今日の一言「なんかしよう」
そして、会社に行って、帰ってきて寝る、休日はずっと寝る、という悪しきルーティンを断ち切るべく、帰ってきたから、最近購入したペンタブを使ってイラストを描いてみた。
描き途中。
なんとなく想像でショートカットの女の子を描いてみる。
(一応完成)
ペンタブ、すごいな。筆圧がちゃんと表現されるという。
そして、イラストソフトは、ペンタブにセットになっていた、クリップスタジオというやつのエントリー(入門)版だったが、「手振れ補正」機能というのがすごいと思った。割といい感じの線が描ける(気がする)。
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まえがき
コメント頂いていたのに返信できていなかった。そして、会社に行って、帰ってきて寝る、休日はずっと寝る、という悪しきルーティンを断ち切るべく、帰ってきたから、最近購入したペンタブを使ってイラストを描いてみた。
イラスト(タイトル未定)
描き途中。
なんとなく想像でショートカットの女の子を描いてみる。
(一応完成)
ペンタブ、すごいな。筆圧がちゃんと表現されるという。
そして、イラストソフトは、ペンタブにセットになっていた、クリップスタジオというやつのエントリー(入門)版だったが、「手振れ補正」機能というのがすごいと思った。割といい感じの線が描ける(気がする)。
あとがき
(かっこ書きである。時間見てなかったけど、気づいたら15分~30分ぐらい描いていた気がする。かっこいい風景とかも描けたら楽しい気がする。くっそ下手でも、絵日記みたいなの作れるようになったら、楽しいかもしれない。イラストに時間がとられたせいで文字が少ない)
今日の一言「サボり過ぎである」
そう。しかし、こんな小学生的な言い訳は恥ずかしいのであるが、書き途中のが消えてしまったのである。途中まで書いていて、投稿したつもりになっていて、もう眠すぎてシャットダウンしたら投稿されてなかったという、そんなことが実際にあったのだ。信じられないだろうが本当の話だ(別に信じられないほどのことではない)。
それでやる気を失ったのかどうかは分からないが、とにかく、ご無沙汰になった。
気づいたら、今日、まだ、6月になって、一つも書いていなかったという。
日記とは何か。
日記とは内省である。自分との対話である。一方で、何故、公開を前提とするのか。
日記とは、もう一人の自分との対話である。にもかかわらず、何故第三者にも読んでもらおうとするのか。
日記が内省的なものである、という位置づけは、必ずしも当てはまらない可能性がある(土井氏『友だち地獄』)。
公開を前提とした日記、ブログなり、SNSなりは、むしろ、その「キャラクター」によって、本来的な(生身の方の)自分が縛られる可能性がある。
現実世界に存在する「自分」という認識対象と、ブログ等ネット世界に存在する「自分」という認識。それが一致しないで、別のものになるのだ。やがて、ネットの人格のほうが「本来の自分」という意識が高まっていく――そんな状況がありえるのではなかろうか。
ラインとか、フェイスブックとか、NOTEもそうかもしれないが、実名公開を前提としたメディアもここ数十年で増えている気がする。
本来的には、キャラクターを演じる、というのは、オペラや演劇の時ぐらいであって、人はみな、現実における自分自身を生きているのである、というのが、正常なのかもしれない。
一方で僕は……。
だいぶ、もう、すでにほとんど、日記上の自分と、現実との自分で齟齬というか乖離のようなものは、無い気がしている。
逆に、昔は、大きかった気がする。何せ、「自分の(本当の)気持ち」を隠すことが人間関係を上手く運ぶための重要な要素だと信じていたからだ――と書いてみて、「いや、今も割とそれは思うな」と思った(かっこ笑い)。
ただまぁ、そうはいっても、「ぷっつん!!」キレる前に、ちょいちょいと、自分の感情は表に出している気がする。――っていうか、感情って今、俺、書いてみて思ったけど、「感情」=「怒り」「イライラ」と同義にイメージされていた。
いかんいかん、感情は、喜怒哀楽、いろいろあるものなのだ。どうにも、「感情」と意識して言葉を使うときには、僕は、負の感情をイメージしがちだ。もっと明るい感情だってあるのでは……あったかなぁ。
で、せっかくだ。正の感情というか、今日の一よかったこと、うれしかったことを思い出してみよう。
面倒な(難しげな)調整ごとが一つ進んだ。
ホッとした。
――。
えそれだけ?
――。
――。
それだけだった!!!
