今日の一言「落ち着かないので複数の記事をまとめよう」「風が強い日」
人間の皮が剥げそうだ
一言感想。「分かる」。特に、
「げだもののようにひきこもりたい」
という点が面白く「よーわかるなー」っと思った。
そう、「ひきこもりたい」という気持ち。
もう一つ、「人と会うと疲れる」というルポライター氏の記事。
生きづらくても生きていく。
要は、先日いただいたコメントにもあったが、「人はそれしかできない」という点も関係しそうだ。
しかし、そうは言っても、他者も同じように感じているかどうか、という点は、あまり考慮する必要もない。要するに疲れるものは疲れるのだ。
よく言われるところの、「素直にさらけ出していけばいいじゃない」というのも、全く当たらない。そういう次元の話ではないのである。
むしろ、重要な点は、「自分をさらけ出せば」「今すぐに帰りたい」となることである(かっこ笑い)。
家族や、彼女と、家でゆっくり過ごすのは悪くない、よいことである。しかしそれはむしろ、「一人」の延長である。
家族等と、その他他人とを一緒にできるわけはなかろう。
先の無責任なアドバイス氏における、「自分をさらけ出せばいいじゃない」は、他者を他者と思わなくてもいい、という支離滅裂さがある。
他者は他者だから、相応の刺激があるのであり、重要なのだ。家族の安定性や、居心地の良さとは別である。
――ということと、「人と会うと疲れる」とか、「仕事めんどくせぇ」とか、「あと何年生きるんだろう」とかいう「空虚感」というのは、別問題である。
今を生きることに必死にならなければいけない、紛争地帯とか飢餓とか、パワハラ上司とか幼児虐待とか、ひっでぇ事象と比べて、「ああ、自分はましなんだなぁ」とかって思考停止は、もうやめようじゃないか、ということを、僕は、カクヨムでの投稿の、1話目で書きたかったのである。たぶん。
それはそうと、人等との繋がりは断ち切れない。
そうしたときに、こうした気質性質は、治療されるべきか。皆がパーティーピーポーになるべきかのか。
シロクマ先生でさえも、「あああひきこもりてええ」ってなるのだから、別に治療されるべきではないのではないか。――しかし、ある程度社会的地位がある人たちは、自由が許される。ホリエモン氏らが、「好きなように生きてそれを仕事にできなきゃクソ以下だぜ」と好き勝手言っても、誰しもそう振舞えるほどのステータスも財力も環境もない。「うぜぇ、そういって言い訳してばっかいるからクズのままなんだ」って言われるだろうが、たぶん、平行線になる部分である。
こっちの方がよほど問題であることを最近思う。
いや、自分の記事を丁寧に読み返せば、数年前からちゃんとそのあたりに気づいてはいるように思う。思うが、明確に、何度も、「問題だ!」と主張していなかったから、今回は主張したい。
どういう状態が望ましいのか。好きなのか、幸せなのか。
幸福について
これは、2010年の記事であるが、まぁ未だに、僕が「ああ、そうだな」と思って違いはない。
僕の言葉で、「相対概念」といってるものがあるが、要するに、長い短いとかのことだが、幸福もまた、相対概念である。
なんか、そう、最近の記事でも、自分自身でもそういった傾向で書いてきた気がするが、なんというか、別に「幸福」を僕は求めているわけではない――というのはまた違うのだけれども、「幸福」という概念自体に執着しようというのではないのだ。
ああ、そうそう、最近では、「満足」という言葉を使っていたか。
満足、もまた、相対概念である。求めても、得られるものではないのである。
それが、僕の中には、アカシックレコードばりに底流にあるわけだが、そう、最初の「人といて疲れる」的な意味における「人」(他者)に、そこまでの価値観の共有を求めるのは不可能だし、失礼だろう。
そして、僕自身も別に理解してもらおうと思ってるわけではないから、理解してもらうための努力をするつもりもない、する必要もないと思う。
――というか、こういった問題は、誰かと会話をしていく中で見いだされるものでもなく、解決するものでもない。これらには、書物は有効だと思う。――しかしながら、書物でさえも、所詮は「他人」である。「ああ、この表現は使えるかな」ぐらいの役にしかたたない。
