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赤方偏移(遠くの天体の距離)
2020/05/03 04:03 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「ビールが旨い」

まえがき

 人類普遍の原理は、6つある。
・ やられたらやり返してよい。
・ 危険が迫っていたら先に攻撃してもよい。
・ 善行にはお返しをする。
・ 強者は弱者に配慮する。
・ 約束は守る。
・ 嘘はつかない。

 やられっぱなしの人は、ガンジー聖者だと思われる前に、まずは変人とみなされるかもしれない。

 上の6つの原理が誠実に履行されている人は、魅力的に映るだろう。リーダー像。強かさ(したたかさ)。

三角測量

 赤方偏移とは、遠くの――億光年も離れた天体との距離を測るための理論である。
 近い距離は、三角測量で求められる。
 三角測量とは、タンジェント(tan)を使う。高校数学でならう三角比。

 ABC点があって、C点と、AB線上で直角に交わる距離を調べたいとする。角CBAと、角CABは、求められる。(いや、でも、レーザー光とかないと、正確には調べられない気がする)
 AB線の長さは、調べられるとする。AB線の中間をEとする。
 角ACBは、三角形の内角の和が180°だから、角CBAと、角CABを引けば求められる。
 すると、
  線AE
   ―  = tan(角ACE)
  線CE
 となる。

 求めたいのは、線CEの長さである。そのため、
 線CE = 線AE ÷ tan(各ACE)
 で求められる、というわけだ。

(おそらく合ってるはず。求めたい点を結ぶ2点の角度を求めることで測量するもの、という説明を読んで考えてみた)

赤方偏移

 ただし、数億光年も離れた距離を測ることは、三角測量の方法では不可能である。
 しかし、宇宙の始まりは138億年前(旧来は137億年とされてきたらしい)であるといわれる。

 地球が生まれたのは、46億年前だという。

 へーすごい。
 しかし、それは一体どうして分かるというのだろう。俺はどうにも、暗記が苦手である。何故それが分かるのか、どうやって導くのかが気になってしまう。そんなこと気にしても意味ないのに。

 でも気になったから調べら、
もっと遠い、何十億光年以上離れた天体、例えば遠い銀河までの距離を知るには、その銀河が遠ざかる速度を使います。私達の地球から見ると、宇宙が膨張しているために、遠くにある銀河ほどより速い速度で遠ざかっていることが観測から分かっています。つまり、銀河が遠ざかる速度が分かれば、その速度から距離を推定することができる、というわけです。「遠ざかっている物体から出る光の波長は長い方にずれる」という性質を使って、銀河のスペクトル線の波長のずれを観測することで速度を知ることができます。波長のずれが大きいほど速度が速いことになり、それだけ遠くにあることがわかります。
リンク先


 とのことであった。光の波長が長いほうにずれる、というキーワードから調べると、「赤方偏移」というキーワードが見つかった、というわけである。

 しかしこれは難しかった。
 ただおそらく、通常観測される波長と、その距離を測りたい天体から発せられる光の波長を比較し、その波長が赤いほう(赤は波長が長い。電波はもっと長い)にずれているとき、そのずれは、天体が遠ざかっている速度を表すのだそうだ。
 その遠ざかっている速度から、距離を割り出すのだそうだ。

 速度から距離を割り出せる、というのは何となく納得してもよい。光の波長が赤いほうにズレる場合は、遠ざかっている速度が大きい、ということも納得してもよい。感覚的にそういうものだと納得できる気がする。

 ただ、その「ズレ」がどのようにして導かれるのかは分からなかった。

 分からなかったが、
アメリカ合衆国の天文学者エドウィン・ハッブルは様々な銀河までの距離とその銀河のスペクトルを調べ、ほとんど全ての銀河のスペクトルに赤方偏移が見られること、赤方偏移の量は遠方の銀河ほど大きいことを経験を生かして発見した(ハッブルの法則)。この事象は、銀河を出た光が地球に届くまでの間に空間自体が伸びて波長が引き伸ばされるためであると解釈でき、宇宙が膨張していることを示すと考えられている。2016年現在、観測されている最も z が大きい(すなわち最も遠方にあると考えられる)天体は z = 11.09 の銀河 GN-z11 である[1][2]。

リンク先

 という記述から、おそらく、その他計測可能な銀河の光の波長(スペクトル)を調べて、基準となるスペクトル置いて、それとのズレを計測しているのだろうと考え、納得することとした。

演繹

 つまり、赤方偏移による距離の計測は、演繹法である。確かに、計測可能な距離において、赤方偏移の理論は正しいかもしれない。
 しかし、果たして、実測ができない距離においても、光のスペクトルは、同様な様相を示すのか。
 ニュートン力学は、大きな物質間においては万有を示すが、素粒子レベルになると有効ではない。赤方偏移も、十分な遠方の場合は成り立たない理論かもしれない。


 しかし、そういったことを懐疑すると、「目に見えないものはすべて懐疑する必要がある」ということになる。
 1、2、3、4……10、11、……1,000,000、1,000,001……
 と続く数列があったとして、「いや、確かに100万までは+1の法則であったが、1,000万以上でも成り立つとは限らない」という主張のようなものである。

