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短時間でも書くことと続けることを
2019/10/27 08:41 | Comments(3) | 思考及び書くこと
今日の一言「リセットが必要だ」

前書き

 とある友人の、コメントだったか、何かで、「君は色んなものを抱え込み過ぎている」というのがあったと思う。
 僕の反射的思考においては、「いや何にも集中も執着もできていない」というものであったが、極端に考えれば、自分の考えにも理はありつつ、やはり、僕はたくさん抱え込んでいるのかもしれない。

 さて、時間がない。
 やらなければいけないことが多い、というよりも、そもそも、物理的にも時間がない。帰宅が24時~25時、26時になる生活が続いている、気がする。ここ1か月ぐらいはそうな気がする。徐々に増えている気がする。2か月前ぐらいは、21時~23時とか言ってたような。

 とにかく、平日は時間がない。では休日はどうか。
 ちょくちょく、予定が入っている。いやじゃあ具体的にどれぐらいかというと、土日が10回分あったら、半分ぐらいしか固定された予定はない気がする。――むしろ、台風とかその他(自分の体調とか気分)によって、予定を断る場面もあった気がする。

 それでも、なお、時間が全然ない、感覚に陥っている。

 今日も、予定がない休日だったはずが、10時ぐらいに目が覚めて、――なんかして、気づいたら17時だった(寝ていた)。

疲れている

 前書き、は、先週に少しだけ書いたものだった。しかし力尽きて書けなかった。今日、日曜日は、時間がある。久々に、朝も起きることができた。

 しかし、突発的に時間ができると、まず、何からすればいいのか分からない。

 SF小説の火星の人を買ってみた。まだ読んでいない。じゃあ読んでみようか、ということになるが、なんか、他にしなければいけないことはたくさんある気がする。それが何かは分からない。



 短時間でも、少しずつでも、書いていったほうがいい。
 そうしないと、何を書けばいいのか分からなくなるのだ。
 書くことに対しての、意識の低さ。言葉の低さ。

要約はできない

 要するに……が、大切な世の中である。
 何を言いたいのかが分からないと、他者はストレスになる。
 無駄は、いらない。

 いや、そんなことはない、無駄も必要だ……という、言った言わない的なやり取りに意味はない。

 

慮る

「慮った」という言葉が誤用だとして、ツイッターで話題になったらしい。
 あえて、ひらがなで、「おもんぱかった」と書かれたから、誤字だと思った人が「誤字プギャー」したら、逆に言葉の知らなさをプギャーされたということである。

 無知を恥じることはないと僕は思う。
 知らないことを「知らない」といえるほうが勇気がいることだ。
 同時に、「バカ開き直り」はよくない。「知らないこと」を恥ずかしいと思えるからこそ、勇気がある行為なのだ。知らないことを前提に「しらねーし」というのは何ら勇気のある行動ではない。

 その僕の考えというか前提をもとにして、上のニュースに対して思うことは、誤字プギャーが認識誤りでプギャーすることは、必要であると思うということである。
 一見、知らないことに対してのプギャーは、――ぷぎゃーとは、バカにする、ということを指す――プギャーをプギャーすることと構造的に同じであり、どちらも許されない、と思える。何故ならば、間違ったことを必要以上に責めるということは、生きづらい世界を意味するからだ。間違いは誰にでもある。間違わないようにすることが大事だ、という前提があるべきだ。

 その前提に照らせば、プギャーをプギャーすることも同様に許されないことだと思われる。
 違う、と思う。
 プギャーする、要するに人を馬鹿にすることを前提に考えている人を蔑むということは、必要だと思うからである。

反省すること

 上の話題は、僕にとって些末であり、1行ぐらいでメモできたらそれぐらいで良かった。しかし、割と長くなった。要約力が足りない。もう一度試みてみると、「人を馬鹿にすることは許されない。しかし、人を馬鹿にする人を馬鹿にすることは許される」ということになろうか。

 何故そう言い切ったほうがいいかというと、「人を馬鹿にする人を馬鹿にすることも許されない」になれば、無限遡及(トートロジー)になるからだ。YES、もNOもなくなるからだ。そこに思考は生じない。

 Aという命題がある。ただし、こういう場合は例外だ。
 というロジックじゃないと、人は理解ができない。
 理解したような気持になることはできるだろう。しかし、突き詰めると、0か1かに分けられなければ、「理解」(ものごとを適切に分けられる状態)にはならないであろう。