むしろ、先週は人間関係的なごたごたがあったりして、落ち込んだというか、面倒だなぁと思った。
そうなんだよな。
なんかほんとは、ふつーの人は、人間関係というのは、もっとこう、自分を高めてくれるというか、生き生きさせてくれるものというか、楽しいものというか、こう、ほら、その、正の要素なんじゃないかって思うんだ。
シロクマ先生の「認められたい」だってそうさ、人はみな承認欲求を満たされたいと思っているのである。
承認欲求は、人間関係の中でしか生まれない。だから、人間関係は大事なのだ。
どうにも!
人間関係は気疲れするものである。親しい人との付き合いは、それが壊れるかもしれないというドキドキ感、維持しなければという使命感、それほど親しくない人とは同じように維持しなければという使命感――まぁ言葉で書くとドギツイけれども、そういうものである。
まぁぶっちゃけ、僕の言動のイチイチが、急激にその人間関係をご破算にするものではない――と思いきや、しかし、先日の人間関係悪化問題は、「ささいな」ものであった。
もっとも、その「ささいな」というのは、自分にとってのものであって、相手にとっては些細ではなかったのである。そのズレは、致命的に人間関係を悪化させる――し、修復も難しくさせる。何故ならば、反省をしたとしても、その反省は、相手にとっては「反省しているようにみえない」ものであるからだ。反省したつもりになっても、自分にとって「些細」なことは、「ああ、その部分は大事なのだな、そういう場面ではそういったことを思ったりするのだな」という想像は可能であっても、厳密な共感ではないからである。
という、ぶつかり合いこそが、大事という人もいる。そういった喧嘩のようなものを積み重ねて、人は人として成長するのだ――という。
子供のころはそうかもしれない。大人はどうなんだろう。そもそも、対立しない状況を上手く維持するほうが大事だと思う。思うし、今更喧嘩を積み重ねていくというのもナンセンスな気がする。
まえがき
一つ、言い訳をすると、先週だかに、一つ、記事は書いていたのだ。そう。しかし、こんな小学生的な言い訳は恥ずかしいのであるが、書き途中のが消えてしまったのである。途中まで書いていて、投稿したつもりになっていて、もう眠すぎてシャットダウンしたら投稿されてなかったという、そんなことが実際にあったのだ。信じられないだろうが本当の話だ(別に信じられないほどのことではない)。
それでやる気を失ったのかどうかは分からないが、とにかく、ご無沙汰になった。
気づいたら、今日、まだ、6月になって、一つも書いていなかったという。
最近のことを振り返ろう
だから、今回の記事は、本当に、日記的な意味で書こうと思う。日記とは何か。
日記とは内省である。自分との対話である。一方で、何故、公開を前提とするのか。
日記とは、もう一人の自分との対話である。にもかかわらず、何故第三者にも読んでもらおうとするのか。
日記が内省的なものである、という位置づけは、必ずしも当てはまらない可能性がある(土井氏『友だち地獄』)。
公開を前提とした日記、ブログなり、SNSなりは、むしろ、その「キャラクター」によって、本来的な(生身の方の)自分が縛られる可能性がある。
現実世界に存在する「自分」という認識対象と、ブログ等ネット世界に存在する「自分」という認識。それが一致しないで、別のものになるのだ。やがて、ネットの人格のほうが「本来の自分」という意識が高まっていく――そんな状況がありえるのではなかろうか。
ラインとか、フェイスブックとか、NOTEもそうかもしれないが、実名公開を前提としたメディアもここ数十年で増えている気がする。
本来的には、キャラクターを演じる、というのは、オペラや演劇の時ぐらいであって、人はみな、現実における自分自身を生きているのである、というのが、正常なのかもしれない。
一方で僕は……。
だいぶ、もう、すでにほとんど、日記上の自分と、現実との自分で齟齬というか乖離のようなものは、無い気がしている。
逆に、昔は、大きかった気がする。何せ、「自分の(本当の)気持ち」を隠すことが人間関係を上手く運ぶための重要な要素だと信じていたからだ――と書いてみて、「いや、今も割とそれは思うな」と思った(かっこ笑い)。
ただまぁ、そうはいっても、「ぷっつん!!」キレる前に、ちょいちょいと、自分の感情は表に出している気がする。――っていうか、感情って今、俺、書いてみて思ったけど、「感情」=「怒り」「イライラ」と同義にイメージされていた。
いかんいかん、感情は、喜怒哀楽、いろいろあるものなのだ。どうにも、「感情」と意識して言葉を使うときには、僕は、負の感情をイメージしがちだ。もっと明るい感情だってあるのでは……あったかなぁ。
今日の振り返り
おいおい、全然、今日の振り返りしていないじゃないか。いかんいかん。で、せっかくだ。正の感情というか、今日の一よかったこと、うれしかったことを思い出してみよう。
面倒な(難しげな)調整ごとが一つ進んだ。
ホッとした。
――。
えそれだけ?
