時間ない!
いやそれは、主体的でない言葉だ。時間はただ無常に過ぎていくのみである。
とか、いったところで、やっぱり、時間ないわなぁ。
帰宅がやはり23時過ぎると、ほかにできることがない。その中で、ひとつふたつだけ、選んで行う。その優先度は、先日書いた通り、物語だ、とはいえ、他にゴミ捨てとか作業があったり、やらなきゃまずいこともあるので、やっぱり、時間ない! という感覚になる。
だが果たして、本当にそうか?
もっと前から準備し、対策をしておけば、回避できたのではないか?
生きる意味は重要だ、としながらも、未来なんて分からない、と思う、
それは、明日のことでさえもそうだ。
ある方のスケジュールみせてもらったが、分刻みで予定がはいっていた。
サイト構築が思いの外進んだのが日曜日だが、土曜日の予定によって、身体と精神的には、正直休みなしの二週目に突入した感覚である。
新しいデータベースの設計と構築ができたのは進捗だなぁ、この、サイトのことと、このブログのこと関係しないし
そして、二日後のいまにおいて、何が、残すことなのか。
感想。
人に伝えるプラス要素
断片的な過去の記憶
テーマパークで過ごした甘い一夜
家族
人
拒絶といじめ
不合理、理不尽
目のいたさ
仕事が重い。
ある、精神科医のブログにおいて、恋愛至上主義も崩壊した、とあった。
この恋愛至上主義への懐疑はかなり以前からあって、その要請から逃れるため、様々な努力をしたことは記憶に新しい。
そしてこの記事では、新しい価値観を、やはり早急に探し求めなければ、いつまでもレイトマジョリティとして、苦しみ続けるだろうということだ。
ある方が、小説は、ある程度の技術がそなわれば、答えのない無限大の世界であると述べられていた。
視点や気付きが神がかっている。しかし、重要なのは、そのあとの感想や感覚の表現、すなわち、答えがない何でもありという価値観自体への疑念という点。
これは、ものすごく重大で重要な感覚に思われる。
世界の反転、価値観の反転、劇的な思考の変化は、莫大なエネルギーを必要とする。
残念なことに、この問題点を、うまく表現するすべをいまはもっていない。
だが、この問題が明確になれば、いわゆるふわふわした、生きづらさ的な感覚を、ようやく言語表現としてとらえることができそうなのだが、いま、こうして言語化していくなかで、ますます遠ざかる感覚である。
消えていく、消えていく、世界が、
詩的な表現にならざるえないほど、この問題は、未踏の場所でに或る
確信的に増していくのは、この、世界にたいしての、アプローチとしての、実感めいたものである。
認知するものが世界であり、この認知は己の生み出すものでありかがら、その自らはせかいにより規定され続ける。
この連関により、僕の感覚は変化し続け、そして、緩やかに思うがままにかたちづくられる
異なる時系列の短文をひとつの記事にすると、カオスだな。
短い記事で投稿したが、あまりにつまらないと思って消してしまった。それをいくつかまとめてみた。
書いているときの感覚が違うとどうだろう。
とりあえず、
もういろいろやってられねぇと、泣き言やてきとーなことを言いまくって逃げ出した!
まぁそのおかげで、上手くいった部分もありそう。
他の人の約束とかも反故にした。
そのせいで、自分を責めるクソ良心の奴が俺を苛めてくるが、知るか、と言いたい。
言いたいけど、どこか、完璧を求めてしまう、誰からも好かれたいと思ってしまう。
ああ、面倒だ!
誰からも好かれたいために、そもそも他者存在自体が面倒なものにかわっていく。
やりたくない。
その感情は、面倒だ、という感情である。
面倒だ、とはなんだ?
つまらない、苦労する、嫌な思いをするものが、面倒なものだ。
じゃあ、小説書くのとか、ピアノの練習とか、それは時に苦しいが、面倒なものなのか?
面倒なものは、できるだけやらなくていいのか?
ストイックさとは何か。自分に厳しいことだ。自分に厳しいとはなんだ? いやなことを、苦しいことをむりやりすることか?
仏陀さんや、ヘルマンヘッセのシッダールタさんほどじゃないが、嫌なことを耐えるのであれば、俺は結構頑張れる。頑張れていた、やんなきゃだめなこと、といわれたら、感情なんて後回しである。
その結果、その結果として、この世界が残酷で苦しみに充ち溢れて無味乾燥でクソつまんねえものに見えてきたわけだ。
いや違うのか?
そもそも僕に、感情はあったのか?
何か、やりたいことはあったのか?
面倒じゃないことってあったのか?
いやそれは、主体的でない言葉だ。時間はただ無常に過ぎていくのみである。
とか、いったところで、やっぱり、時間ないわなぁ。
帰宅がやはり23時過ぎると、ほかにできることがない。その中で、ひとつふたつだけ、選んで行う。その優先度は、先日書いた通り、物語だ、とはいえ、他にゴミ捨てとか作業があったり、やらなきゃまずいこともあるので、やっぱり、時間ない! という感覚になる。
だが果たして、本当にそうか?
もっと前から準備し、対策をしておけば、回避できたのではないか?
未来予測
生きる意味は重要だ、としながらも、未来なんて分からない、と思う、
それは、明日のことでさえもそうだ。
ある方のスケジュールみせてもらったが、分刻みで予定がはいっていた。
答えのない毎日が
サイト構築が思いの外進んだのが日曜日だが、土曜日の予定によって、身体と精神的には、正直休みなしの二週目に突入した感覚である。
新しいデータベースの設計と構築ができたのは進捗だなぁ、この、サイトのことと、このブログのこと関係しないし
そして、二日後のいまにおいて、何が、残すことなのか。
感想。
人に伝えるプラス要素
断片的な過去の記憶
テーマパークで過ごした甘い一夜
家族
人
拒絶といじめ
不合理、理不尽
目のいたさ
大音量で
仕事が重い。
恋愛至上主義
ある、精神科医のブログにおいて、恋愛至上主義も崩壊した、とあった。
この恋愛至上主義への懐疑はかなり以前からあって、その要請から逃れるため、様々な努力をしたことは記憶に新しい。
そしてこの記事では、新しい価値観を、やはり早急に探し求めなければ、いつまでもレイトマジョリティとして、苦しみ続けるだろうということだ。
虚無主義の否定
ある方が、小説は、ある程度の技術がそなわれば、答えのない無限大の世界であると述べられていた。
視点や気付きが神がかっている。しかし、重要なのは、そのあとの感想や感覚の表現、すなわち、答えがない何でもありという価値観自体への疑念という点。
これは、ものすごく重大で重要な感覚に思われる。
世界の反転、価値観の反転、劇的な思考の変化は、莫大なエネルギーを必要とする。
表現の足りなさ
残念なことに、この問題点を、うまく表現するすべをいまはもっていない。
だが、この問題が明確になれば、いわゆるふわふわした、生きづらさ的な感覚を、ようやく言語表現としてとらえることができそうなのだが、いま、こうして言語化していくなかで、ますます遠ざかる感覚である。
社会要請の崩壊
消えていく、消えていく、世界が、
詩的な表現にならざるえないほど、この問題は、未踏の場所でに或る
確信的に増していくのは、この、世界にたいしての、アプローチとしての、実感めいたものである。
認知するものが世界であり、この認知は己の生み出すものでありかがら、その自らはせかいにより規定され続ける。
この連関により、僕の感覚は変化し続け、そして、緩やかに思うがままにかたちづくられる
そして三日後
異なる時系列の短文をひとつの記事にすると、カオスだな。
短い記事で投稿したが、あまりにつまらないと思って消してしまった。それをいくつかまとめてみた。
書いているときの感覚が違うとどうだろう。
とりあえず、
もういろいろやってられねぇと、泣き言やてきとーなことを言いまくって逃げ出した!
まぁそのおかげで、上手くいった部分もありそう。
他の人の約束とかも反故にした。
そのせいで、自分を責めるクソ良心の奴が俺を苛めてくるが、知るか、と言いたい。
言いたいけど、どこか、完璧を求めてしまう、誰からも好かれたいと思ってしまう。
ああ、面倒だ!
誰からも好かれたいために、そもそも他者存在自体が面倒なものにかわっていく。
面倒とは何か
やりたくない。
その感情は、面倒だ、という感情である。
面倒だ、とはなんだ?
つまらない、苦労する、嫌な思いをするものが、面倒なものだ。
じゃあ、小説書くのとか、ピアノの練習とか、それは時に苦しいが、面倒なものなのか?
面倒なものは、できるだけやらなくていいのか?
ストイックさとは何か。自分に厳しいことだ。自分に厳しいとはなんだ? いやなことを、苦しいことをむりやりすることか?
