今日はかなりいやぁな仕事があったが、終わってみるとお客さんから意外に褒められたというか感謝された。
普段気難しい相手なので、逆に嬉しかった。
後は、知人と久しぶりの会食をした。
しかし、帰りは、23時となり、気分もよくない。
なんか、誰か、こんなときは面白いブログでも書いてくれよ。
リアル物語が読みたいんだよ。最近、婚活頑張っている女性のブログも読んでるけど、本当面白い。残念ながら、下手な小説より断然面白いよ。
でも、こういうときに限って誰も更新しない。
更新した人も、短い。つーか、アメーバブログ、クソ過ぎる。いつ開いても、スマホからだと読み込み遅すぎる。
こういうときは、自分の過去ログを読む。
完全に自画自賛、手前みそだが、
10個に1つぐらいで、そのうち三割ぐらいの内容は、結構面白い。最近読了押してくれる方が減っていったので、あーやっぱりつまんねーんだろーなーと思っていたけど、いや、たまには面白いよ、自分の書いた内容だが(笑)
まぁでも、面白いというより、きもい、と思う人が多いんだろうなぁ。
そんななか、自分で面白いとか、もう数ヵ月たってるから、書いたときの思考も感情もなくても、それでも面白いと少し思うのは、きっと、やっぱり俺は変人なのだろうか。
青年二人が、人生について、どうやって生きようか、仕事しようか、対人関係のありかたとか、色々話してるのが聞こえてきた。
いいぞ、色々なやめ若人よ。
そんななか、誰でも苦労して生きてるのを知って、自分も頑張ろうと思った、との発言があった。
うーん。いい考え方だけど、危険だな。
苦労というのを、相対化して自分のモチベーションにするのは良い方策とはいえない。
もっというと、苦労を前提に考えてしまってる時点で思考エラーだ。
頑張りゃ報われる、って考えは即刻捨てていい。
てめーの頑張りなんて、他者に伝わらなきゃ無価値だ。逆に、上手くその頑張りを伝えられるなら意味がある。しかしそれは、もっというと、自分自身で頑張ってる、と感じる必要がない、ということでもある。
わかるかな?
数ヵ月後の俺なら、分かってくれるだろうか?
最近、予約投稿をしている。
いまはまだ、数日程度だけど、忘れた頃に投稿されるぐらいになったら、新しい試みで面白いかなとか。
あーしかし、面倒だなぁ。
とか、そういったこと書くのを、無駄なのに、何故書いているのか、と、そのこと自体を問題にしている記事とか面白いよね。
話が少し違うが、
貯金頑張ってきて、いっぱいたまったなぁ、嬉しいなぁと思ってる人がいて、インフレなったらどうするのだろうか。
資本主義はイデオロギーであり、一種の信仰に過ぎないが、その支配下におかれると、お金が絶対価値に思えるが、そもそも金は流動的なものだ。
稀少性で価値が高まったり、バブル的に投資が投資を呼ぶといった自体もある。修正された資本主義と様々な現代システム、制度によって安定ははかられてるとはいえ、普通に交通事故で死ぬリスク程度にはあるだろう。
お金にもコミットできず、
恋愛にもコミットできず、
あとはなんだ? にんげん、人生で、絶対的なものは何かあるか?
友情? 家族? 上司? 仕事?
時間? 寿命?
そうだな、いずれは死ぬ、ということは、今の僕も信じられている。
僕らは死ぬ。
いつか死ぬ。
死ぬとは何だ?
死ぬとは無だ。無駄か?
闇だ、ゼロだ、終わりだ。
しぬ、しぬ、死ぬ……
あぁ……めちゃくちゃ怖くなってくるな。
なんだろか。
頑張れば頑張るほど、無気力というか、虚しさが増していく。ゆいつ、物語を創作したりサイトつくったり、この書いていること自体は、無気力を助長しない。
だから、くだらなくても、書いていいのだと、過去の僕はかっぱしていた。ありがとう、おかげで、いま、なにもしたくなくて苦しくとも茫然としているなか、なんとか、時間を過ごせている。ありがとう、ありがとう。
離婚という自体に陥ったとき、僕が奇跡的に救われたのは、ある二方のおかげだと書いた。
もっと遡れば、その前の自分自身の危機を救ってくれたのが、反転してその離婚の危機を引き起こした方だけど、それ以前の危機においても、僕の思考に影響を与えたある一方がいた。
ゆえに、僕は孤独ではなく、多くの人に支えられてここまできた……と、書くのが一般的に美しい文章だが、残念なことに、家族兄弟を含めても、10人に満たないとしか思えない。
いやもちろん、ここでの支えというのは、存在規定レベルの重大な案件において、ということであって、それいがいにお世話になった人は多いだろう。
だが、正直、残念なことに、申し訳ないが、どうでもいいレベルだ。その程度俺も他者に与えているし、与えられてもいるし、その程度だ。
大分、暗黒モードになっているな。
何故、
もっとやれ、なのか。
これ書いてるときは本当に気分はよくないが、実はあとから読んで、あぁわかるわかる、となることが多いのである。
それは特に、本当にかなり落ち込むまで表現していた方がいい。
鬱の人は、重度になると、言葉がなくなるだろう。しかしだ、であればなおさら、その描写の価値というのはあるのではと思う。
よく、中高生のブログとかツイッターとかでも、まぁ日々の生活の不平不満とかは見受けられるし、街を歩いていても聞こえてくる。
けれども、所詮はひとこと二言の、賞味30秒の感情に過ぎない。
お前、よく人のこと書けるなと自分でも思うが、愚痴が多い人は嫌いである、この、嫌いという表現も実は厳密ではない、そもそも、嫌いになるほど興味をわけない、というのが実態だ。
人を憎んだり嫌ったりできるのは、ある程度の関係の上での話だ。あまり関わらなくていいひとが相手に、あいつは好きだ嫌いだと、よく女性のコミュニティにおいてはそれが噂話としてネタになって、そのコミュニティ維持に貢献するけれども、正直自分はそこに価値を見いだせない。
このあと、孤独についての記事を書くだろうが、むしろ一人でいた方がいい。むしろ、他者のなかにいることがもっと、孤独を深める可能性さえある。
愚痴を嫌いだといった。
一方、このブログ、特にこの記事なんてぐちでしかない。
が、
何故あとから読んで面白いと思うことがあるのか?
それは、自分のブログだけじゃない、負の感情や、日常の不満や問題点を表現されている方々の記事は、やはり面白いのだ。
それに、生産的な価値はないかもしれない
しかし、ランチで職場の上司の愚痴をいう程度のカタルシスよりかは、よっぽど有意義だ、というのはすぐさま、ある、特定の人の話題、に止めてはならないことかいておくべきだ。
僕が表現と書いたのは、
具体的描写が面白いとか、詳細だとかそういうことではない、
むひろ、抽象化である。
簡単に書けば、こういうことがあった、それはこうだから、社会は、人間は、現代は、こうこうこうだと感じる、と。
そういうロジックになってる話はちょっと面白い可能性が増える。
いつぞやの、ある、青年たちは、その結論がどうであれ、こういう、経験をして、こういう事情から、今後こうしていこうと思う、というロジックになっていた。
だから、僕は内容に共感はなかったものの、そういう考え方があるということを知ること自体面白かったし、興味がわいたのだ。
これは、一般的に面白いもの、とか、そんな意味ではない。
自分にとって、今後未来の自分が読んだときあっ、ちょっと笑える、とか、面白いなとか、役に立つ、とかイライラの溜飲がおさまったとか、いまも、10に1つくらいはそういうのあるが、その、割合を増やすにはどうしたらいいか?
まず、暗黒面に堕ちる。
ノンストップでわきあがる感情というか言葉を書きなぐる。
少し落ち着く。
書いた内容を構造解析する。
その上で、書いた内容にたいしての感想をのべる。
スケルトン作るとこんなものか。
抽象化するとものすごい簡単なんだけど、実践するのは難しいかな。
まぁ、今後、このあたりを、カテゴリ分けと合わせて注意していくことにしよう。
普段気難しい相手なので、逆に嬉しかった。
後は、知人と久しぶりの会食をした。
しかし、帰りは、23時となり、気分もよくない。
なんか、誰か、こんなときは面白いブログでも書いてくれよ。
リアル物語が読みたいんだよ。最近、婚活頑張っている女性のブログも読んでるけど、本当面白い。残念ながら、下手な小説より断然面白いよ。
でも、こういうときに限って誰も更新しない。
更新した人も、短い。つーか、アメーバブログ、クソ過ぎる。いつ開いても、スマホからだと読み込み遅すぎる。
こういうときは、自分の過去ログを読む。
完全に自画自賛、手前みそだが、
10個に1つぐらいで、そのうち三割ぐらいの内容は、結構面白い。最近読了押してくれる方が減っていったので、あーやっぱりつまんねーんだろーなーと思っていたけど、いや、たまには面白いよ、自分の書いた内容だが(笑)
まぁでも、面白いというより、きもい、と思う人が多いんだろうなぁ。
そんななか、自分で面白いとか、もう数ヵ月たってるから、書いたときの思考も感情もなくても、それでも面白いと少し思うのは、きっと、やっぱり俺は変人なのだろうか。
ある飲食店においての客の会話
青年二人が、人生について、どうやって生きようか、仕事しようか、対人関係のありかたとか、色々話してるのが聞こえてきた。
いいぞ、色々なやめ若人よ。
そんななか、誰でも苦労して生きてるのを知って、自分も頑張ろうと思った、との発言があった。
うーん。いい考え方だけど、危険だな。
苦労というのを、相対化して自分のモチベーションにするのは良い方策とはいえない。
もっというと、苦労を前提に考えてしまってる時点で思考エラーだ。
頑張りゃ報われる、って考えは即刻捨てていい。
てめーの頑張りなんて、他者に伝わらなきゃ無価値だ。逆に、上手くその頑張りを伝えられるなら意味がある。しかしそれは、もっというと、自分自身で頑張ってる、と感じる必要がない、ということでもある。
わかるかな?
