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氷は冷たいから痛いんだ
2020/05/10 05:02 | Comments(2) | イライラ対処
今日の一言「コーヒーの話」

まえがき

 午前3時……これは、朝なのか、夜なのか分からないが、取り敢えず、起きている人は少ない時間だろう。
 この時間に、「頭を白紙にしたい時のBGM」をかけながら、ブログを書くということほど、人生の幸せな時はないのかもしれない(大層大仰な表現)。

 僕はコーヒーが好きだ。これはまぁ、前から書いているし、多くの人がそうだろうし、特に身バレするようなこともなければ、珍しいことでもないだろう。
 でまぁ、家でもドリップ――といってもコーヒーメーカーで作るのであるが、アイスコーヒーの作り方について、その機械の説明書に書いてあって知ったのだが、先にポッドに氷をいっぱいにして、通常の方法でドリップするのである。

 へー。っと思ってやってみたら、確かに、上手に作れる。旨い。

 そろそろ、アイスコーヒーの時期になってきた。
 ということで、氷をいっぱいにして、作るのであるが、その氷も少しこだわって、スーパーなどで売っているロック氷を買ってくる。

 でその、ロック氷なんだが、冷たいんだ。

アイスコーヒーの氷の話

 なんかその、コメントを頂いた、そちらに返信せねばと嬉しくなる。
 もともと、何か書こうと思っていた気がするが、思い出せないから、とりあえず、この記事はもうコーヒーの話で終始しようかと思う。

 コーヒーの話ですらないんだ、氷なんだ。

 いやあの、ロック氷を、スーパーで買ってくるわけ。
 ロック氷って、何かというと、まぁ割と大きめの氷なわけですよ。ごつごつとしたやつ。
 なんでわざわざ氷を買うかというと、大きめの氷の方が、アイスコーヒーが美味しくできるから(理由は、温度というか、大きい氷の方が溶けにくいから、コーヒーが薄まらないだろうと思われるから)。

 スーパーから帰るのに時間があるわけ。
 そうすると溶けるの、わずかながらに(大きい氷の方が溶けにくいと書いたことと矛盾するようだが、まぁ、わずかながら、という意味)。

 そうすると、氷同士がくっつくわけ


 くっついた氷を、引きはがしながら、コーヒーポッドに入れていくわけ。

 これが、冷たいんだよ、手が。

手が冷たいという話

 ここまで書いて、カテゴリを、「イライラ対処」にした。
 いや、まぁ、その、そんなにイライラしていないんだけど、「思考」カテゴリとは程遠い内容だと自負したのである。

