今日の一言「つみたてNISA口座が開かない」「体調が悪い」
つみたてNISAを検討していると前回書いた。
口座申し込みのボタンをNET上で押して、翌日ぐらいには書類が届いていたが、いざ書類を書いて投函してから3日営業日ぐらい立つが、まだ開設準備中のままだ。
その間、どの商品を購入するか検討するべきということなのか。
eMAXIS Slim全世界株式
と
ニッセイ・インデックスバランスファンド(4資産均等型)
の組み合わせにしようか。知らなかったが、複数の商品を組み合わせることもできるようだ(証券会社によって本数が異なる)。
(2)
体調が悪い。
これが一番の問題だ。免疫力の低下を感じる。
仕事からもう少し早く帰れるといいんだが。
しかし、思ったのは、通勤中のストレスがこれまで以上に大きい。経路が変わって、所要時間は若干減ったぐらいである。しかし、乗り換えが増えたのと、電車の混雑具合がきつい。
駅構内を歩いているときも、大量の人が埋め尽くして流れていく様を見るだけでも具合が悪くなるってもんである。
そういった、仕事と、それの周辺に属することが、じわじわとストレスになっている気がする。
某友人のブログの一文を引用させて頂いた(何があったかは皆目つかない)。
とても興味があるテーマである。
『進撃の巨人』
という作品が、それについて言及していると思っている(勝手に)。
進撃の巨人は面白いが、やはり、「つまらない」と感じる人も多いようである(NETのレビューなど)。
すかっと巨人化して悪い奴を一掃。
という作品だったら、僕は早々に購入を止めていたと思う。
全然すかっとしないところが気に入っている。
壁の中の巨人を、血なまぐさい犠牲と努力ですべて倒しつくすことができた。しかし、それは新たな悲劇の始まりでしかなかった、というのが単行本での最新刊(25~28巻)あたりか。
これに対して、僕は、以下のように思う。
ルールと価値観(共通の価値)は別物だということだ。
――内部リンク
これが僕の悪い癖な気もする。
人の話に飽きてしまうというのは、逆に書けば、違うことに興味をもってしまう、ということでもある。
まぁいい、全然まとまらないが、とにかく、エレンとアルミンの決別である。
どういうことかというと、アルミンは、「話し合うべきだ」と主張する。しかし、もう時間がないと判断したエレンは戦う意志と行動を示す。
まぁまぁ、人はみな違うんだから、いろんな意見をもっていいじゃないか。
というのは正しい。
一方で、「その意見は間違っている」ということも正しい。
その矛盾が成り立つのは、ルールという次元と、価値観という次元が混在するからである。(混在とかいたが、別々に切り分けられる、という感じもする)
ルールは、守らなければいけない。
しかし、ルールは変えることも可能である。
価値観は、人それぞれの来歴によって醸成される。
価値観は、不変ではないが、すぐさま変わるようなものでもない。
価値観に善悪はない。
善悪が生じるのは、ルールとの「ズレ」が発生した時である。
「人の本能は闘争であり、争いでのみ本当の自己を解き放てる」
という価値観を抱くことは間違っていない。
しかし、ルールに基づかない闘争は犯罪だ。それは悪だ。
ボクシングや野球は、人間の闘争心を鎮火、浄化? 昇華? してくれるものかもしれない。だから、人の本能は闘争であり、適度な争いや競争がなければ堕落する、というのは、納得できる部分もなかろうか。
だからといって、ところかまわず力をふるってはダメだし、権力を笠にして弱いものを虐げてもダメだろう。
だが、それが「ダメ」なのは、そういうルールを、人間たちが「共通価値観」によって作り出したからだ。
しかし、そのルールの可変を担保するのは何か。
僕らが一般的に抱き得るだろうという「共通価値観」によってだ。
それを、システムとして組み込んでいるのが、選挙であるのは言うまでもない。
だから、選挙の投票率が下がれば、そのシステム自体の信頼性が揺らぐので、多くの政治家は投票を呼び掛けるのである。自身に票を入れてくれ、というだけではない。まぁ、投票年齢を下げるのは、若者のほうが御しやすいと考えているからなのかもしれないが、それは分からない。
しかし、まぁ、週間更新っていいな。体調が悪いとか、忙しいとか、様々な理由をつけて「やらないこと」はできるけれども、その言い訳をすべて断じるのがルーチン、週間、習慣である。
(かっこ書きである。とりあえず、体調を治さないとなぁ。体の治りが遅くなっているような。30代である。そして、きっとすぐに、40代になるだろう。その前に終わるかもしれないが。若いうちに、何をやっておけばよかったのか。不思議と、後悔はない。そりゃあ、小さな後悔はたくさんあるが――あの場面で、ああ言っておいたほうが印象がよかったはずだ、とか、あの人の感情をもっと良くさせられたのに、とか――じゃあ、大きな、何かしておいたほうがよかったことがあるかというと、特にないと思う。って、上の「たとえば」で書いたことを読んで思ったが、やっぱり、「他者に興味がない」といいつつ、過剰に人の反応等を気にしているのだな。そういう、過剰な気遣いをしなくなれば、人付き合いも嫌じゃなくなるのか。違う、と思う。「過剰」と僕が思うことは、ふつーの人は、ふつーにできるようなものなのだ。僕は、「意識」しないとできないのだ。そこがハンデで、ひでーなぁっていつも思う。僕のふつーをしているだけじゃあ、ふつーの人のふつーにはならないんだなってのが、いつも苛々させられる。頑張って、ようやくゼロになるってのは、気力がなくなる。とかって愚痴だ、愚痴を、どこかには言えないと、つらいのだ。ふつーの人は、友人と居酒屋で愚痴を言い合うのかもしれない。しかし、その手は僕は使えない。それすらも気を遣う可能性が高いからだ。……でも、本当にそうだろうか。そこまで気を遣う必要などあるのだろうか。……いや、いやいや、そうじゃない。別に人と会うこととか話すことはそこまで嫌なわけではない。ただ、「誰かと一緒に何かする」ということがないと、飽きるのである。何か一緒になって遊んだり、――だから、ゲームしたりとかは、めっちゃ楽しい。一人で遊ぶのもいいが、みんなでスマブラするのもいいよね。そこが問題だ。そこに別に「会話」(いやもちろん、ゲームしてても会話はあるが、ちょっと違う)は必要ないのだ。みんなと何か一緒に作るのも悪くない。だが、その「作る」工程自体は、やはり一人の作業なのではなかろうか。ってな、中学生レベルの思考でも、ちゃんと書いて、理解しておかねばなるまい。遠回りのように見えて、そもそも近道などない。本来的に、「無駄なこと」などない。無駄と判断するのは自分の意思である。他者にとっては無駄でも、自分が得た経験という意味では、無駄なことなどないのだ。例えば、最愛の人に気に入られようと努力しても結局みのらなかったとしても、その努力は無駄ではないのだ。からくりサーカスは、そんな些細なズレから、大きなズレに繋がってしまう人の業というのを、少年誌なはずなのに描いているのがすごいよなぁ。アニメは取り敢えずみている。いい場面など多い。しかし、やはり、漫画版のディテールは捨てがたいよなぁ)
前書き
(1)つみたてNISAを検討していると前回書いた。
口座申し込みのボタンをNET上で押して、翌日ぐらいには書類が届いていたが、いざ書類を書いて投函してから3日営業日ぐらい立つが、まだ開設準備中のままだ。
その間、どの商品を購入するか検討するべきということなのか。
eMAXIS Slim全世界株式
と
ニッセイ・インデックスバランスファンド(4資産均等型)
の組み合わせにしようか。知らなかったが、複数の商品を組み合わせることもできるようだ(証券会社によって本数が異なる)。
(2)
体調が悪い。
これが一番の問題だ。免疫力の低下を感じる。
仕事からもう少し早く帰れるといいんだが。
しかし、思ったのは、通勤中のストレスがこれまで以上に大きい。経路が変わって、所要時間は若干減ったぐらいである。しかし、乗り換えが増えたのと、電車の混雑具合がきつい。
駅構内を歩いているときも、大量の人が埋め尽くして流れていく様を見るだけでも具合が悪くなるってもんである。
そういった、仕事と、それの周辺に属することが、じわじわとストレスになっている気がする。
多様性
――「皆それぞれ意見があるよね」は確かに正しいのだが、そんな中で「その意見は認められない!」という人がいたとして、その人に「いやいや、間違った意見など存在しないでしょう」とかなんとか言うことが正しいのか――
某友人のブログの一文を引用させて頂いた(何があったかは皆目つかない)。
とても興味があるテーマである。
『進撃の巨人』
という作品が、それについて言及していると思っている(勝手に)。
進撃の巨人は面白いが、やはり、「つまらない」と感じる人も多いようである(NETのレビューなど)。
すかっと巨人化して悪い奴を一掃。
という作品だったら、僕は早々に購入を止めていたと思う。
全然すかっとしないところが気に入っている。
壁の中の巨人を、血なまぐさい犠牲と努力ですべて倒しつくすことができた。しかし、それは新たな悲劇の始まりでしかなかった、というのが単行本での最新刊(25~28巻)あたりか。
これに対して、僕は、以下のように思う。
ルールと価値観(共通の価値)は別物だということだ。
――内部リンク
言いたいことが違う
と、ここまで書いて、引用元での論点と、僕が書こうと思ったことが全然違っていることに気づいた。これが僕の悪い癖な気もする。
人の話に飽きてしまうというのは、逆に書けば、違うことに興味をもってしまう、ということでもある。
まぁいい、全然まとまらないが、とにかく、エレンとアルミンの決別である。
どういうことかというと、アルミンは、「話し合うべきだ」と主張する。しかし、もう時間がないと判断したエレンは戦う意志と行動を示す。
まぁまぁ、人はみな違うんだから、いろんな意見をもっていいじゃないか。
というのは正しい。
一方で、「その意見は間違っている」ということも正しい。
その矛盾が成り立つのは、ルールという次元と、価値観という次元が混在するからである。(混在とかいたが、別々に切り分けられる、という感じもする)
ルールと価値観
ルールは、脅かしてはいけない。ルールは、守らなければいけない。
しかし、ルールは変えることも可能である。
価値観は、人それぞれの来歴によって醸成される。
価値観は、不変ではないが、すぐさま変わるようなものでもない。
価値観に善悪はない。
善悪が生じるのは、ルールとの「ズレ」が発生した時である。
「人の本能は闘争であり、争いでのみ本当の自己を解き放てる」
という価値観を抱くことは間違っていない。
しかし、ルールに基づかない闘争は犯罪だ。それは悪だ。
ボクシングや野球は、人間の闘争心を鎮火、浄化? 昇華? してくれるものかもしれない。だから、人の本能は闘争であり、適度な争いや競争がなければ堕落する、というのは、納得できる部分もなかろうか。
だからといって、ところかまわず力をふるってはダメだし、権力を笠にして弱いものを虐げてもダメだろう。
だが、それが「ダメ」なのは、そういうルールを、人間たちが「共通価値観」によって作り出したからだ。
共通価値観
ルールは可変だ。しかし、そのルールの可変を担保するのは何か。
僕らが一般的に抱き得るだろうという「共通価値観」によってだ。
それを、システムとして組み込んでいるのが、選挙であるのは言うまでもない。
だから、選挙の投票率が下がれば、そのシステム自体の信頼性が揺らぐので、多くの政治家は投票を呼び掛けるのである。自身に票を入れてくれ、というだけではない。まぁ、投票年齢を下げるのは、若者のほうが御しやすいと考えているからなのかもしれないが、それは分からない。
感情も無視できない要素だが
――ほら、ぜんぜん関係ない話しになってしまった。しかし、まぁ、週間更新っていいな。体調が悪いとか、忙しいとか、様々な理由をつけて「やらないこと」はできるけれども、その言い訳をすべて断じるのがルーチン、週間、習慣である。
