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農業革命がもたらした悲劇
2016/12/12 19:00 | Comments(2) | 学習勉強インプット
今日の一言「僕たちはお米の奴隷なのだ」

サピエンス全史ようやく農業革命へ

 遅読にもほどがある。ようやく紀元前1万年あたりの農業革命に到達する。
 ちょっと今、何も見ずに、覚えていることをまとめてみようか。

○種は、生殖で繁殖する生物同士の集まり。属は、先祖を同じくする種の集まり。えっと、科って何だっけ……? 何か、もっと広い共通する集まり。

○サピエンスは、認知革命(虚構の言語)の使用により7万年前ごろから爆発的に発展した。東アフリカに達して、ネアンデルタール人とかは絶滅した。1万年~3万年前ぐらいまでの間に、サピエンスが唯一の人類となった。

○サピエンスは、その多くを狩猟採集によって生活していた。狩猟採集は、危険もあったが、狩りは三日おきぐらいでよかったし、採集も毎日数時間でよかった。現代人のように一日中働かなくてもよかった。

○狩猟採集生活は、100人程度の集団であった。その集団は、様々な信仰や様々な生活様式がありえた。一様に論じることはできず、非常にバラエティに富んでいた。例えば、20世紀の暴力による死者は5%ぐらいである。狩猟採集民の中では、部族の中でほとんど暴力で死んだと見受けられない集団もあれば、4%に匹敵するほどの暴力による死者がいた集団もあった。

○狩猟採集民も、30メートルもの巨大な石柱を建てたり、宗教的な活動をしていた。


 などが、印象に残っているポイントかな。

 今日読み進めた部分では、危険な種ということで、オーストラリア大陸に到達したり、北アメリカ大陸に到達して、2000年かそこらで大型動物を絶滅においやった張本人だということだ。
 大型動物の絶滅は、気候変動だとする学者もいるが、人類の関与を覆い隠すことはできないという。

農業革命

 食糧生産革命ともいう。
 現代にも続く、農耕社会の基盤は、約1万年前に積み上げられたものだということは、既にあった知識であるけれども、この本で学んだこととしては、そもそも、何故狩猟採集民が、農耕に精を出そうとしたのか。

 それは、農耕が優れた生存手段だったからではない。

 むしろ、農耕は、モノカルチャー(単一作物)に頼ることの旱魃等へのリスクや、狩猟採集生活のおおらかで余裕のあった(本当にそうかは別として、働く時間は少なかったとされている)生活を手放さざる得なくなった。
 焼き畑農業で、適当に種をまくよりも、地中深くに種を埋めて、せっせと水くみをして、雑草を取り除き……。

 豊かになるはずの生活は、他集団との抗争にも発展したり、子供が増えると養うためにもっと多くの食料を必要としていった。


 ……と、農耕社会の負の側面が描かれている。

 インターネットや電子メールは、不特定多数の、即座の、コミュニケーションを可能にしたが、それによって私たちの時間に余裕はできたのか。必ずしもよいことだけではなかろう、と。

不可逆的な発展

 だから、自然の、過去の、豊かな自然との共存を目指しましょう!

 となると、よくある環境保護論者と同じになってしまうが、この辺りへの苦言も中々面白い。というのは、狩猟採集民は、上で書いたように、恐ろしく大規模に、多くの動物たちを、自然を破壊していったのだ。
 農耕民も言うに及ばず、家畜化した動物たちへの虐げは中々のものである。ある部族では、豚の所有が身分の高さ、富の高さを象徴していた。ので、豚の鼻をそいだり、目をくりぬいたりして、豚を逃げ出さないようにするとか、そもそも、今の畜産業への言及も、いうにおよばず。

 とはいえ、個々の生物的には、別に農耕することが、今後ますます自分たちを奴隷化させていくなどとは、思ってもみなかったろう、というわけだ。
 そのうち、狩猟採集の生活様式を覚えている人たちもいなくなり、今目の前にある農業、小麦をどう育てるか、収穫量をどう増やすか、盗賊や他集団の敵から守るために環濠を築き監視をおいて戦うための武器をつくるか、……そうした、「前向きな」考えが心をとらえたことだろう。