 いやでも、手が冷たいのは本当である。本当に「痛い」。

 であれば、もう冷凍庫で作れる小さい氷でいいんじゃないか、ということにもなるが、まぁそもそも冷凍庫で氷を作るのが若干面倒というのもある。


 それで、何故「痛い」のかと思いを巡らせた。

 それは、温度変化である。

 体温は、37.5℃を以上だと通常平熱ではないというらしいが、それと、0℃の氷とでは、温度が大きく異なる。

 熱は、中間を目指す。高い温度は低い温度に。低い温度は高い温度に。

 というわけで、僕の「痛い」手は、氷のほうに熱を奪われてしまうのだ。

 だから痛いのだ。
 だが、そこからもう一歩考えたい。

 温度が奪われるのは何故痛いのか。
 それは、僕らの細胞が壊れるからだ。

 分子活動。細胞の活動。
 それには適切な温度がある。0℃は、到底細胞が活動できない温度。

 急速に活動ができない温度に変化していくことによって、人間の痛みセンサーが「危険」判定し、脳に「痛い」という状況を伝達するのだ。

あとがき

(かっこ書きである。くっついたロック氷を上手く剥がす方法はないものだろうか、という記事であった。割とよくまとまった記事だと思う。言いたいことは分かりやすいだろう――それが面白いかは別として。固い部分に袋のまま叩きつければいいのでは? と思うだろう。実際それもやってはいるのだが、割と固く引っ付いてしまっていると、がんがん叩きつけても中々剥がれてくれないのである。朝4時にがんがんするのもどうかと思うし(近所迷惑)。精巧なアンドロイドを作ったとして、冷たいことに対しての痛みというのをインプットする必要はないだろう。0℃という温度でも活動できるとしたら、わざわざ痛いと思う必要はないのだ。痛みは、危険を知るためのシグナルだ。危険でなければ痛くなくてよい。――ただし、「精巧な」アンドロイドの場合であれば、その振る舞いが、それを見る側にとって人間的であればあるほど、日常的にアンドロイドと人間との違いを気にする場面が減るはずだ。となると、平然と作業しているアンドロイドを見て人間が不意にその、冷たい氷を触ってしまうかもしれない。氷ならば「冷たい!」となってすぐ手を放すが、逆に熱いものだったりすると一瞬で細胞構造が壊れてしまうかもしれない。――そんな当たり前のこと、と思うが、アンドロイド製造メーカーは、それによってやけどをしてしまった人に訴えられるかもしれない。社会問題になり、製造物責任法(PL法)に抵触し、今後アンドロイドを製造する際は、「痛み」に敏感にする機能を取り付ける必要が発生するかもしれない。ただ、それはコスト的にどうなのか。人間側が気を付ければいいのではないか。なんでもメーカー側に責任があるのか。法律で規制する必要があるのか。安全を求めることは重要だろうが、過剰な安全は、身動きを取りづらくし、正常な発展の阻害となる場合があるのではないか。テンキーの配置(1234……の並び)が逆のキーボードがあって、それによって数値の誤入力をし損害が発生した場合、キーボードメーカーが悪いのか。そんなキーボードがあったら確かに悪意があるような気はする(わざわざ表記された数字は見ないだろうから。でも画面は見るか))

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日々変化する
2020/05/08 06:12 | Comments(5) | 思考及び書くこと
今日の一言「フラットな状態とは」

まえがき

 身体的・精神的に落ち着いてきた、と先日書いた気がしたが、また落ち着かなくなった。
 思うに、おそらく、「フラット」という状態が、もはや幻想なのではないかと思った。

 つまり、僕が「落ち着いた状態」と望む状態というのは、現実的には存在しないものなのではないか、ということだ。
 よくよく思い出してみると、学生時代は、ほぼ毎日のように新しいことに出会っていた。
 そもそも学校の授業、という意味であれば、単元は毎日進む。かつ、家での勉強というのも前提とされていた。予習復習大事、よく聞いた言葉だろう。

 そう思えば、勉強は「きりがない」ことの筆頭選手だったはずだ。
 何せ、たとえクラスで一番点数が良いとしても、学年ではまだまだかもしれないし、他の学校も含めるとまだまだ、まだまだかもしれないし、全国と比べたらエトセトラ、である。

 世の中、そもそも、「ゴール」というものがなかったのだ。

 にも関わらず、人生のゴールというものを定めようという僕のこのブログの目的は(そうだったのか)、あまりにもナンセンスではなかろうか。

ゴール

 ただし、まぁ20代ぐらいであればいざ知らず、最近ここ数年の感覚として、「完璧なゴール」というものを、本当に想定しているわけではないだろう。
 日々の生活の中で、少しずつ成長と貢献をしていく、漸近的なモデルの提唱を、どこかで書いた気がする。

 しかし、例えば創作活動においたとしても、僕は、絵が描きたい。もっといえば、オープンワールドゲームのような、3Dモデリングとかしたい。もっと世界を創造したい。

 が、それは間違いなく、アウトソーシング(外部委託)したほうがよいだろう。
(いや、言い切らないほうがいいかもしれない、ただ、ここで言いたいこととしては適切)

 土台になる知識・技術は必要だが、人はみな、得意なことを伸ばすべきである。
 であるからにして、人は協力したほうが、すばらしい作品を生み出せるのだ。


 ということから考えると、やはり、「ゴール」というのは明確に定めるべきだと思われる。
「何を伸ばすべきか」を見据えなければ、自分に足りないこともわからず、アウトソーシングもできないからだ。