(かっこ書きである。とりあえず、体調を治さないとなぁ。体の治りが遅くなっているような。30代である。そして、きっとすぐに、40代になるだろう。その前に終わるかもしれないが。若いうちに、何をやっておけばよかったのか。不思議と、後悔はない。そりゃあ、小さな後悔はたくさんあるが――あの場面で、ああ言っておいたほうが印象がよかったはずだ、とか、あの人の感情をもっと良くさせられたのに、とか――じゃあ、大きな、何かしておいたほうがよかったことがあるかというと、特にないと思う。って、上の「たとえば」で書いたことを読んで思ったが、やっぱり、「他者に興味がない」といいつつ、過剰に人の反応等を気にしているのだな。そういう、過剰な気遣いをしなくなれば、人付き合いも嫌じゃなくなるのか。違う、と思う。「過剰」と僕が思うことは、ふつーの人は、ふつーにできるようなものなのだ。僕は、「意識」しないとできないのだ。そこがハンデで、ひでーなぁっていつも思う。僕のふつーをしているだけじゃあ、ふつーの人のふつーにはならないんだなってのが、いつも苛々させられる。頑張って、ようやくゼロになるってのは、気力がなくなる。とかって愚痴だ、愚痴を、どこかには言えないと、つらいのだ。ふつーの人は、友人と居酒屋で愚痴を言い合うのかもしれない。しかし、その手は僕は使えない。それすらも気を遣う可能性が高いからだ。……でも、本当にそうだろうか。そこまで気を遣う必要などあるのだろうか。……いや、いやいや、そうじゃない。別に人と会うこととか話すことはそこまで嫌なわけではない。ただ、「誰かと一緒に何かする」ということがないと、飽きるのである。何か一緒になって遊んだり、――だから、ゲームしたりとかは、めっちゃ楽しい。一人で遊ぶのもいいが、みんなでスマブラするのもいいよね。そこが問題だ。そこに別に「会話」(いやもちろん、ゲームしてても会話はあるが、ちょっと違う)は必要ないのだ。みんなと何か一緒に作るのも悪くない。だが、その「作る」工程自体は、やはり一人の作業なのではなかろうか。ってな、中学生レベルの思考でも、ちゃんと書いて、理解しておかねばなるまい。遠回りのように見えて、そもそも近道などない。本来的に、「無駄なこと」などない。無駄と判断するのは自分の意思である。他者にとっては無駄でも、自分が得た経験という意味では、無駄なことなどないのだ。例えば、最愛の人に気に入られようと努力しても結局みのらなかったとしても、その努力は無駄ではないのだ。からくりサーカスは、そんな些細なズレから、大きなズレに繋がってしまう人の業というのを、少年誌なはずなのに描いているのがすごいよなぁ。アニメは取り敢えずみている。いい場面など多い。しかし、やはり、漫画版のディテールは捨てがたいよなぁ)
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今日の一言「非常に意義深いコメントを頂けて嬉しい」「そのまさに『満足』について書く」
凡人として生きることの放棄
周囲に合わせて生きることに拘らないようにしようという宣言である(たぶん)。
能力的な足りなさや衰えがありながら、いかに精神的埋没を回避するのか、といった舵取りである。
ぶっちゃけ、そっちのほうが大変だと思う。
能力的に低い人は、周りに合わせて生きていった方がまし(楽)である。
それで、ある程度幸せに生きられる人だって多いはずだ。
だが僕は、30年とそこそこで、やっぱりそれは合っていないのだ、と認めることにしよう。
で、次に、「じゃあどうするか」といった部分になってくるが、その前に、どのように僕が「変」なのかということを、もう少し分かっておく必要がある。それに対して非常に有意義だと思われるのが、最初に引用したコメントである。
民主主義社会では、絶対王政は存在しないのだ。
違憲立法審査権って、中学生ぐらいで習ったろう。
みんなが恐れる「法律」ってのを司っている裁判所という怖い機関も、弾劾裁判(裁判官を辞めさせる)ことができるのだ。
つまり、人類は歴史の中で、(人間はろくでもないから)権力を持ちすぎると悪いことになる、ことを学んだのである。
かといって、絶対王政>衆愚政治である、とどこかの偉い人も言ったそうな。
まぁ、ここは考え方になるだろうが、僕も納得する部分もある。
ただ、もっと厳密には、
絶対王政(良い感じ)>衆愚政治>絶対王政(悪い感じ)
って感じ、だと思う。
ダメな奴に権力渡ったら、衆愚政治でなだらかに破滅していくよりも、もっとひどいことになるだろう。
話がそれている、戻そう。
それは、どんなに権力を手にしても、どんなにお金を手にしても。
――いやしかし、お金があると、実はかなり自由になる。
何故ならば、働かなくても済むからだ。
しかし、投資の勉強をし、投資先を検討し、リスクに精神をすり減らす……というのは、働くといって過言ではなかろう。働き方の違いだ。
最近、ツイッターなどでバズっていた(使い方あってるのか? バズるってなんだ。バズワード? 何故そんな言葉が必要なのか)が、「写真家(漫画家、等々)は写真とってお金がもらえて楽しそうでsね」って「じゃあお前がやってみろ」という。
投資家も働かなくて楽しそうですね、という感想をもつ人がいるかもしれないが、僕の感じ方は違っている。それだって十分に働いている。
働く、というのは、要はお金を得る手段である。
何百年か前は、働くといえば、農業をする、という意味だった(ということを思い浮かべる人が多い)かもしれない。
一方、昨今は、第一地産業(農業林業漁業)は、ほとんどないんじゃなかろうか。調べた。
1950年ぐらいは、50%だったが、2000年ぐらいは、5%らしい。
ええええ、こんなに少ないんか。意外。やっぱり、データをみるって大事だね。
いやともかく、机に座って仕事することを、「お前らなぁ、そんなのは仕事じゃないんだ。足を使え、足を!」的に思う人もいるかもしれない。そういう風にして、「今の人たちは楽だなぁ」って思うのか。
そんなことを思う人は少ないかもしれない。だが、投資家に対して、「楽だなぁ」って思うのと、構造的には同じだ。
要するに僕が言いたいのは、生きるのに楽な方法などないのだ。
だが、大事なことだ。生きるのに楽な方法はない、ということだ。
これはつらい。
楽に生きることが人類の究極的な目標じゃないのか。いや、実現とか抜きにして。
「苦しいこと」
が、本来的に必要だというなら、まじでキリスト教的世界観に、みな脳がやられている。
(やられている、と書くと不謹慎かもしれないが、別に悪い意味で書いているつもりはあまりない。あまりない、のだが、こういう感覚が、あまり他者に理解されずに、イライラすることが多い。ちょっと表現的に過激にしてるだけじゃないか、ねぇ……)
キリスト教的世界観とは、要は、アダムがリンゴ食っちゃった、ということである。
それによって、男は――なんだっけ、わすれた、女は産みの苦しみが与えられたのだ。――男はあれか、食料を得ることに苦しむようになったんだっけか。調べればすぐ分かるだろうがこれも本筋ではないから置いておく。
つまり、人間とは、苦しむ生き物なのだ、ということ。
それを、認めていいのか。
――認めざるを得ない……。
これが、現時点率直な感想である。
前書き
まずは引用する。今回は、停滞と、満足、ということをキーに書いていきたい。「完全無欠に超幸せ」というのが本質的に存在するのであれば、人間や生命体は恐らく存在する意味を失うと思います。というのも、生物は恐らく、「自己保存、種の保存のためにより良い状態(環境、感情、状況など総合的に)を求める」という性質が備わっていて、感動したり、良かったり、満足したりというプラスやポジティブな感情は瞬間的、刹那的で、後から思い返すことはできてもその時の快感を同じように得ることはできないようになっていると思うからです。つまるところ、新たな快感、より良い快感を求めて生命活動を続け、生きて行こうとするように出来ている。「誰もが満足する完璧な作品があれば新作は生まれなくなる」というのと発想的には同じです。人の場合であれば、完璧な頂点に至ってしまえばそれ以上生きるという理由がなくなってしまう。
――前々回コメントより
一般人として考えることの放棄
もう一つ、前提を引用する。これは自記事である。凡人として生きることの放棄
周囲に合わせて生きることに拘らないようにしようという宣言である(たぶん)。
能力的な足りなさや衰えがありながら、いかに精神的埋没を回避するのか、といった舵取りである。
ぶっちゃけ、そっちのほうが大変だと思う。
能力的に低い人は、周りに合わせて生きていった方がまし(楽)である。
それで、ある程度幸せに生きられる人だって多いはずだ。
だが僕は、30年とそこそこで、やっぱりそれは合っていないのだ、と認めることにしよう。
で、次に、「じゃあどうするか」といった部分になってくるが、その前に、どのように僕が「変」なのかということを、もう少し分かっておく必要がある。それに対して非常に有意義だと思われるのが、最初に引用したコメントである。
完璧な満足ない
前回のつみたてNISA的記事の中で、その前に、「じゃあ社長になったからって、他者を気にしなくてよくなるのか。否。社長は、株主照会にびくびくする」と書いた。民主主義社会では、絶対王政は存在しないのだ。
違憲立法審査権って、中学生ぐらいで習ったろう。
みんなが恐れる「法律」ってのを司っている裁判所という怖い機関も、弾劾裁判(裁判官を辞めさせる)ことができるのだ。
つまり、人類は歴史の中で、(人間はろくでもないから)権力を持ちすぎると悪いことになる、ことを学んだのである。
かといって、絶対王政>衆愚政治である、とどこかの偉い人も言ったそうな。
まぁ、ここは考え方になるだろうが、僕も納得する部分もある。
ただ、もっと厳密には、
絶対王政(良い感じ)>衆愚政治>絶対王政(悪い感じ)
って感じ、だと思う。
ダメな奴に権力渡ったら、衆愚政治でなだらかに破滅していくよりも、もっとひどいことになるだろう。
話がそれている、戻そう。
完璧な満足について
であるからにして、話がそれたが、要は、現代社会において、誰からの評価も恐れずに生きていくことは、原理的(政治的)に不可能なのである。それは、どんなに権力を手にしても、どんなにお金を手にしても。
――いやしかし、お金があると、実はかなり自由になる。
何故ならば、働かなくても済むからだ。
しかし、投資の勉強をし、投資先を検討し、リスクに精神をすり減らす……というのは、働くといって過言ではなかろう。働き方の違いだ。
最近、ツイッターなどでバズっていた(使い方あってるのか? バズるってなんだ。バズワード? 何故そんな言葉が必要なのか)が、「写真家(漫画家、等々)は写真とってお金がもらえて楽しそうでsね」って「じゃあお前がやってみろ」という。
投資家も働かなくて楽しそうですね、という感想をもつ人がいるかもしれないが、僕の感じ方は違っている。それだって十分に働いている。
働く、というのは、要はお金を得る手段である。
何百年か前は、働くといえば、農業をする、という意味だった(ということを思い浮かべる人が多い)かもしれない。
一方、昨今は、第一地産業(農業林業漁業)は、ほとんどないんじゃなかろうか。調べた。
1950年ぐらいは、50%だったが、2000年ぐらいは、5%らしい。
ええええ、こんなに少ないんか。意外。やっぱり、データをみるって大事だね。
いやともかく、机に座って仕事することを、「お前らなぁ、そんなのは仕事じゃないんだ。足を使え、足を!」的に思う人もいるかもしれない。そういう風にして、「今の人たちは楽だなぁ」って思うのか。
そんなことを思う人は少ないかもしれない。だが、投資家に対して、「楽だなぁ」って思うのと、構造的には同じだ。
要するに僕が言いたいのは、生きるのに楽な方法などないのだ。
完璧な満足についての話じゃないのか!
