今日の一言「他者からの認知が自己の存在規定である」「孤独な生き方は否定されるべきか」
弁論術という、政治家やリーダーが身に着けると、より多くの大衆をひきつけることのできるテクニックは存在するだろう。
しかし、すでに、この記事の冒頭によって、もしくは、そもそもタイトルによって、読者の関心度合は変わってくるのである。
僕らは、誰からも好かれたいとか、単にモテたいという言葉を用いることがあるけれども、しかし、それは話のタネや話題作りにすらならない、譫妄による言に過ぎない。無駄、である。
せいぜい可能なのは、自分が所属する集団、組織において、その内の幾人かに、価値ある人間であると認識して頂くことに過ぎないのである。
これは、否定的な、ネガティブな言であろうか?
私はむしろ、これは福音であるように思えるが、果たして、この世界認識が本当に役に立つかどうかについて、自信をもてない。なぜならば、上に書いたことが反転した論証となるからだ。つまり、万人に役立つ「言葉」など存在しない。
これは、「ありのままでいいんだよ」とか、「自分を許してあげましょう」とか、自己啓発やセラピー的な表現と同様である。これを、便宜的に「スローライフ」と呼んでみよう。
逆に、鉄血のオルフェンズの鉄華団の面々の「俺たちは、戻るとこなんてねーんだ。ただ、進み続けるしかねーんだ」という価値観については、「どこまでも価値を増大させていく、その過程そのものの肯定」であって、これを便宜的に「攻める人生」と呼んでみよう。
その中間でもがき続けるのが一般大衆であるが、本来的に、人生に答えを求めるのであれば、「スローライフ」または「攻める人生」の、どちらかを、意識的にもしくは非選択的に選び取って邁進する必要がある。
ガンダムシリーズ、鉄血のオルフェンズ、第一期を視聴完了した。
三日月くんとマッキーがかっこよかった。以上。
ん、感想が特に出てこない。自分にとっていつものことだが、後半は、一気に見てしまう傾向がある故、印象が飛び飛びになってしまいがちだ。
印象的なシーンは、ネットでも話題になっていたようだが、「正々堂々! 決闘を申し込む! セッティングなどに30分の猶予をやろう!」と高貴な申し出をする敵方に対して、言い終わるや否や奇襲をかけて惨殺する三日月主人公。やー、悪役も真っ青なはじけっぷりである。味方からも、「うわっグロっ」とか言われる始末。
しかしまぁ、生い立ちとか、直前に戦友を殺されていた状況からも考えて、それほど違和感はなかった。下手な正義感とか建前とかない分、好感やリアリティを感じた。んーまぁ、それを言うてしまうと、戦闘中に、外部スピーカーだか共通周波数でやってるのか分からないが、「おめーはよぅ、人殺しを楽しんでるんだ!」とか言い合いながら殴り合い殺しあうってのが、いまいち僕はよぅ分からん。ロボットものをあまり見ないというか、好んでいないのは、そんなシーンが原因かもしれない。
(そういう意味では、とある投稿サイトにて読める、万物に宿る魔素に対しての意思力=魔力を用いて騎兵をかりだす作品は面白い。最近更新がされない。まだかなぁ。)
言葉って、それが罵りであっても呪詛であっても、それだけで「コミュニケーション」なのである。「死ねぇぇぇ!」とか言いながら襲い掛かってくる敵役が存在する作品は、どこかそれだけでコミカルな印象を抱いてしまう。(もちろん、そうでもしなければ、物語として描きにくいのは確かであるのだが)
そういう意味で、凶悪三日月とか評価されたりしているようだが、作品全般的な印象として、ダークさをあまり感じなかった。いやこれは、いい意味で、物語として楽しめた、ということなのであるけれども、何となく、雰囲気が「軽い」ように思ってしまった。ゆえに、主要キャラの一人であり、結構好きだったポッチャリした軍師的立ち位置の団員が戦死してしまったシーンも、何となく、そんなに泣けなかったのである。
んーなんだ。無意味な批判ばっかしてしまったな。なんというか、面白かったか面白くなかったか、といわれると、面白かったと答える。何せ、投げ出さずちゃんと最後まで見たのだから間違いない。そして、第二期も見てみようと思ったことからも、良い作品だったことは疑いえない。
しかし、何か足りなかった。