 これはおおよそ、妥当ではないだろう。
 では、「どこから」を、「妥当」と見出すのか。

 人は、他者のために行動するときに、真の幸せを得ることができる――という定理があったとして、これを証明するにはどうしたらいいのか。

 三角形の内角の和は180°と書いたが、重力レンズ効果の上ではこれは成り立たない。


 どこまでを妥当とするのか。納得できるのか。
 これは人それぞれ、経験や、知識や、価値観や、信念や、年齢や、性別や、その他様々な諸条件によるものだろうと思う。

あとがき

(かっこ書きである。仕事がしたくなさ過ぎて、別のことを考えてしまった。そもそも、眠れなくなったので、ふと思ったことをブログに書くこととしたわけである。こうやって、何の役にも立たないことを調べたり考えたりするのは好きである。そんなことするよりかは、もっと有益な人脈作りとか、資産形成について学んだほうがよいような気がするが、そういう実益的なものは、なんかやる気が起きない。――宇宙の真理を探るのも、立派な仕事だと思うけれども、それを専門でやるとなると、きっとやる気が起きないのだろうと思う……。何事も中途半端な人間なのだろう……と落ち込む。資格の勉強の方をしないとな。しかし、2つ3つ受けようと思っていたところだが、昨今のウイルス情勢によって、のきなみ中止となり、モチベーションは中々上がらない)

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判断とは何か
2020/04/29 08:04 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「優秀さとは何か」

まえがき

 一つ問題が起きるとまた一つ。
 問題とは何か。問題と課題の違いは、課題の方が解決しないといけない差し迫ったものである認識である。問題は少し、漠然としたものといえる。

 抽象的な言葉回しで、結局何も言っていないのではないか。意識高い系の空虚な人間ではないか。
 空虚の反義はおそらく、充実、だろうか。実質だろうか。とにかく、空っぽというのは、よくないことに思われる。
 果たしてそうか。
 頭を空っぽにしてみる、という行為は、時に推奨される場面はないか。

判断とは何か

 空虚な前書きは置いておいて、一つのテーマに絞って書いてみよう。
 判断するというのは、いったいどういうことなのか。

 何か問題が生じた場面だろう。何も起きていないときに判断は発生しない。
 もちろん、「今日はラーメンを食べよう」というのは確かに判断だろうが、明確に「判断する」という言い方をする場合は、何かの問題に対して裁決するような場面だ。ラーメンのケースは、単に「決めた」という言い方をするはずである。

 さて、判断の内実は、どのようなことなのか。
 もちろん、辞書を引くというのは一つの手段なので、やってみよう。「ある事柄について、考えをまとめて定めること。その断定した内容」と出てきた。

 当然間違ってないのであるが、つまりそれはどういうことなのか。

 選択する、という言い方は可能だろうか?

 定める、というのであるから、複数の選択肢があって、「これである」という決定をすることといえる。
 ただ、それだけではなく、その決定に対して、何らかの主観的な意図がある場合に、判断というのではないか。

 複数の選択肢がなくても、「よい」―「わるい」、「よい」―「だめ」という決定でもよい。その決定に至るにあたっての条件に、主観的な要素があるのではないか。

客観的な判断はあるのでは

 なぜ、判断に、主観的な要素を盛り込もうと俺はしているのか。

 これは、昔からよく(私の中で)問題になる、主観と客観ということは存在するのか、という問題。
 主観的、というのは、まぁ人間生きていれば主観的だから特段問題にならないとして、「完全なる客観」というのはあるのか。

 数学の世界は客観といえる気がする。
 2x+1=5
 のときのxは、2だ。これは客観な気がする。

「いや、俺のルールの中では、それは3だ」
 という人がいたとしても、そうか、君の中ではそうなんだね(=主観)、となる気がする。

 物理学の世界も客観といえる気がする。
 確かに、1mというのは、北極から赤道までの距離を1万メートルとしたのは主観だとしても、光の速さは約30万km/秒である。これは客観的な気がする。
 秒、も、セシウム原子の放射周期の約90億倍――なのだそうだが、まったく分からない(かっこわらい)。1日が24時間で、1時間は60分で、1分は1秒です、という方が分かりやすい。
 日常の「秒」と、厳密な秒とは違うのだということだけ覚えておけば取り急ぎよい。

 でまぁ、その厳密性の違いはあったとしても、物理学的な事象は、やはり客観的であるといえるだろう。


 つまり、客観的な事象というのは、存在する、ということになる。

人文的な活動における客観とは

 だが、僕が今回問題としているのは、そうした自然的な事象においてではなく、「僕らがする判断」である。

 要は、完全なる客観(数学や物理学その他の自然学)は、コンピュータが計算して答えを出してくれればいいのである。それは「答え」であって、「判断」ではないだろうと思うのだ。

 だから、「判断する」といったときには、どこかしらに主観的要素があるのではないか、と思ったわけだ。
 ここまで書いて、ようやく何かしらこの記事の主旨が分かった気がする(俺自身も)。


 だから、判断において、100%客観的である必要はないのだ。
 重要なのは、「最善な説明が可能か」という点だ。言い換えれば、みんなが納得することなのか、という点だ。

 判断の誤りとは何か。
 納得されない数が多ければ判断の誤りだ。

政治的判断とは

 ちょっとわき道にそれて考えてみる。
 みんなが納得すれば正しい判断だ、というのは乱暴ではないか。
 例えば、緊急事態宣言がとられたとして、その宣言するタイミングについては、政治的判断だろうと思う。
 法律上は、その判断は首相(総理大臣)がしたことになる。実際は、取り巻き、幕僚などが意見したことをそのまま信じているだけかもしれない。そのあたりの実際は全くわからないし、わかる必要もない。とにかく、国のトップが決めた、という建前が大事なのである。建前、と書くと悪いニュアンスが込められているようだが、そういうものではなく、統治形態として(かっこよくかくとスキーム)そういうものなのである。