エレファント・テクニック

 ゴールは大事だ。
 だが、それを定めること自体が難しいことは往々にしてある。

 ゴールが決まっていれば、次は、それを実現する手段を選定する。
 手段が分かれば実行する。

 ゴール(目的)→手段選定→実行

 この流れで我々の活動は決まる。家族内行為でも、創作活動でも、仕事でも、何でもそうだ。

(例)
 部屋を綺麗な状態に保つ(目的)→掃除機をかける・食器を洗う→実行



 だが、ゴール自体がはっきりしないことは多い。
「利益を上げる」
 これは、目的といえば目的だが、こっから、手段を選び取るというのは、それ自体が困難だ。

 そういったときは、目的自体を、小さな目的に分割していく必要がある(エレファント・テクニックというらしい)。まず、利益とは、どのステークホルダのものなのか定義していった方がいいかもしれない。たいてい「自社」なのだろうが、顧客側の利益を上げるのか。

分割自体が目的でもよい

 と、いった、全体的な視点というのは大事かもしれないが、そもそも、僕らは歯車でもある。

 日本国憲法の第13条は、「すべて国民は、個人として尊重される。この憲法が保障する生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」とされている。

 個人として尊重されるのが、基本的人権のうんたらというやつだ。

 だが、見方をかえれば、歯車に過ぎない場面は多い。素晴らしいアニメ作品があったとして、しかし、その下支えする人たちは、歯車かもしれない。もちろん、蟲師のDVD特典のメイキングであったように、作画、撮影、音響それぞれの人たちが、それぞれの個性や能力をいかんなく発揮して素晴らしい作品ができあがっている。それでも、あえて厳しい、マイナスな言葉を使うとすれば、「歯車」である。交換可能だ、代替可能な部品だ。

 ――言い過ぎである、おそらく、「その人」でなければ、素晴らしい作品(-10ポイント)ぐらいになってしまったかもしれない。そのマイナスポイントのせいで、素晴らしいけど、ちょっと惜しいかなという作品になったかもしれない。



 だから、「歯車」という言葉は適切ではない。
 ゆえに、自分の持ち場を責任もって守る、最大限能力を発揮する、というのも十分有意義である。

言いたいことに辿り着かない

 時間切れが近づく。
 いやだからなので、上の小見出しでの主旨は、目的を定めて、手段を選んで、実行するという一連の流れを常に意識する必要はなくて、ただ、「実行する」というだけでもいいはずだ、ということだ。(たぶん、そういった思いで書き始めた気がする)


 ただし、そうはいっても、こと、自分の人生、ということにおいては、決して、ただ実行だけではなく、手段を選ぶだけではなく、その目的を、しっかりと見据えたほうがいいのではないか、と、僕はもうかれこれ10年ぐらい思っている気がする。

 もしかすると、20年ぐらい思っているのかもしれない。

あとがき

(かっこ書きである。ニュースで、パチンコ店の休業要請云々が昨今流れる。僕は(政治的なことは書かないが)パチンコは賭博だし、賭博は法律でダメってなってたはずだし、全部廃止でよいと思っている。タバコについても同様だ。ただ、これは僕は単なる僕の価値観に過ぎないと思っているし、パチンコが人生の目的という人でも、何ら構わないと思う(そういう人と付き合いたいかというのは別の話)。ただそれは、確か香川県だった気がするが、ゲーム禁止条例とか、そういったバカげた方向に世論が傾くことがないようにしないといけないから、パチンコも仕方がないね、という立場をとらざる得ない、ということである。大事なことは、ゾーニングだと思う。触れなくて済む権利、というのはあると思う。ただし、ゾーニングの土台にあるのは、自分の興味のないことに対する「理解」である。知らない人、知らないことに対する共感や理解の立場というか、スタンスがないと、ゾーニングは心理的な分離となり、敵味方に分かれていき、争い(他の排除)に発展していくだろう。ちなみに、上の禁止条例を「馬鹿げた」と表現したのは言い過ぎなのかもしれない。1日のうち24時間すべてをゲームに当てていては死んでしまうから、ほどほどに、熱中してもいいけれども、分別をもつようにしましょうね、と。特に子供たちは、その分別(どこまでが適切かの判断)が難しいから、親や地域社会が補助してあげましょうね、と、そういった心構えを定める条例なのかもしれない。そういうんならまだいいかもしれないけれども、ただ、そもそも僕らの行動を制限するようなルール(法・条例)なんかを設けることは基本反対である。いやもちろん、海外から帰国者で、検査すら拒否して、結局後からウイルス陽性だったとか馬鹿げた人がいるような国だから、規制というのは必要なのかもしれない。ただ、その規制というのは、生命に危険が及ぶ場合など、物理的――といえばいいかよい表現が浮かばないが、安全が脅かされるような場合のみに限るべきだと僕は思う)