――。
――。
それだけだった!!!
むしろ、先週は人間関係的なごたごたがあったりして、落ち込んだというか、面倒だなぁと思った。
そうなんだよな。
なんかほんとは、ふつーの人は、人間関係というのは、もっとこう、自分を高めてくれるというか、生き生きさせてくれるものというか、楽しいものというか、こう、ほら、その、正の要素なんじゃないかって思うんだ。
シロクマ先生の「認められたい」だってそうさ、人はみな承認欲求を満たされたいと思っているのである。
承認欲求は、人間関係の中でしか生まれない。だから、人間関係は大事なのだ。
どうにも!
人間関係は気疲れするものである。親しい人との付き合いは、それが壊れるかもしれないというドキドキ感、維持しなければという使命感、それほど親しくない人とは同じように維持しなければという使命感――まぁ言葉で書くとドギツイけれども、そういうものである。
まぁぶっちゃけ、僕の言動のイチイチが、急激にその人間関係をご破算にするものではない――と思いきや、しかし、先日の人間関係悪化問題は、「ささいな」ものであった。
もっとも、その「ささいな」というのは、自分にとってのものであって、相手にとっては些細ではなかったのである。そのズレは、致命的に人間関係を悪化させる――し、修復も難しくさせる。何故ならば、反省をしたとしても、その反省は、相手にとっては「反省しているようにみえない」ものであるからだ。反省したつもりになっても、自分にとって「些細」なことは、「ああ、その部分は大事なのだな、そういう場面ではそういったことを思ったりするのだな」という想像は可能であっても、厳密な共感ではないからである。
という、ぶつかり合いこそが、大事という人もいる。そういった喧嘩のようなものを積み重ねて、人は人として成長するのだ――という。
子供のころはそうかもしれない。大人はどうなんだろう。そもそも、対立しない状況を上手く維持するほうが大事だと思う。思うし、今更喧嘩を積み重ねていくというのもナンセンスな気がする。
あとがき
(かっこ書きである。上の部分までで、約15分~20分ぐらい。15分あれば、割とかけるのである。にもかかわらず、果たして、2~3週間も、何も書けなかったというのは、いったいどんな天変地異があれば、言い訳が認められるのだろうか。否無い。一つ備忘録で書けば、先週土日、先々週土日は、丸一日寝ていた。活動時間は、一日あたり4時間ぐらいではなかろうか。ほんと、ずっと寝れることが最近分かってきた。すげーな。ほら、対処療法じゃなくて、なんだっけ、逆説思考というか、依存症患者に、逆にいっぱいやってみよう! とアドバイスすると、逆にできなくなって治癒するとか、そんな感じで、「好きなだけ寝てみよう」と一瞬でも思ったら、マジずっと寝てたわな。先週はむしゃくしゃしていたのもあって、ダラダラやる気が何も起きなかったら、ずっと布団の中で過ごしていた。やべー奴だ。――よし。仕方がない。過ぎ去った時間はどうしようもない。来週の土日。来週の土日こそ、ちゃんと、何かしよう! 何かする。何かすることを、平日のうちに考える。ああそうだ、こうやって、ブログを書くぐらいのことでもいい。何かしよう。何かしよう、何かせねば……)
今日の一言「久々に書く気がする」
日中も起きていると、とにかく眠いのであるが。
逆に、今、この時間でしか、何か生産的なことができないのかもしれない。
1日は24時間などではない。その一瞬のひと時が、1日のすべてを握っているといっても過言ではないのだ。それが、今なのだ。
と、無駄に自分を煽る。
それはそうと、キーボードの調子が悪いので、そろそろ新しいのを買ってもよいかと思い、ペンタブも買った。
論理矛盾である。
しかし、完全に矛盾しているのか。ついでに買った、という原理自体は崩壊していない気がする。
ただし、キーボードとそのペンタブの間には、大きな隔絶がある気がする。
では何故今なのか。――衝動買いである。これしか理由はないだろう。
めちゃくちゃ疲れていて、精神的にも、眠れなくて、眠ろうと思わなくて、キーボードをアマゾンで探していたところ、ふと思い立って、一緒に買ってしまったというだけである。深い理由はない。
人生にもまた、深い意味などないのかもしれない。
キーボードも、割と高めの、1万円ぐらいの奴にした。
結局、メカニカルキーボードはやめた。メンブレンでもいいんじゃないかと思ったのだ。
店頭でかちゃかちゃ試したことはあるが、それほど劇的な改善や感動があるとは思えなかった(3万~5万の費用的に)。
まぁいずれいつかは試してみたいと思う。
まえがき
朝の2時3時ぐらいが、涅槃寂静な気がする。日中も起きていると、とにかく眠いのであるが。
逆に、今、この時間でしか、何か生産的なことができないのかもしれない。
1日は24時間などではない。その一瞬のひと時が、1日のすべてを握っているといっても過言ではないのだ。それが、今なのだ。
と、無駄に自分を煽る。