うーむ。ヒロインが好みじゃなかったからなのかなぁ。しかし、よく考えてみると、どんなヒロインが好みなんだ俺? なんか、結構これについては、好みがここ数年、変わってきている気がしてならないが……最近の作品で考えると、進撃の巨人のミカサとかハンジさんは結構好きである(変な人が好きになったのか?)。
他は……うーん、昔は、最終兵器彼女のちせちゃんが好きだった気がするが、今はもうそんなん無いなぁ。
なんの話や。
また、ある方のコメントにて、「敢えてしないことをする」のも大事なんじゃないかと頂いた。
よしじゃあやってみよう。
最近、絶好調である。
特に、仕事で後輩ができて、色々仕事を教えているが、「先輩! ここ、教えてもらっていいですか?」「さすがですね、よくそれほど深いところまでご存知ですね」「(仕事のスピードが)早いですね……」と、よく慕ってついてきてくれている。正直、やってること自体は、もはや自分においては当たり前のレベルに思い、むしろ、もっと強烈な先輩とかできる人たちを見てきているので、決して自分が優れているなどとは思えない。思えない、のだけれど、それでも、「すごいです!」「教えて頂いてありがとうございます!」とか言われると、悪い気はしない。
(うまくのせられているとか、お世辞に過ぎないだろうとか、僕は瞬時に同時に思うのだけれども、これは、「明るい記事」なので、そんなことは書かない(書いてるじゃねーか))
上司からも頼りにされている。職制以上に活躍してもらってありがとうと、褒められもして、評定では実際高い評価も頂いた。
お客さんから厳しいことを言われることもあるけれども、「話が分かりやすい」とか「面倒なことも親身に対応してくれてありがとう」とか感謝もされた。
とても充実している毎日である。
帰りが遅いこともあるけれども、ある程度時間のコントロールを自分でもできるので、調整して早く帰ることもできる。帰りには、美味しいお寿司屋さんによったり、お酒を嗜んだりもできる。
ゴールデンウィークは何の予定もなくて暇だなぁと思っていたら、転勤により中々会えなくなった親しい友人から、会おうというお誘いもいただいた。
身体も健康そのものである。時折腹痛で悩まされることもあるが、フルーツ食べたりビタミンCを多くとるようにしているからか、身体の調子もよい。筋トレの成果も、思いがけず出ていることも嬉しい。楽しくなって、筋トレメニューを一つ増やしたりもしている。
とてもとても、充実している毎日である。
ああ、生きていてよかった。本当に、人生幸せである。
こんなの、よく考えると、まったく書いたことなかったので、新鮮ではある。
というよりも、これは明るいというより、単なる自慢なんじゃなかろうか?
しかし、明るいのと自慢との違いもよく分からない。そもそも、だれに僕は自慢しようというのだろうか。というか、上のようなことが、自慢なんだろうか? 他者に認められるということ、認知されるということが自慢なんだろうか? 何か「できること」があるということが、自慢なんだろうか?
じゃあ、自慢と、誇りとは何が違うのか。そんなの、修辞(レトリック)に過ぎないのではないか。実際、受け手(読者)が、どう感じるか――気持ち良ければ「尊敬」とか「誇り」であり、不快であれば「自慢」とうつるだけではなかろうか。
そもそも、僕は先日の「不安の概念」の記事だって、反転したポジティブ(明るい)記事だと思っている。そもそも、明るいも、暗いも、そんなの、誰が決めるねん。読んだ人っしょや。書き手が、「明るい」も「暗い」も、意識して書くなんて、そりゃどだい難しいことである。それを成し遂げるのであれば、もはやそれは創作のテクニック的な問題になるだろう。
果たして、オルフェンズは、「ダークな」表現を意図したものだったのだろうか?
僕は、その点については感じられなかったが、むしろある程度の「軽さ」によって、安心(世界観崩壊が起こらないだろうという期待をもって)してみることができた。
そういう意味では、少し論理飛躍であるが、結局、僕自身が、明るい暗いと思ったところで、それは他者にとって意味あるものではない。「反転したポジティブ」なんて、そんなこと、ほとんどの人は理解できない――というよりも、理解する必要がそもそもない。対面コミュニケーションにおいては、表裏なく、明るければそれでいい。
結局さ、物語も、そして人生も、「ポジティブ」なんて求められていないんじゃないか?
そりゃ、最終的なハッピーエンドは、みんな求めてるわけじゃん?