 一方、次元を変える、というのは必要だ。
 上の、バカにする人を馬鹿にする、ことは認められるとして、そもそも「馬鹿にする(プギャー)」自体が正しいかというと、そうではないと思う。

 バカとは付き合うな、という自己啓発本も話題になっているようだ。
 ここで、次元を変えるなら、その「バカ」というのをどういった人を対象にするか、ということになるが、そもそもの命題、「バカとは付き合うな」については賛同するかどうか。そこから入っていかないと、議論にも思考にもなりゃしないのである。


 ところで、この文脈において重要性はないが、僕がバカだと思う人は、知識がない人ではない。「正義」が分からない人がバカだと思う。抽象的に書きすぎたから何も言ってないのと同義だろう。ただ、具体的に書けば、「歩きたばこする人」となり、これはこれで極端過ぎる。

 責任感がない人もバカだと思う。言動に一貫性がない人もバカだと思う――が、これについては、「分人」的な生き方を「敢えて」選択しているのだとしたら、それはそれで賢いと思う。


 といった、自分の意見というか価値観があったうえで、「人を馬鹿にすること」自体は、結局、無意味――というか、生産的ではないと思う。
 馬鹿にしたところで、得られるものは、自分の溜飲が下がるかもしれない程度のことだからだ。

温厚さ

 忙しいと言いながら、先週は飲み会に行った。
 そこで、初対面の人ともあったが、その人から、温厚そうだね、怒ったりしなそうだけど、不満とか愚痴とかどうしてるんですか、みたいなことを言われた。

 まず、僕のブログを万が一みてしまってから僕にあった人は全くそういった感想を抱くことはなかろうが、たいてい、初対面の人に与える印象はソレである。何十年か生きていると、ジョハリの窓の、他者から見える自分というのも分かってくる。

 一方で、長らく僕と付き合っている人――もしくはブログを見ている人は、決して僕が温厚なんかじゃないことは分かってくる。そしてどうやらそのギャップが「気持ち悪い」という感じを抱かせるようである。――これも理由は簡単で、「表裏がある」ことを、人は警戒するからである。
 僕の中では「一貫性がある」と思っているわけだが、それはどうやら他者にはそのようには感じさせないようだ、ということはよく分かってきた。これは「成長」というか、「知識」レベルなのか分からないが、まぁ昔(3~10年前)はよく分かってなかった。

 
 ちなみに、上の不満をどうしてるかといえば、ブログに書き散らしているわけである(かっこ笑い)。

 ――しかし、どちらかというと、「現実の不満」というのは、次元的な興味ではないのである。残業が多いとか、仕事が舞い込んでくるとか、「いやもうちょっとこうしてもらったらいいのに……」的なのは、僕の興味の埒外である。それらは、「所詮」解決可能な問題である。


僕の次元

 僕が問題なのは、「地に足がついていない」からである。浮いているのだ。浮遊少女だ。少女ではない。

 どう生きるのか。または、どう死ぬのか。

 これが問題なのだ。(換言して、「生きる意味を徹底して考える」ということである)


 ここまでで、約1時間である。文量は少ないが、気持ちをのせるのに時間がかかった。コーヒーと、アップルパイが旨かったおかげである。ありがたい。



 僕はふと、今だからかわからないが思ったのだが、結婚とか子供とか、数年前――いや2年前ぐらい?――は重要だと思っていた気がするが、やはり順序が違いそうだ。
 それは、「逃げ」の思考というよりは、そもそも、浮遊状態では、何をやってもうまくいかない気がする、という点でもある。他者は決して、「踏み台」なんかではない。


(かっこ書きである。ってな中二病だか高二病だか大二病だか分からないことを書かないと、平日等でとちくるった精神が「まとも」に戻らないのである)


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更新不可
2019/10/20 16:09 | Comments(0) | イライラ対処
今週のルーチンは多忙などにつき更新できません。

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タイトル考えるの以下略(意味について)
2019/10/15 00:52 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「ルーティン」「るーてん」