数ヵ月後の俺なら、分かってくれるだろうか?
最近、予約投稿をしている。
いまはまだ、数日程度だけど、忘れた頃に投稿されるぐらいになったら、新しい試みで面白いかなとか。
あーしかし、面倒だなぁ。
とか、そういったこと書くのを、無駄なのに、何故書いているのか、と、そのこと自体を問題にしている記事とか面白いよね。
金
話が少し違うが、
貯金頑張ってきて、いっぱいたまったなぁ、嬉しいなぁと思ってる人がいて、インフレなったらどうするのだろうか。
資本主義はイデオロギーであり、一種の信仰に過ぎないが、その支配下におかれると、お金が絶対価値に思えるが、そもそも金は流動的なものだ。
稀少性で価値が高まったり、バブル的に投資が投資を呼ぶといった自体もある。修正された資本主義と様々な現代システム、制度によって安定ははかられてるとはいえ、普通に交通事故で死ぬリスク程度にはあるだろう。
お金にもコミットできず、
恋愛にもコミットできず、
あとはなんだ? にんげん、人生で、絶対的なものは何かあるか?
友情? 家族? 上司? 仕事?
時間? 寿命?
そうだな、いずれは死ぬ、ということは、今の僕も信じられている。
めめんともり
僕らは死ぬ。
いつか死ぬ。
死ぬとは何だ?
死ぬとは無だ。無駄か?
闇だ、ゼロだ、終わりだ。
しぬ、しぬ、死ぬ……
あぁ……めちゃくちゃ怖くなってくるな。
なんだろか。
頑張れば頑張るほど、無気力というか、虚しさが増していく。ゆいつ、物語を創作したりサイトつくったり、この書いていること自体は、無気力を助長しない。
だから、くだらなくても、書いていいのだと、過去の僕はかっぱしていた。ありがとう、おかげで、いま、なにもしたくなくて苦しくとも茫然としているなか、なんとか、時間を過ごせている。ありがとう、ありがとう。
救ってくれる人
離婚という自体に陥ったとき、僕が奇跡的に救われたのは、ある二方のおかげだと書いた。
もっと遡れば、その前の自分自身の危機を救ってくれたのが、反転してその離婚の危機を引き起こした方だけど、それ以前の危機においても、僕の思考に影響を与えたある一方がいた。
ゆえに、僕は孤独ではなく、多くの人に支えられてここまできた……と、書くのが一般的に美しい文章だが、残念なことに、家族兄弟を含めても、10人に満たないとしか思えない。
いやもちろん、ここでの支えというのは、存在規定レベルの重大な案件において、ということであって、それいがいにお世話になった人は多いだろう。
だが、正直、残念なことに、申し訳ないが、どうでもいいレベルだ。その程度俺も他者に与えているし、与えられてもいるし、その程度だ。
いいぞもっとやれ
大分、暗黒モードになっているな。
帰宅後
いいぞ、もっとやれ。何故、
もっとやれ、なのか。
これ書いてるときは本当に気分はよくないが、実はあとから読んで、あぁわかるわかる、となることが多いのである。
それは特に、本当にかなり落ち込むまで表現していた方がいい。
鬱の人は、重度になると、言葉がなくなるだろう。しかしだ、であればなおさら、その描写の価値というのはあるのではと思う。
よく、中高生のブログとかツイッターとかでも、まぁ日々の生活の不平不満とかは見受けられるし、街を歩いていても聞こえてくる。
けれども、所詮はひとこと二言の、賞味30秒の感情に過ぎない。
お前、よく人のこと書けるなと自分でも思うが、愚痴が多い人は嫌いである、この、嫌いという表現も実は厳密ではない、そもそも、嫌いになるほど興味をわけない、というのが実態だ。
人を憎んだり嫌ったりできるのは、ある程度の関係の上での話だ。あまり関わらなくていいひとが相手に、あいつは好きだ嫌いだと、よく女性のコミュニティにおいてはそれが噂話としてネタになって、そのコミュニティ維持に貢献するけれども、正直自分はそこに価値を見いだせない。
このあと、孤独についての記事を書くだろうが、むしろ一人でいた方がいい。むしろ、他者のなかにいることがもっと、孤独を深める可能性さえある。
愚痴も表現になれば面白い
愚痴を嫌いだといった。
一方、このブログ、特にこの記事なんてぐちでしかない。
が、
何故あとから読んで面白いと思うことがあるのか?
それは、自分のブログだけじゃない、負の感情や、日常の不満や問題点を表現されている方々の記事は、やはり面白いのだ。
それに、生産的な価値はないかもしれない
しかし、ランチで職場の上司の愚痴をいう程度のカタルシスよりかは、よっぽど有意義だ、というのはすぐさま、ある、特定の人の話題、に止めてはならないことかいておくべきだ。
僕が表現と書いたのは、
具体的描写が面白いとか、詳細だとかそういうことではない、
むひろ、抽象化である。
簡単に書けば、こういうことがあった、それはこうだから、社会は、人間は、現代は、こうこうこうだと感じる、と。
そういうロジックになってる話はちょっと面白い可能性が増える。
いつぞやの、ある、青年たちは、その結論がどうであれ、こういう、経験をして、こういう事情から、今後こうしていこうと思う、というロジックになっていた。
だから、僕は内容に共感はなかったものの、そういう考え方があるということを知ること自体面白かったし、興味がわいたのだ。
面白い記事を書くには?
これは、一般的に面白いもの、とか、そんな意味ではない。
自分にとって、今後未来の自分が読んだときあっ、ちょっと笑える、とか、面白いなとか、役に立つ、とかイライラの溜飲がおさまったとか、いまも、10に1つくらいはそういうのあるが、その、割合を増やすにはどうしたらいいか?
まず、暗黒面に堕ちる。
ノンストップでわきあがる感情というか言葉を書きなぐる。
少し落ち着く。
書いた内容を構造解析する。
その上で、書いた内容にたいしての感想をのべる。
スケルトン作るとこんなものか。
抽象化するとものすごい簡単なんだけど、実践するのは難しいかな。
まぁ、今後、このあたりを、カテゴリ分けと合わせて注意していくことにしよう。
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今日の一言「2016年、残りで何を成そうか」
もう天変地異的に、どうしようもねーや、的なことには、ストレスを感じようがない。「もうちょっと頑張ればできた」的な感覚が、余計人を惨めにさせる。
全能感という言葉もある。特別な自分、特別な私、みたいな。子どもの頃は、皆自分が世界で立って一人の価値ある人間だと思っている。それが、まぁ、いろんな体験をすることで、そんなことはないなと気付いていくものだけれども、何事にも真剣に慣れない人は、いつまでもその全能感を持ち続けることもあるという。
本気で勉強しない。本気で恋愛しない。本気で頑張らない。
でも、いざとなって、やろうと思えばできるんだ。やればできる子なんだ、と。ずっとそう思い続けて、20代、30代、40代、50代、60代、70代、ええと、いつやるんだい? と。
まぁそんなに歳をとらなくても、大抵は、どっかで挫折する。
そして、その気付くのが遅ければ遅いほど、ダメージは大きいし、立ち直れなくなったりする。
どんな高性能のスポーツカーでも、ガソリンなきゃ走れないっしょや。というのも、思う。
いやお前はスポーツカーでも高級車でも大衆車ですらねーよ、とかいうのは、まぁ例えの話しだから重要ではない。人間の価値って、何で図る? 点数をつけられる? ノルマって何?
かといって、すぐさま思ってしまうのは、堕落した人生ってのも如何かと思うし、……例えば、2000万円とか親族に借りてまでギャンブルにのめり込む人とか、本当にいるらしいが、正直救いようのない愚か者だと思ってしまう。
いやいや、こんな記事を書いてしまう時点で、お前も愚か者だよ、英単語の一つでも覚える時間に使えよアホ、となるから、先日の記事のとおり、やっぱり、他者との比較って、本当につまらねえなぁと思う。
70億人の中の、一人に過ぎない。自分のできることなんて、他にたくさんできる人がいる。専門性を鍛えなければと、教育社会学者の方は仰っているが、しかし、その方策で救われる人がどれほどいるのか。
それに対しての僕の以前書いた答えを思い出してみよう。
それは確かに、プログラムが少し書けるとか、ピアノが少し弾けるとか、タイピングがちょっと速いとか、そんなの小学生の部でだって優勝はできないだろう。しかし、それを複合的にからめていけば、走って泳いで歩いてみたいなトライアスロン的な競技にしたら、少しはまともに戦えるんじゃなかろうか、と。
でも、時代の要請は、そんなマルチな人間でなく、職人が必要だとされる。エンプロイアビリティーとか。雇用される能力。うっせーハゲ、めんどくせーよ。
それはともかく、もう一つ、答えを思い出してみよう。
それは、ニッチなコミュニティーで自己有能感を得る、というものだ。
ニッチとか流行りの言葉を使ってしまったが、僕自身の言葉としては、「ローカルコミュニティ」となる。
それは別に、知り合いの間で、ということではなくても、とあるグローバルではないコミュニティにおいて、「役に立つ人間」という立ち位置を保持し、頑張りを再生産していくという方策だ。
これは意外に応用のきくものである。いじめられた子どもたちも、決して、そのコミュニティが絶対的なものなんかじゃない、ということは、気付いて欲しいと思う。そういう意味で、いじめは、環境(親や教師や学校組織や教育委員会や政治や行政やその他全部ひっくるめろ)が重要なのだ。当事者だけで解決なんて基本的にできないと思っていい。
朝のホームルームで先生が、「いじめよくない! ダメ絶対!」とかいっても、裏サイトとかまでいかなくても、まぁ、効果は薄いだろうことは目に見えている。
つーか、いじめって、殴るけるとかそういう問題だけじゃない。感じ方の問題ってのもある。
だから、そのグループ、組織が居心地がいいかどうか、それが重要だということだ。
転校繰り返しても、毎回いじめられるのであれば、それは何らか事情がある。
原発の影響でいじめられた、というのであれば、そりゃあもう本人にどうしようもない部分があるにせよ、本人のいじめられる素質・問題、というのを、完全に無視していいものではない。
いじめられっ子、というと、陰気で無口で運動もできなければ勉強もできない、というステロタイプイメージが醸成されるが、そうとも限らない。いわゆる「うぜーやつ」ってのもいる。
スクールカースト、とか、くっせぇ言葉だって生まれるこの現代、狂ってると感じてしまうほどである。
と、ああ、書いていて気分がよくないな。しかし、このループ的な感覚……。
つまり、「答え」が無い、という感覚。
これの表現であることを、果たして未来の自分は読み取れるだろうか。
それが正解かどうか。判断できる人は誰もいない。唯一いるとしたら、俺、なのだけれども、その僕が迷っているからたちが悪い。
さぁ、では明日はどうか。
できるだけ残業をせずに、さっさと家に帰ってきて、創作や読書をする時間を、一分一秒でも多く取れることが正解か?
