生きる意味についての次元
久しぶりにパソコンが使えて時間が取れるので、小見出しを復活して書いてみる。あー、ええと、生きる意味を考えたことがある人は、20代以上の各年代層で、何と50%以上だということだ。
生きる意味がわからないと訴える匿名投稿が話題 「理由なく生きてる」と共感の声も | ニコニコニュース http://news.nicovideo.jp/watch/nw3851059
ちょうど、ある友人の一人に、「死んじゃいけない、生きて欲しい」とメッセージを送ったころだったので、何か感傷的になった。
生きる意味には、次元がある。
宇宙レベル、人類レベル、社会レベル、個人レベル……あたり。細かい分類が重要なのではない。要するに、大きい次元から個人単位の次元がある、という点を抑えればよい。
僕がいつも云々書いているのは、当然個人レベルの話だ。
しかし、これは、マズローの5段階欲求説とは違って、必ずしも個人レベルを満たさなければ、高次の次元が満たされないとか、そういう代物ではない、と思う。
ただ、個人レベルが満たされていないまま、他の何かに意味を持たせようとする危険ってのは、歴史(軍国イデオロギーとか民族浄化とか)や事件(新興宗教集団の過激化)などを見ていれば分かると思う。ただ、それは一面的なものであって、絶対にダメってわけじゃなかろう。
と、いうか、そういった集団的な承認が「危険」ってのが分かってきたから、昨今現代は、「個人主義」的な様相を帯びてきているのだろうと、別に学問的な根拠など何もないけど、個人的に思っている。
陰謀論的に書けば、個人主義ってのは、カウンターパート? ていうんだっけ、抵抗組織、集団的なのが形成されないように、支配者層が考えて推し進めている新たな支配形態である、的な。
まぁ半分冗談で半分本気だが、仮にそうであってもなかろうと、僕らは、結局個人的に生きるしかないのである。ゆえに、僕は、生きる意味を考える、と書くときに、次元としては、個人的なレベルを無意識・意識的に選択しているのだ。
そして、個人的な生きる意味、においては、それは「各人が見つけるしかないもの」と思っている。つまらない結論だ。
普遍的で、物理的だったり、工学的に、または論理的な方法で、その意味に到達する方法があるとは思えない。せいぜい、年長者の、「自分はこうやって生きてきた」的な経験論を参考にするまでである。(もちろん、それが無駄なことなどとは一切思ってないし書いていない。ただ、それらはその構造的に、自分に役に立たない場合が多いことはまぁ事実だ! とはいえ、役に立つときももちろんあるというのが重要な点)
ええと、その、友人のことはどうか、大丈夫なのか。
分からない。
薄情? そうだろう。
ただ、僕は、未だに、生きる意味という問題について、つまらない、「各々頑張ろうね」程度のことしか知らない。
だから、僕が言えることは、「死なないでほしい」ということだけである。
(ここまでが生きる意味的な内容)
蛇足
生きる意味なんて、根源的にないのだろうと、思っている。思っているが、それを大いに、強く否定したい。それがこのブログの一つの目的である。上に取りあげた記事において、「親がまだ生きていて、悲しませたくないから生きている」とか意見もあったりして、非常に共感できる。
だが、だからといって、死んだのか生きたのか分からないように、「思考」もなく、日々に流されるように生きていくということを、僕は否定する。他の人がどうだろうが、僕自身は、嫌だ。
そうしなきゃ、「死にたい」を始めとして、「人生クソゲーだな」「面白くないつまらない」「なんでこんな苦しいのに生きなきゃいけないんだ」的なネガティブな感情が溢れていた過去の自分に申し訳ない。
今が普通に幸せ?
ふざけんな、と言わなければいけない。
僕は、今や、未来の自分はともかく、過去の自分も救ってやりたいのである。
……本当か?
文章とは面白い。今、勢いに任せてここまで書いてきたが、「過去の自分を救う」など、本当に思っているのだろうか?
別に救わなくてもよくね?(かっこわらい)
いやまぁ、そうだな、今がよければいいよな。……とはならないと思う。
何でかってのは、今回の記事の目的から逸れそうだけど、ある程度書き残しておこう。
過去が救われないとはどういうことか。それは、「意味が与えられない」ということだ。
過去が無意味であるということである。連続性が断裂するということだ。
それが何が問題か?
