カテゴリ重視方針にしてから、初めての日常カテゴリ……あ、ないんだった、こういう気分の時は、ええと、どうすんだっけかな。
それがやってくるのは、まだ先なのに、その前から、何となくテンションが下がっていく
こんなこと書いてどうするの、と思ったが、また閃いた。
そうだ、日々の生きづらさってのも、まさにこの構造じゃなかろうと。
人は死にますぜ?
というのは、誰しもわかってる。
しかしながら、それが間近に迫っているとは思えない。これが中間派の苦悩である。
しかし、受験とか、就職活動とか、そういうイベントごとは、なんとも憂鬱な気分を引き起こす。
仕事でも、あー、あの調整ごと面倒だなぁ、話し合いとか紛糾するだろうなぁとかあると、憂鬱である。
でも、そんなことに囚われてるのはやっぱり、エラーだと思われる。
だって、いずれ死ぬからといって、人生楽しまない、という選択肢は普通はないわけだ。
本当は、一日一日の時間は、受験とか仕事とかのどーでもいいイベントに関わらず、止まることなく進んでいってるのだ。
あー。
あー、ほんと、きりがねぇ、こたえがねえ。
修羅場を乗り越えないと応用力がつかないぞ、とか言われてもだな、はるかに複雑に、高度に、範囲が広くなっていく仕事に、どう対処すりゃええんや。
とか愚痴いっても仕方がないけどね。
どっかで、ここまで、と、きりをつけなきゃいけないんだろうけど、70パーセントの完成度で、それをダメだと怒られたら、やっぱり悔しいよな。
とはいえ、ゴミとか間違いをつくりだしても仕方があるまい。
でも、0パーセントは、次には絶対つながらない。
例えばだ、このゴミみたいな記事を、果たして投稿すべきか、いつもいつも悩む。
かといって、そのときちょっといい感じな記事だな、と思っても、しばらくすると、ああ、変なこと書いてしまったなとか、自己嫌悪になる。
こうなってくると、自分で終わりをみつけるのと、そもそもその考えることが、書くことが、やることがそれ自体楽しいかってのが、唯一の根拠になるのではなかろうか。
いま書いてるのは、すべての行為、思考のことをいっている。
すべて、すべてだ。
ずっとこんなことばっか言ってる人、アホちゃうか、と思うかもしれない。
しかしながら、この生き方は絶対に正しい。
なぜならば、人に生きる意味なんてないからだ!
矛盾、ブログタイトルと矛盾! 否、そんなこともとより分かってる。分かっているからこそ今まで書いてなかっただけ、いや、書いてたかも。
出発点はそこじゃない。
1 あれ、なんか、生きてんのつらくね?
2 人生楽しむのが生きる意味だ!
3 いや、それにしてはつらいこと多すぎじゃね?
4 あーほんともうつまんねぇ。人生なんて消えてしまえばいい。
5 (どん底、言葉がない状況)
6 あー、まぁ、人は死ぬよな。じゃあ精一杯死ぬ気で色々やってみてもいいんじゃん? それで死ぬならそれはそれでいいし。
7 あれ、意外に色んなことできるじゃん。成功もするじゃん。
8 うひゃひゃ、たのしいねーたのしーねー
9 で、結局なんなの? わかったことって、楽しいこともあればつらいこともあるとか、そんな当たり前なことじゃん?
10 いずれ死ぬまで、こうやって目の前に発生する事案に一喜一憂してりゃいいの? それってそもそも何になるの?
11 頑張れ頑張れって、何のため?
12 あぁ、そうか、やっぱり、僕は、生きることにたいしての意味を見つけなきゃならないんだ。←いまここ
生きる意味というか、目的だよね。
成し遂げたいとことというか、ライフワークというか。
一日過ぎてしまったのだ、許して欲しい。
ああ、しかし、苛々というか、おちつかなさは、残っている。
時間がないよね。
書く時間、
ほんと、
どこまで頑張りゃいいの?
うん、完全に弱ってるね。何というか、終わりのない仕事というのは、徒労となる。いやまぁ、終わりはあるんだ。当たり前だ、何せ、「人」自身に終わりはある。いやそんな長期的なこと言わなくても、別に本当にダメなら「首」になる。クビになったところで、まだまだ生きるすべはある。資産があれば、何もしなくても生き延びられる。
だが、本当にそうか? もし、ただ生きることだけが目的なのであれば、何故、とある大企業の年若き乙女は自殺しなければならなかったのか。「頑張ること」、それは、いったい、どこまでやったら、「頑張った」ことになるのか。結局、環境、他者次第だ。くだらない、ああ、本当に、他人という奴はどうでもいいものだ。
と、感情エラーが発生するのが、非常に疲れたときである。
あれをやらなきゃ、これをやらなきゃ。
いいよ、できるよ、そつなくこなせる。だが、それの更に深いところ、どこまで求める? 所詮、いくらきれいごとをいっても、品質と、時間と、コストの関係は、相互作用するしかないのだ。
とかいうと、今度は、「時間外労働は削減すべきだ」「時間をかければよいものができるわけではない。効率がすべてだ」とか言われ始める。
これを、「時代の変化だ」「流行に乗り遅れてはならない」とするのは、果たしてまともな判断だろうか?
中でも、時代の流れに取り残された人はクズのように死ぬしかない、というようなことも珍しくなく言われることである。
本当にそうか?
僕はまだ、食糧生産革命あたりの1万年前ぐらいまでしか、件のサピエンス全史は読んでいないけれども、ある尊敬する信頼できる方のブログ記事によると、「文化や文明の発展と人の幸福は一致しない」という点と、「いずれ時代の変化は我々の感覚を現実から引き離す」という点が結論であるようである。今完全に僕の言葉で置き換えたため、多分意図が異なっている気がする(特に2点目はそんなこと書かれていなかった気がしてならない)が、まぁ、その結論というか考えというか、実感というかは、僕がまさに最近、ここ何年かで強く感じていることであり、それを、「生きづらさ」とか、「頑張った先に何があるのか」とか「生きる意味を求めざるをえない」とか、モヤモヤした感覚を様々な表現で、明確化しようとする試みであったわけだけれども、そうした感覚を、このサピエンス全史という本は、明瞭にしてくれるのではないかと、期待しているわけである。
(とか思ってる割に、全然先に進んでない! 時間がない!)
明日も、気乗りがしない用事のため、早いんだろ?
うむ。ところで、書いておかねばならぬことに、「時間がない」というのは、「主観的」な問題であるということである。
え、だって、時間は、24時間、ちゃんと平等に流れているではないか。時間は決して無くならない。無いのではない、「過ぎる」のだ。
「あー、思った以上に過ぎてしまった」
この感覚が、我々に「時間がない」という言葉を発せさせるのである。
繰り返すが、なくなったのではない、過ぎてしまったのだ、この違いは大きい。
時間がない、とか言ってるうちは、それは、本当に主体的に生きていないということだ。
「やるべきこと」「やらされていること」ばかりのときは、そんな台詞が頭に浮かぶ。
そんな人生、そんな生きる時間を、認めていいと本当に思ってるのか?
貴様は、本当に、グダグダ言いながら、寿命、残された時間が暫くも留めることができず、ただ絶え間なく過ぎ去っていくことを、本当に分かっているのか?
鬱々としている人、ぼーっとテレビ見て過ごしている人、たわいない話おしゃべりをしている人、みんなそれぞれ、自分の時間を生きている。
それを、どの上から目線で、「もったいない」「無駄に時間を使ってる」とか言えるのだ? お前は誰だ? 社長か? 神か?
ああ、分かっている、お前の言いたいことは分かってる、どうせあれだろ、そんな考える間もなく、ジャングルのゲリラとか、戦争中の兵士だとか、紛争で餓えた人々だとか、そんな例えにおいて、思考ができることは幸せだ、とかいうのだろう?
それもまた短慮だ。
俺は、「頑張ってきた」よ。だが、それを誰か、認めてもらえないと、それは単なる慢心となる。
「え、その程度で頑張ったの? もっと大変なひといっぱいいるよ? もっと頑張れよ」
はい、分かりました、頑張ります。せっせ、せっせ。「頑張りました!」
「え、まだその程度なの? あー、ほんと、センスないねぇ。使えないなぁ。もっと頑張れよ」
はい、わかりました。せっせ、えっさほいさ、はぁ、はぁ……「が、頑張りました」
「おまえ、マジでやってんの? ふざけてんなら帰っていいよ? もっと頑張れよ」
はい……分かりました。せっせ、えっさ、ほいさ、はぁぁぁあああ! めんどくせぇぇぇ!!