仏陀さんや、ヘルマンヘッセのシッダールタさんほどじゃないが、嫌なことを耐えるのであれば、俺は結構頑張れる。頑張れていた、やんなきゃだめなこと、といわれたら、感情なんて後回しである。
その結果、その結果として、この世界が残酷で苦しみに充ち溢れて無味乾燥でクソつまんねえものに見えてきたわけだ。
苛々してるがゆえの戯れ言か?
いや違うのか?
そもそも僕に、感情はあったのか?
何か、やりたいことはあったのか?
面倒じゃないことってあったのか?
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新しいカテゴリ
何とか、金曜日、土曜日あたりの問題というか事象というかイベントというかは、解決した。「解決した」という表現を使うと、どうにも違和感がはしるのは、これから先の仕事や生活において、何らかの影響を及ぼす可能性は、未だ厖大にあるからである。そして今、「仕事や生活」という言葉を用いた時点で、「仕事も生活の一部じゃないの?」という疑問が生じる。いやはや、本当に、この頭は面倒にできている。いいから、今、直近1時間で行うべきことの整理でもして欲しいものだ。
身体の不調
身体の状態を記載することは、「大丈夫ですか?」と誰かに心配してもらうためのものではない。いや、もちろん、その要素も少しはあるのだろう。ただ、言葉で「大丈夫ですか?」と言われたところで、それが何になるというのか。精神的なものであれば、そのアドバイスというものが何らかの解決の糸口になる可能性はあるだろうが、身体的な不調を、SNSであれ、ネットに書き込んだところで、誰かから心配の言葉をもらって、じゃあその心配してくれた人がおかゆでも作ってきてくれるというのだろうか? そんな関係は美しいかもしれないが、決して長続きしないだろう、いやもちろん、それが家族であれば別だが。そういった意味で、家族というのは、通常の対人関係とは別に捉えるべきだと思っている。同時に、家族との付き合い方においても、「他者」であることの意識は必要だと考えている。というのは、「親しき中にも礼儀あり」という意味においてだ。ちょっと待て、どんどん、余計なことが増えていく。そうじゃないだろ、この小見出しで書くべきことを思い返せ。
ええと、その、身体が、具合悪いんです……。
うん、分かった、で、それが何で書かなければいけないのだ?
それは、後から読んだときに、どういった状態で書いたものか、ということが、非常に読解において有用だからです。
その通りだ、それだけ書けばよかった。家族論なんて、それはぜひ、別のカテゴリを立てて書いてください。今は違うでしょ。
はいはい。分かってますよ。
整理というカテゴリ
本当は、この整理用のカテゴリは、ブログの書き方、方針の整理、という意味だったが、今は、頭の整理、ということで使っている。やるべきことが、やりたいことが多くなりすぎて、頭がフリーズ状態である。
いや、それよりも、実際、最近、フル活動状態であり、あまり、落ち着いて書くことができていない。
やっぱり、この、書くということをしていないと、非常に落ち着かなくなるのである。
それは、経験したことの、反芻ができていないこと、復習ができていないことによる。
目まぐるしく過ぎ去っていく時間、生活において、どうして僕たちは、様々なことを忘れ、ないがしろにし、わきにおいて、生きていくのだろう。
僕はどこか、完璧に知りたいという願いをもっている。
これは、僕が「呪い」と表現したことの一つでもあるが、これは対人関係でもマイナスに発生する。
多くの人との交流は、その相手の理解が、表面的にならざるをえないことを意味する。
僕は、くっついて離れてをくりかえすような、そんな希薄な関係に重きを考えられないし、一方で、固定的な関係、抜け出すことができない関係(例えば学校や会社などの組織)というのにも、違和感を甚だ覚えるものである。
逆に、だからこそ、他者の分析、というと上から目線だしキモチワルイ表現になってしまうが、これは多くの人が無意識にやっていることであって、「あいつはああいう奴だからなぁ」とか、「あの子のキャラあれだからね」とか、言っていることの抽象表現である。
集団の同調性
いわゆる、そうだな、イベント的なもの、パーティー的なものに参加して、わいわいがやがや「楽しんで」きた。いや実際、思った以上に「楽しかった」のである。このカッコつきの楽しさというのは、決して、僕の実感と乖離するものではなく、事実、「本気で盛り上がり」「笑い」「面白い世界があるなぁ」と思ったのである。
そして、そこで感じる、他者との「溝」。
いやもちろん、だ。50人~100人ぐらいの集団において、僕のような、こういった思考ブログを書いている人がいないなんてことを言っているのではない。
しかし、そうした、「集団」における「テンション」「雰囲気」「方向性」「とるべき態度」というのは、驚くほど固定化しているものである。
僕が、以前書いた10年ぐらい前の記事において、秀逸な分析だと自画自賛するのが、ある飲み会において、それが終わった後、「ああ、今日は、皆をいじれた(みんなと会話できた程度の意)」と言っていたことに感銘を受けた、という記事である。
僕は、その人に出会うまでは(残念ながら、その人が誰だったか、全く覚えていない。ただ、その人の取った行為は僕に非常に重要な知見を与えてくれて、それは今でも残っている。ここに、僕が敢えて、具体的なイベントというものを明確に書かない理由でもある。つまり、個人とか、実際何をやったかとかそういったものは、初めて読む人にとって、共感を得るものにはなりえないし、それは自分自身に対しても同じで、数年後読んだとき、「ああ、そんなこともあったね」とは思うかもしれないが、そこに重要な情報はもはや一切読み取れなくなるのである)
ええと、つまり、なんだ、飲み会とかそういったものにおいて、僕が感じる他者との距離感というものを、あまり意識する必要はないのだ。それは、他者も同時に感じているだろうもので、だからこそ、集団の同調性「テンション」をひたすら追い求めるしかないのだ。
面白い人とは何か?
集団において場を盛り上げる人というのは、いわゆるリア充と呼ばれる。それは、「ピエロ」なのかもしれないが、多くは、周りも楽しいし、自分も楽しい状態である。
集団で行うスポーツというのも、そういうものかもしれない。
もっというと、「仕事」というものも、集団スポーツの一種かもしれない。
ああ、僕が思ったことのメモ、重要なメモは、結局、みんな、「楽しそう」であるということだ。
恐らく、そのパーティー、イベントに参加していた彼、彼女たちは、こういった思考ブログなんてものを書かない。
書く必要がないのだ。
日々の生活において、たくさんの人たちに囲まれて、会話して、一緒に何かやって、家に帰っても、スマホアプリのラインとか、SNS特にフェイスブックのような実名の奴でつながりをもっていれば、「この先訪れるであろう破局」に対しての意識が向くことは無い。
それは、そのことを実感し、敢えてそうした「忙しい生活」に身を興じている場合もあれば、完全、全く気付いていない場合もあるだろう。
僕が、何故こんなことを書いているのか。
これは、ある種、驚きのメモ、インプットとアウトプットの両面であるのだ。
人に、多くの人にとって、「思考」というものは、あくまでも「ポジティブ」に、「前向きに何か成果を出す」ための、手段でしかないという、その切実な実感を、感じざるをえなかった体験、それに対してのメモだ。
過去との比較
その、集団における他者、から感じる「乖離」ズレというものについて、僕は今まで一度も気づいていなかったか。そんなことはなくて、むしろ、それの繰り返しがずっと続いてきた。若いころは若いころ程、その傾向が強くあって、重いものであった。今、いわゆる「大人」といわれる状態になり、自由に使えるお金もある状態になったことで、「時間としての自由」を得ることができた。
その中で、じゃあ果たしてその集団に属するということはどういうことか、というイベントへの参加であったわけだが、やっぱり、これは中々、大変なものなのだなぁと、思ったわけである。
繰り返し強調しておくべきは、それが、「楽しくなかった」ということでは一切無い。
若いころのそのイベントとか、例えば部活動とかそういったものにおいては、ぶっちゃけ楽しくなんてなかった。つらかった。面倒だった。いやだった。でも、続けなければならなかった。
偉い人や、老年な人たちが好きな言葉を使えば、「修羅場」をずっと経験していたわけだ。(僕自身は修羅場なんて別に思えない。もっと大変な人はいっぱいいる。で、その老年の人たちの経験は、確かに、もっと大変な、命の危険があるものだったりもするし、胸倉掴まれてドヤされたとか、まぁそんなの嫌だなぁと思うぐらいのものが沢山ある。だが、それがどうした?)
