良い文章とは何か?
昨日の、複数日の短文を混ぜこぜにした記事は、これでもかというくらい分かりづらくなった。本来、ブログとは「公開」が前提とされていて、誰しも読むことができるものだ。これが、日記文学などといわれ、例えば兼好法師の徒然草だとか、昔から伝えられるものと異なる点だ。
上の文章を分かりやすく書くと、
⇒ブログは、「公開」が前提とされていることが、従来の日記(例えば兼好法師の徒然草など)と異なる点である。
となる。
どちらが、良い文章かといえば、後者である。しかし、改善はもっとできるだろう。兼好法師の徒然草を強調したいのか、日記文学について書きたいのか、ブログの「公開性」について書きたいのか、それによって、表現の「正解」は変わってくる。
つまり、文章は、実は短文のみでは、何が正解かは決まらないものなのだ。
文脈の流れの中で、筆者の伝えたいことを明確に、正確に、簡潔に伝えられるものが、良い文章の条件となる。
思考ブログの難点
上の小見出しにおいては、「良い文章とは何か?」に対応する表現である。ポイントは二点ある。一つは、一文、二文、といった短い文章だけでは、その文章全体が「正しい」のかどうか、判断できるものではない、ということ。もう一つは、良い文章とは、明確で正確に、かつ簡潔に伝えられるものであるということだ。しかしだ、条件はそれだけではない。
人の来歴――いわゆる知識だとか、感情傾向、立場など属性によっても、その文章の理解度が変わる。
この文字による伝達については、サピエンスという人類種が、虚構の言語を用いるようになった7万年前の認知革命によって、表現が無限大に広がった結果である。
ある方が、「よい感想とは何か」という問題定義をされていた。僕なりにこれの答えや、見解といったものはあって、いずれ整理した記事をサイトの方で掲載したいという目標もあるのだけれども、今のところ優先順位は低い。
もったいぶったこと書いてしまったが、結局、作品を構築された作者さんにとって、「何らかプラスになるもの」というのが良い感想だと思っているに過ぎない。書くべきは、具体的にどうしたら、その目的に近づけるか、ということであり、ここに力を注ぐべきだとは思っている。
閑話休題。話しがズレた。
良い文章とは何か、ということについて、それは中々難しいものだ、ということ。その点が確認できれば、長々と書き続ける必要はない。
この小見出しにおいて記載すべきは、その「良い文章」を、ブログにおいて、必ずしも目指さなくてもよい、という、反逆児的な表現である。
「そんな駄文はローカルな日記でやってろ!」
という批判はもっともである。しかし僕は、思考の過程の記述、というのは、それもまた、ブログでこそ表現可能なものではないか、と思っている。
目的無きブログの存在
ここら辺の表現は難しくて、本当の意味で虚無、何ら目的がない、というのであれば、残念ながら、それは「理想的に」無意味でしかない。しかし、現実世界と自己は、結局のところ相互作用を受け続ける関係であることからも、「完全な虚無」というものは存在しない、と思っている。主語無き文章は減点である。左の記述は、「あくまで私はそう思っている」というだけだ。
例えば、いつも書いているように、ゲームして無駄にダラダラ過ごしてしまったとか、ネットサーフィンで無駄時間費やしたとか、昼まで寝過ごした、とか。それらは無価値な行為だったかもしれないが、その「無価値さ」というのは、何らかの目標や目的に照らしてこそ、本当に無価値であったという判断がくだされることとなる。
ダラダラと書いてしまっているが、結論はこうだ。
ダラダラと書いたっていいじゃないか、と。
では、何故僕が、他者のそういったダラダラした(と書くと表現が悪いが、もちろん否定的な意味で書いているのではない)記事を面白いと思うかというと、そこに、「思考の過程」が含まれているからだ。
ぶっちゃけ。率直に申し上げれば、答えを知るということなど、もはや興味があまりわかないのである。
答えなんて、いくらでも知っている。大げさか? いいや、そんなことはない。生きる上で必要な、本当に必要な答えなんてのは、驚くほど少ないのだ。
そんな、真理を悟りました、的な表現をしていながら、何を俺は苦悩しているのか。そもそも、自分で苦悩とか言っちゃうところが、まぁ変態である。ナルシストだとか、まぁその他たくさんの批判が可能な状態、人間、人格といえるだろう。
