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信頼について
2010/12/24 21:30 | Comments(0) | TrackBack() | 思考及び書くこと
自己肯定感を失ったくらいで、自我崩壊するほど経験が無いわけでも、弱くもない。

今日、自分の信頼の低さを感じる出来事に遭遇したが――だが、それも、業務として考えれば、何ら間違ってはいないと断言できる。私がむしろ、躊躇することだ、だから、なおさらに、尊敬すらできる。当然、私は、「傷つくべきだ」。

だが、「当然」である、そういう事態だ。ここに、私の感情は必要ない。何故ならば、業務に本来感情は余分である。

私は思うに、楽しい仕事というものを一切想定していなかった、だが、それは、単調な仕事が面倒だとか言う、その次元の話しではない、私はもっと過酷なものを想像していた。
感情がついえ、身体に不調をきたし、何も動けなくなったらそれでいい、ようやく私の「勝ち」だ。



だが、それすら、唯一の希望である自虐すら否定された――そうなれば、私は生きているかどうかも分からなくなる。
私という人格の否定――構わない、そう思っていたが、幾分に堪える。

大分痛みになる事象だと気付くが、それすら処理の範囲内であるとしたとき、――結局、私は、「鬱」なるものを既に一切信じられはしないのだ。その人が自殺してしまえば、ようやく、「つらかったね」と、一言――たった一言、搾り出せる、冷酷な人間――そこまでしないと自我を保てない、弱い人間だ。


つまり、ここから読み取れるのは、強い人間ほど弱いという逆接、つまり、なよなよしていた方が実はしぶとく生き延びる、これはエンターテイメントでの鉄則でもあるが、あながち非現実的でもない。


私は、失ったとしても、それは、自らのせいとすべて帰属する――これは正しいかどうかの問題ではなく、むしろ処世術的に維持する方策でしかない、ゆえに普遍性はない。

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