本題に入れない。満足の話、に入りたいのだが。だが、大事なことだ。生きるのに楽な方法はない、ということだ。
これはつらい。
楽に生きることが人類の究極的な目標じゃないのか。いや、実現とか抜きにして。
「苦しいこと」
が、本来的に必要だというなら、まじでキリスト教的世界観に、みな脳がやられている。
(やられている、と書くと不謹慎かもしれないが、別に悪い意味で書いているつもりはあまりない。あまりない、のだが、こういう感覚が、あまり他者に理解されずに、イライラすることが多い。ちょっと表現的に過激にしてるだけじゃないか、ねぇ……)
キリスト教的世界観とは、要は、アダムがリンゴ食っちゃった、ということである。
それによって、男は――なんだっけ、わすれた、女は産みの苦しみが与えられたのだ。――男はあれか、食料を得ることに苦しむようになったんだっけか。調べればすぐ分かるだろうがこれも本筋ではないから置いておく。
つまり、人間とは、苦しむ生き物なのだ、ということ。
それを、認めていいのか。
完璧な満足は存在しない
そこで、頂いたコメントの部分に入っていくのである。――認めざるを得ない……。
これが、現時点率直な感想である。
>つまるところ、新たな快感、より良い快感を求めて生命活動を続け、生きて行こうとするように出来ている。
>「誰もが満足する完璧な作品があれば新作は生まれなくなる」というのと発想的には同じです。
なるほど……。
いやぁ全くその通りだなぁ、と思った次第。
しかし、人類も叡知で溢れている。ここで実は、袋小路ではないのだ。もう一つの生き方があるのだ。
それが解脱の道である。
ゴウタマ・シッダールタさんは、王子様で、めちゃくちゃ快楽しまくった結果(大げさに書いているだけだ)、やっぱり苦悩だな、ってことで、悟りを得るために出奔したのだ。
僕は正直、キリスト教の必要性はあまり思わないが(毎回書くが、宗教のことを書いているのではない。キリスト教を排斥する意図もない)、原始仏教の教えを正しく後世に伝えていくという役割は、あって然るべきだと思う。
繰り返し書くが、僕は宗教のことを書いているのではない。考え方であり、生き方の話である。
仏教とは、生き方であり、哲学であると思っているのだ。
そういう生き方もあるんだよ、ということは、決して忘れるべきではなかろう。
――だが、僕はまだ、世俗的な生き方においても、何か救済を模索したいと思っている。
何故ならば、食料やシステムがなければ、人は生き永らえないのである。仏教にも、典座という仕事があって、畑を耕したり、修行僧への食事を作ったりしたりするが、しかし、そこの割合が増えていけば、結局階級社会になりそうである。
それに、人間皆我欲にまみれているので、人類全体が仏教徒になるというのは、あまりにも現実的ではないと思うからだ。
(――そうしかし。「あまりにも現実的ではない」というのが、逆に物語、作品のアイディアとしては面白かったりする。現実的ではないが、それを愚直に求めようとする存在が、いい感じの悪役になってくれたり)
なので、世俗的な中にも、救済が求められなければいけない。
人間は完ぺきな満足ができない → 永遠に次なる刺激を求め彷徨う存在 → 不幸である
ということだ。
最後の結論が、おそらく、その他多くの人たちと、僕の感覚とのズレ、なのだと思う。
上の構造であっても、「別にそれが人間じゃん」と思う人たちのほうが多いのだろう、たぶん。
俺は、虚しさを感じる。
なんで?
と言われても、そりゃあ分からない。それが分かったら苦労しない。
とはいえ、
>人の場合であれば、完璧な頂点に至ってしまえばそれ以上生きるという理由がなくなってしまう。
というのも、よーっく分かるのである。
その通りだと思うのである。
その上で、しかし、
>新たな快感、より良い快感を求めて生命活動を続け、生きて行こうとするように出来ている。
というのは、どこかしら、呪いのように感じられてしまうのだ。アダムめえええ! 余計なことをしてくれおって(原罪)!(不謹慎だ)
グノーシス主義ってのがあってだね、これも概要は知っていたが、とある友人に勧められた本を読んで面白かったのだけれども、要は世界は「不完全」なのである。
不完全だから、いろいろ問題が多くても仕方がないねっ(てへぺろ)。
ということだ。
だから、救済が必要だと思うのだ。
人類、すごいよ。
文句ばっかり言う人を、僕はほんと蔑んでいるが、歴史なり、物理学なり、ちゃんと勉強すれば(ちゃんと理解は、凡人だからできないんだけどね!てへぺろ)、なかなか、人類はすごいなぁって思う。
そのすごい成果は、「現状に満足せず、新しいことに好奇心をもって立ち向かっていった」からである。
だから、「完璧な満足」を求めるのは、人類にとって、間違い、なのだ。
人という生き物としては、やはり、
>新たな快感、より良い快感を求めて生命活動を続け、生きて行こう
ということになるのだろう。
ここで一つ気づいたが、僕自身も、そうした人間の営み自体に、嫌悪感があるわけではないのだ。
そういえば、「成長」と「貢献」は大事なのだと、いつぞやかに書いたはずだ。
つまり、「失敗」したら死ぬ(ないしはボロボロになる)可能性を、僕は恐れているのではないか。
他者の評価、というのを恐れるのは、そして、評価されても、それが一時的なものとしか思えないし、逆にもっと高度なことを要求されるのではないかという薄ら寒さすら覚えるというのは、そういうことなのではないか。
つまり、ぼくは、通常は、60%ぐらいの力を発揮しつつ、余剰分の10%ぐらいを、投資(ここでいう投資はお金のことではなく、能力や知識・技術的な面において)にまわして、合計70%ぐらいで生きていけたらいいのではないか、ということかもしれない。
だから、僕は、「がんばる」という言葉が嫌いなのだ。
がんばるということは大事だと思いつつ。
その余剰分の10%が頑張るということなのだ。
110%を発揮するということではないのだ。
110%発揮してたら、いずれ壊れる。
%ではなくて。
がんばっていることで、総量が、最初が500HPだったのが、600HPになるということはあると思う。だが、500HPしかないのに、110%の、550HPを使ったら、「死ぬ」のだ。
120%がんばろう!
とか論理矛盾だ。馬鹿か。100%以上できるはずなかろう。
電車の乗車率200%とかってのは、あれは数字マジックだ。
ぎゅうぎゅう押し込めれば乗れるのだから、現実の100%は超えていないのだ。単に、座席とつり革の数に対しての比率だ。「当社比」的な怪しい数字なのだ。
そこらへんを、まず、みんな勘違いをなくしたほうがいい。
100%は100%なのだ。
(かっこ書きである。結論的なことはともかく、大事なことを書いた、気がする。まだ気持ちが熱いうちに、更に整理して、カクヨムのまとめにでも投稿しようかな。「人生一生勉強だよ」とか言われて、うわぁそんな人生くそみたいだ、死のう、と思ったわけではないが、それって楽しいの、とは思う。ただ、「勉強」という言葉自体も、少し感覚を変えれば、一生勉強、というのも悪くないと思う。ただ、勉強=苦しい、という感覚があるとして、それが一生続くとしたら、「人生一生苦しんだよ」という意味になるだろう。それは嫌だろう(笑)。でも一方で、今回の記事の問題は、「人生は一生苦しい(こともあればたまに楽しいこともある)」ということを、認めるしかないのか、ということだ。思ったのだが、「再チャレンジ性」が重要なんじゃなかろうか。要は、失敗しても、次またやってみよう、と思えるか。――話はものすごく飛躍するが、じゃあ、失敗し続ける人、はどうなるのか。学習性無気力になる、という心理学的なことは置いておいて、失敗し続ける人は、おそらく許容されないだろう。無価値だ、邪魔だ、となるだろう。そうならない仕組みがありえるのか。おそらく、失敗し続ける環境を変えるしかないだろう。失敗し続ける人も、違う環境なら、自分の能力を生かせるかもしれない。だが、僕はそういう答えはクソつまんねえ、と思ってしまう。それは解決になっていない(対処ではある)。そうなると、ベーシックインカム、という発想が出てくるかもしれない。生活保護とは少し違う。共産主義ともちょっと違う。例えば前回の記事で、夫婦だと23万円、だっけ? が必要だとしたら、23万円は、全世帯に配布するのである。要は、誰一人働かなくても、「ふつーの生活」――これは、食べるためにギリギリな生活、という意味ではなく、本当に充分ふつーの生活ができる水準で生きられるようにするのである。そうすると、自分の能力を生かせる場所で、楽しく働けて、失敗しても、失敗し続けても、まぁなんとかなるから、落ち込んじゃったら、しばらく休んで、また頑張ればいい……みたいな。――とか書いておいて、残念ながら、正直、僕は人間があまり信用ならんので、うまくいかない気がしてならない。でも発想としては悪くないと思う)
なるほど……。
いやぁ全くその通りだなぁ、と思った次第。
しかし、人類も叡知で溢れている。ここで実は、袋小路ではないのだ。もう一つの生き方があるのだ。
それが解脱の道である。
ゴウタマ・シッダールタさんは、王子様で、めちゃくちゃ快楽しまくった結果(大げさに書いているだけだ)、やっぱり苦悩だな、ってことで、悟りを得るために出奔したのだ。
僕は正直、キリスト教の必要性はあまり思わないが(毎回書くが、宗教のことを書いているのではない。キリスト教を排斥する意図もない)、原始仏教の教えを正しく後世に伝えていくという役割は、あって然るべきだと思う。
繰り返し書くが、僕は宗教のことを書いているのではない。考え方であり、生き方の話である。
仏教とは、生き方であり、哲学であると思っているのだ。
そういう生き方もあるんだよ、ということは、決して忘れるべきではなかろう。
――だが、僕はまだ、世俗的な生き方においても、何か救済を模索したいと思っている。
何故ならば、食料やシステムがなければ、人は生き永らえないのである。仏教にも、典座という仕事があって、畑を耕したり、修行僧への食事を作ったりしたりするが、しかし、そこの割合が増えていけば、結局階級社会になりそうである。
それに、人間皆我欲にまみれているので、人類全体が仏教徒になるというのは、あまりにも現実的ではないと思うからだ。
(――そうしかし。「あまりにも現実的ではない」というのが、逆に物語、作品のアイディアとしては面白かったりする。現実的ではないが、それを愚直に求めようとする存在が、いい感じの悪役になってくれたり)
なので、世俗的な中にも、救済が求められなければいけない。
救済とは何か
ここで、救済といっているのは、次の構造にもとづく。人間は完ぺきな満足ができない → 永遠に次なる刺激を求め彷徨う存在 → 不幸である
ということだ。
最後の結論が、おそらく、その他多くの人たちと、僕の感覚とのズレ、なのだと思う。
上の構造であっても、「別にそれが人間じゃん」と思う人たちのほうが多いのだろう、たぶん。
俺は、虚しさを感じる。
なんで?