それはそうと、キーボードの調子が悪いので、そろそろ新しいのを買ってもよいかと思い、ペンタブも買った。
論理矛盾である。
しかし、完全に矛盾しているのか。ついでに買った、という原理自体は崩壊していない気がする。
ただし、キーボードとそのペンタブの間には、大きな隔絶がある気がする。
何故買ったのか
もともと欲しかったというのはある。イラストを描いてみようと、書き方の本を買ったりもしていた。まだ残っている。でも実際に着手したことはなかった。紙に書くというのはなかなかハードルが高い気がする。一方で、デジタルは、やり直しも聞くし、紙代は無限大だし、良い気がした。そのためにはペンタブだと思った。しかし、割と金額もかかるし種類も多いしで、「そもそも使うのか」という思考により実行に移したことはなかった。では何故今なのか。――衝動買いである。これしか理由はないだろう。
めちゃくちゃ疲れていて、精神的にも、眠れなくて、眠ろうと思わなくて、キーボードをアマゾンで探していたところ、ふと思い立って、一緒に買ってしまったというだけである。深い理由はない。
人生にもまた、深い意味などないのかもしれない。
他に書くこと
それはそれとして、大きな買い物をして、それが届くのを待つのは、少し楽しいものである。キーボードも、割と高めの、1万円ぐらいの奴にした。
結局、メカニカルキーボードはやめた。メンブレンでもいいんじゃないかと思ったのだ。
店頭でかちゃかちゃ試したことはあるが、それほど劇的な改善や感動があるとは思えなかった(3万~5万の費用的に)。
まぁいずれいつかは試してみたいと思う。
あとがき
(かっこ書きである。1年の目標ってなんだっけ。もう、半年が過ぎようとしている。資格の取得を一つ目標に掲げていたが、そもそも試験が中止になった――ことを言い訳して、最近何も勉強していない。そもそも、毎日ブログ書くんじゃなかったっけ)
今日の一言「特殊相対性理論が先で一般が後」
ところが、まず書いておこうと思ったのは、「判断」的なことである。正直、今、それほど熱量を持てていないのだけれども、今日の昼ぐらいに、急激に、「これは書かねば!!!」と思ったので、書く。
某著名人の方の一部は、「自粛なんて意味がなかった。経済を破壊しただけだった」という主張をなされている。
結果的に、経済はかつてないほど冷え込んだ。これは事実に思われる。
ただし、自粛をすることが誤りだったのかどうか、これは分からないと思うし、僕が仮に判断する立場なら、自粛すべきという判断をしたと思う。
これは深い思考の下ではない。単純に、経済は取り返しがつくが、死んでしまったら取り返しはつかない、という点だけである。――いやすぐさまに、経済も取り返しがつかないということも言えるし、経済によって死ぬ人もいるだろう。
ただし、十分な情報がない中、爆発的に広がる可能性があり、死に至る感染症が、どういった影響があるかを考えれば、多くの人の判断は自粛やロックダウンを支持するだろう。
今の段階だから言えることと、その状況下での制約の中で言えることとでは、まったく違う。
ここで、逆に言えば、十分な情報を速やかに集められる状態でなかった、ということ自体が、敗北であったともいえる。
医療現場のキャパシティはどれぐらいなのか。感染者数の増加率はどれぐらいが推測されるのか。そこから導かれる結果として、一日の感染者数がどれぐらいになれば、集中治療室のキャパを超えて医療崩壊が起きるから、この時点で感染者数がこれ以上であれば、ロックダウンをするしかない――、こうしたストーリーがあれば、その状況下でも多くの人は納得せざるえないだろうし、その後に、経済が想像以上に冷え込んだとしても、あの時の判断がああだこうだ、という人も少ないだろう(きっと、ゼロになることはない)。
戦になる前の準備で、勝敗は決するのである。物語的にはつまらないけれども。ただ逆にその前提がある中での戦局を覆すような英雄的活躍は面白いだろう。
後になってからああだこうだ言ってもしょうがないだろう。と思う。
何故このことを、書いておかなければ(使命感)と思ったか、具体的な何かエピソードがあったのか、天啓だったのか、本当にもう全然覚えていないが、書かなければと思ったことは、確かこんなようなことだったと思う。
書いてみると、なんとまぁ平々凡々である。
数字は大事。ただ、数字に意味を与えるのは、またストーリーテラーである。
ブラックホールの話をしよう。
ブラックホールとは、光も抜け出せないほど強力な重力をもつ、高密度の天体である。
光は一瞬、と表現されたりするが、光もまた有限の速さをもつ。確かに、比ゆ的に、1秒で地球を7週半する速さなので、地球で暮らす分には一瞬である。
ただし、光でさえも、秒速30万kmという有限の速さをもつのである。
そして、光は粒子の性質をもつ。ただし、質量はゼロなので、万物最高速度である。(超光速ニュートリノというのがあったような。検証されたんだっけ?)