と。
この、「頑張る」という行為が、全く持って理にかなっていない、バカげたものだということの片鱗が、少しは読み取れるだろうか。
すぐさま、書いておかねばならないのは、「ストイック」なことが決して悪いことではない。
というか、逆転して、「頑張らない奴は所詮その程度だ」とすら俺は思う。どういうことか、完全に矛盾したことを書いている。
主体だ。
簡単なことで、その頑張る行為自体が、楽しいもの、充実したもの、生きがいとなるものであれば、それは大いに自分自身を成長させるし、パフォーマンスになるし、充足を与えてくれるものである。
つまり、だ。「頑張る」という言語表現に、「苦労して」「辛いけれども」「必死になって」「くらいついて」とか、そうしたマイナス言語が付随する場合に、「くそくらえ」と僕が言うわけだ。
これは前から何度も書いているが、「インプット」はとっても重要だ。アウトプットだってそうだ。
何かするのに、知識は重要だ。筋トレという、身体へのインプットだって重要だ。
インプットも、アウトプットもできない人は、そりゃあダメだ。というか、そんなの生きてるといえない。そう、だから、厳しいことを書いているようで、アウトプットやインプットは、誰にでも、普遍的にできることなのだ。
ただ、それが、「他人」という存在を介在させたときに、その「インプット」は、その「アウトプット」は、時に凄まじい「頑張り」を要求するのである。
ほんっとに、くだらない人間ばかりだ。いや、人間ってもんがそもそもくだらないのか。サピエンス? 賢い? 傲慢にもほどがある!
……今日はまだ、ルーチンもやってない。
それだけは、やろう。
せめてもの、他者や環境に翻弄されようと、それだけは、僕の主体的な行為、支柱、なのだと……まだ始めて30日ぐらいだけれども、行為が僕自身の一部になるように、これからも、続けたい。
どこがこれのまとめなのだ? うん、つまり、書いたこと自体にあまり、意味はない。ただ、疲れて、苛々して、そのイライラの対処を行った、というだけの軌跡。
うん、少し、ようやく落ち着いてきたか。
やっぱり、あれだ、その、「イライラ対処」カテゴリの場合に、「頑張って」短くしようとするとダメだこりゃ。
ノンストップで好きなだけ書かせてやらなきゃダメなのかもしれない。
何だろう、運動した後の疲れは何だか心地いいのと同じなのかもしれないが、ノンストップで書きなぐった後の疲れは、いやそもそも、書き始めたときから既に疲れていたわけだけれども、同じ疲れだけれども、何だか、少し、落ち着くというか、安心するというか、心地よいような、そんな気がする……。
金曜と土曜が微妙
なんだか気乗りがしないイベントが近いと、憂鬱だよね。それがやってくるのは、まだ先なのに、その前から、何となくテンションが下がっていく
こんなこと書いてどうするの、と思ったが、また閃いた。
そうだ、日々の生きづらさってのも、まさにこの構造じゃなかろうと。
いずれやってくる破局
人は死にますぜ?
というのは、誰しもわかってる。
しかしながら、それが間近に迫っているとは思えない。これが中間派の苦悩である。
しかし、受験とか、就職活動とか、そういうイベントごとは、なんとも憂鬱な気分を引き起こす。
仕事でも、あー、あの調整ごと面倒だなぁ、話し合いとか紛糾するだろうなぁとかあると、憂鬱である。
死ぬ
でも、そんなことに囚われてるのはやっぱり、エラーだと思われる。
だって、いずれ死ぬからといって、人生楽しまない、という選択肢は普通はないわけだ。
本当は、一日一日の時間は、受験とか仕事とかのどーでもいいイベントに関わらず、止まることなく進んでいってるのだ。
そして金曜日が終わる
あー。
あー、ほんと、きりがねぇ、こたえがねえ。
修羅場を乗り越えないと応用力がつかないぞ、とか言われてもだな、はるかに複雑に、高度に、範囲が広くなっていく仕事に、どう対処すりゃええんや。
とか愚痴いっても仕方がないけどね。
どっかで、ここまで、と、きりをつけなきゃいけないんだろうけど、70パーセントの完成度で、それをダメだと怒られたら、やっぱり悔しいよな。
作品創りもそうか
完璧なものを作ろうとするのは大切だが、そのせいでいつまでも完成しないのはよくない。とはいえ、ゴミとか間違いをつくりだしても仕方があるまい。
でも、0パーセントは、次には絶対つながらない。
例えばだ、このゴミみたいな記事を、果たして投稿すべきか、いつもいつも悩む。
かといって、そのときちょっといい感じな記事だな、と思っても、しばらくすると、ああ、変なこと書いてしまったなとか、自己嫌悪になる。
こうなってくると、自分で終わりをみつけるのと、そもそもその考えることが、書くことが、やることがそれ自体楽しいかってのが、唯一の根拠になるのではなかろうか。
いま書いてるのは、すべての行為、思考のことをいっている。
すべて、すべてだ。
絶対的ポジティブ
うひゃーじんせい楽しいな! 幸せだな!!ずっとこんなことばっか言ってる人、アホちゃうか、と思うかもしれない。
しかしながら、この生き方は絶対に正しい。
なぜならば、人に生きる意味なんてないからだ!
矛盾、ブログタイトルと矛盾! 否、そんなこともとより分かってる。分かっているからこそ今まで書いてなかっただけ、いや、書いてたかも。
出発点はそこじゃない。
1 あれ、なんか、生きてんのつらくね?
2 人生楽しむのが生きる意味だ!
3 いや、それにしてはつらいこと多すぎじゃね?
4 あーほんともうつまんねぇ。人生なんて消えてしまえばいい。
5 (どん底、言葉がない状況)
6 あー、まぁ、人は死ぬよな。じゃあ精一杯死ぬ気で色々やってみてもいいんじゃん? それで死ぬならそれはそれでいいし。
7 あれ、意外に色んなことできるじゃん。成功もするじゃん。
8 うひゃひゃ、たのしいねーたのしーねー
9 で、結局なんなの? わかったことって、楽しいこともあればつらいこともあるとか、そんな当たり前なことじゃん?
10 いずれ死ぬまで、こうやって目の前に発生する事案に一喜一憂してりゃいいの? それってそもそも何になるの?
11 頑張れ頑張れって、何のため?
12 あぁ、そうか、やっぱり、僕は、生きることにたいしての意味を見つけなきゃならないんだ。←いまここ
生きる意味というか、目的だよね。
成し遂げたいとことというか、ライフワークというか。
カテゴリちがくね?
一日過ぎてしまったのだ、許して欲しい。
ああ、しかし、苛々というか、おちつかなさは、残っている。
時間がないよね。
書く時間、
ほんと、
どこまで頑張りゃいいの?
おうちに帰った遠藤が引き取ります
お疲れ様。うん、完全に弱ってるね。何というか、終わりのない仕事というのは、徒労となる。いやまぁ、終わりはあるんだ。当たり前だ、何せ、「人」自身に終わりはある。いやそんな長期的なこと言わなくても、別に本当にダメなら「首」になる。クビになったところで、まだまだ生きるすべはある。資産があれば、何もしなくても生き延びられる。
だが、本当にそうか? もし、ただ生きることだけが目的なのであれば、何故、とある大企業の年若き乙女は自殺しなければならなかったのか。「頑張ること」、それは、いったい、どこまでやったら、「頑張った」ことになるのか。結局、環境、他者次第だ。くだらない、ああ、本当に、他人という奴はどうでもいいものだ。
と、感情エラーが発生するのが、非常に疲れたときである。
あれをやらなきゃ、これをやらなきゃ。
いいよ、できるよ、そつなくこなせる。だが、それの更に深いところ、どこまで求める? 所詮、いくらきれいごとをいっても、品質と、時間と、コストの関係は、相互作用するしかないのだ。
とかいうと、今度は、「時間外労働は削減すべきだ」「時間をかければよいものができるわけではない。効率がすべてだ」とか言われ始める。
これを、「時代の変化だ」「流行に乗り遅れてはならない」とするのは、果たしてまともな判断だろうか?
時代の変化を問う
ある筋トレブログ何か見ていると、やっぱり、仕事は最前線で頑張るべきだとか、逃げたところで何も得るものはないだとか、修羅場を潜り抜けてこそ人は成長するだとか、そんな言葉がありふれている。中でも、時代の流れに取り残された人はクズのように死ぬしかない、というようなことも珍しくなく言われることである。
本当にそうか?
