが、しかしこれまでの自分も、きっとこれからの自分も、ここで言わんとしていることは何となく分かるだろう。まぁ、普通の人がこんなこと見たり聞いたりしたら、「こいつ友達いないだろうな」と思うだろうことは間違いないので、僕は言わない(書いてるが。いやだからこそブログはものすごい貴重な場なのである))
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