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タイトル思いつかない(疲れた)
2019/09/01 22:03 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「疲れた」

前書き

 ずっと寝ていた休日。
 やる気が起きない、まぁ、起きられないことによって、悪循環になるのだが。
 だが、この漫画(リンク)のように、「無駄かどうかは俺が決める!」といってやりたい。

 いやぁ、無駄も何も、ずっと寝てたから何もないわけだが……。

 まぁ、体を休めた、ということで、よしとしよう。土日は、イベント(友人その他知人からのお誘い)があったが、疲れすぎて無理ですと断ったのだから、目的を達した。

近況

 先々週は、23時帰宅だったと、書いた。それに対して、心配してくださったコメントを頂いた。
 しかし、今週は、24時を過ぎての帰宅だった。

 平日何もできなすぎる。

 まぁ確かに、22時帰宅の際も、寝るまでに少ししか時間はないから、アマゾンプライムで、適当な作品をあまり真剣ではなくみてボーっと過ごすぐらいだったろう。
 そういった時間がなくなっただけと考えれば、まぁ大丈夫かもしれない。

 いやそんなわけはない。ぼーっと過ごす時間もあったほうがいいだろう。

 ……なんか、今も、頭が働いていない。
 ああ、こういうときは、風呂にでも入るべきパターンだな。OK、それは行こう。
 だが、やる気のなさ的に、朝も、11時には一度目が覚めたのだったが、やる気が起きな過ぎて布団から起き上がれなかった。
 そうすると、変な夢をみたりして、過去の嫌だったころの夢だったりして、さらに士気は下がるという悪循環。


 体は休まったかもしれないが、精神的には休めてない気がする。



(かっこ書きである。風呂にはいったものの、頭痛は治らず、今日はここで一度投稿し、取り急ぎルーチンはやったと、そういうことにしておく)

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胃カメラ経口体験記
2019/09/01 17:00 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「胃カメラ苦しい」

前書き

 先日、胃カメラを口からやってきた。(全身麻酔なし)
 結果は、問題なし、とのことだった。

 たまに胃のあたりが、きりきりするような、締め付けられるような痛みに悩まされることがある。
 ゆえに、胃カメラもやってみたのであるが。

 これが、大変苦しかった。

終わった後も痛かった

 胃カメラの体験自体は、次の小見出しで書くとして、これは直接的に関係ないのだろうが、胃カメラ後も、お腹が痛くて、待合いイスでずっと耐えていた。

 胃カメラ後は、一時間は、飲食ができないということだ。
 前日夜からは一切食事はダメなため、お腹が空いて、痛いきもする。食べると治るようなきもする、が、それもできず、とにかく耐える。

 1時間後ぐらいに、カフェに入って少し食べると、徐々に痛みが治まってきた。
 ストレス性の痛みだったのか。

 そもそも、胃カメラ後に、「きれいな胃なので現状は問題ないですね」と言われていて、それでも痛くなるというのは、人間の身体の不可思議。

胃カメラ中

 終わった後に痛くなるというのは予想外だった。
 が、まぁその、予想通り、胃カメラ中が、苦しかった。単純に苦しかった。

 出産の痛みに比べたら大したことないのだろうが、ふつうに苦しい。

 般若心経でも頭で唱えて耐えようかとも思っていたが、そういうもんじゃない。


 痛い、というわけじゃない、と思う。麻酔は、口に、苦いキシロカインスプレーをしてもらう。まぁ、全然耐えられんものじゃない。これから行われることを思えば大したことじゃない。

 問題は、異物が、喉から、食道を通って胃に挿入されることだ。

 入る瞬間は、いつ入ったのか分からないぐらいだが、その後すぐに、強烈な嘔吐感がくる。強烈だ。おええええ、という奴だ。
 先生や看護氏さんが、ここ苦しいとこですからね、と声をかけてくれる。

 確かに、数秒耐えると、少し嘔吐感が収まる。


 しかし、異物感は当然残っている。

 涙が出始める。
 涙だ。大の男が……というほど逞しくはないが、インフルエンザになってものすごく苦しくても、泣きはしないだろう。
 そういう苦しさとはまた全く異なるつらさなのだ。


 半分までは終わりましたよ、というのを聞く。
 まだ半分なのか、と、途方にくれる。

 野戦病院では、重体、重傷の兵士が、もう殺してくれとの叫びが響きわたるとのことだが、ほんとなんだろう。その100分の1ぐらいの気持ちは分かる。

 胃カメラやる前は、万が一何かのショックで死んでしまったら、色々やり残したこともあるし、やだなぁ、とか、のんきに考えていたが、「いやもう、そんなのどうでもいい!」っといった感じになる。

