生きていることがつまらないのは、そう思考してしまうからだ。
そんなこと当たり前だが…。
そんなことにも気付かないのは、生きているのが楽しいかつまらないかということは自分が決める
ことだったんだ。
たとえ幻想でも信じ抜くことが出来れば、孤独でも独りでも楽しくなれるはず。
という記事を読んだ。
それに対して、
「毎日楽しいだけ、なんて人なんてどこにもいないよ! そうしたアピールが上手い奴ってのはいるけど」
という意見、それに続いて、
私は毎日が楽しくて仕方がありません。
でも、別に楽しくなくてもいいと思っています。生きている必要さえないと思っています。
「どうなろうと構わない」
生きている以上、「死ぬ」という逃げ道があるのだから、人生はとても優しいと思います。
死んでもなお苦痛が続く可能性があるので、死ぬのは怖いです。
といった考えは、若いとありがち。歳をとるにつれて、死ぬのが怖くなる。
今がよければそれでいい。今がよくなければどうでもいい。
という書き込み。
変わることって、誰しも怖いことだと思う。
でも結局、変化をしない人間なんていない。僕は、それを分かっているから、ロボットやAIなどに憧れるのかもしれない。
(ただし、昨日見た『WALL・E(ウォーリー)
だったら、変化をすべて受け入れたらいいと思うのは、とても短絡的な考えだ。
実際、そんなこと不可能に近い。なにせ、その「受け入れる」主体というのが、一体どこにいってしまうのか、疑問だ。
そう、だから、その主体そのものを取っ払ってしまえばいい。
「自分」というものに拘ることが、どうしても苦痛の原因になる。
いやその主張は、「いじめ」を続けられても、それを「笑い」「ネタ」にし続け、結局崩壊、自殺した子どもたちを見捨てることになる。絶対的に、自己と環境は、切っても切り離せないと思う。
つまり、自分と環境を常にいったりきたり、アクション&フィードバックさせ続ける、そうした試みが必要だということだ。
いやもちろん、そんなこと、誰しも自然にやっている。しかし、それを敢えて意識的に、もう一人の自分を作成し、そいつが常に自分をモニタリング(監視)するようにする。徹底的な客観視。
自分がある程度、どう見られているかを「自覚」「分析」する。自己分析というものだ。
それは、エントリーシートに書くような、文面だけのものではない。自分の話し方、ルックス、身長体重、匂い、そうした全情報を要素としてインプットする。
「自分を変える」というのを、よく、資格をとるだとか、勉強するだとか、そうした「後付け」のことのように感じてしまう人が多い。
変えるというのは、根本的にだ。整形しろというわけではないが、それくらいの覚悟は必要のことだ。(まぁ、整形がそれほど覚悟がいるかどうかは、また別の話。整形が覚悟がいる、というように考えてしまう「自分」がいるということだ。)
常に変えろ、というのでもない。変える必要が無いと「判断」できたのなら、する必要など無い。
ここで、その「判断」が、如何にされるか、それが問題になる。
それこそ、「自分」だけだ。
変わり続ける自分、だが、その面、そのときそれぞれに現れる「自分」というのは、確かに存在する。
そいつに聞けばいい。
「今、僕(私)は、大丈夫なのですか?」
そうした考えが、「無責任すぎる」と批判もされようが、しかしながら、その時々の自分は、確かに「自己責任」を取っている。
PR
セダンに乗って、旧式の銃、マスケット銃のようなものを、もって、ダンプカーを追っていた。
ダンプカーには男が二人見える。ダンプカーが襲ってくる。自分の車を踏み潰そうと。
俺は逃げた。――いや、殺さなければ、殺される。
坂を下ったところで、路地に入り、ダンプをやり過ごそうとする。
しばらく待ったところで、ダンプは、やり過ごすどころか、突然目の前に現れる、バレていたのだ……!
