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休みがあるから頑張れる
2016/12/03 19:00 | Comments(2) | 創作について
いよっしゃぁぁぁ! 戻ってきたぞぉ! 俺は、帰って、きたんだ!

物語に向かってひた進む

 今日(金曜日)は、早く帰ることができた(21時)。素晴らしい、そして、土日は、(対人的な)予定が無い。
 予定通りだ。一週間ぐらい前から、この日を待っていた。体調も悪くない。いいぞ、いい感じだ!

 こういった感覚が、本来、仕事であるべきだとも、ちょっとは思う。
 サイト開発するのだって、それは立派な仕事として成り立ってるものだ。WEBデザイナーとかクリエイターとか。
 しかし、まぁ、仕事になると、面倒くさい地味なコーディングだったり、ガチガチに固められた仕様のとおりデザインしたりと、何かと大変だろう。

 と、考えると、最初から最後まで、自由に、好き勝手、好きな時間で、好きなだけ時間をかけて何かを創るというのは、本当はとても楽しいことなのだろうと思う。

 狩猟採集民は、確かに、野生のライオンに襲われて、またはふとした怪我や病気によって、簡単に命を落とすことも多かったろう。
 しかし、危険が伴う狩りは数日おきでよく、毎日の採集活動は、3時間程度で済んだ可能性があるということだ。
 そう考えると、朝6時に起きて、帰りつくと23時過ぎという、17時間ぐらい生きるために時間を使うというのは、はてさて、どちらが幸せなのか。

 いやもちろん、命の危険というリスクと比較などしようがないし、狩猟採集民において、プライベートなんてものはないし、付き合う人もネットなんて無いから限られていて、生涯で新たに知る人も百人程度であった可能性があるということだ。

(前出のサピエンス全史)


 未だ、農業革命前夜だけれども、まだ、ここまでで、「ああ、狩猟採集民時代のほうがよかったねぇ」とは実感としてはならない。ただ、狩猟採集民への印象というか、雰囲気というか、生活というのが少しだけイメージできるようになり、面白い。
 漁村、って、農業革命前に、既に「定住」がなされていた先駆的な集まりだっていう表現も面白い。
 今までの知識だと、「農業するようになったことで、人類は定住するようになった」的なインプットだった。
 狩猟採集民が、よほど、自らの周りの道具や、環境、土地、風土、など、生活の知恵に長けていて、確かに、現代人は、知識の高度さでいったら、ヒッグス粒子とか明らかにしてしまうぐらいすごいわけだけど、一人一人の能力は然程ではなかった、というのは、これまでの実感を強く補強してくれてたし、うん、2000円ぐらいの価値はあると思う(また上から目線、というよりも、そもそもまだ上巻であって、下巻もあるのだ!)。

サイト開発

 さて。ルーチンを終えたら、寝るまで一気に突っ走る。
 しかし、睡眠時間は削ってはならない。朝の活動可用性が著しく下がる。

 しかし、この、早く帰れて、好きなことに時間が使えるというこの久しぶりの高揚感に、果たして、眠れるだろうか……。

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主人公の女の子が未来を嘆く
2016/12/02 19:00 | Comments(2) | 創作について
時間が、無い。いや違う、時間の使い方がよくないだけだ。いや、忙しいぞ、忙しいとは、心を失うということだ。
 あー、その、なんだ、「東京マグニチュード8.0」というアニメーションを見た。一話目と二話目まで。
 主人公の女の子が、恵まれた中流家庭で、弟くんもいるけど、共働きの親と、仲が悪い両親と、口うるさいことや、学校でもなんでも、面白いことがないだとか、愚痴愚痴しやがって!(笑)

 まーでも、思春期って、そういうもんだろうか。
 未来、この先どうなるのか、つまらないことばっかり、10年後の自分はどうなっているのだろうか、分からない、悩む、ただ取りあえず日常生活の小さな苛々に耐え続ける……。

 え、これ、今の俺じゃね?! 中学生レベル? 中学1年生? 中二病? マジかよ!

 と思った。
 いやー、地震怖いね(今更)。

最近作品を見るのも勇気がいる

 カバネリ、という作品は、ある方が宇宙一面白い! と仰っていたから、見るまでの障壁がいくぶんか低かった。
 しかし、やっぱり、新しいことをするのは、いまや、何か作品をみるとか読むというのも、だいぶ【心の】労力が必要である。

 この「東京マグニチュード8.0」という作品も、(まぁ2話までしかまだ見てないけど)「無感動の俺が感動した3つの作品の一つ」みたいに宣伝されていたから、じゃあ見てみようか、と思ったわけだった。
 バイク便のお姉さんが出てきて、バイクの描写も結構リアルだったりしたところも、最後の一押しにはなった。

 本当は、ウォークラフト、という今年公開された映画なんかも、ちょっと気になる。オークと人間が共闘するらしい。映画にしては少し珍しいストーリーな気がする。でも、どうしよう、悩む。

 君の名は、も見たい。逃げ恥も、漫画がちょっと面白いなと思ったら、ドラマが大ブームになっている。
 だが、今一歩、踏み出せない。これは何故か。

 時間がねーんだよ!!

 と、最初の書き出しに戻った。奇跡的である。

どれだけ効率に生きているというのか

 時間がないとか言いながら、ボケっとしている時間はかなりある。
 だが、それはそれで必要なのだ。この、ダラダラ高速にタイピングしていく思考メモも必要なのだ。

 そうじゃなきゃ、本当に、頭がパニック、パニックとは何ぞ? 混乱、カオス、面倒、つまらない、ごちゃごちゃ、苛々、むしゃくしゃ、落ち着かない、焦燥、不安、怖れ、心配、羞恥、……とにかく混沌とするのである。

 
 どうどう、落ち着け、落ち着け。

孤独が怖いのか?

 例えば、今日の帰り道、ふと思った。

 いや、ぶっちゃけ最近楽しくねーか?

 でも、独り身だ。彼女もいない。実家暮らしでもないから、帰る家は真っ暗で、冷たい、寒い。

 寂しいのでは?
 いや、ところが、全然それは無いのだ。――と、書いたとして、わざわざ、「俺、一人だけど寂しくないもんね!」とか書くのって、即ち寂しいという感情の裏返しなのでは? ……と一通りの反転思考や反転感情を経たうえで、いやぁ、やっぱり、別に一人でいることは特段そんなに問題ではない。

 いや、ほとんど、帰りが23時過ぎだとか、人と一緒にいる時間が長すぎるからなのかもしれんが。
 バランス、って問題なのかもしれない。

 それであっても、やっぱり、物理的空間を一人でいるのは、特にそんなに問題ではない気がするのである。
 というのは、昔からそんなことを書いたり思ったりしているわけだけど、特に最近、尊敬する方々のブログ読んだり、コメント頂いたり、拍手(読了)押してもらったり、相互関係的な奴が非常に今まで以上に恵まれている点も、拍車をかけて寂しさがどっか遠くへ行っているのかもしれない。
 黒い砂漠というゲームも、小麦を栽培したり、ビールなど料理したり、鉱物資源の加工をしたりとか(ほぼ放置)、結構楽しかったりする。ビジュアル的に美しいし可愛いし。

 おお、リア充ならず、ネト充ではないか! 素晴らしい!