 この苦しみがもしずっと続くなら、もうほんと、殺して欲しいと思うだろう。


 最初の方と、あと二回くらい、ここ、苦しいとこですからね、という箇所があり、それ以外は、とにかく呼吸を意識することで耐えた。
 胃カメラ中ということを意識しないほうがよさそうだ。
 あと、マウスピースを最初にはめられるが、思いっきり噛みしめてやってもよい気がする。

半分を過ぎた後はやや楽

 しかし、半分ですよ、のあとは、やや早い気がした。戻りながら食道を通って終わりだった。

 最初の方がだいぶ苦しかったので、「またくるか」と身構えたが、抜かれた瞬間も、よく分からなかった。一瞬だった。

 そのあとは、唾液とか、もろもろ、麻酔で飲み込むことができなくなってるので、全部だだもれになる。ティッシュが(箱ごと)渡されるので、自分で拭っていく。


 結論は、最初に書いた通り、所見無しだった。
 が、二、三年に一度は、胃カメラは受けた方がよいとのことだ。

 毎年やるのは、負担だな……。

あとがき

(かっこ書きである。苦しかった。しかし、終わってみると、なんか変な達成感もある。やられてるときは、あれほど苦しかったのに、終わってみると、またやってみたほうがいいのかな、と思ったりする。現金なものである。「意味」大事だと思う。唐突だが、要は、「時限的な苦しみにはある程度耐えられる」ということだ。ちなみに、全身麻酔によって、ほぼ眠った状態で苦痛なく検査もできるそうだ。が、追加の費用もかかるのと、時間がよりかかるということだが、心配なのはやはり麻酔の副作用だろうか。医学的に大丈夫なんだろうが、一時的に、人工的に身体の機能を低下させるということなのだから、それはそれで負担だと思われる。一方で、「苦しい」ことによってストレスがかかる負担もあると思われる。どっちがいいのか、よく分からない)

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モバイル投稿
2019/08/25 15:13 | Comments(2) | 思考及び書くこと
今日の一言「ルーチンは欠かしちゃダメだ」

前書き

 書きづらい! とか、言い訳している場合ではない。
 習慣付けすることが何より大事だ。
 と僕は思うのだが、どうにも、会社とか友人関係とかその他もろもろ、他者と関わる必要がある場合は、中々思うように進まない。

 ええと、できるだけ、近況をメモしておこうと思う。例えば小学校の絵日記で、天気のことを書いたりするが、それって、意味がないのでは、と思われるかもしれないが、事実僕もそう思っていたと思うが、今思うに、天気も関係あると思う。そのとき、どういった状況だったのかというのは、自分の書くモチベーションや、書くないようにも影響すると思うのである。
 まぁ、絵日記で、まとめてかこうとして、前の天気がわからなくなって、あー面倒だなとか思ったことはよくあった。今にして思えば、その天気が間違っていようが、学校の先生はそれで成績を下げるはずはない、というか、確認などしないのだろうが、僕は真面目に考えすぎてしまっていたのだ。

要領のよさ

 話それるけど、その絵日記の天気とか、さほど重要じゃない……成績的には重要じゃないということは多くある。仕事だってそう。
 だから、学校の勉強はよくできても、仕事はできない、とかいう評価がなされる人がいるのだ。

 無限にある仕事のなかで、ポイントをおさえないと、評価の問題だけじゃなく、そもそも終わらない。
 最低限、メール等郵送物の誤発送を防ぐとか、そういう取り組みは必要だが、「そこ重要じゃないんだけどな」ということに拘ってはならないのだ。利益にならないから。

 利益!

 例えば先週、僕は、クレームの処理をまた行った。(ああ、それも、報告書などに書いておかなければ、自分自身でも忘れてしまうだろう)
 そのなかで、はじめは非常にお怒りであって、根拠を明確に示せとか言われていた。
 根拠を示した。
 しかし、その根拠がおかしい、と怒りはおさまらなかった。
(そう、そもそも、他の部署や組織にその人は確認して、なお納得されなかった方だったのだ)

 僕は、機転をきかせて、「YOUのおっしゃることはよく分かるYO。でもさ、逆にこういうケースがあったら、その人たちも困る、というか納得いかなくなるよね。そしたら、そういうルールになってるってのも、仕方がないんじゃあないかなぁ」といった。(もちろん全部敬語だ!)

 結果、なるほどね、分かったよ、いろいろ調べてくれたり、ありがとうね。

 といってもらえた。解決した!

