今日の一言「寝て過ごす」
土日はとにかく、睡眠のために使っている。平日は4時間~5時間睡眠ぐらい。日中眠いかというと、気づいたら一日が終わっているような感じ。やることが多い、気がする。
だいたいこれぐらいで終わるという見積もりができればいいんだが、正直新しい仕事だとよく分からない。周りに聞きながら進めるようにはしているが――その点、周りには聞きやすいので環境は悪くないとは思うけれども、ゴールがよく分からない。
とりあえず、一週間あったことをイラストにしてみる。
2枚描くのは無理だった。
何も見ないでかくとこのように作画崩壊する。
コメント返信すると、前回の車のイラストは、写真(画像)をペイントソフトに取り込んで、輪郭を下書きでかいて、ペン入れするという方法で描いてみた。
なんか前にやったことがあるかというと、特に経験はない。イラストの描き方の本は買ったことがある、ぐらい。
まえがき
いやはや……、なんとか、リズムを作りたいと思いつつ、もうなんか駄目だなぁ。土日はとにかく、睡眠のために使っている。平日は4時間~5時間睡眠ぐらい。日中眠いかというと、気づいたら一日が終わっているような感じ。やることが多い、気がする。
だいたいこれぐらいで終わるという見積もりができればいいんだが、正直新しい仕事だとよく分からない。周りに聞きながら進めるようにはしているが――その点、周りには聞きやすいので環境は悪くないとは思うけれども、ゴールがよく分からない。
イラスト
コメントをたくさん頂けて、よーし頑張ろうと思ったのは、先週のことだったが、気づいたら一週間過ぎている。不思議である。とりあえず、一週間あったことをイラストにしてみる。
2枚描くのは無理だった。
何も見ないでかくとこのように作画崩壊する。
コメント返信すると、前回の車のイラストは、写真(画像)をペイントソフトに取り込んで、輪郭を下書きでかいて、ペン入れするという方法で描いてみた。
なんか前にやったことがあるかというと、特に経験はない。イラストの描き方の本は買ったことがある、ぐらい。
あとがき
(かっこ書きである。文字が少ない。というか、何も考えられない。「書きたい」「描きたい」という気持ちが少ない。どうしたというのだ。やる気よ、戻ってきてくれ。仕事を減らしたほうが良い。――いや、むしろ「やらんきゃ」と思うのである。「これぐらいでいいや」というのが中々できない。――いや、できなくはないのだが、「これぐらいでいいや」という気持ちで帰ると、逆に不安というか不満がたまるのだ。逆に帰るのが遅くなっても、「ここまでやったら大丈夫だわ」と思える場合は、そんなに疲れてはいない(身体は疲れているかもしれないが、少なくても精神的には楽である)。最近は、22時~24時近くになっても、「いまいちだな……」という状況のまま、さすがに終電を逃すとまずいので帰るという状況なので、精神的にも満足感がない。取り急ぎ、2つばかしの面倒な仕事を終わらせたら、少し気が楽になるのかもしれない)PR
今日の一言「3回目」
(下書き(アタリ))
上はペンタブでオール手書き。ふにゃふにゃである。
やってみて後で思ったが、直線が多い奴は、手振れ補正機能をもっと強力にした(数値を上げた)ほうがよいのかもしれない。
(ペン入れ)
初めて、図形ツールを使ってみる。エクセルでいうところの、オートシェイプみたいな。
曲線の使い方を初めて知った。
なんか、「シャッ」っと直線を引いて、ペンを少し浮かせて、ふわっとペンを動かすと曲線の角度が調整できて、それで確定させたいときにもういっかい板にポンを置く――何を言ってるか分からないかもしれないが、とにかくそんな操作なのである。こういうのは、見れば一瞬だが、言葉で表現するのが超ムズイ。
(影とか細部を描く)
なんか、ペン入れしただけだと、なんだろう、ただの長方形の塊にしかみえずに、適当に(テキトーに)線を入れてみる(一応影とか色塗りのイメージ)。
例のごとく、これも1時間ぐらいかかっている気がする。
フラットに見れば、だ。
上の絵を見て、俺はたぶん、5分、10分ぐらいでちゃちゃっと描いているようにしか思わないだろう。すみません、絵をなめてました……。