前向きな生き方とは

 この記事は、インプット目的のものなので、あまり自分の感想をはさむ余地はないが、「戻ることもできないが、ただ、目の前の課題にだけコミットしていては、結局我ら人類が農耕を始めてしまった計算違いと同じ過ちを繰り返すだけではないか」という感覚である。

 先日書いた通り、虫、キモチワルイ、長野のアルプスで新種のゴミムシが見つかったというが、ものすげー興味がない。狩猟採集民は好んでタンパク源である昆虫も食べたろうが、そんな生活をしたいとは一切したいと思わない。

 ただ、重要な視点を、この書籍が与えてくれるのは、生物学的な「進化」と、個々の幸福や満足とは、関連しない、ということである。

 ウシ、ヒツジ、ニワトリといった家畜たちは、稀にみる大発展を遂げた。ウシヒツジ10億、ニワトリは250億もいるという。先日、鳥インフルエンザが流行ったということで、数万羽ものニワトリが殺処分されたとみて、「おぉ……」と思ったが、そもそも、世界中に250億羽もいるのか。1%にもみたないというわけか。

 でも、それって、「進化」的には大成功なわけだ。

 人間の都合で数万、数億単位で殺され、自然的な欲求とはかけ離れた生涯しかおくれないとしても、生物的には成功なのだ。それって、なんという皮肉だろうか。


 しかしこの問題は、哀れな家畜たちだけではない。

 僕らもまた、70億人の人々のうちの、たった一人でしかない。

 矮小な存在でしかない。家族とか、会社組織とか、国民国家とか、そんな大きな枠組みに自分をコミットしたところで、結局、人類といった大きなフレームの中では、歯車ですらないのである。

 会社社長はちょっとは影響力があるかもしれない。国家規模の資産をもつ資産家たちは個人の影響力は強いかもしれない。

 しかし、古今東西存在し、反映した帝国、英雄たちも、いまや伝説として残るか、残らないかに過ぎない。その陰には、歴史にすら残らなかった名も知れない多くの無価値なサピエンスの屍に溢れていることだろう。

厭世的になろうというのではない

 だから、生きていても意味はないんだ、死のう。

 俺は、別にその選択を決して無視しない。

 むしろ、考え抜いて、その上での自死は、平凡な生涯を送り、悩み多い人生を長い時間過ごし、人類という発展のため寄与するよりも、よほど、人間的で尊厳的な在り方なのではないかとすら思う。

 だがもちろん、そうではない生き方だってあるはずで、人類の発展への寄与が悪いことであるという確固たる根拠だってない。

 どちらにせよ、「考え抜いて」……このブログで言うところの、徹底して、という形容表現に未だ到達していないとしたら、どちらの道も自信をもって選ぶことはできない。


 だから、こうした表現すべては、厭世的でもなければ、諦念でもなく、新しい価値や創造のための試金石、思考実験なのだけれども、多分、多くの人に誤解というか(いやそれは決して誤解ではなく、恐らく、「その人にとっての真実」なのだろうが)不安や恐怖を与えてしまうことだろう。

 その可能性を、決して、6歳の少年ではないのだから、分かっているのであって、それは対人コミュニケーションにおいて、自動的にストップが、自分の中でかかる。すげーこれが、めんどくさいと思う。しかもこれ、正常に働けば働くほど、他者に興味がなくなるという危険極まりないトラップだ。ので、せめて「徹底して」考えるときぐらいは、すべてのリミッターを外してやろうと思うのだ。
(ものすごい関係ないことを書けば、東京マグニチュード8.0で、「僕だってパパやママが無事じゃないかもしれないなんてこと、分かってるよ!」と姉にぶつける少年、感動した)