再びアクセル全開で逃げる。
今度は、農道のようなところで、車を止め、ダンプを銃で連射し、すぐに弾切れになった。
観念して車から降りた所で、大男が現れた。
「殺すなら殺すがいい」
「殺すのは、君の方だよ」
男は、何か悟った風にいった。
そして、走りよってきた女性と子どもに手をやって、「妻と娘だ」と言った。
「そんなことは分かってる、そうじゃなくて……」
僕は気付いた、これは「ゲーム」だったのだと。
「なら、この後、どうなるんです?」
「再度行われる。もう少し多くの弾薬を渡されて」
男は、こちらを真っ直ぐ見据えて言う。
「初めは皆、ここに入って、最高の楽園だと思う。最初のうちは。だが、何年、数十年経っていき、同じように思える奴はいない」
「――分かってる! そんなことも分からない俺じゃない。だけど、だけど、一体どうしたらいいんだ!」
男は少し優しい目になって、木の上の、男の隠れ家のような所に案内された。
ダンプカーには男が二人見える。ダンプカーが襲ってくる。自分の車を踏み潰そうと。
俺は逃げた。――いや、殺さなければ、殺される。
坂を下ったところで、路地に入り、ダンプをやり過ごそうとする。
しばらく待ったところで、ダンプは、やり過ごすどころか、突然目の前に現れる、バレていたのだ……!
再びアクセル全開で逃げる。
今度は、農道のようなところで、車を止め、ダンプを銃で連射し、すぐに弾切れになった。
観念して車から降りた所で、大男が現れた。
「殺すなら殺すがいい」
「殺すのは、君の方だよ」
男は、何か悟った風にいった。
そして、走りよってきた女性と子どもに手をやって、「妻と娘だ」と言った。
「そんなことは分かってる、そうじゃなくて……」
僕は気付いた、これは「ゲーム」だったのだと。
「なら、この後、どうなるんです?」
「再度行われる。もう少し多くの弾薬を渡されて」
男は、こちらを真っ直ぐ見据えて言う。
「初めは皆、ここに入って、最高の楽園だと思う。最初のうちは。だが、何年、数十年経っていき、同じように思える奴はいない」
「――分かってる! そんなことも分からない俺じゃない。だけど、だけど、一体どうしたらいいんだ!」
男は少し優しい目になって、木の上の、男の隠れ家のような所に案内された。
1999年、米の輸入関税化、つまり、民間でも関税を払えば米を輸入できるようになった。
それまでは、政府米といい、政府が米の販売ルートや、生産者価格(農家の販売価格)と消費者価格(私たちの米の購入価格)を決めていた。
それ以外のルートの米は、ヤミ米として違法だった。
外国米はまずい……
この消費者感情は、実は政府の世論操作であった、そういう説がある。
1980年代の、ニクソンショックとプラザ合意、つまり、貿易摩擦の問題が深刻になっていた、その流れにおいて、米を含む農産物の輸入自由化が諸外国の圧力で進められた。
もはや抗うすべはない……そこで政府は、外国米はまずいという感情を生じさせ、外国米を消費者自身が排除するように仕向けた。
米といっても、品種によって傾向が全く違う。それぞれに適した調理方法もある。だが、ブレンド米は、それぞれの味が珍妙にまざりあい、すべてに不向きとされた。
まずいものは、いくら安くても買わない。
やはり米は、日本のものが一番だ!
ひいては、それは、日本の農家を守るため……。
そこにおいて、ブレンド米をおいしく頂ける調理方法をあみだす料理人は非国民だ。外国米はまずくなくてはいけないのだ。
空気を読むというのは、実に高度な業なのだ。
それには、複雑な知識と、演繹、帰納的な思考、素早い判断力などが要求される。
それが社会性、協調性だ。
自分勝手な判断は許されないと同時に、即断的行動力も必要となる。
私は、常にそのような対応ができない自分に腹立っている、しかし、そうしなくてもよい人も見つけられた、だがしかし、そのような人へ与えてしまった不快感情は、強い自分の痛みとなって反射される。
だから私は、せめてツールを明らかにすることで楽になろうとする。
それまでは、政府米といい、政府が米の販売ルートや、生産者価格(農家の販売価格)と消費者価格(私たちの米の購入価格)を決めていた。
それ以外のルートの米は、ヤミ米として違法だった。
外国米はまずい……
この消費者感情は、実は政府の世論操作であった、そういう説がある。
1980年代の、ニクソンショックとプラザ合意、つまり、貿易摩擦の問題が深刻になっていた、その流れにおいて、米を含む農産物の輸入自由化が諸外国の圧力で進められた。
もはや抗うすべはない……そこで政府は、外国米はまずいという感情を生じさせ、外国米を消費者自身が排除するように仕向けた。
米といっても、品種によって傾向が全く違う。それぞれに適した調理方法もある。だが、ブレンド米は、それぞれの味が珍妙にまざりあい、すべてに不向きとされた。
まずいものは、いくら安くても買わない。
やはり米は、日本のものが一番だ!