まえがき
コメントを頂いて嬉しくなって続けている。イラストの3回目投稿。車
今度は、人から離れて、無機物を描いてみる。(下書き(アタリ))
上はペンタブでオール手書き。ふにゃふにゃである。
やってみて後で思ったが、直線が多い奴は、手振れ補正機能をもっと強力にした(数値を上げた)ほうがよいのかもしれない。
(ペン入れ)
初めて、図形ツールを使ってみる。エクセルでいうところの、オートシェイプみたいな。
曲線の使い方を初めて知った。
なんか、「シャッ」っと直線を引いて、ペンを少し浮かせて、ふわっとペンを動かすと曲線の角度が調整できて、それで確定させたいときにもういっかい板にポンを置く――何を言ってるか分からないかもしれないが、とにかくそんな操作なのである。こういうのは、見れば一瞬だが、言葉で表現するのが超ムズイ。
(影とか細部を描く)
なんか、ペン入れしただけだと、なんだろう、ただの長方形の塊にしかみえずに、適当に(テキトーに)線を入れてみる(一応影とか色塗りのイメージ)。
例のごとく、これも1時間ぐらいかかっている気がする。
フラットに見れば、だ。
上の絵を見て、俺はたぶん、5分、10分ぐらいでちゃちゃっと描いているようにしか思わないだろう。すみません、絵をなめてました……。
あとがき
(かっこ書きである。相も変わらず、寝すぎである。土日は、平均、15時間ぐらい寝ているのではなかろうか。いやでも、どうか、今週は、割と活動したのでは。分からない、正確に調べる気にもなれない。時間を無駄にした感がすごい。罪悪感である。――しかし、だ。何はともあれ、イラストは2枚描いた。それは少しはまぁ成果なのではないだろうか。ふと思った。一年のうち、土日は何回あるのだろう。一か月に4回だとすると、4×12で、48回である。今年は残り、6か月ほどなので、24回である。そうすると、土日1枚ペースだと、24枚しかかけない。イラスト難しい難しい言ってるが、たぶん皆さんは、一年に何千枚も描いているのだろう。それでいて、上達しないことなど悩んだりしているのだろう。そう考えると、まだ10桁にも到達していないのに、難しいなどというのは、なんという傲岸不遜であろうか。……とはいえ難しいという気持ちは事実なのだ!!)
今日の一言「2回目」「10回続けられたらすごいと思う」
継続するのは本当に難しくてすごいことだと思う。
人の全身描くのって難しいのな。
「アタリ」を描いてみる。ここまではたぶん、5分ぐらい。いやもっとかかってたのかな。
アタリとは、小説のプロットのようなものだと思う。
それで、ペン入れをしてみる。
あーだこーだ分からなくなって、たぶん1時間ぐらいかかった。
まず、きれいな線が描けない。
髪の毛がよく分からない。
腕がよくわからない。
足がよくわからない。
手と足の先はもっとよくわからない。
https://www.pixiv.net/artworks/27119554
電車の中で全身の描き方を調べていたら見つけた。
おお、なんかすごいな、これにそって描いていけば、しゃしゃっと、描けるんじゃあないか、と。
実際やってみたら、超むずいという。
頭の中で考えることと、実践との乖離というのがよく分かった経験となった。
まえがき
イラスト、続けてみる。継続するのは本当に難しくてすごいことだと思う。
全身を描いてみる
いやほんと、イラスト描くのは難しいと思った。めっちゃシンプルな漫画とか絵とかあるやん、こんなん、俺でもかけるんじゃないか的な。そんなこと思ってた時代が僕にもありました本当に申し訳ございません。人の全身描くのって難しいのな。
「アタリ」を描いてみる。ここまではたぶん、5分ぐらい。いやもっとかかってたのかな。
アタリとは、小説のプロットのようなものだと思う。
それで、ペン入れをしてみる。
あーだこーだ分からなくなって、たぶん1時間ぐらいかかった。
まず、きれいな線が描けない。
髪の毛がよく分からない。
腕がよくわからない。
足がよくわからない。
手と足の先はもっとよくわからない。
参考にしたサイト
メモがてらリンクを貼る。https://www.pixiv.net/artworks/27119554