僕はまだ、食糧生産革命あたりの1万年前ぐらいまでしか、件のサピエンス全史は読んでいないけれども、ある尊敬する信頼できる方のブログ記事によると、「文化や文明の発展と人の幸福は一致しない」という点と、「いずれ時代の変化は我々の感覚を現実から引き離す」という点が結論であるようである。今完全に僕の言葉で置き換えたため、多分意図が異なっている気がする(特に2点目はそんなこと書かれていなかった気がしてならない)が、まぁ、その結論というか考えというか、実感というかは、僕がまさに最近、ここ何年かで強く感じていることであり、それを、「生きづらさ」とか、「頑張った先に何があるのか」とか「生きる意味を求めざるをえない」とか、モヤモヤした感覚を様々な表現で、明確化しようとする試みであったわけだけれども、そうした感覚を、このサピエンス全史という本は、明瞭にしてくれるのではないかと、期待しているわけである。
(とか思ってる割に、全然先に進んでない! 時間がない!)
時間がないとは何か?
おめーはよ、時間がないとかいいつつ、何故こんなブログ記事書いてるんだよ?明日も、気乗りがしない用事のため、早いんだろ?
うむ。ところで、書いておかねばならぬことに、「時間がない」というのは、「主観的」な問題であるということである。
え、だって、時間は、24時間、ちゃんと平等に流れているではないか。時間は決して無くならない。無いのではない、「過ぎる」のだ。
「あー、思った以上に過ぎてしまった」
この感覚が、我々に「時間がない」という言葉を発せさせるのである。
繰り返すが、なくなったのではない、過ぎてしまったのだ、この違いは大きい。
時間がない、とか言ってるうちは、それは、本当に主体的に生きていないということだ。
「やるべきこと」「やらされていること」ばかりのときは、そんな台詞が頭に浮かぶ。
そんな人生、そんな生きる時間を、認めていいと本当に思ってるのか?
貴様は、本当に、グダグダ言いながら、寿命、残された時間が暫くも留めることができず、ただ絶え間なく過ぎ去っていくことを、本当に分かっているのか?
うつ病はアホの子なのか?
という、煽りを間にうけると、「必死に」「頑張って」生きていかなければならない、という結論になりがちである。短慮だ。浅はかだ。そうじゃねぇだろうよ。鬱々としている人、ぼーっとテレビ見て過ごしている人、たわいない話おしゃべりをしている人、みんなそれぞれ、自分の時間を生きている。
それを、どの上から目線で、「もったいない」「無駄に時間を使ってる」とか言えるのだ? お前は誰だ? 社長か? 神か?
ああ、分かっている、お前の言いたいことは分かってる、どうせあれだろ、そんな考える間もなく、ジャングルのゲリラとか、戦争中の兵士だとか、紛争で餓えた人々だとか、そんな例えにおいて、思考ができることは幸せだ、とかいうのだろう?
それもまた短慮だ。
俺は、「頑張ってきた」よ。だが、それを誰か、認めてもらえないと、それは単なる慢心となる。
「え、その程度で頑張ったの? もっと大変なひといっぱいいるよ? もっと頑張れよ」
はい、分かりました、頑張ります。せっせ、せっせ。「頑張りました!」
「え、まだその程度なの? あー、ほんと、センスないねぇ。使えないなぁ。もっと頑張れよ」
はい、わかりました。せっせ、えっさほいさ、はぁ、はぁ……「が、頑張りました」
「おまえ、マジでやってんの? ふざけてんなら帰っていいよ? もっと頑張れよ」
はい……分かりました。せっせ、えっさ、ほいさ、はぁぁぁあああ! めんどくせぇぇぇ!!
と。
この、「頑張る」という行為が、全く持って理にかなっていない、バカげたものだということの片鱗が、少しは読み取れるだろうか。
すぐさま、書いておかねばならないのは、「ストイック」なことが決して悪いことではない。
というか、逆転して、「頑張らない奴は所詮その程度だ」とすら俺は思う。どういうことか、完全に矛盾したことを書いている。
頑張ることとは何か?
僕が必要だという「頑張る」と、一般的に言われる努力だとか頑張るということの違いは、一つだけだ。主体だ。
簡単なことで、その頑張る行為自体が、楽しいもの、充実したもの、生きがいとなるものであれば、それは大いに自分自身を成長させるし、パフォーマンスになるし、充足を与えてくれるものである。
つまり、だ。「頑張る」という言語表現に、「苦労して」「辛いけれども」「必死になって」「くらいついて」とか、そうしたマイナス言語が付随する場合に、「くそくらえ」と僕が言うわけだ。
これは前から何度も書いているが、「インプット」はとっても重要だ。アウトプットだってそうだ。
何かするのに、知識は重要だ。筋トレという、身体へのインプットだって重要だ。
インプットも、アウトプットもできない人は、そりゃあダメだ。というか、そんなの生きてるといえない。そう、だから、厳しいことを書いているようで、アウトプットやインプットは、誰にでも、普遍的にできることなのだ。
ただ、それが、「他人」という存在を介在させたときに、その「インプット」は、その「アウトプット」は、時に凄まじい「頑張り」を要求するのである。
まとめ
ああ、もう、疲れたよ! 何でこんなこと書かなきゃいけないんだよ! 当たり前だろ? 何でみんなわかんねーんだよ。アホかよ! 何で世界は平和じゃないんだよ。争って人を殺して、奪って富を得て、それで何になるんだよ! バカか!ほんっとに、くだらない人間ばかりだ。いや、人間ってもんがそもそもくだらないのか。サピエンス? 賢い? 傲慢にもほどがある!
……今日はまだ、ルーチンもやってない。
それだけは、やろう。
せめてもの、他者や環境に翻弄されようと、それだけは、僕の主体的な行為、支柱、なのだと……まだ始めて30日ぐらいだけれども、行為が僕自身の一部になるように、これからも、続けたい。
どこがこれのまとめなのだ? うん、つまり、書いたこと自体にあまり、意味はない。ただ、疲れて、苛々して、そのイライラの対処を行った、というだけの軌跡。
うん、少し、ようやく落ち着いてきたか。
やっぱり、あれだ、その、「イライラ対処」カテゴリの場合に、「頑張って」短くしようとするとダメだこりゃ。
ノンストップで好きなだけ書かせてやらなきゃダメなのかもしれない。
何だろう、運動した後の疲れは何だか心地いいのと同じなのかもしれないが、ノンストップで書きなぐった後の疲れは、いやそもそも、書き始めたときから既に疲れていたわけだけれども、同じ疲れだけれども、何だか、少し、落ち着くというか、安心するというか、心地よいような、そんな気がする……。
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おお、消えてしまうとは情けない
何だろう、ブラウザがクラッシュしてまたしても書いていた内容が全部消えてしまった。ショック。二度と、同じことは書けないだろう。小まめな保存は重要だと言っても、最後、投稿しようと投稿ボタンを押す間際に消えるとか、ひどいなぁ。
何だろう、PCのせいなのか、これは忍者ブログのせいというよりも、グーグルクロームのせいな気がしてきたぞ。
まぁいいや、思い出しながら書いてみるか。
キャラクターへ100の質問
物語を創るのが重要だ、ということで、2つぐらいプロット立てて執筆をしていたが、どうにもあまり面白くなかった。続きが気になる、という気はするのだが、自分で書いていること自体があまり面白くないのであった。そして、そもそも、僕の作品においては、キャラクターの設定が十分でないのだろうと、キャラクターを作るには、重厚な設定が必要なのだということを目にして、履歴書的なのを作ってみようと思い立った。
100の質問、ということで、名前から始まり身体の属性、性格、長所と短所、口癖、信じていること、交友関係、特技や能力、持ち物や財産などなど。
取りあえず既存の自作のキャラクターで、30個目ぐらいまでやっていたら、完全に、飽きた(かっこわらい)。
いや、ほんと、このキャラクターの履歴書を作れる人すごいなぁ。
これはまだ、自分の好きなキャラとか美少女とかならいいかもしれないが、敵とか、イライラさせられる嫌な奴とかも作らないといけないわけで、それって大変な作業だと思う。
超絶ポジティブの僕としては、余暇にまでそんなことしているのって、どうにも食指が動かない。
そうはいっても、物語に重要なのは、敵とか、問題とかだと思う。
物語を創ることは生きるスキル
消える前はこんなビジネス本的な胡散臭い小見出しじゃなかった気がするけれども。物語を創るというのは、敵とか、問題を設定して、それを解決する手段を考えて、実行していくというプロセスが必要なわけだ。
ここでの問題は、「目的」という表現も可能なのであって、ということは、目的を設定して解決するという、問題解決能力が必要であるということになる。