それとこれと評価と

 が、まぁそれが、今回はうまくいったが、次がうまくいくかわからないし、そして、その対応に要した時間を、誰かが評価してくれたり、お金ボーナスあったりとか、別にそんなん、ない。
 いうてみれば、当たり前の仕事を、当たり前にやっただけだ。問い合わせ対応、的なたくさんある業務のうちのひとつに過ぎないからな。

 達成感がないかといわれたら、あることはある。
 が、「で?」という感覚が、断然僕のなかでは強い。
 こういった僕の能力(何かを達成する意欲と実行できる力)が育まれても、僕は別に嬉しくはないのだ。
 それについて、周りの人は、「すごいね」とか言ってくれたりする。
 別に、求めてないのだ、そのあたりは。

 お金ボーナスとか書いたが、仮にそういった評価をしてもらっても、別に、嬉しくないのだ。

 僕は、先日ライ、ブログへコメントいただいた内容に非常に感銘受け、嬉しかった。よく読んでくださってるな、と思った。
 先日、夜回り先生という方が、いろいろ相談を行っていたが、結局相談してくる人たちが、自分の本を全然読んでない、もしくは読んでも全然理解していないことに辟易され、ついには相談をやめてしまったという記事を読んだ。
 ホリエモン氏も、企画をもってくる人たちは多いが、なっとらん、といっていたという記事を読んだ。

近況

 おっと、近況を書くつもりが、脱線してしまった。
 ええと、先々週は、23時帰宅が多かったと書いたが、先週は、24時帰宅が多かった。

 いやええと、1日、いや二日は、同僚たちと食事に行ってから帰ったりしたから、仕事でふるふる、というわけではないが、要は、家に帰ってからが勝負なのである。何が(かっこ笑い)。

 うーむ。なんというか、仕事と、友達たちと遊ぶことと、同僚たちと食事等行くことについて、さほど違いはないんだ。と書くと、仕事なめてんじゃねええということを言われるだろうが、そういう問題ではない。要するに、他者対応において、ストレス発散傾向が向けられないということだ。というか、創作と全然関係ないしな。

 そう。創作性がないのだ。
 先日、いや、違う、去年とか、会社関係の人と話す機会があったが、だいぶ面白かった。その人も、すげー考えてるんだな、って思った。いやその、誰しも、いろいろ考えてるよ。そうじゃなくて、なんというのかなぁ、その、生き方そのものについて、という表現にとりあえずとどめておく。とにかく、その時間は、他者との時間だったが、面白かったのだ。
(補記すれば、その人も、だいぶ変わり者的な風な評判があるようなことであった)

 現実に関しての、例えば仕事とかでもいいが、どうでもいいのである! と書くと言い過ぎだが。
 仕事も、遊びも、人生の要素に過ぎない。その要素に過ぎないことを、他者と話し合ってどうするのだ。行動するのは、結局は自分なのだ。であれば、自分で考える時間があったほうがましだ。いやいや、もちろん、相談は必要だし、コミュニケーションも必要だよ。わかってるが、なんというのあかなぁ、ここら辺が上手く伝える手段がなく、要は、人付き合いめんどくさい、という単純な行動指針に繋がるわけであるが。

あとがき

(かっこ書きである。来週も、先週同様となることが目に見えている。そして、再来週もそうなるかも。とりあえず、今年はそんな感じなのかもしれない。いやひとついっておけば、今の職場、まだ半年経ってないからな。そりゃあ、歳は30代であるが、全く異なる職場において、1年間を見通して行動しろというのは、まぁまぁ無理があると思う。第一、上にも書いてきたが、どこら辺をゴールとして考えられているのか、いまいち見えない。だから、もちろん、人生においても、そうだが、仕事においても、ゴール、目標をしっかり、明確に、何度も、繰り返し、提示し続けることが大事なのだ。よう分からない状態でも、そのなかで目標を見つけていく、課題をみつけていく、というのでもいいのだ。それだって大事なゴールだ。日々の業務を正確に、効率よくこなす、ということでもいいのだ。なんだっていい。そうしたゴールが分からないと、まぁもう、雪だるま方式に業務は増えていく。まぁ、そういったことを含めて、各自で考え、成長することが、裏のゴールなのかもしれない。であれば、しゃにむにやるしかなかろう。ただし、組織は、簡単に手のひらを返すから、残業代とか、有給とか、その辺、しっかり請求すべきだ。善意で、休日に仕事を持ち帰ったり、絶対やらん。20代の時、よくわからずにそういったこともしていたが、何にもならなかった。いや、なにかにはなったろう。勉強にはなったろう。だが、やる気をすさまじく下げる事態はその後たびたび発生したのである。あああ、やる気がおきねえなぁ。……っといったことを、多くのサラリーマン氏たちは、同僚や友人や家族と、飲み屋で語り明かすのだろう。俺は、それが無駄……とまでは言わないが、たまにはいいと思うが、正直、そんなこと他の人と話しても、自分の中では一切解決しない。むしろ、こうやって文字起こしシタホウガがぜんイミがある。と思う。一時の感情を処理したいわけじゃないのだ。問題の解決をはかりたいのである。考えることが目的ではないのだ。考えなくても人生満足して生きられたらいいのである。ただ、多分、俺のような奴は、考えることの放棄は恐らくできないのだろう。……というか、「自分で考えろ」って、よく言われるところじゃん。だから、一般的にも、考えることは奨励されているはずなのである。しかし、一般的に言われているのは、「俺の思うように考えろ」だったり「俺もよくわからないが、成果が出るように考えろ」である。まぁ無視して構わない。僕のいっている考えることと、一般的に言われている考えることは、全く違うと思っている。そこら辺が分かってない、もしくは分かってても意図している人たちの相手は、できるだけしたくないものだ)




