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理想と現実、自己と来歴
2019/09/06 06:47 | Comments(5) | 思考及び書くこと
今日の一言「15分制限」「コメント頂いたことを考える」

前書き

 眠い、が、仕事で気になるやつ、やっつけておかねばいけないやつなどが気になって昨日も25時ぐらいの就寝だったが6時前ぐらいに目が覚める。

 だが、仕事なんてもんを気にしている場合ではなく、小説の感想を書くこと、生きる意味を徹底して考えることの方が重要なのは言うまでもないのだ。しかし、眠い、だるい。

理想に生きるか現実に死ぬか

 得たものもある。良いこともある。そこそこ幸せ。

 そうやって生きていくことが重要なのは間違いないだろう。しかし、それだけに生きられるかどうかは、別の話。人は、食べるためだけに生きているのではない、と言われる所以。

「お前は、たくさんのものを手放せないでいる。執着していることで苦しんでいるのだ」

 といったコメントを頂いた(と解釈する)。

 その鋭い指摘の中の「もの」には、人、モノ、コト、すべて含まれるだろう。
 その中には、きっと、「過去」もあるだろう。

 過去――つまり、自分の来歴。そして、これ(来歴)への解釈、というのが、生きる意味というのの、また違った表現であると思う。



 といったときに、その来歴(いわゆる、自分がどんな経験をし、感じ、どんな風に育ってきたか)を脇に置いて、「新しい自分」を見つけて満足していく、というのが、――言葉にするのは簡単ながら、とても難しいのは見えてくる。

新しい自分

 その難しさとは何か。
 自分というのが、自我同一性、アイデンティティ、自己、と表現していったときに、要するに「記憶」であるともいえる。

 自分という認識が、自分をつくっているのだといえる。トートロジー。我思う故に我あり。

 前の小見出し内での表現を用いれば、「来歴」。

 その来歴が「よくないもの」だったとき、それを「忘れる」ことができれば、まぁまぁ、「新しい自分」として、「そこそこの幸せ」を感じながら生きていくことはできるかもしれない。



 空虚な表現だ。こういうのを机上の空論という。

 僕は無理だと思う。無理だと諦めることは良くないが、「矛盾」があると思う。
 自分があるから、楽しんだり、苦しんだりするのだ。

 その自分=「来歴」であるとしたら、過去の自分の経験やその解釈について忘れたとき、なかったことにしたとき、手放したとき、そこに、自分はあるのか。いやないだろう。

生きる意味は変化し続ける

 だからどうした、だからどうする、というのは、この記事では、15分程度では、到底書ききれない。
 ただ、生きる意味を考えるにあたって、「感覚を起点にすべきだ」といった(と解釈した)コメントにおいて、大事なことだなと思った、「自分」ということについて今回の記事にしておいた。

 知ったかぶりをしてキルケゴール氏を引用すれば、「自己とは総合だ、関係だ」ということになるだろうが、僕の考えで行けば、「自己とは記憶だ、来歴だ」となる。

メモ:記憶に関しては、「記銘・保持・再生」という仕組みで捉えられて、リボーの法則というのがあって、「新しいことから忘れていく」「知的なことより感覚的、または体得的なことの方が忘れにくい」といったものがある。


 と、なれば(自己が記憶であり、来歴であったとするならば)。
 生きる意味というのは、不断に変わっていくものであるのだろうと、そう思った、というメモまでで、この記事は時間切れになる。