 しかし、時間切れだ、取りあえず、非常に気に入った表現を最後に書いておく。

 農業革命は、人類を、小麦の奴隷(家畜)にしたのだ、と。

 つまり、風に種子を飛ばして偶発的に発展するしかなかった小麦や稲やジャガイモやカボチャたちは、人間たちにせっせと世話をさせることで、稀に見る発展を遂げたのだ、ということだ。
 先ほどのウシやヒツジやニワトリといった家畜との同じロジックだが、植物はより単純な生物ということで、より分かりやすいように思える。「小麦たちの幸せを思えば、偶発的に生息していた方が自由で良かった」とはあまり思えないから。

 いやぁ面白い本だと思う。ようやく上巻の半分ぐらいだ。ただ、どちらかというと、この、人類の発展的な部分が、ここ数年一番調べたいというか、興味をもっていた部分だったから、この後の流れはどうなんだろうかとも、若干懐疑的でもある。(一般的な世界史的な書物は読んだことがあるけれども、このサピエンス以前から、狩猟採集民としての生活部分をこれほどの紙面を割いて説明しているのは初めて知った)







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何だか慌ただしいのは計画性のなさか
2016/12/09 23:28 | Comments(2) | 思考及び書くこと
今日の一言「え、もうこんな日付・時間なの?!」

久しぶりのブログ記事

 ものすごく、久しぶりにブログを書いている気がする。
 先週の日曜日以来だろう。

 早いねぇ。時間が過ぎるのが早い。先週は、睡眠時間も毎日4~5時間ぐらいだった。
 それが長いか短いか、まぁ結局人の感じ方によるものだろう。月に残業200時間だとしても、「若いうちはそれぐらい普通だよな!」とかどっかの偉い教授さんが言っていたということも聞く。
 ほんっとに、人と比較することって、むなしいよな、とよく思う。
 それなのに、やれ競争だ、資本主義だ、お金だ、とか。

 あ、いやいや、そういうことを書きたいのではなく、とにかく、これらを書く暇が殆どなかったということだ。
 やっぱり、ブログを書くことができる時間があるというのは、恵まれている状態だといえるだろう。ブログでも、ローカルな日記でも何でもいいが、書くということをしていないと、何だかとてもとても、自分というものが消えていくようにすら思える。

 ある方は、「ブログ何て書いている暇があったら、小説書いてた方が有意義に思えてしまうんですよね」と仰っていた。僕もそう思う、小説でなくても、別のもっと有意義なことをした方がいいんじゃないか、とすら思う。

 思うが、しかし。

書きたいことと書くべきこと

 久しぶりだと、何だか、何を書こうか、少し困ってしまう。
 というのは、例の、何だかいいこと書かなきゃいけない症候群的な奴だと思う。

 ああ、そう、最近ある方が記事にされていたのだけれども、「妄想テレパシー」という4コマ漫画が、ものすげー面白かった。

 他者の心の中、頭で考えていることを分かってしまう女子高生の物語。

 なんというかな、とある場面、2か所ぐらいで、泣いてしまったよ。俺、なんつーかな、これまた表現が難しいけれど、嫌なこととか哀しいことって、結構慣れているから、あんまそういうので涙することないんだよな。だから、そういうんじゃない、何というか、あたたかいというか、切ないというか、きれいだというか、そんな感じで、泣いてしまったよ。

 その記事にされていた方は、「さくって読めて面白い」って表現されていたけれど、僕はとても感動したね、うん。一気に読んでしまった。それがゆえに時間がないのか、なるほどな~(放心)。

感情という機能

 なんというか、心の中の言葉と、実際に発言する言葉って、人間みんな違うわけじゃないか。

 そんな当たり前のことが、僕は結構重かったりつらかったりするんだよなぁと、ふと思った。
 その主人公の女の子じゃないけれど、結構、他者の考えていること「分かる」んだよな。いや、「今頭に思い浮かべた数字を当ててみなさい」というのは違うけれど、喜怒哀楽的な簡単な感情から嫉妬とか憎しみとかちょっと発展した感情という話し。別に僕だけじゃなくて、誰でも分かることだ。何故なら、感情とは、そもそも、人が上手く生活を送るために脳がつくりだした機能だからだ。感情が、他者に一切伝わらないものだとしたら、それは、何ら役に立つ機能ではない。