 で、まぁ、判断するわけだ。緊急事態宣言を出すための判断材料としては、ウイルスの感染拡大スピードとか、世界の状況、感染後の死亡率、回復者数とその傾向、衛生用品の普及状況、ワクチンの開発状況(開発可能なのか含め)、経済影響、景気状況、在宅ワーク環境の普及状況、緩やかな自粛要請の効果、宣言を出した場合の批判影響、出さなかった場合の批判影響――などなど、様々な条件・状況を考慮するわけだ。
(上に挙げた以外に、判断材料は他に何かあるだろうか。頑張って5分ぐらい考えてみたが、これぐらいしか思いつかなかった)

 そういう諸条件をインプットにして、アウトプットする。これが判断であるとすれば、判断とは何と難しいことだろうか。

判断の可能性

 ちなみに、このブログでは特定の政治のことは書かないと前々から書いているので、改めて書く必要もないがやっぱり書いておけば、今般日本で出された緊急事態宣言のことを書いているのではないし、それに係る判断の良しあしを書きたいのでもない。

 書いていることとしては、今日はラーメンを食べよう、という判断ではない、より複雑な判断の場合に、「完璧なる判断」は可能か、ということである。

 (僕の中の)結論を書いてしまえば、たぶん、無理、である。
 無理だから、その判断の正否は、「より多くが納得できる基準」(MCS:more consentive standard)でしか評価できないのではないだろうか。
(なお、MCSは、それっぽく表現しただけで、今回0.5秒の思い付きなので、ぐぐっても出てこない)


 A.I.の可能性として、諸条件をすべて入力して、結論をアウトプットしてもらう、というのはSFでありそうだが、そもそも、その諸条件をどのようにして導くか、ということから判断していかなければいけない。
 僕は先ほど例として、いくつかの条件を挙げたけれども、おそらくもっとたくさんの条件が考えられるだろう。同時に、この条件は宣言を出す時期を判断するには関係ない、という判断も必要となってくるだろう。
 すると、AIのフレーム問題――何を対象とすればよいかが決められず、解決する問題が無限に増えていく――のようになって、答えがいつになっても出ないかもしれない。

あとがき

(かっこ書きである。判断とは何か、というテーマについて、より多くの人が納得できる答えを出すことである、という意見を書いたので、終わりにしよう。仕事だけではなく、友人、恋人、家族との関係でも応用できると思う。その範囲の違いである。国のトップは、その納得させる相手が全国民となる。知事は県民。家長であれば、家族。郊外に家を買うという判断は、その関係者が納得するならば正しい判断となるだろう。「お父さんがいいならいいよ」となって、でも、買った後に生活が非常に悪くなったとして、「もうこんな生活いや!」となって、「いやでもお前も当時はいいっていったじゃないか」といっても後の祭り。とはいえ、後からであったとしても、納得しない関係者が現れたのだから、その判断は失敗だったのだろう。結果次第。でも、そうした危機を乗り越えて、60歳、70歳となったときに、長年住んだ家にも愛着がわいて、「いろいろあったけど、ここが僕らのマイホーム!」という気持ちに皆なるかもしれない。そうしたら、その危機が発生した時点では判断の失敗であり、結果としては成功だったということになるのか。時間という概念も考慮すれば、判断の正誤というのは更に難しくなる。敢えて政治よりのことをかけば、原発の問題とか。難しい問題だよね。敢えて傍観者的な意見を書けば、ないほうがよいと思う。ただ、じゃあ化石燃料に頼った運用を続けていいかというとそれもダメだろう。じゃあ急進的にすぐ廃止したらどうかというと、それで電力が賄えるならいいだろう。みんなが省エネな暮らしになればいい。もっといえば、人間が減ればいいのかもしれない。環境問題も難しいよね。だって地球のことのみを考えれば人類死滅した方がいいんじゃないかって考えもあるだろう。でもそんな必要ないとは思う。だって地球って、人間がいるから地球って呼んでるのであって、いなければただの鉄の塊だろう。人間も、名前がついているから人間なのであって、そうでなければたんぱく質の塊だろう……というのは違うか)

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死について2(コメント返信)
2020/04/27 06:10 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「仕事が気になって目が覚めるのだが」

まえがき

 PETを見始めてしまったと、前回ぐらいで書いた気がする。
 これもまた面白かった。
 面白かったがインフレを起こしそうだが、まぁ素直な感想であるし、面白いと感じられるものが多いことは悪いことではないだろう。批判したくなるのが人間の性だと思うけれども、素直に生きられたほうが生きやすいはずである。

PETについて

 正直、本腰入れて真面目に見ようとしたわけではなくて、こうテレビを漫然とみるようなそんなレベルで見たために、内容を深く理解できたわけではない。けれども分かったこともある。
 人の心には、ヤマとタニがあるのである。
 その両面がなければ、人の心は維持できない。