それは置いておいて、まず、「僕は苦しんでいる」という前提をしいて、その前提と、「答えを知っている」ということの矛盾とは何か、を書いてみる。
答えの実感問題
アリストテレスという哲学者、……関係ないことをまた書きたくなった。僕が面白いと思うブログは、「前提」を限りなく低くしいているものだ。
前提とは、換言すれば、間口の広さともいえる。専門的なことだとか、難解なことがテーマになっていることが問題なのではない。そのとっかかりが、その使われる言語、キーワードが、分かりやすく配慮されていることである。
アリストテレスなんて、そんな、紀元前4世紀ぐらいのギリシア時代の哲学者で、プラトンの弟子だが形而上学だけでなく形而下学も重視しただとか、ニコマコス倫理学という本を書いたとかアレクサンダーの先生だったとか、まぁそれぐらい当たり前だろうと(いや、僕は今無い知識を適当にならべただけだけど)、それぐらい読者の皆さんはご存知ですよね? みたいな大上段で書かれたブログは、ちょっと敬遠してしまう。
他にも、とある作品の、登場人物を並び立てて、それがかっこよかったとかどうだっとか、表層的になってしまっていたり、芸能人の誰それがどうしたからどうだとか、はたまたローカルなコミュニティの人を挙げてそれがどうした、だとか。
そういうのが間口の狭い記事である。
僕が面白いと思った記事だとか、すごいなぁと感じた方だとかを、敢えて「だれだれさんが~」と書かないのは、そういう意味でもある。
何か、自分の知らない人が絶賛褒められていても、「え、別におれはその人しらねーし」と、距離感を覚えるだけである。
いわゆる、感情の押し付け、押し売りみたいなものになってしまう。そういう傾向があるブログ記事は、いくら「思考の過程」が面白くても、継続して読みたいとは中々思わない。
おお……、小見出しとまた、全然違うことを書いてしまった。
(本当は、アリストテレスのアクラシアという概念で、分かっちゃいるけどやってしまう、的な状況があるから、「答え」(真理、善のイデアみたいなの)だけが重要ではない、という方向にもっていったことを書きたかったのだが……(苦い笑い))
でも、書きたくなったのだ、いや、書いておかねばならないと、そう思ったのだ。
この感覚。
「俺、そもそも何を書きたいのか、何をしたいのか、よく分かんねぇ」
「あー何だか、苛々する。面倒だ。何もしたくない」
「あれもやらなきゃ、これもやらなきゃ」
「つまらない。何で生きてるんや」
とか。
こうした状態に陥ったとき、取りあえず書くのである。それが思考の過程である。
だから、まぁ、これは致命的な欠点であるのだけれども、どうしても「長く」なってしまうし、逆に、短いと、その大きな目的が機能しなくなるのである。
とはいいつつ、もっと効率化したいという思いもある。
そのためには、もう、「インプット」を強化するしかない。自分の記事を、だ。自分で書いたことをちゃんとインプットするのだ。さもなければ、永遠と、トートロジー、同じことを反復し続けてしまうだろう。
メモとしての記事
メモ、としては、これも、ある尊敬する方が、新しくブログを開始されたので期待と嬉しかったということでもある。リンクも追加した。俺はすぐさま、「尊敬って何だっけ?」と思ってしまう、サイコパスかアスペルガーか分からないがおかしな人間なのかもしれないが、「尊敬」とは、すごいなぁと感じる人、参考にさせて頂きたいなと思う人、のことだと思う。好敵手、ライバルというのとは違うのか、何か違う。他に実感表現がない。やっぱり、尊敬という言い方で正しいと思う。
あ、また出てきた、「正しい」という表現。ここでいう正しいは、「自分の実感において」という意味である。はい、主語ない文章、減点、である。ふむ、分かりやすい文章道とはかくも大変なものである。
いや、そもそも、だ、メモとしてであれば、箇条書きの方が適しているではないか、ということになる。
これも、違うのだ。メモしておくべきことは、単に「事実」ではない。その事実において発生した自己の感覚、感情である。
なんか先日、苛々しすぎて、なぜ人は争うのか! みたいなことを書いていたけれども、あれはあれで、結構実感言語だったりする。
いやほんと、みんな仲良くすりゃええやん。楽しめばいいじゃん。と、ホント思うんだけどね、そうはいかないものなのだ。哀しき哉。
貴方の夢はなんですか?