前書き

 やることがたまりまくって何もしたくなくなる症候群。
 とりあえず、勉強とこのルーチン更新だけはやっとこう。

本文

 小説シロガネの感想をすべく整理しながら読み始める。しかし、時間が細切れになってレビューが中々進まない。

 台風? なんだっけそれ。

 ブログへのコメントに今気づく。

 要は、プライベート的なことで時間が取られすぎた休日だった。しかし、そのうち、勉強には少し時間をあてられたからよかった。

 ……書くことがなさすぎる。
 大まかに書くとすれば、勉強と寝ていたのと、シロガネ感想を少し進めただけであった。もったいない時間の使い方な気がする。

内容

 なんでこんなことになってしまうのか。平日がいけない気がする。何故毎日帰宅が24時~25時なのか。
 そして、そんな遅い時間でも、満員とまではいかないが、電車の椅子に座れないぐらいに人がいるのは何故なのか。なんか人が多すぎていらつく。
 いや一部路線と、方向だけなんだろうが、それでも、夜はみんな寝たらどうだろうか。

 まぁもう、早く帰ろうという意思が薄弱になっていることは否めない気がする。というか、早く帰ろうと朝から「これとこれとこれをこういう順番でこうしてやろう」と決めても、突発的な事象が発生しまくるため、うまくいかないのである。そうして遅くなると、もうイライラはたまっていくのである。であれば、最初から余裕をもって、「今日は初期は21時ぐらいに終わる予定だが、23時ぐらいまでかかる可能性もあるな」と思っていたほうがよいのである。

内容2

 生きる意味を考えるブログなので、とりあえず考えようと思う。いろいろ、プライベートでもやらなきゃいけないこと(創作の面も実生活の面も)たまってしまっているが、それらは全部一度忘れて、考えようと思う。

 生きる意味は、無くても、生きられるように人はつくられているのかもしれない。
 生きる意味というのは、迫りくる死に対しての答えのようなものであり、死の実感というのは、普段は感じられないようにできているのかもしれない。

内容3

 と、内容2まで書いてから、中断するはめになって、15日になってから続きを書くわけだが。

 ノエイン、3話までみる。面白そうである。全部みたい。しかし、14日までで配信が終わってしまうということだった。まじか。ショック。

内容4

 例えば、本を読むという行為があったとする。
 そこに、目的があるのか、といえば、「ある」ともいえれば、「ない」ともいえる。メタ、とは、高次の、という意味になるが、次元を変えれば、考えることはいくらでも可能となる。その無限性にストップをかけるのが、目標である。
 目的とは、到達したいゴールである。到達するべき場所ともいえる。
 本を読むことは、何か技術や知識をつけるためなのか。そういう場合もある。目的が明確だ。しかし、そうでない場合もある。明確な目的がなくても、本を読むことは推奨されるものとされる。

 本だといいたいことが分かりにくいので、新聞はどうか。ちなみに僕は新聞を取っていない。不自由したことはない。しかし、新聞を取っていたら、もっとハイパー素晴らしい人間になっていたかもしれない。分からない。

 本を読むことだけでは、すごくもなんともない、とも言われる。100冊読もうが、1000冊読もうが、それを行動に結び付けないと、意味がないと言われる。本当にそうか。
 本を読むことと、行動とは、結びつかなければいけないのか。
 ここで、「いやそうではない」という結論にもっていきたいのではないことに注目。
 本を読むこと自体に価値がある、というありふれた(実はありふれていないが)結論にもっていくことに価値はない。
 読むこと自体価値があるとして、それが、一切記憶からそぎ落とされてしまったとしたら、それは、意味のある行為だったとは言えない

 意識、前意識、無意識、という区分において、意識にのぼらないからといって、「一切そぎおとされた」とは言えない表現(又は、記憶の3要素である記銘、保持、再生の、「再生が働かない」という表現でもいいが)は可能だ。

 それを無視して、いったんは、本を読んだ行為が、完全な無に、なったとしよう。それなら「無価値」だろう。

 そうではなくて、「ああ、面白かった」という感想はあったとする。
 そうしたときに、「それだけで」終わったとする。今後一生、その知識や技術に関しては、活かすことはなかったとする(思い出しはしても)。

 それは、意味があったことになるのか。
 なったのかもしれない。

内容4の続き

 物事を考えるときに、必ず、相対概念か、絶対概念かを、意識する必要があるということは、以前から書いていたことである。長い短い、を論じても意味がないのだ。いやしかし、「あの子かわいいよね」「いや好みじゃないな」的な、美醜の話題は、「コミュニケーション」としては意味があったりする。
 そんなことはどうでもいい。