しかし、隣にいるのは破局

 と、まぁ、普通、何にせよ、充実している場合は、それほど、上に書いたような不安や焦燥、苛々なんてものはそんなに起こらないものである。

 だが、僕が問題なのは、今までも、そしてこれからも問題であるのは、やっぱり、このブログのタイトルに起因しているように思えてならない。

 30代独身、彼女なし、友人なし、の人であって、「いや、別に寂しくないよ」という人は、きっと、それは負けず嫌いでも何でもなくて、本当にそう思っているのだと思う。

 僕も別にそんなに困っているわけではないが、いやむしろ、23時過ぎて疲れ果てて帰ってきて、妻や子供の相手をしたりイライラをぶつけられたりするのは、とても耐えられない気がしてならない(ある奥さんとお子さんがいらっしゃる方は、奥さんの機嫌が悪かったりすると、家にかえってもくつろげなくて非常にストレスだと仰っていた)。

 なので、まぁ、独身生活ってのが、悪いものなわけでもない。
 ああ、もう一つ、ちょっと文脈関係ないが、ある方がブログで書いていたけれど、「一人暮らしって、そのうち超贅沢になるよ。貧乏人はシェアハウスとかでしか生活できなくなるよ」と指摘されていた。
 ふーむ、鋭い感性だなぁ、と思う。


 まぁ、それはともかく、自分が今、さみしかろうが、さみしくなかろうが、僕の意識は、常に、その部分を向いていないのだ。

 何故か知らないけれども、僕は、今ここに生きているにも関わらず、まだ見ぬ先の世界を思い描いているのである。

 ……と、表現すると、なんだかちょっとカッコイイ感じだが、ある故事で表現すれば、「杞憂」である。ありもしない怖いことを恐れて、びくびく生きることである。

 そんなわけだから、「東京マグニチュード8.0」とか、カタストロフ的な作品が、ちょっと面白いとか思ってしまうのかもしれない。
 防災的な観点でみよう、というのは健全かもしれないが、どこか退屈な日常が壊れてしまわないか、と願うのは、まさに主人公の、中学校1年生の女の子、に他ならない。

 あー、精神年齢、12歳~13歳かぁ。恥ずかしいなぁ、と、なる。

取りあえず何か創ろう

 ともかく、40分ぐらいかけてサイトのプログラミングを進めた。
 本職の方には当たり前なことだけれど、やっぱり、「コメント」って超重要だと思った。
 コーディング自体、5年? ぐらい前のもので、何となく構造は分かるけれども、詳細なコードなんて覚えていない。
 やっぱり、実現するのに、デバッグを何度か重ねたけれども、「こっからここまでの処理は、こういう意味だよー」的なコメントがあったおかげで、思いのほか早く修正、改善、改築ができた。
 同時に進めている、感想等コメント情報の統合だけれども、これも、思ったより早く実装できるかもしれない。……と、慢心すると、致命的な壁にぶちあたったりする。取りあえず、東京マグニチュード8.0の3話目以降もみたいけれど、今週の土日は、ある程度年内中にリリースできるぐらいまで進めたい。

 年内中、とかいって、まだ1か月ある、ようなこと思ったらアホである。この前の予定表、

1.12/3(土)、12/4(日)

2.12/10、12/11

3.12/17、12/18

4.12/24、12/25

5.12/31、1/1


 これのとおり、あと、5回しかタイミングはない。で、2と3が埋まっているし、5は、もう半分年内じゃないし、実家に帰るとしたら開発環境ないし、すると、1と、4しかフリーな時間は無いのだ。

 そうすると、もう今週がかなり本気モード、というのが分かるだろう。4日間しかないということは、実働時間を16時間としたとき、4×16で、64時間しかないのだ。……、ん、そうすると結構ある気がする。いやいや、まてまて、3時間ぐらい食事の時間として、2時間ぐらい家事的な時間、買い物があったりすると、プラス3時間とか余裕で過ぎる。そうすると、まぁ、40時間弱ぐらいしか、時間はとれないのである。

 更に、一日10時間としたって、受験期だって、連続で10時間も勉強なんてできた試しがない(し、そもそもそんなの非効率だが)。使える時間の、半分ぐらいに実働を割り当てられたら、結構頑張った方だと思う。

 いやだからこそ、あんまり、休みとか、まとまった時間に期待をするのはよくなくて、こういう平日の積み重ねが、「創る」という行為には非常に大切なのは言うまでもない。

 言うまでもないが、しかし、23時とは言わない、21時でも過ぎて帰宅して、そっから何等か作業して、じゃあ創作活動に時間を使えるか、というと、かなり体力的にも精神的にもつらいのである。

 いやいや、お前、そんなこと言ってる割に、今日も、「東京マグニチュード8.0みましたー」という感想書いて終わろうとか思っていたわりに、結構長くなっているこのブログは何だよ?

 うん、これは、残念ながら、創作ですらない。じゃあ、遊びか、というとそうでもなくて、当然仕事でもなくて(一銭の価値にもなりゃしない)。何だろう、この「書くこと」は、どちらかというと、僕の生活の中で、何か独立したもの、になっている気がする。

 まぁ、それもそうかもしれない。初めて日記的なのを書いたのを、中学一年生とするか、高校一年生とするか、自分でもよく分からないが、まぁ高校からだとすれば、15年近く続けてきた作業というわけだ。

 ふむ……、そう考えると、自己肯定感が常にとても低い自分ではあるが、トイレットペーパーの芯をものすごく大量にコレクトしている人並みにはすごいことをやっている気もしないでもない(すぐさま書いておかねばならないのは、別にバカにしているわけではないが、一般的には無駄なことをやっているという意味での比喩である)。

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眠れない夜に思考の整理を行う
2016/12/01 19:00 | Comments(0) | 思考及び書くこと

良い文章とは何か?