 何だっけ? また脱線したな。
 ええと、あれだ、基本的に、このブログは、99.9%ぐらい、心の声を反映している。
 リアルタイム筆記である。

 0.1%というのは、タイピングスピードと思考とのラグだったり、文章表現と思考表現との違いだったりするけれども、基本的に、思い浮かべたことをありのままに記述しているつもりだ。もちろんそれでも、自分の知らない部分があるかもしれないから、100%そのまま表現できるなんてできないと思う。

 ただ、僕がここで、楽しかった、と書けば、それは本当なのであり、無理して友達たちにあわせて、笑顔を作っていたりなんて、そんなことはないのだ。

 優しい嘘、悪意のある嘘、それらにかかわらず、人は思ったことを口にしない。
 その場で適切な振る舞いをする。当たり前だ、そうやって人は社会生活を送る。

 仕事中めんどくせえとか言ってたら、速攻首だ!

 と、言いながら、そもそも、その「めんどくせえ」とかいう感情だって、言語ラベリングされたものに過ぎない。
 めんどくせえ、って、何? その面倒さって、ひたすら資料をコピーとるめんどくささと、お客さんに分かりやすい資料にするにはどうしたらいいんだろうと頭を悩ませるめんどうくささと、同じだろうか?

 一言で面倒、といってしまうと、その機微が分からなくなる。

 だから、感情言語は、非常にデリケートに扱った方がいい。



 ……とかいう話しの流れで、満足できればいいのだが、僕はさらに疑問になる。

 デリケートに扱う? でもさ、感情って危機を避けるためにあるものでもあって、「これはこういう感情なのだろうか?」なんて考えていたら、危険回避に遅れてしまうかもしれない。
 喜! 怒! 哀! 楽! と、明確に、単純に、自分を判断して行動した方が、よっぽど役に立つのではなかろうか。(特に生きるか死ぬかの戦闘において)

疲れた……

 その、疲れたってのもそうだ。
 本当に疲れたのか? もっとやれるんじゃないか? もっと頑張れよ、ほら!

 あーうるさいなぁ、もう。

 今日は、クレジットカードの住所変更を行い、クリーニングを出したり、目薬を買ったり、生活費の口座間調整をしたりと、それなりに活動したじゃないか。いいじゃないか。
 部屋のカオスさは広まってきているが……。

 取りあえず、明日も予定があり早いし、今日はもうルーチンやって寝るとしよう。
 そういや、ルーチンも続けられているな。次の壁は、3か月目あたりだろう。


 あぁ、この記事面白くないだろうなぁ……。

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久々にフルスロットルであった
2016/12/06 19:00 | Comments(0) | 創作について
今日の一言「よ、ようやく、目途がついてきた……ぜ。かはッ(吐血して倒れる)」

SQLの勉強不足が身に染みた

 今回の改修工事は、PHPのプログラミングというよりかは、データベースの取り扱いで四苦八苦した気がする。
 外部結合とか、グループ化とか、考え方が難しかったなぁ。それでいて、いざできあがると、え、こんな簡単でいいの? 的な感じである。これはきっと、誰か他のできる人にやってもらったら、「あーそういうものね」みたいに、あまり苦労せずにできてしまうことだろう。それがゆえに、苦労を知らないため、「本当の理解」に遠くなる。

 この本当の理解というのは、もちろん、いつも書いているように、「実感」が伴うかどうか、というのもあるけれども、例えば単純な計算問題でもそうである。

 四則演算は、現代日本人は、誰でもできる。しかし、3桁とか、5桁とか、単純に増えていったとき、絶対間違わずに、短時間で、正解することができるだろうか。
 考え方は分かっている。ただし、「できる」かどうか分からない。この点を、よく銘記しておく必要がある。

 往々にして、人がやっているのは、簡単なように思えるのだ。
 映画だって、小説だって、受動的に見るのは簡単だけど、じゃあ自分が作れるか、となると、以前僕が「え、これ、ふざけてんの?」とこきおろした、紀元前1億年?だったか、そんなB級恐竜映画だって、いざ作ろうとしたらきっともっとひどいものになるだろう。