でもさ、ハッピーエンドがあるってことは、そのプロセスは、山あり谷あり激しい起伏があるわけじゃん。
僕があんまり好きじゃない言葉で、「若いうちは苦労しろ」的なのがあんじゃん?
あれって、結局、苦労した分だけ、成功したときの嬉しさとか達成感とか、その人自身の価値を高めてくれるから、って理由なわけじゃん。
んじゃーさ。やっぱり、「人は苦しむために生まれてきた」という表現って、正しいってことだよね。もちろん、「苦しみ」ってのも相対概念に過ぎなくて、上の表現も、「人は幸せになるために生まれてきた」と換言することも容易なわけじゃん。
でもそもそも、その「幸せ」ってのが、対義の「苦しみ」が前提とされているわけだよね。
だから、幸せな、明るい人生を送りたいって人は、たくさん苦労しなきゃならんわけだ。その分だけ、リターンがあるかもしれんわけだ。それが、「攻める人生」だ。
でもさ、どこまで攻め続けるの? 死ぬまで? 株価みたいに、ジグザグ(悩み苦しみ、幸せや成果を掴みを繰り返し)しながら、それでも段々上昇していって、そして、死ぬっての?
OK。それもまた、とっても人間っぽい。かっこいい。そういう人がきっとモテる。きっと、大半、大勢の人の価値観って、そっちの方なんだと思う。
が。
なんつーか、俺は、なんかそれ、「変」だと思ってる。
これまで、表立って言ってこなかったけれども、やっぱり、そういう価値観が絶対ってのは、おかしい気がする。
むしろ、いつまでたっても人は争い続けて、いじめだってなくならないし、傷つけ、傷ついているその理由の一つが、「攻める人生」の人ばっかだからなんじゃあないかと思う。
いやさ、非常に、書き損じていること、書き洩らしていることが多いことを思って、恥ずかしい思いでいっぱいな状況ではあるんだけれども、それでも、一度、「変」だと思うことは書き残しておこう。
決して、「スローライフ」といって、頑張らないことを美徳にしたい、とか、そんなことではないのだ。
ただ、「我」をぶつけあって、それで、「俺たちは後ろには下がれない。戦い続けるしかないんだ」とかいって、自分たちの生きざまがとことん正しいとしてやっていくということに、僕はなんつーか、違和感というか、――いや、むしろ、嫌悪的なのを感じる。
そういうところに、オルフェンズへの物足りなさがあったんかなぁ。
三日月くんもカッコいいんだけど、「オルガ(幼馴染・親友)が言うなら、俺はついてくよ」とか、信頼がとても美しく心をうつのだけれども、今この文脈でよく考えると、なんか肯定できんのだよな。
んー。というような感想をもつことができたということで、反転してオルフェンズは傑作だったといえるだろう。
(やはり是非2期も見てみよう)
興味をもつということ
一言で、万人に、興味をもたせることはできない。弁論術という、政治家やリーダーが身に着けると、より多くの大衆をひきつけることのできるテクニックは存在するだろう。
しかし、すでに、この記事の冒頭によって、もしくは、そもそもタイトルによって、読者の関心度合は変わってくるのである。
僕らは、誰からも好かれたいとか、単にモテたいという言葉を用いることがあるけれども、しかし、それは話のタネや話題作りにすらならない、譫妄による言に過ぎない。無駄、である。
せいぜい可能なのは、自分が所属する集団、組織において、その内の幾人かに、価値ある人間であると認識して頂くことに過ぎないのである。
これは、否定的な、ネガティブな言であろうか?