 昨日の、複数日の短文を混ぜこぜにした記事は、これでもかというくらい分かりづらくなった。
 本来、ブログとは「公開」が前提とされていて、誰しも読むことができるものだ。これが、日記文学などといわれ、例えば兼好法師の徒然草だとか、昔から伝えられるものと異なる点だ。

 上の文章を分かりやすく書くと、

⇒ブログは、「公開」が前提とされていることが、従来の日記(例えば兼好法師の徒然草など)と異なる点である。


 となる。
 どちらが、良い文章かといえば、後者である。しかし、改善はもっとできるだろう。兼好法師の徒然草を強調したいのか、日記文学について書きたいのか、ブログの「公開性」について書きたいのか、それによって、表現の「正解」は変わってくる。

 つまり、文章は、実は短文のみでは、何が正解かは決まらないものなのだ。
 文脈の流れの中で、筆者の伝えたいことを明確に、正確に、簡潔に伝えられるものが、良い文章の条件となる。

思考ブログの難点

 上の小見出しにおいては、「良い文章とは何か?」に対応する表現である。ポイントは二点ある。一つは、一文、二文、といった短い文章だけでは、その文章全体が「正しい」のかどうか、判断できるものではない、ということ。もう一つは、良い文章とは、明確で正確に、かつ簡潔に伝えられるものであるということだ。

 しかしだ、条件はそれだけではない。

 人の来歴――いわゆる知識だとか、感情傾向、立場など属性によっても、その文章の理解度が変わる。

 この文字による伝達については、サピエンスという人類種が、虚構の言語を用いるようになった7万年前の認知革命によって、表現が無限大に広がった結果である。

 ある方が、「よい感想とは何か」という問題定義をされていた。僕なりにこれの答えや、見解といったものはあって、いずれ整理した記事をサイトの方で掲載したいという目標もあるのだけれども、今のところ優先順位は低い。
 もったいぶったこと書いてしまったが、結局、作品を構築された作者さんにとって、「何らかプラスになるもの」というのが良い感想だと思っているに過ぎない。書くべきは、具体的にどうしたら、その目的に近づけるか、ということであり、ここに力を注ぐべきだとは思っている。

 閑話休題。話しがズレた。

 良い文章とは何か、ということについて、それは中々難しいものだ、ということ。その点が確認できれば、長々と書き続ける必要はない。

 この小見出しにおいて記載すべきは、その「良い文章」を、ブログにおいて、必ずしも目指さなくてもよい、という、反逆児的な表現である。


「そんな駄文はローカルな日記でやってろ!」

 という批判はもっともである。しかし僕は、思考の過程の記述、というのは、それもまた、ブログでこそ表現可能なものではないか、と思っている。

目的無きブログの存在

 ここら辺の表現は難しくて、本当の意味で虚無、何ら目的がない、というのであれば、残念ながら、それは「理想的に」無意味でしかない。

 しかし、現実世界と自己は、結局のところ相互作用を受け続ける関係であることからも、「完全な虚無」というものは存在しない、と思っている。主語無き文章は減点である。左の記述は、「あくまで私はそう思っている」というだけだ。

 例えば、いつも書いているように、ゲームして無駄にダラダラ過ごしてしまったとか、ネットサーフィンで無駄時間費やしたとか、昼まで寝過ごした、とか。それらは無価値な行為だったかもしれないが、その「無価値さ」というのは、何らかの目標や目的に照らしてこそ、本当に無価値であったという判断がくだされることとなる。


 ダラダラと書いてしまっているが、結論はこうだ。
 ダラダラと書いたっていいじゃないか、と。


 では、何故僕が、他者のそういったダラダラした(と書くと表現が悪いが、もちろん否定的な意味で書いているのではない)記事を面白いと思うかというと、そこに、「思考の過程」が含まれているからだ。


 ぶっちゃけ。率直に申し上げれば、答えを知るということなど、もはや興味があまりわかないのである。
 答えなんて、いくらでも知っている。大げさか? いいや、そんなことはない。生きる上で必要な、本当に必要な答えなんてのは、驚くほど少ないのだ。

 そんな、真理を悟りました、的な表現をしていながら、何を俺は苦悩しているのか。そもそも、自分で苦悩とか言っちゃうところが、まぁ変態である。ナルシストだとか、まぁその他たくさんの批判が可能な状態、人間、人格といえるだろう。
 それは置いておいて、まず、「僕は苦しんでいる」という前提をしいて、その前提と、「答えを知っている」ということの矛盾とは何か、を書いてみる。

答えの実感問題

 アリストテレスという哲学者、……関係ないことをまた書きたくなった。

 僕が面白いと思うブログは、「前提」を限りなく低くしいているものだ。
 前提とは、換言すれば、間口の広さともいえる。専門的なことだとか、難解なことがテーマになっていることが問題なのではない。そのとっかかりが、その使われる言語、キーワードが、分かりやすく配慮されていることである。

 アリストテレスなんて、そんな、紀元前4世紀ぐらいのギリシア時代の哲学者で、プラトンの弟子だが形而上学だけでなく形而下学も重視しただとか、ニコマコス倫理学という本を書いたとかアレクサンダーの先生だったとか、まぁそれぐらい当たり前だろうと(いや、僕は今無い知識を適当にならべただけだけど)、それぐらい読者の皆さんはご存知ですよね? みたいな大上段で書かれたブログは、ちょっと敬遠してしまう。
 他にも、とある作品の、登場人物を並び立てて、それがかっこよかったとかどうだっとか、表層的になってしまっていたり、芸能人の誰それがどうしたからどうだとか、はたまたローカルなコミュニティの人を挙げてそれがどうした、だとか。

 そういうのが間口の狭い記事である。

 僕が面白いと思った記事だとか、すごいなぁと感じた方だとかを、敢えて「だれだれさんが~」と書かないのは、そういう意味でもある。
 何か、自分の知らない人が絶賛褒められていても、「え、別におれはその人しらねーし」と、距離感を覚えるだけである。
 いわゆる、感情の押し付け、押し売りみたいなものになってしまう。そういう傾向があるブログ記事は、いくら「思考の過程」が面白くても、継続して読みたいとは中々思わない。


 おお……、小見出しとまた、全然違うことを書いてしまった。
(本当は、アリストテレスのアクラシアという概念で、分かっちゃいるけどやってしまう、的な状況があるから、「答え」(真理、善のイデアみたいなの)だけが重要ではない、という方向にもっていったことを書きたかったのだが……(苦い笑い))


 でも、書きたくなったのだ、いや、書いておかねばならないと、そう思ったのだ。

 この感覚。

「俺、そもそも何を書きたいのか、何をしたいのか、よく分かんねぇ」

「あー何だか、苛々する。面倒だ。何もしたくない」

「あれもやらなきゃ、これもやらなきゃ」

「つまらない。何で生きてるんや」


 とか。
 こうした状態に陥ったとき、取りあえず書くのである。それが思考の過程である。
 だから、まぁ、これは致命的な欠点であるのだけれども、どうしても「長く」なってしまうし、逆に、短いと、その大きな目的が機能しなくなるのである。

