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なにもしたくないことがしたい
2019/09/29 21:02 | Comments(0) | イライラ対処
今日の一言「やる気は必要か」

前書き

 PCでマイブログ見ると、サイドバーに、「〇前の記事」的なリンクがある。これはブログのプラグインではなく、自作の簡易プログラム(javascript)だ。
 ま、それで、先月の記事を読んでみると、なんだかクレーム対応して取り急ぎうまくいったようだ。よかったよかった。
 ――後日談で、同じ人から再度かかってきて、「やっぱりこういうケースは云々!」ってあって、「まぁそうだけどさぁ、こういう風に書いてあるよね」(もちろん全部敬語だ)的な感じの対応が1時間ぐらいあったことは、当時書いていて知る由もなかったのであった(物語風に)。

 知る由はなかったが、「今回うまくいって、次もうまくいくか分からないし」とか、まぁ想定どおりではあり、別に驚くことでもない。

 とかって、どうでもいいことを書いてしまうが、前書きだし、仕方がないか。

何もしたくない

 モチベーション、やる気、目標、将来、意味。
 ほんっとどうでもいい。
 マジやる気でねぇ。

 って感じだった。いや過去形でもないが。
 とりあえず、ブログ書くのは、ルーティーン(ルーチン・日課)的なやつだからまぁできるけれども、ほんっと「どうでもいい」って表現が、よく心を表現している気がする。


 そして僕はふと思った。
 僕が「したいこと」は、何もしない、ということなのではないかと。


 ――と、いうよりも、思うに、「人と関わりたくない」という気持ちが強い気がする。

 ネットはどうなのか。
 ネットは特殊であるといえる。メールもそうだが、「相手」の空間同一性がない。
 電話も空間性はないが、「時間同一性」がある。

 他者との時空の同一性がない点が、ネットの最大最高のメリットである。

何故何もしたくないのか

 なぜなのか。

何故人とかかわりたくないのか

 なぜなのか。
 面倒くさいからである。

 あと、「俺がしたいこと」と違うからである。
 俺がしたいこととは何か。それは、明確になっていない。しかし、なんか違うことは間違いなく分かるのである。

 広く言えば、俺は、ものすごく面白い物語を創りたいのであり、ものすごく面白い物語に触れたいのである。

他者の人生ほど面白いものはないのではないか

 え、それはマジでいってんのか。
 現実生きている人間に興味はない――というのは極論過ぎて頭おかしいが、少なくとも、周囲に面白い人間はいない――って書くと涼宮ハルヒのようであるが、まぁやさぐれているときの気分としては遠からずである。

 

何もしたくない(2回目)

 この記事は、カテゴリも「イライラ対処」だから、とにかくイライラを表現することが目標である。
 何故イライラするか。仕事がめんどくせぇのもあるが、なんか10月も休日に予定があることに起因する気がする。
 じゃあ、やめちまえ、ということになるのだが、……まぁ、大人の事情でなかなかそうもいかないのである。



 ――というかだな、「やめちまえ」の許可が出始めると、「俺は人間やめるぞ」状態になる気もする。「ケモノノヨウニヒキコモリタイ」。



何もしたくないとは何か

 俺に、今ここに、2時間ぐらい時間があるとする。

 そう2時間。2時間なんて、1日24時間なんだから、睡眠時間削るでもなんでも、すぐにねん出できそうなものだ。

 だが、切り取られた2時間は、なんか、その、違う。


 何もしたくないというのは、「すべて」と隔絶した時ということなのである。
 時間制限付きの「何もしたくない」などは、邪道どころか愚弄である。


何もしたくないことを表現する

 最高の状態を考えたい。
 それが実現するかどうかは別として。
 どういった状態が、僕に、最高の人生であると感じさせてくれるのか。

「全感覚の遮断」

 ――それは、死ではないか……とよぎるが、表現が稚拙すぎるので、もう少し真面目に考えたい。
 何もしたくないとは、何なのか。

 呼吸をやめたいということなのか。いや似た心境として、食事をしているとき、「食べるのも面倒くさい」と思うことは皆よくあることだろう(いや「よく」は、ないって)。

 呼吸をやめたい、とは思ったことはない。
 食事、と呼吸とは、大きな乖離があるのだ。食事には、主体的な意思がありそうだ。呼吸は無意識だからかもしれない。

 そう、だから、呼吸をしたいとか、したくないとか、そういう次元ではないのである。
 呼吸は無意識に、しているのだ。
 だからこそ、武術などで、呼吸すらも支配することが重要であったりするのだという、たぶん。

眠いとは違うのか

 何もしたくないというのは、眠りたい、というのとは違うのか。違う。

 眠ったあとに、頭がすっきりすることはある。
 しかし、本当に精神的にまいっているときは、眠りにつくときも、眠っていても、眠りから覚めても、気分はまいっているのである。


 そもそも、「何もしたくない」ということは、「何かをしている」ということなのか。

 例えば、電車に乗って帰宅するとき、「ああ何もしたくない」と思う。
 しかし、別に電車に乗っているだけだ。車掌さんに感謝こそし、自分は「何もしていない」のではなかろうか。

 いや違う。「電車に乗っている」ことをしているのだ。また、「面倒くさいことを考えている」ことをしているのだ。
 何もしたくないとは、意識を無にしたいということではなかろうか。

坐禅しよう

 つまり、最高の状態とは、坐禅である。
 以上。

 ……おぉ……そうだったのか。
 ちなみに、上の結論的なことは、当然、「前書き」書いていたあたりで、一切考えついてもいんかったことである。思考、面白きかな。

あとがき

(かっこ書きである。寝るのと、坐禅とは違うのか。睡眠時間の方が大切ではないか。ゴウタマ氏や道元氏が聞いたら卒倒しそうであるが、改めて違う、と言っておいたほうがよいだろう。記事本文で書いた通り、寝たところで、思考が滅入っているときは、眠りは有効な解決手段ではないのである。――とりいれてみよう、と思いつつ、今週は野暮用のせいで、できない日が複数ありそうである。だが、坐禅(と書くと、宗教じみて気持ち悪いと思われそうだから、「瞑想」でも、表現はどうでもいいのだが)を日課に取り入れてみることは、検討余地ありそうだ。心が、得体のしれないイライラ、もやもやで、乱れている。「自分」が乱れているときに、「他者」の働きかけは無意味である。これは、他者が悪いのではない(といっても、だれにもつたわらない)。「自分」という存在が崩れかけているときに、他者が立て直してくれるというのは人間存在の冒涜である。他者の働きかけが有効なのは、「自分」の核(コア)がしっかりと形成されている状態が故である。今すぐにでも自殺しそうな緊急性を除いて、他者は役に立たない。話は変わるが、「可能性」という呪いがある以上、自殺は論理的にできない。一方で、「理解」(または「自我の確立」)というのは、可能性をつぶしていく作業である。というわけで、瞑想を検討する。その取り組みと結果を来週書くことにする)

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