ひいては、それは、日本の農家を守るため……。
そこにおいて、ブレンド米をおいしく頂ける調理方法をあみだす料理人は非国民だ。外国米はまずくなくてはいけないのだ。
空気を読むというのは、実に高度な業なのだ。
それには、複雑な知識と、演繹、帰納的な思考、素早い判断力などが要求される。
それが社会性、協調性だ。
自分勝手な判断は許されないと同時に、即断的行動力も必要となる。
私は、常にそのような対応ができない自分に腹立っている、しかし、そうしなくてもよい人も見つけられた、だがしかし、そのような人へ与えてしまった不快感情は、強い自分の痛みとなって反射される。
だから私は、せめてツールを明らかにすることで楽になろうとする。
自己肯定感を失ったくらいで、自我崩壊するほど経験が無いわけでも、弱くもない。
今日、自分の信頼の低さを感じる出来事に遭遇したが――だが、それも、業務として考えれば、何ら間違ってはいないと断言できる。私がむしろ、躊躇することだ、だから、なおさらに、尊敬すらできる。当然、私は、「傷つくべきだ」。
だが、「当然」である、そういう事態だ。ここに、私の感情は必要ない。何故ならば、業務に本来感情は余分である。
私は思うに、楽しい仕事というものを一切想定していなかった、だが、それは、単調な仕事が面倒だとか言う、その次元の話しではない、私はもっと過酷なものを想像していた。
感情がついえ、身体に不調をきたし、何も動けなくなったらそれでいい、ようやく私の「勝ち」だ。
だが、それすら、唯一の希望である自虐すら否定された――そうなれば、私は生きているかどうかも分からなくなる。
私という人格の否定――構わない、そう思っていたが、幾分に堪える。
大分痛みになる事象だと気付くが、それすら処理の範囲内であるとしたとき、――結局、私は、「鬱」なるものを既に一切信じられはしないのだ。その人が自殺してしまえば、ようやく、「つらかったね」と、一言――たった一言、搾り出せる、冷酷な人間――そこまでしないと自我を保てない、弱い人間だ。
つまり、ここから読み取れるのは、強い人間ほど弱いという逆接、つまり、なよなよしていた方が実はしぶとく生き延びる、これはエンターテイメントでの鉄則でもあるが、あながち非現実的でもない。
私は、失ったとしても、それは、自らのせいとすべて帰属する――これは正しいかどうかの問題ではなく、むしろ処世術的に維持する方策でしかない、ゆえに普遍性はない。
今日、自分の信頼の低さを感じる出来事に遭遇したが――だが、それも、業務として考えれば、何ら間違ってはいないと断言できる。私がむしろ、躊躇することだ、だから、なおさらに、尊敬すらできる。当然、私は、「傷つくべきだ」。
だが、「当然」である、そういう事態だ。ここに、私の感情は必要ない。何故ならば、業務に本来感情は余分である。
私は思うに、楽しい仕事というものを一切想定していなかった、だが、それは、単調な仕事が面倒だとか言う、その次元の話しではない、私はもっと過酷なものを想像していた。
感情がついえ、身体に不調をきたし、何も動けなくなったらそれでいい、ようやく私の「勝ち」だ。
だが、それすら、唯一の希望である自虐すら否定された――そうなれば、私は生きているかどうかも分からなくなる。
私という人格の否定――構わない、そう思っていたが、幾分に堪える。
大分痛みになる事象だと気付くが、それすら処理の範囲内であるとしたとき、――結局、私は、「鬱」なるものを既に一切信じられはしないのだ。その人が自殺してしまえば、ようやく、「つらかったね」と、一言――たった一言、搾り出せる、冷酷な人間――そこまでしないと自我を保てない、弱い人間だ。
つまり、ここから読み取れるのは、強い人間ほど弱いという逆接、つまり、なよなよしていた方が実はしぶとく生き延びる、これはエンターテイメントでの鉄則でもあるが、あながち非現実的でもない。