 とはいいつつ、もっと効率化したいという思いもある。
 そのためには、もう、「インプット」を強化するしかない。自分の記事を、だ。自分で書いたことをちゃんとインプットするのだ。さもなければ、永遠と、トートロジー、同じことを反復し続けてしまうだろう。

メモとしての記事

 メモ、としては、これも、ある尊敬する方が、新しくブログを開始されたので期待と嬉しかったということでもある。リンクも追加した。

 俺はすぐさま、「尊敬って何だっけ?」と思ってしまう、サイコパスかアスペルガーか分からないがおかしな人間なのかもしれないが、「尊敬」とは、すごいなぁと感じる人、参考にさせて頂きたいなと思う人、のことだと思う。好敵手、ライバルというのとは違うのか、何か違う。他に実感表現がない。やっぱり、尊敬という言い方で正しいと思う。

 あ、また出てきた、「正しい」という表現。ここでいう正しいは、「自分の実感において」という意味である。はい、主語ない文章、減点、である。ふむ、分かりやすい文章道とはかくも大変なものである。

 いや、そもそも、だ、メモとしてであれば、箇条書きの方が適しているではないか、ということになる。

 これも、違うのだ。メモしておくべきことは、単に「事実」ではない。その事実において発生した自己の感覚、感情である。



 なんか先日、苛々しすぎて、なぜ人は争うのか! みたいなことを書いていたけれども、あれはあれで、結構実感言語だったりする。
 いやほんと、みんな仲良くすりゃええやん。楽しめばいいじゃん。と、ホント思うんだけどね、そうはいかないものなのだ。哀しき哉。

 貴方の夢はなんですか?

 世界平和に貢献することです。


 いや、ホントそう思うよ。一方で、昨今増えてきている電車でお年寄りに席を譲らない人でもある。親を亡くした子供たちのための募金活動をみても素通りしてしまう人でもある。
 これが、「答え」と、「実感」との乖離であり、長々と文章を書かなければいけない理由である。

 答え、なんて、もう高度化した社会で殆ど役に立たないと思うんだ。

「あ、ライオンだ! 逃げろ!」

 その程度で、情報伝達としての言語表現は十分なんだ。

 とか、そんな言語表現を絶望した人が、数学者とか、数式など自然科学にのめりこんで成果をあげるのかもしれない。……なんて完全に思い付きで余談であるが。こういうのが、ツイッター的つぶやきである。

 甚だメンドクサイ生き方な気がする。
 こんなのモテないだろうな、と、以前どっかの記事に、数年前に、書いた気がするが、やっぱりホントそう思うわ(かっこわらい)。

 でも、だ。それが「めんどくさい」のなら、何故僕は、こんな時間(26時)に眠りもせず、書き続けているのか。

 それは、これまた矛盾しているようだが、きっと、「楽しい」のだと思う。

 変な奴だな。仕事は嫌で、重くて、プレッシャーで、めんどくさくて、やりたくないな、朝が憂鬱だな、と思って、こうやって、めんどくさい思考は、めんどくさいのに睡眠時間を削ってまでやっている。

 まぁでも、最近の傾向として、せいぜい30分~45分ぐらい、1時間いかないぐらい書いていると、だんだん落ち着いてくる。

 結論は、毎回どうなるか分からない。いちおう、良い文章講座的には、起承転結でオチをつけねばなるまいと、思うのだけれども、そもそも、いつも書き始めたときに書こうと思っていたことから、どんどん変わっていく。だから、たまたま最後に、最初に書き始めたことと関連する終わり方に近づいたときは、「奇跡的に初めに戻った!」的な感覚表現をしているのである。

 今日はどうだろうか?

 ふむ……ダメだ、全然関連性が浮かばない。

今後の予定を

 まぁ、あれやな、「眠れない夜に思考の整理を行う」というタイトルからすると、妥当な気もする。
 はぁ、……、ああ、しかし、

1.12/3(土)、12/4(日)

2.12/10、12/11

3.12/17、12/18

4.12/24、12/25

5.12/31、1/1

 先日のこの予定表。2と3も予定が入っている。
 ので、次にやってくるお休み、3日、4日は、結構貴重だ。


 この日に、サイトの改修と、物語の構築をある程度進めたい。
 そのためには、家事的な準備や、食糧の備蓄、部屋の片づけ、ルーチンの実施、早期の帰宅、帰宅のための仕事の段取り、早めの就寝……などなど、今から色々準備する必要があるだろう。

 これも先日、「そもそも生きる上で、仕事とプライベートを完全にわけてしまってよいのだろうか。仕事における自分も、プライベートにおける自分も、同じ自分なのであって、その総体が人生そのものではなかろうか」と書いたわけだけど、そんなカッコつけたこと正直どうでもいいわ(かっこわらい)。

 休みが、土日があるから仕事も頑張れる(この頑張るという表現も、先日書いた通り「努力」というマイナス言語で用いている)し、成果もあげられる、ということも、やっぱりあるだろう。

 仕事くそめんどくせえやってらんねぇ仕事上の付き合いとかやってらんねぇ、とかね、まぁそこまで思ってるかどうかも別としてだけど(自分でもよく分からない、何せ苛々してパニック状態であるから)、それを切り離した生活、生き方もまた、悪くないと思うよ。

 思うけど、これは、あまり何回も書いたことはないけれど、その、明確な切り替えってのは逆に危険もあって、例えば、サザエさん症候群とか、ブルーマンデー症候群とかが、ものすごく重くなったりするわけ。最近はやりだと、新型うつとかね。
 新型うつとか、悪意のある伝えられ方のやつを間にうけると、ふざけんな甘えだ! と思うわけだけど、まぁでも、「趣味的なプライベートが楽しければ楽しいほど、そのギャップ的に仕事が重く憂鬱になる」という感覚は、僕は分かる気がする。
 だから、あんまり明確に仕事とプライベート、という分けはしない方がいい気がするなぁ、的な、そんな程度の感覚で、「仕事における自分も、プライベートにおける自分も、同じ自分なのであって、その総体が人生そのものではなかろうか」とか書いちゃうところが、本当に二流的なアホだなぁと、自嘲する限りである。


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新しい価値の創造
2016/11/30 18:00 | Comments(0) | イライラ対処
時間ない!

いやそれは、主体的でない言葉だ。時間はただ無常に過ぎていくのみである。
とか、いったところで、やっぱり、時間ないわなぁ。

帰宅がやはり23時過ぎると、ほかにできることがない。その中で、ひとつふたつだけ、選んで行う。その優先度は、先日書いた通り、物語だ、とはいえ、他にゴミ捨てとか作業があったり、やらなきゃまずいこともあるので、やっぱり、時間ない! という感覚になる。

だが果たして、本当にそうか?

もっと前から準備し、対策をしておけば、回避できたのではないか?