昨今は、知識ではなく、ストーリーをつくる能力が重要になってきていると言われるが、まぁ、この言説は要検証ではある。インプットや知識がなければ、語られるべきストーリーだってありえないのだ。
とそうはいっても、やっぱり、何が問題かということを見極め、その解決を考え検証し実現していくという力は、学生生活においても、ビジネスにおいても重要なことだろうと思える。
そうしたことが、物語を創ることで養われるのである、というと大げさか。
小説の投稿
まぁそう思ったからというわけではないけれども、キャラクターの設定を作っているのがあまりにも苦痛になって、気が付いたらあるサイトに投稿していた。目的は三つ。
・キャラクターの作成の練習
・敵や問題の作成の練習
・連載することで、物語を創ることのスキルと意欲の維持
である。
学校の時間割で、英語、数学、物理、体育とか、いろいろ分かれているのは、脳って、同じことを繰り返しているとパフォーマンスが落ちてしまうからなのだと思う。
一つのことに集中して取り組むのも大事だけれども、ただやみくもに時間をかけるだけだと、どんどんやる気も効率も落ちてくるわけだ。
色々なことを、まんべんなく、少しずつでも時間をかけていくことが、重要だと思し、それが結局よいものができやすいと思う。
こんな感じだったろうか。あとは思い出せないなぁ。
(ナーガールジュナの中論の解説を読んだ感想から)
例えば、「起承転結」という、文章を書く上で、他者に伝わりやすいとされている概念の解説を試みてみよう。【起】
起承転結とは、まず、
・問題提起
・問題提起を受けた説明
・見方を変えた説明、例示など
・まとめ、結論
という流れで文章を書くことである。【承】
初めてこの概念を聞いた人に分かりやすく伝えるには、まずは、「起」と、「結」だけを覚えておくように、と伝えてもよいかもしれない。伝えたいことを初めに簡潔に挙げて、それのまとめをする、というやり方。これはそれほど意識しなくても、普通行っている話し方や書き方だと思われる。
ビジネスの世界などでは、結論を先に話して、後から理由を述べる(三つくらい)ということも言われるが、実はそもそも、いきなり「結論」なんて言っても、上司どころか誰にも言いたいことは伝わらないのである。というのは、「結論」といいつつも、必ず、何の話かという小さなごくわずかな、「起」が組み込まれているからだ。【転】
故に、起承転結という話し方や文章の書き方について、いきなり実践するということでなくても、まずは、起として問題提起を行って、次に結としてまとめる、ということを意識することが、新しい概念としてインプットする際には有効になるだろう。
それが慣れてきたときに、より面白く、印象的な話や文章にするために、起承転結の、承や、転といった方法を学んでいけばよいのだと、私は思う。【結】
ただ、新しい概念を覚えようとしたときに、一気に全部完璧に覚えようとするのではなく、まずは、大きなところ、簡単なところ、本質的なところに絞って、それを実践して使っているうちに、自分の記憶や価値観や信念といった部分まで浸透していく、身についていくと、そういうことが言いたかったということが、何となく伝わるはずだ(え、そんなことどこに書いてあったかって?!)。
別に、起承転結の説明がしたかったわけではない。ただ、僕が上に書いた説明というのは、多分、明日になると、また違ったものになっていると思う。恐らく、表現も全然別なものだろう。起承までは、かろうじて似ているかもしれないが、転結の部分は、全く異なっているかもしれない。
けれども、僕は恐らく、この先も、何度でも、起承転結という「概念」の説明を、行うことができる。
これが、概念としてのインプットが成された状態である。つまり、表現や言葉が異なっても、論理的な、流れに沿った説明(アウトプット)が可能な状態、それが概念としてのインプットなのだ。
「違和感ありますな~」とどこか、前の記事で書いたことがあったけれども、でも、今思ったのは、仏教は、ある種「諦めの思想」であるともいえるから、「諦」という漢字が「真理」を意味するというのも、何だかそう考えると深イイ話な気がする。
で、今回のインプットとして、本来的に書こうとしたことにようやくたどり着いたが、この世俗諦という概念と、勝義諦という概念のインプットを試みようというものであった。
昨日、空の論理、を読んでいて、登場した概念である。


簡単に今時点でインプットできたことを書けば、世俗諦とは、言葉で説明できる、概念化可能な世界のことであり、勝義諦は、言葉で説明できず、概念化もできない世界(涅槃とか悟り)のこと。
こういった対比にしてしまうと、単純に、「ああ、じゃあ、真理的な、勝義諦を目指していきましょうって話しなんだね、はいはい」となってしまいがちであるが、ポイントはそこにはない。
どっちも大事だよ、ということを、1世紀~2世紀ぐらいに活躍されたナーガールジュナさんが言うのである。
いやむしろ、
・概念的認識によらなければ、究極的な真実(空性)は認識できない
という意味でもちいているのだ、という解説をされている方もいらっしゃる。
これから先は、その概念化できないこと、言葉にできないこと、というのが、どういったものなのか、もう少し深いインプットをしていきたいと思う。(ああ、どうしても、こういったことを求め始めると、いわゆる怪しげな宗教にはまっていくのではないか、という疑念が発生する。ただ、僕がキリスト教をどうしても深く調べようと思えない理由が、その「絶対的帰依」によるものだという点において、無批判な信仰という状態には、恐らくなれないと思う。一方で、宗教にはまる人とは、ある程度知識があってしかし主体性を見いだせない人だ、という分析などもあり、ありゃーやばいんちゃうか、と思ったりもするが、「他者」から学ぶ、ということを行わない(行えない)故に、その安全性は確保されていると思われる。これが、まさしく孤独、という感覚なのであり、同時に、他者への懐疑という哀しき性質なのであるけれども……おっとと、短く書こうという気持ちを排すると、瞬く間に無駄な文量が増えていく)
概念化できないことって、思考からの逃げ、にも思えてしまうけれども、ただ、人は言葉によってしか考えることができない、という意味において、その言葉を排した世界というのを想定するということは、同時に可能になるのである。
ここに、7万年前の認知革命で生じた虚構の言語、の物凄い可能性が秘められているのだな、と実感レベルで思わざるをえない。
いやぁ、だってですね、虚構、として、神話とか、創造上の物語を語れるってだけで、人間(サピエンス)が用いる言語のすごさは分かるけれども、更には、「言外のこと」まで想像できてしまうのだから、やっぱり、(虚構の)言葉の力ってすごいよね。
起承転結
知識や記憶には、名称的なものと、概念的なものとがある。例えば、「起承転結」という、文章を書く上で、他者に伝わりやすいとされている概念の解説を試みてみよう。【起】
起承転結とは、まず、
・問題提起
・問題提起を受けた説明
・見方を変えた説明、例示など
・まとめ、結論
という流れで文章を書くことである。【承】
初めてこの概念を聞いた人に分かりやすく伝えるには、まずは、「起」と、「結」だけを覚えておくように、と伝えてもよいかもしれない。伝えたいことを初めに簡潔に挙げて、それのまとめをする、というやり方。これはそれほど意識しなくても、普通行っている話し方や書き方だと思われる。
ビジネスの世界などでは、結論を先に話して、後から理由を述べる(三つくらい)ということも言われるが、実はそもそも、いきなり「結論」なんて言っても、上司どころか誰にも言いたいことは伝わらないのである。というのは、「結論」といいつつも、必ず、何の話かという小さなごくわずかな、「起」が組み込まれているからだ。【転】
故に、起承転結という話し方や文章の書き方について、いきなり実践するということでなくても、まずは、起として問題提起を行って、次に結としてまとめる、ということを意識することが、新しい概念としてインプットする際には有効になるだろう。
それが慣れてきたときに、より面白く、印象的な話や文章にするために、起承転結の、承や、転といった方法を学んでいけばよいのだと、私は思う。【結】
概念のインプット
上の、起承転結の説明において、僕が言いたかったことは、何となく伝わると思う。表現的に回りくどかったり、その説明必要か? という部分もあるだろうし、論文的にはたくさん添削がされそうである。ただ、新しい概念を覚えようとしたときに、一気に全部完璧に覚えようとするのではなく、まずは、大きなところ、簡単なところ、本質的なところに絞って、それを実践して使っているうちに、自分の記憶や価値観や信念といった部分まで浸透していく、身についていくと、そういうことが言いたかったということが、何となく伝わるはずだ(え、そんなことどこに書いてあったかって?!)。
