今日の一言「2016年、残りで何を成そうか」
もう天変地異的に、どうしようもねーや、的なことには、ストレスを感じようがない。「もうちょっと頑張ればできた」的な感覚が、余計人を惨めにさせる。
全能感という言葉もある。特別な自分、特別な私、みたいな。子どもの頃は、皆自分が世界で立って一人の価値ある人間だと思っている。それが、まぁ、いろんな体験をすることで、そんなことはないなと気付いていくものだけれども、何事にも真剣に慣れない人は、いつまでもその全能感を持ち続けることもあるという。
本気で勉強しない。本気で恋愛しない。本気で頑張らない。
でも、いざとなって、やろうと思えばできるんだ。やればできる子なんだ、と。ずっとそう思い続けて、20代、30代、40代、50代、60代、70代、ええと、いつやるんだい? と。
まぁそんなに歳をとらなくても、大抵は、どっかで挫折する。
そして、その気付くのが遅ければ遅いほど、ダメージは大きいし、立ち直れなくなったりする。
どんな高性能のスポーツカーでも、ガソリンなきゃ走れないっしょや。というのも、思う。
いやお前はスポーツカーでも高級車でも大衆車ですらねーよ、とかいうのは、まぁ例えの話しだから重要ではない。人間の価値って、何で図る? 点数をつけられる? ノルマって何?
かといって、すぐさま思ってしまうのは、堕落した人生ってのも如何かと思うし、……例えば、2000万円とか親族に借りてまでギャンブルにのめり込む人とか、本当にいるらしいが、正直救いようのない愚か者だと思ってしまう。
いやいや、こんな記事を書いてしまう時点で、お前も愚か者だよ、英単語の一つでも覚える時間に使えよアホ、となるから、先日の記事のとおり、やっぱり、他者との比較って、本当につまらねえなぁと思う。
70億人の中の、一人に過ぎない。自分のできることなんて、他にたくさんできる人がいる。専門性を鍛えなければと、教育社会学者の方は仰っているが、しかし、その方策で救われる人がどれほどいるのか。
それに対しての僕の以前書いた答えを思い出してみよう。
それは確かに、プログラムが少し書けるとか、ピアノが少し弾けるとか、タイピングがちょっと速いとか、そんなの小学生の部でだって優勝はできないだろう。しかし、それを複合的にからめていけば、走って泳いで歩いてみたいなトライアスロン的な競技にしたら、少しはまともに戦えるんじゃなかろうか、と。
でも、時代の要請は、そんなマルチな人間でなく、職人が必要だとされる。エンプロイアビリティーとか。雇用される能力。うっせーハゲ、めんどくせーよ。
それはともかく、もう一つ、答えを思い出してみよう。
それは、ニッチなコミュニティーで自己有能感を得る、というものだ。
ニッチとか流行りの言葉を使ってしまったが、僕自身の言葉としては、「ローカルコミュニティ」となる。
それは別に、知り合いの間で、ということではなくても、とあるグローバルではないコミュニティにおいて、「役に立つ人間」という立ち位置を保持し、頑張りを再生産していくという方策だ。
これは意外に応用のきくものである。いじめられた子どもたちも、決して、そのコミュニティが絶対的なものなんかじゃない、ということは、気付いて欲しいと思う。そういう意味で、いじめは、環境(親や教師や学校組織や教育委員会や政治や行政やその他全部ひっくるめろ)が重要なのだ。当事者だけで解決なんて基本的にできないと思っていい。
朝のホームルームで先生が、「いじめよくない! ダメ絶対!」とかいっても、裏サイトとかまでいかなくても、まぁ、効果は薄いだろうことは目に見えている。
つーか、いじめって、殴るけるとかそういう問題だけじゃない。感じ方の問題ってのもある。
だから、そのグループ、組織が居心地がいいかどうか、それが重要だということだ。
転校繰り返しても、毎回いじめられるのであれば、それは何らか事情がある。
原発の影響でいじめられた、というのであれば、そりゃあもう本人にどうしようもない部分があるにせよ、本人のいじめられる素質・問題、というのを、完全に無視していいものではない。
いじめられっ子、というと、陰気で無口で運動もできなければ勉強もできない、というステロタイプイメージが醸成されるが、そうとも限らない。いわゆる「うぜーやつ」ってのもいる。
スクールカースト、とか、くっせぇ言葉だって生まれるこの現代、狂ってると感じてしまうほどである。
と、ああ、書いていて気分がよくないな。しかし、このループ的な感覚……。
つまり、「答え」が無い、という感覚。
これの表現であることを、果たして未来の自分は読み取れるだろうか。
それが正解かどうか。判断できる人は誰もいない。唯一いるとしたら、俺、なのだけれども、その僕が迷っているからたちが悪い。
さぁ、では明日はどうか。
できるだけ残業をせずに、さっさと家に帰ってきて、創作や読書をする時間を、一分一秒でも多く取れることが正解か?