未来予測



生きる意味は重要だ、としながらも、未来なんて分からない、と思う、
それは、明日のことでさえもそうだ。

ある方のスケジュールみせてもらったが、分刻みで予定がはいっていた。


答えのない毎日が


サイト構築が思いの外進んだのが日曜日だが、土曜日の予定によって、身体と精神的には、正直休みなしの二週目に突入した感覚である。

新しいデータベースの設計と構築ができたのは進捗だなぁ、この、サイトのことと、このブログのこと関係しないし

そして、二日後のいまにおいて、何が、残すことなのか。


感想。

人に伝えるプラス要素
断片的な過去の記憶


テーマパークで過ごした甘い一夜


家族




拒絶といじめ


不合理、理不尽


目のいたさ


大音量で



仕事が重い。



恋愛至上主義


ある、精神科医のブログにおいて、恋愛至上主義も崩壊した、とあった。

この恋愛至上主義への懐疑はかなり以前からあって、その要請から逃れるため、様々な努力をしたことは記憶に新しい。

そしてこの記事では、新しい価値観を、やはり早急に探し求めなければ、いつまでもレイトマジョリティとして、苦しみ続けるだろうということだ。



虚無主義の否定



ある方が、小説は、ある程度の技術がそなわれば、答えのない無限大の世界であると述べられていた。
視点や気付きが神がかっている。しかし、重要なのは、そのあとの感想や感覚の表現、すなわち、答えがない何でもありという価値観自体への疑念という点。


これは、ものすごく重大で重要な感覚に思われる。

世界の反転、価値観の反転、劇的な思考の変化は、莫大なエネルギーを必要とする。


表現の足りなさ


残念なことに、この問題点を、うまく表現するすべをいまはもっていない。


だが、この問題が明確になれば、いわゆるふわふわした、生きづらさ的な感覚を、ようやく言語表現としてとらえることができそうなのだが、いま、こうして言語化していくなかで、ますます遠ざかる感覚である。



社会要請の崩壊



消えていく、消えていく、世界が、

詩的な表現にならざるえないほど、この問題は、未踏の場所でに或る



確信的に増していくのは、この、世界にたいしての、アプローチとしての、実感めいたものである。

認知するものが世界であり、この認知は己の生み出すものでありかがら、その自らはせかいにより規定され続ける。

この連関により、僕の感覚は変化し続け、そして、緩やかに思うがままにかたちづくられる

そして三日後


異なる時系列の短文をひとつの記事にすると、カオスだな。
短い記事で投稿したが、あまりにつまらないと思って消してしまった。それをいくつかまとめてみた。

書いているときの感覚が違うとどうだろう。



とりあえず、

もういろいろやってられねぇと、泣き言やてきとーなことを言いまくって逃げ出した!

まぁそのおかげで、上手くいった部分もありそう。


他の人の約束とかも反故にした。


そのせいで、自分を責めるクソ良心の奴が俺を苛めてくるが、知るか、と言いたい。
言いたいけど、どこか、完璧を求めてしまう、誰からも好かれたいと思ってしまう。

ああ、面倒だ!
誰からも好かれたいために、そもそも他者存在自体が面倒なものにかわっていく。


面倒とは何か



やりたくない。
その感情は、面倒だ、という感情である。

面倒だ、とはなんだ?


つまらない、苦労する、嫌な思いをするものが、面倒なものだ。

じゃあ、小説書くのとか、ピアノの練習とか、それは時に苦しいが、面倒なものなのか?

面倒なものは、できるだけやらなくていいのか?


ストイックさとは何か。自分に厳しいことだ。自分に厳しいとはなんだ? いやなことを、苦しいことをむりやりすることか?



仏陀さんや、ヘルマンヘッセのシッダールタさんほどじゃないが、嫌なことを耐えるのであれば、俺は結構頑張れる。頑張れていた、やんなきゃだめなこと、といわれたら、感情なんて後回しである。

その結果、その結果として、この世界が残酷で苦しみに充ち溢れて無味乾燥でクソつまんねえものに見えてきたわけだ。


苛々してるがゆえの戯れ言か?


いや違うのか?

そもそも僕に、感情はあったのか?


何か、やりたいことはあったのか?



面倒じゃないことってあったのか?









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頭の整理をするために書くことも必要では
2016/11/27 17:00 | Comments(0) | 整理用

新しいカテゴリ

 何とか、金曜日、土曜日あたりの問題というか事象というかイベントというかは、解決した。
「解決した」という表現を使うと、どうにも違和感がはしるのは、これから先の仕事や生活において、何らかの影響を及ぼす可能性は、未だ厖大にあるからである。そして今、「仕事や生活」という言葉を用いた時点で、「仕事も生活の一部じゃないの?」という疑問が生じる。いやはや、本当に、この頭は面倒にできている。いいから、今、直近1時間で行うべきことの整理でもして欲しいものだ。

身体の不調

 身体の状態を記載することは、「大丈夫ですか?」と誰かに心配してもらうためのものではない。いや、もちろん、その要素も少しはあるのだろう。ただ、言葉で「大丈夫ですか?」と言われたところで、それが何になるというのか。精神的なものであれば、そのアドバイスというものが何らかの解決の糸口になる可能性はあるだろうが、身体的な不調を、SNSであれ、ネットに書き込んだところで、誰かから心配の言葉をもらって、じゃあその心配してくれた人がおかゆでも作ってきてくれるというのだろうか? そんな関係は美しいかもしれないが、決して長続きしないだろう、いやもちろん、それが家族であれば別だが。そういった意味で、家族というのは、通常の対人関係とは別に捉えるべきだと思っている。同時に、家族との付き合い方においても、「他者」であることの意識は必要だと考えている。というのは、「親しき中にも礼儀あり」という意味においてだ。
 ちょっと待て、どんどん、余計なことが増えていく。そうじゃないだろ、この小見出しで書くべきことを思い返せ。
 ええと、その、身体が、具合悪いんです……。

 うん、分かった、で、それが何で書かなければいけないのだ?