よく分からない。
何が正解だ?
誰か教えて欲しい。
仕事でお金を稼ぐのが正解?
コミュニケーションをとって、忘年会に出席してニコニコしているのが正解?
すげー、むなしいよ。
そんな中で、こういった記事とか、過去のログとかは、まぁ、あってよかったな、と思えるわけだ。
先日着手したサイトとかも、形に残ってるし、使ってくれる方々もいることが、単純にうれしい。
えー、でもそれだと、仕事だって、同じじゃないの? お客さんとか、同僚とか、上司とかその他たくさんの人たちの関係の中で、認められたリ、怒られたり、褒められたリお礼を言われたり、いろいろあるんじゃないの?
その中で、資本主義社会で最も価値があるとされるお金も与えられるのだから、もっとそれに注力したら?
そうなんだけど……。
まぁ、いいんだ、それはそれで、いい。別にがんばらないとか言ってるわけじゃない。
ただな、昨今、思うのは、結局、僕が10代ぐらいから問題視してた問題、悩んでいた、苦しんでいた問題に対しての対応って、なんもしてないんじゃないの、ってことだ。
恥ずかしいことである。全くその通り、そう思う。だから誰にも相談できないし、しようとも思わない。
それどころか、最近ますます、他者に相談することの無意味性を強く思うようにすらなってきている。これはよくない。
ある精神科医さんのブログとか、よい記事を読んで、気持ちを落ち着けなければならない。
一方で、くっだらない自己啓発的な表現とか本とかネット記事とかで散乱してるのは、「自分の頭で考えろ!」とか、主体性をもって取り組めとか、まぁそんな感じの言葉たち。
「もともと特別なオンリーワン♪」
とか言ってるのと同じレベルに低俗である。
(といいつつ、僕は槇原さんの音楽は好きである)
え、何故自分で考える、ということがバカらしいのかって?
まず、第一に、僕はずっとそれしかやってこなかった。今更言われるまでもないというのが一点。
もう一つは、そもそも、「自分」って概念が未定義であって、じゃあ、「自分で考えろ」という言葉に感銘受けて考え始めたら、それってそもそも自分で考えてないんじゃないの、とかいう天邪鬼というか屁理屈的なことを持ち出すまでもなく、人間相互に依存し関連しあってるのだし、言語表現自体の限界性だってあるのだから、「自分で考える」というのは、甚だアドバイスとしては無責任に過ぎない。
自分で考えろ、というアドバイスは、結局、この多様化した社会において、明確な単一の答え、真理が無いことの示唆である。こうしたら成功する、という図式がなくなっているのだ。いい学校に入ったらいい会社に入れて、いい会社には入れたらお金をたくさんもらえて出世して結婚して子供ができて……なんて、今誰も信じられなくなっているのだ。
だから、「自分で考えて、自分が正しいと思う道を探し、それに向けて努力してがんばれよ!」と投げ出すのである。
しかし、むしろ逆に、そういった、「こうしろああしろ!」と、批判もたくさんありながら、はっきり明確に言うような人が、逆に求められてきていたりする。
どこかの国のリーダーが熱烈に支持されたのも、それが一つの要因だと僕は思う。
使い古されたロジックだろうけれど、自由からの逃走、エーリッヒフロムさんのおっしゃる、まぁ、自由って結構辛いんですよね、というものだ。
最近読んでいるサピエンス全史の、農耕社会ってストレス多いし狩猟採集社会より実はつらいんですよね。まぁ数は繁殖しましたが。的な感じ。
結局、自分で考えるしかないわけだ。
残業もほどほどにダッシュで帰ってきて、何をするかといえば、日々のルーチンプラスで、こんな何の役にも立たないような記事を書いているわけですよ。
でも僕は、思う。
確かに、この記事自体に、何ら価値はないのだろうけれども、これは、プラス何時間か残業して、まぁその分残業代はでるかもしれないが(サービス残業になるかもしれないが)、それよりも価値があることだと、思う(いや思いたい)。
仕事が生きがい、という生き方を否定する気は毛頭ない。
ただ同時に、それが絶対的な真理だ、と、自信をもって言えるかというと、それもまた自信がない。
答えはでないかもしれない。
無駄かもしれない。
恥ずかしいかもしれない。
でも僕は、もう少し書き続けるよ。「きもい」「あほなんじゃない?」というコメントがあったとしても、それはとても悲しいと思うけれど、でも、これをやめてしまって、まぁ仕事とか婚活とかに打ち込んで、頑張ったとして、俺は、60歳、70歳、80歳ぐらいになって、さぁそろそろ死にますよ、となったときに、自信をもって、「あのとき、こうして考えることをやめてよかった」と思えるとは、残念ながら思えない。
取りあえず、銘記しておくべきは、このままじゃいかん、ということだ。
極端を承知で書いておけば、自殺するにしても、結婚するにしても、子どもつくるにしても、仕事やめるにしても、仕事がんばるにしても、副業するにしても、起業するにしても、何も変わらずこのままいくにしても……、どの道を選ぶにしても、このままではいけない。
思考が足りない。
インプットが足りない。
ということで、今年残りの目標は、サピエンス全史、上下巻の読了としよう。
それだけでは、数値目標になっていないから(そもそも、数値化できないと目標とはいわない)、当該書籍に対するブログ記事を、そうさな、全部で20章あるから、その半分の、10記事書く、ということにしよう。
もちろん、ルーチンは引き続きがんばろう。
(本来、最後の数行だけで本記事タイトルは満たせているのだけれども、ここに辿り着くまでの思考過程が長い。しかも、一度立てた目標は非常にもろいので、数日はよくメンテナンス(インプット)してやって、補強する必要があるというのが、凡人であるなぁという証左)
ストレス社会である
自分で何とかコントロールできる範囲のことの方が、ストレスを感じるという。もう天変地異的に、どうしようもねーや、的なことには、ストレスを感じようがない。「もうちょっと頑張ればできた」的な感覚が、余計人を惨めにさせる。
全能感という言葉もある。特別な自分、特別な私、みたいな。子どもの頃は、皆自分が世界で立って一人の価値ある人間だと思っている。それが、まぁ、いろんな体験をすることで、そんなことはないなと気付いていくものだけれども、何事にも真剣に慣れない人は、いつまでもその全能感を持ち続けることもあるという。
本気で勉強しない。本気で恋愛しない。本気で頑張らない。
でも、いざとなって、やろうと思えばできるんだ。やればできる子なんだ、と。ずっとそう思い続けて、20代、30代、40代、50代、60代、70代、ええと、いつやるんだい? と。
まぁそんなに歳をとらなくても、大抵は、どっかで挫折する。
そして、その気付くのが遅ければ遅いほど、ダメージは大きいし、立ち直れなくなったりする。
燃料なきゃ只の鉄の塊
でもさ、俺は最近少し思った。高速道路を100km/hでる軽自動車で、フルスロットルアクセルべた踏みで走り続けるよりも、一般道を60km/hぐらいでまったり走るのだっていいんじゃなかろうか。ベンツとかリッターバイクなら別だろうが、フルフルぎりぎり精一杯やる必要があるのか。いやむしろ、高級車とかSSバイクだと、100km/hが逆にたるい、と思うかもしれない。そしたら、それなりのステージで頑張って頂ければいいじゃないか。どんな高性能のスポーツカーでも、ガソリンなきゃ走れないっしょや。というのも、思う。
いやお前はスポーツカーでも高級車でも大衆車ですらねーよ、とかいうのは、まぁ例えの話しだから重要ではない。人間の価値って、何で図る? 点数をつけられる? ノルマって何?