と言われても、そりゃあ分からない。それが分かったら苦労しない。
とはいえ、
>人の場合であれば、完璧な頂点に至ってしまえばそれ以上生きるという理由がなくなってしまう。
というのも、よーっく分かるのである。
その通りだと思うのである。
その上で、しかし、
>新たな快感、より良い快感を求めて生命活動を続け、生きて行こうとするように出来ている。
というのは、どこかしら、呪いのように感じられてしまうのだ。アダムめえええ! 余計なことをしてくれおって(原罪)!(不謹慎だ)
グノーシス主義ってのがあってだね、これも概要は知っていたが、とある友人に勧められた本を読んで面白かったのだけれども、要は世界は「不完全」なのである。
不完全だから、いろいろ問題が多くても仕方がないねっ(てへぺろ)。
ということだ。
だから、救済が必要だと思うのだ。
俺にとっての救済でいい
が。その救済なるものを、全人類的に当てはめようとすると、失敗するように、できるだけ高度なシステムが作り上げられている――要は資本主義だったり、民主主義だったり。人類、すごいよ。
文句ばっかり言う人を、僕はほんと蔑んでいるが、歴史なり、物理学なり、ちゃんと勉強すれば(ちゃんと理解は、凡人だからできないんだけどね!てへぺろ)、なかなか、人類はすごいなぁって思う。
そのすごい成果は、「現状に満足せず、新しいことに好奇心をもって立ち向かっていった」からである。
だから、「完璧な満足」を求めるのは、人類にとって、間違い、なのだ。
人という生き物としては、やはり、
>新たな快感、より良い快感を求めて生命活動を続け、生きて行こう
ということになるのだろう。
ここで一つ気づいたが、僕自身も、そうした人間の営み自体に、嫌悪感があるわけではないのだ。
そういえば、「成長」と「貢献」は大事なのだと、いつぞやかに書いたはずだ。
成長や貢献をしない役立たずは死んだ方がいいか
問題は、「安心」という概念なのではなかろうか。つまり、「失敗」したら死ぬ(ないしはボロボロになる)可能性を、僕は恐れているのではないか。
他者の評価、というのを恐れるのは、そして、評価されても、それが一時的なものとしか思えないし、逆にもっと高度なことを要求されるのではないかという薄ら寒さすら覚えるというのは、そういうことなのではないか。
つまり、ぼくは、通常は、60%ぐらいの力を発揮しつつ、余剰分の10%ぐらいを、投資(ここでいう投資はお金のことではなく、能力や知識・技術的な面において)にまわして、合計70%ぐらいで生きていけたらいいのではないか、ということかもしれない。
だから、僕は、「がんばる」という言葉が嫌いなのだ。
がんばるということは大事だと思いつつ。
その余剰分の10%が頑張るということなのだ。
110%を発揮するということではないのだ。
110%発揮してたら、いずれ壊れる。
%ではなくて。
がんばっていることで、総量が、最初が500HPだったのが、600HPになるということはあると思う。だが、500HPしかないのに、110%の、550HPを使ったら、「死ぬ」のだ。
120%がんばろう!
とか論理矛盾だ。馬鹿か。100%以上できるはずなかろう。
電車の乗車率200%とかってのは、あれは数字マジックだ。
ぎゅうぎゅう押し込めれば乗れるのだから、現実の100%は超えていないのだ。単に、座席とつり革の数に対しての比率だ。「当社比」的な怪しい数字なのだ。
そこらへんを、まず、みんな勘違いをなくしたほうがいい。
100%は100%なのだ。
(かっこ書きである。結論的なことはともかく、大事なことを書いた、気がする。まだ気持ちが熱いうちに、更に整理して、カクヨムのまとめにでも投稿しようかな。「人生一生勉強だよ」とか言われて、うわぁそんな人生くそみたいだ、死のう、と思ったわけではないが、それって楽しいの、とは思う。ただ、「勉強」という言葉自体も、少し感覚を変えれば、一生勉強、というのも悪くないと思う。ただ、勉強=苦しい、という感覚があるとして、それが一生続くとしたら、「人生一生苦しんだよ」という意味になるだろう。それは嫌だろう(笑)。でも一方で、今回の記事の問題は、「人生は一生苦しい(こともあればたまに楽しいこともある)」ということを、認めるしかないのか、ということだ。思ったのだが、「再チャレンジ性」が重要なんじゃなかろうか。要は、失敗しても、次またやってみよう、と思えるか。――話はものすごく飛躍するが、じゃあ、失敗し続ける人、はどうなるのか。学習性無気力になる、という心理学的なことは置いておいて、失敗し続ける人は、おそらく許容されないだろう。無価値だ、邪魔だ、となるだろう。そうならない仕組みがありえるのか。おそらく、失敗し続ける環境を変えるしかないだろう。失敗し続ける人も、違う環境なら、自分の能力を生かせるかもしれない。だが、僕はそういう答えはクソつまんねえ、と思ってしまう。それは解決になっていない(対処ではある)。そうなると、ベーシックインカム、という発想が出てくるかもしれない。生活保護とは少し違う。共産主義ともちょっと違う。例えば前回の記事で、夫婦だと23万円、だっけ? が必要だとしたら、23万円は、全世帯に配布するのである。要は、誰一人働かなくても、「ふつーの生活」――これは、食べるためにギリギリな生活、という意味ではなく、本当に充分ふつーの生活ができる水準で生きられるようにするのである。そうすると、自分の能力を生かせる場所で、楽しく働けて、失敗しても、失敗し続けても、まぁなんとかなるから、落ち込んじゃったら、しばらく休んで、また頑張ればいい……みたいな。――とか書いておいて、残念ながら、正直、僕は人間があまり信用ならんので、うまくいかない気がしてならない。でも発想としては悪くないと思う)
今日の一言「先進国株式と新興国株式を合わせるか」
とか書いておいて、結局23時過ぎになったり、今週も忙しかった。
忙しかったが、2つ、大きな山を越えた。
成功だったようだ。周囲からの感想も良かった。
一つ言えるがあるとしたら、自分ができることは、着実に多くはなってきているのだろう。
だからといって、終わりはないのである。
そして、この「良かったよ」という評価が、次の週には落ちてしまう可能性だってある。
逆に、ある程度「評価」が高くなることによって、求められることも高度になる可能性がある。
トップに立てばそんなこと気にしなくなる?
そんなことはない。
民間なら株主たちにおびえ、公務員なら議員や政治家におびえ、総理大臣も世論におびえる。
「きりがねーな」
と僕がいつも思っているのはそういうことである。
この資本主義社会に安寧の立場も場所もないのだ。
先日のブログにいただいたコメントについても別途触れなければいけない、大事なことだ。
だが、今回のルーチン更新は、時間もないことと、まさに、今書類を手に取っている状態のため、ログという意味としても、つみたてNISAについて書きたいと思う。
つみたてNISAとは何か。
2018年1月から始まった、非課税の投資手段である。
投資とは何か。
お金をとある機関へお金を預けて、分配金(配当金)を得る手段である。また、お金を預けることによって「証券」という権利が手に入る。証券を売ることによって、買ったときとの差額による利益(または損益)を得ることができる。
↑これというほど簡単に書いた。中学生にも分かるだろう。だから、逆に、厳密には意味が異なっているかもしれない。だが逆に、僕の理解はその程度でしかない。
前書きの話と関係するが、僕が優れているのは、たぶん、「ものすごく単純化」することなのかもしれない。だから、周囲からも、説明が分かりやすいとか言っていただけることが少なくない。
――だが、それは、逆に僕が簡単なことしか理解できないからである。数学とか抽象的思考が苦手なのだ。1か、0か、しか分からないのだ。だから、プログラミングは逆にできる。ただ、クラスモジュールとか、オブジェクト指向は苦手かもしれない。ただ、オブジェクト指向というのも、パッケージ化された命令を利用することという理解をしているので、使えなくもない。
……1か、0か。だから、「生きる意味」なんて、抽象的なものがよく分からなくて、ずっと考え続ける必要が生じているのである。「わきにおいておいて」ということはできるが、様々な問題や課題が生じる人生において、すぐさまその根本的な問題(レーゾンデートル)が生じてくるのだ。
閑話休題。
つみたてNISAとは何か。
なんか税制優遇されている投資商品である。2018年1月~2037年(12月)までの、20年間購入できる。
あー、えーっと、思い出せない、なんだっけ、ああ、「どる・こすと・へいきんほう」だ。
要は、決まった期間に、決まった額を定期的に購入していく方法を用いて、長期的に投資するのだそうな。
そうすると、平均的になって何かサムシング的にリスクヘッジらしい!!!(適当)
要するに、世界は、今後よくなると考えられるかどうか、ということである。
日本の株価(TOPIX)を見てみよう。
1968年:100
1989年:2490
2009年:800
2019年:1400
……おお、リーマンショック(2009年ごろ)って恐ろしかったのね。
米国株価(ナスダック)を見てみよう。(ざっくり)
1968年:1000
1989年:2000
2009年:6500
2019年:26000
え、すごくね(小学生並み感想)。
ネットで急ぎで調べただけだから、見方が間違ってるのかな?
だが、これだけ見ると、めちゃくちゃ裕福になってる気がする。
この流れで新興国株式の指数を調べてみたが、すぐには見つからなかった。そもそも、統一的な指数が存在しないのか?
大臣が実は読んでなかったとか言ってまたあーだこーだなったようだが、じゃあ他の人たちはみんな読んでいるのだろうか。
https://www.fsa.go.jp/singi/singi_kinyu/tosin/20190603.html
多分↑の資料のことだと思う。
要するに、夫婦二人世帯の場合、65歳定年後、月5万円赤字になるから、あと30年生きるとすれば、2000万円必要だ、ということである。
(5かける12かける30だと1800万だけど……まぁそういうことだろう)
まぁ、あーだこーだ書いてるけど、俺も1分ぐらいしか見てないけど(かっこわらい)。
でも、これ、75歳で、月に23万円の支出をしている場合になっている。
高くね?
いやまぁ、高齢者になると、医療や介護やその他お金がかかることが増えるんだろうが、どうにも、今の感覚で、そんなに支出してないしな。
ちなみに、34歳未満の支出は、26万ぐらいのようだ。
そんなに使ってない!!
