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不安と焦燥にかられた場合の対処
2017/04/25 23:17 | Comments(2) | イライラ対処
今日の一言「実体のある言葉と修辞的な言葉の違いに注意」「言葉で表現される世界と実感の世界との違いにも注意」

不安の概念

 この記事においては、そもそも、不安(≒焦燥)とは何かを定義し、それに対しての対応策について述べることとする。

 さて、そもそも、不安とは何かということであるが、

「不安とは、原罪の根源である。同時に原罪を解明する方向にも働く」

 と、キルケゴール(1813-1855)さんは、著書『不安の概念』で述べている。

 何のこっちゃ、だろう。それよりも、広辞苑さんの定義を先に参考にしようか。

1「安心のできないこと。気がかりなさま。心配」
2「実存主義哲学の重要概念の一つ。キルケゴールでは実存の持つ本質的矛盾に、ハイデッガーでは根源的無に根差し、両者とも特定の対象への恐怖とは異なる」


 うーむ、1の定義はトートロジー。結局、「安心」ってなんだよ、となる。「心配」という言葉で言い換えたところで、それはレトリック(修辞)的な価値しかなかろう。実体をもった言葉で、一体全体、不安とは何なのか。または、「僕」にとって、不安とは、どういった状態を指すのか。



 僕は、タイトルにもあるように、まずは、不安≒焦燥、として取り扱おうと考えている。そんなこと、広辞苑には書いていない。何故そう思うのか、と問われたところで、その根拠は明確に示すことはできない。この時点で、この記事が身に合わないと思われた方は、そっとブラウザを閉じていただくことになるだろう。

 さてでは、「焦燥」とは何か。感覚的な表現をすれば、「何かに追われて落ち着いていられないこと」である。

「落ち着いていられない」という表現を換言すれば、「不安」となる。そう考えると、不安≒焦燥というのも、納得されるのではなかろうか。

 では、その焦燥という語に秘めたる実感的な意味を少し考えてみれば、それは、「何かに追われていること」というのが際立っている。具体例を挙げてみよう。
(重複した表現のものも敢えてあげていこう。以下の例の後ろに、「に追われている」と加えて成り立つ点に注意)

・計画
・スケジュール
・敵
・はやる気持ち
・希望
・目標
・仕事
・時間


 色々と挙げられるだろう。事例の精査については特に重要ではない。抽象化すると、モノ・コト・ジカンの、どれかに、僕らは追われることになるのだ。

実感の表現

 上の小見出し(節)において、不安と焦燥の、表層的な定義については明らかにできた。

 不安≒焦燥 ⇒ モノ・コト・ジカンに追われて落ち着かないこと

 ということだ。


 次に、その定義を、より、自分自身に引き付けて考える必要がある。そもそも、不安や焦燥は、よいことなのか、悪いことなのか?

 単純に二分した考えをするというのは、時に危険なことであるが、脳科学的なうんちゃらとして、僕らは、入ってきた情報に対して、まずは「レッテル」(役に立つか立たないか・好きか嫌いか)をはりつける。そのうえで、判断などを司る前頭前野に情報が送られ、有用な情報は自己報酬神経群に送られ、長期記憶になりやすくなる。

 なので、より実感を伴った記憶として考えていくには、不安と焦燥という状態について、好きか嫌いかをはっきりさせるべきだ。


 さぁどうだ。不安は、よいことか、わるいことか?

 結論:悪いこと


 この結論について、真剣に反論する人は少ないように思われる。安心できるのと、不安なのと、どっちがいいですか? と聞かれたら、たいていの人は、安心と答えるはずだ。

 何をいまさら。当たり前だろうと思うかもしれない。しかし、実際に不安への対応を検討するためには、何故、その不安が悪いことであると、そうした感覚が生じるのか、その点を考える必要がある。

不安を何故避けようと思うのか

 僕らは、何故、不安を忌避するのだろうか。安心を求めるのだろうか?