かといって、すぐさま思ってしまうのは、堕落した人生ってのも如何かと思うし、……例えば、2000万円とか親族に借りてまでギャンブルにのめり込む人とか、本当にいるらしいが、正直救いようのない愚か者だと思ってしまう。
いやいや、こんな記事を書いてしまう時点で、お前も愚か者だよ、英単語の一つでも覚える時間に使えよアホ、となるから、先日の記事のとおり、やっぱり、他者との比較って、本当につまらねえなぁと思う。
生存戦略
かといって、すぐさま思ってしまうのは、特別なオンリーワン、なんてありえねーという感覚。最初に戻るけれど、結局、全能感なんてありゃしないのだ。70億人の中の、一人に過ぎない。自分のできることなんて、他にたくさんできる人がいる。専門性を鍛えなければと、教育社会学者の方は仰っているが、しかし、その方策で救われる人がどれほどいるのか。
それに対しての僕の以前書いた答えを思い出してみよう。
それは確かに、プログラムが少し書けるとか、ピアノが少し弾けるとか、タイピングがちょっと速いとか、そんなの小学生の部でだって優勝はできないだろう。しかし、それを複合的にからめていけば、走って泳いで歩いてみたいなトライアスロン的な競技にしたら、少しはまともに戦えるんじゃなかろうか、と。
でも、時代の要請は、そんなマルチな人間でなく、職人が必要だとされる。エンプロイアビリティーとか。雇用される能力。うっせーハゲ、めんどくせーよ。
それはともかく、もう一つ、答えを思い出してみよう。
それは、ニッチなコミュニティーで自己有能感を得る、というものだ。
ニッチとか流行りの言葉を使ってしまったが、僕自身の言葉としては、「ローカルコミュニティ」となる。
それは別に、知り合いの間で、ということではなくても、とあるグローバルではないコミュニティにおいて、「役に立つ人間」という立ち位置を保持し、頑張りを再生産していくという方策だ。
これは意外に応用のきくものである。いじめられた子どもたちも、決して、そのコミュニティが絶対的なものなんかじゃない、ということは、気付いて欲しいと思う。そういう意味で、いじめは、環境(親や教師や学校組織や教育委員会や政治や行政やその他全部ひっくるめろ)が重要なのだ。当事者だけで解決なんて基本的にできないと思っていい。
朝のホームルームで先生が、「いじめよくない! ダメ絶対!」とかいっても、裏サイトとかまでいかなくても、まぁ、効果は薄いだろうことは目に見えている。
つーか、いじめって、殴るけるとかそういう問題だけじゃない。感じ方の問題ってのもある。
だから、そのグループ、組織が居心地がいいかどうか、それが重要だということだ。
かといって社会性も重要
といいつつも、じゃあ、とっかえひっかえ周りの環境を変えていけばいいのか、というのもまた否である。転校繰り返しても、毎回いじめられるのであれば、それは何らか事情がある。
原発の影響でいじめられた、というのであれば、そりゃあもう本人にどうしようもない部分があるにせよ、本人のいじめられる素質・問題、というのを、完全に無視していいものではない。
いじめられっ子、というと、陰気で無口で運動もできなければ勉強もできない、というステロタイプイメージが醸成されるが、そうとも限らない。いわゆる「うぜーやつ」ってのもいる。
スクールカースト、とか、くっせぇ言葉だって生まれるこの現代、狂ってると感じてしまうほどである。
と、ああ、書いていて気分がよくないな。しかし、このループ的な感覚……。
つまり、「答え」が無い、という感覚。
これの表現であることを、果たして未来の自分は読み取れるだろうか。
答えの無さ
取りあえず、今日は、仕事にきりをつけて、もうここまでやったから終わり! と半ば逃げ出すように帰ってきた。もう精神的に苛々して仕方がなかった。それが正解かどうか。判断できる人は誰もいない。唯一いるとしたら、俺、なのだけれども、その僕が迷っているからたちが悪い。
さぁ、では明日はどうか。
できるだけ残業をせずに、さっさと家に帰ってきて、創作や読書をする時間を、一分一秒でも多く取れることが正解か?
よく分からない。
何が正解だ?
誰か教えて欲しい。
仕事でお金を稼ぐのが正解?
コミュニケーションをとって、忘年会に出席してニコニコしているのが正解?
すげー、むなしいよ。
虚しさの中に
何だか、同じことするのに、MP(精神ポイント)の消費量が多くなってる気がする。そんな中で、こういった記事とか、過去のログとかは、まぁ、あってよかったな、と思えるわけだ。
先日着手したサイトとかも、形に残ってるし、使ってくれる方々もいることが、単純にうれしい。
えー、でもそれだと、仕事だって、同じじゃないの? お客さんとか、同僚とか、上司とかその他たくさんの人たちの関係の中で、認められたリ、怒られたり、褒められたリお礼を言われたり、いろいろあるんじゃないの?
その中で、資本主義社会で最も価値があるとされるお金も与えられるのだから、もっとそれに注力したら?
そうなんだけど……。
まぁ、いいんだ、それはそれで、いい。別にがんばらないとか言ってるわけじゃない。
ただな、昨今、思うのは、結局、僕が10代ぐらいから問題視してた問題、悩んでいた、苦しんでいた問題に対しての対応って、なんもしてないんじゃないの、ってことだ。
何で生きるのか?
バカらしい問いだよ。お前、いくつになってそんなこと言ってるの? アホちゃう?恥ずかしいことである。全くその通り、そう思う。だから誰にも相談できないし、しようとも思わない。
それどころか、最近ますます、他者に相談することの無意味性を強く思うようにすらなってきている。これはよくない。
ある精神科医さんのブログとか、よい記事を読んで、気持ちを落ち着けなければならない。
一方で、くっだらない自己啓発的な表現とか本とかネット記事とかで散乱してるのは、「自分の頭で考えろ!」とか、主体性をもって取り組めとか、まぁそんな感じの言葉たち。
「もともと特別なオンリーワン♪」
とか言ってるのと同じレベルに低俗である。
(といいつつ、僕は槇原さんの音楽は好きである)
え、何故自分で考える、ということがバカらしいのかって?
まず、第一に、僕はずっとそれしかやってこなかった。今更言われるまでもないというのが一点。
もう一つは、そもそも、「自分」って概念が未定義であって、じゃあ、「自分で考えろ」という言葉に感銘受けて考え始めたら、それってそもそも自分で考えてないんじゃないの、とかいう天邪鬼というか屁理屈的なことを持ち出すまでもなく、人間相互に依存し関連しあってるのだし、言語表現自体の限界性だってあるのだから、「自分で考える」というのは、甚だアドバイスとしては無責任に過ぎない。
自分で考えろ、というアドバイスは、結局、この多様化した社会において、明確な単一の答え、真理が無いことの示唆である。こうしたら成功する、という図式がなくなっているのだ。いい学校に入ったらいい会社に入れて、いい会社には入れたらお金をたくさんもらえて出世して結婚して子供ができて……なんて、今誰も信じられなくなっているのだ。
だから、「自分で考えて、自分が正しいと思う道を探し、それに向けて努力してがんばれよ!」と投げ出すのである。
アメリカ大統領のリーダーシップ
大抵の散乱する記事群は、そんなんばっかである。まともなアドバイスってのをついぞ最近みたことない。いや、あるっちゃあ、ある。ただそれは逆に、「いや、それってあなたの特殊な事情による場合に過ぎないんじゃ……」という、いわゆる断定、決めつけ的なものだったりする。しかし、むしろ逆に、そういった、「こうしろああしろ!」と、批判もたくさんありながら、はっきり明確に言うような人が、逆に求められてきていたりする。
どこかの国のリーダーが熱烈に支持されたのも、それが一つの要因だと僕は思う。
使い古されたロジックだろうけれど、自由からの逃走、エーリッヒフロムさんのおっしゃる、まぁ、自由って結構辛いんですよね、というものだ。
最近読んでいるサピエンス全史の、農耕社会ってストレス多いし狩猟採集社会より実はつらいんですよね。まぁ数は繁殖しましたが。的な感じ。
自分の人生
まぁ、だからね。結局、自分で考えるしかないわけだ。
残業もほどほどにダッシュで帰ってきて、何をするかといえば、日々のルーチンプラスで、こんな何の役にも立たないような記事を書いているわけですよ。
でも僕は、思う。
確かに、この記事自体に、何ら価値はないのだろうけれども、これは、プラス何時間か残業して、まぁその分残業代はでるかもしれないが(サービス残業になるかもしれないが)、それよりも価値があることだと、思う(いや思いたい)。
仕事が生きがい、という生き方を否定する気は毛頭ない。
ただ同時に、それが絶対的な真理だ、と、自信をもって言えるかというと、それもまた自信がない。
答えはでないかもしれない。
無駄かもしれない。
恥ずかしいかもしれない。
でも僕は、もう少し書き続けるよ。「きもい」「あほなんじゃない?」というコメントがあったとしても、それはとても悲しいと思うけれど、でも、これをやめてしまって、まぁ仕事とか婚活とかに打ち込んで、頑張ったとして、俺は、60歳、70歳、80歳ぐらいになって、さぁそろそろ死にますよ、となったときに、自信をもって、「あのとき、こうして考えることをやめてよかった」と思えるとは、残念ながら思えない。
取りあえず、銘記しておくべきは、このままじゃいかん、ということだ。
極端を承知で書いておけば、自殺するにしても、結婚するにしても、子どもつくるにしても、仕事やめるにしても、仕事がんばるにしても、副業するにしても、起業するにしても、何も変わらずこのままいくにしても……、どの道を選ぶにしても、このままではいけない。
思考が足りない。
インプットが足りない。
ということで、今年残りの目標は、サピエンス全史、上下巻の読了としよう。
それだけでは、数値目標になっていないから(そもそも、数値化できないと目標とはいわない)、当該書籍に対するブログ記事を、そうさな、全部で20章あるから、その半分の、10記事書く、ということにしよう。
もちろん、ルーチンは引き続きがんばろう。