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ゲーム依存は危険だが解決は難しいしすべきかも要検討
2019/08/17 22:41 | Comments(17) | 生きる意味
今日の一言「ゲーム依存は生活に破滅をもたらす」「しかし現実生活に価値はあるのか」

前書き

 先週は、毎日、23時帰宅であった。
 毎回書くが、忙しい自慢でもなければ、「俺がいないと仕事が回らなくて」的なのでもなければ、頑張ってるアピールでもない。

 第一、もっと拘束時間が長いブラックな方々は大勢いると聞く。ほんとかどうかわからないが――というのは、実際、帰宅の電車は、最近(別にお盆の時期ではない)、遅い時間ほど空いている。

 んで、まぁ、その、やってて楽しい仕事であればいいのだろうが、やれ人間関係的なやつだったり、クレームだったり、「何の意味があるのそれ。表現的な問題でしょ。どっちでもいいし」的なものもあったりと、面倒くさいことこの上ない。
 勉強にはなると思う。知識も増える。考え方も参考になる。

 が、「楽しい」かどうかと問われたら、別に楽しくはない。
 なんかプログラムとか書いてたほうがよほど楽しい。

 ――プログラム、しかし、じゃあ、SEなりPGなりに転職したら? という正論があるかもしれないが、プロジェクトとして行うそういった業務に興味はない――いや、やってみたら楽しいかもしれないが、基本、むかーっしの人が作ったものをちょびちょち直していくような。
 楽しいのは、企画、要件定義から実装、テスト、リリース、利用者への研修など含めて、全部含めてやれると楽しいのである。おっきなプロジェクトのごく一部分の担当とか、きっとつまらないだろう。

ゲーム依存に関する記事を読んで

 あー、そんなこんなで、休日はほぼ寝て過ごしてしまった。やる気が起きないのだ様々なことに対して。せっかく、最近、「面白い」コメントなど多く頂いているにも関わらず、思考が、時間を、十分に向けられない。悔しい。

 そんな、朦朧とした状態で、「【特集】1日20時間、2年間外出せず…『ゲーム依存症』患者の現実」https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190817-00010003-kantele-soci
 との記事を読んだ。

 まず、僕が考える「前提」は以下だ。
・ゲームは楽しい
・ゲームにより暴力的になるというのは正しくない
・一方ゲーム依存は現実生活を脅かすため治療が必要だ

 1日20時間は多いと思うが、休日であれば、8時間ぐらいは余裕だ、という人は多いだろう。
 ただ、「毎日」というのはすごいと思う。
 でもたぶん、全然俺もできちゃうんじゃないかという気もする――いや、睡眠時間は6~8時間は欲しいから、20時間はやっぱりすごいな(笑)。

 まぁそんな表面的なことを考えながら読んでいたのだが、コメント欄とかでの、「ゲームより現実のほうが大切だ」という意見が――「やはりあったか」という気持ちではあったが――気になった。


大切な現実とは

 某じゃんけんで頭が破裂する作品を執筆中の尊敬する僕の友人氏は、「僻みとか思われるの嫌なんでな、あんまし言わないんだが、現実羨ましいとか思ったことないんだよな。物語の方が格段面白いやろ」(勝手な理解)と仰られていた。

 いや分かる。
 ――分かる、といってしまうと傲慢になるが、しかし、思いは分かる。
 上の「ゲーム依存」は治療されるべき、ということだが、やはり問題は、「ゲーム」が埋めてくれていた時間を、他に、何の「価値ある時間」にするのか、ということだ。

 大切な現実とは何か。

 ゲームをやるってこと自体も、現実の一部を成していないか。――というのは、もちろん詭弁だろう。だが、詭弁で片付けちゃいけない気がする。
 要は、ゲーム依存の治療の先にあるのは、ゲーム以外のことをする「時間」ということだからだ。

本当は創作活動が優先だがブログで済ませている

 僕にとっては、上の小見出しの通りだ。反省している。
 本当は、創作活動をするのが、僕にとって、大切なことであるはずなのだ。というのは、「現実ってそれほど大事なものなのか」という、某氏の感覚を少し思うところだからである。