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継続することは力になる
2020/05/05 23:45 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「人生逆算すると残り40年ぐらい」

まえがき

 RPG(ロールプレイングゲーム)のこと、対戦車砲ではない。RPGで、ヒットポイントが減って、0になったら、戦闘不能になったり、死亡する。

 しかし、実際、瀕死の状態、コンソールが赤く表示されている状態は、おそらく、まともに動ける状態ではないと思われる。
 そうすると、寿命のぎりぎりまで、まともに活動できるとは思わないほうがよいだろう。

特に目的はないのである

 特に、この記事に、到達点はない。

 ただ、こう、最近、ビールを飲まないと、記事を書けないのは、よくない気がする。
 ただ、今日で、ようやく、精神的、体力的には、フラットに戻った。

 フラット。平衡点。
 まともに、思考ができる。平和。落ち着いている。安心。意識的。

 とにかく、色々に意識を向けられる余裕が今はある。といっても、もう、23時なのだが。


 明日当たり、
 絶罪殺機アンタゴニアス

 を読もうか、

 魔導戦騎救国のアルザード

 を読もうか。

 そんな気持ちである。

鬼滅の刃

 俺は、「きめつのやいば」と打って、変換して、『鬼滅の刃』と変換されたことがやや不思議なのだが、鬼滅の刃を数話みた。

 面白い、気がする。
 ただ、全然系統が違うので比較できないが、イド > PET > 虚構推理 > 鬼滅の刃 的な順位ではないかと思う。やっぱり、イドは、最近見た中ではかなり面白い部類だったと思う。
 ――そう、文脈全く関係ないが、イドのOP、PETのOP、EDはかっこよかった。アマゾンMUSICとかで売ってたら買おうかな。


 で、鬼滅の刃だが、十分面白いと思うのだが、ストーリーとして、アマゾンの批判的レビュー氏の言ってることがよく分かるのである。
 その一つとしては、鬼滅隊に所属するための最終選別試験についてである。管理体制ががばがば過ぎる……というレビューであったが、僕もそう思う。
 もう一つは、これはネタバレだが、1話目のシーンだからまぁ書いてしまうが、主人公は、まだ一般人で、鬼に家族を殺されてしまったのであるが、家族の一人が鬼になってしまって、かけつけた鬼滅隊の男に、妹が殺されそうになるのである。主人公は立ち向かって、戦うのであるが、そのとき、鬼滅隊の男を殺そうとするのである。主人公はとても優しい少年であるという設定であって、その設定とちょっと合っていないように感じられた。
 そういった、場面ごとの、分人的な行動様式というのは、昨今珍しくないのかもしれないが、しかし、物語としてであって、しかも序盤であれば、その整合性というか、キャラクターの強調すべき部分は、可能な限り矛盾を抱かせないようなシーンにして頂いたほうがいいなぁと思ったのであった。


