15分くらい時間ができたので、スマホ投稿。
現実の生活が満たされれば、二次元、小説や漫画や映画やその他は不要なのか?
否、と認識する。
理由は、人には物語が必要だからだ。
楽しいことばかりの人生は存在しない。これは、苦しいこともあるという表面的な意味と、楽しいことに飽きるという性質をもつという裏の意味の二重性をはらむ。
そうしたとき、苦しいこと、つまらないことに何らかの意味を与える必要が出てくる。
その意味を与えてくれるのが、物語なのだ。
物語とは、目的と言い換えてもいい。
目的とは、到達すべき場のことであるが、不可逆な時間の中で、その時間を進めることに納得するために、目的が必要なのだ。
時間を進めるというのは、行動のことである。
何もしない、ということは、ありえない。
何故ならば、時間は止まらないからだ。
なにもしないというのは、逆に、何か目的があるからこそ生じる相対言語である。
なにかすべきことがあって、それをしていないから、なにもしない、ということになる。
例えば、僕は、生きる意味を徹底して考える、ということを目的としているが、それに関係しない行動、生活をしていると、それは、なにもしていない、ということになるのである。
止められない時間の中で生きていることを、我々は常に意識すべきである。
しかし、現実的には、それは不可能である。だから、節目節目で、目的を再確認することは重要であって、それがゆえ、ローカルだが、目的を部屋の目立つところに掲げておくというのは有効な手段なのだ。
さて、目的が必要なのは、いうまでもない。それに、目的がない人なんていない。
みんなそれなりに生きている。それは、目的をもって、いきているのだ。
会社員として、親として、創作者として。
ただし、僕が、生きる意味を徹底して考える、と表現する際には、それは、生きることそのものの、目的のこと、をさしている。
世界の、ではなく個人の。私自身の存在について。
しかし、残念ながら、人は、単独では存在意義を有することができない。
例えば、孤独な創作者という存在であったとしても、それは、関係する人に価値を見いだしてもらわなければ、存在ができない。
たとえ、みじめに誰からも相手にされずに死んでいく運命だとしても、その運命が、
誰からも相手にされない
ということがゆえに、やはり他者存在を意識せねばならないのだ。
分かりにくいところだが、みじめな、と言うこと自体が、他者の評価を必要とするのである。
完全なる孤独、ということが成り立たない。
完全なる孤独、になるためには、他者という評価軸と、自分自身が相容れない、という自体がなくてはならない。
どこまでいっても、他者存在は切り離せない。それはよいものであっても、悪いものであっても。
第二章
時間切れ、だが、
上のことからして、物語は不可欠なのだ。
その物語は、どれかにコミットする、没入する方法か、もしくは、自ら作り出すしかない。
そうしたとに、
二次元は、必ずしも必要ではないかもしれない。
現実、対面存在、環境だけで、個人の世界観を作り出すことも不可能ではないだろう。
だが、その物語が、より大きな物語になっていったとき、現実と、己の創造力には限界があることが見えてくる。
古くから子供たちにいわれること、それは、本を読め、ということであるが、もはや、現代は、本という媒体にこだわる必要はない。
だが、その金言の本質は生きていて、
要するに、世界と、自分との繋がりを創造できるようにするきっかけを掴むために、多くの物語に、大きな物語に接する必要があるのである。
現実の生活が満たされれば、二次元、小説や漫画や映画やその他は不要なのか?
否、と認識する。
理由は、人には物語が必要だからだ。
楽しいことばかりの人生は存在しない。これは、苦しいこともあるという表面的な意味と、楽しいことに飽きるという性質をもつという裏の意味の二重性をはらむ。
そうしたとき、苦しいこと、つまらないことに何らかの意味を与える必要が出てくる。
その意味を与えてくれるのが、物語なのだ。
物語とは、目的と言い換えてもいい。
目的とは、到達すべき場のことであるが、不可逆な時間の中で、その時間を進めることに納得するために、目的が必要なのだ。
時間を進めるというのは、行動のことである。
何もしない、ということは、ありえない。
何故ならば、時間は止まらないからだ。
なにもしないというのは、逆に、何か目的があるからこそ生じる相対言語である。
なにかすべきことがあって、それをしていないから、なにもしない、ということになる。
例えば、僕は、生きる意味を徹底して考える、ということを目的としているが、それに関係しない行動、生活をしていると、それは、なにもしていない、ということになるのである。
止められない時間の中で生きていることを、我々は常に意識すべきである。
しかし、現実的には、それは不可能である。だから、節目節目で、目的を再確認することは重要であって、それがゆえ、ローカルだが、目的を部屋の目立つところに掲げておくというのは有効な手段なのだ。
さて、目的が必要なのは、いうまでもない。それに、目的がない人なんていない。
みんなそれなりに生きている。それは、目的をもって、いきているのだ。
会社員として、親として、創作者として。
ただし、僕が、生きる意味を徹底して考える、と表現する際には、それは、生きることそのものの、目的のこと、をさしている。
世界の、ではなく個人の。私自身の存在について。
しかし、残念ながら、人は、単独では存在意義を有することができない。
例えば、孤独な創作者という存在であったとしても、それは、関係する人に価値を見いだしてもらわなければ、存在ができない。
たとえ、みじめに誰からも相手にされずに死んでいく運命だとしても、その運命が、
誰からも相手にされない
ということがゆえに、やはり他者存在を意識せねばならないのだ。
分かりにくいところだが、みじめな、と言うこと自体が、他者の評価を必要とするのである。
完全なる孤独、ということが成り立たない。
完全なる孤独、になるためには、他者という評価軸と、自分自身が相容れない、という自体がなくてはならない。
どこまでいっても、他者存在は切り離せない。それはよいものであっても、悪いものであっても。
第二章
時間切れ、だが、
上のことからして、物語は不可欠なのだ。
その物語は、どれかにコミットする、没入する方法か、もしくは、自ら作り出すしかない。
そうしたとに、
二次元は、必ずしも必要ではないかもしれない。
現実、対面存在、環境だけで、個人の世界観を作り出すことも不可能ではないだろう。
だが、その物語が、より大きな物語になっていったとき、現実と、己の創造力には限界があることが見えてくる。
古くから子供たちにいわれること、それは、本を読め、ということであるが、もはや、現代は、本という媒体にこだわる必要はない。
だが、その金言の本質は生きていて、
要するに、世界と、自分との繋がりを創造できるようにするきっかけを掴むために、多くの物語に、大きな物語に接する必要があるのである。
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