未来がなくなるのである。
人は、根源的に時間的存在だ、というのはハイデガーだったか。しかし、人は根源的に記憶的存在だ、とも言えると思う。
自分とは何か。それは記憶の総体である。記憶が単にデータとして「ある」状態なだけではなく、それを「引き出す」というのも含めて、人は「自分」になる。
とかってのを、このブログで連載している作品で一部表現したいと思うのに、アイディアだけで全然ストーリーが進まない、というのは蛇足と言い訳の恥さらしだが、まぁとにかく記憶は大事である。
その大事な記憶が、ごっそり無意味化するというのが、過去を救わなくてもよい、という判断なのである。
「ま、たまたま、昔は不幸に見舞われましたなぁ。災害とか、そんなレベルですわ、わっはっは」
ということである。まー大したことないことならいいが、災害で最愛の人を亡くしたとか、全財産失ったとかした人は、その過去へも、ある程度何らかの意味を与えなければ……たとえば、全財産失ったけれども、人とのつながりや優しさを感じられて本当に大切なものを知ることができた……とか。
それ、単にきれいごとじゃねぇか、と若い人は思うと思う。
そうかもしれない。単にきれいごとや、自分への誤魔化しかもしれない。他者から見たらそうとしか見えないかもしれない。
でもいいのだ。それで、それが、本当にその人にとって救いの福音であるのならば、構わないのだ。過去を救うというのはそういうことなのだ。
蛇足部分が長くなってるな。まぁそれが本当に蛇足なのか、僕が本当に書きたかったことなのか確かめるすべはないのだが、こういう現象は、間違いなくスマホでアウトプットしているときには発生しないのである。キーボード面白いなあ。
目標
あー、それで、本題にいこう、そろそろ。思考のこと。
実生活のこと。
創作のこと。
仕事のこと。
このあたりの方針を書きたい。
忙しいことをいいことに、目を背けてきたことだ。真剣になるのが怖くて、逃げていたことだ。でも、もうちょっと向き合おうじゃないか。
……目じりに皺が寄る。
うーむ。とりあえず、思考のこととしては、カクヨムに挙げている随筆的なのを完結させたほうがいいよなぁ。
30代前半の俺、という存在が考えて、方向付けしたこと。
という意味で結論を出したいと思う。
それって、今しかできないことである。くだらない日記的なのを書いている暇があったら、お金を稼ぐ何かを考えたら? というのが、世間一般の考えなのだろうけれども、俺は即座に否定する。
上に挙げたアンケート的なのが物語ってると思う。まず、「生きること」というのが自明じゃなければ、仕事だって遊びだって、何ら色彩を失うのである。
生命の危機が毎日迫っているような自然や、紛争や戦争下では、愚かしい感情だったり思考であることは間違いない。そういう、「平和ボケしたこといってんじゃねえ、もっと大変な人は世界中にたくさんいるんだぜ」的なことを言う人たちを、まず無視して構わない。
そういう問題じゃない。人と比べてる場合じゃないのだ。ひどい環境と比べて現在の環境がマシ、だなんて、敵国のネガティブ教育をして、自国への不満をそらすような卑劣な方法と何が違うというのか。問題ってものは、その環境下で必ず発生するものなのである。それを解決していくことが重要なのであるのに、その問題の本質に目を向けない行為は愚鈍である。
あぁ……そうじゃない。そんな一般論的なこと書いてないで、もっと自分のこと考えろよってことである。上に書いた、問題の本質に目を向けないってのは、まさにブーメランである……。
長くなってきたので、分けて書いていこう。今回の記事はそのための方針付けまでとしよう。
先に挙げた、思考、創作、仕事、実生活(順不同)を考える軸とする。
で、本当は、「身体」ってのも重要な要素だ。健康でなければ何もできない。この点は、若いうちはあまり意識しなくてよい。そういう点で、若さというのは有利な部分だ。だが、若いだけではあんまりそのメリットはない。そこに伴わせられる思考や行動がなければ、あんまり意味はないのだ。
であるが、今のところ、視力が落ちてきているということ以外に、大きな問題はなさそうである。健康診断の結果もおおむね良好であった。筋トレルーチンは、そろそろ負荷を増やしたほうがいいような気もするが、まぁそのあたりの重要度は下げて構わないだろう。
