自分の思った通りに人生は回っていく、この実感を、是非大切にしたい。
今日、バーで一人のんでいたら、かわいい女の子と話しができた、趣味があった。偶然行こうと思った場所で、偶然な出会い。そこで、連絡先を交換するとか、無粋である。
何だかやる気がしないと、仕事を無理矢理終わらせて。
もうひとつ、ある小説投稿サイトに、場にそぐわないエッセイというか、コラムのようなものを投稿した。
この前、ここで書いていたような、小説風にして投稿してみようという試み。それがもう面倒になりすぎて、文体とか補則とかを加えるだけで、ほぼそのまま投稿することとした。
ほとんど、アクセスなどないだろうと思った。でも、30話ぐらいかけば、一人くらいは反応してくれるかと思った。
そしたら、数話だけで、反応があった。アクセス数もこのブログより多い(笑)
この場ほど、自由に書けないから、正直、物理世界における自分の行動と変わらない気もする。
整理して、補足して、という作業は、作業自体は対したことないが、精神的に消費する。
おそらく、はじめて読んでくれるだろう人に対しての言動は、大変。
一方で、とても親しくなると、それはそれで大変。距離感。難しい。
このブログはいい、すごくいい、そう思った。
これは、以前ふれた、居場所、というものだ。
仕事が居場所な人もいる。
恋人が居場所な人もいる。
僕は、なんか、ここが、いい感じだな、って思った。
自分に、自分を、自分で、慰めるというのか。寂しいやつだ。だが、別にもう、他者にかっこつけるのも面倒だ。とかいって、やっぱり、居酒屋とかバーとか、それなりに、財布とか、衣服とか、かっこつけなきゃって思う。ああ、もう、ほんとくだらないが、でも、残念ながら、人は、見かけが、九割だ。
顔、は仕方がない。でもせめて、持ち物、となる。
この考え方により、おっさんはブランドにこだわるのだ、そして女子は、そのブランドで判断するのだ、金を持ってるかどうか。
メモしなきゃ。今日感じたこと、投稿して反応があったことに対しての自分の考え、明日もサービス出勤になることに対すること、など。
でもまぁ、もういっか、とか思ったり。
考えるのが面倒だ。が、僕は、なぜか、書いている。書くことが、なぜか、考えているとか、面倒だとかは、違う次元だ。
楽しい。
やっぱり、現実世界で楽しいことがあっても、それを表現できなきゃ、つまらないのだ。
って書くと、誰も付き合ってくれないんだろうなぁ。
確かに、一緒にいて、バカ笑いして、楽しんで、いざ帰ってみると、冷静に分析されてたら、気分悪いもんだ(笑)
だから、文章は、書けない。書いていることをさとられてはならない。
これがひとつ、生きづらさなのかもしれない。
とはいえ、この、頭に浮かぶ思考ってのが、どうにも止められない。たいてい、同時に、二つのことを考えている。ある、事象について、例えば、成功と失敗とを考える。
あるマイナスなことを思えば、反転したポジティブを想起し、場にそぐう事柄を構成し、つなげる。
こんな現象が続く。
そして、その動きは、はたからみたら分からない。
だからこそ、他者の感覚や、思考が読める。読める、というのは、僕の言語表現の範囲でしかないから、本当にその人が思ったことが、そのまま、わかる、のかは、分からない。
ただ、これをいってしまえば、解釈の可能性にすぎない。