 それは、後から読んだときに、どういった状態で書いたものか、ということが、非常に読解において有用だからです。

 その通りだ、それだけ書けばよかった。家族論なんて、それはぜひ、別のカテゴリを立てて書いてください。今は違うでしょ。
 はいはい。分かってますよ。

整理というカテゴリ

 本当は、この整理用のカテゴリは、ブログの書き方、方針の整理、という意味だったが、今は、頭の整理、ということで使っている。

 やるべきことが、やりたいことが多くなりすぎて、頭がフリーズ状態である。

 いや、それよりも、実際、最近、フル活動状態であり、あまり、落ち着いて書くことができていない。

 やっぱり、この、書くということをしていないと、非常に落ち着かなくなるのである。
 それは、経験したことの、反芻ができていないこと、復習ができていないことによる。

 目まぐるしく過ぎ去っていく時間、生活において、どうして僕たちは、様々なことを忘れ、ないがしろにし、わきにおいて、生きていくのだろう。

 僕はどこか、完璧に知りたいという願いをもっている。

 これは、僕が「呪い」と表現したことの一つでもあるが、これは対人関係でもマイナスに発生する。
 多くの人との交流は、その相手の理解が、表面的にならざるをえないことを意味する。
 僕は、くっついて離れてをくりかえすような、そんな希薄な関係に重きを考えられないし、一方で、固定的な関係、抜け出すことができない関係(例えば学校や会社などの組織)というのにも、違和感を甚だ覚えるものである。

 逆に、だからこそ、他者の分析、というと上から目線だしキモチワルイ表現になってしまうが、これは多くの人が無意識にやっていることであって、「あいつはああいう奴だからなぁ」とか、「あの子のキャラあれだからね」とか、言っていることの抽象表現である。

集団の同調性

 いわゆる、そうだな、イベント的なもの、パーティー的なものに参加して、わいわいがやがや「楽しんで」きた。
 いや実際、思った以上に「楽しかった」のである。このカッコつきの楽しさというのは、決して、僕の実感と乖離するものではなく、事実、「本気で盛り上がり」「笑い」「面白い世界があるなぁ」と思ったのである。

 そして、そこで感じる、他者との「溝」。

 いやもちろん、だ。50人~100人ぐらいの集団において、僕のような、こういった思考ブログを書いている人がいないなんてことを言っているのではない。

 しかし、そうした、「集団」における「テンション」「雰囲気」「方向性」「とるべき態度」というのは、驚くほど固定化しているものである。

 僕が、以前書いた10年ぐらい前の記事において、秀逸な分析だと自画自賛するのが、ある飲み会において、それが終わった後、「ああ、今日は、皆をいじれた(みんなと会話できた程度の意)」と言っていたことに感銘を受けた、という記事である。
 僕は、その人に出会うまでは(残念ながら、その人が誰だったか、全く覚えていない。ただ、その人の取った行為は僕に非常に重要な知見を与えてくれて、それは今でも残っている。ここに、僕が敢えて、具体的なイベントというものを明確に書かない理由でもある。つまり、個人とか、実際何をやったかとかそういったものは、初めて読む人にとって、共感を得るものにはなりえないし、それは自分自身に対しても同じで、数年後読んだとき、「ああ、そんなこともあったね」とは思うかもしれないが、そこに重要な情報はもはや一切読み取れなくなるのである)

 ええと、つまり、なんだ、飲み会とかそういったものにおいて、僕が感じる他者との距離感というものを、あまり意識する必要はないのだ。それは、他者も同時に感じているだろうもので、だからこそ、集団の同調性「テンション」をひたすら追い求めるしかないのだ。

面白い人とは何か?

 集団において場を盛り上げる人というのは、いわゆるリア充と呼ばれる。
 それは、「ピエロ」なのかもしれないが、多くは、周りも楽しいし、自分も楽しい状態である。

 集団で行うスポーツというのも、そういうものかもしれない。
 もっというと、「仕事」というものも、集団スポーツの一種かもしれない。

 ああ、僕が思ったことのメモ、重要なメモは、結局、みんな、「楽しそう」であるということだ。

 恐らく、そのパーティー、イベントに参加していた彼、彼女たちは、こういった思考ブログなんてものを書かない。

 書く必要がないのだ。
 日々の生活において、たくさんの人たちに囲まれて、会話して、一緒に何かやって、家に帰っても、スマホアプリのラインとか、SNS特にフェイスブックのような実名の奴でつながりをもっていれば、「この先訪れるであろう破局」に対しての意識が向くことは無い。

 それは、そのことを実感し、敢えてそうした「忙しい生活」に身を興じている場合もあれば、完全、全く気付いていない場合もあるだろう。


 僕が、何故こんなことを書いているのか。

 これは、ある種、驚きのメモ、インプットとアウトプットの両面であるのだ。


 人に、多くの人にとって、「思考」というものは、あくまでも「ポジティブ」に、「前向きに何か成果を出す」ための、手段でしかないという、その切実な実感を、感じざるをえなかった体験、それに対してのメモだ。

過去との比較

 その、集団における他者、から感じる「乖離」ズレというものについて、僕は今まで一度も気づいていなかったか。そんなことはなくて、むしろ、それの繰り返しがずっと続いてきた。若いころは若いころ程、その傾向が強くあって、重いものであった。

 今、いわゆる「大人」といわれる状態になり、自由に使えるお金もある状態になったことで、「時間としての自由」を得ることができた。

 その中で、じゃあ果たしてその集団に属するということはどういうことか、というイベントへの参加であったわけだが、やっぱり、これは中々、大変なものなのだなぁと、思ったわけである。

 繰り返し強調しておくべきは、それが、「楽しくなかった」ということでは一切無い。
 若いころのそのイベントとか、例えば部活動とかそういったものにおいては、ぶっちゃけ楽しくなんてなかった。つらかった。面倒だった。いやだった。でも、続けなければならなかった。
 偉い人や、老年な人たちが好きな言葉を使えば、「修羅場」をずっと経験していたわけだ。(僕自身は修羅場なんて別に思えない。もっと大変な人はいっぱいいる。で、その老年の人たちの経験は、確かに、もっと大変な、命の危険があるものだったりもするし、胸倉掴まれてドヤされたとか、まぁそんなの嫌だなぁと思うぐらいのものが沢山ある。だが、それがどうした?)

 ……ふむ、過去の経験や、体験を持ち出して、僕が悲劇の主人公を気取りたいわけでもない。

 むしろ、こういった表現は、一切合切、誰にも、共感など与えないものであるばかりか、不愉快な思いを生じさせるマイナス要素だ。
 そう、人は皆、「ポジティブなもの」にしか興味を抱かないのだ。まぁそしてそれは、生存方策として間違っていない。仕事においても、社内で上手くやっている先輩をみつけて、その人についてやっていった方が得をするにきまっている。どこの誰が、窓際族の人と仲良くしようと思うのか。思うまい。俺もそうするだろう。
 で、その、窓際族に近いような、いわゆる「愚痴」というのが、その「過去を持ち出すこと」なのであって、この小見出しにおける表現は、危険極まりのないものである。


 そんな、核兵器みたいなものを、歳がいなく10分もかけて書いてしまい、挙句の果てに公開してしまうというのは、これと同じようなことを、今までも書き続けているにも関わらず、未だに訪問してくれる方々がいる、という、その方々に支えられているものである。


