物語の必要性
前回の記事で、「創作」と「実生活」をテーマに書きなさいと御達しがあった。しかし、いきなりそんな重いテーマで書くと、面白くなくて筆が止まってしまうので、過去の記事を流し読んでいた。そうしたら、下の記事。
2018年6月6日の記事
「現実が満たされたら二次元は不要なのか」
というタイトルだが、まさに前回の記事と関連する内容だった。もう3か月も前の記事である。そうか、こんなこと、俺は書いていたんだなぁという、この感覚って非常に大事である。何が大事かは良く表現できないが、これは日記やブログを書く利点の一つであるといえる。
さて、しかし、その記事の内容よりも気になったのは、その記事の翌日に書かれた記事において、「あー前回(6月6日)の記事、めっちゃつまらんかったな」と書いてあったことである。
今の僕としては、「え、いや、そんなつまらないというほどではなかったよ?」といった感想である。ただ、その時の僕は、きっと「つまらない」と感じたのだろう。
ここから言えることは、もはや、自分の記事でさえも、適切な評価ができていないということの証左である。
ましてや、他者の描く物語に対して、一定した評価など、ありえることなのだろうか。つまり、普遍的な物語など存在しない。
「面白い」
という感情は、非常に偶発的で、一時的で、奇跡的なものですらあるのだ。
だから。
自分でも「創作する」という観点を忘れてはならないと思うのである。
成功体験と無気力について
とはいえ。すべては偶然の産物である、とするのは、あまりにも運命論的に過ぎる。
自分の行動が何ら自分の環境に影響しないのならば、無気力になるのも時間の問題だ。心理学でいう学習性無気力。
そのためには、成功体験が必要だ。
これは、ゼロをイチにすることである。
これが、最大に難しいことだ。
卑近な例を挙げてみる。
ある童貞がいたとする。ある童貞は、彼女が欲しかった。しかし、彼女ができたことは、未だかつてなかった。(例が童貞である必要は全くなかったことに途中で気づくが書き続ける)
彼は努力をする。彼女を作るために、服飾にも気をつかい、様々な出会いの場にでかけ、コミュニケーション力を培い、失敗を繰り返しながら学んでいく。
その努力は、それだけで尊いだろう。
が、その結果、「うまくいった」or「うまくいかなかった」となったとき、その「努力」に対しての自分の感じ方が、大きく異なるのである。
適切な努力の量で、適切な結果が得られるべきである。
努力の甲斐なく、彼に彼女ができなかったとする。だが、それは一つの結果に過ぎない。
ただ、彼の中で、これまで一度も彼女ができたことがなかったとしたら、彼は、「今後も」自分には彼女はできないだろうという諦念が生ずるのである。
異性を例に挙げたが、ミュージシャンでも、仕事の出世でも、対人関係(友達づくり)でも、なんでも当てはまるケースだ。
成功体験がなくして、自分の実力や行動を信じられる人はいない。
とはいえ。
すべての、限りある人生の中で、すべての体験をするなど不可能である。
だから、一つの成功体験を、連続した道筋として、自分の思考と納得感の中で紐づけられることが重要なのである。(それが物語だ、と書きたいが、飛躍するので我慢)
上の例の彼が、たとえ、努力むなしく彼女ができなかったとしよう。しかし、女の子とおしゃべりして、一度だけでもデートに誘うことはできた。おめでとう!! それで十分だ!