(本来、最後の数行だけで本記事タイトルは満たせているのだけれども、ここに辿り着くまでの思考過程が長い。しかも、一度立てた目標は非常にもろいので、数日はよくメンテナンス(インプット)してやって、補強する必要があるというのが、凡人であるなぁという証左)
今日の一言「僕たちはお米の奴隷なのだ」
ちょっと今、何も見ずに、覚えていることをまとめてみようか。
○種は、生殖で繁殖する生物同士の集まり。属は、先祖を同じくする種の集まり。えっと、科って何だっけ……? 何か、もっと広い共通する集まり。
○サピエンスは、認知革命(虚構の言語)の使用により7万年前ごろから爆発的に発展した。東アフリカに達して、ネアンデルタール人とかは絶滅した。1万年~3万年前ぐらいまでの間に、サピエンスが唯一の人類となった。
○サピエンスは、その多くを狩猟採集によって生活していた。狩猟採集は、危険もあったが、狩りは三日おきぐらいでよかったし、採集も毎日数時間でよかった。現代人のように一日中働かなくてもよかった。
○狩猟採集生活は、100人程度の集団であった。その集団は、様々な信仰や様々な生活様式がありえた。一様に論じることはできず、非常にバラエティに富んでいた。例えば、20世紀の暴力による死者は5%ぐらいである。狩猟採集民の中では、部族の中でほとんど暴力で死んだと見受けられない集団もあれば、4%に匹敵するほどの暴力による死者がいた集団もあった。
○狩猟採集民も、30メートルもの巨大な石柱を建てたり、宗教的な活動をしていた。
などが、印象に残っているポイントかな。
今日読み進めた部分では、危険な種ということで、オーストラリア大陸に到達したり、北アメリカ大陸に到達して、2000年かそこらで大型動物を絶滅においやった張本人だということだ。
大型動物の絶滅は、気候変動だとする学者もいるが、人類の関与を覆い隠すことはできないという。
現代にも続く、農耕社会の基盤は、約1万年前に積み上げられたものだということは、既にあった知識であるけれども、この本で学んだこととしては、そもそも、何故狩猟採集民が、農耕に精を出そうとしたのか。
それは、農耕が優れた生存手段だったからではない。
むしろ、農耕は、モノカルチャー(単一作物)に頼ることの旱魃等へのリスクや、狩猟採集生活のおおらかで余裕のあった(本当にそうかは別として、働く時間は少なかったとされている)生活を手放さざる得なくなった。
焼き畑農業で、適当に種をまくよりも、地中深くに種を埋めて、せっせと水くみをして、雑草を取り除き……。
豊かになるはずの生活は、他集団との抗争にも発展したり、子供が増えると養うためにもっと多くの食料を必要としていった。
……と、農耕社会の負の側面が描かれている。
インターネットや電子メールは、不特定多数の、即座の、コミュニケーションを可能にしたが、それによって私たちの時間に余裕はできたのか。必ずしもよいことだけではなかろう、と。
となると、よくある環境保護論者と同じになってしまうが、この辺りへの苦言も中々面白い。というのは、狩猟採集民は、上で書いたように、恐ろしく大規模に、多くの動物たちを、自然を破壊していったのだ。
農耕民も言うに及ばず、家畜化した動物たちへの虐げは中々のものである。ある部族では、豚の所有が身分の高さ、富の高さを象徴していた。ので、豚の鼻をそいだり、目をくりぬいたりして、豚を逃げ出さないようにするとか、そもそも、今の畜産業への言及も、いうにおよばず。
とはいえ、個々の生物的には、別に農耕することが、今後ますます自分たちを奴隷化させていくなどとは、思ってもみなかったろう、というわけだ。
そのうち、狩猟採集の生活様式を覚えている人たちもいなくなり、今目の前にある農業、小麦をどう育てるか、収穫量をどう増やすか、盗賊や他集団の敵から守るために環濠を築き監視をおいて戦うための武器をつくるか、……そうした、「前向きな」考えが心をとらえたことだろう。
先日書いた通り、虫、キモチワルイ、長野のアルプスで新種のゴミムシが見つかったというが、ものすげー興味がない。狩猟採集民は好んでタンパク源である昆虫も食べたろうが、そんな生活をしたいとは一切したいと思わない。
ただ、重要な視点を、この書籍が与えてくれるのは、生物学的な「進化」と、個々の幸福や満足とは、関連しない、ということである。
ウシ、ヒツジ、ニワトリといった家畜たちは、稀にみる大発展を遂げた。ウシヒツジ10億、ニワトリは250億もいるという。先日、鳥インフルエンザが流行ったということで、数万羽ものニワトリが殺処分されたとみて、「おぉ……」と思ったが、そもそも、世界中に250億羽もいるのか。1%にもみたないというわけか。
でも、それって、「進化」的には大成功なわけだ。
人間の都合で数万、数億単位で殺され、自然的な欲求とはかけ離れた生涯しかおくれないとしても、生物的には成功なのだ。それって、なんという皮肉だろうか。
しかしこの問題は、哀れな家畜たちだけではない。
僕らもまた、70億人の人々のうちの、たった一人でしかない。
矮小な存在でしかない。家族とか、会社組織とか、国民国家とか、そんな大きな枠組みに自分をコミットしたところで、結局、人類といった大きなフレームの中では、歯車ですらないのである。
会社社長はちょっとは影響力があるかもしれない。国家規模の資産をもつ資産家たちは個人の影響力は強いかもしれない。
しかし、古今東西存在し、反映した帝国、英雄たちも、いまや伝説として残るか、残らないかに過ぎない。その陰には、歴史にすら残らなかった名も知れない多くの無価値なサピエンスの屍に溢れていることだろう。
俺は、別にその選択を決して無視しない。
むしろ、考え抜いて、その上での自死は、平凡な生涯を送り、悩み多い人生を長い時間過ごし、人類という発展のため寄与するよりも、よほど、人間的で尊厳的な在り方なのではないかとすら思う。
だがもちろん、そうではない生き方だってあるはずで、人類の発展への寄与が悪いことであるという確固たる根拠だってない。
どちらにせよ、「考え抜いて」……このブログで言うところの、徹底して、という形容表現に未だ到達していないとしたら、どちらの道も自信をもって選ぶことはできない。
だから、こうした表現すべては、厭世的でもなければ、諦念でもなく、新しい価値や創造のための試金石、思考実験なのだけれども、多分、多くの人に誤解というか(いやそれは決して誤解ではなく、恐らく、「その人にとっての真実」なのだろうが)不安や恐怖を与えてしまうことだろう。
その可能性を、決して、6歳の少年ではないのだから、分かっているのであって、それは対人コミュニケーションにおいて、自動的にストップが、自分の中でかかる。すげーこれが、めんどくさいと思う。しかもこれ、正常に働けば働くほど、他者に興味がなくなるという危険極まりないトラップだ。ので、せめて「徹底して」考えるときぐらいは、すべてのリミッターを外してやろうと思うのだ。
(ものすごい関係ないことを書けば、東京マグニチュード8.0で、「僕だってパパやママが無事じゃないかもしれないなんてこと、分かってるよ!」と姉にぶつける少年、感動した)
しかし、時間切れだ、取りあえず、非常に気に入った表現を最後に書いておく。
農業革命は、人類を、小麦の奴隷(家畜)にしたのだ、と。
つまり、風に種子を飛ばして偶発的に発展するしかなかった小麦や稲やジャガイモやカボチャたちは、人間たちにせっせと世話をさせることで、稀に見る発展を遂げたのだ、ということだ。
先ほどのウシやヒツジやニワトリといった家畜との同じロジックだが、植物はより単純な生物ということで、より分かりやすいように思える。「小麦たちの幸せを思えば、偶発的に生息していた方が自由で良かった」とはあまり思えないから。
いやぁ面白い本だと思う。ようやく上巻の半分ぐらいだ。ただ、どちらかというと、この、人類の発展的な部分が、ここ数年一番調べたいというか、興味をもっていた部分だったから、この後の流れはどうなんだろうかとも、若干懐疑的でもある。(一般的な世界史的な書物は読んだことがあるけれども、このサピエンス以前から、狩猟採集民としての生活部分をこれほどの紙面を割いて説明しているのは初めて知った)
サピエンス全史ようやく農業革命へ
遅読にもほどがある。ようやく紀元前1万年あたりの農業革命に到達する。ちょっと今、何も見ずに、覚えていることをまとめてみようか。
○種は、生殖で繁殖する生物同士の集まり。属は、先祖を同じくする種の集まり。えっと、科って何だっけ……? 何か、もっと広い共通する集まり。
○サピエンスは、認知革命(虚構の言語)の使用により7万年前ごろから爆発的に発展した。東アフリカに達して、ネアンデルタール人とかは絶滅した。1万年~3万年前ぐらいまでの間に、サピエンスが唯一の人類となった。
○サピエンスは、その多くを狩猟採集によって生活していた。狩猟採集は、危険もあったが、狩りは三日おきぐらいでよかったし、採集も毎日数時間でよかった。現代人のように一日中働かなくてもよかった。
○狩猟採集生活は、100人程度の集団であった。その集団は、様々な信仰や様々な生活様式がありえた。一様に論じることはできず、非常にバラエティに富んでいた。例えば、20世紀の暴力による死者は5%ぐらいである。狩猟採集民の中では、部族の中でほとんど暴力で死んだと見受けられない集団もあれば、4%に匹敵するほどの暴力による死者がいた集団もあった。
○狩猟採集民も、30メートルもの巨大な石柱を建てたり、宗教的な活動をしていた。
などが、印象に残っているポイントかな。
今日読み進めた部分では、危険な種ということで、オーストラリア大陸に到達したり、北アメリカ大陸に到達して、2000年かそこらで大型動物を絶滅においやった張本人だということだ。
大型動物の絶滅は、気候変動だとする学者もいるが、人類の関与を覆い隠すことはできないという。
農業革命
食糧生産革命ともいう。現代にも続く、農耕社会の基盤は、約1万年前に積み上げられたものだということは、既にあった知識であるけれども、この本で学んだこととしては、そもそも、何故狩猟採集民が、農耕に精を出そうとしたのか。
それは、農耕が優れた生存手段だったからではない。
むしろ、農耕は、モノカルチャー(単一作物)に頼ることの旱魃等へのリスクや、狩猟採集生活のおおらかで余裕のあった(本当にそうかは別として、働く時間は少なかったとされている)生活を手放さざる得なくなった。