その粒子、フォトンが、人体の網膜という器官で反応すると、「見える」と脳が認識するのである。
そのフォトンも脱出できなくする、それがブラックホールだ。
どんぐらいの質量が、どんぐらいの密度になると、ブラックホールになるかというのは、計算式(方程式?)で求められる。シュヴァルツシルト半径と呼ばれる。
しかし、ウイルスも、万物の最小などではない。
一昔前は、「原子」が最小と考えられた。
今、そう思っている人は少ないだろう。
クォークとか、素粒子が最小構成要素といわれる。
それよりも小さいものは、あるのか、ないのか。
一方で、万物の最小単位は決まっているらしい。
それは、「10ナノ×ナノ×ナノ×ナノ」だという。
ナノは、10億分の1である。
10ナノは、1億分の1なので、数字で表すと下になる。
1
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100,000,000×1,000,000,000×1,000,000,000×1,000,000,000
10×マイナス35乗
まぁ、全然想像がつかない。
ただ、意外と、絶対にこれ以上は小さいものはない、という単位がこれなのだといわれると、わりと「へー」という気になる。
では何故これが最小単位なのか。
これ以上は、原理的に見ることができないからだそうだ。
これ以上小さいものを見ようとすると、ブラックホールが発生し、原理的に何も観測できないのだ。ブラックホールの先は、イベントホライゾン、事象の地平線の先である。
ウイルスが電子顕微鏡で見えるのは、電子よりもウイルスが大きいからだ。
ちなみに、電子とクォークでは、クォークの方が小さいのだろうと思う。もっとも、電子も、粒子といいつつ、干渉縞実験が示すように波のような性質ももつ。厳密な大きさという概念はないのかもしれない。
でまぁ、要するに、小さいものをみる、というのは、小さいものを放出して当ててはねっかえりで観測する、ということである。
レーダーは光の反射、潜水艦のソナーは音波の反射で観測する(間違ってるかもしれない)。
より小さなものをみるには、よりエネルギーが高い(波長が短い・高密度な)ものを放出する必要がある。
小さく小さく、高密度に――としていくと、結果。
ブラックホールになる、というわけである。
その、ブラックホールになる大きさというのが、先の、10ナノ×ナノ×ナノ×ナノだということだ。
だから、それ以上小さい世界は、無いに等しいのだ。
まえがき
タイトル的に、物理の話になりそうじゃないか。ところが、まず書いておこうと思ったのは、「判断」的なことである。正直、今、それほど熱量を持てていないのだけれども、今日の昼ぐらいに、急激に、「これは書かねば!!!」と思ったので、書く。
データによる判断
昨今の自粛の件である。某著名人の方の一部は、「自粛なんて意味がなかった。経済を破壊しただけだった」という主張をなされている。
結果的に、経済はかつてないほど冷え込んだ。これは事実に思われる。
ただし、自粛をすることが誤りだったのかどうか、これは分からないと思うし、僕が仮に判断する立場なら、自粛すべきという判断をしたと思う。
これは深い思考の下ではない。単純に、経済は取り返しがつくが、死んでしまったら取り返しはつかない、という点だけである。――いやすぐさまに、経済も取り返しがつかないということも言えるし、経済によって死ぬ人もいるだろう。
ただし、十分な情報がない中、爆発的に広がる可能性があり、死に至る感染症が、どういった影響があるかを考えれば、多くの人の判断は自粛やロックダウンを支持するだろう。
今の段階だから言えることと、その状況下での制約の中で言えることとでは、まったく違う。
ここで、逆に言えば、十分な情報を速やかに集められる状態でなかった、ということ自体が、敗北であったともいえる。
医療現場のキャパシティはどれぐらいなのか。感染者数の増加率はどれぐらいが推測されるのか。そこから導かれる結果として、一日の感染者数がどれぐらいになれば、集中治療室のキャパを超えて医療崩壊が起きるから、この時点で感染者数がこれ以上であれば、ロックダウンをするしかない――、こうしたストーリーがあれば、その状況下でも多くの人は納得せざるえないだろうし、その後に、経済が想像以上に冷え込んだとしても、あの時の判断がああだこうだ、という人も少ないだろう(きっと、ゼロになることはない)。
戦になる前の準備で、勝敗は決するのである。物語的にはつまらないけれども。ただ逆にその前提がある中での戦局を覆すような英雄的活躍は面白いだろう。