 それは、広く考えていけば、「欲求」のためである。
 例えば、上司から、いついつまでに終わらせておけと仕事を命じられたとしよう。その期日が、だんだん迫ってきた。しかし、進捗は芳しくない。こうした状況で、僕らは、不安を感じ始める。

 これは、不安の先に起こるだろう事象について、恐れているのである。

 この事例では、「命じられた仕事をこなすことができないこと」が、発生するだろう事象である。しかし、これだけでは不安は生じない。僕らはこの時同時に、(仕事をこなせないことによる)上司からの叱責や、周囲からの評価の低下について恐れているのである。

 その好ましくない事象が発生する「恐れ」が、不安の原因である。



 ここまで書いてくることによって、不安という概念が、少し変化してきている。
 不安≒焦燥 ←(原因)恐れ

 という図式が発生しているのだ。
 つまり、原因と結果を同一視することが可能であれば、不安≒恐れ とも換言できる。

 そして、その「恐れ」が何故起きるかというと、「欲求」のためである。厳密に書けば、満たされている(現在進行)又は満たされるだろう(未来形)欲求が損なわれる可能性を、僕らは恐れるのである。

恐れの根源への旅

 もう一つ具体的な事例で考えてみよう。

「ああ、明日のプレゼンで、失敗するかもしれない……」

 こんなことを思った人は、「不安を抱えている」と表現して構わないだろう。
 その人が、そのプレゼン資料のため、えっさほいさと仕事を頑張っているのなら、「焦燥感を覚えている」と言っても差し支えないだろう。

 では、先ほどからの不安の定義によって、それは、何か失敗するかもしれない(欲求が損なわれるかもしれない)「恐れ」であるとして、その「恐れ」とは何かを突き詰めていこう。


 おそらく、その恐れとは、「プレゼンの失敗」である。
 では、何故プレゼンを失敗すると怖いのか、恐れなければならないのか。

 失敗すると、上司から怒られるかもしれない、顧客からクレームがくるかもしれない、同僚から迷惑の目でみられるかもしれないからだ。
 そして、給料が下がるかもしれない、いじめにあうかもしれない、解雇になるかもしれないからだ。
 そして、定期収入がなくなり、資産が底をつくかもしれないからだ。
 食事ができなくなるかもしれないからだ、住居が維持できなくなるかもしれないからだ、着るものがなくなるかもしれないからだ、頼る人も誰もいなくなるかもしれないからだ。

 死ぬ、からだ。

不安への対処

 ここまで書いてくると、不安への対処がだんだんとわかってくる。
 その失敗したときの影響、すなわちリスクについて適切に考えるべきだ、ということである。

 つまり、確かに、敷衍していって、遡っていって、積み重ねていって、原因と結果を追求していけば、その不安≒恐れについては、際限なく続いていくことになる。いきつくところは、大凡、簡単に考え付くのは「死」という状態である。

 でも、本当にそうか?

 と、問うてみるとよい。そもそも、「プレゼン失敗」が、一瞬で「死」に直結するということは、ふつう、考え付かない。思考レベルでは考えることができたとしても、「実感」レベルで、そこまで行きつくことはふつうはありえない。

 ここですぐさま、「過労死」とかうつ病とか、通常とは異なる事態や状態を想定することは可能である。しかしそれは、もはや単なる「プレゼン失敗」という事象ではなく、そこに至るまで相当な(負の)積み重ねがされてきている点が問題なのであって、不安という概念で表現できるレベルではないだろう。


 そのため、日常的に僕らが感じる「不安」の対処については、冷静に、落ち着いて、その発生するかもしれない「恐れ」ている事態について、よく想定してみることである。



 ああ、なるほどなぁ、と少しでも思ってくださった方は優しい方である。
 僕はここで、またしても、トートロジーを覚える。そもそも、「冷静に落ち着いて」ということができる状態であれば、「不安」などではないじゃないか、と。

 ここで、「思考の次元」という考え方が必要になってくる。

思考次元

 僕らの思考は、単一のものに向いていると思いきや、実は何層もの次元が生じている場合がある。
 しかもしれは、地層のように、古い地層の上に新しい地層が重なり合っているのではなく、リアルタイムに、流転するように、ある地層面が飛び出してはある面が飛び出してと、目まぐるしく移り変わっている場合がある。

 つまり、「プレゼン失敗」という次元と、それを外的に「冷静に分析する」という次元は、別次元であるがゆえに、矛盾なく、一人の、一つの心の中に二律背反することなく存在可能なのである。