 これは、若い時に、例えば甲子園を目指して野球部で仲間と必死に汗を流したり、とか、そういう経験が大事なんだろうと思う。
 くっそつまんなかった

 いや、友人はできたし、そこでの友人たちのおかげで、クラスで孤立とかもなく、平穏無事に過ごせたといってよいだろう。

 が、その、クラブ活動なり、部活動的なのは、嫌々行っていた。
(とかっていえば、親は悲しむかもしれないから、このブログは基本リアルの人には見せるつもりは一切ない)
 別に、体を鍛えるのは悪いことじゃないと思うし、そのおかげで、筋トレとかするのも比較的簡単にルーチン化できたのかもしれない。
 ま、そういう、「役に立った」的な意味であれば、いくらでも挙げることはできるだろう。

 ただ、「現実の価値」的な意味においては、――これを、「生きる意味」と置き換えて表現しても構わない――一切役に立たなかったと書いておいてよいだろう。

大切な現実なんてない

 上のような経験がよくなかったのかもしれない。
 先日、とある友人氏(IMF氏)からコメントを頂いた。

なぜみなさまは生きる意味について考えているのでしょうか。 (1)考える理由 (2)考えて結果どうしたいのか (3)何が目的なのか これは個別の問題なので、人によって異なると思うのですが、ぜひお聞かせいただけないでしょうか?
――番号追記
 即答レベルで、特に考えずに回答をすれば、以下のようになる。
(1)理由:必要だから。
(2)結果:満足(充足)して(前向きに)生きたい
(3)目的:(2)と同じ。
 
 就職面接においては、理由が足りないと思う。
 理由は、本記事の前の小見出しに書いた、「大切な現実が分からないから」になると思う。


 ――ちょっとばかし、これまた別の友人氏(以下SRGN氏)がコメント欄にて書いてくださっている一つの理由・生き方について、僕が思うところを書きたい。

 抜粋して、次の小見出しにて、それへのコメントを書く。
「自分の存在を世界に刻み付けること」  かっこつけた言い方をすれば、この一言になります。以前にも書いた気がしますけれど。  自分という存在を、自分が今ここに存在することを、存在していることを、存在したということを知って欲しい、認めて欲しい、肯定して欲しい。  子孫も残せるものなら残したいとは思う、けれど相手は誰でも良いというわけではなく、自分の理解者あるいは自分を認めてくれる存在であって欲しいし、私がそう思える相手がいないのならば、子孫を残せなくても良い。そういう相手が欲しい、と思う気持ちがあることも自分で否定したりしない。  私という存在をまず自分自身が認めるために、やりたいと思ったことには積極的に、欲しいと思うものには手を伸ばし、したくないことや嫌なものは可能な限り避けようとする。今形成されている社会で生きていく上で支障が出ない範囲で、私自身のその時の思いや気持ちに正直に生きる。  つまるところ、私という存在がこの世界に生きているということを、私自身が肯定し、認めるために、私は生きている。 

自分の存在を世界に刻み付けること

 SRGN氏は、悩み、答えを比較的早い段階で見出し、それをベースに現実の生き方を構築できた方だと思う。
 かっこいい。
 僕の目指すところである。

 いや、そもそも、「生きる意味」的なことを考えずとも、確固たる自己をもち、生活できている人のほうが大半な気がする。
 ただ、そこの部分を触れないで、そのプロセスがないまま、現実にどっしり身を構えられた人たち――それを僕は広い意味で「リア充」と呼ぶ――は、どんだけ、現実的な能力が高くても、僕は、「参考にならない」と思うだろう。

 だから、SRGN氏のような方と出会えたことは、僕にとって間違いなくプラスで幸せである。


 上の僕のSRGN氏に対するコメントは、単に称賛したかったから歯の浮くセリフを書いたというわけでは全くなく、事実思うことである。が、その一方で、僕は、それほど大事な人の記述であっても、完全には咀嚼できない部分がある、という意味で書いている。

 何がかというと、「自分の存在を世界に刻み付けること」これについて、僕は真剣になれていない、ということである。――すぐさま書けば! ダッシュで書いておけば、SRGN氏が見出している答えを否定するものでは全くない。急いで書くまでもなく分かってくれる方々しか本ブログを見ている人はいないんだろうが、大事なことなのでダッシュで書いた。

 要は、ぼく個人は、今のところは本気になれない答えである、ということである。
 結局、まわりまわって、その答えになるかもしれない。

世界(現実)と自己

 なぜか、ということをつらつら書いていくと、中々話しが終わりそうもないし、僕の熱量も下がりそうなので、簡単に書こうと試みれば、そもそも、上に書いてきたように、「大切な現実なんてない」からだ。

 コロンブス卵問題のようだが、要は、現実の重要度を深く感じられない状況において、その現実に対して自己の存在を刻み付けるということは、不安定な砂の土台にひょろひょろの棒を指すみたいな。

 いやだから、現実に対しての自己の肯定感が高まれば、おのずとその現実に対しての興味関心も増大する可能性はあるものの、その現実が「どうでもいい」と思ってしまう中で、その行為は中々本気になれないということである。