あとがき

(かっこ書きである。早いか、あとがきに入るのはあまりにも早すぎるか。しかし、まずは、毎日、ブログを、書く、ということと、筋トレと、そういえば、音読なんて最近全くしていなかったが音読とか、ちゃんとしたい。「元気」になってくると、ちゃんとしたいと思う。しかし、元気じゃなくなるのである。元気じゃないときは、ほんと、なんもできない。かろうじて、筋トレはしていた。しかし、かなりおざなりだった。そう、だから、「元気」なときに何ができるかは、もはやどうでもいいのだ。元気じゃないときに何ができるか。もっといえば、元気じゃなくなることをどう防ぐか。思うに、「読書」ではないかと思う。映画やアニメ――思い出した、ワイルドスピードの最新作も見たんだった――も悪くないが、それらは、どうでもいいテンションの時も見れてしまう。こう、ニュースを流しているレベルで。感情的な起伏も、思考の没入も必要なかったりする。やっぱり、読書は、何か違う、そんな気がする。いや逆なのか、読書は、「ちゃんと」していないとできないから、ある程度準備ができている状況だから、IN/OUTともに刺激が大きくて、それがゆえに「読書が必要だ」と思ってしまうのか。まず状況を分けなければいけない。完全に元気でなくなったときは、たぶん、読書はもうできる余裕はない。せいぜい、それまで積み重ねてきたルーティンを維持することで精いっぱいになるはずだ。だから、そうではない、元気が落ち込んでいくときに、どういう手段がとれるのか、そこをもう少し考えるべきだろう)

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赤方偏移(遠くの天体の距離)
2020/05/03 04:03 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「ビールが旨い」

まえがき

 人類普遍の原理は、6つある。
・ やられたらやり返してよい。
・ 危険が迫っていたら先に攻撃してもよい。
・ 善行にはお返しをする。
・ 強者は弱者に配慮する。
・ 約束は守る。
・ 嘘はつかない。

 やられっぱなしの人は、ガンジー聖者だと思われる前に、まずは変人とみなされるかもしれない。

 上の6つの原理が誠実に履行されている人は、魅力的に映るだろう。リーダー像。強かさ(したたかさ)。

三角測量

 赤方偏移とは、遠くの――億光年も離れた天体との距離を測るための理論である。
 近い距離は、三角測量で求められる。
 三角測量とは、タンジェント(tan)を使う。高校数学でならう三角比。

 ABC点があって、C点と、AB線上で直角に交わる距離を調べたいとする。角CBAと、角CABは、求められる。(いや、でも、レーザー光とかないと、正確には調べられない気がする)
 AB線の長さは、調べられるとする。AB線の中間をEとする。
 角ACBは、三角形の内角の和が180°だから、角CBAと、角CABを引けば求められる。
 すると、
  線AE
   ―  = tan(角ACE)
  線CE
 となる。

 求めたいのは、線CEの長さである。そのため、
 線CE = 線AE ÷ tan(各ACE)
 で求められる、というわけだ。

(おそらく合ってるはず。求めたい点を結ぶ2点の角度を求めることで測量するもの、という説明を読んで考えてみた)

赤方偏移

 ただし、数億光年も離れた距離を測ることは、三角測量の方法では不可能である。
 しかし、宇宙の始まりは138億年前(旧来は137億年とされてきたらしい)であるといわれる。

 地球が生まれたのは、46億年前だという。

 へーすごい。
 しかし、それは一体どうして分かるというのだろう。俺はどうにも、暗記が苦手である。何故それが分かるのか、どうやって導くのかが気になってしまう。そんなこと気にしても意味ないのに。

 でも気になったから調べら、
もっと遠い、何十億光年以上離れた天体、例えば遠い銀河までの距離を知るには、その銀河が遠ざかる速度を使います。私達の地球から見ると、宇宙が膨張しているために、遠くにある銀河ほどより速い速度で遠ざかっていることが観測から分かっています。つまり、銀河が遠ざかる速度が分かれば、その速度から距離を推定することができる、というわけです。「遠ざかっている物体から出る光の波長は長い方にずれる」という性質を使って、銀河のスペクトル線の波長のずれを観測することで速度を知ることができます。波長のずれが大きいほど速度が速いことになり、それだけ遠くにあることがわかります。
リンク先


 とのことであった。光の波長が長いほうにずれる、というキーワードから調べると、「赤方偏移」というキーワードが見つかった、というわけである。

 しかしこれは難しかった。
 ただおそらく、通常観測される波長と、その距離を測りたい天体から発せられる光の波長を比較し、その波長が赤いほう(赤は波長が長い。電波はもっと長い)にずれているとき、そのずれは、天体が遠ざかっている速度を表すのだそうだ。
 その遠ざかっている速度から、距離を割り出すのだそうだ。