私はむしろ、これは福音であるように思えるが、果たして、この世界認識が本当に役に立つかどうかについて、自信をもてない。なぜならば、上に書いたことが反転した論証となるからだ。つまり、万人に役立つ「言葉」など存在しない。
これは、「ありのままでいいんだよ」とか、「自分を許してあげましょう」とか、自己啓発やセラピー的な表現と同様である。これを、便宜的に「スローライフ」と呼んでみよう。
逆に、鉄血のオルフェンズの鉄華団の面々の「俺たちは、戻るとこなんてねーんだ。ただ、進み続けるしかねーんだ」という価値観については、「どこまでも価値を増大させていく、その過程そのものの肯定」であって、これを便宜的に「攻める人生」と呼んでみよう。
その中間でもがき続けるのが一般大衆であるが、本来的に、人生に答えを求めるのであれば、「スローライフ」または「攻める人生」の、どちらかを、意識的にもしくは非選択的に選び取って邁進する必要がある。
オルフェンズ
話をわき道にそらす。ガンダムシリーズ、鉄血のオルフェンズ、第一期を視聴完了した。
三日月くんとマッキーがかっこよかった。以上。
ん、感想が特に出てこない。自分にとっていつものことだが、後半は、一気に見てしまう傾向がある故、印象が飛び飛びになってしまいがちだ。
印象的なシーンは、ネットでも話題になっていたようだが、「正々堂々! 決闘を申し込む! セッティングなどに30分の猶予をやろう!」と高貴な申し出をする敵方に対して、言い終わるや否や奇襲をかけて惨殺する三日月主人公。やー、悪役も真っ青なはじけっぷりである。味方からも、「うわっグロっ」とか言われる始末。
しかしまぁ、生い立ちとか、直前に戦友を殺されていた状況からも考えて、それほど違和感はなかった。下手な正義感とか建前とかない分、好感やリアリティを感じた。んーまぁ、それを言うてしまうと、戦闘中に、外部スピーカーだか共通周波数でやってるのか分からないが、「おめーはよぅ、人殺しを楽しんでるんだ!」とか言い合いながら殴り合い殺しあうってのが、いまいち僕はよぅ分からん。ロボットものをあまり見ないというか、好んでいないのは、そんなシーンが原因かもしれない。
(そういう意味では、とある投稿サイトにて読める、万物に宿る魔素に対しての意思力=魔力を用いて騎兵をかりだす作品は面白い。最近更新がされない。まだかなぁ。)
言葉って、それが罵りであっても呪詛であっても、それだけで「コミュニケーション」なのである。「死ねぇぇぇ!」とか言いながら襲い掛かってくる敵役が存在する作品は、どこかそれだけでコミカルな印象を抱いてしまう。(もちろん、そうでもしなければ、物語として描きにくいのは確かであるのだが)
そういう意味で、凶悪三日月とか評価されたりしているようだが、作品全般的な印象として、ダークさをあまり感じなかった。いやこれは、いい意味で、物語として楽しめた、ということなのであるけれども、何となく、雰囲気が「軽い」ように思ってしまった。ゆえに、主要キャラの一人であり、結構好きだったポッチャリした軍師的立ち位置の団員が戦死してしまったシーンも、何となく、そんなに泣けなかったのである。
んーなんだ。無意味な批判ばっかしてしまったな。なんというか、面白かったか面白くなかったか、といわれると、面白かったと答える。何せ、投げ出さずちゃんと最後まで見たのだから間違いない。そして、第二期も見てみようと思ったことからも、良い作品だったことは疑いえない。
しかし、何か足りなかった。
うーむ。ヒロインが好みじゃなかったからなのかなぁ。しかし、よく考えてみると、どんなヒロインが好みなんだ俺? なんか、結構これについては、好みがここ数年、変わってきている気がしてならないが……最近の作品で考えると、進撃の巨人のミカサとかハンジさんは結構好きである(変な人が好きになったのか?)。
他は……うーん、昔は、最終兵器彼女のちせちゃんが好きだった気がするが、今はもうそんなん無いなぁ。
なんの話や。
明るい記事について
拍手コメにて、明るい話を所望されてから暫く経った。また、ある方のコメントにて、「敢えてしないことをする」のも大事なんじゃないかと頂いた。
よしじゃあやってみよう。
最近、絶好調である。
特に、仕事で後輩ができて、色々仕事を教えているが、「先輩! ここ、教えてもらっていいですか?」「さすがですね、よくそれほど深いところまでご存知ですね」「(仕事のスピードが)早いですね……」と、よく慕ってついてきてくれている。正直、やってること自体は、もはや自分においては当たり前のレベルに思い、むしろ、もっと強烈な先輩とかできる人たちを見てきているので、決して自分が優れているなどとは思えない。思えない、のだけれど、それでも、「すごいです!」「教えて頂いてありがとうございます!」とか言われると、悪い気はしない。
(うまくのせられているとか、お世辞に過ぎないだろうとか、僕は瞬時に同時に思うのだけれども、これは、「明るい記事」なので、そんなことは書かない(書いてるじゃねーか))
上司からも頼りにされている。職制以上に活躍してもらってありがとうと、褒められもして、評定では実際高い評価も頂いた。
お客さんから厳しいことを言われることもあるけれども、「話が分かりやすい」とか「面倒なことも親身に対応してくれてありがとう」とか感謝もされた。
とても充実している毎日である。
帰りが遅いこともあるけれども、ある程度時間のコントロールを自分でもできるので、調整して早く帰ることもできる。帰りには、美味しいお寿司屋さんによったり、お酒を嗜んだりもできる。
ゴールデンウィークは何の予定もなくて暇だなぁと思っていたら、転勤により中々会えなくなった親しい友人から、会おうというお誘いもいただいた。
身体も健康そのものである。時折腹痛で悩まされることもあるが、フルーツ食べたりビタミンCを多くとるようにしているからか、身体の調子もよい。筋トレの成果も、思いがけず出ていることも嬉しい。楽しくなって、筋トレメニューを一つ増やしたりもしている。
とてもとても、充実している毎日である。
ああ、生きていてよかった。本当に、人生幸せである。
明るいというか自慢じゃね?