 ヤマとは良かった経験。心の原風景。自分が自分として生きるために必要な根本的な記憶。
 タニはその逆。最悪な経験。いやだったこと。トラウマ。

 ヤマだけあればよさそうだが、そうではないのだと。タニも必要なのだと。
 そういった条件設定が面白いと思う。

 そういう意味で俺は今ふと思うに、俺のヤマってなんだろなと思った。
 まぁその、PETの登場人物たちのヤマというのも、そんなに特異な経験とかそういうものではなかった。家族との絆とか、父親とのやりとりだとか、そういう感じ。
 でも、いい歳した大人が、そういった子供のころの体験をずっと心のヤマとして抱いているのだ。
 で、そのヤマを壊してしまうのが潰し屋である。ヤマを壊されると、廃人になってしまうのだ。

 タニは、いじめられたとか、幼児虐待されたとかそういう感じ。ヤマが潰されるとそういう状態でずっといるんだろうか。死んだほうがましかもしれない。

 でまぁその、最後面白かったと僕の印象を決定づけたのが、人物アーク(人物の変化)部分である。
 具体的には変化したというよりも、明らかになったという意味なのだろうが、僕が抱いた印象は大きく変化した。
 序盤から登場する、悪人めいた嫌な奴が登場するのである。はじめは、噛ませ的にすぐ死ぬ(壊れる)のかと思ったら、そうではなくて、非常に重要なポジションであった。気づかなかった。
 2段階の変化があって面白かった。1段階目は、その悪人の原風景が明らかになるシーン。ああ、こういう嫌な奴でも、そういった過去があったのかと、少し印象が変わった。まぁ「だからこそ」逆に性格がひんまがっちまったんだなと。
 でも、2段階目で、それだけじゃなかったんだと分かった。それが切なくて、でも、環境や状況から仕方がなくて、「ああ、そうだったのか……」と言葉を失った。

コメント返信

前回の記事

 そして唐突にコメント返信にうつる。


>アマゾンプライムと死について
アマゾンプライムのおすすめ機能は素晴らしいと思います。dアニメと比較して、ユーザ体験という意味で優れている。つまり、どんどん自分好みの作品が提案されて、ずっとアマゾンプライムにこもることができる。その点dアニメは提案機能が弱いので、ネットで検索してそのうえでdアニメにそのアニメがあるかを検索して、あるなら見るみたいな、非常に効率の悪い視聴体験になってしまっている。そういう意味でアマゾンプライムは素晴らしいと思います。
 視聴体験が完全に受動的になっている私にとってはアマプラ氏とは相性がよいということになりますね。ある意味、AIに支配された人間……(かっこ深刻な笑い)。
 なんだか最近かは分かりませんが、アマプラさんもdアニメストア氏と連携しているのか、アマプラで開きながらdアニメで課金すると見れますよ……的な作品もちらほら出てきているような。まったく調べてないので憶測ですが、アマプラとdアニメが協賛し、アマプラ(で登録した口座)に支払いすると、そこからdアニメにお金が流れる仕組みができたのかなと思いました。

>dアニメがいいのは、ものすごい勢いで作品が拡充されている(ように見える)ことです。1年前に見たいアニメを何作品かリクエストしたんですが、今見てみるとちゃんと反映されているんですよね。アマゾンプライムは、そもそも作品の選別眼とコスパの両立がやばいので、数は比較するとおそらく少ないんだけど、満足度は高いっていう感じになってますね。
 アマプラ氏、作品数が少ないって気はしてませんでした。――というのは多分、上に書いたような協賛体制故かもしれません。
 というのは、何か作品を検索すると、アマプラでも出てくることは出てくる。ただ、「この作品はdアニメ for Amazon Primeです」となって、別途課金が必要になる、と。だからアマプラ対象としての作品は少なくても、検索エンジンとしての役割は果たされていると。それゆえの錯覚なのかもしれません。
 あと、定期的に扱われる作品が変わるので、アマプラ対象外だったのが見れるようになるという場合もあることも、満足度が高い感じかもしれません。
 ――というのはともかく、リクエストされたり、主体的な行動素晴らしいなと思いました。

>死後の世界についてですが。理論的には、死というのは喪失であって、死後に存在する自我はないということになると思うんです。ただし、理論っていうのは現時点での想定であって、人間にはその想定外を考えることができて、なおかつ共感できることから、共同幻想としての死後の世界(神様の発生と同じかも)を生み出してしまっているという風に私はとらえています。輪廻転生とか、魂の存在とかも、「現時点」では共同幻想なんだろうなと思うわけです。
 先祖を尊重するとか、死者を悼むとか、今を生きる者の規範的な意味は大きいと思いますが、私も同じく共同幻想だと思われます。
 神話も、宗教も、――この表現が正しいわけではないでしょうが――物語なのだと思います。
 ただ、非常に偉大で重要な物語。
 物語によって、人は残虐非道にもなり、聖母のようにもなる。
 何を信じるかは大事な問題に思われます。

 なので、死後の世界は共同幻想であったとして、そのときになお信じられる何かというのは、どういうものなのだろうかと思いを巡らせざるえません。


>ただ、最近思うのは広義的なんですが、自分と連絡が取れなくなった人間は死んだものとしても問題ないように思うんですよね。
主観的には見分けがつかないんです。大学のころ一緒にかかわった人間のうち、連絡が取れない人が、死んでいようが、生きていようが、どちらにしろ、私にとっては存在しないわけで、死んでいると仮定しても何の問題もない。むしろ、自分の主観世界には彼らは失われているわけで、死んでいるとしたほうが自然なのではないか。
だから、昔の友人が死にましたと、連絡が来ても、あぁ、彼はとっくに死んでたよなという感覚なんですよね。だから、いまさら悲しいのか?という風に思ってしまう。
 分かります。
 非常に分かりますが、一般的ではなさそうな考えですね(かっこ笑い)。