当初の目標からしたら、到底合格点には及ばない。しかし、一つの成果があれば、それを次の成果に結びつくだろうという「希望」を得て、次なる行動につなげることができるのだ。
しかし、今「希望」という言葉を使ったが、これは当然、「納得感」が重要である。
デートには誘えた、でも告白したら失敗した……という同じ結果であろうが、それを、「今度は別の子ならうまくいくかも!」と思えるか、もしくは「やっぱり自分はどう頑張っても無理なんだ」と諦めるかは、「納得感」によってしまう。
ここで、下手な慰めなど、何ら役には立たないことを肝に銘じておく必要がある。
言葉は時に絶大な影響をもつが、潜在する、内在する「感情」や「信念」は、非常に頑強なのである。
ネガティブな人を立ち直らせるには
失敗を繰り返した人は、単に運が悪かっただけかもしれない。環境があってなかっただけかもしれない。
その可能性がゼロではないから、「あきらめるな」「死んではいけない」という掛け声は、どんな場合や状況でも「正解」である。
ただ、諦めというのも、時に「薬」になるし、「死」という概念も、時に救いであることもある。
ただ、そんなことを、誰彼に言うべきではない。「大丈夫、きっと生きていてよかったって思える日がきっとくるから」とでも言っておけばいい。
俺は冷酷な人間なのだろうか。
本心をひた隠して、明るく振る舞うだけのサイコパスなのだろうか。
どうでもいい。
他者にどう見られたいかということや、「いい人」であることは、若いころはともかく、興味をもつ必要はない。
どうしたら、適切に自分の思いを伝えられるか。
どうしたら、適切に相手の思いを理解できるか。
インプットとアウトプットの方法を鍛えるだけである。
相手にどうみられるかは、結果に過ぎない。それも偶発的で、不確定な。
もちろん結果を受け止めなければ次はない。
ただ、その結果をどう理解し、繋げるかというのは、結局至極単純、自分のストーリーなのである。
小見出しのネガティブ云々と関連がなくなってしまった。
ただ、大事なのは、そのネガ人を、自分が本当に明るくさせたいか、ということだと思う。
別に、ネガティブだって悪くなかろう。
そういう個性なんじゃないか、って思ってるのなら、そもそもそんなの問題じゃない。
だから、「ネガティブな人を立ち直らせるためには」という問題の立て方がそもそも間違っている。
実生活について
や、ばい。パソコンになると、ある程度インプット、アウトプットする時間ができると、本当にどんどん長くなる。実りがないことをどんどん書きたくなってしまう。
これは、普段生活していて生じた思念が、アウトプットできずに自分の中に渦巻いているからなんだと思う。
んじゃー、実生活の周りの人にしゃべればいいじゃん、と、普通は誰しも思うだろう。
それは、やってはならん。
みんな忙しいんだよ。そんなぐだぐだした話に付き合ってられんのじゃ。
彼女がいる人は、デートとか、仕事も忙しいだろうし、お子さんがいれば保育園に連れて行ったり、納期が迫った仕事でプライベートの時間も考えなきゃならなかったり、親の介護をどうするとか、ペットが最近具合悪いから心配だとか……。あ、布団干してたけど取り込まなきゃ雨が降ってきちゃうとかとか。
現実世界は、みんな忙しいのである。
思考とか、考え方とか、そんなこと言ってる場合じゃないのだ。
なので、もう、こういう場で書くしかないのだ。
で、「こういう場」って、非常に大事だけど、難しい。難しいけど、大事。トートロジー。
あー、えーと、だから、まぁ、アウトプットしておかないと、まともに、目標だとか大層なことできんのである。ブレーンストーミングだよ。批判厳禁だよ。
あーだけど、この記事、面白くないんだろうなぁとも思う。思うけれど、上の3か月前の記事が、ふと今の感覚で読んだら面白かったりするし、とにかく、書いておくことは正しいことだと、これは、僕の経験が告げている。なんか第六感みたいな感じだ! すげー!(かっこわらい)
実生活について2
本題だ! きっとこの記事では、創作についてまで書けないと思う。創作については、取り急ぎ、サイト運営で気がかりな部分があるから、それを着手したいなと思っているが、今度の記事で触れよう。
今回は、まず実生活だ。
というか、前回記事から書いてたが、実生活ってなんだよ!(いまさら、である)
実生活とは、……実生活のことだよ!
家を買うとか、そういうことだよ。
えっ、買うの?
