気付いたら、本心・本音・「本当の自分」なんてものを失っていた。
多元解釈の呪い、それは、既に自分自身にも及んでしまったのだった。
彼は、彼という存在を信じられない。
感情――それが、効率よく他者と協力するための機能であることを知ったとき、彼は、その機能の欠陥を思った。
しかしながら、彼に対して、強烈な楔を打ち込むことも可能である。
貴方の考える理解というものは、貴方の幻想に過ぎないのですよ、と。
彼の狂気に満ちたその言動は、彼の目に映る魑魅魍魎がゆえに。
しかしそれは、誰の目にも映ることはありえないのである。
彼は、呪われた自分を呪った。
しかしその時彼は、まだ本心というものをもっていた。
彼が、自己を失ってしまったのは、自己を縛る呪いすら相対化してしまったからだ。
ここで彼は、劇的に変化を遂げる。
彼の世界には、主観も、客観も生じなくなる。
ただ、その時、そのものすべてが世界なのであって、即ちそれが自分自身なのである。
世界は傍若無人な絶対者から転じ彼自身になった――否、彼が、世界の一部に溶け込んだのか。
解説
「胸毛すっきりしたい!」
彼は思い立った。
果たして、胸毛をすっきりさせて、自信をもって女の子に告白をする。女の子は、二つ返事で喜んでくれた。自分も、天にものぼる幸せをかみ締める。
しかし同時に彼を襲う思考がある。
(俺は、胸毛をすっきりさせて彼女をGETできた。しかし、本当の俺は、胸毛がボーボーだ。俺の彼女は、「俺自身」を好きになったのではない……)
彼は、我慢ならず、胸毛を元に戻した。否、前にもましてひどいボーボーである。即ち彼は、最低の行為をしたのだ。彼女を、試したのだった。
しかし彼女の反応は、驚くべきものであった。
「ケイくん、そんなこと気にしてたんだ。バカだねー。わたし、毛、こゆい人、好きだよ」
口元に手を当てて上品に、などということは全くなくて、彼女は、本当にふきだしていた。
その、女性としては少しはしたない姿を見て、彼は安心したのだった。
ところが、既に、彼は手遅れだったのである。
彼は、彼女を、胸毛ボーボーの自分でも愛してくれる存在、としてしか思えなくなったのである。即ちこういうことだ。彼は、変化する自分自身に気付いてしまったのだ。同時に彼は、自分の多面性にも気付いてしまう。
あろうことか、ついに彼は、彼女すら疑ってしまう。
心を穏やかにしてくれる彼女の笑顔。――それが、張り付いた冷酷な嘲笑である可能性を、彼は否定できなくなった。
彼女といくら身体を重ねあっても、いくら千の愛の言葉を交わそうとも、彼は彼女を――否、流転する自己そのものを、到底に信じられなくなったのであった。
本文は、その後のお話です。誰の? ケイくんの、です。
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