 いや、それはお金をもらっているプロフェッショナル、なのだから、そんな品質が低いものじゃあだめだろうと、それはもちろんだ。
 だが。どこまでもどこまでも品質をあげつづけること、コストダウンすることを求め続けて、いつまで続けるのだろうか。

終わりなき欲望

 ここで、「お金」とか、「資本」というものの重要性が出現する。嘘喰い、とか、カイジ(カイジは殆ど読んだことも見たこともないのだが)とか、闇金ウシジマくんとか、何かでも触れられていることである。

 お金は、それ自体が目的になりえる、不思議な性質をもっている。

 お金を何に使うのか、という問題ではなく、お金を増やすことが、それ自体が正解、正しいこと、立派なことになっていくのである。

 こんな書き方すると、否定したいのか、と思ってしまうが、そうではなくて、「終わりなき高品質化と低コスト化」の中で、自分の身を守れるのは、お金、でしかなくなるのである。


 どういうことか?

 つまり、労働が無価値だ、ということである。

 え、言いすぎ? そう、いつもの、ちょっと極端なことを書いてから掘り下げていく方法である。
 いや単純なことである。どこまでもどこまでも、頑張っても頑張っても、もっともっと、もっと良いものを、もっと安いものを、と求められ続けるのである。

 どっかで、折り合いつけなきゃまずいんじゃないか、ということだ。

 ところが、だ、すぐさま書いておかねばならないのは、基本的に、生か、死か、といった状況において、選択など殆どなされない。

 必死に生にすがりついていくしかないのだ。

 どこか、途中でやめて、楽しよう、なんて、そんな虫のいい話などないのだ。働け、働け。

考えるべきこと

 奇妙な違和感がある。


 どこか、この世界の構造、おかしくないかと。
 いやいや、そんな暇はないのだよ、と仏教徒はいう。毒矢の、比喩である。恐ろしい毒矢で射られたとき、「この矢を打った奴の素性を、射った目的を、この矢の構成を……明らかにするまでは、手当などしてはならない」と言っていたら、たちどころに毒がまわって、死に至るだろう、と。
 だから、考えても仕方がないことは、語るべきにあらず、と。

 この世に目的はあるのか、この世は無限大なのか有限なのか、死後の世界はあるのか、無いのか。

 ――そんなことを考えている暇はない、と。今現に生きることを、正しい道を、正しいことをするのである、と。


 僕は、その考えを、是、と思う。
 ので、悩んだり、苦しんだり、悲しんだり、愁いたり、憎んだり、怒ったりすることは、基本的に「エラー」だと思っている。

 ですがね。
 果たして人はそう簡単に仏の教えを実践できるのでしょうか、と。

 注意すべきは、シッダールタさん的にも、怒りや、憎しみを全くないものにするとか、その感情自体を認めないとか、そういうことではないのだ。
 ただ、そこに「囚われてはいけない」というのである。

 無為なる境地。常に心のジャイロスコープをもて、と。

囚われてはいけないことと成すべきこと

 OKそうやな。マイナスの感情にとらわれちゃあいかんよな。明日から仕事だろうが、そんな憂鬱な気分なんてふっとばしゃあやろうじゃないきゃあ!

 しかしながら。恐れながら申し上げるに、「正しい道」を追い求めるのも、またそれは、「涅槃」という境地に執着していることになるのである。
 ゆえに、仏の教えの実践とは、自己の禊ぎである。自分というものを、少しずつ少しずつ削って、削って、磨いて、磨いていくものである。

 あーうん。
 しかしあれだな、「仏の教え」とか書いていると、ものすごーく宗教くさくなるな、いや、まぁ宗教なんだが、しかしだな、宗教って何だといえば、道徳とか、資本主義とか、そこらへんのイデオロギーとか「概念」ってものと、ほとんど変わらないんだ、ということを、どうにもあまり、他者は理解しない(というより、どうやらできないのではないかと最近傲慢にも思ってしまっている)のである。