そのうちのインフラに、ネットも含まれているため、ほぼ娯楽は含まれる。
もちろん、それを超える月もあるわけだが、平均しても20万いかないだろう。
それで、なにかこう、切り詰めて苦しい生活しているとか、そういうわけじゃあない。
(ふつーに、松屋やスカイラーク系列の外食店や100円寿司旨いからな。健康に良いかは別として)
たぶん、今回の報道などで、あーだこーだ言ってる人は、月収10万円以下の苦しい生活をしている人なんだろう。月収10万以下だと、確かに大分生活が苦しいと思う。かわいそうだ。
だが、正直、独身の俺としては、そんな危機感を覚えるほどのことはなかった。
なんか、昨今のニュースとか政治家とか……いや、別に昨今じゃないけど、なんかテレビや新聞の報道って、センセーショナル過ぎると思う。
もと大阪府知事の橋本氏はこの件で、「いや、民主主義なんだから、そういう政治家選んでる国民の責任でもあるんだからね」って言っていた(らしい)。ごもっともだろう。
ごもっともだろうし、思うに、「2000万円」って数字だけ聞いてわーわー言っても、何にもならんのではなかろうか。少なくても、わーわー言ってる人は、投票には行ってるんだよね? 投票率って50%ぐらいらしいけど。
仕事してても思ったりイライラすることが多いが、
「じゃあ、どうすればいいの」「自分ならどうするの」
という視点がない人が多い(気がする)。
不満ばっかり言って、「ゆるせないぃぃぃ!!」って、許さなかったからなんなのか。
ので、証券口座はもっているし(リンク)、ネットで申し込みしたら、書類が来て、署名して免許証のコピーとかつけて返送すれば「つみたてNISA」口座もすぐ開けるようだ。
逆に、ふつうのNISA口座もってなかったので、いいタイミングな気もした(ふつうのNISAか、つみたてNISAかは年度単位で選択性であるため)。
そういう意味で、まぁ、今回のセンセーショナルさはあって良かったと思う。
そう、世界は予定調和なのだ。無駄なものも、感情も、広い意味で(次元を変えれば)無駄ではないのだ。
(かっこ書きである。前も書いたことがあるが、「国の責任だ、国が悪い」とか言う人は多いけれども、その「国」って、税金で回ってるわけだからね。「特定の何か」への賠償をするということは、そこに税金が投入されるというわけである。例えば、教育格差をなくすため、家庭の事情で私塾に行けない子にも補助金を出しましょう、という政策があったとする。無批判に、「イイネ」するべきか、ということだ。子供の教育のため、というと、もっともらしく聞こえて、反対しづらい気がする。しかし、じゃあその補助金の財源はなんなのか、ということである。僕らの税金が1%あがってもいいのか? 消費税増税で、未だにあーだこーだ言ってたりするが、まぁそういう状況でどうなるかは明らかだろう。あと、運用コストってのもよく考えたほうがいい。でっかいシステム作ったはいいが、その運用費も莫大で、かかった費用が回収できなかったりするかもしれない。――あ、ちなみに、僕が本記事やかっこ書きで書いているのは、政治のことではない。一般的なことである。政治や宗教や野球のことは、僕は書かないのである。特定の権益集団に絡まれるのが怖いからだ。今の政治が良いとか、悪いとか言ってるのではない。「考え方」の話だ。――なるほど、そうか。僕は、自己紹介にも「自分の考えを押し付けようとする人」が嫌い、と書いていた気がするが、それに加え、「無責任に批判ばっかりする人」も嫌いなのだろう。間違ってるか、あってるか、ということも重要だが、そこまで重要ではない。信念があるかだ。「こうしたい」という強い思いがあるかどうかだ。2000万円不足する、というのは現状分析なだけである。それに対して批判しても意味がない。じゃあどうすべきか、ということが議論すべきことだろう。それに、その報告書(1分だけだけど)読めば、「こうした方がいいんじゃないの?」ということは書いてある気がするんだが)
前書き
「よーし、今日は21時に帰ってブログ書くぞー!」とか書いておいて、結局23時過ぎになったり、今週も忙しかった。
忙しかったが、2つ、大きな山を越えた。
成功だったようだ。周囲からの感想も良かった。
一つ言えるがあるとしたら、自分ができることは、着実に多くはなってきているのだろう。
だからといって、終わりはないのである。
そして、この「良かったよ」という評価が、次の週には落ちてしまう可能性だってある。
逆に、ある程度「評価」が高くなることによって、求められることも高度になる可能性がある。
トップに立てばそんなこと気にしなくなる?
そんなことはない。
民間なら株主たちにおびえ、公務員なら議員や政治家におびえ、総理大臣も世論におびえる。
「きりがねーな」
と僕がいつも思っているのはそういうことである。
この資本主義社会に安寧の立場も場所もないのだ。
つみたてNISAを検討する
上の「きりのなさ」は、また別の機会に書いていこうと思う。先日のブログにいただいたコメントについても別途触れなければいけない、大事なことだ。
だが、今回のルーチン更新は、時間もないことと、まさに、今書類を手に取っている状態のため、ログという意味としても、つみたてNISAについて書きたいと思う。
つみたてNISAとは何か。
2018年1月から始まった、非課税の投資手段である。
投資とは何か。
お金をとある機関へお金を預けて、分配金(配当金)を得る手段である。また、お金を預けることによって「証券」という権利が手に入る。証券を売ることによって、買ったときとの差額による利益(または損益)を得ることができる。
↑これというほど簡単に書いた。中学生にも分かるだろう。だから、逆に、厳密には意味が異なっているかもしれない。だが逆に、僕の理解はその程度でしかない。
前書きの話と関係するが、僕が優れているのは、たぶん、「ものすごく単純化」することなのかもしれない。だから、周囲からも、説明が分かりやすいとか言っていただけることが少なくない。
――だが、それは、逆に僕が簡単なことしか理解できないからである。数学とか抽象的思考が苦手なのだ。1か、0か、しか分からないのだ。だから、プログラミングは逆にできる。ただ、クラスモジュールとか、オブジェクト指向は苦手かもしれない。ただ、オブジェクト指向というのも、パッケージ化された命令を利用することという理解をしているので、使えなくもない。
……1か、0か。だから、「生きる意味」なんて、抽象的なものがよく分からなくて、ずっと考え続ける必要が生じているのである。「わきにおいておいて」ということはできるが、様々な問題や課題が生じる人生において、すぐさまその根本的な問題(レーゾンデートル)が生じてくるのだ。
閑話休題。
つみたてNISAとは何か。
なんか税制優遇されている投資商品である。2018年1月~2037年(12月)までの、20年間購入できる。
あー、えーっと、思い出せない、なんだっけ、ああ、「どる・こすと・へいきんほう」だ。
要は、決まった期間に、決まった額を定期的に購入していく方法を用いて、長期的に投資するのだそうな。
そうすると、平均的になって何かサムシング的にリスクヘッジらしい!!!(適当)
世界はどうなるのか
リスクヘッジ……安全、ということだが、とはいえもちろん、価値が下がり続ける商品に投資すれば、損するのは当たり前だ。要するに、世界は、今後よくなると考えられるかどうか、ということである。
日本の株価(TOPIX)を見てみよう。
1968年:100
1989年:2490
2009年:800
2019年:1400
……おお、リーマンショック(2009年ごろ)って恐ろしかったのね。
米国株価(ナスダック)を見てみよう。(ざっくり)
1968年:1000
1989年:2000
2009年:6500
2019年:26000
え、すごくね(小学生並み感想)。
ネットで急ぎで調べただけだから、見方が間違ってるのかな?
だが、これだけ見ると、めちゃくちゃ裕福になってる気がする。
この流れで新興国株式の指数を調べてみたが、すぐには見つからなかった。そもそも、統一的な指数が存在しないのか?
お金に興味があるわけではない
老後2000万円必要、ということで、炎上しているようだが、ちゃんとみんな元の資料を読んでからあーだこーだ言っているのだろうか。大臣が実は読んでなかったとか言ってまたあーだこーだなったようだが、じゃあ他の人たちはみんな読んでいるのだろうか。
https://www.fsa.go.jp/singi/singi_kinyu/tosin/20190603.html
多分↑の資料のことだと思う。
要するに、夫婦二人世帯の場合、65歳定年後、月5万円赤字になるから、あと30年生きるとすれば、2000万円必要だ、ということである。
(5かける12かける30だと1800万だけど……まぁそういうことだろう)
まぁ、あーだこーだ書いてるけど、俺も1分ぐらいしか見てないけど(かっこわらい)。
でも、これ、75歳で、月に23万円の支出をしている場合になっている。
高くね?
いやまぁ、高齢者になると、医療や介護やその他お金がかかることが増えるんだろうが、どうにも、今の感覚で、そんなに支出してないしな。
ちなみに、34歳未満の支出は、26万ぐらいのようだ。
そんなに使ってない!!