ここは、もはや、他者を理解できるかどうか、この議論を、破綻させる。つまり、思い通りの行動をとらせたり、ちょうどいい情報をえられたりすること、ただ、それだけのことで他者を理解した、となるのである。
以前、ぐちぐち、書き続けたかとだが、すごく頑張って、周りにも認められつつ、結局お前のせいでダメになったと言われたことがある。
俺は思った、のではない、実感した。
ああ、やっぱり、いくら頑張っても、所詮は、結果、であるのだと。
んで、その結果ってのも、それすら、真理的なものではなくて。
ただ、その場にそぐうものか、それだけなのだ。
ということに、気づく、のはもう気づいていたが、実感してしまうと、もう、究極に、ポジティブ思考しか正解ではない、ということになる。
ここに、反転したポジティブ思考が完成する。
原理的に、他者との理解は不可能なので、理解してもらうことは不可能なので、ゆえに、自らは最高に楽しんだ状況でしか、あってはならないのだ、という、本当に絶望的なポジティブである。
はっきり言えば、泣いても笑っても悲しんでも苦しんでも、誰もわかっちゃくれないから、だったら、超楽しい気分でいる方がいいだけ、ということだ。
もっとひどいこと言えば、大切な人がなくなって、哀しむのは、喪失感よりもむしろ、哀しむことが他者を思いやれる暖かい自分が好きになれる楽しい瞬間なのだ。
酷すぎる言葉。友達なくすね、間違いなく。
ほほう。言葉をなかったことにするか。愚かである。
人間嫌い。
これ、どうなのか。ぶっちゃけ、人間一般は、僕は嫌いな気がする。
でもって、それだからこそ、家族とか、友人とか、同僚とか、ほんと大切だなぁ、って思うけど、それを、そもそも気持ち悪いと言われたこともある。人間を嫌いっていう時点で信じられないと。生きてる価値ないと。
えぇ、そこまでいう?
人間なんて、みんな、消えてなくなっちゃえばいいと。
そうは思ってないんだけど。
ただ、まぁ、どっちでもいいかな、とは思っているのかもしれない。
どうなんだろ。
むしゃくしゃしすぎて、バーで飲みすぎたのかもしれない。7000円ちかくかかった。うん、なんか、かかりすぎじゃないか? チャージ料? 料金体型がよくわからん。
まぁまぁ、というか、自分が、自分もよくわからん。
そうなんだ、自分が、なにしたいのか、わからんのだ。
求めるものはなんなのか。
気持ちよいことはなんなのか。
分からない。
そう、そうなんだ、こう、むしゃくしゃしたり、ごちゃごちゃしたり、いらいらしたときの言語表現。
みんな、たいていの人は、冷静なときに筆をとるんだ。
なんか、かっこいいことや、伝えたいこと、価値のあることを作り出そうと、筆をとるのだ。
でもおれは、こう、もう、ほんと、リアルタイムの思考を、言語表現する。
この、言語表現が、はたして、正しいのか、正確に表しているのかもわからない。できるだけ、自動記述を試みる。自動記述、について触れていたのだれだっけ? ヴィトゲンシュタインだったきがする。
そんとき、自慢じゃないが自慢だが、あぁ、僕と同じことするひといるんだな、って、すげーなって上から目線で思ったもんだ。
もう一度、考えてみると、やっぱり、俺は、一人でいること、孤独が本当に好きなんだろうか。
友人たちと楽しくすごした、とかいう記述、実は読者に、うそっぽいとしか感じさせてないのか。
そして俺は、本当にどう思っているのか。
孤独が、好きってのは、なんか、人間失格じゃないだろか?
生きたい知りたい、仲間になりたい。
仲間は、いらないの?