あとがき

(かっこ書きである。理想に死ぬか、現実に生きるか、ということを考えたいが、時間が足りない。俺は思うに、「理想」が、そもそもボロボロになっている気がする。ってか。将来の夢、って、言葉、昔、聞いたことあるだろう。大人諸君は、聞かないだろう。子供に関係する人は、問うかもしれない。将来? 大人と言われる歳になっても、全然イメージできないのに、子供は分かるというのだろうか。不思議な仕組みである。将来=仕事、というのであれば、正直、何の夢も俺はなかった(いやもちろん、暫定的に定めて進学していったわけだが)。「働く」ということに、特に何の感慨も見いだせなかった。労働は国民の義務なのであって、それと、将来の「夢」とは、まったく違うのではなかろうか。お医者さんになって人の命を救いたい、弁護士になって弱者を守りたい、プロ野球選手になって夢を与えたい……。なんだろうな。要するに、生きる意味を考えると、僕が表現するときに、「人生って、何が楽しいのだろうな?」という問いな気もする。そういう感覚的なサムシング。そうしたとき、「いや、(生きる意味を)考える必要は特にないのではないか」という問いは、感覚的な本質に届かない解決方法にならざるをえないのである。いや、だから、人生を、「人生」と大きな枠組みでとらえる必要なんてなくて、狩猟採集生活のように、「蓄え」という概念は特になくて、日々日常の中で充足していくというのが、本来人間としてあるべき姿なのかもしれない。暦をつかって、予測して、農業やってる場合じゃないのである。もっと即物的に、毎日毎日、一日、一時間、一分単位に、ただ生きていくことが大事なのだ。――んなわけあるか。んなわけ、あるかどうか、分からないかもしれない。ただ、それはそれで難しいだろう。いやだって、「記憶」はあるのだ)

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朝30分で書く
2019/09/03 06:50 | Comments(3) | 思考及び書くこと
今日の一言「目が覚めた」

前書き

 夢、をみていた。家族の夢。エレクトーンの音で目が覚める。僕は昼寝でもしていたのか。母の奏でる演奏だった。幼いころ教えてもらった曲だった。目が覚めた僕は、「昔教えてくれたね、覚えているよ」と母に伝える。母は、少し照れながら、「もう忘れて全然弾けないよ」と言いながら、日常の家事へと戻っていった。

目覚める

 そして本当に目覚める。しかし、布団から出るだけのやる気がない。面倒だ。今日も仕事か。

 わりと愚痴みたいな記事を多く書いてしまったが故、心配してくださった方もいる。
 申し訳ない。まぁきっと大丈夫。何が。いやきっと何かが。これで残業代も出なかったら間違いなく要検討になるが、その辺は今のところ大丈夫だろう。まぁそういう問題でもないのだが。


 頭の中でループしたから、眠いけれども、時間が15分程度しか取れなかろうが、書くことにした。
 とか前提を書いていたら、もう残り10分ぐらいだ。どこまで書けるのか。

身の振り方

 別に出世したいとかはないのである。
 それは、きっと、酸っぱい葡萄の防衛機制ではなく、思ったことがないから、そうなんだと思う。
 出世……って何か。立身出世とか言われるが、「権力を得たい」という欲求だろうか。他者に命令して、思うが儘に操る的な。
 実態はともかく、法社会なのであれば、それは不可能である。

 灰色な薄暗い欲求を満たすことなど、ふつうはできない。

 そも。そもそも、僕は、他人を支配したいという欲求は特にない。「構わないで欲しい」と思うことはよくあれども。


「よく切れるナイフでよい」と、フルメタのマデューカス中佐は言った。
 が、それに近いとはいえ、使われる道具であることは、良し、とは思えない。

 道具。

人は自分の人生を生きているか

 生きる意味を考えること、それが必要かどうか、意味があるかどうか、それは分からない。某SRGN氏は、「意味は後天的に付与されるものである」と仰っておられた。

 そうだろうと思う。
 意味は、自ら、引き受けていくものであろう。

 そうしたとき、否が応なく、周囲から要求される意味について問わざる得ない。


 しかし、だ。
 宇宙規模において、一個人の価値は「ない」。

 地球規模において、同じく「ない」。

 人類規模において、「ない」。

 社会規模において、……このあたりから、影響を与えられる人はいるかもしれない。だが稀だ。稀だし、更に、著名人や、政治家諸氏、お金持ち氏などなど、影響をもつ人たちをいろいろ列挙できるかもしれないが、それでも、「多少」レベルだ。稀で、多少だ。(多少って意味なんだっけ? とりあえず「ちょっと」という意味で使ってみた)