 まぁ、それは、別に否定するべきことではなくて、結局、それが真実であろうがなかろうが、「物理的世界において役に立つか立たないか」そこが多くの人にとってのポイントなのである。

 いや僕ももちろんそうだ。

 そうなんだ、けどさ……。

フルスロットルの後に

 と、もう少し余裕があれば、じっくり考える時間ももてたろうに、もう24時をまわっている。

 ああ、実質、10時間以上は作業していたなぁ。これ、家族とか恋人とか友人とかいたら、絶対できないな。あいつ何やってんだ? となる。
 それでいて、成果物も、見かけ上(使う人)的には、あまり大きな変化はない。

 立派な家が建っていても、その内部構造がどれだけ力を入れられているか、というよりかは、システムキッチンとか、内装とかの方が住む人にとって重要事項になりえる。

 だから、誰かに「すごいね!」と言ってもらうためにやっていては、とても身がもたない、と思った。
 ああ、そう、だから、「高品質低コスト」問題を書きたくなったのだろう。終わりなき欲求。要望。

 自己肯定感。満足感。充足感。

 言い換えると、自己満足、となる。

 趣味、とは究極の自己満足なのだろうか。


 うん、何だか、書いてること支離滅裂化している、よしもうやめよう。しかし、今日は頑張った。精一杯やった、と認めてあげよう。
 食事もほとんど取らず、部屋もひどいことになってきたが、うん……。

 これが、もう少し、平日も時間を取れるなら、バランスよく時間配分するものだが、今日がほんと勝負だったからなぁ。

 しかし、小説の方は全く進められなかった。他の方から、メッセージなど頂いているが、返信することもできなかった。
 いや、お前、その優先順位どうなのよ?

 そうなんだよ、これだよこれ、まさにその、優先順位問題。

 普段人と接していると、この問題が常に重要な問題になり、というのは……、ああ、もう今日は終わり。肩も目も腰も痛くなってきた……。ルーチンやって寝よう。




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完全に引きこもりモード
2016/12/05 19:00 | Comments(3) | 創作について
今日の一言「忍者ブログのコメントの返信分かりづらい」

サイト改修工事状況



 SQLが難しい。
 やりたいことは、複数のデータベースのテーブルから、各話に紐づく感想&批評の件数を集計し、指定したIDに紐づく作品とそれに紐づくサブタイトルと外部結合して表示しろ、ってだけなんだけど、これが恐らく、3時間以上かかった。

 GROUP BYとcount関数と、外部結合と外部結合キーとの関係とか、基礎が分かってないからぐちゃぐちゃになるんだろうなぁ……。

 まぁ結論的に、できた。

 細かい仕様とか、方法は別のファイルにメモしたから、ここで残しておくべきは、できたときの「できたぞぁあわわあああ!」という感覚だろう。

 プロの人たちからしたら、こんな単純なことに何時間もかけるなんて、仕事できない使えない奴……扱いなのだろうが、しかし、この、試行錯誤しながら、苦労しながら、「もうやめるか……」とか「他の方法にするか」とか、「まぁこの機能いらなくね?(はなほじ)」とか、妥協の心が舞い降りてくる中、なんとか壁を乗り越えてやりきった、というのは、中々の達成感である。

壁を乗り越えるということ

 壁、ね。

 よく、スポコンなどでは、努力して壁を乗り越えた先に勝利がある、的ななんか熱い感じのがある。

 努力、友情、勝利! 的なあれだ。

 なんか、ちょっと引いてしまう感覚が僕はあるけれど、本当にやりたいことだったり、楽しいことに対して、壁を乗り越えて、できることが増える、というのは、楽しいし、充実したものだろうと思う。

 勉強頑張って、いい大学に入る。

 転職活動頑張って、いい会社に入る。

 あー、そりゃあ、確かに、すげーことだし、頑張ったんだろうし、いいことなんだろう。

 けれども、本当の達成感とか、充実感ってのが、そこにあるかどうか、それは別問題だ。


 じゃあ、よく引き合いに出す、ゲームとかはどうか?
 そこで出てくるのは、インプットとアウトプット、生産と消費の考え方だ。
 ゲームはやっぱり、消費的な側面が強い。100対ゼロで、消費かというと、そうではないけれども、やっぱりその傾向が強いだろう。
 と、考えたとき、ゲームのクリア的な要素で達成感を得る、というのは、自分のスキル(知識も、指の動きも、動体視力的な何かも全部含めてもよいが)の向上との関連が少ないから、そこに全力投球というのは問題があるのではないか、と思う。

 じゃあ、知識とか、腕っぷしとか、それだけがやはり重要な要素なのか?