焼き畑農業で、適当に種をまくよりも、地中深くに種を埋めて、せっせと水くみをして、雑草を取り除き……。
豊かになるはずの生活は、他集団との抗争にも発展したり、子供が増えると養うためにもっと多くの食料を必要としていった。
……と、農耕社会の負の側面が描かれている。
インターネットや電子メールは、不特定多数の、即座の、コミュニケーションを可能にしたが、それによって私たちの時間に余裕はできたのか。必ずしもよいことだけではなかろう、と。
不可逆的な発展
だから、自然の、過去の、豊かな自然との共存を目指しましょう!となると、よくある環境保護論者と同じになってしまうが、この辺りへの苦言も中々面白い。というのは、狩猟採集民は、上で書いたように、恐ろしく大規模に、多くの動物たちを、自然を破壊していったのだ。
農耕民も言うに及ばず、家畜化した動物たちへの虐げは中々のものである。ある部族では、豚の所有が身分の高さ、富の高さを象徴していた。ので、豚の鼻をそいだり、目をくりぬいたりして、豚を逃げ出さないようにするとか、そもそも、今の畜産業への言及も、いうにおよばず。
とはいえ、個々の生物的には、別に農耕することが、今後ますます自分たちを奴隷化させていくなどとは、思ってもみなかったろう、というわけだ。
そのうち、狩猟採集の生活様式を覚えている人たちもいなくなり、今目の前にある農業、小麦をどう育てるか、収穫量をどう増やすか、盗賊や他集団の敵から守るために環濠を築き監視をおいて戦うための武器をつくるか、……そうした、「前向きな」考えが心をとらえたことだろう。
前向きな生き方とは
この記事は、インプット目的のものなので、あまり自分の感想をはさむ余地はないが、「戻ることもできないが、ただ、目の前の課題にだけコミットしていては、結局我ら人類が農耕を始めてしまった計算違いと同じ過ちを繰り返すだけではないか」という感覚である。先日書いた通り、虫、キモチワルイ、長野のアルプスで新種のゴミムシが見つかったというが、ものすげー興味がない。狩猟採集民は好んでタンパク源である昆虫も食べたろうが、そんな生活をしたいとは一切したいと思わない。
ただ、重要な視点を、この書籍が与えてくれるのは、生物学的な「進化」と、個々の幸福や満足とは、関連しない、ということである。
ウシ、ヒツジ、ニワトリといった家畜たちは、稀にみる大発展を遂げた。ウシヒツジ10億、ニワトリは250億もいるという。先日、鳥インフルエンザが流行ったということで、数万羽ものニワトリが殺処分されたとみて、「おぉ……」と思ったが、そもそも、世界中に250億羽もいるのか。1%にもみたないというわけか。
でも、それって、「進化」的には大成功なわけだ。
人間の都合で数万、数億単位で殺され、自然的な欲求とはかけ離れた生涯しかおくれないとしても、生物的には成功なのだ。それって、なんという皮肉だろうか。
しかしこの問題は、哀れな家畜たちだけではない。
僕らもまた、70億人の人々のうちの、たった一人でしかない。
矮小な存在でしかない。家族とか、会社組織とか、国民国家とか、そんな大きな枠組みに自分をコミットしたところで、結局、人類といった大きなフレームの中では、歯車ですらないのである。
会社社長はちょっとは影響力があるかもしれない。国家規模の資産をもつ資産家たちは個人の影響力は強いかもしれない。
しかし、古今東西存在し、反映した帝国、英雄たちも、いまや伝説として残るか、残らないかに過ぎない。その陰には、歴史にすら残らなかった名も知れない多くの無価値なサピエンスの屍に溢れていることだろう。
厭世的になろうというのではない
だから、生きていても意味はないんだ、死のう。俺は、別にその選択を決して無視しない。
むしろ、考え抜いて、その上での自死は、平凡な生涯を送り、悩み多い人生を長い時間過ごし、人類という発展のため寄与するよりも、よほど、人間的で尊厳的な在り方なのではないかとすら思う。
だがもちろん、そうではない生き方だってあるはずで、人類の発展への寄与が悪いことであるという確固たる根拠だってない。
どちらにせよ、「考え抜いて」……このブログで言うところの、徹底して、という形容表現に未だ到達していないとしたら、どちらの道も自信をもって選ぶことはできない。
だから、こうした表現すべては、厭世的でもなければ、諦念でもなく、新しい価値や創造のための試金石、思考実験なのだけれども、多分、多くの人に誤解というか(いやそれは決して誤解ではなく、恐らく、「その人にとっての真実」なのだろうが)不安や恐怖を与えてしまうことだろう。
その可能性を、決して、6歳の少年ではないのだから、分かっているのであって、それは対人コミュニケーションにおいて、自動的にストップが、自分の中でかかる。すげーこれが、めんどくさいと思う。しかもこれ、正常に働けば働くほど、他者に興味がなくなるという危険極まりないトラップだ。ので、せめて「徹底して」考えるときぐらいは、すべてのリミッターを外してやろうと思うのだ。
(ものすごい関係ないことを書けば、東京マグニチュード8.0で、「僕だってパパやママが無事じゃないかもしれないなんてこと、分かってるよ!」と姉にぶつける少年、感動した)
しかし、時間切れだ、取りあえず、非常に気に入った表現を最後に書いておく。
農業革命は、人類を、小麦の奴隷(家畜)にしたのだ、と。
つまり、風に種子を飛ばして偶発的に発展するしかなかった小麦や稲やジャガイモやカボチャたちは、人間たちにせっせと世話をさせることで、稀に見る発展を遂げたのだ、ということだ。
先ほどのウシやヒツジやニワトリといった家畜との同じロジックだが、植物はより単純な生物ということで、より分かりやすいように思える。「小麦たちの幸せを思えば、偶発的に生息していた方が自由で良かった」とはあまり思えないから。
いやぁ面白い本だと思う。ようやく上巻の半分ぐらいだ。ただ、どちらかというと、この、人類の発展的な部分が、ここ数年一番調べたいというか、興味をもっていた部分だったから、この後の流れはどうなんだろうかとも、若干懐疑的でもある。(一般的な世界史的な書物は読んだことがあるけれども、このサピエンス以前から、狩猟採集民としての生活部分をこれほどの紙面を割いて説明しているのは初めて知った)
今日の一言「え、もうこんな日付・時間なの?!」
先週の日曜日以来だろう。
早いねぇ。時間が過ぎるのが早い。先週は、睡眠時間も毎日4~5時間ぐらいだった。
それが長いか短いか、まぁ結局人の感じ方によるものだろう。月に残業200時間だとしても、「若いうちはそれぐらい普通だよな!」とかどっかの偉い教授さんが言っていたということも聞く。
ほんっとに、人と比較することって、むなしいよな、とよく思う。
それなのに、やれ競争だ、資本主義だ、お金だ、とか。
あ、いやいや、そういうことを書きたいのではなく、とにかく、これらを書く暇が殆どなかったということだ。
やっぱり、ブログを書くことができる時間があるというのは、恵まれている状態だといえるだろう。ブログでも、ローカルな日記でも何でもいいが、書くということをしていないと、何だかとてもとても、自分というものが消えていくようにすら思える。
ある方は、「ブログ何て書いている暇があったら、小説書いてた方が有意義に思えてしまうんですよね」と仰っていた。僕もそう思う、小説でなくても、別のもっと有意義なことをした方がいいんじゃないか、とすら思う。
思うが、しかし。
というのは、例の、何だかいいこと書かなきゃいけない症候群的な奴だと思う。
ああ、そう、最近ある方が記事にされていたのだけれども、「妄想テレパシー」という4コマ漫画が、ものすげー面白かった。
他者の心の中、頭で考えていることを分かってしまう女子高生の物語。
なんというかな、とある場面、2か所ぐらいで、泣いてしまったよ。俺、なんつーかな、これまた表現が難しいけれど、嫌なこととか哀しいことって、結構慣れているから、あんまそういうので涙することないんだよな。だから、そういうんじゃない、何というか、あたたかいというか、切ないというか、きれいだというか、そんな感じで、泣いてしまったよ。
その記事にされていた方は、「さくって読めて面白い」って表現されていたけれど、僕はとても感動したね、うん。一気に読んでしまった。それがゆえに時間がないのか、なるほどな~(放心)。
そんな当たり前のことが、僕は結構重かったりつらかったりするんだよなぁと、ふと思った。
その主人公の女の子じゃないけれど、結構、他者の考えていること「分かる」んだよな。いや、「今頭に思い浮かべた数字を当ててみなさい」というのは違うけれど、喜怒哀楽的な簡単な感情から嫉妬とか憎しみとかちょっと発展した感情という話し。別に僕だけじゃなくて、誰でも分かることだ。何故なら、感情とは、そもそも、人が上手く生活を送るために脳がつくりだした機能だからだ。感情が、他者に一切伝わらないものだとしたら、それは、何ら役に立つ機能ではない。
何だっけ? また脱線したな。
ええと、あれだ、基本的に、このブログは、99.9%ぐらい、心の声を反映している。
リアルタイム筆記である。
0.1%というのは、タイピングスピードと思考とのラグだったり、文章表現と思考表現との違いだったりするけれども、基本的に、思い浮かべたことをありのままに記述しているつもりだ。もちろんそれでも、自分の知らない部分があるかもしれないから、100%そのまま表現できるなんてできないと思う。
ただ、僕がここで、楽しかった、と書けば、それは本当なのであり、無理して友達たちにあわせて、笑顔を作っていたりなんて、そんなことはないのだ。
優しい嘘、悪意のある嘘、それらにかかわらず、人は思ったことを口にしない。
その場で適切な振る舞いをする。当たり前だ、そうやって人は社会生活を送る。
仕事中めんどくせえとか言ってたら、速攻首だ!
と、言いながら、そもそも、その「めんどくせえ」とかいう感情だって、言語ラベリングされたものに過ぎない。
めんどくせえ、って、何? その面倒さって、ひたすら資料をコピーとるめんどくささと、お客さんに分かりやすい資料にするにはどうしたらいいんだろうと頭を悩ませるめんどうくささと、同じだろうか?