別に、起承転結の説明がしたかったわけではない。ただ、僕が上に書いた説明というのは、多分、明日になると、また違ったものになっていると思う。恐らく、表現も全然別なものだろう。起承までは、かろうじて似ているかもしれないが、転結の部分は、全く異なっているかもしれない。
けれども、僕は恐らく、この先も、何度でも、起承転結という「概念」の説明を、行うことができる。
これが、概念としてのインプットが成された状態である。つまり、表現や言葉が異なっても、論理的な、流れに沿った説明(アウトプット)が可能な状態、それが概念としてのインプットなのだ。
世俗諦と勝義諦
書こうと思ったことと、全く関係ないことなのだけれど、この「諦」という漢字、「あきらめる」と読めるけれど、仏教的には、「真理」を意味する言葉でもある。「違和感ありますな~」とどこか、前の記事で書いたことがあったけれども、でも、今思ったのは、仏教は、ある種「諦めの思想」であるともいえるから、「諦」という漢字が「真理」を意味するというのも、何だかそう考えると深イイ話な気がする。
で、今回のインプットとして、本来的に書こうとしたことにようやくたどり着いたが、この世俗諦という概念と、勝義諦という概念のインプットを試みようというものであった。
昨日、空の論理、を読んでいて、登場した概念である。
簡単に今時点でインプットできたことを書けば、世俗諦とは、言葉で説明できる、概念化可能な世界のことであり、勝義諦は、言葉で説明できず、概念化もできない世界(涅槃とか悟り)のこと。
こういった対比にしてしまうと、単純に、「ああ、じゃあ、真理的な、勝義諦を目指していきましょうって話しなんだね、はいはい」となってしまいがちであるが、ポイントはそこにはない。
どっちも大事だよ、ということを、1世紀~2世紀ぐらいに活躍されたナーガールジュナさんが言うのである。
いやむしろ、
・概念的認識によらなければ、究極的な真実(空性)は認識できない
という意味でもちいているのだ、という解説をされている方もいらっしゃる。
補足、否蛇足
短く書こうという実践でもあるので、取りあえずこの記事はここまで。これから先は、その概念化できないこと、言葉にできないこと、というのが、どういったものなのか、もう少し深いインプットをしていきたいと思う。(ああ、どうしても、こういったことを求め始めると、いわゆる怪しげな宗教にはまっていくのではないか、という疑念が発生する。ただ、僕がキリスト教をどうしても深く調べようと思えない理由が、その「絶対的帰依」によるものだという点において、無批判な信仰という状態には、恐らくなれないと思う。一方で、宗教にはまる人とは、ある程度知識があってしかし主体性を見いだせない人だ、という分析などもあり、ありゃーやばいんちゃうか、と思ったりもするが、「他者」から学ぶ、ということを行わない(行えない)故に、その安全性は確保されていると思われる。これが、まさしく孤独、という感覚なのであり、同時に、他者への懐疑という哀しき性質なのであるけれども……おっとと、短く書こうという気持ちを排すると、瞬く間に無駄な文量が増えていく)
概念化できないことって、思考からの逃げ、にも思えてしまうけれども、ただ、人は言葉によってしか考えることができない、という意味において、その言葉を排した世界というのを想定するということは、同時に可能になるのである。
ここに、7万年前の認知革命で生じた虚構の言語、の物凄い可能性が秘められているのだな、と実感レベルで思わざるをえない。
いやぁ、だってですね、虚構、として、神話とか、創造上の物語を語れるってだけで、人間(サピエンス)が用いる言語のすごさは分かるけれども、更には、「言外のこと」まで想像できてしまうのだから、やっぱり、(虚構の)言葉の力ってすごいよね。
おはようございます、と、朝に書く記事は、ではどんなカテゴリになるのかと。
やっぱり、想像が付かず、考えてる時間に思考が雲散霧消していく。
であれば、浮かんだことを取り合えずメモしてもいいじゃないか、これがゼロ秒思考メモである。
あ、そうか、じゃあ、その思考メモというカテゴリ作ってしまえばいいか。うーん、ただそうなると、日常、生活、カテゴリみたいに、分類する気持ちが働きにくくて、楽な方に流れそうだ。
認知革命の章が終わりそう。七万年前、虚構の言語の出現。
三万年前、ネアンデルタール人絶滅。フローレス人も五万年前くらいに絶滅したとすれば、サピエンス種オンリーとなる。
その後、食糧生産革命が、自分の記憶だと、一万二千年前ごろ。
神殿とか、集団の結束って、農業始めたことが原因だと思っていたから、その前から認知革命が起こって、150人以上が協力できる下地ができた、というのは、完全に新しい知識になった。それだけで買ってよかった。いや、まだ50ページぐらいで、下巻は開いてすらないが。
突発的に本を買えるだけの資産があるのはいい。
最近欲しいのは、概念形成を助けてくれる作品全般だ。
映像作品はそれはそれで素晴らしいが、本という媒体は、繰り返し、自分のペースで理解を進められるのがよい。
ものすごい遅読の実践。
一方、ビジネス本とか、軽い奴は200ページとかあっても15分くらいで読めてしまう。
大体目次読めば内容が推測でき、実際ちょっと読めばそれが正解か判断できる。
そもそも、ビジネス本とかは、答えが先にあって、その説明があとに続く文章構成だから、二三行読めばことたりるのだ。
正直、面白い漫画とか読んだ方がまし、に思えるが、まったくその系統を読んだことない人は、新しい発見もあるだろうから、否定するものではない。
ただ、ありふれるコラムとかニュースとか、新しい概念形成には、もう役に立たないと切り捨てるのは、僕はいまは、アリだと思ってる。
概念とはなんだろうか。それは、事実や事象を抽象的にまとめて名前をつけたものだ。
僕は、いま、結婚というもの、人というもの、人間というもの、生きるというもの、友人というもの、学ぶということ、創作ということ、それら、人生の根幹をなす概念を問いかけている。
普通、生活する上では、当たり前のものだ。
それに、マジで研究するなら、学者にでもなった方がいい。ただ、興味が煩雑で幅広すぎてだめだろう。
地震があって、ああ、これは終末のそれなのか、とふと思った。
そうすると、今まで生きてきた、昨日もぐだぐだ書いていたことが、ああ、なんと恵まれたことであったのか、と思った。
日常が終わり、ただ生きることだけに時間を使うだけの日々。
創作も、ゲームもない。本もない。資本主義もない。
ただ、瓦礫をかきわけ、食べるものと飲むものだけを探し求め、飢えと乾きに苦しみ、秩序が崩壊した世界をあてもなく生きるのだ。
うわめんどくさい。
それだったら、満員電車で、上司やお客さんに叱られ嫌みを言われ気分の悪い思いをしながら、帰ってジントニックを飲むぐらいでましじゃなかろうか。
いやましじゃねーよ。この世界は地獄だよ。
として、今日も今日とて自殺する人もいる。
多分、物理世界に、自己とのギャップが生じたことのない人は、自殺しようとする人の感覚は分からないだろう。
ああ分からんねそんな奴。そんな軟弱興味もない。そんな奴がいたら、ぶん殴ってもぜってぇ助けてやる。
とか言いそうなキャラクターが浮かんだ。
そのキャラクターに感動して惹かれるキャラも同時に浮かび、そして、それをうぜぇ、と思うキャラも浮かんだ。
うん、もう少し、自分の物語を考える上で、人物設定、キャラクターを考えるという試みもいいかもしれない。
あるかたが、小説つくるときにやったやり方として、まず、10人だか20人だかのキャラクターのプロフィールを詳細につくった、ということを仰っていて、うわすごいな、と思った。
僕はどちらかというと、現象とか、できごと、イベント、ストーリーの方が書きたいことが浮かぶから、あまりキャラクターを綿密に考えてはいない気がする。
そこが、僕の作品が決定的に面白くない原因なんだろう。やっぱり、物語って、人だよね。
ということになってくると、やはり、人間嫌いとかいう表現は、そもそも感情エラーなのだという証明にもなるわけだ。
はぁ、なんか朝から疲れた。
書きたいことはまだある気がするけど、眠いし頭痛とお腹が痛いからかここで唐突の終わり。
やっぱり、想像が付かず、考えてる時間に思考が雲散霧消していく。
であれば、浮かんだことを取り合えずメモしてもいいじゃないか、これがゼロ秒思考メモである。
あ、そうか、じゃあ、その思考メモというカテゴリ作ってしまえばいいか。うーん、ただそうなると、日常、生活、カテゴリみたいに、分類する気持ちが働きにくくて、楽な方に流れそうだ。
食糧生産革命