僕の支出
おおざっぱだが、インフラで10万、食費で4万、その他1万ぐらいである。そのうちのインフラに、ネットも含まれているため、ほぼ娯楽は含まれる。
もちろん、それを超える月もあるわけだが、平均しても20万いかないだろう。
それで、なにかこう、切り詰めて苦しい生活しているとか、そういうわけじゃあない。
(ふつーに、松屋やスカイラーク系列の外食店や100円寿司旨いからな。健康に良いかは別として)
たぶん、今回の報道などで、あーだこーだ言ってる人は、月収10万円以下の苦しい生活をしている人なんだろう。月収10万以下だと、確かに大分生活が苦しいと思う。かわいそうだ。
だが、正直、独身の俺としては、そんな危機感を覚えるほどのことはなかった。
なんか、昨今のニュースとか政治家とか……いや、別に昨今じゃないけど、なんかテレビや新聞の報道って、センセーショナル過ぎると思う。
もと大阪府知事の橋本氏はこの件で、「いや、民主主義なんだから、そういう政治家選んでる国民の責任でもあるんだからね」って言っていた(らしい)。ごもっともだろう。
ごもっともだろうし、思うに、「2000万円」って数字だけ聞いてわーわー言っても、何にもならんのではなかろうか。少なくても、わーわー言ってる人は、投票には行ってるんだよね? 投票率って50%ぐらいらしいけど。
仕事してても思ったりイライラすることが多いが、
「じゃあ、どうすればいいの」「自分ならどうするの」
という視点がない人が多い(気がする)。
不満ばっかり言って、「ゆるせないぃぃぃ!!」って、許さなかったからなんなのか。
とりあえず口座を開く
そういうわけで、2000万円でどうこうってわけでもないけれども、逆に今回のニュースなどで、つみたてNISAってものがあることを知った。(2018年1月から既に始まっていたのに、恥ずかしながら知らなかったのであるっ!)ので、証券口座はもっているし(リンク)、ネットで申し込みしたら、書類が来て、署名して免許証のコピーとかつけて返送すれば「つみたてNISA」口座もすぐ開けるようだ。
逆に、ふつうのNISA口座もってなかったので、いいタイミングな気もした(ふつうのNISAか、つみたてNISAかは年度単位で選択性であるため)。
そういう意味で、まぁ、今回のセンセーショナルさはあって良かったと思う。
そう、世界は予定調和なのだ。無駄なものも、感情も、広い意味で(次元を変えれば)無駄ではないのだ。
(かっこ書きである。前も書いたことがあるが、「国の責任だ、国が悪い」とか言う人は多いけれども、その「国」って、税金で回ってるわけだからね。「特定の何か」への賠償をするということは、そこに税金が投入されるというわけである。例えば、教育格差をなくすため、家庭の事情で私塾に行けない子にも補助金を出しましょう、という政策があったとする。無批判に、「イイネ」するべきか、ということだ。子供の教育のため、というと、もっともらしく聞こえて、反対しづらい気がする。しかし、じゃあその補助金の財源はなんなのか、ということである。僕らの税金が1%あがってもいいのか? 消費税増税で、未だにあーだこーだ言ってたりするが、まぁそういう状況でどうなるかは明らかだろう。あと、運用コストってのもよく考えたほうがいい。でっかいシステム作ったはいいが、その運用費も莫大で、かかった費用が回収できなかったりするかもしれない。――あ、ちなみに、僕が本記事やかっこ書きで書いているのは、政治のことではない。一般的なことである。政治や宗教や野球のことは、僕は書かないのである。特定の権益集団に絡まれるのが怖いからだ。今の政治が良いとか、悪いとか言ってるのではない。「考え方」の話だ。――なるほど、そうか。僕は、自己紹介にも「自分の考えを押し付けようとする人」が嫌い、と書いていた気がするが、それに加え、「無責任に批判ばっかりする人」も嫌いなのだろう。間違ってるか、あってるか、ということも重要だが、そこまで重要ではない。信念があるかだ。「こうしたい」という強い思いがあるかどうかだ。2000万円不足する、というのは現状分析なだけである。それに対して批判しても意味がない。じゃあどうすべきか、ということが議論すべきことだろう。それに、その報告書(1分だけだけど)読めば、「こうした方がいいんじゃないの?」ということは書いてある気がするんだが)
今日の一言「虚しさの対処」
期待されていて、人間関係も悪くないのだが、それでも憂鬱なことに変わりはない。
土日、ほとんど家の中で過ごしたが、具体的には何もできなかったな。
からくりサーカスを少し見進められたぐらいであった。
「やる気」
どこかにいってしまっている。
https://menhera.jp/7699
いや、曲解か。
ただ、メンヘラの女と、男では、生きづらさの質に違いがあるという主張である。
よく分かる。
女性の権利が主張されるようになるとともに、弱い男というカテゴリが排除されている気がする。(気がするだけだ。だが、こういう問題は証明などどうせできまい)
――だが、上の記事でも(当然わかっていようが)抜けているのは、「女」としても、男に愛される(性欲の対象とされる)女だけではないのである。
これは、単に不細工だとか太っているとか、そういう次元ではなくて、総合的に、「あ、ちょっと無理です」にカテゴライズされるということだ。そういう人もいる。
だから、「女は結局逃げ道があっていいよね」(とは書かれていないが、僕はそう読み取った)という主張は、当てはまらないということである。男だから、女だから、イケメン(女性含む)だから不細工だから、といったカテゴライズは特に意味はない。
もっといえば、「弱い男」というカテゴリも、「じゃあ、お前のスペック全部あげてみろよ」と言われたら、たぶん俺も、弱い男カテゴリからハブられるだろう。
いじめられたいじめられたいじめられた、と呪いのように最近書いているが、しかし、俺の受けた言動に比べて、もっとひどいことされたという体験は見聞きするところだ。
そのため、誰かと比較して、「ああ、自分はまだ恵まれているんだ」と感じることの無意味さを感じる。
というか、そもそも感じない。苦しい人もいるんだな、――でも俺も苦しいんだぁぁぁ! と声なき叫びをあげるだけである。
しかし果たして。
俺は、どうなったら、「完全無欠に超幸せ」になるのだろうか。これが分からない。
第一、多くの人たちは、不満を感じ、苛立ちを感じながら、日々充実した生活を送っているはずである。
自分なんて生まれてこなければよかった、なんて考えて生きている人などいないだろう。そんな人がいたら悲劇だ。
俺は、以前に比べてたくさんを得てきた。運がよかっただけかもしれない。だが、並々ならぬ苦労の結果であると結び付けてもよい。
だから、といって、これから先も、同じように苦労しつつ、多少の安寧を得て、それで満足して生きていけばいいというのか。
人と関わらなければ幸せなのだろうか。
何故人と関わると疲れるのか。気を遣うからである。
気遣い。
100%フルマックスでいくと、こんなん(このブログ)みたいになる。誰も相手にしたくなかろう。
だから、気遣う。普通を演じる。疲れる。
やはり、このスパイラルなのだろう。
若いころに、フルマックスでいられた人は、ちょうどいい塩梅によって、自分の開示ができるのだろうと思う。
そうすると、人との付き合い方にそれほどストレスはないのだろう。
俺は、中学……から、高校、大学、社会人になっても、自己開示は十分にできなかった、といえよう。
とすれば、小学校の体験に端を発しているといえるのか。分からないが、だとしたらやや根深い。
いや、回りくどい。
そう、人と話していても、「飽きた」ってなるのである。
これはやばい。
他人にたぶん興味がないんだろう。
他人だから当たり前か。
いやそうじゃない。
問題は、興味、そう興味である。
よかった、人付き合いがどうとか、そういう問題じゃなかったのだ。
だが、それも書かねば分からなかったことだろう。
とにかく、文字にして、文字にして、文字にしていかなければいけない。さもないと、何時間頭の中で考えていても、悩んでいても、鬱屈していても、無駄だ。
アウトプットとインプットは、バランスを取らなければいけない。こんな当たり前のことも、たびたび、アウトプットとインプットをしておかないと、忘れてしまうほどの凡夫なのだから、仕方がない。
楽しいことがない。
これは、言葉にすると極論になるが、しかし、端的に書くと事実である。
しかし逆を返せば、俺は、今まで、楽しいことがあったのか。
あった。
素晴らしい作品に触れたときなど、その感動と余韻は、代えがたい貴重な体験だ。
他者から何か得られたことはあるか。ない。――早い。ゼロ秒思考だった、今。
いや、極論である。他者から与えてもらったものは多い。たくさんある。
しかし、他者と一緒に何か行って、「めちゃくちゃ感動した!!」ということはないのだ。
ここが問題だ。
つまり、俺がむちゃくちゃ感動した、のは、常に、「一人」であったということだ。
いつものごとく、少し極論的に書いている。よくよく考えると、みんなで何か一緒にやって、「やったね!」ということが、なくはなかったのか……いや、あったのかなぁ。
じゃあ、それって、俺の努力不足なのか、とかいうと、そういうことでもない気がする。
部活とか、やったりしたけど、いろいろ、向いてなかったんだろう。本気になれなかったからいけない、と厳しく言われるかもしれないが、逆に、本気になれることとは思えなかった、というわけでもあるのだから。
なるほど。意図せず、なんか新たな課題、というか問題も分かったな。
誰かと協力して無茶苦茶楽しかった経験、というのが重要なのかもしれない。
そう、「楽しかった」「充実した」というのは、基本的に、自分の技術や知識において、誰かの役に立った場合は非常に嬉しかったりするのだ。何か作ってそれが分かりやすかったとか、便利だったとか、面白かったとか言われたりするととても嬉しいのだ。
でもそれは、「自分で作った」からなのだ。
……となってくると、自己承認欲求の塊野郎なのかもしれない。メンヘラだ(かっこわらい)。
時間切れ。
(かっこ書きである。いまさら、そういったこと(団体協力感動)が無理なのだとしたら、果たしてどうすべきか。まぁ、歳をとればとるだけ、誰しも孤独になっていくのだから、より生きやすい世の中になるのかな。それはそうと、この、本当の直近の問題は、朝、やる気が起きずに、かといって眠れずに、もやもやした状態であるということだ。それと、上に掲げた引用記事は、わりと面白かった。この「面白かった」は不謹慎だが。に、しても、毎週毎週、「やる気」を探さなければいけない。困ったなぁ。ごみを捨てるとか、食器を洗うとか、ご飯を食べるとか(昨日は一食だけだった)も、やる気が起きなくなってくる。だが別に、病気ではないのだ。以前からよくあったことだ。だから特段心配はないのだ。ないのだが、憂鬱なことにかわりはない。何かほんとに、過程(プロセス)が「面白えええ」って、継続してできることが必要だ。たぶん、創作なのだ。しかし、平日帰りが遅いと、土日にそこまでの意識が働かなくなる。家事して、部屋を少し片づけるだけで、もう何もする気が起きなくなる。悪循環だ。――そうだ、やはり、平日帰りが遅くて、自分一人の時間が作れていないことが一番悪いのだ。そうだ、そうだ、そうだ!! よし、今日は21時には会社を出る。帰ってきたら、その結果をブログに書くぞ。よし、少しやる気回復)
前書き
書くべきといったら、仕事が憂鬱だ、ということ。期待されていて、人間関係も悪くないのだが、それでも憂鬱なことに変わりはない。
土日、ほとんど家の中で過ごしたが、具体的には何もできなかったな。
からくりサーカスを少し見進められたぐらいであった。
「やる気」
どこかにいってしまっている。
弱い男の生きづらさ
これも読んだ。メンヘラの男に生きる価値はない、ということである。https://menhera.jp/7699
いや、曲解か。
ただ、メンヘラの女と、男では、生きづらさの質に違いがあるという主張である。
よく分かる。
女性の権利が主張されるようになるとともに、弱い男というカテゴリが排除されている気がする。(気がするだけだ。だが、こういう問題は証明などどうせできまい)
――だが、上の記事でも(当然わかっていようが)抜けているのは、「女」としても、男に愛される(性欲の対象とされる)女だけではないのである。
これは、単に不細工だとか太っているとか、そういう次元ではなくて、総合的に、「あ、ちょっと無理です」にカテゴライズされるということだ。そういう人もいる。
だから、「女は結局逃げ道があっていいよね」(とは書かれていないが、僕はそう読み取った)という主張は、当てはまらないということである。男だから、女だから、イケメン(女性含む)だから不細工だから、といったカテゴライズは特に意味はない。