 じゃあ、家族規模においてはどうか。そりゃあ、意味が「ある」ってことになる。
 旦那さんや奥さん、お父さんやお母さんってのは、それだけで、その役割は代替不可能である。

 そして、失われた時の甚大さは、関係者(ここでは「家族構成員」)にとっては、筆舌尽くせぬ。

しかし

 自分一人の人生に、価値はあるのだろうか。
 ……という問いは、あまり重要ではない。「価値」とは、自分から世界への方向と、世界から自分への方向とがある。としたときの、「世界」が、前述の「宇宙」だったら、両方とも「ない」。

 家族からの意味、価値だったらあるかもしれない。


 しかし、昨今、家族をつくるというのは、「自由」になった。
 恋愛も自由、結婚も自由。
 となったとき……時間切れ。

あとがき

(かっこ書きである。尻切れ過ぎる。15分ではこの程度しか書けない。しかし、要するに、時間が、精神的時間も、物理的時間もないのである。いつまで続くか。取り敢えず、分からない)

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タイトル思いつかない(疲れた)
2019/09/01 22:03 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「疲れた」

前書き

 ずっと寝ていた休日。
 やる気が起きない、まぁ、起きられないことによって、悪循環になるのだが。
 だが、この漫画(リンク)のように、「無駄かどうかは俺が決める!」といってやりたい。

 いやぁ、無駄も何も、ずっと寝てたから何もないわけだが……。

 まぁ、体を休めた、ということで、よしとしよう。土日は、イベント(友人その他知人からのお誘い)があったが、疲れすぎて無理ですと断ったのだから、目的を達した。

近況

 先々週は、23時帰宅だったと、書いた。それに対して、心配してくださったコメントを頂いた。
 しかし、今週は、24時を過ぎての帰宅だった。

 平日何もできなすぎる。

 まぁ確かに、22時帰宅の際も、寝るまでに少ししか時間はないから、アマゾンプライムで、適当な作品をあまり真剣ではなくみてボーっと過ごすぐらいだったろう。
 そういった時間がなくなっただけと考えれば、まぁ大丈夫かもしれない。

 いやそんなわけはない。ぼーっと過ごす時間もあったほうがいいだろう。

 ……なんか、今も、頭が働いていない。
 ああ、こういうときは、風呂にでも入るべきパターンだな。OK、それは行こう。
 だが、やる気のなさ的に、朝も、11時には一度目が覚めたのだったが、やる気が起きな過ぎて布団から起き上がれなかった。
 そうすると、変な夢をみたりして、過去の嫌だったころの夢だったりして、さらに士気は下がるという悪循環。


 体は休まったかもしれないが、精神的には休めてない気がする。



(かっこ書きである。風呂にはいったものの、頭痛は治らず、今日はここで一度投稿し、取り急ぎルーチンはやったと、そういうことにしておく)

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胃カメラ経口体験記
2019/09/01 17:00 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「胃カメラ苦しい」

前書き

 先日、胃カメラを口からやってきた。(全身麻酔なし)
 結果は、問題なし、とのことだった。

 たまに胃のあたりが、きりきりするような、締め付けられるような痛みに悩まされることがある。
 ゆえに、胃カメラもやってみたのであるが。

 これが、大変苦しかった。

終わった後も痛かった

 胃カメラの体験自体は、次の小見出しで書くとして、これは直接的に関係ないのだろうが、胃カメラ後も、お腹が痛くて、待合いイスでずっと耐えていた。

 胃カメラ後は、一時間は、飲食ができないということだ。
 前日夜からは一切食事はダメなため、お腹が空いて、痛いきもする。食べると治るようなきもする、が、それもできず、とにかく耐える。