認知革命の章が終わりそう。七万年前、虚構の言語の出現。
三万年前、ネアンデルタール人絶滅。フローレス人も五万年前くらいに絶滅したとすれば、サピエンス種オンリーとなる。
その後、食糧生産革命が、自分の記憶だと、一万二千年前ごろ。
神殿とか、集団の結束って、農業始めたことが原因だと思っていたから、その前から認知革命が起こって、150人以上が協力できる下地ができた、というのは、完全に新しい知識になった。それだけで買ってよかった。いや、まだ50ページぐらいで、下巻は開いてすらないが。
資産
突発的に本を買えるだけの資産があるのはいい。
最近欲しいのは、概念形成を助けてくれる作品全般だ。
映像作品はそれはそれで素晴らしいが、本という媒体は、繰り返し、自分のペースで理解を進められるのがよい。
ものすごい遅読の実践。
一方、ビジネス本とか、軽い奴は200ページとかあっても15分くらいで読めてしまう。
大体目次読めば内容が推測でき、実際ちょっと読めばそれが正解か判断できる。
そもそも、ビジネス本とかは、答えが先にあって、その説明があとに続く文章構成だから、二三行読めばことたりるのだ。
正直、面白い漫画とか読んだ方がまし、に思えるが、まったくその系統を読んだことない人は、新しい発見もあるだろうから、否定するものではない。
ただ、ありふれるコラムとかニュースとか、新しい概念形成には、もう役に立たないと切り捨てるのは、僕はいまは、アリだと思ってる。
概念形成
概念とはなんだろうか。それは、事実や事象を抽象的にまとめて名前をつけたものだ。
僕は、いま、結婚というもの、人というもの、人間というもの、生きるというもの、友人というもの、学ぶということ、創作ということ、それら、人生の根幹をなす概念を問いかけている。
普通、生活する上では、当たり前のものだ。
それに、マジで研究するなら、学者にでもなった方がいい。ただ、興味が煩雑で幅広すぎてだめだろう。
カタストロフ
地震があって、ああ、これは終末のそれなのか、とふと思った。
そうすると、今まで生きてきた、昨日もぐだぐだ書いていたことが、ああ、なんと恵まれたことであったのか、と思った。
日常が終わり、ただ生きることだけに時間を使うだけの日々。
創作も、ゲームもない。本もない。資本主義もない。
ただ、瓦礫をかきわけ、食べるものと飲むものだけを探し求め、飢えと乾きに苦しみ、秩序が崩壊した世界をあてもなく生きるのだ。
うわめんどくさい。
それだったら、満員電車で、上司やお客さんに叱られ嫌みを言われ気分の悪い思いをしながら、帰ってジントニックを飲むぐらいでましじゃなかろうか。
いやましじゃねーよ。この世界は地獄だよ。
として、今日も今日とて自殺する人もいる。
多分、物理世界に、自己とのギャップが生じたことのない人は、自殺しようとする人の感覚は分からないだろう。
創作キャラクター
ああ分からんねそんな奴。そんな軟弱興味もない。そんな奴がいたら、ぶん殴ってもぜってぇ助けてやる。
とか言いそうなキャラクターが浮かんだ。
そのキャラクターに感動して惹かれるキャラも同時に浮かび、そして、それをうぜぇ、と思うキャラも浮かんだ。
うん、もう少し、自分の物語を考える上で、人物設定、キャラクターを考えるという試みもいいかもしれない。
あるかたが、小説つくるときにやったやり方として、まず、10人だか20人だかのキャラクターのプロフィールを詳細につくった、ということを仰っていて、うわすごいな、と思った。
僕はどちらかというと、現象とか、できごと、イベント、ストーリーの方が書きたいことが浮かぶから、あまりキャラクターを綿密に考えてはいない気がする。
そこが、僕の作品が決定的に面白くない原因なんだろう。やっぱり、物語って、人だよね。
ということになってくると、やはり、人間嫌いとかいう表現は、そもそも感情エラーなのだという証明にもなるわけだ。
はぁ、なんか朝から疲れた。
書きたいことはまだある気がするけど、眠いし頭痛とお腹が痛いからかここで唐突の終わり。
「お前のブログは長すぎていかん」
とコメント頂いた。うん、確かにそう思う。
実際、最近、「カテゴリ分けが重要だ」として、何とか整理を試みているが、あまりにも長すぎて、その長い記事というのが、往々にして複数のカテゴリにまたがったことを書いているものだから、もうカオス状態になる。
ここで、もう面倒くさいから、「ゼロベースで作り直しだ」と考えてしまうのが、僕の悪い癖で、その度に過去を清算しようとする。しかしこれは、女子高生がスマートフォンの友人たちのアドレスをリセットするような、SNSで退会してまた別アカウントで登録するような、そんな行為と同義であろう。
過去からの、連綿とした繋がりにおける自己の表現、カッコよく書けばそんな感じ。何とか、ポイント絞って、目指すはミーシー(MECE:漏れなく重複なく)である。
とか書いてみると、以前の記事で、「思考の体系化が今年の目標だぜ!」とか書いているのも見つかって、お前、ほんと、成長していないなぁと辟易とする。
とはいえ、これ、ある程度の長さもやっぱり必要に思えるんだよな。
いやいや、問題はそこではないかもしれない。そもそもにおいて、僕が書き始めるときは、一体全体、この記事が、どのカテゴリに属するのか、どの程度の長さになろうというのか、全く想像もつかないのである。
ただ、書いているうちに、だんだんと、書きたいことが生じていくのである。残念なことに、何か、「これについて」というテーマを決めると、途端に興味がなくなって、書けなったりする。
いろいろ書いていくうちに、書きたいことが見つかる、という構造のため、それはそれは、無駄に長くなっていくのである。
だが、今日のところは、その、書くことそのことに焦点を当てているので、許すことにしよう。
いやきっと、その時点も、「何かは考えている」。ただ、それがアウトプットされないために、無限ループに陥っている可能性がある。かくも思考とは取り扱いが難しいものである。
よし、では、完全に思い付きだが、自分の最近のある記事について言及してみよう。
あーその、なんだ、手前みそだが、結構いい表現な気がする。
自分の性格的に、自己肯定というのを、中々できない。にも拘わらず、この表現はまぁまぁいいんじゃない? と上から目線に思えるのは、もう、この3か月前ぐらいの記事のことを、すっかり忘れているからである。
そして、いくら上から目線でも、自分の記事に対しては全く問題ない点が、書きやすい、ああ書きやすい。
ここで言いたかったことは恐らく、ただ惰性で流されて、好き勝手楽しんでいても、その瞬間瞬間はきっと楽しいだろうから、「いま、ここに生きる」という仏教的な正しい生き方に思いながらも、それは怠惰な方向への逃げであるということだろうと思う。
そして僕はさらに、「逃げ」の何が悪いの? ということすらすぐさま言及する。工事現場で重機でハリーポッターやって楽しんでいる若者たち、いわゆるDQNと言われるような人たちが、本当に人生失敗なのか、というと、全くそんなことはないだろう。
ちょっと調べてしまったが、「ハマータウンの野郎ども」という本があって、そこでは、ホワイトカラーと対比された、ブルーカラー(ここでは不良)たちが、独自の文化体系をつくりあげているということを、フィールドワークによって描き出した本なのだけれど、それを思い出した。


難しい概念は僕は分からないし、この本自分で読んだことがあったのかもよく分からない(図書館で借りたのか、授業で習ったのか、レビューを読んだのか分からない。一つ言えるのは、買ったことは無い)が、取りあえず一つインプットとして、今も記憶に残っているのは、「文化」は、どんな状況でもどこにでも発生するのである、と。
この「文化」の生成を、そもそもの起点について、恐らくサピエンス全史において明らかにしてくれるだろうので、僕はとても楽しみに思っている。
サピエンスの所以は、「文化」なのだ。虚構の言語なのだ。認知革命なのだ、と。
だから、敢えて差別的な言葉遣いになってしまうが、ホームレスの人たちであっても、恐らく、独自の「文化」というのが形成されていくことだろうと思う。もっとも、150人の壁(噂で成り立つ集団の限界人数)ほどにも、ホームレスの集団というのは無いのだろうけれども。
「孤独、凄まじい孤独」
って、何だか、カイジの表現みたいだ、って、カイジ、読んだこと無いけれど。
孤独って何だろな。
こんなこと、考えるなんて、書き始めたときはホント思ってない。
ましてや、知り合い何かに、「孤独、感じることってある?」なんていきなり話し出せば、間違いなく気が狂った人のレッテルを貼られることだろう。
サピエンス全史に限った話ではないけれども、基本的に、どの分野のどの書物を読んでも、基本、「人間は社会的な動物である」という前提にたっている。
孤独でもええんちゃう?