ノーだ。
だって、こうやって、書いている。誰かと繋がっていたいのだ。
でも、こんなぐちゃぐちゃなこと、現実世界で表現なんてできない。そして僕には社会性が備わっている、他者の気持ちを慮れる、空気が読める。
それをやっちゃうことにより、それがうまくいくごとに、自分、自己と、ぐんぐん離れていってるのではないだろうか。
ろぐ、と読んでいる、リアルタイム自動記述。これ、本当に誰にもみせない、紙媒体とか、ローカル保存とかのときもある。そんときのとは、やっぱり、今の、この公開電子媒体のが、書いている内容が、意味あるものになってる気がする。
が、それが逆に、僕の本音、的なものを、例えば整理して投稿した作品とは、決定的にずれていっていないか。
であれば、もう一度、ローカルなログに、たち戻るべきではないか。
それは、たぶんできない。
ネットにより、反応をもらうことの楽しさを、感じてしまったのだ。
これ、炎上したり、ほんと不快なことを言われ続けないと、終わらないかも。
みくしーとかでは、なんかだんだん変になってった。
いまは、なんか、この適度な反応のなさが、ここちいい。
やっぱり、誰かに、理解して欲しいと、おもってるのか。
でも、きっと、あなたの記事とても、わかります。
とコメントされても、なんか、いい返信つけなきゃ、とかくそったれたこと考えそうだ。それよか、役に立ちました、とか、あまりに惨めそうで、自分は少し元気になりました、とかの方が嬉しいかもしれない(笑)
おかしい。おかしいことの原因はよくわかるが、真因果は全然わからないが、いまとっても悩ましい。とっても、楽しく有意義な時間を過ごしたというのに。変なの。
孤独。
孤立は困る、が。
でもさ、孤独が好きなひとの会とか立ち上げても、ナンも面白くなさそうじゃない。
なんか、サンデルさんとか、この残酷な世界で生き残るたったひとつの方法、とか書いた著者とか、ネットで好きなことを共有できるひとと繋がって、それをお金にするしかないんだぜ、という。いわゆる、ローカルこみにてぃを作り、大切にしようという方策。
まぁ、それなら楽しそうだが、じゃあ、俺、何が好きなんだ?
好きなこと、探そう。楽しいこと、探そう。そうじゃなきゃ、もう、、ほんと、ナンも、、やる気が、起きない。半端な気持ちで乗り越えられるほど、仕事も、人生も、甘くない。
ん、でもそれって、今の仕事をやめろ、ってこと?
好きなことを仕事にする?
本当にそれ、凡人にできる? 万人にあてはまる?
そんな一般論はどうでもいいが、俺には、適応することなの??
うーん、誰か、助けて欲しい、と、珍しく他者に助けを求める。明日仕事だけど。
今日、バーで一人のんでいたら、かわいい女の子と話しができた、趣味があった。偶然行こうと思った場所で、偶然な出会い。そこで、連絡先を交換するとか、無粋である。
何だかやる気がしないと、仕事を無理矢理終わらせて。
もうひとつ、ある小説投稿サイトに、場にそぐわないエッセイというか、コラムのようなものを投稿した。
この前、ここで書いていたような、小説風にして投稿してみようという試み。それがもう面倒になりすぎて、文体とか補則とかを加えるだけで、ほぼそのまま投稿することとした。
ほとんど、アクセスなどないだろうと思った。でも、30話ぐらいかけば、一人くらいは反応してくれるかと思った。
そしたら、数話だけで、反応があった。アクセス数もこのブログより多い(笑)
この場ほど、自由に書けないから、正直、物理世界における自分の行動と変わらない気もする。
整理して、補足して、という作業は、作業自体は対したことないが、精神的に消費する。
おそらく、はじめて読んでくれるだろう人に対しての言動は、大変。
一方で、とても親しくなると、それはそれで大変。距離感。難しい。
アットホームな場所
このブログはいい、すごくいい、そう思った。
これは、以前ふれた、居場所、というものだ。
仕事が居場所な人もいる。
