今日の一言「サボり過ぎである」
そう。しかし、こんな小学生的な言い訳は恥ずかしいのであるが、書き途中のが消えてしまったのである。途中まで書いていて、投稿したつもりになっていて、もう眠すぎてシャットダウンしたら投稿されてなかったという、そんなことが実際にあったのだ。信じられないだろうが本当の話だ(別に信じられないほどのことではない)。
それでやる気を失ったのかどうかは分からないが、とにかく、ご無沙汰になった。
気づいたら、今日、まだ、6月になって、一つも書いていなかったという。
日記とは何か。
日記とは内省である。自分との対話である。一方で、何故、公開を前提とするのか。
日記とは、もう一人の自分との対話である。にもかかわらず、何故第三者にも読んでもらおうとするのか。
日記が内省的なものである、という位置づけは、必ずしも当てはまらない可能性がある(土井氏『友だち地獄』)。
公開を前提とした日記、ブログなり、SNSなりは、むしろ、その「キャラクター」によって、本来的な(生身の方の)自分が縛られる可能性がある。
現実世界に存在する「自分」という認識対象と、ブログ等ネット世界に存在する「自分」という認識。それが一致しないで、別のものになるのだ。やがて、ネットの人格のほうが「本来の自分」という意識が高まっていく――そんな状況がありえるのではなかろうか。
ラインとか、フェイスブックとか、NOTEもそうかもしれないが、実名公開を前提としたメディアもここ数十年で増えている気がする。
本来的には、キャラクターを演じる、というのは、オペラや演劇の時ぐらいであって、人はみな、現実における自分自身を生きているのである、というのが、正常なのかもしれない。
一方で僕は……。
だいぶ、もう、すでにほとんど、日記上の自分と、現実との自分で齟齬というか乖離のようなものは、無い気がしている。
逆に、昔は、大きかった気がする。何せ、「自分の(本当の)気持ち」を隠すことが人間関係を上手く運ぶための重要な要素だと信じていたからだ――と書いてみて、「いや、今も割とそれは思うな」と思った(かっこ笑い)。
ただまぁ、そうはいっても、「ぷっつん!!」キレる前に、ちょいちょいと、自分の感情は表に出している気がする。――っていうか、感情って今、俺、書いてみて思ったけど、「感情」=「怒り」「イライラ」と同義にイメージされていた。
いかんいかん、感情は、喜怒哀楽、いろいろあるものなのだ。どうにも、「感情」と意識して言葉を使うときには、僕は、負の感情をイメージしがちだ。もっと明るい感情だってあるのでは……あったかなぁ。
で、せっかくだ。正の感情というか、今日の一よかったこと、うれしかったことを思い出してみよう。
面倒な(難しげな)調整ごとが一つ進んだ。
ホッとした。
――。
えそれだけ?
――。
――。
それだけだった!!!
むしろ、先週は人間関係的なごたごたがあったりして、落ち込んだというか、面倒だなぁと思った。
そうなんだよな。
なんかほんとは、ふつーの人は、人間関係というのは、もっとこう、自分を高めてくれるというか、生き生きさせてくれるものというか、楽しいものというか、こう、ほら、その、正の要素なんじゃないかって思うんだ。
シロクマ先生の「認められたい」だってそうさ、人はみな承認欲求を満たされたいと思っているのである。
承認欲求は、人間関係の中でしか生まれない。だから、人間関係は大事なのだ。
どうにも!
人間関係は気疲れするものである。親しい人との付き合いは、それが壊れるかもしれないというドキドキ感、維持しなければという使命感、それほど親しくない人とは同じように維持しなければという使命感――まぁ言葉で書くとドギツイけれども、そういうものである。
まぁぶっちゃけ、僕の言動のイチイチが、急激にその人間関係をご破算にするものではない――と思いきや、しかし、先日の人間関係悪化問題は、「ささいな」ものであった。
もっとも、その「ささいな」というのは、自分にとってのものであって、相手にとっては些細ではなかったのである。そのズレは、致命的に人間関係を悪化させる――し、修復も難しくさせる。何故ならば、反省をしたとしても、その反省は、相手にとっては「反省しているようにみえない」ものであるからだ。反省したつもりになっても、自分にとって「些細」なことは、「ああ、その部分は大事なのだな、そういう場面ではそういったことを思ったりするのだな」という想像は可能であっても、厳密な共感ではないからである。
という、ぶつかり合いこそが、大事という人もいる。そういった喧嘩のようなものを積み重ねて、人は人として成長するのだ――という。
子供のころはそうかもしれない。大人はどうなんだろう。そもそも、対立しない状況を上手く維持するほうが大事だと思う。思うし、今更喧嘩を積み重ねていくというのもナンセンスな気がする。
まえがき
一つ、言い訳をすると、先週だかに、一つ、記事は書いていたのだ。そう。しかし、こんな小学生的な言い訳は恥ずかしいのであるが、書き途中のが消えてしまったのである。途中まで書いていて、投稿したつもりになっていて、もう眠すぎてシャットダウンしたら投稿されてなかったという、そんなことが実際にあったのだ。信じられないだろうが本当の話だ(別に信じられないほどのことではない)。
それでやる気を失ったのかどうかは分からないが、とにかく、ご無沙汰になった。
気づいたら、今日、まだ、6月になって、一つも書いていなかったという。
最近のことを振り返ろう
だから、今回の記事は、本当に、日記的な意味で書こうと思う。日記とは何か。