明るい記事……これ、面白いんだろうか?こんなの、よく考えると、まったく書いたことなかったので、新鮮ではある。
というよりも、これは明るいというより、単なる自慢なんじゃなかろうか?
しかし、明るいのと自慢との違いもよく分からない。そもそも、だれに僕は自慢しようというのだろうか。というか、上のようなことが、自慢なんだろうか? 他者に認められるということ、認知されるということが自慢なんだろうか? 何か「できること」があるということが、自慢なんだろうか?
じゃあ、自慢と、誇りとは何が違うのか。そんなの、修辞(レトリック)に過ぎないのではないか。実際、受け手(読者)が、どう感じるか――気持ち良ければ「尊敬」とか「誇り」であり、不快であれば「自慢」とうつるだけではなかろうか。
そもそも、僕は先日の「不安の概念」の記事だって、反転したポジティブ(明るい)記事だと思っている。そもそも、明るいも、暗いも、そんなの、誰が決めるねん。読んだ人っしょや。書き手が、「明るい」も「暗い」も、意識して書くなんて、そりゃどだい難しいことである。それを成し遂げるのであれば、もはやそれは創作のテクニック的な問題になるだろう。
果たして、オルフェンズは、「ダークな」表現を意図したものだったのだろうか?
僕は、その点については感じられなかったが、むしろある程度の「軽さ」によって、安心(世界観崩壊が起こらないだろうという期待をもって)してみることができた。
そういう意味では、少し論理飛躍であるが、結局、僕自身が、明るい暗いと思ったところで、それは他者にとって意味あるものではない。「反転したポジティブ」なんて、そんなこと、ほとんどの人は理解できない――というよりも、理解する必要がそもそもない。対面コミュニケーションにおいては、表裏なく、明るければそれでいい。
どんどんダークになっていく
よし、今日は、これぐらいで打ち切っておこう。さもなければ、いつものように、段々とダークに偏っていってしまうだろう(かっこわらい)。結局さ、物語も、そして人生も、「ポジティブ」なんて求められていないんじゃないか?
そりゃ、最終的なハッピーエンドは、みんな求めてるわけじゃん?
でもさ、ハッピーエンドがあるってことは、そのプロセスは、山あり谷あり激しい起伏があるわけじゃん。
僕があんまり好きじゃない言葉で、「若いうちは苦労しろ」的なのがあんじゃん?
あれって、結局、苦労した分だけ、成功したときの嬉しさとか達成感とか、その人自身の価値を高めてくれるから、って理由なわけじゃん。
んじゃーさ。やっぱり、「人は苦しむために生まれてきた」という表現って、正しいってことだよね。もちろん、「苦しみ」ってのも相対概念に過ぎなくて、上の表現も、「人は幸せになるために生まれてきた」と換言することも容易なわけじゃん。
でもそもそも、その「幸せ」ってのが、対義の「苦しみ」が前提とされているわけだよね。
だから、幸せな、明るい人生を送りたいって人は、たくさん苦労しなきゃならんわけだ。その分だけ、リターンがあるかもしれんわけだ。それが、「攻める人生」だ。
でもさ、どこまで攻め続けるの? 死ぬまで? 株価みたいに、ジグザグ(悩み苦しみ、幸せや成果を掴みを繰り返し)しながら、それでも段々上昇していって、そして、死ぬっての?