また、「思考」というのは、これまでこのブログで書いてきたことをざっくり読み返すと分かるが、たぶん、これからも付き合っていく必要があることだと思う。だから、ことさら、ここで重要性を上げて取り組む必要はない……というか、避けようがなく向き合うことになる気がする。
そうすると、創作と、仕事と、実生活あたりがポイントになってくる。少し絞られた。
次に、仕事、を考えてみる。例えば転職するかとか、今の仕事のキャリアアップを目指すとか、上司に気に入られて社内政治をうまくしようとか、そういった漠然とでも方針をどうするか。
とりあえず、来年度はまた状況が大きく変わりそうな見込みがある。残業がががーっと増えたりするかもしれない。ただ、来年度までにクビになったり倒産したりは、まずなさそうである。そうすると、ある程度、安定した生活基盤は取れそうである。まぁ、残業やストレス等によって混沌とする可能性は否定できないが。
とすれば、仕事という面も、最重要検討事項ではなさそうである。
すると、実生活と創作、というのが残る。
そもそも、創作活動というのは、率直にいってしまえば、「必須」ではないのである。
このブログもそうだが、別に書かなくても、創作しなくても生活できるのである。この点はまず書いておかなければいけないだろう。
しかし、多分、これは勝手な推測……いや推測と書くにもおこがましいが、思考や創作がなければ、僕は自壊するだろう。
いやいや、現実世界の人との付き合いに100%注げば、そんな思考や創作なんて必要ないさ! とも、思うことは思う。
思うが、多分、それはリスキーであるし、僕はそれができないタイプの人間なんじゃあないかと思うのだ。
とはいえ、世間の多くの人は、「物語をもたない」と思う。
ええと、このあたりのことは、もう少し厳密に書くべきだけれども、あまりうまい表現がまだ浮かんでいないし、あまり書いたこともないから難しい。
経営者とかは、自分の物語を現実に落とし込んでいるような人たちだと思う。
政治家も、本来的にそういう人であって欲しいと思う。
僕は、経営者や政治家ではないけれども、物語が必要だ。というよりも、現実と理想との関係に乖離があるからこそ、物語が必要だともいえる。
いやいやそれは逃げなのではないか。現実と向き合わず物語の空想に耽って自慰する行為ではないか。
違う、と思う。説得力はもたせられないけれど。
人生に、物語をもたせられない人は、物理的世界が上手くいっているうちはいいが、想定外の事態に弱いと思う。
……うーん、いや、何か違う。別に、物語の必須性を語りたいわけではない。不要であるという人がいても全然かまわない。
ただ、ここで僕がいいたい、「物語」というのは、ストーリーであって、人を納得させられる事柄や流れのことであって、仕事の上でも、ご近所づきあいにおいても、何にでも必要なことだとは思うのだ。
まぁいいや、またそれらは一般的な云々を勝手に僕が思ってるだけの話で、大したことじゃない。
……ちょっとまて、長い!
まただらだら書いてしまった。いやまぁ、別にだらだらしたつもりはないのだけれども。
しかし、僕は頭が弱いので、こんだけアウトプットしないと、思考がちっとも進まないのだ。頭がいい人は、こんなこと書かなくても、いや、そもそも経過を踏まずに結論がすぐでるんだろうが……羨ましいな。
まぁ仕方がない。環境も、自分の身体も、頭も、今あるデバイスを最大限活用するしか、アウトプットもインプットもする方法はないのだから。外部記憶装置早く開発されるといいね。それで、感情データとかのインプットもできるようになったりして。最高のエクスタシー体験とか、ジェットコースターとかサーキットとかのスピード体験を家にいながら感じられたり。インプラントできるようになれば、仕事のストレス、上司や部下からの叱責や暴言も、脳の感情調整装置が自動的に稼動して、A10神経群のニューロン発生経路を調整することで苛立ちや怒りや哀しみといった感情をパス(迂回)させちゃったりして。ストレスゼロ社会の完成である。
と考えると、ストレスとか、ネガティブな感情ってのは、やっぱり、人類、人間にとって必要な装置なんじゃないかなぁという想像も働く。ストレスフリーなのはいいことだ、というのに誰もが頷くけれども、人間自体がそれを受容することができなくなるのは、何らかの危険が発生するのではなかろうか。
……と、また余計なことを書いた。次。次の記事で、実生活と創作に関しての方針を考える。
(かっこ書きである。長いからやめる。次回に(たぶん)続く!)