情報収集とストーリーが大事
上のようなことは、時事的なことなのだが、仕事の上でも、どうにも、後出しじゃんけん的な発想をする人がいると、気力が下がる(なんだかなぁと思う)。後になってからああだこうだ言ってもしょうがないだろう。と思う。
何故このことを、書いておかなければ(使命感)と思ったか、具体的な何かエピソードがあったのか、天啓だったのか、本当にもう全然覚えていないが、書かなければと思ったことは、確かこんなようなことだったと思う。
書いてみると、なんとまぁ平々凡々である。
数字は大事。ただ、数字に意味を与えるのは、またストーリーテラーである。
ブラックホールについて
以上、面白くない話、終わり。ブラックホールの話をしよう。
ブラックホールとは、光も抜け出せないほど強力な重力をもつ、高密度の天体である。
光は一瞬、と表現されたりするが、光もまた有限の速さをもつ。確かに、比ゆ的に、1秒で地球を7週半する速さなので、地球で暮らす分には一瞬である。
ただし、光でさえも、秒速30万kmという有限の速さをもつのである。
そして、光は粒子の性質をもつ。ただし、質量はゼロなので、万物最高速度である。(超光速ニュートリノというのがあったような。検証されたんだっけ?)
その粒子、フォトンが、人体の網膜という器官で反応すると、「見える」と脳が認識するのである。
そのフォトンも脱出できなくする、それがブラックホールだ。
どんぐらいの質量が、どんぐらいの密度になると、ブラックホールになるかというのは、計算式(方程式?)で求められる。シュヴァルツシルト半径と呼ばれる。
森羅万象最小の単位
さて、細菌も小さいが、ウイルスはもっと小さい。電子顕微鏡がなければ見えない。電子顕微鏡がない時代においては、ウイルスは、「呪い」と同じだ。ウイルスを操作することができれば、その時代において大層権威な呪術師として名をはせるだろう。しかし、ウイルスも、万物の最小などではない。
一昔前は、「原子」が最小と考えられた。
今、そう思っている人は少ないだろう。
クォークとか、素粒子が最小構成要素といわれる。
それよりも小さいものは、あるのか、ないのか。
一方で、万物の最小単位は決まっているらしい。
それは、「10ナノ×ナノ×ナノ×ナノ」だという。
ナノは、10億分の1である。
10ナノは、1億分の1なので、数字で表すと下になる。
1
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100,000,000×1,000,000,000×1,000,000,000×1,000,000,000
10×マイナス35乗
まぁ、全然想像がつかない。
ただ、意外と、絶対にこれ以上は小さいものはない、という単位がこれなのだといわれると、わりと「へー」という気になる。
では何故これが最小単位なのか。
これ以上は、原理的に見ることができないからだそうだ。
これ以上小さいものを見ようとすると、ブラックホールが発生し、原理的に何も観測できないのだ。ブラックホールの先は、イベントホライゾン、事象の地平線の先である。
ものを観測するとは
電子顕微鏡は、電子を放出し、観測対象にあてて、その反射によって(この表現が正しいかは不明)観測する。ウイルスが電子顕微鏡で見えるのは、電子よりもウイルスが大きいからだ。
ちなみに、電子とクォークでは、クォークの方が小さいのだろうと思う。もっとも、電子も、粒子といいつつ、干渉縞実験が示すように波のような性質ももつ。厳密な大きさという概念はないのかもしれない。
でまぁ、要するに、小さいものをみる、というのは、小さいものを放出して当ててはねっかえりで観測する、ということである。
レーダーは光の反射、潜水艦のソナーは音波の反射で観測する(間違ってるかもしれない)。
より小さなものをみるには、よりエネルギーが高い(波長が短い・高密度な)ものを放出する必要がある。
小さく小さく、高密度に――としていくと、結果。
ブラックホールになる、というわけである。
その、ブラックホールになる大きさというのが、先の、10ナノ×ナノ×ナノ×ナノだということだ。
だから、それ以上小さい世界は、無いに等しいのだ。
あとがき
(かっこ書きである。宇宙の開闢は138億年前といわれる。しかし、宇宙は膨張しつづけているので、もう、宇宙の果てには絶対に行けないのだ。しかし、超光速の移動手段が得られれば別だ。瞬間移動と、どこでもドアのようなワープは、原理的に違うように思える。瞬間移動は、超光速ないしは光速に近い移動速度のようなイメージである。ワープは、時空の歪みで移動するイメージである。サイエンスフィクションは夢があって面白い。人類はすごい)