OK。それもまた、とっても人間っぽい。かっこいい。そういう人がきっとモテる。きっと、大半、大勢の人の価値観って、そっちの方なんだと思う。
が。
なんつーか、俺は、なんかそれ、「変」だと思ってる。
これまで、表立って言ってこなかったけれども、やっぱり、そういう価値観が絶対ってのは、おかしい気がする。
むしろ、いつまでたっても人は争い続けて、いじめだってなくならないし、傷つけ、傷ついているその理由の一つが、「攻める人生」の人ばっかだからなんじゃあないかと思う。
いやさ、非常に、書き損じていること、書き洩らしていることが多いことを思って、恥ずかしい思いでいっぱいな状況ではあるんだけれども、それでも、一度、「変」だと思うことは書き残しておこう。
スローライフ推奨ではない
いやさ、その「攻める」というのが、自己の内面に向かっていくのであればいいよ。自分の成長を第一義に考えるってことだ。今日の俺は、昨日の俺には絶対勝ってやる! という感覚。それは何かかっこいいと思う。「ストイック」という生き方も、僕はかっこいいと思う。決して、「スローライフ」といって、頑張らないことを美徳にしたい、とか、そんなことではないのだ。
ただ、「我」をぶつけあって、それで、「俺たちは後ろには下がれない。戦い続けるしかないんだ」とかいって、自分たちの生きざまがとことん正しいとしてやっていくということに、僕はなんつーか、違和感というか、――いや、むしろ、嫌悪的なのを感じる。
そういうところに、オルフェンズへの物足りなさがあったんかなぁ。
三日月くんもカッコいいんだけど、「オルガ(幼馴染・親友)が言うなら、俺はついてくよ」とか、信頼がとても美しく心をうつのだけれども、今この文脈でよく考えると、なんか肯定できんのだよな。
んー。というような感想をもつことができたということで、反転してオルフェンズは傑作だったといえるだろう。
(やはり是非2期も見てみよう)
PR
コメント
>明るい記事
バールさんコメントありがとうございます。普段慣れないことをやったので、この記事大丈夫かとかなり心配していましたが、コメント頂けて救われた感じがしました。ありがとうございます!
>ただ、そのせいで敵に作戦がバレて負けるとかそういうアホ展開にならない限りは、「外連味」の範疇で納得することにしてますがww
「ケンカのプロ」は、逆にケンカにならない、なっても優位に戦える状況をつくったりするとも聞いたことがありますし、「メンチ切る」的な意味とか、士気向上鼓舞といった意味とか、納得させる材料はいろいろ考えられそうですね~。細かいところにチマチマ言うのは野暮って奴ですね。
>二期だとこの印象ががらりと変わり、戦う理由がことごとく受動的になります。ここがまたなんかモヤモヤするところでもあるのですが(深刻に利害が対立するわけでもないのにつっかかってくる敵ばっか)、バエル登場回までは大きな問題もなく面白いと思います。それ以降が……(目頭を押さえる)
早速3話ぐらいまで見てますが、とりまず現状は楽しく見れてます! これがどうなっていくのか、バールさんのコメントや記事などを既に読んだ身として、逆に楽しみであります!
>攻めの人生の功罪は当方も思いを致すところではありますが、まぁ……いろんな力が働いて今の世界になったんだなぁ、という何の役にも立たない消極的現状肯定しか出てこなかったです……
仰る通り、その「消極的な現状肯定」というのが重要に思います。
「だから、こんな世界は間違ってる! こうしなきゃなんねーんだ!」
っという、かっこいい価値観が非常に認めずらい世の中なんだと思うのです。
結局、「こうするのがみんなのためになるんだ! 世界は平和になるんだ!」って声高々に主張することが、結果として「我」のぶつかり合いになってしまうという矛盾。
ゆえに、リーダーも、政治家も、知識人も、僕らも、大衆も、組織も、会社も、みんな「消極的な現状肯定および漸進的な改革」しか言えなくなってしまう。
オルフェンズも、最後まで見てないから何とも言えませんが、オルガさんたちの「攻めの人生」が結局は敗北してしまうということなのでしょう。クーデリアさんの最終的な立ち位置が気になるところですが、現状の政治体制(ギャラルホルン)がテロリスト(鉄華団とマッキー)に一石を投じられるも漸進的改革を成し遂げる、そんなテーマというか結末なんじゃないかと、見る前から思ってるわけですが。
んでまー、「おとな」な人たちは、そんなこともっと何十年も前から分かってるんでしょうが、じゃあ、僕が、個人が、自己が、さぁじゃあこういった時代をどう生きるべきかってことが、このブログのテーマなんじゃないかって、こじつけしながら終わります。
バールさんコメントありがとうございます。普段慣れないことをやったので、この記事大丈夫かとかなり心配していましたが、コメント頂けて救われた感じがしました。ありがとうございます!