 1時間後ぐらいに、カフェに入って少し食べると、徐々に痛みが治まってきた。
 ストレス性の痛みだったのか。

 そもそも、胃カメラ後に、「きれいな胃なので現状は問題ないですね」と言われていて、それでも痛くなるというのは、人間の身体の不可思議。

胃カメラ中

 終わった後に痛くなるというのは予想外だった。
 が、まぁその、予想通り、胃カメラ中が、苦しかった。単純に苦しかった。

 出産の痛みに比べたら大したことないのだろうが、ふつうに苦しい。

 般若心経でも頭で唱えて耐えようかとも思っていたが、そういうもんじゃない。


 痛い、というわけじゃない、と思う。麻酔は、口に、苦いキシロカインスプレーをしてもらう。まぁ、全然耐えられんものじゃない。これから行われることを思えば大したことじゃない。

 問題は、異物が、喉から、食道を通って胃に挿入されることだ。

 入る瞬間は、いつ入ったのか分からないぐらいだが、その後すぐに、強烈な嘔吐感がくる。強烈だ。おええええ、という奴だ。
 先生や看護氏さんが、ここ苦しいとこですからね、と声をかけてくれる。

 確かに、数秒耐えると、少し嘔吐感が収まる。


 しかし、異物感は当然残っている。

 涙が出始める。
 涙だ。大の男が……というほど逞しくはないが、インフルエンザになってものすごく苦しくても、泣きはしないだろう。
 そういう苦しさとはまた全く異なるつらさなのだ。


 半分までは終わりましたよ、というのを聞く。
 まだ半分なのか、と、途方にくれる。

 野戦病院では、重体、重傷の兵士が、もう殺してくれとの叫びが響きわたるとのことだが、ほんとなんだろう。その100分の1ぐらいの気持ちは分かる。

 胃カメラやる前は、万が一何かのショックで死んでしまったら、色々やり残したこともあるし、やだなぁ、とか、のんきに考えていたが、「いやもう、そんなのどうでもいい!」っといった感じになる。

 この苦しみがもしずっと続くなら、もうほんと、殺して欲しいと思うだろう。


 最初の方と、あと二回くらい、ここ、苦しいとこですからね、という箇所があり、それ以外は、とにかく呼吸を意識することで耐えた。
 胃カメラ中ということを意識しないほうがよさそうだ。
 あと、マウスピースを最初にはめられるが、思いっきり噛みしめてやってもよい気がする。

半分を過ぎた後はやや楽

 しかし、半分ですよ、のあとは、やや早い気がした。戻りながら食道を通って終わりだった。

 最初の方がだいぶ苦しかったので、「またくるか」と身構えたが、抜かれた瞬間も、よく分からなかった。一瞬だった。

 そのあとは、唾液とか、もろもろ、麻酔で飲み込むことができなくなってるので、全部だだもれになる。ティッシュが(箱ごと)渡されるので、自分で拭っていく。


 結論は、最初に書いた通り、所見無しだった。
 が、二、三年に一度は、胃カメラは受けた方がよいとのことだ。

 毎年やるのは、負担だな……。

あとがき

(かっこ書きである。苦しかった。しかし、終わってみると、なんか変な達成感もある。やられてるときは、あれほど苦しかったのに、終わってみると、またやってみたほうがいいのかな、と思ったりする。現金なものである。「意味」大事だと思う。唐突だが、要は、「時限的な苦しみにはある程度耐えられる」ということだ。ちなみに、全身麻酔によって、ほぼ眠った状態で苦痛なく検査もできるそうだ。が、追加の費用もかかるのと、時間がよりかかるということだが、心配なのはやはり麻酔の副作用だろうか。医学的に大丈夫なんだろうが、一時的に、人工的に身体の機能を低下させるということなのだから、それはそれで負担だと思われる。一方で、「苦しい」ことによってストレスがかかる負担もあると思われる。どっちがいいのか、よく分からない)

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2019/08/25 15:13 | Comments(2) | 思考及び書くこと
今日の一言「ルーチンは欠かしちゃダメだ」

前書き

 書きづらい! とか、言い訳している場合ではない。
 習慣付けすることが何より大事だ。
 と僕は思うのだが、どうにも、会社とか友人関係とかその他もろもろ、他者と関わる必要がある場合は、中々思うように進まない。