「どうでもいい」というのはもちろん言いすぎだが。

 例えば、アインシュタイン氏レベルになれば、世界に刻み付けられた、と思うと思う。誰でも、何百年たとうが、きっと忘れられないだろう。
 しかし、ニュートン氏レベルになると、「写真」ってなかった時代だから、たぶんこんな感じの人なんだろうという肖像画はあるけれども、人物は分からなくなってくる。伝記は残されるかもしれないが、そこから分かることと、その人自身のこととは大きく乖離があるだろう。

 ソクラテス氏のことも、誰でも知っているだろう。無知の知。知らないって知ることが大事なんだよ、的な、思考までも、数千年たっても、知ってもらえているかもしれない。


 が。
 時間という疑いようのない事実の上では、「人物」としての痕跡は、殆ど失われてしまうのである。


 ましてや!
 これを書き始めると、単に努力の放棄に他ならないが、残念ながら僕は凡人である。
 アインシュタイン氏レベルなことが、いかなる分野であろうが、例えこのクッソ長いブログを書き続けるといったことですら、他の多くの人たちと比べて抜きん出られる自信はない。

 そんな程度な人間が、「世界に自分を刻み付ける」なんてことが、できるとは思えないのである。

だから迷ってますという結論

 そろそろ1時間経つので、かっこ書きに入っていこうかと思うが、要は、そういうことだ。
 どういうことか。
 ええとその、SRGN氏の考え・答えは、きっと正しいし、それはすごいことだが、凡人ではきついッス、的なことだ。
 
 子供作る的なことの例でもいいんだけど、子供作るじゃん? 子孫繁栄したとするじゃん?
 ひいひいひいひいじいちゃん的なのを、誰か、覚えてるだろうか、ってことである。

 要は、時間制限があるなかで、誰しも、満足した人生を送らなければならないのだ。一分一秒無駄なく。
 
 IMF氏からの問いの答えを言い換えれば、「満足した人生を送る必要があるため」となる。
「別に満足しなくてもいいんじゃない?」って言われたことがある気がする。うーん、確かにそうなんだけど、でも、つまらなくないか、って思う。

 毎日23時に帰ってきて、何やってんだろって思う。
 いや、ストレスはあるかもしれないが、別に、究極にギスギスしてるとか、超ど級パワハラにあってるとかではないから、睡眠時間やゲームしたり遊べる時間が足りなくて嫌だなぁぐらいといえばそうだ。
 だが、こういった生活が定年(65歳? 70歳?)まで続いて、それがなんだってんだろう、って思う。
「いや、お金ももらえているし、生活に困らないし、いいじゃんか。もっと生活困窮して、意味なんて考える余裕なんてない人たちだってたくさんいるんだぞ!」
 とお叱りを受けるかもしれない。

 そうさな。
 そうだが、そういう問題ではないんだ。分かってもらえるだろうか、いや、俺が上手く表現ができないだけなんだが……。

あとがき

(かっこ書きである。ゲーム依存の話関係なくなったな! いや違うぞ! 関係あるぞ! ゲーム依存と生きる意味、めっちゃ関係あるぞ! 要は、現実がくっそ価値あって、くっそ楽しかったら、ゲームなんてすぐ飽きるやろ? いや、じゃんけん頭破裂の某氏は「滓が。その程度の思考の俗輩が、創作を語るな」と仰られるだろう。天才め! いや、ふつー大半は、現実に楽しいことがあったらそっち中心になるだろう。物語は、現実を彩る単なるわき役に過ぎなくなるだろう。――だが、俺の場合は、能力は凡人クラスなのだが、その「現実」の扱いがどうしてもよく分からないのである。物語がないのだ。いやなんつーか、面白くないのだ。いや、面白さはあるが、それが、「点」なのである。繋がりがない。上手く表現できない。なんだろう。なんか頑張りたいんだが、頑張るに値することが見いだせない。いやそれは違うぞ。ブログ書くことや、創作(随筆含め)は大事だと俺は思っている。それと、「現実」が全然関連してないのがよくないのか。するってーと、やっぱり、今の仕事を辞めて、創作の道で食ってく的なことになるのが必要なのかもしれないが、いやまて、前提をちゃんと見ろ。「能力は凡人クラス」なのである。第一、今いる部署的なのが忙しいのであって、他の部署は定時で帰ってるところたくさんあるからな! だから、いよいよ追い詰められれば、人事とかけあって異動させてもらう方法が漸近的であろう。というか、別に仕事も頑張りたくないわけでもないのだ。頑張ってもいい、だが「だから何なの?」という思いが消えない。評価されてえらくなろうが、給料が上がろうが、そこがモチベーションじゃないんだよな。上司たちに問いたい。「偉くなって何がしたいの?」と。いや、面接でも聞かれるだろう当たり前の質問だ。それを逆に聞きたい。本音ベースのやつをだ! 大方、お金が増える的な問題だろう。あとは、現場業務より指示してたほうが楽だろうとか。くっそつまんねぇ奴らだ。楽しいから上司やれや。面白いから上司をしろ。上司の仕事がしたいからやれ。話がそれたか! 全然書ききれない。いい表現も浮かばない。整理もできない。あああああ、だが、だがしかし、これこそ、これこそこのブログだ。戻ってきた、戦士たちが戻ってきた!!(おっことぬし様風に) これは、最近新しくコメントしてくださったKKA氏のおかげだろう。ありがとうございます。いろいろ書きたいこともあるが、取り急ぎ感謝の意まで)