 意味、というのも、相対概念である。
 意味の反義は、無意味、だから、意味と無意味は相対だ――ということではなくて、「意味」自体は、それだけで成り立つことはできない、ということである。

 法律の第一条には、その法律の目的と、それを実現する手続きと、究極の目的が書かれている。その目的を「意味」と表現するのであれば、意味は絶対的に存立する、かもしれない。――それは、その法律の中において。

 だから、意味は、絶対概念でもありえる。
 生きる意味、といったときに、「そんなもん、誰もわかりゃしない」とか「人それぞれ見つけ存在する」とか、そういった表現は可能だろうが、その次元(=その人にとっての次元)では、意味は、絶対概念として成りえる。

 ところが、人、というのは、単一存在では成り立ちえない不完全な存在であるがゆえに、「意味」はいかなるときも揺らいでしまう。ゆえに、意味とは、相対概念である、と、この記事においては位置付ける。

あとがき

(かっこ書きである。「故にこの記事では意味とは相対概念だと位置づける」(キリッ!)とかいって、何を書きたかったのか。一つ言えることは、この記事を書き始めるときに、動機は、「ルーチンだからやらなければならない」というものだけであった、ということだ。不純ッ! しかし、結果としては、僕にとって、やや面白い方向に倒れたと思う。奇跡的に。(僕にとっての)生きる意味を徹底して考える、というのがこのブログの目的(意味)だとしたときに、その意味自体は、単一で成り立たないという結論とするのは、やや不快感ではなかろうか。その問題は大きな問題だが、一つ、思うことがあるので書いておく。「忙しいんだよ馬鹿野郎!!」バカヤロウとは何か。誰に対してか。特定の誰かでも、特定の何かでもない。とにかく、バカヤロウという感じだ。バカヤロウとは何か。侮蔑愚弄なのか。そういうものではない。要はいつも書いているような、「いらいら」というやつだ。適切な表現が見当たらない。僕の性格としては、「計画」ないしは「目的」があって、それに向かっての行動があって、その結果があって、次に目指す方針がある、というのが理想である。今僕はPDCAのどれもがよく分からない。人生のPDCA、という表現をしたときに、ニーチェ氏の永劫回帰をって言葉が浮かぶ。特に意味もなく人間は人生のメリーゴーランドを回り続けているけど、脱出して超人になろうぜ、と。社会学者の宮台真司氏は、まったり生きてったほうが狂信的にならないしいいんじゃない、と。どっちやねん。こういう話になったとき、「ぶれる」のは、「超人」とか「まったり」という表現が、結局相対概念に過ぎないことである。いや突き詰めていけば、もっと具体的なことを言われているのだろう。しかし、具体的になればなるほど、「感覚」の問題になり、自分との個別具体的な環境の話になり、「他者のアドバイスは役に立たなくなる」のだ。この閉塞感を、僕はなんとか表現したいと思って書いている。要は、今思いついたが、簡単に表現すれば、毎日が、「明日は今日よりももっと良い日になる」という確信めいた気持ちが永続することが大事なのだ。今日と明日の短いスパンじゃなくてもいい。来月は、でも、来年は、でも、10年後は、でもいい。要は、未来と今との接線の傾きがプラスでればいいのだ。接線の傾きは微分で求められるよ! そうだ、だから人生を微分しよう! まぁ意味が分からない冗談はともかく、この人生のグラフ的な奴は、実際の軌跡である必要はない。要するに、「こういった動きをするんだろうな」という目測、予測、感覚、が問題なのだ。ああ、今大事なこと書いている気がする。要は、この「閉塞感」というのは、グラフが下降気味な「気がする」ことが問題なのである。例え、1,000万円があったとしても、毎年数十万円ずつ減っていっているのであれば、「不幸せ」なのだ。たとえ、今100万円しかなくても、毎年数十万円ずつ増えていれば、「幸せ」(充足)なのだ。今わかりやすく「お金」で例えたが、僕の場合、別にお金が増えても問題(閉塞感)は解決しない。じゃあ、何が必要なのか。というのが、僕にとっての「生きる意味を考える」ということなのである。うん。なんか分かりやすい気がする。後から読んで、どう思うかは分からないが、例えば、「生きる意味を考えるって、どういうことですか?」と質問されたときに、人生というグラフがあるとして、そのグラフのX軸が時間軸だとしたときに、未来に向かうグラフの傾きがプラスになる方法を探すってことだよ、と。……あれ、なんか分かりづらいな。もっというと、そのプラスマイナスの、Y軸ってなんなのよ、と思う。いやむしろ、そのY軸っつーのが何か、例えば人によってはお金かもしれないし、セックスした回数かもしれないが、それが何かを「実感する」ことが、考える、ということかもしれんな。しかし、こうやってユークリッド的に考えるのはよくなくて、その「Y軸」的なのは、移り変わるものかもしれないということだ。データ移行しよう。そのY軸の構成要素は、多角的多層的かもしれない。様々な要素が複合的にからみあって、「充足感」という数値を、脳内に、叩き出しているのかもしれない。――本文が乗っていないと、かっこ書きが長くなる現象は、法則として仲間入りしていいぐらいである)