それほど難しい問題を、このブログでは取り扱っているのだ――と書くと気どり過ぎなわけだが、そういった面倒くさい問題に立ち向かう必要がある人を、僕は無条件で応援する。
あ、たぶんコレ(しんざき氏の記事)だ。
そうそう。他者に興味ないんだよな、俺。
いや、ある。ある人はいる。たくさんいるぞ! ――いるけれども、現実には少ない。ってか、「仕事」というコミュニティにおいて、他者に興味はない。
うーん……なんかちょっと違うような。興味はなくはなくはない……というか。
孤立したら仕事も進みにくいしな。
っでもなー、そういった気を遣うことができる人が出世するとか、管理職に向いている、という傾向があるんだとしたら、俺は全然向いてないと思う。
――いや、そんなこともない、というか、「人に役に立つことはしたい」と思うわけだが、……うーむ、このあたりを上手く表現できないな。このあたりをうまく表現しないと転職はできないな(笑)。
前書き
この記事では、いつも大事にしている「僕の考え」というのは、あまり踏み込めない気がする。とりあえず、ばたばたした日常の中で、スマホでながら見して「おっ」とか「むっ」とか思った記事を抜粋しておくことにとどめよう。そう決めると、あまり「書く」ことに積極的な気持ちになれない――というか、なんもする気が起きないときにも、何かができる、そんな気がする。人の皮
シロクマさんの記事。人間の皮が剥げそうだ
一言感想。「分かる」。特に、
「げだもののようにひきこもりたい」
という点が面白く「よーわかるなー」っと思った。
そう、「ひきこもりたい」という気持ち。
もう一つ、「人と会うと疲れる」というルポライター氏の記事。
生きづらくても生きていく。
要は、先日いただいたコメントにもあったが、「人はそれしかできない」という点も関係しそうだ。
しかし、そうは言っても、他者も同じように感じているかどうか、という点は、あまり考慮する必要もない。要するに疲れるものは疲れるのだ。
何故疲れるのか
これは、上の記事で触れられているように、「楽しい」「楽しくない」は関係ない。よく言われるところの、「素直にさらけ出していけばいいじゃない」というのも、全く当たらない。そういう次元の話ではないのである。
むしろ、重要な点は、「自分をさらけ出せば」「今すぐに帰りたい」となることである(かっこ笑い)。
家族や、彼女と、家でゆっくり過ごすのは悪くない、よいことである。しかしそれはむしろ、「一人」の延長である。
家族等と、その他他人とを一緒にできるわけはなかろう。
先の無責任なアドバイス氏における、「自分をさらけ出せばいいじゃない」は、他者を他者と思わなくてもいい、という支離滅裂さがある。
他者は他者だから、相応の刺激があるのであり、重要なのだ。家族の安定性や、居心地の良さとは別である。
治療されるべきか
一方で、人は生きていくのに、多くの人の繋がりが必要だ。このブログを書くための電気も、発電所ではある程度オートメーションされているのかもしれないし、特に電線を伝ってくる電気に人の意思があるわけではないが、それでも、維持運用してくれている人のおかげだ。――ということと、「人と会うと疲れる」とか、「仕事めんどくせぇ」とか、「あと何年生きるんだろう」とかいう「空虚感」というのは、別問題である。
今を生きることに必死にならなければいけない、紛争地帯とか飢餓とか、パワハラ上司とか幼児虐待とか、ひっでぇ事象と比べて、「ああ、自分はましなんだなぁ」とかって思考停止は、もうやめようじゃないか、ということを、僕は、カクヨムでの投稿の、1話目で書きたかったのである。たぶん。
それはそうと、人等との繋がりは断ち切れない。
そうしたときに、こうした気質性質は、治療されるべきか。皆がパーティーピーポーになるべきかのか。
シロクマ先生でさえも、「あああひきこもりてええ」ってなるのだから、別に治療されるべきではないのではないか。――しかし、ある程度社会的地位がある人たちは、自由が許される。ホリエモン氏らが、「好きなように生きてそれを仕事にできなきゃクソ以下だぜ」と好き勝手言っても、誰しもそう振舞えるほどのステータスも財力も環境もない。「うぜぇ、そういって言い訳してばっかいるからクズのままなんだ」って言われるだろうが、たぶん、平行線になる部分である。
好きなこととは何か