 違和感があるが、うまい具合の表現が見つからないし、さほど今回書きたいことでもないからスルーしよう。

時間はえーなぁ

 忍者ブログのコメント、管理ページの返信からすると、非常に分かりづらい。
 今度から普通にフォームから投稿しよう。

 あー、でも、もう外真っ暗だなぁ。昨日買い物とかクリーニングとか行ってよかったなぁ。
 そして休みが終わるのか……。クレジットその他住所変更しないとなぁ。

 ああ、本当に、時間が過ぎるなぁ。

 これまで費やしてきた時間を考えると、三国志シリーズに100時間以上費やしたのではなかろうか。それ以外にも、サードパーソンシューター(TPS)というジャンルのシューティングゲームとかにも、結構使った気がする。今やっている黒い砂漠も、これ、放置時間長いけれども、有に100時間以上は使ってるよなぁ。

(三国志13もいつの間にやら発売されているんだな。やってみたい気はするが、12でのがっかり感があり、レビューも相変わらず低いようなので、これも大分、「やってみる」ことへの労力がでかい。ある意味壁である)

 時間って、ほんと有限だなぁ。
 もう休みが終わるのかぁ。

 愁いを帯びたこの眼差しはどこに焦点をあてるのか……。

 さて、そんなこんな、ボケっとしていても仕方がない。気分転換にと始めたブログだけれども、指が止まるぐらいなら、熱いシャワーを浴びるでも、仮眠するでも、他にすることはあるだろう。

 よし、残り時間も5時間程度となったが、もうひと頑張りするか。

(しかし、何故最近仕事へ対して特にやる気が起きないのだろうか。明日の憂鬱さが気になるところ)

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やりたいことの増加による攻防
2016/12/04 19:00 | Comments(2) | 創作について
今日の一言「ええーもう終わりなの」

あっという間に過ぎ去った土曜日

 なんてこったい、思ったより進まなかった。買い物とクリーニングのため~っと、闇金ウシジマくんと嘘喰い読みにネットカフェに行ったのがいけなかったな! しかし、一週間に一度は愛馬に跨るのがやはり楽しい。明日も乗りたい、と思うのだが、寒かったり、出発するまでの準備がオックウになったりするのはいつものことである。

嘘喰い

 ある方のレビューというか感想において、殺人マシーンとして第二の人格を埋め込まれた哀しき青年のお話し……ということで、シグルイみたいなバトルモノだと思ってたら、全然違った! カイジとかみたいなギャンブラー(賭け)的な作品だった! 騙された!(笑)
 でも面白かった!
 重い雰囲気は避けられないが、人の心の闇とか、悪といった面に焦点をあてて描く作品というのはこれまた面白い。

 最近読み始めた奴だと、善悪の屑という作品。これも、胸糞悪くなる表現のオンパレードだが、面白い。なんというか、復讐屋みたいな家業の人たちの話しで、社会のゴミみたいなやつに、これまた狂ったような復讐を施していく作品なわけだけれども、直近の巻だと、復讐家業のライバル、みたいなのが現れたりして、何だか僕のテンションは下がったりしている。今後盛り返してくれるのかどうか期待したいところ。

 嘘喰いも、面白いし、今後も記憶に残り続けるだろうと思いながら、手元に置いておきたいというと、ちょっと違うなと思ってしまった。手元に残っている漫画は、結構少ない。テラフォーマーズもキングダムも、面白かったし途中まで買い続けていたけれども、既に消えてしまっている。