世界平和に貢献することです。
いや、ホントそう思うよ。一方で、昨今増えてきている電車でお年寄りに席を譲らない人でもある。親を亡くした子供たちのための募金活動をみても素通りしてしまう人でもある。
これが、「答え」と、「実感」との乖離であり、長々と文章を書かなければいけない理由である。
答え、なんて、もう高度化した社会で殆ど役に立たないと思うんだ。
「あ、ライオンだ! 逃げろ!」
その程度で、情報伝達としての言語表現は十分なんだ。
とか、そんな言語表現を絶望した人が、数学者とか、数式など自然科学にのめりこんで成果をあげるのかもしれない。……なんて完全に思い付きで余談であるが。こういうのが、ツイッター的つぶやきである。
甚だメンドクサイ生き方な気がする。
こんなのモテないだろうな、と、以前どっかの記事に、数年前に、書いた気がするが、やっぱりホントそう思うわ(かっこわらい)。
でも、だ。それが「めんどくさい」のなら、何故僕は、こんな時間(26時)に眠りもせず、書き続けているのか。
それは、これまた矛盾しているようだが、きっと、「楽しい」のだと思う。
変な奴だな。仕事は嫌で、重くて、プレッシャーで、めんどくさくて、やりたくないな、朝が憂鬱だな、と思って、こうやって、めんどくさい思考は、めんどくさいのに睡眠時間を削ってまでやっている。
まぁでも、最近の傾向として、せいぜい30分~45分ぐらい、1時間いかないぐらい書いていると、だんだん落ち着いてくる。
結論は、毎回どうなるか分からない。いちおう、良い文章講座的には、起承転結でオチをつけねばなるまいと、思うのだけれども、そもそも、いつも書き始めたときに書こうと思っていたことから、どんどん変わっていく。だから、たまたま最後に、最初に書き始めたことと関連する終わり方に近づいたときは、「奇跡的に初めに戻った!」的な感覚表現をしているのである。
今日はどうだろうか?
ふむ……ダメだ、全然関連性が浮かばない。
今後の予定を
まぁ、あれやな、「眠れない夜に思考の整理を行う」というタイトルからすると、妥当な気もする。はぁ、……、ああ、しかし、
1.12/3(土)、12/4(日)
2.12/10、12/11
3.12/17、12/18
4.12/24、12/25
5.12/31、1/1
先日のこの予定表。2と3も予定が入っている。
ので、次にやってくるお休み、3日、4日は、結構貴重だ。
この日に、サイトの改修と、物語の構築をある程度進めたい。
そのためには、家事的な準備や、食糧の備蓄、部屋の片づけ、ルーチンの実施、早期の帰宅、帰宅のための仕事の段取り、早めの就寝……などなど、今から色々準備する必要があるだろう。
これも先日、「そもそも生きる上で、仕事とプライベートを完全にわけてしまってよいのだろうか。仕事における自分も、プライベートにおける自分も、同じ自分なのであって、その総体が人生そのものではなかろうか」と書いたわけだけど、そんなカッコつけたこと正直どうでもいいわ(かっこわらい)。
休みが、土日があるから仕事も頑張れる(この頑張るという表現も、先日書いた通り「努力」というマイナス言語で用いている)し、成果もあげられる、ということも、やっぱりあるだろう。
仕事くそめんどくせえやってらんねぇ仕事上の付き合いとかやってらんねぇ、とかね、まぁそこまで思ってるかどうかも別としてだけど(自分でもよく分からない、何せ苛々してパニック状態であるから)、それを切り離した生活、生き方もまた、悪くないと思うよ。
思うけど、これは、あまり何回も書いたことはないけれど、その、明確な切り替えってのは逆に危険もあって、例えば、サザエさん症候群とか、ブルーマンデー症候群とかが、ものすごく重くなったりするわけ。最近はやりだと、新型うつとかね。
新型うつとか、悪意のある伝えられ方のやつを間にうけると、ふざけんな甘えだ! と思うわけだけど、まぁでも、「趣味的なプライベートが楽しければ楽しいほど、そのギャップ的に仕事が重く憂鬱になる」という感覚は、僕は分かる気がする。
だから、あんまり明確に仕事とプライベート、という分けはしない方がいい気がするなぁ、的な、そんな程度の感覚で、「仕事における自分も、プライベートにおける自分も、同じ自分なのであって、その総体が人生そのものではなかろうか」とか書いちゃうところが、本当に二流的なアホだなぁと、自嘲する限りである。
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