 これについては、アクラシア(わかっちゃいるけどやめられない 又は 悪いことだと分かっていてもやってしまう)という概念の解釈において、少し書いたことがある。
 試験間際になって、勉強しなきゃいけないのに、ゲームとかして遊んでしまう人は、「勉強しなきゃいけない」ことを分からないはずはなかろう。そうではなく、勉強するということもある次元においては正しくあり、同時に、遊びたいという気持ちも、ある次元においては正なのだ。

 なので、葛藤(コンフリクト)というのが問題になるのは、その次元間の闘争である。


 話が少し飛躍するが、僕らの生きる世界は、善悪の価値基準が曖昧になったり、そもそも見えにくくなってきている。理由は、グローバル化とか、価値多様化とか、使い古されて胡散臭い言葉でしか今は説明できないが、例えば、「男性同士で結婚するのはおかしい、駄目だ」というのが、今では、そんな生き方があってもいいんじゃあないかと思う人も少なくなかろう。結婚して男児をもうけなければ男ではない、とか、そんなこと今の若者は言われないだろう。

 それがゆえに、次元間のぶつかり(葛藤)が生じる可能性が大きくなっているのだ。

漠然とした不安

 今日は、この辺で締めくくろうと思うが、最後に、話をもう一度「不安」に戻そう。

 ここまで、
1.不安の概念については、モノ・コト・ジカンに追われていることであると定義し、
2.その具体例を考える中で、
3.その不安の根源(=恐れていたこと)が何かを明確に見つけていくという対処をすることで、
4.不安の現実的な実現範囲(影響)を分析し、
5.その分析結果を実感を伴わせること

 によって、不安を対処しよう、と述べた。


 しかし、昨今僕らが心配し、恐れ、困っているのは、むしろ、原因のよく分からないような「漠然とした不安」ではなかろうか。

 それを、ヴィクトール・エミール・フランクルさんは、「実存的空虚感」なんて言ったりするけれども、単純に原因を辿っていけないような不安について、僕らは、どうやって対処していったらいいのだろうか。


 それは、「原罪」から来る不安なのではなかろうか。
 キルケゴールさんは、アダムの原罪が、アダムその個人のもの、または人類とは切り離された神聖な(特別な)ものなどではなく、僕ら人類一人ひとりにとって関係する、実存的なものであるということについて、前出書にて結構な紙面を割いて説明しているのであるが、キリスト教の教義学に興味がない人にとっては、残念ながらあまり意味のある説明ではない。

 ただし、ポイントとして抑えておくべきところは、「実存」すなわち、僕らが存在しているそのこと自体について、「不安」という概念が発生する可能性がある、という示唆である。


 広辞苑の定義では、

2「実存主義哲学の重要概念の一つ。キルケゴールでは実存の持つ本質的矛盾に、ハイデッガーでは根源的無に根差し、両者とも特定の対象への恐怖とは異なる」

 とあり、実存主義哲学においては、(不安とは)特定の対象への恐怖とは異なる、ということである。
 僕が上で挙げた「プレゼンの失敗」は、「特定の対象への恐怖」の事例である。
 それについては、葛藤(コンフリクト)が生じやすく、対策が難しくなってきてはいるとはいえ、具体的な「恐怖の対象」の分析(影響範囲の確認と、それの実感化)によって対応が可能だろう。


 ゆえに、僕が、本来的に解決しなければならないのは、――ならないと感じているのは、2の「実存的不安」であるといえる。それについての解決策や対処については、今後……いや、これまでも、これからも、考えていくことにしたい。


(んー。この記事、誰かの役に立つんだろうか。というか、伝わるんだろうか? 可能な限り分かりやすく単純に書いてみたのだけれども、上手くいってるんだろうか。こういうときは、明日の自分さんに聞いてみることとしよう)

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コメント

不安と恐怖はすげーにていると思う。
その理由は、どちらも回避を要求するからです。
(回避の対象がたとえ分からなかったとしても逃げることを要求する)
posted by QUWEat 2017/04/26 02:49 [ コメントを修正する ]
コメントありがとうございます!
不安と恐怖は回避を要求しますね。おかげで、単純に不快なこととな、嫌なことも逃れたいと思いますが、そのあたりの違いも書けたら良かったと思いました。
posted by 遠藤at 2017/04/26 07:48 [ コメントを修正する ]

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