もっといえば、「弱い男」というカテゴリも、「じゃあ、お前のスペック全部あげてみろよ」と言われたら、たぶん俺も、弱い男カテゴリからハブられるだろう。
いじめられたいじめられたいじめられた、と呪いのように最近書いているが、しかし、俺の受けた言動に比べて、もっとひどいことされたという体験は見聞きするところだ。
やる気さん戻ってきてくれ
だから。そのため、誰かと比較して、「ああ、自分はまだ恵まれているんだ」と感じることの無意味さを感じる。
というか、そもそも感じない。苦しい人もいるんだな、――でも俺も苦しいんだぁぁぁ! と声なき叫びをあげるだけである。
しかし果たして。
俺は、どうなったら、「完全無欠に超幸せ」になるのだろうか。これが分からない。
第一、多くの人たちは、不満を感じ、苛立ちを感じながら、日々充実した生活を送っているはずである。
自分なんて生まれてこなければよかった、なんて考えて生きている人などいないだろう。そんな人がいたら悲劇だ。
俺は、以前に比べてたくさんを得てきた。運がよかっただけかもしれない。だが、並々ならぬ苦労の結果であると結び付けてもよい。
だから、といって、これから先も、同じように苦労しつつ、多少の安寧を得て、それで満足して生きていけばいいというのか。
人と関わらなければよいのか
いろいろ悩みながら書いてきたせいで、もうそろそろ時間切れである。人と関わらなければ幸せなのだろうか。
何故人と関わると疲れるのか。気を遣うからである。
気遣い。
100%フルマックスでいくと、こんなん(このブログ)みたいになる。誰も相手にしたくなかろう。
だから、気遣う。普通を演じる。疲れる。
やはり、このスパイラルなのだろう。
若いころに、フルマックスでいられた人は、ちょうどいい塩梅によって、自分の開示ができるのだろうと思う。
そうすると、人との付き合い方にそれほどストレスはないのだろう。
俺は、中学……から、高校、大学、社会人になっても、自己開示は十分にできなかった、といえよう。
とすれば、小学校の体験に端を発しているといえるのか。分からないが、だとしたらやや根深い。
いや、回りくどい。
そう、人と話していても、「飽きた」ってなるのである。
これはやばい。
他人にたぶん興味がないんだろう。
他人だから当たり前か。
いやそうじゃない。
問題は、興味、そう興味である。
楽しいこと
そうなのだ。「めちゃくちゃ楽しいッ!!!」ってことが不在である。これが問題だ。よかった、人付き合いがどうとか、そういう問題じゃなかったのだ。
だが、それも書かねば分からなかったことだろう。
とにかく、文字にして、文字にして、文字にしていかなければいけない。さもないと、何時間頭の中で考えていても、悩んでいても、鬱屈していても、無駄だ。
アウトプットとインプットは、バランスを取らなければいけない。こんな当たり前のことも、たびたび、アウトプットとインプットをしておかないと、忘れてしまうほどの凡夫なのだから、仕方がない。
楽しいことがない。
これは、言葉にすると極論になるが、しかし、端的に書くと事実である。
しかし逆を返せば、俺は、今まで、楽しいことがあったのか。
あった。
素晴らしい作品に触れたときなど、その感動と余韻は、代えがたい貴重な体験だ。
他者から何か得られたことはあるか。ない。――早い。ゼロ秒思考だった、今。
いや、極論である。他者から与えてもらったものは多い。たくさんある。
しかし、他者と一緒に何か行って、「めちゃくちゃ感動した!!」ということはないのだ。
ここが問題だ。
つまり、俺がむちゃくちゃ感動した、のは、常に、「一人」であったということだ。
時間切れ
なんか、ここで話が終わったら、ヤバい奴、でしかない。まぁ実際そうだから仕方がないのか。いつものごとく、少し極論的に書いている。よくよく考えると、みんなで何か一緒にやって、「やったね!」ということが、なくはなかったのか……いや、あったのかなぁ。
じゃあ、それって、俺の努力不足なのか、とかいうと、そういうことでもない気がする。
部活とか、やったりしたけど、いろいろ、向いてなかったんだろう。本気になれなかったからいけない、と厳しく言われるかもしれないが、逆に、本気になれることとは思えなかった、というわけでもあるのだから。
なるほど。意図せず、なんか新たな課題、というか問題も分かったな。
誰かと協力して無茶苦茶楽しかった経験、というのが重要なのかもしれない。
そう、「楽しかった」「充実した」というのは、基本的に、自分の技術や知識において、誰かの役に立った場合は非常に嬉しかったりするのだ。何か作ってそれが分かりやすかったとか、便利だったとか、面白かったとか言われたりするととても嬉しいのだ。
でもそれは、「自分で作った」からなのだ。
……となってくると、自己承認欲求の塊野郎なのかもしれない。メンヘラだ(かっこわらい)。
時間切れ。
(かっこ書きである。いまさら、そういったこと(団体協力感動)が無理なのだとしたら、果たしてどうすべきか。まぁ、歳をとればとるだけ、誰しも孤独になっていくのだから、より生きやすい世の中になるのかな。それはそうと、この、本当の直近の問題は、朝、やる気が起きずに、かといって眠れずに、もやもやした状態であるということだ。それと、上に掲げた引用記事は、わりと面白かった。この「面白かった」は不謹慎だが。に、しても、毎週毎週、「やる気」を探さなければいけない。困ったなぁ。ごみを捨てるとか、食器を洗うとか、ご飯を食べるとか(昨日は一食だけだった)も、やる気が起きなくなってくる。だが別に、病気ではないのだ。以前からよくあったことだ。だから特段心配はないのだ。ないのだが、憂鬱なことにかわりはない。何かほんとに、過程(プロセス)が「面白えええ」って、継続してできることが必要だ。たぶん、創作なのだ。しかし、平日帰りが遅いと、土日にそこまでの意識が働かなくなる。家事して、部屋を少し片づけるだけで、もう何もする気が起きなくなる。悪循環だ。――そうだ、やはり、平日帰りが遅くて、自分一人の時間が作れていないことが一番悪いのだ。そうだ、そうだ、そうだ!! よし、今日は21時には会社を出る。帰ってきたら、その結果をブログに書くぞ。よし、少しやる気回復)
今日の一言「30分で書くルーチン更新」「コメント返信は後程!」
早いような、長いような。よく分からない。きっと早いんだろう。
24時間×7日=168時間。
168時間といわれても、そんなに長いのか。
とある友人のブログにおいて、残り時間がどれぐらいか、というサイトが紹介されていたが、すでに削除済みだったので、どういったものだか分らなかった。
意外に少ない。
という結論だと思う。
そうだと思うが、それと、一日をちゃんとしっかり過ごせるかは別だ。
問題だが、職場全体がそもそも遅いので、それに比べたら割と早い方だったりする。
新しく職場に入ったという状況もあるし、全体をよくみなければ、非常に苦しくなるのは目に見えている。
だから、直近、ここ数か月は、状況把握のためにも、できるだけ多くを残し、感じる必要があるだろう。
とにかく、雰囲気よく働くことが大事である。
うーん、これは、いったい、ちゃんと表現できているのだろうか、否、できていない。
びしっと、仕事を終わらせて、他者のことも見てやりつつ、必要ない仕事はカットしながら進めていく。
まぁ、「理想論」的なのは当たり前である。
まったく役に立たない。
商品企画とかって仕事って、本当に俺は向いていないだろうと思う(いや、そういう仕事ではないのだが)。
別にそれ、本当に必要なのか、って思ってしまうし、そもそも、一般大衆が欲しているニーズなんてものに興味がない。
そういう意味では、今の仕事のほうがあっている。
あっているが、それでも、本当にやりたいことかというと良くわからない。「よくわからない」とか表現している時点で、「違う」と思っているのだろう。
俺としては、「文字数カウントツール」とか、何かものを作っているのが本当に楽しい。
しかしそれは、一般大衆が欲しているというものではなく、「その人」自身が欲しているか、という点である。
誰かが困っていて、「こういう解決方法がありますよ」ということの提示できるのは楽しい。
だが、いろんな利害関係者が絡んだうえで、「じゃあ、こういうものを作りますか」というのはつまらない。
あと、「自分で」作っているのが楽しい。
厳密にいえば、自分で理解できている範囲で作れると楽しい。完全に理解できている部分をアウトソーシングするのは、「楽しさ」を損なわないと思う。厳密に言っていったら、プログラム言語なんてのも、そもそも、誰かが作ってくれたものだし、このPCという箱だって、中身を完全に分かっているわけではない。なので、この微妙なグレーゾーンも、別に厳密に定義する必要があると思っているわけではない。
一週間が、5時間~6時間ぐらいの睡眠で、半分以上が仕事であると、余裕がない。
何故そんなに仕事が多いのか。
やることが厳密ではないからだ。(たぶん、ここまでやっておけば問題ないだろうが、こういうことを考えるとここまでやっておいたほうがいいだろう)
蓋然性が面倒くさい。
前任者の通りにやっていたら、先日少し触れたが、まずいことに巻き込まれたりした。結局責任は最終的には取らなければならない。
まぁそれも、お金的な損害を与えるようなレベルではないから、「あーすいません」ですませられるといえば、られる。
と、考えたときに、労働時間換算で賃金を考えて、その「あーすいません」で5分で済んだとして、その「あーすいません」が発生しないようなダブルチェックというか、確認はおそらく、1時間以上は要するものである。
どっちが価値があるか。
これは、現代思考的には後者、と断定されるだろうが、必ずしもそうではない。
いや、多くの人は、「いや後者だろう」というだろう。
だが、「人間関係」という要素と、「評価」という要素を考えたときに、正解とは言えない。
要するに、信頼感である。
要するに、評価者の価値観である。
俺が評価者なら、物事の度合いにもよるが、「あーすいません」でOKにするか、ほかの確認方法を検討するだろう。
しかし、そうしたチェックが重要と考える人が評価者のときは、前者を選択すべきだ。
一週間生き残って、それで、たいして面白い話もかけないというのは、生きている価値があるのだろうか。
なんだ、その、「からくりサーカス」のアニメがアマゾンプライムで見れるが、面白いのだが、アマゾンレビューの多くと同じ感想を抱く。
要するに、原作の重厚さがない、という点だ。
いや、クオリティは問題ないと思う。
某けものフレンズ2のような作品も上梓されるこの世の中、よくできた作品だと思う。
思うが、うーんやはり、尺的に無理があると思う。
だからといって、数年かけて表現したところで、興行収入があるのかというのもわからんし、手軽に見れないし、そうしたら逆に「尺が長くて飽きる」人も続出するだろうから、難しいと思う。
だから、僕は、「面白かった」と書くしかない。
書くしかないが、やっぱり漫画を読むのをお勧めするなぁ、ということになるだろう。
思うが、まだ足りないんだよなぁ。
不感症レベルが上がっているのもあると思う。歳をとると、感動しにくくなるのだ。
エヴァンゲリオンは、高校生ぐらいで見て面白かったが、たぶん今見ると、「面白いんだが……」レベルになるだろう。
------S------
シュタインズ・ゲート、攻殻機動隊
------A------
サイコパス
------B------
ペルソナ4、Angel Beats!、アンゴルモア
こんな感じになりそうだ。なんか忘れている気もする。見てきた作品も、昔は「オタク」って言われるのが怖いというのもあって、アニメを見てるというのは言いづらかった時代もあったが、まぁほんと、アマプラのおかげで手軽に見れるようになったおかげで、作品数は結構いっていると思うわけだが――逆に、すぐわすれてしまうというのは哀しきかな。
忘れてしまうというのは、その程度であったと言わざるをえない。
ああ、ブギーポップだ、最近みたやつだと。まぁまぁ面白かった。しかし「B」かなぁと思う。レクリエイターズも「B」かな。正解するカドも「B」かな……っと、Bは結構いっぱいあると思う。鉄血のオルフェンズも面白かったし。
しかし、今読んでいるのはそれしかない。
EDENを描いた遠藤浩輝先生の、元素を使ったバトルものも面白そうだが、巻を家に置くレベルではない。いずれ完結したら、漫画喫茶にいってよみたい。そうそう、狂四郎2030という漫画を、名前だけはずいぶん前から知っていたが、最近1~3巻読んだら面白かったので、続き読みたい。
あと、シグルイ作者の他の作品も読みたいなと思うところ、だが機会がなかなかなない。
あと、ラグナクリムゾンという作品も面白そうなので、忘れないようにしたいところ。