恋人が居場所な人もいる。
僕は、なんか、ここが、いい感じだな、って思った。
自分に、自分を、自分で、慰めるというのか。寂しいやつだ。だが、別にもう、他者にかっこつけるのも面倒だ。とかいって、やっぱり、居酒屋とかバーとか、それなりに、財布とか、衣服とか、かっこつけなきゃって思う。ああ、もう、ほんとくだらないが、でも、残念ながら、人は、見かけが、九割だ。
顔、は仕方がない。でもせめて、持ち物、となる。
この考え方により、おっさんはブランドにこだわるのだ、そして女子は、そのブランドで判断するのだ、金を持ってるかどうか。
金と行動と価値観
メモしなきゃ。今日感じたこと、投稿して反応があったことに対しての自分の考え、明日もサービス出勤になることに対すること、など。
でもまぁ、もういっか、とか思ったり。
考えるのが面倒だ。が、僕は、なぜか、書いている。書くことが、なぜか、考えているとか、面倒だとかは、違う次元だ。
楽しい。
やっぱり、現実世界で楽しいことがあっても、それを表現できなきゃ、つまらないのだ。
って書くと、誰も付き合ってくれないんだろうなぁ。
確かに、一緒にいて、バカ笑いして、楽しんで、いざ帰ってみると、冷静に分析されてたら、気分悪いもんだ(笑)
だから、文章は、書けない。書いていることをさとられてはならない。
これがひとつ、生きづらさなのかもしれない。
しかし高速に思考が生ず
とはいえ、この、頭に浮かぶ思考ってのが、どうにも止められない。たいてい、同時に、二つのことを考えている。ある、事象について、例えば、成功と失敗とを考える。
あるマイナスなことを思えば、反転したポジティブを想起し、場にそぐう事柄を構成し、つなげる。
こんな現象が続く。
そして、その動きは、はたからみたら分からない。
だからこそ、他者の感覚や、思考が読める。読める、というのは、僕の言語表現の範囲でしかないから、本当にその人が思ったことが、そのまま、わかる、のかは、分からない。
ただ、これをいってしまえば、解釈の可能性にすぎない。
ここは、もはや、他者を理解できるかどうか、この議論を、破綻させる。つまり、思い通りの行動をとらせたり、ちょうどいい情報をえられたりすること、ただ、それだけのことで他者を理解した、となるのである。
仕事での頑張りと失敗
以前、ぐちぐち、書き続けたかとだが、すごく頑張って、周りにも認められつつ、結局お前のせいでダメになったと言われたことがある。
俺は思った、のではない、実感した。
ああ、やっぱり、いくら頑張っても、所詮は、結果、であるのだと。
んで、その結果ってのも、それすら、真理的なものではなくて。
ただ、その場にそぐうものか、それだけなのだ。
ということに、気づく、のはもう気づいていたが、実感してしまうと、もう、究極に、ポジティブ思考しか正解ではない、ということになる。
ここに、反転したポジティブ思考が完成する。
原理的に、他者との理解は不可能なので、理解してもらうことは不可能なので、ゆえに、自らは最高に楽しんだ状況でしか、あってはならないのだ、という、本当に絶望的なポジティブである。
はっきり言えば、泣いても笑っても悲しんでも苦しんでも、誰もわかっちゃくれないから、だったら、超楽しい気分でいる方がいいだけ、ということだ。
もっとひどいこと言えば、大切な人がなくなって、哀しむのは、喪失感よりもむしろ、哀しむことが他者を思いやれる暖かい自分が好きになれる楽しい瞬間なのだ。
酷すぎる言葉。友達なくすね、間違いなく。
上のことは全部間違いです
ほほう。言葉をなかったことにするか。愚かである。
人間嫌い。
これ、どうなのか。ぶっちゃけ、人間一般は、僕は嫌いな気がする。
でもって、それだからこそ、家族とか、友人とか、同僚とか、ほんと大切だなぁ、って思うけど、それを、そもそも気持ち悪いと言われたこともある。人間を嫌いっていう時点で信じられないと。生きてる価値ないと。
えぇ、そこまでいう?