とか言うような本はない。「自立」を促すような言説はあるけれども、それは、孤立を意味しない。
孤独と孤立の違いはなんだろうか。
https://happylifestyle.com/11556
↑のサイトを参考にすると、孤独とは、夢や理想を同じくする人がいなくて、仕方がなく一人になってしまうこと。孤立は、ガチで一人、という状態。
一人、という状態については同じだけれども、その目的と、経緯(プロセス)の違いを示す言葉だという。
おー、こういうのが、まさしく「虚構の言語」ですわな。7万年前の認知革命でサピエンス種が手にするまで、この世界では発見されていなかったことだろう。
恐らく、サピエンス以外の種(しゅ)は、孤独と孤立の違いを説明できないだろうし、そもそも説明する必要性がないだろう。取りあえず一人でいたら、ライオンに襲われて餌食になるだけだ。一致団結して敵対者と戦うということは、ネアンデルタール人たちでもあったはずである。
小賢しいサピエンスは、孤独と孤立という言葉を巧みに用いて、一人でいるという事態を、ときに正当化するのである。
ただし、書いておくべきは、これはダメなパターンだということだ。
ホモ・サピエンスがどうであろうが、そもそも、俺、僕、私が、どうなんだという話し、それが大事だ。
この記事で、今後も役に立たせるために、一つぐらいは確定的な何かを書いておきたい。
よし、僕は、孤独が好きなのかどうか、という問いを掲げよう。
……うーん。
どうなんだろう。これは結構悩ましい。
何だか、本当に気が合って、理解があって、目指す方向が同じで、感覚が同じで、いろんなことが同じで……というような人がいたら、きっと、何かするのも、2倍、3倍と楽しいのではないかと思う。
が、そんなの、エンターテイメントだってありえないことである。みんな違ってみんないい、ではないが、そもそも、多様性が生物としての生存戦略であって、同じコピーであれば、環境の変化であっというまに絶滅してしまう、ということがよく謡われる。
だから、人間関係ってのは、そもそも、その気があったり、時にぶつかりあったり、喧嘩したり、仲良くなったり、感心したり、嫌悪したりと、様々な関係が発生すること自体、そのこと自体が「楽しい」ものなのであって、それが「楽しい」かどうか、その辺りに、孤独が好きなのか、群れが好きなのかの違いがみてとれそうだ。
「人と一緒にいると、だんだん孤独を感じてくるのです……」
というような表現をされている人の記事を見かけた。
ふむ、これはしかし、当たり前のことだといえる。上に書いた通り、人は、「みんな違う」わけであって、多くの時間を他者と共有しているうちに、だんだん、自分との差異というのが明確に輪郭が浮き上がってくるのである。
そのことが、「面白い」と思うか、ああ、「僕はやはりこの人とも違うんだ」という対人関係に対しての絶望になるかは、その人次第である。
おい、そんな、他者のことはどうだっていいんだ、そういう分析紛いのことは、相当20代のころやってきただろ?
分かってるよ、俺が、どうなのか、ってことだろう?
うーむ……。
別に、人と一緒にいることが、それほど嫌なわけでもない。
というか、働いている以上、大半の時間を他者と過ごしているというわけでもあるし。がしかし、昼休みの時間まで、誰かとずっと一緒というのは面倒な気もする……ああいや、しかし、週の半分ぐらいは同僚と一緒にランチに行ったりしている。それが無理やり嫌々やってるかというとそうでもない。
ただ、仕事とプライベートとは、この面においては分離して考えるべきだ。仕事はあくまでも、「ある一定の目的」を、共有する集団であるのだから、その「共同幻想」(サピエンス全史の言葉でいけば、「神話」とか「想像上の現実」)を信じているうちは、安定的でありえるのだ。
プライベートにおいては、「誰かと何となく繋がってないと不安」といった状態が、起こりえる。学生、特に女の子はそういった状況になりがちだという。
あはは、若いねぇ♪ と、笑ってられる程、事態は、自分にとって思わしくない。
なぜならば、そもそも、このブログ、この記事事態も、僕が「連帯」を求めているという証左に他ならないのではないか、という疑義が発生することである。
それもあって、僕が果たして、本来的に「孤独」が好きなのかどうか、よく分からない。
ここで、「好きな人とは一緒にいてもいいけれど、嫌いな人とは一緒にいたくない」とかいう、そんなバカげた、当たり前の、幼稚なことはどうでもいい。僕が今ここで、書いておこうと、明らかにしようと試みたのは、もっと、根源的な方針がどっちなのだ、ということである。
一方で、だ、そもそも、こうして表現するということにおいて、果たして、「孤独が好き」という表現はOKなのか、エラーなのか、その点も考慮する必要がある――おい、長いぞ。
いや、書かないというのは簡単にできるのだけれども、短いながらも書くというのが至難の業である。
書き始めると長くなるし、短くしようと思うと、何も浮かばないというか、思考停止状態になる。もう今の状態だと、まだまだしばらく指を動かし続けられる、ノンストップで。割かし何度か、腱鞘炎じみた状態になったことすらある。手の甲がズキズキしてきたりもする。
ということで、強制終了。カテゴリは、そうだな、要素が多そうな「対人関係」にしておくか。
うーん、今年中に、カテゴリの整理をする、という目標立てたような気がする。最近。大丈夫か、いけるか?
そもそも、創作したいという意欲もわきあがってきたというのに、こんなこと書いてていいのか? でも、サピエンス全史も読み進めたいし……。
あれ、結構、欲求が戻ってきている気がする。これはまぁ、悪い傾向じゃない。こういうときの注意は、睡眠時間だ。よし、ルーチンはOK、寝よう。
とコメント頂いた。うん、確かにそう思う。
実際、最近、「カテゴリ分けが重要だ」として、何とか整理を試みているが、あまりにも長すぎて、その長い記事というのが、往々にして複数のカテゴリにまたがったことを書いているものだから、もうカオス状態になる。
ここで、もう面倒くさいから、「ゼロベースで作り直しだ」と考えてしまうのが、僕の悪い癖で、その度に過去を清算しようとする。しかしこれは、女子高生がスマートフォンの友人たちのアドレスをリセットするような、SNSで退会してまた別アカウントで登録するような、そんな行為と同義であろう。
過去からの、連綿とした繋がりにおける自己の表現、カッコよく書けばそんな感じ。何とか、ポイント絞って、目指すはミーシー(MECE:漏れなく重複なく)である。
とか書いてみると、以前の記事で、「思考の体系化が今年の目標だぜ!」とか書いているのも見つかって、お前、ほんと、成長していないなぁと辟易とする。
短く書くこと
というわけで、長い記事がよくないという、当たり前の、一般的に言われていることの実感ベースの表現である。とはいえ、これ、ある程度の長さもやっぱり必要に思えるんだよな。
いやいや、問題はそこではないかもしれない。そもそもにおいて、僕が書き始めるときは、一体全体、この記事が、どのカテゴリに属するのか、どの程度の長さになろうというのか、全く想像もつかないのである。
ただ、書いているうちに、だんだんと、書きたいことが生じていくのである。残念なことに、何か、「これについて」というテーマを決めると、途端に興味がなくなって、書けなったりする。
いろいろ書いていくうちに、書きたいことが見つかる、という構造のため、それはそれは、無駄に長くなっていくのである。
だが、今日のところは、その、書くことそのことに焦点を当てているので、許すことにしよう。
考え込んでしまう時間が無駄に思える
あー、その、何だ、やっぱり、何か「整理して書こう」とすると、タイピングの指ではなく、そもそも、思考が止まってしまっている。何か考えているようで、何も考えていない状態。非常にもったいない。いやきっと、その時点も、「何かは考えている」。ただ、それがアウトプットされないために、無限ループに陥っている可能性がある。かくも思考とは取り扱いが難しいものである。
よし、では、完全に思い付きだが、自分の最近のある記事について言及してみよう。
生きる意味を考えるということ
人生における行動は、生産と消費とがある。2016年7月20日の記事の抜粋である。
生産する人は魅力的だが、消費が悪いわけではない。
消費による感動が、生産の原動力となっている場合もあるし、消費者がいなければ価値の創造もありえない。
その意味で、いままでの自分の行為を、行動を、後悔する必要は一切ない。
しかし、目的なき消費は、いずれ訪れる死に対して無力であるといえる。
あーその、なんだ、手前みそだが、結構いい表現な気がする。
自分の性格的に、自己肯定というのを、中々できない。にも拘わらず、この表現はまぁまぁいいんじゃない? と上から目線に思えるのは、もう、この3か月前ぐらいの記事のことを、すっかり忘れているからである。
そして、いくら上から目線でも、自分の記事に対しては全く問題ない点が、書きやすい、ああ書きやすい。
ここで言いたかったことは恐らく、ただ惰性で流されて、好き勝手楽しんでいても、その瞬間瞬間はきっと楽しいだろうから、「いま、ここに生きる」という仏教的な正しい生き方に思いながらも、それは怠惰な方向への逃げであるということだろうと思う。
そして僕はさらに、「逃げ」の何が悪いの? ということすらすぐさま言及する。工事現場で重機でハリーポッターやって楽しんでいる若者たち、いわゆるDQNと言われるような人たちが、本当に人生失敗なのか、というと、全くそんなことはないだろう。