最近、音読と、過去記事のヒアリングができていないから、よくないな。
一日の大半を過ごしている仕事についてをもっと書いた方がいいのかなぁ。
日誌的なの(提出義務はなし。タスクリストともいう)みれば、まぁ、やったことは分かるけどな。そんなの何も面白くないだろう。
あ、30分経ってしまった。
(かっこ書きである。10の推し作品があって、それぞれ10分語れるとする。1の惜し作品があって、100分語れるとする。どっちが、他者をひきこめるのか。前者だ。1の作品が、他者の興味にそぐわなければ、100分は地獄だ。10分ずつなら、もしかしたら興味をもてるものがあるかもしれない。しかし、上の考え方は、若い人向けである。年寄りは、1の専門性の方がいい気がする。ただし、生き方のリスクマネジメントとしては大失敗だ。その1が、通用しなくなる時代がくるかもしれない。とりまず、一つ、思い出すべきとは、「苦労」しようがしまいが、それは他者には何も関係ないということだ。苦しんで出した答えが80点でも、楽々思い付きで出した答えが90点なら、90点が採用される。これは比喩であって、膨大な業務の中で、そんな具体的な点数など付けられないわけだが、要は、悩みや苦労はしない方がいいということだ。「若いころの苦労は買ってでもしろ」が胡散臭いと僕がどうしても思うのは、その点である。「買わざるを得ない」とは思う(思ってしまう)。だが、「するべきではない」という理想も同時にあると思うのだ。「若いころの苦労は買ってでもしろ」的な思考は、思考停止であると俺は思う。次善の策レベルでしかない。苦労から逃げまくっている人は、いずれ大失敗するとか、村八分(ハブ)にされるとか、そういったストーリーが大前提にあるし、僕らもそういったインプットをされているわけだが、しなくてもいい苦労をすべきなのか。――というよりも、リソースは限られている。誰しも、「自分」というリソースを使うしかないのだ。その点において、「頑張る」ことは必要不可欠である。であれば、みじめな境遇の人たちは、その「努力」が少なかったから駄目だったのか。そういう問題じゃないと思う。その議論に未来はないと思う。頑張ったところで報われないかもしれないが、現状リソースを活用するにおいては、頑張る以外に方法はないのだ、こういう言い回しをする人は僕は好感をもてる。ふつう、たいはんは、「面倒くさいやつ」と思われがちな人だろう。でも、僕は、好感がもてる。だから、そういうことを考えてしまったり、いってしまう人は、応援するから、頑張ってほしい(と、結局頑張るしかないというトートロジーで取り敢えず時間超過なので終わる。書きたりねえなぁ))
前書き
いやー一週間が終わった。早いような、長いような。よく分からない。きっと早いんだろう。
24時間×7日=168時間。
168時間といわれても、そんなに長いのか。
とある友人のブログにおいて、残り時間がどれぐらいか、というサイトが紹介されていたが、すでに削除済みだったので、どういったものだか分らなかった。
意外に少ない。
という結論だと思う。
そうだと思うが、それと、一日をちゃんとしっかり過ごせるかは別だ。
仕事の話:体調が悪かった
平日帰りが遅いのが問題だ。問題だが、職場全体がそもそも遅いので、それに比べたら割と早い方だったりする。
新しく職場に入ったという状況もあるし、全体をよくみなければ、非常に苦しくなるのは目に見えている。
だから、直近、ここ数か月は、状況把握のためにも、できるだけ多くを残し、感じる必要があるだろう。
とにかく、雰囲気よく働くことが大事である。
うーん、これは、いったい、ちゃんと表現できているのだろうか、否、できていない。
びしっと、仕事を終わらせて、他者のことも見てやりつつ、必要ない仕事はカットしながら進めていく。
まぁ、「理想論」的なのは当たり前である。
まったく役に立たない。
商品企画とかって仕事って、本当に俺は向いていないだろうと思う(いや、そういう仕事ではないのだが)。
別にそれ、本当に必要なのか、って思ってしまうし、そもそも、一般大衆が欲しているニーズなんてものに興味がない。
そういう意味では、今の仕事のほうがあっている。
あっているが、それでも、本当にやりたいことかというと良くわからない。「よくわからない」とか表現している時点で、「違う」と思っているのだろう。
俺としては、「文字数カウントツール」とか、何かものを作っているのが本当に楽しい。
しかしそれは、一般大衆が欲しているというものではなく、「その人」自身が欲しているか、という点である。
誰かが困っていて、「こういう解決方法がありますよ」ということの提示できるのは楽しい。
だが、いろんな利害関係者が絡んだうえで、「じゃあ、こういうものを作りますか」というのはつまらない。
あと、「自分で」作っているのが楽しい。
厳密にいえば、自分で理解できている範囲で作れると楽しい。完全に理解できている部分をアウトソーシングするのは、「楽しさ」を損なわないと思う。厳密に言っていったら、プログラム言語なんてのも、そもそも、誰かが作ってくれたものだし、このPCという箱だって、中身を完全に分かっているわけではない。なので、この微妙なグレーゾーンも、別に厳密に定義する必要があると思っているわけではない。
体調の話ではなかったのか
金曜日遅くて、夜更かしすると土曜日がまた昼過ぎに起きてしまい、一日中だるくて何もできなくなるだろうことは分かっていたから、可能な限り早めに寝て、土曜日朝早めに起きたけれども、結局、昼過ぎにどうしようもなく眠い――というかだるくて、頭が痛くて寝てしまって気づくと夕方だった。おうふ。一週間が、5時間~6時間ぐらいの睡眠で、半分以上が仕事であると、余裕がない。
何故そんなに仕事が多いのか。
やることが厳密ではないからだ。(たぶん、ここまでやっておけば問題ないだろうが、こういうことを考えるとここまでやっておいたほうがいいだろう)
蓋然性が面倒くさい。
前任者の通りにやっていたら、先日少し触れたが、まずいことに巻き込まれたりした。結局責任は最終的には取らなければならない。
まぁそれも、お金的な損害を与えるようなレベルではないから、「あーすいません」ですませられるといえば、られる。
と、考えたときに、労働時間換算で賃金を考えて、その「あーすいません」で5分で済んだとして、その「あーすいません」が発生しないようなダブルチェックというか、確認はおそらく、1時間以上は要するものである。
どっちが価値があるか。
これは、現代思考的には後者、と断定されるだろうが、必ずしもそうではない。
いや、多くの人は、「いや後者だろう」というだろう。
だが、「人間関係」という要素と、「評価」という要素を考えたときに、正解とは言えない。
要するに、信頼感である。
要するに、評価者の価値観である。
俺が評価者なら、物事の度合いにもよるが、「あーすいません」でOKにするか、ほかの確認方法を検討するだろう。
しかし、そうしたチェックが重要と考える人が評価者のときは、前者を選択すべきだ。
からくりサーカス
面白い話を書きたいなぁぁぁ!!一週間生き残って、それで、たいして面白い話もかけないというのは、生きている価値があるのだろうか。
なんだ、その、「からくりサーカス」のアニメがアマゾンプライムで見れるが、面白いのだが、アマゾンレビューの多くと同じ感想を抱く。
要するに、原作の重厚さがない、という点だ。
いや、クオリティは問題ないと思う。
某けものフレンズ2のような作品も上梓されるこの世の中、よくできた作品だと思う。
思うが、うーんやはり、尺的に無理があると思う。
だからといって、数年かけて表現したところで、興行収入があるのかというのもわからんし、手軽に見れないし、そうしたら逆に「尺が長くて飽きる」人も続出するだろうから、難しいと思う。
だから、僕は、「面白かった」と書くしかない。
書くしかないが、やっぱり漫画を読むのをお勧めするなぁ、ということになるだろう。
アニメ:サイコパス
最近話題にあがることもあるから思い出したが、そう考えると、最近みた作品で面白かった、というと、シュタインズ・ゲートは別格として、サイコパスが挙げられると思う。アンゴルモアも、ペルソナ4も面白かったし、Angel Beats! も面白かったが、心ゆさぶられ具合でいくと、サイコパスの方かなぁと思う。思うが、まだ足りないんだよなぁ。
不感症レベルが上がっているのもあると思う。歳をとると、感動しにくくなるのだ。
エヴァンゲリオンは、高校生ぐらいで見て面白かったが、たぶん今見ると、「面白いんだが……」レベルになるだろう。
------S------
シュタインズ・ゲート、攻殻機動隊
------A------
サイコパス
------B------
ペルソナ4、Angel Beats!、アンゴルモア
こんな感じになりそうだ。なんか忘れている気もする。見てきた作品も、昔は「オタク」って言われるのが怖いというのもあって、アニメを見てるというのは言いづらかった時代もあったが、まぁほんと、アマプラのおかげで手軽に見れるようになったおかげで、作品数は結構いっていると思うわけだが――逆に、すぐわすれてしまうというのは哀しきかな。
忘れてしまうというのは、その程度であったと言わざるをえない。
ああ、ブギーポップだ、最近みたやつだと。まぁまぁ面白かった。しかし「B」かなぁと思う。レクリエイターズも「B」かな。正解するカドも「B」かな……っと、Bは結構いっぱいあると思う。鉄血のオルフェンズも面白かったし。
やっぱりS級が欲しい
漫画ランキング的には、現時点の推しは、有名どころ過ぎるが、進撃の巨人が面白い。しかし、今読んでいるのはそれしかない。
EDENを描いた遠藤浩輝先生の、元素を使ったバトルものも面白そうだが、巻を家に置くレベルではない。いずれ完結したら、漫画喫茶にいってよみたい。そうそう、狂四郎2030という漫画を、名前だけはずいぶん前から知っていたが、最近1~3巻読んだら面白かったので、続き読みたい。
あと、シグルイ作者の他の作品も読みたいなと思うところ、だが機会がなかなかなない。
あと、ラグナクリムゾンという作品も面白そうなので、忘れないようにしたいところ。
仕事の話のほうが面白いのか
何を書いたら面白いのか。最近、音読と、過去記事のヒアリングができていないから、よくないな。
一日の大半を過ごしている仕事についてをもっと書いた方がいいのかなぁ。
日誌的なの(提出義務はなし。タスクリストともいう)みれば、まぁ、やったことは分かるけどな。そんなの何も面白くないだろう。
あ、30分経ってしまった。
(かっこ書きである。10の推し作品があって、それぞれ10分語れるとする。1の惜し作品があって、100分語れるとする。どっちが、他者をひきこめるのか。前者だ。1の作品が、他者の興味にそぐわなければ、100分は地獄だ。10分ずつなら、もしかしたら興味をもてるものがあるかもしれない。しかし、上の考え方は、若い人向けである。年寄りは、1の専門性の方がいい気がする。ただし、生き方のリスクマネジメントとしては大失敗だ。その1が、通用しなくなる時代がくるかもしれない。とりまず、一つ、思い出すべきとは、「苦労」しようがしまいが、それは他者には何も関係ないということだ。苦しんで出した答えが80点でも、楽々思い付きで出した答えが90点なら、90点が採用される。これは比喩であって、膨大な業務の中で、そんな具体的な点数など付けられないわけだが、要は、悩みや苦労はしない方がいいということだ。「若いころの苦労は買ってでもしろ」が胡散臭いと僕がどうしても思うのは、その点である。「買わざるを得ない」とは思う(思ってしまう)。だが、「するべきではない」という理想も同時にあると思うのだ。「若いころの苦労は買ってでもしろ」的な思考は、思考停止であると俺は思う。次善の策レベルでしかない。苦労から逃げまくっている人は、いずれ大失敗するとか、村八分(ハブ)にされるとか、そういったストーリーが大前提にあるし、僕らもそういったインプットをされているわけだが、しなくてもいい苦労をすべきなのか。――というよりも、リソースは限られている。誰しも、「自分」というリソースを使うしかないのだ。その点において、「頑張る」ことは必要不可欠である。であれば、みじめな境遇の人たちは、その「努力」が少なかったから駄目だったのか。そういう問題じゃないと思う。その議論に未来はないと思う。頑張ったところで報われないかもしれないが、現状リソースを活用するにおいては、頑張る以外に方法はないのだ、こういう言い回しをする人は僕は好感をもてる。ふつう、たいはんは、「面倒くさいやつ」と思われがちな人だろう。でも、僕は、好感がもてる。だから、そういうことを考えてしまったり、いってしまう人は、応援するから、頑張ってほしい(と、結局頑張るしかないというトートロジーで取り敢えず時間超過なので終わる。書きたりねえなぁ))