……ふむ、過去の経験や、体験を持ち出して、僕が悲劇の主人公を気取りたいわけでもない。
むしろ、こういった表現は、一切合切、誰にも、共感など与えないものであるばかりか、不愉快な思いを生じさせるマイナス要素だ。
そう、人は皆、「ポジティブなもの」にしか興味を抱かないのだ。まぁそしてそれは、生存方策として間違っていない。仕事においても、社内で上手くやっている先輩をみつけて、その人についてやっていった方が得をするにきまっている。どこの誰が、窓際族の人と仲良くしようと思うのか。思うまい。俺もそうするだろう。
で、その、窓際族に近いような、いわゆる「愚痴」というのが、その「過去を持ち出すこと」なのであって、この小見出しにおける表現は、危険極まりのないものである。
そんな、核兵器みたいなものを、歳がいなく10分もかけて書いてしまい、挙句の果てに公開してしまうというのは、これと同じようなことを、今までも書き続けているにも関わらず、未だに訪問してくれる方々がいる、という、その方々に支えられているものである。
これが、リアルの関係とネットの関係と、どっちが重いものかね、という問題提起自体がクソ役にも立たないズレた視点でアホだ、と僕が書く理由となる。
ここまでが前置き
あー、上に書いたこととか、別に大したことではない。じゃあ消せよ、ということになるが、多分、いや、これがあるからこそ、次に書いていくことに意味が生じる。(厳密には、別になくても意味は変わらないが、後から読んだときに、その文脈が無いとよく分からなくなるだろう。先ほど書いた通り、今時点の体調状態が理解に非常に密接に関係する)
まず、だ。
運営しているサイトにおいてバグ、障害が発生した。
体の具合が悪いときに、マジかよ、と思った。最近、この「マジかよ」という感覚を、他の雅な言葉で置き換えられないか、と調べたことがある。しかし、見つからなかった。「本気ですか?!」なんか違う。でも、「マジか」って何なんだろう、よく分からない。
実感言語ってある。
「あえかなる」という言葉が好きで、結構文章などでは使ってしまうんだけど、それって、何? となると、まぁ、はかなげで美しいさま、と辞書的な意味であるけれど、はかなげって何? とか、分析をしていくと、そこに感情が消えてしまうのである。
このテーマは、きっと、言語学とか、国語の研究などで突き詰められている気がする。今度そういった本も探してみよう。ああ、そういう意味で、「レトリック感覚」という文庫は結構面白かった気がする。残念ながら内容は全く思い出せない。後でまた読んで見るか……ああ、そうそう、こうやって、どんどんやろう、ということが膨れ上がって、現在、収拾がつかないのだ。
・サイト障害の復旧
・買い物(日常雑貨、食料)
・パートナーの洗車
・昼食(そうだ、朝から何も食べてなかった、どうしよう)
・帰省の準備
・小説書きたい
・サピエンス全史の読み進め
・ルーチン
・洗濯、掃除
・仕事の準備
・クレジットカードの住所変更
・最近の経験の分析とブログを書くこと
そのどれもが、やらなきゃいけないこと、やったほうがいいこと、やろうと思うこと、なのだけれど、別に今すぐやらなくてもいいことだったり、やらなくてもよい可能性もあることだったり、でもいずれはやらなくちゃいけなくて降りかかってくることだったり……。
パニック。
あー、面倒やなぁ。
となり、ぼーっと、何もせずに、「ピコ太郎」という方の経歴とか動画をみていた。(おい!)
ネタとして、どうだろう、曲のノリとかも悪くないし、面白いんじゃあないかなぁと思うけれども、果たして、何故こんな全世界的なブームになったのか、そもそもピコ太郎さんとは何者か、と気になってしまったのだ。今テレビが無いので、それこそ、そういったイベントにおいて、話しについていくのが大変である。
そういう意味で、ピコ太郎さんの動画を見ていた時間も、無駄ではなかったと思う。思うのだけれども、いや、お前、それよりすることあるだろうが! というわけである。
いやぁ、しかし、昨日は体調悪い中、2時間~3時間ぐらい障害対応で色々作業していたし、許して欲しいところだ(誰に? 利用者さんもだが自分にも)。
ネットで時間を費やすことと日常生活を送ること
そして、更に、書いておくべきは、確かに、動画見て時間をつぶすのは、「時間がない!」と叫ぶことの理由だが、いやそもそも、普通に人生を送る、日常生活を過ごす、こういった中において、僕は、「時間が過ぎていく」ことの無常さを思うのだ。
意味。
僕らの行動に、意味がないものなんてない。
惰眠をむさぼり、昼まで寝てしまった。いいじゃないか。頭はぼけっとしてしまったかもしれないが、睡眠欲を満たすことができたのだ。無為に時間を過ごすのだった悪くないだろう。
だが、ますます加速していく情報社会において、そして、ますます短くなっていく僕らの人生(余命)において、「この時間の使い方は正しかったのか?」という疑念は、日に日に僕は大きくなっている気がしてならない。
幸いにして、このブログを書いている時間は、有意義性が、自分の中でも認められている。
書いている内容は、くだらないことかもしれないが、その「くだらなさ」が逆に、意味をもっていることに、意味を認められる状態となっているのだ。
そしてそもそも、今日雨なんだよね。よし、出かけるのやめよう。
この決断をするのに3時間ぐらいかかったぞ! おい! アホか!
このまま少し計画を立てよう
あー、ええと、こっから、更に、最後まで読んでくださっている方がいつも何人いるのか不明だけれども、更にさらに、どうでもよい感が強まっていくので、もう読み飛ばして「読了」ボタン押して頂いて全然かまわないッス。(いや逆に、読了ボタンを押すことを強要している! 無言の圧力、ステルスマーケット、あの映画とか、一瞬だけ商品の映像をみせて観客に刷り込みをさせるとか、あれはなんというのだったっけかかな……思い出せないが、そういったあくどい感じがプンプンするぜ!)もう、だからね、そもそも、平日、来週も、恐らく、帰宅が遅くなりそうで、恐らく、この、こうやってダラダラ、でもないけれども、インプットとかアウトプットできる時間は、非常に貴重なのだから、今後の、予定を少し考えておこう。
1.12/3(土)、12/4(日)
2.12/10、12/11
3.12/17、12/18
4.12/24、12/25
5.12/31、1/1
そう。もう、土日ベースで行くと、5回しかタイミングがない。
そして、5は、特にもう年が明けてしまうため、ノーカンだ。すると、4回しかない。
でもって、2は、確定の用事がはいっている。
すると、3回しか、自由時間がない。
えー。早いなぁ。2016年もグッバイですか。皆さんは今年一年振り返ってみてどうでした?
私は、非常に、激動の年だったと思います。2008年2009年、2013年あたりと、2016年が結構大きな変化でしたねぇ。
一言で、何か学んだことはあるかと言われたら、まぁ、人って結構なんとかなるものだ、ということかもしれませんね。
なんとか、というのが、「ただ生きる」ということであれば、非常に住みやすい、生きやすい世の中になったと思います。7万年前のサピエンス登場あたりから比べて。というか、認知革命についての概念は覚えたけれども、そもそも、何でそれが7万年前だって、分かったんだっけ? 本に書いてあったけれども忘れてしまったのか、そこは不問なのかちょっと思い出せんな……、もう一度読み返してみるか……とかやっていたら、いつまでたっても紀元前から抜け出せん。
その、人類の歴史だって、いったい何のために知ろうとしているのか、ってことを、常に思ってしまうわけで、その「無気力の魔物」と、いつも戦っていなければならないのは、とてもつらいことであり、死んでしまった方が楽なんじゃないか、という堕落した思考にも発展しがちであるのは、困ったものです。
これは、「死にたい」という、リストカッターや自殺念慮ではなく、「論理的に」「現実的に」死ぬことが正しいのでは、と思う感覚なのです。
何だか、このフィルターが入ると、リア充たちの楽しそうな喧騒が、それほど嫌な気持ちにはならないのです。(そもそも、リア充って何ぞや。趣味もあるし、恋人もいたし、結婚もしたし、友人たちもいる。その状態であっても、僕のこのフィルターはなくならなかった。これは何故だ?)