いや、あまりその気はない。
しかし、現状、あまりリアルに書きたくはないが、二重生活のような状況なため、コスパは非常に悪いと思っている。集約化することで、費用は抑制できるし、それこそ、新しい住居を買うというのも、全然非合理的な判断ではないはずだ。
いやここで、不動産購入というのが、そもそも非合理であって、一生賃貸でも全く問題ないだろうという理屈ももちろん分かる。
分かるが、ここで、一戸建て派とマンション派の不毛な議論を……いや、その議論自体は価値観がいろいろあって面白いと思うが、どっちが間違いなく正解か、などというのは、結論がでたところで、それと自分との感性が一致するか分からんし、重要なことではないのは明白である。
だが、ここで、「子ども」という概念がなければ、正直不動産購入をしようとは僕は思っていないと思う。同時に、「結婚」というのも同様に、しようとは思っていない。必要があればしてもいいと思うが、その必要性が、「子ども」以外に浮かばない。(まあ、事実婚というのも法律上あるらしい。どういうケースで認められるのか詳しくは分からないが)
もう一つ、移動手段であるオートモービルを所有しているが、その扱いなど。最近あまり乗っていないが、経常費用はまぁまぁかかるわけである。それこそ、レンタルだって都心で暮らせば充実しているわけで、「所有」という形態にこだわる必要はあるのか、というのは問題ではある。
が、今のところ、それも家計としては問題なく維持できる範囲である。逆に言えば、維持できる範囲のものを購入しているだけの話だが。
と、なると、要するに、実生活を今後変更する決断は必要ない、ということではなかろうか。
現状維持か。
しかし、注意せねばならんのは、現状維持というのは、実際存在しないのである。
現状維持というのは、不可逆の時間の中で、何らかの行動をすることによって成り立つものである。何故ならば、すべてはエントロピーの拡散だからだ!(よく分からないでカタカナ語を使った。一応調べるが、意図としては、物事は経年劣化したり、拡散していくものだ、ということ)
常連に愛される店とは、いつもと同じ+αのことを探求していかなければ、「いつもおいしいね」とは言ってもらえないという、よくきく、あれだ。
もう一つ理由は、人は、飽きるようにできているからだ。飽きることで、人は工夫をして、生活を豊かにしてきた。(テクノロジーが幸せにつながるか、というのはまた別の話)
つまり、変化を恐れてはならない。
というよりも、変化しないものはない。シッダールタさんも言っている。諸行無常であると。
あー、そういや、最近仏教に関連することを全然書いてないな。これも、飽きの一つだろう。
先日、坐禅をお寺にしにいった。とても貴重な体験だった。しかし、身体が固い僕は、痛みに耐えることがメインとなった。柔軟体操もルーチンにしたい……が、これはなかなか長続きしないのだ……。
なんだっけ。変化。
変化はするんだ。
何もしなくても変化するんだ。
だから、その変化を、いやその変化に、少しでも、自分の意志を反映させたいのである。
あーもう、具体的な方策が何も決まらない。
いや、別に、今のままでいいってことじゃないか? んーん?
長くなったのでひとまず終わり。
(かっこ書きである。まとまらん、全然まとまらない。というか、今までまとまったことってあったのだろうか。いやそれはともかく、シュタインズゲートゼロのアニメ、アマゾンプライムで公開されている最新まで見たけれども、正直いって、最初のクオリティから下がっていると感じた。いや、大好きな作品だから、批判の意図はないんだけど、ちょっと残念だった、というか、物語に入り込めなかった。理由はまぁ、いくつかあげられるけれども、動画の、演出が自分に合わなかったなあというところである。とはいえ、後半は、ゲーム原作の方も、ちょっとばかり強引だなとは思っていたのである。しかしゲームは、ノベライズゲームは、自分の読むスピードなどで調整しながら、補完しながら進めることができるので、何とか自分に納得させながらやっていた。アニメは、基本みることしかできない。そのときに、「間」というのは、非常に大事なのだけれど、その間がいまいちであった。セリフと動画の動きとか、動画のカット(見せ方、見える角度)などが気になったのである。……って全然関係ないこと書いてしまった。だけれども、今回の記事としては、実生活を大きく変える決断は、今しばらく保留としておこう、ということで、いいと思う。やっぱり、創作に関して書くべきである。(たぶん)続く)
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