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ルーチン更新が正しいと思う3つの理由
2019/10/06 18:33 | Comments(2) | 思考及び書くこと
今日の一言「自己啓発的なタイトルにしてみた」「多分内容との一致は望めない」

前書き

 人と会うのが面倒くさいと書きながら、まぁそれなりに(具体的に書けば2つ)初体験をした。
 具体的には書かないけれども、旅行的なサムシングと、イベント(パーティー)的なサムシングである。まぁこんなもんで後で思い出すには困らないと思う。

 あと、「オーシャンまなぶ」掲載中の分は、全部読んだ。十字道、ワンパンマン以来にめちゃ面白い作品だった。「フラットランド」をモチーフにした解説があったり、知的好奇心が刺激される漫画である。

 あと、身体が痛いのである。内臓的な痛みではないが、これもやっかいだ。集中力が奪われていく。

 あと、「1年前の記事」を読み返していると、「つまらなかった」。
 何故だろうか。「実感」がこもっていないからか。「実感」が今のソレと異なっているからか。

仕事

 クソ、忙しい。
 いやしかし、その忙しさを文章で表現するというのはやや困難だ。
 とりあえず、突発的な電話対応や「相談」が面倒くさい。

 面倒というか、今やっている仕事の中断が、再始動とリスケに面倒くささをかさましするのである。

 タスクが3つあって、10時間、5時間、8時間で、計23時間で終わるスケジュールだとして、その合間に2時間の作業が追加されたとき、単純な25時間では終わらないということである。
 何故そうなるかというと、作業準備と、思考のカムバックができない(難しい)からだ。



 忙しいという表現が抽象的なので、具体的に書けば、帰宅時間は22時~25時ぐらいである。
 割と忙しい部類に入ると思う。

創作

 妖怪人間ベムと、コップクラフトと、ヴィンランドサガ、あたりを視聴する。受け身過ぎる。
 しかし、どれも、最後まで見られていない。きっと、帰宅がある程度早ければ、ぼけーっとしながら夕食を食べつつ、見ているんだろうが、そういう時間が取れないため、じゃあ、土日とか休日のどっちか数時間を使って見ればよいのだが、そこまでの動機付けが与えられない。=要するに、「眠い」とか「ルーチン」に勝てない。


個人

 勉強を、するようにしている。
 しかし、上で少しふれたように、「眠い」に勝てない。



問題点

 こうやって書いていくと、仕事が悪い気がするな。
 早く帰れるように改善をした方が良いだろう。
 まぁしかし、期限が厳しいため忙しいプロジェクトが2つあって、それが過ぎれば、落ち着く想定ではある。――ところが、落ち着いたらきっとまた新たに課題が発生するのではないかという気がする。

 ――そういう意味で、「きりがない」と思う。
 このきりのなさというのは、正直、例えは悪いが、飲食店のアルバイト的なのではなければ、解決しないと思われる。

 今の仕事を辞めたとしても、別の仕事でどうなるかは分からない。「少し」改善されるかもしれない。23時帰宅が、21時帰宅になるかもしれない。
 しかし、そうなる前の、新しい環境へ慣れるためのコスト(ストレス的な)を考えて、果たして妥当かと思うと、要検討……どころか、現状は却下である。

 もっと多角的に考えれば、仕事より、単純に引越しをして、会社の近くに住めば、1時間αかかっている時間を、30分にでもできれば、それだけで楽になるだろう。

ルーチンが大事な理由

(1) その1
  基準(スタンダード)の構築及び維持になるため。

(2) その2
  思考を必要としない行動が可能になるため。

(3) その3
  感情を統制できるため。


 何がその人にとって、大切なことなのか、というのは分からない。
 その時の自分の行動が、適切かどうか、分からない。
 ――ああ、もう、つまらん。つまらんこと書いても仕方がないのに。