電車の中で全身の描き方を調べていたら見つけた。
おお、なんかすごいな、これにそって描いていけば、しゃしゃっと、描けるんじゃあないか、と。
実際やってみたら、超むずいという。
頭の中で考えることと、実践との乖離というのがよく分かった経験となった。
あとがき
(かっこ書きである。力尽きたので、文字は少なく終わる。それにしても、平日は、めちゃくちゃ忙しい。スペックオーバーである。周りの人はできている。しかし、その周りの人は、会社内でもかなり優秀な人たちの部類らしいとのうわさを聞く。優秀な人に合わせて、もしくはついてくのは大変である。逆についていっていることがすごいのではないか。……なんてことを思っても虚しいだけである。それにしても割と泣き出しそうである、が、取り急ぎ今月は乗り切ろう。まだ、期待している作品があるから、それを読み切るまで倒れるわけにはいかない)
今日の一言「なんかしよう」
そして、会社に行って、帰ってきて寝る、休日はずっと寝る、という悪しきルーティンを断ち切るべく、帰ってきたから、最近購入したペンタブを使ってイラストを描いてみた。
描き途中。
なんとなく想像でショートカットの女の子を描いてみる。
(一応完成)
ペンタブ、すごいな。筆圧がちゃんと表現されるという。
そして、イラストソフトは、ペンタブにセットになっていた、クリップスタジオというやつのエントリー(入門)版だったが、「手振れ補正」機能というのがすごいと思った。割といい感じの線が描ける(気がする)。
まえがき
コメント頂いていたのに返信できていなかった。そして、会社に行って、帰ってきて寝る、休日はずっと寝る、という悪しきルーティンを断ち切るべく、帰ってきたから、最近購入したペンタブを使ってイラストを描いてみた。
イラスト(タイトル未定)
描き途中。
なんとなく想像でショートカットの女の子を描いてみる。
(一応完成)
ペンタブ、すごいな。筆圧がちゃんと表現されるという。
そして、イラストソフトは、ペンタブにセットになっていた、クリップスタジオというやつのエントリー(入門)版だったが、「手振れ補正」機能というのがすごいと思った。割といい感じの線が描ける(気がする)。
あとがき
(かっこ書きである。時間見てなかったけど、気づいたら15分~30分ぐらい描いていた気がする。かっこいい風景とかも描けたら楽しい気がする。くっそ下手でも、絵日記みたいなの作れるようになったら、楽しいかもしれない。イラストに時間がとられたせいで文字が少ない)
今日の一言「サボり過ぎである」
そう。しかし、こんな小学生的な言い訳は恥ずかしいのであるが、書き途中のが消えてしまったのである。途中まで書いていて、投稿したつもりになっていて、もう眠すぎてシャットダウンしたら投稿されてなかったという、そんなことが実際にあったのだ。信じられないだろうが本当の話だ(別に信じられないほどのことではない)。
それでやる気を失ったのかどうかは分からないが、とにかく、ご無沙汰になった。
気づいたら、今日、まだ、6月になって、一つも書いていなかったという。
日記とは何か。
日記とは内省である。自分との対話である。一方で、何故、公開を前提とするのか。
日記とは、もう一人の自分との対話である。にもかかわらず、何故第三者にも読んでもらおうとするのか。
日記が内省的なものである、という位置づけは、必ずしも当てはまらない可能性がある(土井氏『友だち地獄』)。
公開を前提とした日記、ブログなり、SNSなりは、むしろ、その「キャラクター」によって、本来的な(生身の方の)自分が縛られる可能性がある。
現実世界に存在する「自分」という認識対象と、ブログ等ネット世界に存在する「自分」という認識。それが一致しないで、別のものになるのだ。やがて、ネットの人格のほうが「本来の自分」という意識が高まっていく――そんな状況がありえるのではなかろうか。
ラインとか、フェイスブックとか、NOTEもそうかもしれないが、実名公開を前提としたメディアもここ数十年で増えている気がする。