よく分からない。
何が正解だ?
誰か教えて欲しい。
仕事でお金を稼ぐのが正解?
コミュニケーションをとって、忘年会に出席してニコニコしているのが正解?
すげー、むなしいよ。
そんな中で、こういった記事とか、過去のログとかは、まぁ、あってよかったな、と思えるわけだ。
先日着手したサイトとかも、形に残ってるし、使ってくれる方々もいることが、単純にうれしい。
えー、でもそれだと、仕事だって、同じじゃないの? お客さんとか、同僚とか、上司とかその他たくさんの人たちの関係の中で、認められたリ、怒られたり、褒められたリお礼を言われたり、いろいろあるんじゃないの?
その中で、資本主義社会で最も価値があるとされるお金も与えられるのだから、もっとそれに注力したら?
そうなんだけど……。
まぁ、いいんだ、それはそれで、いい。別にがんばらないとか言ってるわけじゃない。
ただな、昨今、思うのは、結局、僕が10代ぐらいから問題視してた問題、悩んでいた、苦しんでいた問題に対しての対応って、なんもしてないんじゃないの、ってことだ。
恥ずかしいことである。全くその通り、そう思う。だから誰にも相談できないし、しようとも思わない。
それどころか、最近ますます、他者に相談することの無意味性を強く思うようにすらなってきている。これはよくない。
ある精神科医さんのブログとか、よい記事を読んで、気持ちを落ち着けなければならない。
一方で、くっだらない自己啓発的な表現とか本とかネット記事とかで散乱してるのは、「自分の頭で考えろ!」とか、主体性をもって取り組めとか、まぁそんな感じの言葉たち。
「もともと特別なオンリーワン♪」
とか言ってるのと同じレベルに低俗である。
(といいつつ、僕は槇原さんの音楽は好きである)
え、何故自分で考える、ということがバカらしいのかって?
まず、第一に、僕はずっとそれしかやってこなかった。今更言われるまでもないというのが一点。
もう一つは、そもそも、「自分」って概念が未定義であって、じゃあ、「自分で考えろ」という言葉に感銘受けて考え始めたら、それってそもそも自分で考えてないんじゃないの、とかいう天邪鬼というか屁理屈的なことを持ち出すまでもなく、人間相互に依存し関連しあってるのだし、言語表現自体の限界性だってあるのだから、「自分で考える」というのは、甚だアドバイスとしては無責任に過ぎない。
自分で考えろ、というアドバイスは、結局、この多様化した社会において、明確な単一の答え、真理が無いことの示唆である。こうしたら成功する、という図式がなくなっているのだ。いい学校に入ったらいい会社に入れて、いい会社には入れたらお金をたくさんもらえて出世して結婚して子供ができて……なんて、今誰も信じられなくなっているのだ。
だから、「自分で考えて、自分が正しいと思う道を探し、それに向けて努力してがんばれよ!」と投げ出すのである。
しかし、むしろ逆に、そういった、「こうしろああしろ!」と、批判もたくさんありながら、はっきり明確に言うような人が、逆に求められてきていたりする。
どこかの国のリーダーが熱烈に支持されたのも、それが一つの要因だと僕は思う。
使い古されたロジックだろうけれど、自由からの逃走、エーリッヒフロムさんのおっしゃる、まぁ、自由って結構辛いんですよね、というものだ。
最近読んでいるサピエンス全史の、農耕社会ってストレス多いし狩猟採集社会より実はつらいんですよね。まぁ数は繁殖しましたが。的な感じ。
結局、自分で考えるしかないわけだ。
残業もほどほどにダッシュで帰ってきて、何をするかといえば、日々のルーチンプラスで、こんな何の役にも立たないような記事を書いているわけですよ。
でも僕は、思う。
確かに、この記事自体に、何ら価値はないのだろうけれども、これは、プラス何時間か残業して、まぁその分残業代はでるかもしれないが(サービス残業になるかもしれないが)、それよりも価値があることだと、思う(いや思いたい)。