今、こうして書いていることは、かなり、僕がやりたいことに近いものなので、それほど「違和感」というものがありません。何だか、日常生活的なことを書いていると、「生きる意味を徹底して考える」というタイトルからかけ離れていく気がしますが、それは違います。
むしろ、日常生活が有るが故に、その「生きる意味」というのに重みが増して、重要性が高まっていくのです。
これは、ある種、批判になってしまいそうですが、ニートの人たちにおいても、生きる意味は同じく重要でしょうが、「ニート」という状態であったときに、本当の意味で、「生きる意味」を考えることはできません。
というのは、解決すべき目標や目的というものが、眼前として生じているからです。(ここでいうニートは、働いていないという意味ではなく、自立するためのお金を稼いでいないという意味に近いものです)
前にも書きましたが、恋人がいない、という人、例えば、「彼女ができない。その一点だけで人生崩壊」という表現をされていた方がいましたが、それは、生存規定を脅かす、生きる意味がなくなる、絶望を与えるという意味で、重要な事態であることに疑いはありませんが、しかしながら、「恋人をつくる」という眼前と生じる課題が残されたままなのです。
いつか終わる夢
本当に始まる絶望は、まさに、「現実世界で全て満たされたとき」から始まるといっていいでしょう。友人ができない人は、友達ができたら、とてもとても、嬉しいことでしょう。幸せなことでしょう。
しかし、そこで人生は終わりではない。ゲームオーバーになっても、人生は続くのです。(唯一、身体的な死が訪れるまでは)
友達ができたら、じゃあ、次は何でしょう? 何を求めるのでしょうか?
分かりやすいのが、お金です。お金があると、たくさん、いろんなことができます。好きなことができます。女も買えるし、時間も買えます。
じゃあ、お金が手に入りました。次はなんでしょう? 何を求めますか?
繰り返し、投資を行って、資本を蓄えていくことが重要だ、とする方もいらっしゃいます。
事実、プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神、において、マックスウェーバーさんが、まさに富を蓄えることが、神からの祝福の証であるという「信仰」によって、ますます資本が形成されていったことが、資本主義の成立であると述べられております。
本当は、今、日本も世界も、資本主義社会なので、その波に乗れたらいいのです。
いわゆる、リア充の方々も、そういった、「お金」とか「異性」とかに興味をもたれております。
しかし、僕は、どうも、「?」となるようなのです。これが、「乖離」という表現の正体だと、最近改めて思いました。
この感覚は、おこがましいながら、シッダールタさんが、29歳(仏陀が出家した年齢)、または35歳(悟りを啓く歳)ぐらいまで考えられていた、感じられていたことと同じだとおもっています。
ので、まぁ、別に僕だけが特殊だとも思いませんし、現代に始まったことでもないとも思いますが、しかし、それでもですね、これは結構、大変な問題でございます。
ぐだぐだ言ってないで、只管打座だぜ?☆ というのも分かりますが、しかし、僧侶としての生き方が本当に正しい(ここでの正しいというのは、自分にとっての選択として)というのも自信がありません。在家信者の在り方について、原始仏教がどういった立場をとっていたのか、勉強不足で分かりませんが、頭を剃って、托鉢(ご飯をわけてもらう)人ばかりになったとき、果たして、人類社会は成り立つとは思えません。畑を耕す人がいるから、食糧が生産されるわけですので、人から分け与えてもらうだけで、社会は成立しません。
僕はいわゆるオフィスワーカーなので、食糧は作ってませんが、資本主義における役割分業においては、遠い意味で、食糧生産であるといっていいと思っています(詐欺とか、人を貶める職業でなければ。いや、そういうのは職業とは言わないか)。
だからこそ、悩むわけですね。
そういった意味で、その、悩みを表現するということで、このブログは、ある程度、僕自身は認めているのです。逆に、今は、これ以外に有効な手立てがありません。日常生活での「頑張り」は、どうにも、精神をすり減らしていくように感じてしまいます。
最近、記事にコメント頂いたり、作品をつくったりしていて、その作品にコメント頂いたりしたとき、とても嬉しかったのを覚えています。
ああいう感覚を、もっと増やしていけたらなと思います。
しかし、残念ながら、それらと、仕事とは、現在あまり結びついているようには思えません。
やはり、仕事と趣味というのは、切り離されたものなのでしょうか?
仕事の時間は、自分を押し殺して、苦しみに耐え続けて、家に帰ったら楽しくはっちゃける、という生き方が正しいのでしょうか?
僕はそれも何だか違和感があります。
理想を抱くこと
生きる、ということは、総体なのです。時間を、仕事とプライベートと、そう簡単に分けてしまっていいものでしょうか?人付き合いにおいても、「あわない人はいるし、嫌いな人もいるけど、仕事では付き合わなあかん」と、ある大物タレントさんが言っていたようですが、そんなんでいいんでしょうか? 嫌いな人も、あわないひともいる、ということを言い続けて、世界は一つになれるのでしょうか? 戦争はなくなるのでしょうか? 平和になるのでしょうか? 犯罪はなくなるのでしょうか?
分かりませんが、何だか違和感です。ユートピア、幻想主義者のようですが、別に本気ではありません。ただ、理想としては、ずっと抱いておくべきではないでしょうか? fateのシロウくんの、その熱い思いに心をうたれたのは、どこかしら、皆が諦めている理想を、ずっと強く抱き続けていたからじゃないのでしょうか? そして、サーヴァント・アーチャーが言い放った、「理想を抱いて溺死しろ」という台詞が、これまた多くの人に感動を与えたのは、その理想によって身を砕かれるその辛さ、現実世界のままならなさを、多くの人が感じていながらも、しかし、どこか「理想」の希求があったからではないでしょうか。
書くこと
頭の整理に、書くことは必要だと思います。今年ももう終わってしまいます。
取りあえず、今年の残りの週は、物語を創ることと、サイトの復旧はもちろんですが、改装について尽力しようと思います。
3回、おそらく、まるまる時間は取れなそうですが、中途半端な時間が生じたら、もう、こうした整理用の記事を書かなくてもいいように、その物語に対して、全力投球しようと思います。
ええと、しかし、昼食、どうしよう。もう夜になったのだけれど、……。
いいや、少し、雨も降るようだが、外の風にあたろう。
カテゴリ重視方針にしてから、初めての日常カテゴリ……あ、ないんだった、こういう気分の時は、ええと、どうすんだっけかな。
それがやってくるのは、まだ先なのに、その前から、何となくテンションが下がっていく
こんなこと書いてどうするの、と思ったが、また閃いた。
そうだ、日々の生きづらさってのも、まさにこの構造じゃなかろうと。
人は死にますぜ?
というのは、誰しもわかってる。
しかしながら、それが間近に迫っているとは思えない。これが中間派の苦悩である。
しかし、受験とか、就職活動とか、そういうイベントごとは、なんとも憂鬱な気分を引き起こす。
仕事でも、あー、あの調整ごと面倒だなぁ、話し合いとか紛糾するだろうなぁとかあると、憂鬱である。
でも、そんなことに囚われてるのはやっぱり、エラーだと思われる。
だって、いずれ死ぬからといって、人生楽しまない、という選択肢は普通はないわけだ。
本当は、一日一日の時間は、受験とか仕事とかのどーでもいいイベントに関わらず、止まることなく進んでいってるのだ。
あー。
あー、ほんと、きりがねぇ、こたえがねえ。
修羅場を乗り越えないと応用力がつかないぞ、とか言われてもだな、はるかに複雑に、高度に、範囲が広くなっていく仕事に、どう対処すりゃええんや。
とか愚痴いっても仕方がないけどね。
どっかで、ここまで、と、きりをつけなきゃいけないんだろうけど、70パーセントの完成度で、それをダメだと怒られたら、やっぱり悔しいよな。
とはいえ、ゴミとか間違いをつくりだしても仕方があるまい。
でも、0パーセントは、次には絶対つながらない。
例えばだ、このゴミみたいな記事を、果たして投稿すべきか、いつもいつも悩む。
かといって、そのときちょっといい感じな記事だな、と思っても、しばらくすると、ああ、変なこと書いてしまったなとか、自己嫌悪になる。
こうなってくると、自分で終わりをみつけるのと、そもそもその考えることが、書くことが、やることがそれ自体楽しいかってのが、唯一の根拠になるのではなかろうか。
いま書いてるのは、すべての行為、思考のことをいっている。
すべて、すべてだ。
ずっとこんなことばっか言ってる人、アホちゃうか、と思うかもしれない。
しかしながら、この生き方は絶対に正しい。
なぜならば、人に生きる意味なんてないからだ!
矛盾、ブログタイトルと矛盾! 否、そんなこともとより分かってる。分かっているからこそ今まで書いてなかっただけ、いや、書いてたかも。
出発点はそこじゃない。
1 あれ、なんか、生きてんのつらくね?
2 人生楽しむのが生きる意味だ!
3 いや、それにしてはつらいこと多すぎじゃね?
4 あーほんともうつまんねぇ。人生なんて消えてしまえばいい。
5 (どん底、言葉がない状況)
6 あー、まぁ、人は死ぬよな。じゃあ精一杯死ぬ気で色々やってみてもいいんじゃん? それで死ぬならそれはそれでいいし。
7 あれ、意外に色んなことできるじゃん。成功もするじゃん。
8 うひゃひゃ、たのしいねーたのしーねー
9 で、結局なんなの? わかったことって、楽しいこともあればつらいこともあるとか、そんな当たり前なことじゃん?