本来的には、キャラクターを演じる、というのは、オペラや演劇の時ぐらいであって、人はみな、現実における自分自身を生きているのである、というのが、正常なのかもしれない。
一方で僕は……。
だいぶ、もう、すでにほとんど、日記上の自分と、現実との自分で齟齬というか乖離のようなものは、無い気がしている。
逆に、昔は、大きかった気がする。何せ、「自分の(本当の)気持ち」を隠すことが人間関係を上手く運ぶための重要な要素だと信じていたからだ――と書いてみて、「いや、今も割とそれは思うな」と思った(かっこ笑い)。
ただまぁ、そうはいっても、「ぷっつん!!」キレる前に、ちょいちょいと、自分の感情は表に出している気がする。――っていうか、感情って今、俺、書いてみて思ったけど、「感情」=「怒り」「イライラ」と同義にイメージされていた。
いかんいかん、感情は、喜怒哀楽、いろいろあるものなのだ。どうにも、「感情」と意識して言葉を使うときには、僕は、負の感情をイメージしがちだ。もっと明るい感情だってあるのでは……あったかなぁ。
で、せっかくだ。正の感情というか、今日の一よかったこと、うれしかったことを思い出してみよう。
面倒な(難しげな)調整ごとが一つ進んだ。
ホッとした。
――。
えそれだけ?
――。
――。
それだけだった!!!
むしろ、先週は人間関係的なごたごたがあったりして、落ち込んだというか、面倒だなぁと思った。
そうなんだよな。
なんかほんとは、ふつーの人は、人間関係というのは、もっとこう、自分を高めてくれるというか、生き生きさせてくれるものというか、楽しいものというか、こう、ほら、その、正の要素なんじゃないかって思うんだ。
シロクマ先生の「認められたい」だってそうさ、人はみな承認欲求を満たされたいと思っているのである。
承認欲求は、人間関係の中でしか生まれない。だから、人間関係は大事なのだ。
どうにも!
人間関係は気疲れするものである。親しい人との付き合いは、それが壊れるかもしれないというドキドキ感、維持しなければという使命感、それほど親しくない人とは同じように維持しなければという使命感――まぁ言葉で書くとドギツイけれども、そういうものである。
まぁぶっちゃけ、僕の言動のイチイチが、急激にその人間関係をご破算にするものではない――と思いきや、しかし、先日の人間関係悪化問題は、「ささいな」ものであった。
もっとも、その「ささいな」というのは、自分にとってのものであって、相手にとっては些細ではなかったのである。そのズレは、致命的に人間関係を悪化させる――し、修復も難しくさせる。何故ならば、反省をしたとしても、その反省は、相手にとっては「反省しているようにみえない」ものであるからだ。反省したつもりになっても、自分にとって「些細」なことは、「ああ、その部分は大事なのだな、そういう場面ではそういったことを思ったりするのだな」という想像は可能であっても、厳密な共感ではないからである。
という、ぶつかり合いこそが、大事という人もいる。そういった喧嘩のようなものを積み重ねて、人は人として成長するのだ――という。
子供のころはそうかもしれない。大人はどうなんだろう。そもそも、対立しない状況を上手く維持するほうが大事だと思う。思うし、今更喧嘩を積み重ねていくというのもナンセンスな気がする。
まえがき
一つ、言い訳をすると、先週だかに、一つ、記事は書いていたのだ。そう。しかし、こんな小学生的な言い訳は恥ずかしいのであるが、書き途中のが消えてしまったのである。途中まで書いていて、投稿したつもりになっていて、もう眠すぎてシャットダウンしたら投稿されてなかったという、そんなことが実際にあったのだ。信じられないだろうが本当の話だ(別に信じられないほどのことではない)。
それでやる気を失ったのかどうかは分からないが、とにかく、ご無沙汰になった。
気づいたら、今日、まだ、6月になって、一つも書いていなかったという。
最近のことを振り返ろう
だから、今回の記事は、本当に、日記的な意味で書こうと思う。日記とは何か。
日記とは内省である。自分との対話である。一方で、何故、公開を前提とするのか。
日記とは、もう一人の自分との対話である。にもかかわらず、何故第三者にも読んでもらおうとするのか。