日記とは内省である。自分との対話である。一方で、何故、公開を前提とするのか。
日記とは、もう一人の自分との対話である。にもかかわらず、何故第三者にも読んでもらおうとするのか。
日記が内省的なものである、という位置づけは、必ずしも当てはまらない可能性がある(土井氏『友だち地獄』)。
公開を前提とした日記、ブログなり、SNSなりは、むしろ、その「キャラクター」によって、本来的な(生身の方の)自分が縛られる可能性がある。
現実世界に存在する「自分」という認識対象と、ブログ等ネット世界に存在する「自分」という認識。それが一致しないで、別のものになるのだ。やがて、ネットの人格のほうが「本来の自分」という意識が高まっていく――そんな状況がありえるのではなかろうか。
ラインとか、フェイスブックとか、NOTEもそうかもしれないが、実名公開を前提としたメディアもここ数十年で増えている気がする。
本来的には、キャラクターを演じる、というのは、オペラや演劇の時ぐらいであって、人はみな、現実における自分自身を生きているのである、というのが、正常なのかもしれない。
一方で僕は……。
だいぶ、もう、すでにほとんど、日記上の自分と、現実との自分で齟齬というか乖離のようなものは、無い気がしている。
逆に、昔は、大きかった気がする。何せ、「自分の(本当の)気持ち」を隠すことが人間関係を上手く運ぶための重要な要素だと信じていたからだ――と書いてみて、「いや、今も割とそれは思うな」と思った(かっこ笑い)。
ただまぁ、そうはいっても、「ぷっつん!!」キレる前に、ちょいちょいと、自分の感情は表に出している気がする。――っていうか、感情って今、俺、書いてみて思ったけど、「感情」=「怒り」「イライラ」と同義にイメージされていた。
いかんいかん、感情は、喜怒哀楽、いろいろあるものなのだ。どうにも、「感情」と意識して言葉を使うときには、僕は、負の感情をイメージしがちだ。もっと明るい感情だってあるのでは……あったかなぁ。
今日の振り返り
おいおい、全然、今日の振り返りしていないじゃないか。いかんいかん。で、せっかくだ。正の感情というか、今日の一よかったこと、うれしかったことを思い出してみよう。
面倒な(難しげな)調整ごとが一つ進んだ。
ホッとした。
――。
えそれだけ?
――。
――。
それだけだった!!!
むしろ、先週は人間関係的なごたごたがあったりして、落ち込んだというか、面倒だなぁと思った。
そうなんだよな。
なんかほんとは、ふつーの人は、人間関係というのは、もっとこう、自分を高めてくれるというか、生き生きさせてくれるものというか、楽しいものというか、こう、ほら、その、正の要素なんじゃないかって思うんだ。
シロクマ先生の「認められたい」だってそうさ、人はみな承認欲求を満たされたいと思っているのである。
承認欲求は、人間関係の中でしか生まれない。だから、人間関係は大事なのだ。
どうにも!
人間関係は気疲れするものである。親しい人との付き合いは、それが壊れるかもしれないというドキドキ感、維持しなければという使命感、それほど親しくない人とは同じように維持しなければという使命感――まぁ言葉で書くとドギツイけれども、そういうものである。
まぁぶっちゃけ、僕の言動のイチイチが、急激にその人間関係をご破算にするものではない――と思いきや、しかし、先日の人間関係悪化問題は、「ささいな」ものであった。
もっとも、その「ささいな」というのは、自分にとってのものであって、相手にとっては些細ではなかったのである。そのズレは、致命的に人間関係を悪化させる――し、修復も難しくさせる。何故ならば、反省をしたとしても、その反省は、相手にとっては「反省しているようにみえない」ものであるからだ。反省したつもりになっても、自分にとって「些細」なことは、「ああ、その部分は大事なのだな、そういう場面ではそういったことを思ったりするのだな」という想像は可能であっても、厳密な共感ではないからである。
という、ぶつかり合いこそが、大事という人もいる。そういった喧嘩のようなものを積み重ねて、人は人として成長するのだ――という。
子供のころはそうかもしれない。大人はどうなんだろう。そもそも、対立しない状況を上手く維持するほうが大事だと思う。思うし、今更喧嘩を積み重ねていくというのもナンセンスな気がする。
あとがき
(かっこ書きである。上の部分までで、約15分~20分ぐらい。15分あれば、割とかけるのである。にもかかわらず、果たして、2~3週間も、何も書けなかったというのは、いったいどんな天変地異があれば、言い訳が認められるのだろうか。否無い。一つ備忘録で書けば、先週土日、先々週土日は、丸一日寝ていた。活動時間は、一日あたり4時間ぐらいではなかろうか。ほんと、ずっと寝れることが最近分かってきた。すげーな。ほら、対処療法じゃなくて、なんだっけ、逆説思考というか、依存症患者に、逆にいっぱいやってみよう! とアドバイスすると、逆にできなくなって治癒するとか、そんな感じで、「好きなだけ寝てみよう」と一瞬でも思ったら、マジずっと寝てたわな。先週はむしゃくしゃしていたのもあって、ダラダラやる気が何も起きなかったら、ずっと布団の中で過ごしていた。やべー奴だ。――よし。仕方がない。過ぎ去った時間はどうしようもない。来週の土日。来週の土日こそ、ちゃんと、何かしよう! 何かする。何かすることを、平日のうちに考える。ああそうだ、こうやって、ブログを書くぐらいのことでもいい。何かしよう。何かしよう、何かせねば……)PR