と、いうよりも、問題にすべきなのは、その「好きなこと」である。こっちの方がよほど問題であることを最近思う。
いや、自分の記事を丁寧に読み返せば、数年前からちゃんとそのあたりに気づいてはいるように思う。思うが、明確に、何度も、「問題だ!」と主張していなかったから、今回は主張したい。
どういう状態が望ましいのか。好きなのか、幸せなのか。
幸せについて
で、この、幸せ、については、僕の古い記事を一度参照しておくべきだろう。幸福について
これは、2010年の記事であるが、まぁ未だに、僕が「ああ、そうだな」と思って違いはない。
僕の言葉で、「相対概念」といってるものがあるが、要するに、長い短いとかのことだが、幸福もまた、相対概念である。
なんか、そう、最近の記事でも、自分自身でもそういった傾向で書いてきた気がするが、なんというか、別に「幸福」を僕は求めているわけではない――というのはまた違うのだけれども、「幸福」という概念自体に執着しようというのではないのだ。
ああ、そうそう、最近では、「満足」という言葉を使っていたか。
満足、もまた、相対概念である。求めても、得られるものではないのである。
それが、僕の中には、アカシックレコードばりに底流にあるわけだが、そう、最初の「人といて疲れる」的な意味における「人」(他者)に、そこまでの価値観の共有を求めるのは不可能だし、失礼だろう。
そして、僕自身も別に理解してもらおうと思ってるわけではないから、理解してもらうための努力をするつもりもない、する必要もないと思う。
――というか、こういった問題は、誰かと会話をしていく中で見いだされるものでもなく、解決するものでもない。これらには、書物は有効だと思う。――しかしながら、書物でさえも、所詮は「他人」である。「ああ、この表現は使えるかな」ぐらいの役にしかたたない。
それほど難しい問題を、このブログでは取り扱っているのだ――と書くと気どり過ぎなわけだが、そういった面倒くさい問題に立ち向かう必要がある人を、僕は無条件で応援する。
他者に興味はあるか
もう一つ。この記事に関して、どこで読んだか思い出せないのであるが、――確かBooks APPさんだったような気がするが、見つけられない。あ、たぶんコレ(しんざき氏の記事)だ。
そうそう。他者に興味ないんだよな、俺。
いや、ある。ある人はいる。たくさんいるぞ! ――いるけれども、現実には少ない。ってか、「仕事」というコミュニティにおいて、他者に興味はない。
うーん……なんかちょっと違うような。興味はなくはなくはない……というか。
孤立したら仕事も進みにくいしな。
っでもなー、そういった気を遣うことができる人が出世するとか、管理職に向いている、という傾向があるんだとしたら、俺は全然向いてないと思う。
――いや、そんなこともない、というか、「人に役に立つことはしたい」と思うわけだが、……うーむ、このあたりを上手く表現できないな。このあたりをうまく表現しないと転職はできないな(笑)。
あとがき
(かっこ書きである。でも、だな。今回の記事は、いくつかの記事を切り張りしたリンク集みたいなもんであるが、全部関連しているともいえる。人間社会で生きていくにおいて、幸福的であるには、他者に興味をもつべきである、という前提に縛られていると思う。先日、「君は、様々なものに縛られすぎのように見えるよ」というコメントを頂いたわけであるが、その自縛の一つが「他者性」であるのではなかろうか。いやぁしかし、それは俺も、切って破いて捨てたいよ(かっこわらい)。捨てたいけれども、捨てたら、それって「死ぬ」のと同義にならないか、ということで慎重に検討しているのである。いやいつも極端に思われることを書いてしまうが、例えば次に、「ようし、俺は好き勝手自分の生きたいように生きるぞ!」というのを「正解」としたとしても、今回の記事で触れた、「好きなことって何よ」という問題にぶちあたるのである。要は、袋小路のように陥っている。ええい面倒くせえやつめ、じゃあもう考えること自体やめちまえ、という意見もごもっともである。しかし、これは、休日に何もしたくないとずっと布団の中でうずくまっていても、睡眠薬を服用してずっと寝続けたとしても、思考が不要になるということにはならないのである)PR