 ただ、思い出が残っているならば、その相手との記憶が残っているならば、悲しいのだとは思います。ただそれは、現在進行的な悲しみではなくて、その思い出に対する郷愁的なものだと。
 ああ、そんなことやあんなこともあったなと、そういった、もう戻れないし二度と経験もできないであろうことに対する記憶。そういったものを郷愁的と僕は表現しますが、その郷愁さはどこか物悲しい。

 そして、死によって、「そもそもその相手との記憶に関する経験は二度とできない前提であっても」それに類する経験等の機会が、永遠に失われたということ、その点においても悲しいのだと思います。
 ただ、おっしゃるとおり、連絡がつかなくなった人は、その時点ですでに主観的な意味においての死といえるのかもしれません。

 ただ(「ただし」が多くて読みづらいですが)、高校や大学時代でサイトで出会った方が、何年か後にまた訪れて、コメントしてくれてとても嬉しかったとか、そういうことも実際に経験して、本当に物理的な死と、「可能性」が残っている状態とは違うんだなという気持ちはあります。


>つまり、自分の主観世界からの喪失が死であるとしても特に問題はないし、十分機能する。という意味で、共同幻想としての死後の世界や魂の世界を、肯定することは、むしろ、実態に即しているような、そんな気持ちになったのです。
(共同幻想とはいうけれど、人はあくまでも主観世界を生きているのに過ぎないので、幻想こそが現実であるとしてもよいのではないか、という意味で)。

「自分の主観世界からの喪失が死である」というのが、意味を取りかねてしまったのですが、かっこ書きの部分は、私もそうだなと思いました。
 客観的に、物理的にその人が死んでいるかどうかよりも、主観的(自分と連絡がつくか、思い出せるか)という状態から外れる(喪失する)ということが、自分にとっての「死」であると。
 独善のそしりを受けそうですが、その面は強いと思います。物理的にはもうとっくに、何年も前に死んでいた人も、帰りを待っているとか、その人の教えをもとに日々を生きているという状態にあれば、その人は主観的には死んでいない。

あとがき

(かっこ書きである。前回の記事コメントにおいて、脳・肉体・精神の死が挙げられた。今回は、主観的な死と客観的な死が挙げられた。こうした交流は非常に意義深いと感慨する。そして最近僕が思うこととしては、こうした意見とかというのは、言語表現上でやり取りをしても、たいていの人とは調整することは不可能である。調整というのは、変化させる、という意味である。神はいないと思う人に神を信じさせるのは困難だし、その逆もまた困難なのだ。変化を生じさせられるのは、「行動」「経験」だけである。――と断定するにはやや語弊はあるが、言い過ぎではない。人は記憶によって生きる、と僕は書いてきた(たぶん、以前から)。しかし、その記憶とは、言葉の積み重ねで出来上がるものではなく、経験が先にそこにあるはずだ。水槽の中の脳の話もあるが、新生児の脳だけを取り出して、身体を与えずに、電気刺激だけで生命維持させたとして、その電気刺激は、それはそれで「経験」だと思うけれども、身体的フィードバックから得た経験とは、似て非なるものだと思うのである。電気刺激のみに特化した思考・意識をもつ存在になるだろうと思う。それを我々と同じく人間とするかは後世の判断だろう)

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死について(コメント返信)
2020/04/26 05:39 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「毎日更新は、最近の状況だと難しい」「難しい根拠を述べよ」

まえがき

 あーもー、ダメだな、なんか、生活リズムが狂っている。
 ただ、まぁその、心配事はあるにせよ、割と人生楽しい方なのでは、とも思う。そんなに、悪い状況ではない気がする。精神的、体調的にも、そんなに悪くない気がする。しかし、だからこそなのか、余計に、本来すべきことをできていないことへの焦りが生じているのではないかとは思う。

 という抽象的なことは置いておいて、アマプラさんで、虚構推理を見ている、ということを先日書いたかどうか忘れてしまったから書く――というか、現状、全部見終わった。面白かった。なんか、エンディングが非常に納得した、という作品は珍しいかもしれない。――というのは、あの、言葉はあまりよくないが、大ぶろしきを全然広げていない、こじんまりとしたテーマだったからか、非常によくまとまった、といえると思った。
 イド:インヴェイデッドは、面白かったのだけれども、いかんせんテーマが大きかったので、後半駆け足感と、無理やり感と、不十分感がゼロとはいえなかった。その点、虚構推理は、何故クロウ先輩が、かわいいはずの彼女を邪険にしている(ように見えていたのか)というのが明確に分かって、「ああ、なるほど、そうだったのか」というカタルシスがあった。古事記のイワナガ姫のエピソードにまじらえたやり取りは、こちらも赤面してしまった。

 そして、さらにアマプラさんにおすすめされてしまった、「PET」も見始めてしまった。これは、――これはまた、面白いかもしれない。ただ、声優さんの――あえてそういう演技なのか分からないが、微妙なのと、映像的にはふつー感がある。ただ、ストーリーがよい気がする。気になる。

コメント返信

前回の記事

 そして、気づくと、コメントをたくさん頂いていた。ありがたい。早速返信に取り掛かったものの、すぐには書けないことが分かったため、ルーティン更新の重要な材料とさせていただく。まずは、srgn氏のものを。