 闇金ウシジマくんも面白い。これもダークな感じだ。うーむ、しかし、ギャンブルにはまる人の気持ちがやはり分からない。ハニートラップというか、女性のお店的な奴につぎ込むのも分からない。いや、楽しいのは楽しいけれども、どうせ「虚構」なのだったら、もっと楽しい虚構を知っているがゆえに、なのかもしれないな。

 いや、「虚構」を言い始めたらだな、現実世界、といつも規定しているものだって、どこまでそう言い切れるかというのが……おぉう、またこの流れの話しになると長くなりそう。今日はもう寝る。寝るけれども、メモしておかなければならない。

サイト構築の進捗

 システムとは、個々の要素が関連しあって一つの目的を成す体系のことである。

 ゆえに、「因果」である。

 因果により、一つ変えると、他にも大きな影響を与えていく。


 というわけで、難航している。途中から、いっそ、一から全部作った方がはやいんじゃね? という魔のささやきが聞こえるぐらいである。
 最近、扱うデータの容量も大きくなってきたため、効率的なデータの保存についても考えなければいけなくて、そっちをやり始めると、正直時間がいくらあっても足りない。

 データベースの構造を考えるというのが、「正規化」というのであるけれども、これは結構専門的な知識体系が構築されていることで、素人が付け焼刃でやろうとすると、大変なことになりかねない。

 しかも、あまりユーザに対して影響がある部分でないから、やりがいも少なくなっていく。しかし、非常に大事なところであるので、頑張らねばならない。
 そして、簡易的な設計書を作りながら進めているけれども、これ、絶対、一気に仕上げないと、途中からやろうとするとどこをどういじっていいのか分からなくなるパターンだ。明日は、明日こそは、本気で進めていくことにしよう。

 本当は、小説書くのと、半々ぐらいの配分にしようと思っていたのだけれども、難しそうだなぁ……。

反省

 そもそも、今日もユーチューブなんかで、歌が上手い芸人さんの番組とか見ちゃったのがいかん。
 いや、東京03というグループの一人の方が、離婚されていて、2年たったけど未練が残っていて、キャバクラに通い始めてしまった、的な歌は面白かったし、いや真面目に音楽的に上手だなぁと思った。とか思ってたら、ピアノでひぐらしの鳴く頃にのYOUの練習を始めてしまったりと、やりたいことを手あたり次第やってしまった日であった。反省。

 ……いや、あんまし反省してないんだな、これが。非常に楽しかった。久々にいい感じで時間を使えた気がする。
 
 そして、また来週は怒涛のぐちゃぐちゃ忙し具合になるだろう。飲み会的なのも何回か入る。
 あーでも、どうなんだろうな。

 結局、こうやって楽しく過ごせるのも、リアル(現実世界的な、仕事的な)の営みがあるからであって、それがないと、闇金ウシジマくんや嘘喰いなんかで登場する借金して落ちぶれた人たちみたいになってしまうのだろう。

 そしたら、配分が難しいよな。

 配分? そう、つまりだ、「本当の自分」というのは、「引きこもり」の自分であって、「元気で楽しくてにこやかで仕事に真剣に取り組み周囲のことを考え成果を上げて皆のために働く」自分は、代替人格であり、しかしながらそれでいて、自らの生活は後者のそれによって成り立つとするならば、果たして、どこへ、どの程度、どのように力を、時間を投資すればよいのだろうか。

 そして先日書いた通り、僕の意識は先にも向かう。この「引きこもり」の僕がいたとして、果たして、最後の日まで、その孤独という状態を是、とするべきなのかどうか。

 答えは、でない。

 答えは、今の手持ちの情報、知識、思考力、価値観、信念では、導き出すことができない。

 よって、今は、反省などしている暇はなく、ただひたすら前に、前に、自らの感性と、「やりたいこと」の感覚を研ぎ澄ませ、進んでいくのみである。


 とか何とか、かっこつけて書いていて、きっと後から読むと赤面するほど恥ずかしいのだろう。
 まぁ、よい、それでもだ、自分の感覚を徹底的に構築していくというのが、ここの主旨なのだから。


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