今日の一言「タイトルが入り混じってる」
なんか、突然、腰が痛くなった。慢性的な肩こりはあるにせよ、腰が痛いということはあまり経験がなかったので少し驚いている。
腰を、後ろにそらすような動きをするときに、体に電流が走るかのように激震する(大げさ)。そして、何も動かずとも、じわじわと、痛い。
ぎっくり腰とかヘルニアとか、腰痛に苦しむ人の気持ちが、ようやく分かった気がする。
「痛み」
これは、等しく平等なものなどではない。
それぞれの痛みは、個性がある。
みんな、人それぞれの痛みをもっている。
要するに――「いてええええええ!!!」。
まぁ、それはいい。今回は、民主主義に関して頂いたコメントと、アンタゴニアスを読んだということを書ければいい。
(引用A)
確かに。間違いなく、少数で決めた方が早いし楽。
決める過程が関係者が多いと、とにかく大変。
そもそも、複雑な議題を、理解してもらうところから始めることになると、非常に労力。ただ、これが流行りの「説明責任」というやつで、無視できない。
しかも、決めた後にも、不平不満、文句をいう人たちはゼロにはならない。
だから、間接民主制は次善の策だ、と思う。
(引用B)
改善の方向性としては、「政治家・官僚・業界団体(圧力団体)に対する監視機能」強化、が考えられる。
しかし、様々な社会問題に対して、適切に、あるべき論を語れる人はどれだけいるのか。
引用Bにおける、「・大半の人は知性も不足している(というよりも、能力が高い人は少ないという意味)」というのはまさにそうだと思われ、これは、人はみなバカばっかりというのでは決してなくて、どんな人でも森羅万象に詳しいわけではない。
引用Aにおける、政治家は誰もマニフェストを守らない、というのも、最初から守る気はなくて耳障りのいいことを選挙活動する人もいるかもしれないけれども、大半はそうではないと信じたい。守らないのではなくて、守れない――いざそれを実行しようとすれば、いろいろ問題があることが判明して、その問題の解決策が思いつかない、と、そんなことなんじゃなかろうか。
結局、専門家や業界団体の言うことを聞かなければいけない。専門家が黒ということを赤というのは言いづらい。だから、専門家と呼ばれる人のうちで、自分の方向性に近しい人を有識者会議のメンバーに入れたり……とか、そういうこともあるのではないかと思う。何ら根拠はないけれども、逆にいえば普通そうする気がする。
でもそんなこと我々は分からない。専門家の誰それがどういう人品でどういう主張でどういう権威でとか分からない。現実問題として、「監視」できる人がどれだけいるのか。
うん、まとまりがないけれども、だからこそ、教育が大事で、国民全体の知性・知識の底上げが必要なんだなとふと思った。
絶罪殺機アンタゴニアス
一気読みだった。(これは先日の話)
僕の身体的な眠気と痛みが途中で襲ってきたが、それでも、止まらなかった。止まらなく面白かった。
暗い目の男、ギド、ジアド、クロロディス――キャラが、濃い。
まえがき
身体の、痛み、強く痛いとき、それでもなお思考を優先できる人を、僕は無条件に尊敬する。なんか、突然、腰が痛くなった。慢性的な肩こりはあるにせよ、腰が痛いということはあまり経験がなかったので少し驚いている。
腰を、後ろにそらすような動きをするときに、体に電流が走るかのように激震する(大げさ)。そして、何も動かずとも、じわじわと、痛い。
ぎっくり腰とかヘルニアとか、腰痛に苦しむ人の気持ちが、ようやく分かった気がする。
「痛み」
これは、等しく平等なものなどではない。
それぞれの痛みは、個性がある。
みんな、人それぞれの痛みをもっている。
要するに――「いてええええええ!!!」。
まぁ、それはいい。今回は、民主主義に関して頂いたコメントと、アンタゴニアスを読んだということを書ければいい。
民主主義について
コメントを引用する。飲尿と誤変換するところだった。(引用A)
>・政治家はマニュフェストを守らない・誰に投票しても変わんないから選挙に皆行かないここだけみると間接民主制は無理って思うわな。自分もそう思う。でも、直接民主制もマジでくそだと思うよ。学生だった時にクラス全員で話し合いをして、まともな議論になったことってあります?会社での会議での意思決定のくそさ加減にうんざりしてないです?少数での議論よりも多数での議論のほうが死ぬほど面倒くさい。