10 いずれ死ぬまで、こうやって目の前に発生する事案に一喜一憂してりゃいいの? それってそもそも何になるの?
11 頑張れ頑張れって、何のため?
12 あぁ、そうか、やっぱり、僕は、生きることにたいしての意味を見つけなきゃならないんだ。←いまここ
生きる意味というか、目的だよね。
成し遂げたいとことというか、ライフワークというか。
一日過ぎてしまったのだ、許して欲しい。
ああ、しかし、苛々というか、おちつかなさは、残っている。
時間がないよね。
書く時間、
ほんと、
どこまで頑張りゃいいの?
うん、完全に弱ってるね。何というか、終わりのない仕事というのは、徒労となる。いやまぁ、終わりはあるんだ。当たり前だ、何せ、「人」自身に終わりはある。いやそんな長期的なこと言わなくても、別に本当にダメなら「首」になる。クビになったところで、まだまだ生きるすべはある。資産があれば、何もしなくても生き延びられる。
だが、本当にそうか? もし、ただ生きることだけが目的なのであれば、何故、とある大企業の年若き乙女は自殺しなければならなかったのか。「頑張ること」、それは、いったい、どこまでやったら、「頑張った」ことになるのか。結局、環境、他者次第だ。くだらない、ああ、本当に、他人という奴はどうでもいいものだ。
と、感情エラーが発生するのが、非常に疲れたときである。
あれをやらなきゃ、これをやらなきゃ。
いいよ、できるよ、そつなくこなせる。だが、それの更に深いところ、どこまで求める? 所詮、いくらきれいごとをいっても、品質と、時間と、コストの関係は、相互作用するしかないのだ。
とかいうと、今度は、「時間外労働は削減すべきだ」「時間をかければよいものができるわけではない。効率がすべてだ」とか言われ始める。
これを、「時代の変化だ」「流行に乗り遅れてはならない」とするのは、果たしてまともな判断だろうか?
中でも、時代の流れに取り残された人はクズのように死ぬしかない、というようなことも珍しくなく言われることである。
本当にそうか?
僕はまだ、食糧生産革命あたりの1万年前ぐらいまでしか、件のサピエンス全史は読んでいないけれども、ある尊敬する信頼できる方のブログ記事によると、「文化や文明の発展と人の幸福は一致しない」という点と、「いずれ時代の変化は我々の感覚を現実から引き離す」という点が結論であるようである。今完全に僕の言葉で置き換えたため、多分意図が異なっている気がする(特に2点目はそんなこと書かれていなかった気がしてならない)が、まぁ、その結論というか考えというか、実感というかは、僕がまさに最近、ここ何年かで強く感じていることであり、それを、「生きづらさ」とか、「頑張った先に何があるのか」とか「生きる意味を求めざるをえない」とか、モヤモヤした感覚を様々な表現で、明確化しようとする試みであったわけだけれども、そうした感覚を、このサピエンス全史という本は、明瞭にしてくれるのではないかと、期待しているわけである。
(とか思ってる割に、全然先に進んでない! 時間がない!)
明日も、気乗りがしない用事のため、早いんだろ?
うむ。ところで、書いておかねばならぬことに、「時間がない」というのは、「主観的」な問題であるということである。
え、だって、時間は、24時間、ちゃんと平等に流れているではないか。時間は決して無くならない。無いのではない、「過ぎる」のだ。
「あー、思った以上に過ぎてしまった」
この感覚が、我々に「時間がない」という言葉を発せさせるのである。
繰り返すが、なくなったのではない、過ぎてしまったのだ、この違いは大きい。
時間がない、とか言ってるうちは、それは、本当に主体的に生きていないということだ。
「やるべきこと」「やらされていること」ばかりのときは、そんな台詞が頭に浮かぶ。
そんな人生、そんな生きる時間を、認めていいと本当に思ってるのか?
貴様は、本当に、グダグダ言いながら、寿命、残された時間が暫くも留めることができず、ただ絶え間なく過ぎ去っていくことを、本当に分かっているのか?
鬱々としている人、ぼーっとテレビ見て過ごしている人、たわいない話おしゃべりをしている人、みんなそれぞれ、自分の時間を生きている。
それを、どの上から目線で、「もったいない」「無駄に時間を使ってる」とか言えるのだ? お前は誰だ? 社長か? 神か?
ああ、分かっている、お前の言いたいことは分かってる、どうせあれだろ、そんな考える間もなく、ジャングルのゲリラとか、戦争中の兵士だとか、紛争で餓えた人々だとか、そんな例えにおいて、思考ができることは幸せだ、とかいうのだろう?
それもまた短慮だ。
俺は、「頑張ってきた」よ。だが、それを誰か、認めてもらえないと、それは単なる慢心となる。
「え、その程度で頑張ったの? もっと大変なひといっぱいいるよ? もっと頑張れよ」
はい、分かりました、頑張ります。せっせ、せっせ。「頑張りました!」
「え、まだその程度なの? あー、ほんと、センスないねぇ。使えないなぁ。もっと頑張れよ」
はい、わかりました。せっせ、えっさほいさ、はぁ、はぁ……「が、頑張りました」
「おまえ、マジでやってんの? ふざけてんなら帰っていいよ? もっと頑張れよ」
はい……分かりました。せっせ、えっさ、ほいさ、はぁぁぁあああ! めんどくせぇぇぇ!!
と。
この、「頑張る」という行為が、全く持って理にかなっていない、バカげたものだということの片鱗が、少しは読み取れるだろうか。
すぐさま、書いておかねばならないのは、「ストイック」なことが決して悪いことではない。
というか、逆転して、「頑張らない奴は所詮その程度だ」とすら俺は思う。どういうことか、完全に矛盾したことを書いている。
主体だ。
簡単なことで、その頑張る行為自体が、楽しいもの、充実したもの、生きがいとなるものであれば、それは大いに自分自身を成長させるし、パフォーマンスになるし、充足を与えてくれるものである。
つまり、だ。「頑張る」という言語表現に、「苦労して」「辛いけれども」「必死になって」「くらいついて」とか、そうしたマイナス言語が付随する場合に、「くそくらえ」と僕が言うわけだ。
これは前から何度も書いているが、「インプット」はとっても重要だ。アウトプットだってそうだ。
何かするのに、知識は重要だ。筋トレという、身体へのインプットだって重要だ。
インプットも、アウトプットもできない人は、そりゃあダメだ。というか、そんなの生きてるといえない。そう、だから、厳しいことを書いているようで、アウトプットやインプットは、誰にでも、普遍的にできることなのだ。
ただ、それが、「他人」という存在を介在させたときに、その「インプット」は、その「アウトプット」は、時に凄まじい「頑張り」を要求するのである。
ほんっとに、くだらない人間ばかりだ。いや、人間ってもんがそもそもくだらないのか。サピエンス? 賢い? 傲慢にもほどがある!
……今日はまだ、ルーチンもやってない。
それだけは、やろう。
せめてもの、他者や環境に翻弄されようと、それだけは、僕の主体的な行為、支柱、なのだと……まだ始めて30日ぐらいだけれども、行為が僕自身の一部になるように、これからも、続けたい。
どこがこれのまとめなのだ? うん、つまり、書いたこと自体にあまり、意味はない。ただ、疲れて、苛々して、そのイライラの対処を行った、というだけの軌跡。
うん、少し、ようやく落ち着いてきたか。
やっぱり、あれだ、その、「イライラ対処」カテゴリの場合に、「頑張って」短くしようとするとダメだこりゃ。
ノンストップで好きなだけ書かせてやらなきゃダメなのかもしれない。
何だろう、運動した後の疲れは何だか心地いいのと同じなのかもしれないが、ノンストップで書きなぐった後の疲れは、いやそもそも、書き始めたときから既に疲れていたわけだけれども、同じ疲れだけれども、何だか、少し、落ち着くというか、安心するというか、心地よいような、そんな気がする……。
金曜と土曜が微妙
なんだか気乗りがしないイベントが近いと、憂鬱だよね。それがやってくるのは、まだ先なのに、その前から、何となくテンションが下がっていく
こんなこと書いてどうするの、と思ったが、また閃いた。
そうだ、日々の生きづらさってのも、まさにこの構造じゃなかろうと。
いずれやってくる破局
人は死にますぜ?