人間なんて、みんな、消えてなくなっちゃえばいいと。
そうは思ってないんだけど。
ただ、まぁ、どっちでもいいかな、とは思っているのかもしれない。
どうなんだろ。
理解不可能性は自分にも及ぶ
むしゃくしゃしすぎて、バーで飲みすぎたのかもしれない。7000円ちかくかかった。うん、なんか、かかりすぎじゃないか? チャージ料? 料金体型がよくわからん。
まぁまぁ、というか、自分が、自分もよくわからん。
そうなんだ、自分が、なにしたいのか、わからんのだ。
求めるものはなんなのか。
気持ちよいことはなんなのか。
分からない。
そう、そうなんだ、こう、むしゃくしゃしたり、ごちゃごちゃしたり、いらいらしたときの言語表現。
みんな、たいていの人は、冷静なときに筆をとるんだ。
なんか、かっこいいことや、伝えたいこと、価値のあることを作り出そうと、筆をとるのだ。
でもおれは、こう、もう、ほんと、リアルタイムの思考を、言語表現する。
この、言語表現が、はたして、正しいのか、正確に表しているのかもわからない。できるだけ、自動記述を試みる。自動記述、について触れていたのだれだっけ? ヴィトゲンシュタインだったきがする。
そんとき、自慢じゃないが自慢だが、あぁ、僕と同じことするひといるんだな、って、すげーなって上から目線で思ったもんだ。
孤独と社会性
もう一度、考えてみると、やっぱり、俺は、一人でいること、孤独が本当に好きなんだろうか。
友人たちと楽しくすごした、とかいう記述、実は読者に、うそっぽいとしか感じさせてないのか。
そして俺は、本当にどう思っているのか。
孤独が、好きってのは、なんか、人間失格じゃないだろか?
生きたい知りたい、仲間になりたい。
仲間は、いらないの?
ノーだ。
だって、こうやって、書いている。誰かと繋がっていたいのだ。
でも、こんなぐちゃぐちゃなこと、現実世界で表現なんてできない。そして僕には社会性が備わっている、他者の気持ちを慮れる、空気が読める。
それをやっちゃうことにより、それがうまくいくごとに、自分、自己と、ぐんぐん離れていってるのではないだろうか。
くそみたいな記事
ろぐ、と読んでいる、リアルタイム自動記述。これ、本当に誰にもみせない、紙媒体とか、ローカル保存とかのときもある。そんときのとは、やっぱり、今の、この公開電子媒体のが、書いている内容が、意味あるものになってる気がする。
が、それが逆に、僕の本音、的なものを、例えば整理して投稿した作品とは、決定的にずれていっていないか。
であれば、もう一度、ローカルなログに、たち戻るべきではないか。
それは、たぶんできない。
ネットにより、反応をもらうことの楽しさを、感じてしまったのだ。
これ、炎上したり、ほんと不快なことを言われ続けないと、終わらないかも。
みくしーとかでは、なんかだんだん変になってった。
いまは、なんか、この適度な反応のなさが、ここちいい。
やっぱり、誰かに、理解して欲しいと、おもってるのか。
でも、きっと、あなたの記事とても、わかります。
とコメントされても、なんか、いい返信つけなきゃ、とかくそったれたこと考えそうだ。それよか、役に立ちました、とか、あまりに惨めそうで、自分は少し元気になりました、とかの方が嬉しいかもしれない(笑)
おかしい。おかしいことの原因はよくわかるが、真因果は全然わからないが、いまとっても悩ましい。とっても、楽しく有意義な時間を過ごしたというのに。変なの。
孤独。
孤立は困る、が。
でもさ、孤独が好きなひとの会とか立ち上げても、ナンも面白くなさそうじゃない。
なんか、サンデルさんとか、この残酷な世界で生き残るたったひとつの方法、とか書いた著者とか、ネットで好きなことを共有できるひとと繋がって、それをお金にするしかないんだぜ、という。いわゆる、ローカルこみにてぃを作り、大切にしようという方策。
まぁ、それなら楽しそうだが、じゃあ、俺、何が好きなんだ?
好きなこと、探そう。楽しいこと、探そう。そうじゃなきゃ、もう、、ほんと、ナンも、、やる気が、起きない。半端な気持ちで乗り越えられるほど、仕事も、人生も、甘くない。
ん、でもそれって、今の仕事をやめろ、ってこと?
好きなことを仕事にする?
本当にそれ、凡人にできる? 万人にあてはまる?
そんな一般論はどうでもいいが、俺には、適応することなの??
うーん、誰か、助けて欲しい、と、珍しく他者に助けを求める。明日仕事だけど。
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