 速度から距離を割り出せる、というのは何となく納得してもよい。光の波長が赤いほうにズレる場合は、遠ざかっている速度が大きい、ということも納得してもよい。感覚的にそういうものだと納得できる気がする。

 ただ、その「ズレ」がどのようにして導かれるのかは分からなかった。

 分からなかったが、
アメリカ合衆国の天文学者エドウィン・ハッブルは様々な銀河までの距離とその銀河のスペクトルを調べ、ほとんど全ての銀河のスペクトルに赤方偏移が見られること、赤方偏移の量は遠方の銀河ほど大きいことを経験を生かして発見した(ハッブルの法則)。この事象は、銀河を出た光が地球に届くまでの間に空間自体が伸びて波長が引き伸ばされるためであると解釈でき、宇宙が膨張していることを示すと考えられている。2016年現在、観測されている最も z が大きい(すなわち最も遠方にあると考えられる)天体は z = 11.09 の銀河 GN-z11 である[1][2]。

リンク先

 という記述から、おそらく、その他計測可能な銀河の光の波長(スペクトル)を調べて、基準となるスペクトル置いて、それとのズレを計測しているのだろうと考え、納得することとした。

演繹

 つまり、赤方偏移による距離の計測は、演繹法である。確かに、計測可能な距離において、赤方偏移の理論は正しいかもしれない。
 しかし、果たして、実測ができない距離においても、光のスペクトルは、同様な様相を示すのか。
 ニュートン力学は、大きな物質間においては万有を示すが、素粒子レベルになると有効ではない。赤方偏移も、十分な遠方の場合は成り立たない理論かもしれない。


 しかし、そういったことを懐疑すると、「目に見えないものはすべて懐疑する必要がある」ということになる。
 1、2、3、4……10、11、……1,000,000、1,000,001……
 と続く数列があったとして、「いや、確かに100万までは+1の法則であったが、1,000万以上でも成り立つとは限らない」という主張のようなものである。

 これはおおよそ、妥当ではないだろう。
 では、「どこから」を、「妥当」と見出すのか。

 人は、他者のために行動するときに、真の幸せを得ることができる――という定理があったとして、これを証明するにはどうしたらいいのか。

 三角形の内角の和は180°と書いたが、重力レンズ効果の上ではこれは成り立たない。


 どこまでを妥当とするのか。納得できるのか。
 これは人それぞれ、経験や、知識や、価値観や、信念や、年齢や、性別や、その他様々な諸条件によるものだろうと思う。

あとがき

(かっこ書きである。仕事がしたくなさ過ぎて、別のことを考えてしまった。そもそも、眠れなくなったので、ふと思ったことをブログに書くこととしたわけである。こうやって、何の役にも立たないことを調べたり考えたりするのは好きである。そんなことするよりかは、もっと有益な人脈作りとか、資産形成について学んだほうがよいような気がするが、そういう実益的なものは、なんかやる気が起きない。――宇宙の真理を探るのも、立派な仕事だと思うけれども、それを専門でやるとなると、きっとやる気が起きないのだろうと思う……。何事も中途半端な人間なのだろう……と落ち込む。資格の勉強の方をしないとな。しかし、2つ3つ受けようと思っていたところだが、昨今のウイルス情勢によって、のきなみ中止となり、モチベーションは中々上がらない)

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判断とは何か
2020/04/29 08:04 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「優秀さとは何か」

まえがき

 一つ問題が起きるとまた一つ。
 問題とは何か。問題と課題の違いは、課題の方が解決しないといけない差し迫ったものである認識である。問題は少し、漠然としたものといえる。

 抽象的な言葉回しで、結局何も言っていないのではないか。意識高い系の空虚な人間ではないか。
 空虚の反義はおそらく、充実、だろうか。実質だろうか。とにかく、空っぽというのは、よくないことに思われる。
 果たしてそうか。
 頭を空っぽにしてみる、という行為は、時に推奨される場面はないか。