面白いことを書きたい

 物語に入り込めない現象を感じる。
 何か、「批判的思考」が強く生じるのである。ビジュアル的に強い漫画とかアニメとか映画はともかく、小説も本も最近読めなくなってきている。

 ――と思って、近くの本を手に取って読みだすと……あれ、まぁまぁ、面白いじゃん……となった。
 ふむ……やはり、精神的な「余裕度」「ゆとり」的なのが減少していることがいけないんだろうと思う。

眠いとの対立

 ようやく、書いていて少し面白くなってきた。
 そう、ルーチンの良さは、技術――というか、思考を、衰退させることを止めることにも役立つ。「維持」だ。

 疲れると、眠くなる。
 しかし、眠りは、問題を解決しない。

 他者に相談することが、根源的に役に立たないと僕は前から書いていたと思うけれども、それと眠りは密接に関係する。

「寝たら元気になるさ」
 というのは、一面ではもちろん正しいが、根源的解決には役に立たない。

 一方で、眠りは、眠いという感情的動きは、身体的にも根付いているため、いかんとも制御しがたい。
 対策として有効なのは、「風呂に入る」「エアコンの温度を下げる(めっちゃ涼しくする)」「外に出て歩く」だ。
 それ以外、「ない」。あったら教えてほしい。

 栄養ドリンクも、効果はなくはない。ただ、あれは、眠いが原因の頭痛や身体のだるさを軽減してくれる効果であると思う。

記憶の外部保存

 記憶は、記銘、保持、再生という3つの過程がある。
(僕が、「インプット」といっているのは、記銘の部分だ。長期記憶、短期記憶といったものがあるが、これは少し概念が違う)

 記銘と保持の違いは、難しい部分だと思う。僕は、瞬間的なインプットが、記銘であり、ある程度の期間維持できていることを、保持だと考えている。

 記憶は、脳の海馬に保持されて、古い記憶になると大脳皮質(外側)に移行するという。

 情報の記銘の前線基地にあたるのが、五感の器官であって、例えば眼。視覚情報は海馬にためられる、その過程に、感情という要素が関係している。

 サブリミナル効果といわれる、無意識の働きだ。好き、嫌いという判断は、「思考」するのではなく、無意識の内に判断がなされているのである。


 さて、そうした記憶と、「感情」との境界線はどこにあるのだろうか。
 記憶を、まるまる何か別の装置や媒体に保存できたとき、そこに、「感情」も移行できるものなのか。たぶん、無理な気がする。そして、それをなしているのが、自我であり、攻殻機動隊的に言えば「ゴースト」である。

 我々人間は、たんぱく質の塊であるが、そこには、神秘的な現象が起こっているのである。
 神秘的といってしまうと、オーシャンまなぶのグラーヴェ氏はお怒りになるだろうが、しかし、人類にまだ解明できていない部分だと思われる。

感情とは何か

 好きなことを仕事にしなさい、とか、ホリエモン氏などは言うだろうが、そもそも、「好き」とは何かということを、僕は懐疑する。

 秋だ。焼き芋がおいしい季節だ。食べる、旨い。これは、僕という自我における、焼いたサツマイモが「好き」という事実だろう。
 そう考えたとき、「好き」ということを懐疑するというのは、詭弁に思われることである。

 人類普遍の6原則について復習しよう。
 人を傷つけてはいけない、復讐はしてもいい、善行には返礼すべき、嘘はつかない、約束は守る、弱者を守る。
 おお、1か月前ぐらいに復習してから、一切思い返していなかったが、スムーズにアウトプットできた。よかったよかった。こうやって繰り返していくと、長期記憶(大脳皮質)に移行するのだろうか。それとも、海馬にとどめおくことができるということだろうか。記憶に関しての現代科学的知見がまとまった情報をインプットしたいな。


 話は戻るが、「好き」というのは幅広い。おいしい食べ物が好き、なのは生理的次元である。人と会話するのが好きというのとは、次元が違う。単純接触効果というのも心理学にあるらしく、長く触れているとと好きになるということもあるようだ。