というのは、誰しもわかってる。
しかしながら、それが間近に迫っているとは思えない。これが中間派の苦悩である。
しかし、受験とか、就職活動とか、そういうイベントごとは、なんとも憂鬱な気分を引き起こす。
仕事でも、あー、あの調整ごと面倒だなぁ、話し合いとか紛糾するだろうなぁとかあると、憂鬱である。
死ぬ
でも、そんなことに囚われてるのはやっぱり、エラーだと思われる。
だって、いずれ死ぬからといって、人生楽しまない、という選択肢は普通はないわけだ。
本当は、一日一日の時間は、受験とか仕事とかのどーでもいいイベントに関わらず、止まることなく進んでいってるのだ。
そして金曜日が終わる
あー。
あー、ほんと、きりがねぇ、こたえがねえ。
修羅場を乗り越えないと応用力がつかないぞ、とか言われてもだな、はるかに複雑に、高度に、範囲が広くなっていく仕事に、どう対処すりゃええんや。
とか愚痴いっても仕方がないけどね。
どっかで、ここまで、と、きりをつけなきゃいけないんだろうけど、70パーセントの完成度で、それをダメだと怒られたら、やっぱり悔しいよな。
作品創りもそうか
完璧なものを作ろうとするのは大切だが、そのせいでいつまでも完成しないのはよくない。とはいえ、ゴミとか間違いをつくりだしても仕方があるまい。
でも、0パーセントは、次には絶対つながらない。
例えばだ、このゴミみたいな記事を、果たして投稿すべきか、いつもいつも悩む。
かといって、そのときちょっといい感じな記事だな、と思っても、しばらくすると、ああ、変なこと書いてしまったなとか、自己嫌悪になる。
こうなってくると、自分で終わりをみつけるのと、そもそもその考えることが、書くことが、やることがそれ自体楽しいかってのが、唯一の根拠になるのではなかろうか。
いま書いてるのは、すべての行為、思考のことをいっている。
すべて、すべてだ。
絶対的ポジティブ
うひゃーじんせい楽しいな! 幸せだな!!ずっとこんなことばっか言ってる人、アホちゃうか、と思うかもしれない。
しかしながら、この生き方は絶対に正しい。
なぜならば、人に生きる意味なんてないからだ!
矛盾、ブログタイトルと矛盾! 否、そんなこともとより分かってる。分かっているからこそ今まで書いてなかっただけ、いや、書いてたかも。
出発点はそこじゃない。
1 あれ、なんか、生きてんのつらくね?
2 人生楽しむのが生きる意味だ!
3 いや、それにしてはつらいこと多すぎじゃね?
4 あーほんともうつまんねぇ。人生なんて消えてしまえばいい。
5 (どん底、言葉がない状況)
6 あー、まぁ、人は死ぬよな。じゃあ精一杯死ぬ気で色々やってみてもいいんじゃん? それで死ぬならそれはそれでいいし。
7 あれ、意外に色んなことできるじゃん。成功もするじゃん。
8 うひゃひゃ、たのしいねーたのしーねー
9 で、結局なんなの? わかったことって、楽しいこともあればつらいこともあるとか、そんな当たり前なことじゃん?
10 いずれ死ぬまで、こうやって目の前に発生する事案に一喜一憂してりゃいいの? それってそもそも何になるの?
11 頑張れ頑張れって、何のため?
12 あぁ、そうか、やっぱり、僕は、生きることにたいしての意味を見つけなきゃならないんだ。←いまここ
生きる意味というか、目的だよね。
成し遂げたいとことというか、ライフワークというか。
カテゴリちがくね?
一日過ぎてしまったのだ、許して欲しい。
ああ、しかし、苛々というか、おちつかなさは、残っている。
時間がないよね。
書く時間、
ほんと、
どこまで頑張りゃいいの?
おうちに帰った遠藤が引き取ります
お疲れ様。うん、完全に弱ってるね。何というか、終わりのない仕事というのは、徒労となる。いやまぁ、終わりはあるんだ。当たり前だ、何せ、「人」自身に終わりはある。いやそんな長期的なこと言わなくても、別に本当にダメなら「首」になる。クビになったところで、まだまだ生きるすべはある。資産があれば、何もしなくても生き延びられる。
だが、本当にそうか? もし、ただ生きることだけが目的なのであれば、何故、とある大企業の年若き乙女は自殺しなければならなかったのか。「頑張ること」、それは、いったい、どこまでやったら、「頑張った」ことになるのか。結局、環境、他者次第だ。くだらない、ああ、本当に、他人という奴はどうでもいいものだ。
と、感情エラーが発生するのが、非常に疲れたときである。
あれをやらなきゃ、これをやらなきゃ。
いいよ、できるよ、そつなくこなせる。だが、それの更に深いところ、どこまで求める? 所詮、いくらきれいごとをいっても、品質と、時間と、コストの関係は、相互作用するしかないのだ。
とかいうと、今度は、「時間外労働は削減すべきだ」「時間をかければよいものができるわけではない。効率がすべてだ」とか言われ始める。
これを、「時代の変化だ」「流行に乗り遅れてはならない」とするのは、果たしてまともな判断だろうか?
時代の変化を問う
ある筋トレブログ何か見ていると、やっぱり、仕事は最前線で頑張るべきだとか、逃げたところで何も得るものはないだとか、修羅場を潜り抜けてこそ人は成長するだとか、そんな言葉がありふれている。中でも、時代の流れに取り残された人はクズのように死ぬしかない、というようなことも珍しくなく言われることである。
本当にそうか?
僕はまだ、食糧生産革命あたりの1万年前ぐらいまでしか、件のサピエンス全史は読んでいないけれども、ある尊敬する信頼できる方のブログ記事によると、「文化や文明の発展と人の幸福は一致しない」という点と、「いずれ時代の変化は我々の感覚を現実から引き離す」という点が結論であるようである。今完全に僕の言葉で置き換えたため、多分意図が異なっている気がする(特に2点目はそんなこと書かれていなかった気がしてならない)が、まぁ、その結論というか考えというか、実感というかは、僕がまさに最近、ここ何年かで強く感じていることであり、それを、「生きづらさ」とか、「頑張った先に何があるのか」とか「生きる意味を求めざるをえない」とか、モヤモヤした感覚を様々な表現で、明確化しようとする試みであったわけだけれども、そうした感覚を、このサピエンス全史という本は、明瞭にしてくれるのではないかと、期待しているわけである。
(とか思ってる割に、全然先に進んでない! 時間がない!)
時間がないとは何か?
おめーはよ、時間がないとかいいつつ、何故こんなブログ記事書いてるんだよ?明日も、気乗りがしない用事のため、早いんだろ?
うむ。ところで、書いておかねばならぬことに、「時間がない」というのは、「主観的」な問題であるということである。
え、だって、時間は、24時間、ちゃんと平等に流れているではないか。時間は決して無くならない。無いのではない、「過ぎる」のだ。
「あー、思った以上に過ぎてしまった」
この感覚が、我々に「時間がない」という言葉を発せさせるのである。
繰り返すが、なくなったのではない、過ぎてしまったのだ、この違いは大きい。
時間がない、とか言ってるうちは、それは、本当に主体的に生きていないということだ。
「やるべきこと」「やらされていること」ばかりのときは、そんな台詞が頭に浮かぶ。
そんな人生、そんな生きる時間を、認めていいと本当に思ってるのか?
貴様は、本当に、グダグダ言いながら、寿命、残された時間が暫くも留めることができず、ただ絶え間なく過ぎ去っていくことを、本当に分かっているのか?
うつ病はアホの子なのか?
という、煽りを間にうけると、「必死に」「頑張って」生きていかなければならない、という結論になりがちである。短慮だ。浅はかだ。そうじゃねぇだろうよ。鬱々としている人、ぼーっとテレビ見て過ごしている人、たわいない話おしゃべりをしている人、みんなそれぞれ、自分の時間を生きている。
それを、どの上から目線で、「もったいない」「無駄に時間を使ってる」とか言えるのだ? お前は誰だ? 社長か? 神か?
ああ、分かっている、お前の言いたいことは分かってる、どうせあれだろ、そんな考える間もなく、ジャングルのゲリラとか、戦争中の兵士だとか、紛争で餓えた人々だとか、そんな例えにおいて、思考ができることは幸せだ、とかいうのだろう?
それもまた短慮だ。
俺は、「頑張ってきた」よ。だが、それを誰か、認めてもらえないと、それは単なる慢心となる。
「え、その程度で頑張ったの? もっと大変なひといっぱいいるよ? もっと頑張れよ」
はい、分かりました、頑張ります。せっせ、せっせ。「頑張りました!」
「え、まだその程度なの? あー、ほんと、センスないねぇ。使えないなぁ。もっと頑張れよ」
はい、わかりました。せっせ、えっさほいさ、はぁ、はぁ……「が、頑張りました」
「おまえ、マジでやってんの? ふざけてんなら帰っていいよ? もっと頑張れよ」
はい……分かりました。せっせ、えっさ、ほいさ、はぁぁぁあああ! めんどくせぇぇぇ!!