私は、失ったとしても、それは、自らのせいとすべて帰属する――これは正しいかどうかの問題ではなく、むしろ処世術的に維持する方策でしかない、ゆえに普遍性はない。
パン屋さんでの話だ。
タイムセールで、レジ前は長蛇の列。私の横にも商品が置いてある。
後ろの男の子(小学低学年くらい)=S「あのパンだよ」
S父「どれだよ」
S「人が並んでるから取れないんだよ。並びながら取るよ」
S父「だからどれだって言ってんだよ」
S「あの、ガーリックパン、130円の奴だよ」
S父「とってこい」
S「でも、人が……」
S父「いいから取って来い。お父さんがいるから」
Sくん、しぶしぶ私の横に無理やり入ってきて、手を一生懸命伸ばしてガーリックパンを取る。
――列が進み、レジの近くまで来た。
S父「空いたから、あっちのレジに行きなさい」
※レジは二つ。だが、一つの列で、順番に、空いた方の列にいく状態。そうすると、もし奥のレジが先に空くと、順番は私の番だけれども、Sくんがあちらのレジに行くと、仮に奥のレジが先に空くと、私の順番が飛ばされる。
S「ダメだよ、順番だよ」
S父「いいから行って来い」
S「ダメだってば」
俺「あんたね、子どもの方が常識あるってどういうこと? せっかく子どもがまともに育ってるのに、あんたの悪い教育のせいで、この子の道徳性がひんまがったらどうするつもりなの?」
――と言いかけて振り返ろうとしたら、手前のレジが空いて私の会計の番になった。
追記だが、「悪い教育」という言葉もおかしいと思う。教育なんてもんじゃないだろう。
追記だが、イートインスペースで、S君の父親は、「S、お父さんの分のお茶ももってこい」と命令していた。S君は、文句もいわず、黙ってお茶を用意しようとしていたが、その父親は、「返事しろよ」と怒鳴っていた。
――思うに、悲劇は、子どもは親を選べないことではないか。
――というのは一般に言われることだ。しかし、よく考えれば、親だけではない。自分の出自など選びようが無い。
タイムセールで、レジ前は長蛇の列。私の横にも商品が置いてある。
後ろの男の子(小学低学年くらい)=S「あのパンだよ」
S父「どれだよ」
S「人が並んでるから取れないんだよ。並びながら取るよ」
S父「だからどれだって言ってんだよ」
S「あの、ガーリックパン、130円の奴だよ」
S父「とってこい」
S「でも、人が……」
S父「いいから取って来い。お父さんがいるから」
Sくん、しぶしぶ私の横に無理やり入ってきて、手を一生懸命伸ばしてガーリックパンを取る。
――列が進み、レジの近くまで来た。
S父「空いたから、あっちのレジに行きなさい」
※レジは二つ。だが、一つの列で、順番に、空いた方の列にいく状態。そうすると、もし奥のレジが先に空くと、順番は私の番だけれども、Sくんがあちらのレジに行くと、仮に奥のレジが先に空くと、私の順番が飛ばされる。
S「ダメだよ、順番だよ」
S父「いいから行って来い」
S「ダメだってば」
俺「あんたね、子どもの方が常識あるってどういうこと? せっかく子どもがまともに育ってるのに、あんたの悪い教育のせいで、この子の道徳性がひんまがったらどうするつもりなの?」
――と言いかけて振り返ろうとしたら、手前のレジが空いて私の会計の番になった。
追記だが、「悪い教育」という言葉もおかしいと思う。教育なんてもんじゃないだろう。
追記だが、イートインスペースで、S君の父親は、「S、お父さんの分のお茶ももってこい」と命令していた。S君は、文句もいわず、黙ってお茶を用意しようとしていたが、その父親は、「返事しろよ」と怒鳴っていた。
――思うに、悲劇は、子どもは親を選べないことではないか。
――というのは一般に言われることだ。しかし、よく考えれば、親だけではない。自分の出自など選びようが無い。