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コメント
ありがとうございます、ありがとうございます!!
非常に重要なコメント頂いたので逐次返信したいと思います。
> 以前にも何度かコメントで書いてきた気がしますが、生きることに意味や価値というものは本来存在しないと思っています。 意味や価値というのは人間が考え出した概念であり、後から付与していくものであり、人によって変化するものであると思っています。
仰るとおりに思います。ので、普遍的な何かを探そうというのは、諦めています。……諦めているというか、そんなものは存在しえないだろうと思います。
できることとしては、各人が選び、認め、信じることだと思います。
ただ、引用の記事からいえることは、それが意外にできていない人もいるのだなぁと思ったのでした。ああ、まぁ、よかった、俺だけじゃないんだな、という卑しい気持ちがなかったわけでもないですが(かっこわらい)。
普遍的な生きる意味があったら、逆に価値観の押し付けだし、気持ちが悪い。ここまではいいと思います。
んじゃあ、各人、人によって意味とか価値とかを付与していかなきゃいけないわけだけど、それってどうしたらいいんだろう?
という点が問題・課題になりえるんじゃないかと、私は思っています。
意味や価値は、人の数だけ無数にある。
ただし、その、人が自分に合った意味や価値を見つけるためのプロセスってのは、ある程度方向づけられる何かはあるんじゃあないのか――そして、自分は割かし長い間これらの問題を考えてきたので、少しでもアウトプットしたら、今現に考えている人の参考になる部分もあるのじゃあないか、そんなつもりで書いていたりします。
まぁ……シンプルに言えることとしては、ブログとか日記は、書いておいた方がいいよ、的なことしかないんですけど……。
> とはいえ、「過去を救う」というのはあると思います。
過去に意味や価値を見い出すというのは、言わば「それさえも今の自分に繋がっている」ということを納得したい故のもので、それがなければ今の自分はない、と考えられないとその過去は単にマイナスの記憶にしかならずストレスや負担といったネガティブなものになってしまうからです。自分の身に起きた事実をいつまでもストレスとして抱えずポジティブに捉えるために、意味や価値を与えたり見い出したりして美化し、自己防衛をするんだと思います。
美化し、自己防衛する、というのが、中々辛らつに感じました!(かっこ苦笑い)
いやまぁしかし、そうですね。特に年を取ってくると、自分のしてきたことや考えてきたことが間違っていたなんて、中々認められないし、認めたくないものです。
しかし、サクっと過去を切り捨てちゃうってのは、「自分自身を捨てる」ってことでもある(なぜなら、自分とは記憶だから)ので、抵抗があることは間違いない。
だからこそ、
> そして物語を考える人間から言わせてもらえれば「きれいごとのどこが悪いのか?」というのもあります。
いいじゃないですか、きれいごと。それで他者に何かを強要したり干渉したりさえしなければ悪いものじゃないと思うんですけどね、と。
ということで、他者への過干渉がなければ、別に、自分で自分を救ったところで罰は当たらないだろうと思うわけです。
うざいと思われるのは、その「自分が正しいと思うこと」というのを相対化できずに、絶対的なものとして、部下とか後輩とか、家族とか友人とかに話したり言ったりするからだと思います。その点はこれからも気をつけなきゃとおもっています。
> 創作活動が生活に直結するような職としている人ならまだしも、生活基盤となる職は別にあり、趣味で創作をしているという人であれば確かに必須ではないと思います。
無理にやる必要はありませんし、可能な範囲でやればいいとも思います。
しかし、そこに何かしら衝動のようなものを感じてしまった人は、その欲求からは逃げられないんじゃないかと思うわけです。
そうなんですよね。
知識もテクノロジーも、必ずしも多ければ幸せかといえばそうではない。
この、創作という欲求に気づいてしまった者たちは、終わりなき煉獄の炎に包まれてしまっているのかもしれません!