確かに。間違いなく、少数で決めた方が早いし楽。
決める過程が関係者が多いと、とにかく大変。
そもそも、複雑な議題を、理解してもらうところから始めることになると、非常に労力。ただ、これが流行りの「説明責任」というやつで、無視できない。
しかも、決めた後にも、不平不満、文句をいう人たちはゼロにはならない。
だから、間接民主制は次善の策だ、と思う。
(引用B)
>また、多数決の結果が正しいでしょうか。今のコロナ騒ぎについて、国民全員にアンケートして方針を決めるなんてことしたら大変なことになりますよ。・専門知識の不足(専門家は限られている)・大半の人は知性も不足している(というよりも、能力が高い人は少ないという意味)・国民全員で意思決定するための膨大なコスト(システム投資や全員で議論するために国会で議論するよりも時間がかかるため、その時間コストなどなど)これらを補うのはできないことではない、でも、社会に膨大なコストを強いる。それは現実的ではないから間接民主制なんだと思います。間接民主制は社会的コストが比較して少ない仕組みなんですわ。この労働者数が減っている時代に直接民主制みたいな不効率なことしないほうがいいとおもう。
確かに。多数決がいついかなるときも正しいというのは、成り立たない。
(引用C)
(引用C)
>もちろん今の間接民主制にもみんな思っているような問題があるからそういう話になるわけで、何が急所なんだろと考えてみた。
多分「政治家に対する監視機能」が圧倒的に欠如している。既存のものは今の一般大衆(自分含む)にとって優しくないから、それだけだと難しい。
ここを何とかして、投票した政治家や政党が普段どんなことをしているか、きちんとわかって、それが投票結果に反映されるような仕組みを作り上げれば、間接民主制はもっと良くなるんじゃないかな。
改善の方向性としては、「政治家・官僚・業界団体(圧力団体)に対する監視機能」強化、が考えられる。
しかし、様々な社会問題に対して、適切に、あるべき論を語れる人はどれだけいるのか。
引用Bにおける、「・大半の人は知性も不足している(というよりも、能力が高い人は少ないという意味)」というのはまさにそうだと思われ、これは、人はみなバカばっかりというのでは決してなくて、どんな人でも森羅万象に詳しいわけではない。
引用Aにおける、政治家は誰もマニフェストを守らない、というのも、最初から守る気はなくて耳障りのいいことを選挙活動する人もいるかもしれないけれども、大半はそうではないと信じたい。守らないのではなくて、守れない――いざそれを実行しようとすれば、いろいろ問題があることが判明して、その問題の解決策が思いつかない、と、そんなことなんじゃなかろうか。
結局、専門家や業界団体の言うことを聞かなければいけない。専門家が黒ということを赤というのは言いづらい。だから、専門家と呼ばれる人のうちで、自分の方向性に近しい人を有識者会議のメンバーに入れたり……とか、そういうこともあるのではないかと思う。何ら根拠はないけれども、逆にいえば普通そうする気がする。
でもそんなこと我々は分からない。専門家の誰それがどういう人品でどういう主張でどういう権威でとか分からない。現実問題として、「監視」できる人がどれだけいるのか。
うん、まとまりがないけれども、だからこそ、教育が大事で、国民全体の知性・知識の底上げが必要なんだなとふと思った。
アンタゴニアス
こう、連載作品を読むのが少し苦手であるので、ある程度まとまってから読み始めようというそういう邪念によってこれまで読んでなかったが、ようやく、アンタゴニアスを、既投稿分まで読んだ。絶罪殺機アンタゴニアス
一気読みだった。(これは先日の話)
僕の身体的な眠気と痛みが途中で襲ってきたが、それでも、止まらなかった。止まらなく面白かった。
暗い目の男、ギド、ジアド、クロロディス――キャラが、濃い。
どうしたら、このような個性引き立つキャラクターを描けるのか。才と鍛錬の賜物なのだろう。
(僕はクロロディス氏がなんか好き。まだ真の目的とか正体とか分からないけれども。雰囲気好き)
木曜日と、金曜日が定期更新の日らしい。楽しみである。まだ死ねない。腰が痛い(そう、書いている最中ずっと痛いのである)
(僕はクロロディス氏がなんか好き。まだ真の目的とか正体とか分からないけれども。雰囲気好き)
木曜日と、金曜日が定期更新の日らしい。楽しみである。まだ死ねない。腰が痛い(そう、書いている最中ずっと痛いのである)