 これが、リアルの関係とネットの関係と、どっちが重いものかね、という問題提起自体がクソ役にも立たないズレた視点でアホだ、と僕が書く理由となる。

ここまでが前置き

 あー、上に書いたこととか、別に大したことではない。
 じゃあ消せよ、ということになるが、多分、いや、これがあるからこそ、次に書いていくことに意味が生じる。(厳密には、別になくても意味は変わらないが、後から読んだときに、その文脈が無いとよく分からなくなるだろう。先ほど書いた通り、今時点の体調状態が理解に非常に密接に関係する)


 まず、だ。
 運営しているサイトにおいてバグ、障害が発生した。
 体の具合が悪いときに、マジかよ、と思った。最近、この「マジかよ」という感覚を、他の雅な言葉で置き換えられないか、と調べたことがある。しかし、見つからなかった。「本気ですか?!」なんか違う。でも、「マジか」って何なんだろう、よく分からない。

 実感言語ってある。
「あえかなる」という言葉が好きで、結構文章などでは使ってしまうんだけど、それって、何? となると、まぁ、はかなげで美しいさま、と辞書的な意味であるけれど、はかなげって何? とか、分析をしていくと、そこに感情が消えてしまうのである。

 このテーマは、きっと、言語学とか、国語の研究などで突き詰められている気がする。今度そういった本も探してみよう。ああ、そういう意味で、「レトリック感覚」という文庫は結構面白かった気がする。残念ながら内容は全く思い出せない。後でまた読んで見るか……ああ、そうそう、こうやって、どんどんやろう、ということが膨れ上がって、現在、収拾がつかないのだ。

・サイト障害の復旧
・買い物(日常雑貨、食料)
・パートナーの洗車
・昼食(そうだ、朝から何も食べてなかった、どうしよう)
・帰省の準備
・小説書きたい
・サピエンス全史の読み進め
・ルーチン
・洗濯、掃除
・仕事の準備
・クレジットカードの住所変更
・最近の経験の分析とブログを書くこと

 そのどれもが、やらなきゃいけないこと、やったほうがいいこと、やろうと思うこと、なのだけれど、別に今すぐやらなくてもいいことだったり、やらなくてもよい可能性もあることだったり、でもいずれはやらなくちゃいけなくて降りかかってくることだったり……。

 パニック。


 あー、面倒やなぁ。
 となり、ぼーっと、何もせずに、「ピコ太郎」という方の経歴とか動画をみていた。(おい!)

 ネタとして、どうだろう、曲のノリとかも悪くないし、面白いんじゃあないかなぁと思うけれども、果たして、何故こんな全世界的なブームになったのか、そもそもピコ太郎さんとは何者か、と気になってしまったのだ。今テレビが無いので、それこそ、そういったイベントにおいて、話しについていくのが大変である。
 そういう意味で、ピコ太郎さんの動画を見ていた時間も、無駄ではなかったと思う。思うのだけれども、いや、お前、それよりすることあるだろうが! というわけである。

 いやぁ、しかし、昨日は体調悪い中、2時間~3時間ぐらい障害対応で色々作業していたし、許して欲しいところだ(誰に? 利用者さんもだが自分にも)。

ネットで時間を費やすことと日常生活を送ること

 そして、更に、書いておくべきは、
 確かに、動画見て時間をつぶすのは、「時間がない!」と叫ぶことの理由だが、いやそもそも、普通に人生を送る、日常生活を過ごす、こういった中において、僕は、「時間が過ぎていく」ことの無常さを思うのだ。

 意味。

 僕らの行動に、意味がないものなんてない。
 惰眠をむさぼり、昼まで寝てしまった。いいじゃないか。頭はぼけっとしてしまったかもしれないが、睡眠欲を満たすことができたのだ。無為に時間を過ごすのだった悪くないだろう。

 だが、ますます加速していく情報社会において、そして、ますます短くなっていく僕らの人生(余命)において、「この時間の使い方は正しかったのか?」という疑念は、日に日に僕は大きくなっている気がしてならない。

 幸いにして、このブログを書いている時間は、有意義性が、自分の中でも認められている。
 書いている内容は、くだらないことかもしれないが、その「くだらなさ」が逆に、意味をもっていることに、意味を認められる状態となっているのだ。

 そしてそもそも、今日雨なんだよね。よし、出かけるのやめよう。

 この決断をするのに3時間ぐらいかかったぞ! おい! アホか!

このまま少し計画を立てよう

 あー、ええと、こっから、更に、最後まで読んでくださっている方がいつも何人いるのか不明だけれども、更にさらに、どうでもよい感が強まっていくので、もう読み飛ばして「読了」ボタン押して頂いて全然かまわないッス。(いや逆に、読了ボタンを押すことを強要している! 無言の圧力、ステルスマーケット、あの映画とか、一瞬だけ商品の映像をみせて観客に刷り込みをさせるとか、あれはなんというのだったっけかかな……思い出せないが、そういったあくどい感じがプンプンするぜ!)


 もう、だからね、そもそも、平日、来週も、恐らく、帰宅が遅くなりそうで、恐らく、この、こうやってダラダラ、でもないけれども、インプットとかアウトプットできる時間は、非常に貴重なのだから、今後の、予定を少し考えておこう。

1.12/3(土)、12/4(日)

2.12/10、12/11

3.12/17、12/18

4.12/24、12/25

5.12/31、1/1


 そう。もう、土日ベースで行くと、5回しかタイミングがない。
 そして、5は、特にもう年が明けてしまうため、ノーカンだ。すると、4回しかない。
 でもって、2は、確定の用事がはいっている。

 すると、3回しか、自由時間がない。

 えー。早いなぁ。2016年もグッバイですか。皆さんは今年一年振り返ってみてどうでした?
 私は、非常に、激動の年だったと思います。2008年2009年、2013年あたりと、2016年が結構大きな変化でしたねぇ。
 一言で、何か学んだことはあるかと言われたら、まぁ、人って結構なんとかなるものだ、ということかもしれませんね。
 なんとか、というのが、「ただ生きる」ということであれば、非常に住みやすい、生きやすい世の中になったと思います。7万年前のサピエンス登場あたりから比べて。というか、認知革命についての概念は覚えたけれども、そもそも、何でそれが7万年前だって、分かったんだっけ? 本に書いてあったけれども忘れてしまったのか、そこは不問なのかちょっと思い出せんな……、もう一度読み返してみるか……とかやっていたら、いつまでたっても紀元前から抜け出せん。