と、いうわけで、アルザードの今後の活躍についていつ頃読めますかね!(笑)
非常に重要なコメント頂いたので逐次返信したいと思います。
> 以前にも何度かコメントで書いてきた気がしますが、生きることに意味や価値というものは本来存在しないと思っています。 意味や価値というのは人間が考え出した概念であり、後から付与していくものであり、人によって変化するものであると思っています。
仰るとおりに思います。ので、普遍的な何かを探そうというのは、諦めています。……諦めているというか、そんなものは存在しえないだろうと思います。
できることとしては、各人が選び、認め、信じることだと思います。
ただ、引用の記事からいえることは、それが意外にできていない人もいるのだなぁと思ったのでした。ああ、まぁ、よかった、俺だけじゃないんだな、という卑しい気持ちがなかったわけでもないですが(かっこわらい)。
普遍的な生きる意味があったら、逆に価値観の押し付けだし、気持ちが悪い。ここまではいいと思います。
んじゃあ、各人、人によって意味とか価値とかを付与していかなきゃいけないわけだけど、それってどうしたらいいんだろう?
という点が問題・課題になりえるんじゃないかと、私は思っています。
意味や価値は、人の数だけ無数にある。
ただし、その、人が自分に合った意味や価値を見つけるためのプロセスってのは、ある程度方向づけられる何かはあるんじゃあないのか――そして、自分は割かし長い間これらの問題を考えてきたので、少しでもアウトプットしたら、今現に考えている人の参考になる部分もあるのじゃあないか、そんなつもりで書いていたりします。
まぁ……シンプルに言えることとしては、ブログとか日記は、書いておいた方がいいよ、的なことしかないんですけど……。
> とはいえ、「過去を救う」というのはあると思います。
過去に意味や価値を見い出すというのは、言わば「それさえも今の自分に繋がっている」ということを納得したい故のもので、それがなければ今の自分はない、と考えられないとその過去は単にマイナスの記憶にしかならずストレスや負担といったネガティブなものになってしまうからです。自分の身に起きた事実をいつまでもストレスとして抱えずポジティブに捉えるために、意味や価値を与えたり見い出したりして美化し、自己防衛をするんだと思います。
美化し、自己防衛する、というのが、中々辛らつに感じました!(かっこ苦笑い)
いやまぁしかし、そうですね。特に年を取ってくると、自分のしてきたことや考えてきたことが間違っていたなんて、中々認められないし、認めたくないものです。
しかし、サクっと過去を切り捨てちゃうってのは、「自分自身を捨てる」ってことでもある(なぜなら、自分とは記憶だから)ので、抵抗があることは間違いない。
だからこそ、
> そして物語を考える人間から言わせてもらえれば「きれいごとのどこが悪いのか?」というのもあります。
いいじゃないですか、きれいごと。それで他者に何かを強要したり干渉したりさえしなければ悪いものじゃないと思うんですけどね、と。
ということで、他者への過干渉がなければ、別に、自分で自分を救ったところで罰は当たらないだろうと思うわけです。
うざいと思われるのは、その「自分が正しいと思うこと」というのを相対化できずに、絶対的なものとして、部下とか後輩とか、家族とか友人とかに話したり言ったりするからだと思います。その点はこれからも気をつけなきゃとおもっています。
> 創作活動が生活に直結するような職としている人ならまだしも、生活基盤となる職は別にあり、趣味で創作をしているという人であれば確かに必須ではないと思います。
無理にやる必要はありませんし、可能な範囲でやればいいとも思います。
しかし、そこに何かしら衝動のようなものを感じてしまった人は、その欲求からは逃げられないんじゃないかと思うわけです。
そうなんですよね。
知識もテクノロジーも、必ずしも多ければ幸せかといえばそうではない。
この、創作という欲求に気づいてしまった者たちは、終わりなき煉獄の炎に包まれてしまっているのかもしれません!