仕事が生きがい、という生き方を否定する気は毛頭ない。
ただ同時に、それが絶対的な真理だ、と、自信をもって言えるかというと、それもまた自信がない。
答えはでないかもしれない。
無駄かもしれない。
恥ずかしいかもしれない。
でも僕は、もう少し書き続けるよ。「きもい」「あほなんじゃない?」というコメントがあったとしても、それはとても悲しいと思うけれど、でも、これをやめてしまって、まぁ仕事とか婚活とかに打ち込んで、頑張ったとして、俺は、60歳、70歳、80歳ぐらいになって、さぁそろそろ死にますよ、となったときに、自信をもって、「あのとき、こうして考えることをやめてよかった」と思えるとは、残念ながら思えない。
取りあえず、銘記しておくべきは、このままじゃいかん、ということだ。
極端を承知で書いておけば、自殺するにしても、結婚するにしても、子どもつくるにしても、仕事やめるにしても、仕事がんばるにしても、副業するにしても、起業するにしても、何も変わらずこのままいくにしても……、どの道を選ぶにしても、このままではいけない。
思考が足りない。
インプットが足りない。
ということで、今年残りの目標は、サピエンス全史、上下巻の読了としよう。
それだけでは、数値目標になっていないから(そもそも、数値化できないと目標とはいわない)、当該書籍に対するブログ記事を、そうさな、全部で20章あるから、その半分の、10記事書く、ということにしよう。
もちろん、ルーチンは引き続きがんばろう。
(本来、最後の数行だけで本記事タイトルは満たせているのだけれども、ここに辿り着くまでの思考過程が長い。しかも、一度立てた目標は非常にもろいので、数日はよくメンテナンス(インプット)してやって、補強する必要があるというのが、凡人であるなぁという証左)
ストレス社会である
自分で何とかコントロールできる範囲のことの方が、ストレスを感じるという。もう天変地異的に、どうしようもねーや、的なことには、ストレスを感じようがない。「もうちょっと頑張ればできた」的な感覚が、余計人を惨めにさせる。
全能感という言葉もある。特別な自分、特別な私、みたいな。子どもの頃は、皆自分が世界で立って一人の価値ある人間だと思っている。それが、まぁ、いろんな体験をすることで、そんなことはないなと気付いていくものだけれども、何事にも真剣に慣れない人は、いつまでもその全能感を持ち続けることもあるという。
本気で勉強しない。本気で恋愛しない。本気で頑張らない。
でも、いざとなって、やろうと思えばできるんだ。やればできる子なんだ、と。ずっとそう思い続けて、20代、30代、40代、50代、60代、70代、ええと、いつやるんだい? と。
まぁそんなに歳をとらなくても、大抵は、どっかで挫折する。
そして、その気付くのが遅ければ遅いほど、ダメージは大きいし、立ち直れなくなったりする。
燃料なきゃ只の鉄の塊
でもさ、俺は最近少し思った。高速道路を100km/hでる軽自動車で、フルスロットルアクセルべた踏みで走り続けるよりも、一般道を60km/hぐらいでまったり走るのだっていいんじゃなかろうか。ベンツとかリッターバイクなら別だろうが、フルフルぎりぎり精一杯やる必要があるのか。いやむしろ、高級車とかSSバイクだと、100km/hが逆にたるい、と思うかもしれない。そしたら、それなりのステージで頑張って頂ければいいじゃないか。どんな高性能のスポーツカーでも、ガソリンなきゃ走れないっしょや。というのも、思う。
いやお前はスポーツカーでも高級車でも大衆車ですらねーよ、とかいうのは、まぁ例えの話しだから重要ではない。人間の価値って、何で図る? 点数をつけられる? ノルマって何?