 その、人類の歴史だって、いったい何のために知ろうとしているのか、ってことを、常に思ってしまうわけで、その「無気力の魔物」と、いつも戦っていなければならないのは、とてもつらいことであり、死んでしまった方が楽なんじゃないか、という堕落した思考にも発展しがちであるのは、困ったものです。
 これは、「死にたい」という、リストカッターや自殺念慮ではなく、「論理的に」「現実的に」死ぬことが正しいのでは、と思う感覚なのです。
 何だか、このフィルターが入ると、リア充たちの楽しそうな喧騒が、それほど嫌な気持ちにはならないのです。(そもそも、リア充って何ぞや。趣味もあるし、恋人もいたし、結婚もしたし、友人たちもいる。その状態であっても、僕のこのフィルターはなくならなかった。これは何故だ?)
 今、こうして書いていることは、かなり、僕がやりたいことに近いものなので、それほど「違和感」というものがありません。何だか、日常生活的なことを書いていると、「生きる意味を徹底して考える」というタイトルからかけ離れていく気がしますが、それは違います。
 むしろ、日常生活が有るが故に、その「生きる意味」というのに重みが増して、重要性が高まっていくのです。

 これは、ある種、批判になってしまいそうですが、ニートの人たちにおいても、生きる意味は同じく重要でしょうが、「ニート」という状態であったときに、本当の意味で、「生きる意味」を考えることはできません。
 というのは、解決すべき目標や目的というものが、眼前として生じているからです。(ここでいうニートは、働いていないという意味ではなく、自立するためのお金を稼いでいないという意味に近いものです)

 前にも書きましたが、恋人がいない、という人、例えば、「彼女ができない。その一点だけで人生崩壊」という表現をされていた方がいましたが、それは、生存規定を脅かす、生きる意味がなくなる、絶望を与えるという意味で、重要な事態であることに疑いはありませんが、しかしながら、「恋人をつくる」という眼前と生じる課題が残されたままなのです。

いつか終わる夢

 本当に始まる絶望は、まさに、「現実世界で全て満たされたとき」から始まるといっていいでしょう。

 友人ができない人は、友達ができたら、とてもとても、嬉しいことでしょう。幸せなことでしょう。
 しかし、そこで人生は終わりではない。ゲームオーバーになっても、人生は続くのです。(唯一、身体的な死が訪れるまでは)

 友達ができたら、じゃあ、次は何でしょう? 何を求めるのでしょうか?
 分かりやすいのが、お金です。お金があると、たくさん、いろんなことができます。好きなことができます。女も買えるし、時間も買えます。
 じゃあ、お金が手に入りました。次はなんでしょう? 何を求めますか?

 繰り返し、投資を行って、資本を蓄えていくことが重要だ、とする方もいらっしゃいます。
 事実、プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神、において、マックスウェーバーさんが、まさに富を蓄えることが、神からの祝福の証であるという「信仰」によって、ますます資本が形成されていったことが、資本主義の成立であると述べられております。

 
 本当は、今、日本も世界も、資本主義社会なので、その波に乗れたらいいのです。
 いわゆる、リア充の方々も、そういった、「お金」とか「異性」とかに興味をもたれております。
 しかし、僕は、どうも、「?」となるようなのです。これが、「乖離」という表現の正体だと、最近改めて思いました。

 この感覚は、おこがましいながら、シッダールタさんが、29歳(仏陀が出家した年齢)、または35歳(悟りを啓く歳)ぐらいまで考えられていた、感じられていたことと同じだとおもっています。
 ので、まぁ、別に僕だけが特殊だとも思いませんし、現代に始まったことでもないとも思いますが、しかし、それでもですね、これは結構、大変な問題でございます。

 ぐだぐだ言ってないで、只管打座だぜ?☆ というのも分かりますが、しかし、僧侶としての生き方が本当に正しい(ここでの正しいというのは、自分にとっての選択として)というのも自信がありません。在家信者の在り方について、原始仏教がどういった立場をとっていたのか、勉強不足で分かりませんが、頭を剃って、托鉢(ご飯をわけてもらう)人ばかりになったとき、果たして、人類社会は成り立つとは思えません。畑を耕す人がいるから、食糧が生産されるわけですので、人から分け与えてもらうだけで、社会は成立しません。
 僕はいわゆるオフィスワーカーなので、食糧は作ってませんが、資本主義における役割分業においては、遠い意味で、食糧生産であるといっていいと思っています(詐欺とか、人を貶める職業でなければ。いや、そういうのは職業とは言わないか)。

 だからこそ、悩むわけですね。

 そういった意味で、その、悩みを表現するということで、このブログは、ある程度、僕自身は認めているのです。逆に、今は、これ以外に有効な手立てがありません。日常生活での「頑張り」は、どうにも、精神をすり減らしていくように感じてしまいます。

 最近、記事にコメント頂いたり、作品をつくったりしていて、その作品にコメント頂いたりしたとき、とても嬉しかったのを覚えています。
 ああいう感覚を、もっと増やしていけたらなと思います。

 しかし、残念ながら、それらと、仕事とは、現在あまり結びついているようには思えません。

 やはり、仕事と趣味というのは、切り離されたものなのでしょうか?

 仕事の時間は、自分を押し殺して、苦しみに耐え続けて、家に帰ったら楽しくはっちゃける、という生き方が正しいのでしょうか?

 僕はそれも何だか違和感があります。

理想を抱くこと

 生きる、ということは、総体なのです。時間を、仕事とプライベートと、そう簡単に分けてしまっていいものでしょうか?
 人付き合いにおいても、「あわない人はいるし、嫌いな人もいるけど、仕事では付き合わなあかん」と、ある大物タレントさんが言っていたようですが、そんなんでいいんでしょうか? 嫌いな人も、あわないひともいる、ということを言い続けて、世界は一つになれるのでしょうか? 戦争はなくなるのでしょうか? 平和になるのでしょうか? 犯罪はなくなるのでしょうか?
 分かりませんが、何だか違和感です。ユートピア、幻想主義者のようですが、別に本気ではありません。ただ、理想としては、ずっと抱いておくべきではないでしょうか? fateのシロウくんの、その熱い思いに心をうたれたのは、どこかしら、皆が諦めている理想を、ずっと強く抱き続けていたからじゃないのでしょうか? そして、サーヴァント・アーチャーが言い放った、「理想を抱いて溺死しろ」という台詞が、これまた多くの人に感動を与えたのは、その理想によって身を砕かれるその辛さ、現実世界のままならなさを、多くの人が感じていながらも、しかし、どこか「理想」の希求があったからではないでしょうか。

書くこと

 頭の整理に、書くことは必要だと思います。

 今年ももう終わってしまいます。

 取りあえず、今年の残りの週は、物語を創ることと、サイトの復旧はもちろんですが、改装について尽力しようと思います。
 3回、おそらく、まるまる時間は取れなそうですが、中途半端な時間が生じたら、もう、こうした整理用の記事を書かなくてもいいように、その物語に対して、全力投球しようと思います。

 ええと、しかし、昼食、どうしよう。もう夜になったのだけれど、……。

 いいや、少し、雨も降るようだが、外の風にあたろう。


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