ちょっと調べてしまったが、「ハマータウンの野郎ども」という本があって、そこでは、ホワイトカラーと対比された、ブルーカラー(ここでは不良)たちが、独自の文化体系をつくりあげているということを、フィールドワークによって描き出した本なのだけれど、それを思い出した。
難しい概念は僕は分からないし、この本自分で読んだことがあったのかもよく分からない(図書館で借りたのか、授業で習ったのか、レビューを読んだのか分からない。一つ言えるのは、買ったことは無い)が、取りあえず一つインプットとして、今も記憶に残っているのは、「文化」は、どんな状況でもどこにでも発生するのである、と。
この「文化」の生成を、そもそもの起点について、恐らくサピエンス全史において明らかにしてくれるだろうので、僕はとても楽しみに思っている。
サピエンスの所以は、「文化」なのだ。虚構の言語なのだ。認知革命なのだ、と。
だから、敢えて差別的な言葉遣いになってしまうが、ホームレスの人たちであっても、恐らく、独自の「文化」というのが形成されていくことだろうと思う。もっとも、150人の壁(噂で成り立つ集団の限界人数)ほどにも、ホームレスの集団というのは無いのだろうけれども。
凄まじい孤独
必要なのは、主体的な、実存的な真理である。人類社会に貢献する科学は、まさにそうした普遍性を自然界や人間界に求めようとするものだけれども、その真理は、決して個人とした自らに当てはまるものではない。当てはまったとしても、その普遍性は、自分自身とおう、個体、ユニークな存在を完全に表現できるものではない。他者の言説が、役に立たないとか、他者に頼ったり、相談したり愚痴いったりするのが意味ないというのは、日常生活のことをいっているのではない。なんか、引用(blockquote)使うと、改行が全部無視されるんは、忍者ブログの仕様なのだろう。ちょっと読みづらいな。無理やり改行。
この、自己の問題、何故自分は生きているのか、この存在の意義は、という問いに、他者は一切答えてくれない、どころか、そんなこと考えることは無意味であると、そう突き放すのである。
孤独、凄まじい孤独。
この感覚は、きっと、わかる人にはわかると思う。これは、いくら楽しいことしても、他者と交わっても、美味しいもの食べても癒されるものではない。僕はこうやって表現できるから、一応自己を保ってられるけど、この感覚におそわれて、表現することができないと、薬物にはしったり、リストカットしたり、無気力になったり……。全員がそうじゃないにしても、こうした孤独感で自分が押し潰されそうになった人は、決して少ないとは思わないのだけど、何故か僕はあまりそういう人に出会ったことがない。というのは、珍しくなくて、この孤独は先に書いた通り、他者と一緒にいて、楽しそうにしていてもぬぐえるものではないから、そういう人は一見わからないのだ。
「孤独、凄まじい孤独」
って、何だか、カイジの表現みたいだ、って、カイジ、読んだこと無いけれど。
孤独って何だろな。
こんなこと、考えるなんて、書き始めたときはホント思ってない。
ましてや、知り合い何かに、「孤独、感じることってある?」なんていきなり話し出せば、間違いなく気が狂った人のレッテルを貼られることだろう。
サピエンス全史に限った話ではないけれども、基本的に、どの分野のどの書物を読んでも、基本、「人間は社会的な動物である」という前提にたっている。
孤独でもええんちゃう?
とか言うような本はない。「自立」を促すような言説はあるけれども、それは、孤立を意味しない。
孤独と孤立の違いはなんだろうか。
https://happylifestyle.com/11556
↑のサイトを参考にすると、孤独とは、夢や理想を同じくする人がいなくて、仕方がなく一人になってしまうこと。孤立は、ガチで一人、という状態。
一人、という状態については同じだけれども、その目的と、経緯(プロセス)の違いを示す言葉だという。
おー、こういうのが、まさしく「虚構の言語」ですわな。7万年前の認知革命でサピエンス種が手にするまで、この世界では発見されていなかったことだろう。
恐らく、サピエンス以外の種(しゅ)は、孤独と孤立の違いを説明できないだろうし、そもそも説明する必要性がないだろう。取りあえず一人でいたら、ライオンに襲われて餌食になるだけだ。一致団結して敵対者と戦うということは、ネアンデルタール人たちでもあったはずである。
小賢しいサピエンスは、孤独と孤立という言葉を巧みに用いて、一人でいるという事態を、ときに正当化するのである。
孤独が好きなのか?
大分、「思考のための思考」になっている。こういう文章はどうだっけ、後から読んだら面白いのだったろうか、よく分からない。ただし、書いておくべきは、これはダメなパターンだということだ。
ホモ・サピエンスがどうであろうが、そもそも、俺、僕、私が、どうなんだという話し、それが大事だ。
この記事で、今後も役に立たせるために、一つぐらいは確定的な何かを書いておきたい。
よし、僕は、孤独が好きなのかどうか、という問いを掲げよう。
……うーん。
どうなんだろう。これは結構悩ましい。
何だか、本当に気が合って、理解があって、目指す方向が同じで、感覚が同じで、いろんなことが同じで……というような人がいたら、きっと、何かするのも、2倍、3倍と楽しいのではないかと思う。
が、そんなの、エンターテイメントだってありえないことである。みんな違ってみんないい、ではないが、そもそも、多様性が生物としての生存戦略であって、同じコピーであれば、環境の変化であっというまに絶滅してしまう、ということがよく謡われる。
だから、人間関係ってのは、そもそも、その気があったり、時にぶつかりあったり、喧嘩したり、仲良くなったり、感心したり、嫌悪したりと、様々な関係が発生すること自体、そのこと自体が「楽しい」ものなのであって、それが「楽しい」かどうか、その辺りに、孤独が好きなのか、群れが好きなのかの違いがみてとれそうだ。
孤独の反義語は?
そもそも、孤独の反意語ってなんぞや、と調べてみると、「連帯」と出てきた。まぁ、みんなと一緒にいる、というような意味だろう。「人と一緒にいると、だんだん孤独を感じてくるのです……」
というような表現をされている人の記事を見かけた。
ふむ、これはしかし、当たり前のことだといえる。上に書いた通り、人は、「みんな違う」わけであって、多くの時間を他者と共有しているうちに、だんだん、自分との差異というのが明確に輪郭が浮き上がってくるのである。
そのことが、「面白い」と思うか、ああ、「僕はやはりこの人とも違うんだ」という対人関係に対しての絶望になるかは、その人次第である。
おい、そんな、他者のことはどうだっていいんだ、そういう分析紛いのことは、相当20代のころやってきただろ?
分かってるよ、俺が、どうなのか、ってことだろう?
うーむ……。
別に、人と一緒にいることが、それほど嫌なわけでもない。
というか、働いている以上、大半の時間を他者と過ごしているというわけでもあるし。がしかし、昼休みの時間まで、誰かとずっと一緒というのは面倒な気もする……ああいや、しかし、週の半分ぐらいは同僚と一緒にランチに行ったりしている。それが無理やり嫌々やってるかというとそうでもない。
ただ、仕事とプライベートとは、この面においては分離して考えるべきだ。仕事はあくまでも、「ある一定の目的」を、共有する集団であるのだから、その「共同幻想」(サピエンス全史の言葉でいけば、「神話」とか「想像上の現実」)を信じているうちは、安定的でありえるのだ。
プライベートにおいては、「誰かと何となく繋がってないと不安」といった状態が、起こりえる。学生、特に女の子はそういった状況になりがちだという。
あはは、若いねぇ♪ と、笑ってられる程、事態は、自分にとって思わしくない。
なぜならば、そもそも、このブログ、この記事事態も、僕が「連帯」を求めているという証左に他ならないのではないか、という疑義が発生することである。
それもあって、僕が果たして、本来的に「孤独」が好きなのかどうか、よく分からない。
ここで、「好きな人とは一緒にいてもいいけれど、嫌いな人とは一緒にいたくない」とかいう、そんなバカげた、当たり前の、幼稚なことはどうでもいい。僕が今ここで、書いておこうと、明らかにしようと試みたのは、もっと、根源的な方針がどっちなのだ、ということである。
一方で、だ、そもそも、こうして表現するということにおいて、果たして、「孤独が好き」という表現はOKなのか、エラーなのか、その点も考慮する必要がある――おい、長いぞ。
強制終了
やっぱり、短く書く、というのも、中々難しい作業であることが分かった。いや、書かないというのは簡単にできるのだけれども、短いながらも書くというのが至難の業である。
書き始めると長くなるし、短くしようと思うと、何も浮かばないというか、思考停止状態になる。もう今の状態だと、まだまだしばらく指を動かし続けられる、ノンストップで。割かし何度か、腱鞘炎じみた状態になったことすらある。手の甲がズキズキしてきたりもする。
ということで、強制終了。カテゴリは、そうだな、要素が多そうな「対人関係」にしておくか。
うーん、今年中に、カテゴリの整理をする、という目標立てたような気がする。最近。大丈夫か、いけるか?
そもそも、創作したいという意欲もわきあがってきたというのに、こんなこと書いてていいのか? でも、サピエンス全史も読み進めたいし……。
あれ、結構、欲求が戻ってきている気がする。これはまぁ、悪い傾向じゃない。こういうときの注意は、睡眠時間だ。よし、ルーチンはOK、寝よう。