>死とは
 人間の思考や活動が脳内を駆け巡る電気的信号によって成り立っているのだとすれば、死というのは「脳の死」と「肉体の死」と「精神の死」の3つに分けられるように思います。

 「脳の死」はいわゆる脳死というヤツで、脳という臓器が何らかの損傷によって活動停止となったもの。脳から指示が出されないため、自発的(ゲーム的な言い方をすればアクティブ的)に行動・活動ができなくなった死のパターンですね。肉体的には脳からの指示がなくとも生命機能を自動的に維持する臓器(ゲーム的な言い方だとパッシブ的なもの)は生きていても(いなくても)、脳が停止している状態。

 死とは、というテーマにおいて、「それは3つに分けられると考える」と即答できるのがまずすごい。
 僕はよう分からんから、だらだらと長ったらしく書くしかないが、明確に言語表現できるってすごいなぁ……、と思った。

 脳死――これは、古代ギリシャ時代においてヴェテルトテネスが哲学的な見地で想定した表現である。と、いうのは全く創造なのだが、脳死という概念自体は医学の発展の賜物に思われる。
 確かに、古代ギリシャ時代においても、そういった状態は想定できたであろう。ただ、脳死状態で自分では呼吸も食事もできなくなった人は、戦場で負傷して死んだ人と区別はなかったことと思う。

>「肉体の死」は、脳は生きていても、人間として生命維持できる機能を全て失ってしまった場合。とはいえ、これは脳機能を維持するための臓器が破損してしまったりするので、そのままでは脳死にも繋がります。肉体損傷が激しく、代行臓器や生命維持機械などで脳髄だけだけど生きている、みたいな状態でしょうか。とてもSFチック。もし意識があったらそれを外部に出力できるような装置や環境がないと発狂しそうです。

 水槽の脳的な奴ですね。万能ネズミのウフコック氏が出てくるアニメでもそんな存在が登場していた気がします。
 これはまだSFチック、思考実験どまりですが、いずれは実現しそうという感じはしますね。ある意味、攻殻機動隊の全身義体も、同じようなものかもしれません。
 生まれた時から水槽の脳状態だったのと、ある日突然の事故でそういった状態になったのでは、脳がもっている来歴(記憶)の有無という点で取り扱いが違いそうだなとも思いました。身体がないと、そもそも脳は、来歴(記憶)を生じさせることができないのか、どうか。手や足、というだけでなく、視覚としても、目という機構があるからこそ、脳は意識を生じさせうるものなのか。



 「精神の死」はこれまた一風変わって、人格的・精神的に廃人になってしまう場合。脳も、肉体も動いているけれど、いわゆる心が壊れて他者とのコミュニケーションが成立しなくなってしまったり、刺激に対して反応がなくなってしまったりというパターン。生きているけど死んでいる、というイメージ。脳死というほどではなく、脳機能、電気信号は発生していても、思考や人格、自我に関わる部分には何らかの損傷や深刻なダメージが発生していそうです。
 脳の死と、身体の死というのは分かりやすいですが、そこに敢えて「精神の死」というのを加えるという発想は面白いなと思いました。
 たぶん、私が本記事で触れた、認知症も、精神の死に向かっている状態なのではないかと思いました。すべての認知機能が壊れてしまった状態が、精神的な死といえるのかもしれません。
 ということを考えながら、PETという作品を何気なく見始めたから面白いと思ったのか(PETでは、精神異常を起こして再起不能になることを「壊れる」と呼んでいる……)。



>いずれにせよ、厳密な死と言えるものは私は脳死だと思っていて、脳内の電気的信号が生物の行動を司っているとするなら、その機能が失われたら何も残らないのだろうと考えています。
 死後の世界など存在せず、眠る時のように思考が途切れて、そして本人は途切れたことにも気付かないまま、二度と意識が戻らない。
 不可逆性という点があるのであれば、私は脳死と精神的な死は、どちらも「死」なんだろうなと思いました。


>そうなった時、その生物の認識している意識、自我というものはそこで消えてしまうだけなのだろう、というのが私の結論なわけですが、今私が私として生きているように次の誰かとして自我を持って生きたりするのかどうかは(前世の記憶を引き継いだりするのか、自覚ができるのかどうかも含めて)観測できないので分かりません。
 そうですね。
 死に向かうことは恐怖であったとしても、死の瞬間から先は、完全に自我が消えてしまったとすれば、すべて「分からない」。存在しないということだと思われます。

 たまにテレビ等で「前世の記憶がある、蘇った」とする人が取り上げられたりしますが、それも「たまたま、無意識のうちにそれを言い当てている(前世の記憶だと思い込んでいるのが偶然全部当たっている)だけ」なのか「世界やその人物など、何らかの要素や要因から前世に当たる人物のことを精確に推測し言い当てている(本人にその自覚があるかどうかは不問)だけ」なのか「実際に自我や魂というものが輪廻転生しているのか」は判断できませんね。
 もしテレビのやらせではなく、本人や関係者のトリックでもないということが明確に証明できたとしても、「不思議な現象」であることは間違いないですが、それでもやはり、輪廻転生を信じる強い根拠にはならないだろうなと、私も思います。――ってなんででしょうね。私は昔からだと思うのですが、神秘的なものというのを何一つ信じていなかった気がします。だからこそ(なのかは分かりませんが)、物語に強く惹かれるというのはあります。
 いや、小学生くらいは、確かにお化けは怖かったかなぁ。ただ、「偶然」ということの神秘性というのは思います。それを神秘性というのか、分かりませんが、「奇跡」(的な偶然)というものは、起こる可能性があるということで、信じられている気がします。