判断とは何か

 空虚な前書きは置いておいて、一つのテーマに絞って書いてみよう。
 判断するというのは、いったいどういうことなのか。

 何か問題が生じた場面だろう。何も起きていないときに判断は発生しない。
 もちろん、「今日はラーメンを食べよう」というのは確かに判断だろうが、明確に「判断する」という言い方をする場合は、何かの問題に対して裁決するような場面だ。ラーメンのケースは、単に「決めた」という言い方をするはずである。

 さて、判断の内実は、どのようなことなのか。
 もちろん、辞書を引くというのは一つの手段なので、やってみよう。「ある事柄について、考えをまとめて定めること。その断定した内容」と出てきた。

 当然間違ってないのであるが、つまりそれはどういうことなのか。

 選択する、という言い方は可能だろうか?

 定める、というのであるから、複数の選択肢があって、「これである」という決定をすることといえる。
 ただ、それだけではなく、その決定に対して、何らかの主観的な意図がある場合に、判断というのではないか。

 複数の選択肢がなくても、「よい」―「わるい」、「よい」―「だめ」という決定でもよい。その決定に至るにあたっての条件に、主観的な要素があるのではないか。

客観的な判断はあるのでは

 なぜ、判断に、主観的な要素を盛り込もうと俺はしているのか。

 これは、昔からよく(私の中で)問題になる、主観と客観ということは存在するのか、という問題。
 主観的、というのは、まぁ人間生きていれば主観的だから特段問題にならないとして、「完全なる客観」というのはあるのか。

 数学の世界は客観といえる気がする。
 2x+1=5
 のときのxは、2だ。これは客観な気がする。

「いや、俺のルールの中では、それは3だ」
 という人がいたとしても、そうか、君の中ではそうなんだね(=主観)、となる気がする。

 物理学の世界も客観といえる気がする。
 確かに、1mというのは、北極から赤道までの距離を1万メートルとしたのは主観だとしても、光の速さは約30万km/秒である。これは客観的な気がする。
 秒、も、セシウム原子の放射周期の約90億倍――なのだそうだが、まったく分からない(かっこわらい)。1日が24時間で、1時間は60分で、1分は1秒です、という方が分かりやすい。
 日常の「秒」と、厳密な秒とは違うのだということだけ覚えておけば取り急ぎよい。

 でまぁ、その厳密性の違いはあったとしても、物理学的な事象は、やはり客観的であるといえるだろう。


 つまり、客観的な事象というのは、存在する、ということになる。

人文的な活動における客観とは

 だが、僕が今回問題としているのは、そうした自然的な事象においてではなく、「僕らがする判断」である。

 要は、完全なる客観(数学や物理学その他の自然学)は、コンピュータが計算して答えを出してくれればいいのである。それは「答え」であって、「判断」ではないだろうと思うのだ。

 だから、「判断する」といったときには、どこかしらに主観的要素があるのではないか、と思ったわけだ。
 ここまで書いて、ようやく何かしらこの記事の主旨が分かった気がする(俺自身も)。


 だから、判断において、100%客観的である必要はないのだ。
 重要なのは、「最善な説明が可能か」という点だ。言い換えれば、みんなが納得することなのか、という点だ。

 判断の誤りとは何か。
 納得されない数が多ければ判断の誤りだ。

政治的判断とは

 ちょっとわき道にそれて考えてみる。
 みんなが納得すれば正しい判断だ、というのは乱暴ではないか。
 例えば、緊急事態宣言がとられたとして、その宣言するタイミングについては、政治的判断だろうと思う。
 法律上は、その判断は首相(総理大臣)がしたことになる。実際は、取り巻き、幕僚などが意見したことをそのまま信じているだけかもしれない。そのあたりの実際は全くわからないし、わかる必要もない。とにかく、国のトップが決めた、という建前が大事なのである。建前、と書くと悪いニュアンスが込められているようだが、そういうものではなく、統治形態として(かっこよくかくとスキーム)そういうものなのである。