一言で面倒、といってしまうと、その機微が分からなくなる。
だから、感情言語は、非常にデリケートに扱った方がいい。
……とかいう話しの流れで、満足できればいいのだが、僕はさらに疑問になる。
デリケートに扱う? でもさ、感情って危機を避けるためにあるものでもあって、「これはこういう感情なのだろうか?」なんて考えていたら、危険回避に遅れてしまうかもしれない。
喜! 怒! 哀! 楽! と、明確に、単純に、自分を判断して行動した方が、よっぽど役に立つのではなかろうか。(特に生きるか死ぬかの戦闘において)
本当に疲れたのか? もっとやれるんじゃないか? もっと頑張れよ、ほら!
あーうるさいなぁ、もう。
今日は、クレジットカードの住所変更を行い、クリーニングを出したり、目薬を買ったり、生活費の口座間調整をしたりと、それなりに活動したじゃないか。いいじゃないか。
部屋のカオスさは広まってきているが……。
取りあえず、明日も予定があり早いし、今日はもうルーチンやって寝るとしよう。
そういや、ルーチンも続けられているな。次の壁は、3か月目あたりだろう。
あぁ、この記事面白くないだろうなぁ……。
久しぶりのブログ記事
ものすごく、久しぶりにブログを書いている気がする。先週の日曜日以来だろう。
早いねぇ。時間が過ぎるのが早い。先週は、睡眠時間も毎日4~5時間ぐらいだった。
それが長いか短いか、まぁ結局人の感じ方によるものだろう。月に残業200時間だとしても、「若いうちはそれぐらい普通だよな!」とかどっかの偉い教授さんが言っていたということも聞く。
ほんっとに、人と比較することって、むなしいよな、とよく思う。
それなのに、やれ競争だ、資本主義だ、お金だ、とか。
あ、いやいや、そういうことを書きたいのではなく、とにかく、これらを書く暇が殆どなかったということだ。
やっぱり、ブログを書くことができる時間があるというのは、恵まれている状態だといえるだろう。ブログでも、ローカルな日記でも何でもいいが、書くということをしていないと、何だかとてもとても、自分というものが消えていくようにすら思える。
ある方は、「ブログ何て書いている暇があったら、小説書いてた方が有意義に思えてしまうんですよね」と仰っていた。僕もそう思う、小説でなくても、別のもっと有意義なことをした方がいいんじゃないか、とすら思う。
思うが、しかし。
書きたいことと書くべきこと
久しぶりだと、何だか、何を書こうか、少し困ってしまう。というのは、例の、何だかいいこと書かなきゃいけない症候群的な奴だと思う。
ああ、そう、最近ある方が記事にされていたのだけれども、「妄想テレパシー」という4コマ漫画が、ものすげー面白かった。
他者の心の中、頭で考えていることを分かってしまう女子高生の物語。
なんというかな、とある場面、2か所ぐらいで、泣いてしまったよ。俺、なんつーかな、これまた表現が難しいけれど、嫌なこととか哀しいことって、結構慣れているから、あんまそういうので涙することないんだよな。だから、そういうんじゃない、何というか、あたたかいというか、切ないというか、きれいだというか、そんな感じで、泣いてしまったよ。
その記事にされていた方は、「さくって読めて面白い」って表現されていたけれど、僕はとても感動したね、うん。一気に読んでしまった。それがゆえに時間がないのか、なるほどな~(放心)。
感情という機能
なんというか、心の中の言葉と、実際に発言する言葉って、人間みんな違うわけじゃないか。そんな当たり前のことが、僕は結構重かったりつらかったりするんだよなぁと、ふと思った。
その主人公の女の子じゃないけれど、結構、他者の考えていること「分かる」んだよな。いや、「今頭に思い浮かべた数字を当ててみなさい」というのは違うけれど、喜怒哀楽的な簡単な感情から嫉妬とか憎しみとかちょっと発展した感情という話し。別に僕だけじゃなくて、誰でも分かることだ。何故なら、感情とは、そもそも、人が上手く生活を送るために脳がつくりだした機能だからだ。感情が、他者に一切伝わらないものだとしたら、それは、何ら役に立つ機能ではない。
何だっけ? また脱線したな。
ええと、あれだ、基本的に、このブログは、99.9%ぐらい、心の声を反映している。
リアルタイム筆記である。
0.1%というのは、タイピングスピードと思考とのラグだったり、文章表現と思考表現との違いだったりするけれども、基本的に、思い浮かべたことをありのままに記述しているつもりだ。もちろんそれでも、自分の知らない部分があるかもしれないから、100%そのまま表現できるなんてできないと思う。
ただ、僕がここで、楽しかった、と書けば、それは本当なのであり、無理して友達たちにあわせて、笑顔を作っていたりなんて、そんなことはないのだ。
優しい嘘、悪意のある嘘、それらにかかわらず、人は思ったことを口にしない。
その場で適切な振る舞いをする。当たり前だ、そうやって人は社会生活を送る。
仕事中めんどくせえとか言ってたら、速攻首だ!
と、言いながら、そもそも、その「めんどくせえ」とかいう感情だって、言語ラベリングされたものに過ぎない。
めんどくせえ、って、何? その面倒さって、ひたすら資料をコピーとるめんどくささと、お客さんに分かりやすい資料にするにはどうしたらいいんだろうと頭を悩ませるめんどうくささと、同じだろうか?
一言で面倒、といってしまうと、その機微が分からなくなる。
だから、感情言語は、非常にデリケートに扱った方がいい。
……とかいう話しの流れで、満足できればいいのだが、僕はさらに疑問になる。
デリケートに扱う? でもさ、感情って危機を避けるためにあるものでもあって、「これはこういう感情なのだろうか?」なんて考えていたら、危険回避に遅れてしまうかもしれない。
喜! 怒! 哀! 楽! と、明確に、単純に、自分を判断して行動した方が、よっぽど役に立つのではなかろうか。(特に生きるか死ぬかの戦闘において)
疲れた……
その、疲れたってのもそうだ。本当に疲れたのか? もっとやれるんじゃないか? もっと頑張れよ、ほら!
あーうるさいなぁ、もう。
今日は、クレジットカードの住所変更を行い、クリーニングを出したり、目薬を買ったり、生活費の口座間調整をしたりと、それなりに活動したじゃないか。いいじゃないか。
部屋のカオスさは広まってきているが……。
取りあえず、明日も予定があり早いし、今日はもうルーチンやって寝るとしよう。
そういや、ルーチンも続けられているな。次の壁は、3か月目あたりだろう。
あぁ、この記事面白くないだろうなぁ……。
今日の一言「よ、ようやく、目途がついてきた……ぜ。かはッ(吐血して倒れる)」
外部結合とか、グループ化とか、考え方が難しかったなぁ。それでいて、いざできあがると、え、こんな簡単でいいの? 的な感じである。これはきっと、誰か他のできる人にやってもらったら、「あーそういうものね」みたいに、あまり苦労せずにできてしまうことだろう。それがゆえに、苦労を知らないため、「本当の理解」に遠くなる。
この本当の理解というのは、もちろん、いつも書いているように、「実感」が伴うかどうか、というのもあるけれども、例えば単純な計算問題でもそうである。
四則演算は、現代日本人は、誰でもできる。しかし、3桁とか、5桁とか、単純に増えていったとき、絶対間違わずに、短時間で、正解することができるだろうか。
考え方は分かっている。ただし、「できる」かどうか分からない。この点を、よく銘記しておく必要がある。
往々にして、人がやっているのは、簡単なように思えるのだ。
映画だって、小説だって、受動的に見るのは簡単だけど、じゃあ自分が作れるか、となると、以前僕が「え、これ、ふざけてんの?」とこきおろした、紀元前1億年?だったか、そんなB級恐竜映画だって、いざ作ろうとしたらきっともっとひどいものになるだろう。
いや、それはお金をもらっているプロフェッショナル、なのだから、そんな品質が低いものじゃあだめだろうと、それはもちろんだ。
だが。どこまでもどこまでも品質をあげつづけること、コストダウンすることを求め続けて、いつまで続けるのだろうか。
お金は、それ自体が目的になりえる、不思議な性質をもっている。
お金を何に使うのか、という問題ではなく、お金を増やすことが、それ自体が正解、正しいこと、立派なことになっていくのである。
こんな書き方すると、否定したいのか、と思ってしまうが、そうではなくて、「終わりなき高品質化と低コスト化」の中で、自分の身を守れるのは、お金、でしかなくなるのである。
どういうことか?