>ただ一つ言えるのは、「そこで途切れて全て消えて終わり」だととても恐ろしい、ということでしょうか。
 死後の世界や死にまつわる宗教的なあれこれは一種の現実逃避であり、恐怖を和らげ、思考を逸らし、精神を安定させるためのものなのだろうなと思うわけです。
 ジョルジュ・バタイユというイケメンフランス哲学者さんだったと思いますが、人生における行為すべてが死の恐怖に対する気晴らしなんだ、的なことを書かれていて、究極的だなおい、と思った記憶があります。
 なので、死後の世界的なあれこれ全般だけが現実逃避ではないんだろうなと思ってます。いやまぁその、現実って何? という定義によるんだと思うのですが。現実的には、人類どころか、生物全体が死へと向かっていくわけであって、それが現実。人は死ぬ、遅いか早いかだけだ……って、これも何かの作品で見て聞いた気がしますが、なんだっけかなぁ。

あとがき

(かっこ書きである。人は死へ向かう存在だ――は、ハイデガー氏だったっけ。記憶混濁。ああ、そうだ、生物すべてはいずれ死ぬ、といわけだけど、癌細胞ってすごいよね。あれ、死なないらしいよ。普通の細胞は、末端にテロメアという構造があって、それが細胞分裂とともにだんだん短くなっていって、最後は分裂できなくなる……死という経過をたどるのだけれども、癌細胞は、テロメアを活性化し続けて、無限増殖するんだって。「無限」という性質が自然界にあるってのがまずすごいよね。永久機関的な。でも、栄養がなければやっぱり癌細胞も死んじゃうんだろうね。そう、だから、癌って、ウイルスとか細菌とか、外部によるものではなくて、自らの細胞が原因なわけだ。だからやっかいな病気である。あと、だんだん関係なくなるけど、アポトーシスというのも不思議だ。細胞の自死。ちなみに、細胞が自発的に死ぬことで、生物の恒常性を保っている、ということは知っているが、アポトーシスでぐぐってみて、書いてあることは全く理解できない(かっこ笑い))


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心配事があるとゆっくり休めない
2020/04/20 05:39 | Comments(2) | 思考及び書くこと
今日の一言「ブログを書こう」

まえがき

 うーむ。よくない。
 精神的に落ち着いていない。
 精神的な疲労。
 
 新型コロナウイルスに感染しているわけではないが、それによってもたらされている環境の変化も関係はしている、と思う。そもそも、4月からの異動による新しい環境に慣れていないというのもある。慣れていない中で、このパンデミックによっての、疲れなのだろう。

 生活リズムを取り戻さなければと、昨日もなんとか、24時に布団に入ってみたものの、腹痛で目が覚める。まぁ早起きできてよかったかなと時間を見れば、25時半。1時間程度しか経っていなかった。
 そこから、断続的な痛みを撫でながら、再び眠りにつこうとしたが、数時間してまた目が覚めた。

 これはもう駄目なパターンと認識し、ブログを書くことに決めた。


決めたとかじゃなくてルーチンではなかったのか

 毎日、書くって、決めたんじゃなかったっけ。

 そうだった気がする。今年の目標だった気がする。そういう意味では、もう2020年はダメだ。終わってしまった。もう消化試合のようなものだ。来年がんばろう……。

 などと、フルマックスで弱音を吐いておく。

 まぁ確かに、3月まで終わって、4分の1が終わってしまったわけだが、まだ半分にもいっていない。今年を評価するには早すぎるだろう。

 とりあえず、目が痛いけれども、ホットミルクを飲んだら、腹痛は少し和らいだ気がする。



 とにかく、最近、何をしていたのか、よく分からない。思い出し作業をしよう。


『虚構推理』を、昨日見た気がする。割と面白かった。アマプラさんに、サイコパスか、イドかを見たことによってお勧めされたので、見てみたら良かった。アマプラさんやるじゃないか、と思った。
 なんか、扉絵があまり好みじゃなかったので、敬遠していたが面白いと思う。6話ぐらいまで一気に見てしまった。ただ、たぶん、まだ全部みていないが、イドの方が好みだろうと思う。サイコパス3期と比べるとどうか。うーむ、それよりは面白い気がする。ただ、サイコパスも、面白くないわけではなかった。

 虚構推理は、なんかこう、タイトルから受けるイメージと違って、時代は現代で、女の子が物の怪らに攫われて、知恵の神様にされてしまう話。されてしまう――のだけれども、女の子は積極的に、物の怪らのご意見番となって、活躍する。右目と左足を奪われてしまうが、そこに悲壮感はない。
 湖の主の大蛇との問答で、殺人事件の真相(かっこつきの真相)を納得させるのが面白かった。

最近どうなのよ的な

 うーむ。
 魂の二元論的な。(唐突に話題が変わる)

 魂の二元論というか、二元論というのが、身体と、心は別もの、とする考え方である。
 魂という存在を規定したほうが、説明が合理的で最善かという問題が重要である。

 魂という存在をもとにして「も」、説明できるということであれば、二元論が正しいということにはならない。
 一方で、物理主義とか一元論が正しいということでもない。最善な説明か、というだけである。
 というのが、科学的――学問的な立場なのだろうと思う。