「好き」は変化しうる。

 そうした曖昧なものを根拠に、生活をしていいのか。人生を送っていいのか。疑問が生じる。

 感情とは何か。それは「その人自身」(自我)ではなかろうか。

あとがき

(かっこ書きである。面白くない記事で申し訳ない限りである。しかし、「感情と記憶」というテーマは面白いと思う。環境、感情、記憶。どれもが密接に関わりあう。環境と感情のインタフェースが「感覚」だ。感覚を適切に操作できれば、感情を操作し、やがて記憶も操作できるようになるのかもしれない。一方記憶。これはむしろ、機械的な情報のように思われる。しかし、ハードディスクに保存されている1or0の情報を読み込むととは違う。結局、記憶を保存したところで、読み込むには、視覚情報等が必要になるのである。インタフェースは視覚情報による「感覚(器官)」となる。そうではなくて、電脳的に、インタフェースレスに、情報の読み書きができるとすれば、それは、感情への影響も増大するのは明白である。グロい映像情報は、視覚情報としてのインタフェースだが、それをシームレスに脳内に流し込めるとすれば、それは、現実として眼で見たのと、ほぼ同じ意味を持つのではないか。そうなれば精神攻撃爆弾のようなことも可能だ。自分の大切な子供が拷問の末に殺された動画情報が流し込まれたときに、それがフェイクである可能性を「思考」として推測できたとしても、その圧倒的情報のインプットによって、感情が破壊されてしまうのである。――とかって物語をもっと書きたいし読みたい。人間の感覚を拡張する何か情報革命は今後ないのだろうか。それがAR(拡張現実)というものだが、僕が今思っているのはそれとはちょっと違う。視覚情報以外の部分での何か)


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なにもしたくないことがしたい
2019/09/29 21:02 | Comments(0) | イライラ対処
今日の一言「やる気は必要か」

前書き

 PCでマイブログ見ると、サイドバーに、「〇前の記事」的なリンクがある。これはブログのプラグインではなく、自作の簡易プログラム(javascript)だ。
 ま、それで、先月の記事を読んでみると、なんだかクレーム対応して取り急ぎうまくいったようだ。よかったよかった。
 ――後日談で、同じ人から再度かかってきて、「やっぱりこういうケースは云々!」ってあって、「まぁそうだけどさぁ、こういう風に書いてあるよね」(もちろん全部敬語だ)的な感じの対応が1時間ぐらいあったことは、当時書いていて知る由もなかったのであった(物語風に)。

 知る由はなかったが、「今回うまくいって、次もうまくいくか分からないし」とか、まぁ想定どおりではあり、別に驚くことでもない。

 とかって、どうでもいいことを書いてしまうが、前書きだし、仕方がないか。

何もしたくない

 モチベーション、やる気、目標、将来、意味。
 ほんっとどうでもいい。
 マジやる気でねぇ。

 って感じだった。いや過去形でもないが。
 とりあえず、ブログ書くのは、ルーティーン(ルーチン・日課)的なやつだからまぁできるけれども、ほんっと「どうでもいい」って表現が、よく心を表現している気がする。


 そして僕はふと思った。
 僕が「したいこと」は、何もしない、ということなのではないかと。


 ――と、いうよりも、思うに、「人と関わりたくない」という気持ちが強い気がする。

 ネットはどうなのか。
 ネットは特殊であるといえる。メールもそうだが、「相手」の空間同一性がない。
 電話も空間性はないが、「時間同一性」がある。

 他者との時空の同一性がない点が、ネットの最大最高のメリットである。

何故何もしたくないのか

 なぜなのか。

何故人とかかわりたくないのか

 なぜなのか。
 面倒くさいからである。

 あと、「俺がしたいこと」と違うからである。
 俺がしたいこととは何か。それは、明確になっていない。しかし、なんか違うことは間違いなく分かるのである。

 広く言えば、俺は、ものすごく面白い物語を創りたいのであり、ものすごく面白い物語に触れたいのである。

他者の人生ほど面白いものはないのではないか

 え、それはマジでいってんのか。
 現実生きている人間に興味はない――というのは極論過ぎて頭おかしいが、少なくとも、周囲に面白い人間はいない――って書くと涼宮ハルヒのようであるが、まぁやさぐれているときの気分としては遠からずである。

 

何もしたくない(2回目)