つまり、労働が無価値だ、ということである。
え、言いすぎ? そう、いつもの、ちょっと極端なことを書いてから掘り下げていく方法である。
いや単純なことである。どこまでもどこまでも、頑張っても頑張っても、もっともっと、もっと良いものを、もっと安いものを、と求められ続けるのである。
どっかで、折り合いつけなきゃまずいんじゃないか、ということだ。
ところが、だ、すぐさま書いておかねばならないのは、基本的に、生か、死か、といった状況において、選択など殆どなされない。
必死に生にすがりついていくしかないのだ。
どこか、途中でやめて、楽しよう、なんて、そんな虫のいい話などないのだ。働け、働け。
どこか、この世界の構造、おかしくないかと。
いやいや、そんな暇はないのだよ、と仏教徒はいう。毒矢の、比喩である。恐ろしい毒矢で射られたとき、「この矢を打った奴の素性を、射った目的を、この矢の構成を……明らかにするまでは、手当などしてはならない」と言っていたら、たちどころに毒がまわって、死に至るだろう、と。
だから、考えても仕方がないことは、語るべきにあらず、と。
この世に目的はあるのか、この世は無限大なのか有限なのか、死後の世界はあるのか、無いのか。
――そんなことを考えている暇はない、と。今現に生きることを、正しい道を、正しいことをするのである、と。
僕は、その考えを、是、と思う。
ので、悩んだり、苦しんだり、悲しんだり、愁いたり、憎んだり、怒ったりすることは、基本的に「エラー」だと思っている。
ですがね。
果たして人はそう簡単に仏の教えを実践できるのでしょうか、と。
注意すべきは、シッダールタさん的にも、怒りや、憎しみを全くないものにするとか、その感情自体を認めないとか、そういうことではないのだ。
ただ、そこに「囚われてはいけない」というのである。
無為なる境地。常に心のジャイロスコープをもて、と。
しかしながら。恐れながら申し上げるに、「正しい道」を追い求めるのも、またそれは、「涅槃」という境地に執着していることになるのである。
ゆえに、仏の教えの実践とは、自己の禊ぎである。自分というものを、少しずつ少しずつ削って、削って、磨いて、磨いていくものである。
あーうん。
しかしあれだな、「仏の教え」とか書いていると、ものすごーく宗教くさくなるな、いや、まぁ宗教なんだが、しかしだな、宗教って何だといえば、道徳とか、資本主義とか、そこらへんのイデオロギーとか「概念」ってものと、ほとんど変わらないんだ、ということを、どうにもあまり、他者は理解しない(というより、どうやらできないのではないかと最近傲慢にも思ってしまっている)のである。
まぁ、それは、別に否定するべきことではなくて、結局、それが真実であろうがなかろうが、「物理的世界において役に立つか立たないか」そこが多くの人にとってのポイントなのである。
いや僕ももちろんそうだ。
そうなんだ、けどさ……。
ああ、実質、10時間以上は作業していたなぁ。これ、家族とか恋人とか友人とかいたら、絶対できないな。あいつ何やってんだ? となる。
それでいて、成果物も、見かけ上(使う人)的には、あまり大きな変化はない。
立派な家が建っていても、その内部構造がどれだけ力を入れられているか、というよりかは、システムキッチンとか、内装とかの方が住む人にとって重要事項になりえる。
だから、誰かに「すごいね!」と言ってもらうためにやっていては、とても身がもたない、と思った。
ああ、そう、だから、「高品質低コスト」問題を書きたくなったのだろう。終わりなき欲求。要望。
自己肯定感。満足感。充足感。
言い換えると、自己満足、となる。
趣味、とは究極の自己満足なのだろうか。
うん、何だか、書いてること支離滅裂化している、よしもうやめよう。しかし、今日は頑張った。精一杯やった、と認めてあげよう。
食事もほとんど取らず、部屋もひどいことになってきたが、うん……。
これが、もう少し、平日も時間を取れるなら、バランスよく時間配分するものだが、今日がほんと勝負だったからなぁ。
しかし、小説の方は全く進められなかった。他の方から、メッセージなど頂いているが、返信することもできなかった。
いや、お前、その優先順位どうなのよ?
そうなんだよ、これだよこれ、まさにその、優先順位問題。
普段人と接していると、この問題が常に重要な問題になり、というのは……、ああ、もう今日は終わり。肩も目も腰も痛くなってきた……。ルーチンやって寝よう。
SQLの勉強不足が身に染みた
今回の改修工事は、PHPのプログラミングというよりかは、データベースの取り扱いで四苦八苦した気がする。外部結合とか、グループ化とか、考え方が難しかったなぁ。それでいて、いざできあがると、え、こんな簡単でいいの? 的な感じである。これはきっと、誰か他のできる人にやってもらったら、「あーそういうものね」みたいに、あまり苦労せずにできてしまうことだろう。それがゆえに、苦労を知らないため、「本当の理解」に遠くなる。
この本当の理解というのは、もちろん、いつも書いているように、「実感」が伴うかどうか、というのもあるけれども、例えば単純な計算問題でもそうである。
四則演算は、現代日本人は、誰でもできる。しかし、3桁とか、5桁とか、単純に増えていったとき、絶対間違わずに、短時間で、正解することができるだろうか。
考え方は分かっている。ただし、「できる」かどうか分からない。この点を、よく銘記しておく必要がある。
往々にして、人がやっているのは、簡単なように思えるのだ。
映画だって、小説だって、受動的に見るのは簡単だけど、じゃあ自分が作れるか、となると、以前僕が「え、これ、ふざけてんの?」とこきおろした、紀元前1億年?だったか、そんなB級恐竜映画だって、いざ作ろうとしたらきっともっとひどいものになるだろう。
いや、それはお金をもらっているプロフェッショナル、なのだから、そんな品質が低いものじゃあだめだろうと、それはもちろんだ。
だが。どこまでもどこまでも品質をあげつづけること、コストダウンすることを求め続けて、いつまで続けるのだろうか。
終わりなき欲望
ここで、「お金」とか、「資本」というものの重要性が出現する。嘘喰い、とか、カイジ(カイジは殆ど読んだことも見たこともないのだが)とか、闇金ウシジマくんとか、何かでも触れられていることである。お金は、それ自体が目的になりえる、不思議な性質をもっている。
お金を何に使うのか、という問題ではなく、お金を増やすことが、それ自体が正解、正しいこと、立派なことになっていくのである。
こんな書き方すると、否定したいのか、と思ってしまうが、そうではなくて、「終わりなき高品質化と低コスト化」の中で、自分の身を守れるのは、お金、でしかなくなるのである。
どういうことか?
つまり、労働が無価値だ、ということである。
え、言いすぎ? そう、いつもの、ちょっと極端なことを書いてから掘り下げていく方法である。
いや単純なことである。どこまでもどこまでも、頑張っても頑張っても、もっともっと、もっと良いものを、もっと安いものを、と求められ続けるのである。
どっかで、折り合いつけなきゃまずいんじゃないか、ということだ。
ところが、だ、すぐさま書いておかねばならないのは、基本的に、生か、死か、といった状況において、選択など殆どなされない。
必死に生にすがりついていくしかないのだ。
どこか、途中でやめて、楽しよう、なんて、そんな虫のいい話などないのだ。働け、働け。
考えるべきこと
奇妙な違和感がある。どこか、この世界の構造、おかしくないかと。
いやいや、そんな暇はないのだよ、と仏教徒はいう。毒矢の、比喩である。恐ろしい毒矢で射られたとき、「この矢を打った奴の素性を、射った目的を、この矢の構成を……明らかにするまでは、手当などしてはならない」と言っていたら、たちどころに毒がまわって、死に至るだろう、と。
だから、考えても仕方がないことは、語るべきにあらず、と。
この世に目的はあるのか、この世は無限大なのか有限なのか、死後の世界はあるのか、無いのか。
――そんなことを考えている暇はない、と。今現に生きることを、正しい道を、正しいことをするのである、と。
僕は、その考えを、是、と思う。
ので、悩んだり、苦しんだり、悲しんだり、愁いたり、憎んだり、怒ったりすることは、基本的に「エラー」だと思っている。
ですがね。
果たして人はそう簡単に仏の教えを実践できるのでしょうか、と。
注意すべきは、シッダールタさん的にも、怒りや、憎しみを全くないものにするとか、その感情自体を認めないとか、そういうことではないのだ。
ただ、そこに「囚われてはいけない」というのである。
無為なる境地。常に心のジャイロスコープをもて、と。
囚われてはいけないことと成すべきこと
OKそうやな。マイナスの感情にとらわれちゃあいかんよな。明日から仕事だろうが、そんな憂鬱な気分なんてふっとばしゃあやろうじゃないきゃあ!しかしながら。恐れながら申し上げるに、「正しい道」を追い求めるのも、またそれは、「涅槃」という境地に執着していることになるのである。
ゆえに、仏の教えの実践とは、自己の禊ぎである。自分というものを、少しずつ少しずつ削って、削って、磨いて、磨いていくものである。
あーうん。
しかしあれだな、「仏の教え」とか書いていると、ものすごーく宗教くさくなるな、いや、まぁ宗教なんだが、しかしだな、宗教って何だといえば、道徳とか、資本主義とか、そこらへんのイデオロギーとか「概念」ってものと、ほとんど変わらないんだ、ということを、どうにもあまり、他者は理解しない(というより、どうやらできないのではないかと最近傲慢にも思ってしまっている)のである。
まぁ、それは、別に否定するべきことではなくて、結局、それが真実であろうがなかろうが、「物理的世界において役に立つか立たないか」そこが多くの人にとってのポイントなのである。
いや僕ももちろんそうだ。
そうなんだ、けどさ……。
フルスロットルの後に
と、もう少し余裕があれば、じっくり考える時間ももてたろうに、もう24時をまわっている。ああ、実質、10時間以上は作業していたなぁ。これ、家族とか恋人とか友人とかいたら、絶対できないな。あいつ何やってんだ? となる。
それでいて、成果物も、見かけ上(使う人)的には、あまり大きな変化はない。
立派な家が建っていても、その内部構造がどれだけ力を入れられているか、というよりかは、システムキッチンとか、内装とかの方が住む人にとって重要事項になりえる。
だから、誰かに「すごいね!」と言ってもらうためにやっていては、とても身がもたない、と思った。
ああ、そう、だから、「高品質低コスト」問題を書きたくなったのだろう。終わりなき欲求。要望。
自己肯定感。満足感。充足感。
言い換えると、自己満足、となる。
趣味、とは究極の自己満足なのだろうか。
うん、何だか、書いてること支離滅裂化している、よしもうやめよう。しかし、今日は頑張った。精一杯やった、と認めてあげよう。
食事もほとんど取らず、部屋もひどいことになってきたが、うん……。
これが、もう少し、平日も時間を取れるなら、バランスよく時間配分するものだが、今日がほんと勝負だったからなぁ。
しかし、小説の方は全く進められなかった。他の方から、メッセージなど頂いているが、返信することもできなかった。
いや、お前、その優先順位どうなのよ?
そうなんだよ、これだよこれ、まさにその、優先順位問題。
普段人と接していると、この問題が常に重要な問題になり、というのは……、ああ、もう今日は終わり。肩も目も腰も痛くなってきた……。ルーチンやって寝よう。