と、いうわけで、アルザードの今後の活躍についていつ頃読めますかね!(笑)
posted by 遠藤at 2018/09/10 19:41 [ コメントを修正する ]
過去の経験を美化し自己防衛に繋げている、って表現はあまりネガティブなニュアンスとして使っているつもりはなかったりします。
誰だって自分のそれまでの経験が無意味で無価値だったって思いたくないでしょうし、仮にそう思ったとしても「その過去があったからこそ無意味・無価値と判断できる」と考えれば「過去を切り捨てる判断すらその過去を認めること(=それを経験したからこそそれの延長とは別の道を行く選択をする)」であるとも言えるわけで。
恐らく、真の意味で過去から逃れるというのは不可能なのではないか、と思うわけです。
>いつ頃読めますかね!
尻に火をつけられた感覚に陥ったので絶賛執筆中でーす^q^
誰だって自分のそれまでの経験が無意味で無価値だったって思いたくないでしょうし、仮にそう思ったとしても「その過去があったからこそ無意味・無価値と判断できる」と考えれば「過去を切り捨てる判断すらその過去を認めること(=それを経験したからこそそれの延長とは別の道を行く選択をする)」であるとも言えるわけで。
恐らく、真の意味で過去から逃れるというのは不可能なのではないか、と思うわけです。
>いつ頃読めますかね!
尻に火をつけられた感覚に陥ったので絶賛執筆中でーす^q^
>過去の経験を美化し自己防衛に繋げている、って表現はあまりネガティブなニュアンスとして使っているつもりはなかったり
あ、そうだったのですね!
なんか、多分自分が勝手にネガティブな印象を持っているがために、ミラーリングでそう感じてしまったんだと思います。
確かに「美化」ってそもそも悪い言葉じゃないですね……。
>真の意味で過去から逃れるというのは不可能
そうですね。
そして、頂いたコメントで少し思ったのは、その「過去」がどうしようもなくひどいもので、認められないような人は、どうなるのかなぁと。自分の場合、客観的に大した経験していないわけですが、PTSDになるような経験があって、今もそれが癒えないとしたら、その場合は、過去を切り捨てる、新しい自分としてやっていくしかないものなのか……。物語的には、多重人格や記憶喪失の発生要因になりそうですね。
あ、そうだったのですね!
なんか、多分自分が勝手にネガティブな印象を持っているがために、ミラーリングでそう感じてしまったんだと思います。
確かに「美化」ってそもそも悪い言葉じゃないですね……。
>真の意味で過去から逃れるというのは不可能
そうですね。
そして、頂いたコメントで少し思ったのは、その「過去」がどうしようもなくひどいもので、認められないような人は、どうなるのかなぁと。自分の場合、客観的に大した経験していないわけですが、PTSDになるような経験があって、今もそれが癒えないとしたら、その場合は、過去を切り捨てる、新しい自分としてやっていくしかないものなのか……。物語的には、多重人格や記憶喪失の発生要因になりそうですね。
posted by 遠藤at 2018/09/17 10:15 [ コメントを修正する ]
意味や価値というのは人間が考え出した概念であり、後から付与していくものであり、人によって変化するものであると思っています。
とはいえ、「過去を救う」というのはあると思います。
過去に意味や価値を見い出すというのは、言わば「それさえも今の自分に繋がっている」ということを納得したい故のもので、それがなければ今の自分はない、と考えられないとその過去は単にマイナスの記憶にしかならずストレスや負担といったネガティブなものになってしまうからです。自分の身に起きた事実をいつまでもストレスとして抱えずポジティブに捉えるために、意味や価値を与えたり見い出したりして美化し、自己防衛をするんだと思います。
そして物語を考える人間から言わせてもらえれば「きれいごとのどこが悪いのか?」というのもあります。
いいじゃないですか、きれいごと。それで他者に何かを強要したり干渉したりさえしなければ悪いものじゃないと思うんですけどね、と。
創作活動が生活に直結するような職としている人ならまだしも、生活基盤となる職は別にあり、趣味で創作をしているという人であれば確かに必須ではないと思います。
無理にやる必要はありませんし、可能な範囲でやればいいとも思います。
しかし、そこに何かしら衝動のようなものを感じてしまった人は、その欲求からは逃げられないんじゃないかと思うわけです。