かといって、すぐさま思ってしまうのは、堕落した人生ってのも如何かと思うし、……例えば、2000万円とか親族に借りてまでギャンブルにのめり込む人とか、本当にいるらしいが、正直救いようのない愚か者だと思ってしまう。
いやいや、こんな記事を書いてしまう時点で、お前も愚か者だよ、英単語の一つでも覚える時間に使えよアホ、となるから、先日の記事のとおり、やっぱり、他者との比較って、本当につまらねえなぁと思う。
生存戦略
かといって、すぐさま思ってしまうのは、特別なオンリーワン、なんてありえねーという感覚。最初に戻るけれど、結局、全能感なんてありゃしないのだ。70億人の中の、一人に過ぎない。自分のできることなんて、他にたくさんできる人がいる。専門性を鍛えなければと、教育社会学者の方は仰っているが、しかし、その方策で救われる人がどれほどいるのか。
それに対しての僕の以前書いた答えを思い出してみよう。
それは確かに、プログラムが少し書けるとか、ピアノが少し弾けるとか、タイピングがちょっと速いとか、そんなの小学生の部でだって優勝はできないだろう。しかし、それを複合的にからめていけば、走って泳いで歩いてみたいなトライアスロン的な競技にしたら、少しはまともに戦えるんじゃなかろうか、と。
でも、時代の要請は、そんなマルチな人間でなく、職人が必要だとされる。エンプロイアビリティーとか。雇用される能力。うっせーハゲ、めんどくせーよ。
それはともかく、もう一つ、答えを思い出してみよう。
それは、ニッチなコミュニティーで自己有能感を得る、というものだ。
ニッチとか流行りの言葉を使ってしまったが、僕自身の言葉としては、「ローカルコミュニティ」となる。
それは別に、知り合いの間で、ということではなくても、とあるグローバルではないコミュニティにおいて、「役に立つ人間」という立ち位置を保持し、頑張りを再生産していくという方策だ。
これは意外に応用のきくものである。いじめられた子どもたちも、決して、そのコミュニティが絶対的なものなんかじゃない、ということは、気付いて欲しいと思う。そういう意味で、いじめは、環境(親や教師や学校組織や教育委員会や政治や行政やその他全部ひっくるめろ)が重要なのだ。当事者だけで解決なんて基本的にできないと思っていい。
朝のホームルームで先生が、「いじめよくない! ダメ絶対!」とかいっても、裏サイトとかまでいかなくても、まぁ、効果は薄いだろうことは目に見えている。
つーか、いじめって、殴るけるとかそういう問題だけじゃない。感じ方の問題ってのもある。
だから、そのグループ、組織が居心地がいいかどうか、それが重要だということだ。
かといって社会性も重要
といいつつも、じゃあ、とっかえひっかえ周りの環境を変えていけばいいのか、というのもまた否である。転校繰り返しても、毎回いじめられるのであれば、それは何らか事情がある。
原発の影響でいじめられた、というのであれば、そりゃあもう本人にどうしようもない部分があるにせよ、本人のいじめられる素質・問題、というのを、完全に無視していいものではない。
いじめられっ子、というと、陰気で無口で運動もできなければ勉強もできない、というステロタイプイメージが醸成されるが、そうとも限らない。いわゆる「うぜーやつ」ってのもいる。
スクールカースト、とか、くっせぇ言葉だって生まれるこの現代、狂ってると感じてしまうほどである。
と、ああ、書いていて気分がよくないな。しかし、このループ的な感覚……。
つまり、「答え」が無い、という感覚。
これの表現であることを、果たして未来の自分は読み取れるだろうか。
答えの無さ
取りあえず、今日は、仕事にきりをつけて、もうここまでやったから終わり! と半ば逃げ出すように帰ってきた。もう精神的に苛々して仕方がなかった。それが正解かどうか。判断できる人は誰もいない。唯一いるとしたら、俺、なのだけれども、その僕が迷っているからたちが悪い。
さぁ、では明日はどうか。
できるだけ残業をせずに、さっさと家に帰ってきて、創作や読書をする時間を、一分一秒でも多く取れることが正解か?
よく分からない。
何が正解だ?
誰か教えて欲しい。
仕事でお金を稼ぐのが正解?
コミュニケーションをとって、忘年会に出席してニコニコしているのが正解?
すげー、むなしいよ。
虚しさの中に
何だか、同じことするのに、MP(精神ポイント)の消費量が多くなってる気がする。そんな中で、こういった記事とか、過去のログとかは、まぁ、あってよかったな、と思えるわけだ。
先日着手したサイトとかも、形に残ってるし、使ってくれる方々もいることが、単純にうれしい。
えー、でもそれだと、仕事だって、同じじゃないの? お客さんとか、同僚とか、上司とかその他たくさんの人たちの関係の中で、認められたリ、怒られたり、褒められたリお礼を言われたり、いろいろあるんじゃないの?
その中で、資本主義社会で最も価値があるとされるお金も与えられるのだから、もっとそれに注力したら?
そうなんだけど……。
まぁ、いいんだ、それはそれで、いい。別にがんばらないとか言ってるわけじゃない。
ただな、昨今、思うのは、結局、僕が10代ぐらいから問題視してた問題、悩んでいた、苦しんでいた問題に対しての対応って、なんもしてないんじゃないの、ってことだ。
何で生きるのか?
バカらしい問いだよ。お前、いくつになってそんなこと言ってるの? アホちゃう?恥ずかしいことである。全くその通り、そう思う。だから誰にも相談できないし、しようとも思わない。
それどころか、最近ますます、他者に相談することの無意味性を強く思うようにすらなってきている。これはよくない。
ある精神科医さんのブログとか、よい記事を読んで、気持ちを落ち着けなければならない。
一方で、くっだらない自己啓発的な表現とか本とかネット記事とかで散乱してるのは、「自分の頭で考えろ!」とか、主体性をもって取り組めとか、まぁそんな感じの言葉たち。
「もともと特別なオンリーワン♪」
とか言ってるのと同じレベルに低俗である。
(といいつつ、僕は槇原さんの音楽は好きである)
え、何故自分で考える、ということがバカらしいのかって?