と。
この、「頑張る」という行為が、全く持って理にかなっていない、バカげたものだということの片鱗が、少しは読み取れるだろうか。
すぐさま、書いておかねばならないのは、「ストイック」なことが決して悪いことではない。
というか、逆転して、「頑張らない奴は所詮その程度だ」とすら俺は思う。どういうことか、完全に矛盾したことを書いている。
頑張ることとは何か?
僕が必要だという「頑張る」と、一般的に言われる努力だとか頑張るということの違いは、一つだけだ。主体だ。
簡単なことで、その頑張る行為自体が、楽しいもの、充実したもの、生きがいとなるものであれば、それは大いに自分自身を成長させるし、パフォーマンスになるし、充足を与えてくれるものである。
つまり、だ。「頑張る」という言語表現に、「苦労して」「辛いけれども」「必死になって」「くらいついて」とか、そうしたマイナス言語が付随する場合に、「くそくらえ」と僕が言うわけだ。
これは前から何度も書いているが、「インプット」はとっても重要だ。アウトプットだってそうだ。
何かするのに、知識は重要だ。筋トレという、身体へのインプットだって重要だ。
インプットも、アウトプットもできない人は、そりゃあダメだ。というか、そんなの生きてるといえない。そう、だから、厳しいことを書いているようで、アウトプットやインプットは、誰にでも、普遍的にできることなのだ。
ただ、それが、「他人」という存在を介在させたときに、その「インプット」は、その「アウトプット」は、時に凄まじい「頑張り」を要求するのである。
まとめ
ああ、もう、疲れたよ! 何でこんなこと書かなきゃいけないんだよ! 当たり前だろ? 何でみんなわかんねーんだよ。アホかよ! 何で世界は平和じゃないんだよ。争って人を殺して、奪って富を得て、それで何になるんだよ! バカか!ほんっとに、くだらない人間ばかりだ。いや、人間ってもんがそもそもくだらないのか。サピエンス? 賢い? 傲慢にもほどがある!
……今日はまだ、ルーチンもやってない。
それだけは、やろう。
せめてもの、他者や環境に翻弄されようと、それだけは、僕の主体的な行為、支柱、なのだと……まだ始めて30日ぐらいだけれども、行為が僕自身の一部になるように、これからも、続けたい。
どこがこれのまとめなのだ? うん、つまり、書いたこと自体にあまり、意味はない。ただ、疲れて、苛々して、そのイライラの対処を行った、というだけの軌跡。
うん、少し、ようやく落ち着いてきたか。
やっぱり、あれだ、その、「イライラ対処」カテゴリの場合に、「頑張って」短くしようとするとダメだこりゃ。
ノンストップで好きなだけ書かせてやらなきゃダメなのかもしれない。
何だろう、運動した後の疲れは何だか心地いいのと同じなのかもしれないが、ノンストップで書きなぐった後の疲れは、いやそもそも、書き始めたときから既に疲れていたわけだけれども、同じ疲れだけれども、何だか、少し、落ち着くというか、安心するというか、心地よいような、そんな気がする……。
おお、消えてしまうとは情けない
何だろう、ブラウザがクラッシュしてまたしても書いていた内容が全部消えてしまった。ショック。二度と、同じことは書けないだろう。小まめな保存は重要だと言っても、最後、投稿しようと投稿ボタンを押す間際に消えるとか、ひどいなぁ。
何だろう、PCのせいなのか、これは忍者ブログのせいというよりも、グーグルクロームのせいな気がしてきたぞ。
まぁいいや、思い出しながら書いてみるか。
キャラクターへ100の質問
物語を創るのが重要だ、ということで、2つぐらいプロット立てて執筆をしていたが、どうにもあまり面白くなかった。続きが気になる、という気はするのだが、自分で書いていること自体があまり面白くないのであった。そして、そもそも、僕の作品においては、キャラクターの設定が十分でないのだろうと、キャラクターを作るには、重厚な設定が必要なのだということを目にして、履歴書的なのを作ってみようと思い立った。
100の質問、ということで、名前から始まり身体の属性、性格、長所と短所、口癖、信じていること、交友関係、特技や能力、持ち物や財産などなど。
取りあえず既存の自作のキャラクターで、30個目ぐらいまでやっていたら、完全に、飽きた(かっこわらい)。
いや、ほんと、このキャラクターの履歴書を作れる人すごいなぁ。
これはまだ、自分の好きなキャラとか美少女とかならいいかもしれないが、敵とか、イライラさせられる嫌な奴とかも作らないといけないわけで、それって大変な作業だと思う。
超絶ポジティブの僕としては、余暇にまでそんなことしているのって、どうにも食指が動かない。
そうはいっても、物語に重要なのは、敵とか、問題とかだと思う。
物語を創ることは生きるスキル
消える前はこんなビジネス本的な胡散臭い小見出しじゃなかった気がするけれども。物語を創るというのは、敵とか、問題を設定して、それを解決する手段を考えて、実行していくというプロセスが必要なわけだ。
ここでの問題は、「目的」という表現も可能なのであって、ということは、目的を設定して解決するという、問題解決能力が必要であるということになる。
昨今は、知識ではなく、ストーリーをつくる能力が重要になってきていると言われるが、まぁ、この言説は要検証ではある。インプットや知識がなければ、語られるべきストーリーだってありえないのだ。
とそうはいっても、やっぱり、何が問題かということを見極め、その解決を考え検証し実現していくという力は、学生生活においても、ビジネスにおいても重要なことだろうと思える。
そうしたことが、物語を創ることで養われるのである、というと大げさか。
小説の投稿
まぁそう思ったからというわけではないけれども、キャラクターの設定を作っているのがあまりにも苦痛になって、気が付いたらあるサイトに投稿していた。目的は三つ。
・キャラクターの作成の練習
・敵や問題の作成の練習
・連載することで、物語を創ることのスキルと意欲の維持
である。
学校の時間割で、英語、数学、物理、体育とか、いろいろ分かれているのは、脳って、同じことを繰り返しているとパフォーマンスが落ちてしまうからなのだと思う。
一つのことに集中して取り組むのも大事だけれども、ただやみくもに時間をかけるだけだと、どんどんやる気も効率も落ちてくるわけだ。
色々なことを、まんべんなく、少しずつでも時間をかけていくことが、重要だと思し、それが結局よいものができやすいと思う。
こんな感じだったろうか。あとは思い出せないなぁ。
(ナーガールジュナの中論の解説を読んだ感想から)
例えば、「起承転結」という、文章を書く上で、他者に伝わりやすいとされている概念の解説を試みてみよう。【起】
起承転結とは、まず、
・問題提起
・問題提起を受けた説明
・見方を変えた説明、例示など
・まとめ、結論
という流れで文章を書くことである。【承】
初めてこの概念を聞いた人に分かりやすく伝えるには、まずは、「起」と、「結」だけを覚えておくように、と伝えてもよいかもしれない。伝えたいことを初めに簡潔に挙げて、それのまとめをする、というやり方。これはそれほど意識しなくても、普通行っている話し方や書き方だと思われる。
ビジネスの世界などでは、結論を先に話して、後から理由を述べる(三つくらい)ということも言われるが、実はそもそも、いきなり「結論」なんて言っても、上司どころか誰にも言いたいことは伝わらないのである。というのは、「結論」といいつつも、必ず、何の話かという小さなごくわずかな、「起」が組み込まれているからだ。【転】
故に、起承転結という話し方や文章の書き方について、いきなり実践するということでなくても、まずは、起として問題提起を行って、次に結としてまとめる、ということを意識することが、新しい概念としてインプットする際には有効になるだろう。
それが慣れてきたときに、より面白く、印象的な話や文章にするために、起承転結の、承や、転といった方法を学んでいけばよいのだと、私は思う。【結】
ただ、新しい概念を覚えようとしたときに、一気に全部完璧に覚えようとするのではなく、まずは、大きなところ、簡単なところ、本質的なところに絞って、それを実践して使っているうちに、自分の記憶や価値観や信念といった部分まで浸透していく、身についていくと、そういうことが言いたかったということが、何となく伝わるはずだ(え、そんなことどこに書いてあったかって?!)。
別に、起承転結の説明がしたかったわけではない。ただ、僕が上に書いた説明というのは、多分、明日になると、また違ったものになっていると思う。恐らく、表現も全然別なものだろう。起承までは、かろうじて似ているかもしれないが、転結の部分は、全く異なっているかもしれない。
けれども、僕は恐らく、この先も、何度でも、起承転結という「概念」の説明を、行うことができる。
これが、概念としてのインプットが成された状態である。つまり、表現や言葉が異なっても、論理的な、流れに沿った説明(アウトプット)が可能な状態、それが概念としてのインプットなのだ。