 ええと、できるだけ、近況をメモしておこうと思う。例えば小学校の絵日記で、天気のことを書いたりするが、それって、意味がないのでは、と思われるかもしれないが、事実僕もそう思っていたと思うが、今思うに、天気も関係あると思う。そのとき、どういった状況だったのかというのは、自分の書くモチベーションや、書くないようにも影響すると思うのである。
 まぁ、絵日記で、まとめてかこうとして、前の天気がわからなくなって、あー面倒だなとか思ったことはよくあった。今にして思えば、その天気が間違っていようが、学校の先生はそれで成績を下げるはずはない、というか、確認などしないのだろうが、僕は真面目に考えすぎてしまっていたのだ。

要領のよさ

 話それるけど、その絵日記の天気とか、さほど重要じゃない……成績的には重要じゃないということは多くある。仕事だってそう。
 だから、学校の勉強はよくできても、仕事はできない、とかいう評価がなされる人がいるのだ。

 無限にある仕事のなかで、ポイントをおさえないと、評価の問題だけじゃなく、そもそも終わらない。
 最低限、メール等郵送物の誤発送を防ぐとか、そういう取り組みは必要だが、「そこ重要じゃないんだけどな」ということに拘ってはならないのだ。利益にならないから。

 利益!

 例えば先週、僕は、クレームの処理をまた行った。(ああ、それも、報告書などに書いておかなければ、自分自身でも忘れてしまうだろう)
 そのなかで、はじめは非常にお怒りであって、根拠を明確に示せとか言われていた。
 根拠を示した。
 しかし、その根拠がおかしい、と怒りはおさまらなかった。
(そう、そもそも、他の部署や組織にその人は確認して、なお納得されなかった方だったのだ)

 僕は、機転をきかせて、「YOUのおっしゃることはよく分かるYO。でもさ、逆にこういうケースがあったら、その人たちも困る、というか納得いかなくなるよね。そしたら、そういうルールになってるってのも、仕方がないんじゃあないかなぁ」といった。(もちろん全部敬語だ!)

 結果、なるほどね、分かったよ、いろいろ調べてくれたり、ありがとうね。

 といってもらえた。解決した!

それとこれと評価と

 が、まぁそれが、今回はうまくいったが、次がうまくいくかわからないし、そして、その対応に要した時間を、誰かが評価してくれたり、お金ボーナスあったりとか、別にそんなん、ない。
 いうてみれば、当たり前の仕事を、当たり前にやっただけだ。問い合わせ対応、的なたくさんある業務のうちのひとつに過ぎないからな。

 達成感がないかといわれたら、あることはある。
 が、「で?」という感覚が、断然僕のなかでは強い。
 こういった僕の能力(何かを達成する意欲と実行できる力)が育まれても、僕は別に嬉しくはないのだ。
 それについて、周りの人は、「すごいね」とか言ってくれたりする。
 別に、求めてないのだ、そのあたりは。

 お金ボーナスとか書いたが、仮にそういった評価をしてもらっても、別に、嬉しくないのだ。

 僕は、先日ライ、ブログへコメントいただいた内容に非常に感銘受け、嬉しかった。よく読んでくださってるな、と思った。
 先日、夜回り先生という方が、いろいろ相談を行っていたが、結局相談してくる人たちが、自分の本を全然読んでない、もしくは読んでも全然理解していないことに辟易され、ついには相談をやめてしまったという記事を読んだ。
 ホリエモン氏も、企画をもってくる人たちは多いが、なっとらん、といっていたという記事を読んだ。

近況

 おっと、近況を書くつもりが、脱線してしまった。
 ええと、先々週は、23時帰宅が多かったと書いたが、先週は、24時帰宅が多かった。

 いやええと、1日、いや二日は、同僚たちと食事に行ってから帰ったりしたから、仕事でふるふる、というわけではないが、要は、家に帰ってからが勝負なのである。何が(かっこ笑い)。