まず、第一に、僕はずっとそれしかやってこなかった。今更言われるまでもないというのが一点。
もう一つは、そもそも、「自分」って概念が未定義であって、じゃあ、「自分で考えろ」という言葉に感銘受けて考え始めたら、それってそもそも自分で考えてないんじゃないの、とかいう天邪鬼というか屁理屈的なことを持ち出すまでもなく、人間相互に依存し関連しあってるのだし、言語表現自体の限界性だってあるのだから、「自分で考える」というのは、甚だアドバイスとしては無責任に過ぎない。
自分で考えろ、というアドバイスは、結局、この多様化した社会において、明確な単一の答え、真理が無いことの示唆である。こうしたら成功する、という図式がなくなっているのだ。いい学校に入ったらいい会社に入れて、いい会社には入れたらお金をたくさんもらえて出世して結婚して子供ができて……なんて、今誰も信じられなくなっているのだ。
だから、「自分で考えて、自分が正しいと思う道を探し、それに向けて努力してがんばれよ!」と投げ出すのである。
アメリカ大統領のリーダーシップ
大抵の散乱する記事群は、そんなんばっかである。まともなアドバイスってのをついぞ最近みたことない。いや、あるっちゃあ、ある。ただそれは逆に、「いや、それってあなたの特殊な事情による場合に過ぎないんじゃ……」という、いわゆる断定、決めつけ的なものだったりする。しかし、むしろ逆に、そういった、「こうしろああしろ!」と、批判もたくさんありながら、はっきり明確に言うような人が、逆に求められてきていたりする。
どこかの国のリーダーが熱烈に支持されたのも、それが一つの要因だと僕は思う。
使い古されたロジックだろうけれど、自由からの逃走、エーリッヒフロムさんのおっしゃる、まぁ、自由って結構辛いんですよね、というものだ。
最近読んでいるサピエンス全史の、農耕社会ってストレス多いし狩猟採集社会より実はつらいんですよね。まぁ数は繁殖しましたが。的な感じ。
自分の人生
まぁ、だからね。結局、自分で考えるしかないわけだ。
残業もほどほどにダッシュで帰ってきて、何をするかといえば、日々のルーチンプラスで、こんな何の役にも立たないような記事を書いているわけですよ。
でも僕は、思う。
確かに、この記事自体に、何ら価値はないのだろうけれども、これは、プラス何時間か残業して、まぁその分残業代はでるかもしれないが(サービス残業になるかもしれないが)、それよりも価値があることだと、思う(いや思いたい)。
仕事が生きがい、という生き方を否定する気は毛頭ない。
ただ同時に、それが絶対的な真理だ、と、自信をもって言えるかというと、それもまた自信がない。
答えはでないかもしれない。
無駄かもしれない。
恥ずかしいかもしれない。
でも僕は、もう少し書き続けるよ。「きもい」「あほなんじゃない?」というコメントがあったとしても、それはとても悲しいと思うけれど、でも、これをやめてしまって、まぁ仕事とか婚活とかに打ち込んで、頑張ったとして、俺は、60歳、70歳、80歳ぐらいになって、さぁそろそろ死にますよ、となったときに、自信をもって、「あのとき、こうして考えることをやめてよかった」と思えるとは、残念ながら思えない。
取りあえず、銘記しておくべきは、このままじゃいかん、ということだ。
極端を承知で書いておけば、自殺するにしても、結婚するにしても、子どもつくるにしても、仕事やめるにしても、仕事がんばるにしても、副業するにしても、起業するにしても、何も変わらずこのままいくにしても……、どの道を選ぶにしても、このままではいけない。
思考が足りない。
インプットが足りない。
ということで、今年残りの目標は、サピエンス全史、上下巻の読了としよう。
それだけでは、数値目標になっていないから(そもそも、数値化できないと目標とはいわない)、当該書籍に対するブログ記事を、そうさな、全部で20章あるから、その半分の、10記事書く、ということにしよう。
もちろん、ルーチンは引き続きがんばろう。
(本来、最後の数行だけで本記事タイトルは満たせているのだけれども、ここに辿り着くまでの思考過程が長い。しかも、一度立てた目標は非常にもろいので、数日はよくメンテナンス(インプット)してやって、補強する必要があるというのが、凡人であるなぁという証左)
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