「違和感ありますな~」とどこか、前の記事で書いたことがあったけれども、でも、今思ったのは、仏教は、ある種「諦めの思想」であるともいえるから、「諦」という漢字が「真理」を意味するというのも、何だかそう考えると深イイ話な気がする。
で、今回のインプットとして、本来的に書こうとしたことにようやくたどり着いたが、この世俗諦という概念と、勝義諦という概念のインプットを試みようというものであった。
昨日、空の論理、を読んでいて、登場した概念である。


簡単に今時点でインプットできたことを書けば、世俗諦とは、言葉で説明できる、概念化可能な世界のことであり、勝義諦は、言葉で説明できず、概念化もできない世界(涅槃とか悟り)のこと。
こういった対比にしてしまうと、単純に、「ああ、じゃあ、真理的な、勝義諦を目指していきましょうって話しなんだね、はいはい」となってしまいがちであるが、ポイントはそこにはない。
どっちも大事だよ、ということを、1世紀~2世紀ぐらいに活躍されたナーガールジュナさんが言うのである。
いやむしろ、
・概念的認識によらなければ、究極的な真実(空性)は認識できない
という意味でもちいているのだ、という解説をされている方もいらっしゃる。
これから先は、その概念化できないこと、言葉にできないこと、というのが、どういったものなのか、もう少し深いインプットをしていきたいと思う。(ああ、どうしても、こういったことを求め始めると、いわゆる怪しげな宗教にはまっていくのではないか、という疑念が発生する。ただ、僕がキリスト教をどうしても深く調べようと思えない理由が、その「絶対的帰依」によるものだという点において、無批判な信仰という状態には、恐らくなれないと思う。一方で、宗教にはまる人とは、ある程度知識があってしかし主体性を見いだせない人だ、という分析などもあり、ありゃーやばいんちゃうか、と思ったりもするが、「他者」から学ぶ、ということを行わない(行えない)故に、その安全性は確保されていると思われる。これが、まさしく孤独、という感覚なのであり、同時に、他者への懐疑という哀しき性質なのであるけれども……おっとと、短く書こうという気持ちを排すると、瞬く間に無駄な文量が増えていく)
概念化できないことって、思考からの逃げ、にも思えてしまうけれども、ただ、人は言葉によってしか考えることができない、という意味において、その言葉を排した世界というのを想定するということは、同時に可能になるのである。
ここに、7万年前の認知革命で生じた虚構の言語、の物凄い可能性が秘められているのだな、と実感レベルで思わざるをえない。
いやぁ、だってですね、虚構、として、神話とか、創造上の物語を語れるってだけで、人間(サピエンス)が用いる言語のすごさは分かるけれども、更には、「言外のこと」まで想像できてしまうのだから、やっぱり、(虚構の)言葉の力ってすごいよね。
起承転結
知識や記憶には、名称的なものと、概念的なものとがある。例えば、「起承転結」という、文章を書く上で、他者に伝わりやすいとされている概念の解説を試みてみよう。【起】
起承転結とは、まず、
・問題提起
・問題提起を受けた説明
・見方を変えた説明、例示など
・まとめ、結論
という流れで文章を書くことである。【承】
初めてこの概念を聞いた人に分かりやすく伝えるには、まずは、「起」と、「結」だけを覚えておくように、と伝えてもよいかもしれない。伝えたいことを初めに簡潔に挙げて、それのまとめをする、というやり方。これはそれほど意識しなくても、普通行っている話し方や書き方だと思われる。
ビジネスの世界などでは、結論を先に話して、後から理由を述べる(三つくらい)ということも言われるが、実はそもそも、いきなり「結論」なんて言っても、上司どころか誰にも言いたいことは伝わらないのである。というのは、「結論」といいつつも、必ず、何の話かという小さなごくわずかな、「起」が組み込まれているからだ。【転】
故に、起承転結という話し方や文章の書き方について、いきなり実践するということでなくても、まずは、起として問題提起を行って、次に結としてまとめる、ということを意識することが、新しい概念としてインプットする際には有効になるだろう。
それが慣れてきたときに、より面白く、印象的な話や文章にするために、起承転結の、承や、転といった方法を学んでいけばよいのだと、私は思う。【結】
概念のインプット
上の、起承転結の説明において、僕が言いたかったことは、何となく伝わると思う。表現的に回りくどかったり、その説明必要か? という部分もあるだろうし、論文的にはたくさん添削がされそうである。ただ、新しい概念を覚えようとしたときに、一気に全部完璧に覚えようとするのではなく、まずは、大きなところ、簡単なところ、本質的なところに絞って、それを実践して使っているうちに、自分の記憶や価値観や信念といった部分まで浸透していく、身についていくと、そういうことが言いたかったということが、何となく伝わるはずだ(え、そんなことどこに書いてあったかって?!)。
別に、起承転結の説明がしたかったわけではない。ただ、僕が上に書いた説明というのは、多分、明日になると、また違ったものになっていると思う。恐らく、表現も全然別なものだろう。起承までは、かろうじて似ているかもしれないが、転結の部分は、全く異なっているかもしれない。
けれども、僕は恐らく、この先も、何度でも、起承転結という「概念」の説明を、行うことができる。
これが、概念としてのインプットが成された状態である。つまり、表現や言葉が異なっても、論理的な、流れに沿った説明(アウトプット)が可能な状態、それが概念としてのインプットなのだ。
世俗諦と勝義諦
書こうと思ったことと、全く関係ないことなのだけれど、この「諦」という漢字、「あきらめる」と読めるけれど、仏教的には、「真理」を意味する言葉でもある。「違和感ありますな~」とどこか、前の記事で書いたことがあったけれども、でも、今思ったのは、仏教は、ある種「諦めの思想」であるともいえるから、「諦」という漢字が「真理」を意味するというのも、何だかそう考えると深イイ話な気がする。
で、今回のインプットとして、本来的に書こうとしたことにようやくたどり着いたが、この世俗諦という概念と、勝義諦という概念のインプットを試みようというものであった。
昨日、空の論理、を読んでいて、登場した概念である。
簡単に今時点でインプットできたことを書けば、世俗諦とは、言葉で説明できる、概念化可能な世界のことであり、勝義諦は、言葉で説明できず、概念化もできない世界(涅槃とか悟り)のこと。
こういった対比にしてしまうと、単純に、「ああ、じゃあ、真理的な、勝義諦を目指していきましょうって話しなんだね、はいはい」となってしまいがちであるが、ポイントはそこにはない。
どっちも大事だよ、ということを、1世紀~2世紀ぐらいに活躍されたナーガールジュナさんが言うのである。
いやむしろ、
・概念的認識によらなければ、究極的な真実(空性)は認識できない
という意味でもちいているのだ、という解説をされている方もいらっしゃる。
補足、否蛇足
短く書こうという実践でもあるので、取りあえずこの記事はここまで。これから先は、その概念化できないこと、言葉にできないこと、というのが、どういったものなのか、もう少し深いインプットをしていきたいと思う。(ああ、どうしても、こういったことを求め始めると、いわゆる怪しげな宗教にはまっていくのではないか、という疑念が発生する。ただ、僕がキリスト教をどうしても深く調べようと思えない理由が、その「絶対的帰依」によるものだという点において、無批判な信仰という状態には、恐らくなれないと思う。一方で、宗教にはまる人とは、ある程度知識があってしかし主体性を見いだせない人だ、という分析などもあり、ありゃーやばいんちゃうか、と思ったりもするが、「他者」から学ぶ、ということを行わない(行えない)故に、その安全性は確保されていると思われる。これが、まさしく孤独、という感覚なのであり、同時に、他者への懐疑という哀しき性質なのであるけれども……おっとと、短く書こうという気持ちを排すると、瞬く間に無駄な文量が増えていく)
概念化できないことって、思考からの逃げ、にも思えてしまうけれども、ただ、人は言葉によってしか考えることができない、という意味において、その言葉を排した世界というのを想定するということは、同時に可能になるのである。
ここに、7万年前の認知革命で生じた虚構の言語、の物凄い可能性が秘められているのだな、と実感レベルで思わざるをえない。
いやぁ、だってですね、虚構、として、神話とか、創造上の物語を語れるってだけで、人間(サピエンス)が用いる言語のすごさは分かるけれども、更には、「言外のこと」まで想像できてしまうのだから、やっぱり、(虚構の)言葉の力ってすごいよね。