 で、まぁ、判断するわけだ。緊急事態宣言を出すための判断材料としては、ウイルスの感染拡大スピードとか、世界の状況、感染後の死亡率、回復者数とその傾向、衛生用品の普及状況、ワクチンの開発状況(開発可能なのか含め)、経済影響、景気状況、在宅ワーク環境の普及状況、緩やかな自粛要請の効果、宣言を出した場合の批判影響、出さなかった場合の批判影響――などなど、様々な条件・状況を考慮するわけだ。
(上に挙げた以外に、判断材料は他に何かあるだろうか。頑張って5分ぐらい考えてみたが、これぐらいしか思いつかなかった)

 そういう諸条件をインプットにして、アウトプットする。これが判断であるとすれば、判断とは何と難しいことだろうか。

判断の可能性

 ちなみに、このブログでは特定の政治のことは書かないと前々から書いているので、改めて書く必要もないがやっぱり書いておけば、今般日本で出された緊急事態宣言のことを書いているのではないし、それに係る判断の良しあしを書きたいのでもない。

 書いていることとしては、今日はラーメンを食べよう、という判断ではない、より複雑な判断の場合に、「完璧なる判断」は可能か、ということである。

 (僕の中の)結論を書いてしまえば、たぶん、無理、である。
 無理だから、その判断の正否は、「より多くが納得できる基準」(MCS:more consentive standard)でしか評価できないのではないだろうか。
(なお、MCSは、それっぽく表現しただけで、今回0.5秒の思い付きなので、ぐぐっても出てこない)


 A.I.の可能性として、諸条件をすべて入力して、結論をアウトプットしてもらう、というのはSFでありそうだが、そもそも、その諸条件をどのようにして導くか、ということから判断していかなければいけない。
 僕は先ほど例として、いくつかの条件を挙げたけれども、おそらくもっとたくさんの条件が考えられるだろう。同時に、この条件は宣言を出す時期を判断するには関係ない、という判断も必要となってくるだろう。
 すると、AIのフレーム問題――何を対象とすればよいかが決められず、解決する問題が無限に増えていく――のようになって、答えがいつになっても出ないかもしれない。

あとがき

(かっこ書きである。判断とは何か、というテーマについて、より多くの人が納得できる答えを出すことである、という意見を書いたので、終わりにしよう。仕事だけではなく、友人、恋人、家族との関係でも応用できると思う。その範囲の違いである。国のトップは、その納得させる相手が全国民となる。知事は県民。家長であれば、家族。郊外に家を買うという判断は、その関係者が納得するならば正しい判断となるだろう。「お父さんがいいならいいよ」となって、でも、買った後に生活が非常に悪くなったとして、「もうこんな生活いや!」となって、「いやでもお前も当時はいいっていったじゃないか」といっても後の祭り。とはいえ、後からであったとしても、納得しない関係者が現れたのだから、その判断は失敗だったのだろう。結果次第。でも、そうした危機を乗り越えて、60歳、70歳となったときに、長年住んだ家にも愛着がわいて、「いろいろあったけど、ここが僕らのマイホーム!」という気持ちに皆なるかもしれない。そうしたら、その危機が発生した時点では判断の失敗であり、結果としては成功だったということになるのか。時間という概念も考慮すれば、判断の正誤というのは更に難しくなる。敢えて政治よりのことをかけば、原発の問題とか。難しい問題だよね。敢えて傍観者的な意見を書けば、ないほうがよいと思う。ただ、じゃあ化石燃料に頼った運用を続けていいかというとそれもダメだろう。じゃあ急進的にすぐ廃止したらどうかというと、それで電力が賄えるならいいだろう。みんなが省エネな暮らしになればいい。もっといえば、人間が減ればいいのかもしれない。環境問題も難しいよね。だって地球のことのみを考えれば人類死滅した方がいいんじゃないかって考えもあるだろう。でもそんな必要ないとは思う。だって地球って、人間がいるから地球って呼んでるのであって、いなければただの鉄の塊だろう。人間も、名前がついているから人間なのであって、そうでなければたんぱく質の塊だろう……というのは違うか)

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