 うーむ。なんというか、仕事と、友達たちと遊ぶことと、同僚たちと食事等行くことについて、さほど違いはないんだ。と書くと、仕事なめてんじゃねええということを言われるだろうが、そういう問題ではない。要するに、他者対応において、ストレス発散傾向が向けられないということだ。というか、創作と全然関係ないしな。

 そう。創作性がないのだ。
 先日、いや、違う、去年とか、会社関係の人と話す機会があったが、だいぶ面白かった。その人も、すげー考えてるんだな、って思った。いやその、誰しも、いろいろ考えてるよ。そうじゃなくて、なんというのかなぁ、その、生き方そのものについて、という表現にとりあえずとどめておく。とにかく、その時間は、他者との時間だったが、面白かったのだ。
(補記すれば、その人も、だいぶ変わり者的な風な評判があるようなことであった)

 現実に関しての、例えば仕事とかでもいいが、どうでもいいのである! と書くと言い過ぎだが。
 仕事も、遊びも、人生の要素に過ぎない。その要素に過ぎないことを、他者と話し合ってどうするのだ。行動するのは、結局は自分なのだ。であれば、自分で考える時間があったほうがましだ。いやいや、もちろん、相談は必要だし、コミュニケーションも必要だよ。わかってるが、なんというのあかなぁ、ここら辺が上手く伝える手段がなく、要は、人付き合いめんどくさい、という単純な行動指針に繋がるわけであるが。

あとがき

(かっこ書きである。来週も、先週同様となることが目に見えている。そして、再来週もそうなるかも。とりあえず、今年はそんな感じなのかもしれない。いやひとついっておけば、今の職場、まだ半年経ってないからな。そりゃあ、歳は30代であるが、全く異なる職場において、1年間を見通して行動しろというのは、まぁまぁ無理があると思う。第一、上にも書いてきたが、どこら辺をゴールとして考えられているのか、いまいち見えない。だから、もちろん、人生においても、そうだが、仕事においても、ゴール、目標をしっかり、明確に、何度も、繰り返し、提示し続けることが大事なのだ。よう分からない状態でも、そのなかで目標を見つけていく、課題をみつけていく、というのでもいいのだ。それだって大事なゴールだ。日々の業務を正確に、効率よくこなす、ということでもいいのだ。なんだっていい。そうしたゴールが分からないと、まぁもう、雪だるま方式に業務は増えていく。まぁ、そういったことを含めて、各自で考え、成長することが、裏のゴールなのかもしれない。であれば、しゃにむにやるしかなかろう。ただし、組織は、簡単に手のひらを返すから、残業代とか、有給とか、その辺、しっかり請求すべきだ。善意で、休日に仕事を持ち帰ったり、絶対やらん。20代の時、よくわからずにそういったこともしていたが、何にもならなかった。いや、なにかにはなったろう。勉強にはなったろう。だが、やる気をすさまじく下げる事態はその後たびたび発生したのである。あああ、やる気がおきねえなぁ。……っといったことを、多くのサラリーマン氏たちは、同僚や友人や家族と、飲み屋で語り明かすのだろう。俺は、それが無駄……とまでは言わないが、たまにはいいと思うが、正直、そんなこと他の人と話しても、自分の中では一切解決しない。むしろ、こうやって文字起こしシタホウガがぜんイミがある。と思う。一時の感情を処理したいわけじゃないのだ。問題の解決をはかりたいのである。考えることが目的ではないのだ。考えなくても人生満足して生きられたらいいのである。ただ、多分、俺のような奴は、考えることの放棄は恐らくできないのだろう。……というか、「自分で考えろ」って、よく言われるところじゃん。だから、一般的にも、考えることは奨励されているはずなのである。しかし、一般的に言われているのは、「俺の思うように考えろ」だったり「俺もよくわからないが、成果が出るように考えろ」である。まぁ無視して構わない。僕のいっている考えることと、一般的に言われている考えることは、全く違うと思っている。そこら辺が分かってない、もしくは分かってても意図している人たちの相手は、できるだけしたくないものだ)




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