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ルーチン更新に託けて生きる意味を
2019/08/11 19:22 | Comments(2) | 生きる意味
今日の一言「重要なコメントを頂いた」

前書き

 ルーチン更新である。いやぁ、ほんと、最近、仕事が忙しくて苛々する。何というか、「答え」がない仕事の合間に、ほんとに通常業務的な締め切りも近づいてきて、さらに他の方々からの相談事項的な奴も紛れ込んできて、変な苦情も入ってきたりと、「予定」どおりに全然いかないところもイライラを助長する。

 そういった状況において、とある方(以下「K氏」)から、非常に重要なコメントを頂いていたのに気づいたのは先ほどだ。

 ――僕の思考は回りだした。「面白い」と思った。いやこの「面白い」という表現が適切かは分からない。ただ、他に思いつくと、「楽しい」とかになってしまう。そういった、浮ついた意味じゃあない。真剣だ。マジだ。マジで面白い。

 そして思い出す。俺はこういった刺激(と、書くと適切か分からないが(略))を求めていて、そこにこそ、俺の「物語」があるんだろうということだ。


 前書きがよう分からんくなったかもしれないが、要は今回の記事としては、頂いたコメントのポイント(ポイントというのは、「俺的に役立つ点の抽出」という意味であり、コメントの主旨と異なる可能性があるのにも当然留意すべきだ)を整理しておこうということだ。

(久々にカテゴリが「生きる意味」になった)

生きる意味の考える単位

 生きる意味の考える単位は、以下4つに分類される。とのことである。
1.宇宙と私
2.人類と私
3.社会と私
4.個人と私 
(2と3の違いは生物として歴史を紡いできた、そしてこれからも紡いでいくであろう人類であり、3は現在に生きる社会であるということです。ここを分けているのは自分が観測できるか否かという部分なのではないかと思っています) 
 僕が以前分類したのは、(これも確か、別の方(某I又はQ氏)のコメントをもとにしたものであったと記憶しているが、宇宙、人類、個人、であった。
 なるほど、K氏の分類の方が分かりやすい。さらに、疑問に思う、2と3の違いについても、質問するまでもなく既に注釈されている点に、知的さと配慮の高さが伺える。


意味の問い方

 大事な点なので、そのまま引用。(表記は一部編集)
「生きる意味とは?」と問うことは、個人(私)と何かの関係性についての意味であるということです。 
そして意味というのは 、「私にとって何かの意味がある」と「何かにとって私の意味がある」という、
「私→何か」と 「何か→私」の二方向の観点があるということです。 
そして僕は、「生きる意味とは?」と問うことは 、
「何か→私」の意味の観点を扱う問いなのだと思います。 
要は私の意味とは、「私と何か」の関係性の中で 
何かから私が存在する意味を感じとることができることなのだと思います。


 意味とは関係性のことであり、原因と結果を引き起こす根拠にもなるものだと思う。
 そうであれば、K氏のおっしゃる通り、意味を問うというのは、「対象」(者・物)の、双方向からのベクトル(矢印)について考えなければいけないであろう。
 僕は、そのあたり、思考が足りていなかったと反省した。つまり、僕は、「私→何か」への問いかけが殆どであった気がする。

 何かからの問いかけについて考えている時間は少なかったように思う。

 この辺りは、実は気づくきっかけは、あったろうなぁと、今思っている。というのは、V.E.フランクル氏の長い本、「人間とは何か」を読んだ時だ。
 その中で、フランクル氏は、「生きる意味はある。それは人生から投げかけられている。使命がある」といったことを書かれていた(うろ覚え。後で調べよう)。

 その時僕は、何となく言っている意味は分かったつもりだったが、「納得」はしていなかった。それについて、K氏の、「双方向性」といったところの説明でしっくりきた。


 要は思うに、K氏の方が、たぶん、「次の段階」に進んでいる気がする。僕はまだ、「私から何かへの問い」といった方向で考えている気がする。


 ――しかし、この点には、まだ少し、結論を出すのは保留にしておきたい。
 ここで書き残したいのは、意味には、「私から何か」と、「何かから私へ」という方向性が二つあるということを、忘れないようにしたいということだ。