 この記事は、カテゴリも「イライラ対処」だから、とにかくイライラを表現することが目標である。
 何故イライラするか。仕事がめんどくせぇのもあるが、なんか10月も休日に予定があることに起因する気がする。
 じゃあ、やめちまえ、ということになるのだが、……まぁ、大人の事情でなかなかそうもいかないのである。



 ――というかだな、「やめちまえ」の許可が出始めると、「俺は人間やめるぞ」状態になる気もする。「ケモノノヨウニヒキコモリタイ」。



何もしたくないとは何か

 俺に、今ここに、2時間ぐらい時間があるとする。

 そう2時間。2時間なんて、1日24時間なんだから、睡眠時間削るでもなんでも、すぐにねん出できそうなものだ。

 だが、切り取られた2時間は、なんか、その、違う。


 何もしたくないというのは、「すべて」と隔絶した時ということなのである。
 時間制限付きの「何もしたくない」などは、邪道どころか愚弄である。


何もしたくないことを表現する

 最高の状態を考えたい。
 それが実現するかどうかは別として。
 どういった状態が、僕に、最高の人生であると感じさせてくれるのか。

「全感覚の遮断」

 ――それは、死ではないか……とよぎるが、表現が稚拙すぎるので、もう少し真面目に考えたい。
 何もしたくないとは、何なのか。

 呼吸をやめたいということなのか。いや似た心境として、食事をしているとき、「食べるのも面倒くさい」と思うことは皆よくあることだろう(いや「よく」は、ないって)。

 呼吸をやめたい、とは思ったことはない。
 食事、と呼吸とは、大きな乖離があるのだ。食事には、主体的な意思がありそうだ。呼吸は無意識だからかもしれない。

 そう、だから、呼吸をしたいとか、したくないとか、そういう次元ではないのである。
 呼吸は無意識に、しているのだ。
 だからこそ、武術などで、呼吸すらも支配することが重要であったりするのだという、たぶん。

眠いとは違うのか

 何もしたくないというのは、眠りたい、というのとは違うのか。違う。

 眠ったあとに、頭がすっきりすることはある。
 しかし、本当に精神的にまいっているときは、眠りにつくときも、眠っていても、眠りから覚めても、気分はまいっているのである。


 そもそも、「何もしたくない」ということは、「何かをしている」ということなのか。

 例えば、電車に乗って帰宅するとき、「ああ何もしたくない」と思う。
 しかし、別に電車に乗っているだけだ。車掌さんに感謝こそし、自分は「何もしていない」のではなかろうか。

 いや違う。「電車に乗っている」ことをしているのだ。また、「面倒くさいことを考えている」ことをしているのだ。
 何もしたくないとは、意識を無にしたいということではなかろうか。

坐禅しよう

 つまり、最高の状態とは、坐禅である。
 以上。

 ……おぉ……そうだったのか。
 ちなみに、上の結論的なことは、当然、「前書き」書いていたあたりで、一切考えついてもいんかったことである。思考、面白きかな。

あとがき

(かっこ書きである。寝るのと、坐禅とは違うのか。睡眠時間の方が大切ではないか。ゴウタマ氏や道元氏が聞いたら卒倒しそうであるが、改めて違う、と言っておいたほうがよいだろう。記事本文で書いた通り、寝たところで、思考が滅入っているときは、眠りは有効な解決手段ではないのである。――とりいれてみよう、と思いつつ、今週は野暮用のせいで、できない日が複数ありそうである。だが、坐禅(と書くと、宗教じみて気持ち悪いと思われそうだから、「瞑想」でも、表現はどうでもいいのだが)を日課に取り入れてみることは、検討余地ありそうだ。心が、得体のしれないイライラ、もやもやで、乱れている。「自分」が乱れているときに、「他者」の働きかけは無意味である。これは、他者が悪いのではない(といっても、だれにもつたわらない)。「自分」という存在が崩れかけているときに、他者が立て直してくれるというのは人間存在の冒涜である。他者の働きかけが有効なのは、「自分」の核(コア)がしっかりと形成されている状態が故である。今すぐにでも自殺しそうな緊急性を除いて、他者は役に立たない。話は変わるが、「可能性」という呪いがある以上、自殺は論理的にできない。一方で、「理解」(または「自我の確立」)というのは、可能性をつぶしていく作業である。というわけで、瞑想を検討する。その取り組みと結果を来週書くことにする)

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