日記が内省的なものである、という位置づけは、必ずしも当てはまらない可能性がある(土井氏『友だち地獄』)。
公開を前提とした日記、ブログなり、SNSなりは、むしろ、その「キャラクター」によって、本来的な(生身の方の)自分が縛られる可能性がある。
現実世界に存在する「自分」という認識対象と、ブログ等ネット世界に存在する「自分」という認識。それが一致しないで、別のものになるのだ。やがて、ネットの人格のほうが「本来の自分」という意識が高まっていく――そんな状況がありえるのではなかろうか。
ラインとか、フェイスブックとか、NOTEもそうかもしれないが、実名公開を前提としたメディアもここ数十年で増えている気がする。
本来的には、キャラクターを演じる、というのは、オペラや演劇の時ぐらいであって、人はみな、現実における自分自身を生きているのである、というのが、正常なのかもしれない。
一方で僕は……。
だいぶ、もう、すでにほとんど、日記上の自分と、現実との自分で齟齬というか乖離のようなものは、無い気がしている。
逆に、昔は、大きかった気がする。何せ、「自分の(本当の)気持ち」を隠すことが人間関係を上手く運ぶための重要な要素だと信じていたからだ――と書いてみて、「いや、今も割とそれは思うな」と思った(かっこ笑い)。
ただまぁ、そうはいっても、「ぷっつん!!」キレる前に、ちょいちょいと、自分の感情は表に出している気がする。――っていうか、感情って今、俺、書いてみて思ったけど、「感情」=「怒り」「イライラ」と同義にイメージされていた。
いかんいかん、感情は、喜怒哀楽、いろいろあるものなのだ。どうにも、「感情」と意識して言葉を使うときには、僕は、負の感情をイメージしがちだ。もっと明るい感情だってあるのでは……あったかなぁ。
今日の振り返り
おいおい、全然、今日の振り返りしていないじゃないか。いかんいかん。で、せっかくだ。正の感情というか、今日の一よかったこと、うれしかったことを思い出してみよう。
面倒な(難しげな)調整ごとが一つ進んだ。
ホッとした。
――。
えそれだけ?
――。
――。
それだけだった!!!
むしろ、先週は人間関係的なごたごたがあったりして、落ち込んだというか、面倒だなぁと思った。
そうなんだよな。
なんかほんとは、ふつーの人は、人間関係というのは、もっとこう、自分を高めてくれるというか、生き生きさせてくれるものというか、楽しいものというか、こう、ほら、その、正の要素なんじゃないかって思うんだ。
シロクマ先生の「認められたい」だってそうさ、人はみな承認欲求を満たされたいと思っているのである。
承認欲求は、人間関係の中でしか生まれない。だから、人間関係は大事なのだ。
どうにも!
人間関係は気疲れするものである。親しい人との付き合いは、それが壊れるかもしれないというドキドキ感、維持しなければという使命感、それほど親しくない人とは同じように維持しなければという使命感――まぁ言葉で書くとドギツイけれども、そういうものである。
まぁぶっちゃけ、僕の言動のイチイチが、急激にその人間関係をご破算にするものではない――と思いきや、しかし、先日の人間関係悪化問題は、「ささいな」ものであった。
もっとも、その「ささいな」というのは、自分にとってのものであって、相手にとっては些細ではなかったのである。そのズレは、致命的に人間関係を悪化させる――し、修復も難しくさせる。何故ならば、反省をしたとしても、その反省は、相手にとっては「反省しているようにみえない」ものであるからだ。反省したつもりになっても、自分にとって「些細」なことは、「ああ、その部分は大事なのだな、そういう場面ではそういったことを思ったりするのだな」という想像は可能であっても、厳密な共感ではないからである。
という、ぶつかり合いこそが、大事という人もいる。そういった喧嘩のようなものを積み重ねて、人は人として成長するのだ――という。
子供のころはそうかもしれない。大人はどうなんだろう。そもそも、対立しない状況を上手く維持するほうが大事だと思う。思うし、今更喧嘩を積み重ねていくというのもナンセンスな気がする。