 何かから私へ、が、それが目指す方向性なのかはもう少し考えてみたいと思う。


 例えば、いつものくだらない例を考えてみれば、本当の神様が神託をくだしたとしよう。
「お前は、いつになっても生きる意味が分からないようだから、私(神)が、教えてやろう」
 と仰った。
 そうして、本当の意味を知った僕、なわけだが、果たして、それですべて解決、なのか。

 どこかしら、何かから与えられた意味というものに、(表現はよくないが)全体主義的な要素を感じてしまい、抵抗してしまう気がする。それだったら、むしろ生きる意味がないほうがよいとまで思ってしまうかもしれない。本末転倒。

上の小見出しの補足

 だが、K氏のいうところの、「何かから私が存在する意味を感じとることができることなのだ」という点は、既にそのあたりの問題点も看破しているように思う。
 つまり、「絶対的な何か」からの受動的な試みなのでは全くなくて、その「何か」からの意味について、主体的に再構築する仕組みなのだろうということだ。

 結果的には、どちらも「受け入れる」点で同じになるが、僕はそのあたりは、全く違うと思っている。
 確か以前書いたはずの表現でいえば、「裏の裏は表だが、表とは違う」ということだと思う。



生きる意味を考える上で外せないポイント

 K氏は、以下3点を挙げられている。

1.信仰と虚構 
2.環境の影響 
3.人間の本質的な特性 

 2について。
 これは、僕も、ものすごく重要なことだと思っている。そして、これは非常に難しいことでもある。これについては、「社会学」の考え方を僕は取り入れて「理解」しようと試みている。といっても、別に専門的なことではなくて、「ちょっと距離を置いて関係性をみる」ということだ。これは、現代日本の社会制度を知るのも大事だし、歴史を知るのも大事だし、自分の家庭環境を知るのも大事だし、とにかく、周辺的な知見を得るということだ。
 むしろ、僕は大学生ぐらいのときは、これらのことによって、自分の「生きづらさ」が解消されると思っていたぐらいだ。まったく役に立たなかった。というのは、大げさだ。当然、こういうことが書けるのだから、役には立った。しかし、知見をいくら得たとしても、それは主体的な、主観的な問題解決とは一致しないのである。そのあたりの経緯によって、僕はよく、「比較思考は嫌いだ」と書いたりしている。だから、キルケゴールさんとかの、実存主義的な、「世界がどうだろうか知ったことか。が苦しい、俺の問題が重要なんだ」というスタンスに感銘を覚えたものである。

 3について。
 これも、非常に大事なことだ。これについて僕は、とある脳科学者の本から引用し、「生きたい」「知りたい」「仲間になりたい」が人間の本質であると理解している。脳細胞はそういった性質があるのだそうだ。それによって、二次的に、「自己保存」と「統一・一貫性」の性質が人の思考には生まれやすくなるということだ。
 そして同時に、「僕」というものの特性についての分析も大事と思う。
 それは、2についても関係するが、要は来歴。どういった経験をして、そのときどういったことを考え、どういった行動をしてきたのか。愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ、だったっけ? 経験も大事だと思うけど(かっこわらい)。別に、世界の歴史だけの問題じゃない。自分の歴史だって大事だってことを、もっと意識したほうがいい。


 ――と、上の2、3については、僕が勝手に書いたことなので、K氏がどのように考えてきたのかということは、非常に興味がある。
 同時に、1については、あまりイメージがついていないので、さらに興味がある。


 あまりイメージがついていないものの、「信仰」という点は重要であると僕も思っている。
 キルケゴール氏は、神への信仰によって、実存問題の解決を成し遂げたわけだが、凡人たる僕はそれはちょっと難しそうである(というより、上に書いた変な例のとおり、神託をもらっても、抵抗したくなる気がする)。が、一方で、信仰はあらゆるところで根付いている。電車や飛行機のような乗り物だってそうだ。お金もそうだ。コンピュータもそうだ。

 あんまり書くと単にハードルを上げてしまったり、考えに偏向性を与えてしまいそうだからよくないと思うけれども、いつもどおり、このブログは、自分の思考整理を第一目的としているので、ご容赦いただきたい。

あとがき

(かっこ書きである。が、本文で大方書ききると、カッコ書きは別になくてもいい気がする。とにかく、良いコメントをもらったと思う。最近、カクヨムはおろか、ブログモチベーションも下がり気味だったけれども、ルーチン更新と、やる気はなくても、何とか気持ちを維持する方向にしていたのは良かったなぁ。大げさじゃあないけれども、僕は非常に充足感を覚えているのだ。仕事で、「そんなことまでできるんだ、すごいね」とか「ありがとう、助かったよ」と言ってもらえるよりも、比較にならないぐらい満足し、嬉しいのである。この感覚を忘れないようにしたい)

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