 信じたいから信じる、とか、そのほうが感情的に落ち着くから信じる、というのは、実運用的(実生活的)にはアリだろうけれども、科学的ではない。

自殺は正しい選択なのか

 前、どこかの記事で、自殺は論理的に正しくない、と書いた。
 その理由は、端的に、未来については予期できないからだ、とした。

(未来の話になったのは、もしかすれば、虚構推理で、桜川家が、「件(くだん)」という物の怪が未来予知の力があるとして利用しようとしたという話がインプットされたからかもしれない)

 それはさておき、通常、未来のことはわからない。ただ、「現在」もまた、過去へと常に消失していっている。未来は現在となり、現在は過去へと消えていく。常に。常にだ。今、こうしてタイピングしている今も、未来は現在となり、現在は過去へと流れていっている。

 そういう意味で――複数ありえる(想像し得る)未来を選択するという意味で、僕らは未来予知の力を有している。
 物語上の未来予知がすごいのは、その予知が「広い範囲で」「先が長い」ことにある。ごく個人的な範囲で、ごく短い期間のことであれば、未来予知は可能だ。僕は、数秒後も、タイピングをしているだろう(かっこわらい)。


 自殺が妥当か、という話になるとまた異なる。

 病魔に侵され、想像を絶する痛みに苦しんでいるとする。自死を願うのは誤った思考なのか。
 もし、回復の見込みがある病気ならば、耐えるべきだ。
 だが、現代の医療では回復の見込みがなければ、コールドスリープ技術もなければ、自殺は妥当な選択肢だろうと思う。

 しかし、それについて考えるにあたっては、「死」というものが、どういったものかを考えておかなければいけない。
 果たして、死によって、その想像を絶する痛みから解放されるのか。
 自殺したものは、地獄に堕とされるという考え方もある。その地獄の苦しみは、病魔の苦しみとどちらが「マシ」なのか。

 しかし、この思考は無理がある。死後の世界のことは、ゴウタマ・シッダールタ氏すら多くを語らなかったのである(毒矢の比喩)。

地獄を後から想定するのはずるい

 たいてい僕らは、というか、僕は、死は、いっかんの終わり、だと思っている。(いま、「いっかんの終わり」と書いたが、その「いっかん」が、一貫なのか、一巻なのか、自信をもてなかったのでひらがなにした。たぶん、一貫だろう……たぶん)

 
 死は、無であると考える。

 何故なら、僕のこの思考というものも、身体という要素が作り出しているものだからだ。「魂」という存在があって、それが身体に宿ることによって思考――ないしは、アイデンティティ(自我同一性)が生じているものではないと考える。これが正しいかは、分からない。

 だから、その思考の原因となっている身体が壊れてしまえば、思考もまた、生じることはできなくなるのだ(と思う)。

 ゆえに、僕が昔から恐怖する夢の、心だけは残って、体はとっくに壊れて死んでしまったという、何もできないが、意識だけは残っているというそれはもう恐ろしい夢は、生じない(と信じたい)。



 いずれ、科学によって、意識というものが、完全に物理的現象だと証明できる日がくるかもしれない。
 しかし、その日が来る前に恐らく僕は死ぬだろうし、その証明を果たして聞いたとしても、きっとそれは、量子力学や飛行機が空を飛ぶ理屈以上に難解だろうから、完全に理解することはできないだろう。

 だから、死によってどういったことがもたらされるか、僕は分からないまま、死ぬことになるだろう。わからない――もしくは、納得できないままに。

認知症

 具体的にどういった時に、というのはおいておいて、介護施設に行って、認知症の方と接する機会をもったことがある人は少なくないはずだ。

「〇〇さん」である。
 家族からしても、それ以外の人からしても、名前を与えられ、それぞれの来歴がある。

 しかし、認知症は、その「〇〇さん」という記憶を蝕む病気である。
 その人が、その人であるために必要なものはなにか。

 ブランドの時計? 車や家? 名誉や肩書?

 違う、記憶である。
 私は私である、という認識そのものが、その人であるための基礎的な条件なのだ。

 僕は思うに(これまで、明確に書いたことはなかったかもしれないが、似たようなことは書いたような気もするが)、ひどい認知症はまた死であると思う。

 記憶とは、記銘、保持、再生という機能に分けられるということで、その3つのいずれかが機能しなくなっただけで、その人の死というわけではないだろうが、その人であるための基礎的な記憶が保持も再生もできなくなったとしたら、それは、身体は生きていても、死なのではないかと思う、ということだ。

 だから、植物状態も、死なのだと思う。もっとも、ホラー的な、植物状態は、反応ができないだけで、意識はしっかりしているとか、そんなとき、「もう回復の見込みはありませんね。臓器移植しましょう」となったら、ホラーである、怖いのだけれども。ただ、本当に回復の見込みがないのだとしたら、身体だけあったとしても、僕はそこに価値は見いだせない。

 ――ただ、親しい人とかだったとき、そう冷静ではいられないかもしれない。
 ただそれは、医者はもう回復しないといっても、人工呼吸器でかろうじて呼吸をしているだけだとしても、そこにある身体はまだ無事なのであれば、もしかしたら、また意識を取り戻してくれるのではないか……と、そんな希望によるものだろう。

 人は必ずしも合理的に行動はしない。

あとがき

(かっこ書きである。とりあえず、目下の仕事を、片付けよう。心配過ぎて、ゆっくりできない。受験期みたいだな。勉強しなきゃ……でも嫌だ、遊びたい。でも遊んだとしても、十分に楽しめない、そんな感じ)

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