>ただ、そのせいで敵に作戦がバレて負けるとかそういうアホ展開にならない限りは、「外連味」の範疇で納得することにしてますがww
「ケンカのプロ」は、逆にケンカにならない、なっても優位に戦える状況をつくったりするとも聞いたことがありますし、「メンチ切る」的な意味とか、士気向上鼓舞といった意味とか、納得させる材料はいろいろ考えられそうですね~。細かいところにチマチマ言うのは野暮って奴ですね。
>二期だとこの印象ががらりと変わり、戦う理由がことごとく受動的になります。ここがまたなんかモヤモヤするところでもあるのですが(深刻に利害が対立するわけでもないのにつっかかってくる敵ばっか)、バエル登場回までは大きな問題もなく面白いと思います。それ以降が……(目頭を押さえる)
早速3話ぐらいまで見てますが、とりまず現状は楽しく見れてます! これがどうなっていくのか、バールさんのコメントや記事などを既に読んだ身として、逆に楽しみであります!
>攻めの人生の功罪は当方も思いを致すところではありますが、まぁ……いろんな力が働いて今の世界になったんだなぁ、という何の役にも立たない消極的現状肯定しか出てこなかったです……
仰る通り、その「消極的な現状肯定」というのが重要に思います。
「だから、こんな世界は間違ってる! こうしなきゃなんねーんだ!」
っという、かっこいい価値観が非常に認めずらい世の中なんだと思うのです。
結局、「こうするのがみんなのためになるんだ! 世界は平和になるんだ!」って声高々に主張することが、結果として「我」のぶつかり合いになってしまうという矛盾。
ゆえに、リーダーも、政治家も、知識人も、僕らも、大衆も、組織も、会社も、みんな「消極的な現状肯定および漸進的な改革」しか言えなくなってしまう。
オルフェンズも、最後まで見てないから何とも言えませんが、オルガさんたちの「攻めの人生」が結局は敗北してしまうということなのでしょう。クーデリアさんの最終的な立ち位置が気になるところですが、現状の政治体制(ギャラルホルン)がテロリスト(鉄華団とマッキー)に一石を投じられるも漸進的改革を成し遂げる、そんなテーマというか結末なんじゃないかと、見る前から思ってるわけですが。
んでまー、「おとな」な人たちは、そんなこともっと何十年も前から分かってるんでしょうが、じゃあ、僕が、個人が、自己が、さぁじゃあこういった時代をどう生きるべきかってことが、このブログのテーマなんじゃないかって、こじつけしながら終わります。
posted by 遠藤at 2017/04/29 16:17 [ コメントを修正する ]
苦悩してない遠藤さんを見ると逆に心配になってくるのでたまにはいいものですね!!
>言い合いながら殴り合い殺しあうってのが、いまいち僕はよぅ分からん。
現場の判断で勝手に敵とコンタクトをとるとか、軍規上あってはならないことでしょうし、違和感ありますよねあのへん。鉄華団や海賊はまぁいいとして、ギャラルホルンはやっちゃ駄目だろと。
ただ、そのせいで敵に作戦がバレて負けるとかそういうアホ展開にならない限りは、「外連味」の範疇で納得することにしてますがww
>攻めの人生
二期だとこの印象ががらりと変わり、戦う理由がことごとく受動的になります。ここがまたなんかモヤモヤするところでもあるのですが(深刻に利害が対立するわけでもないのにつっかかってくる敵ばっか)、バエル登場回までは大きな問題もなく面白いと思います。それ以降が……(目頭を押さえる)
攻めの人生の功罪は当方も思いを致すところではありますが、まぁ……いろんな力が働いて今の世界になったんだなぁ、という何の役にも立たない消極的現状肯定しか出てこなかったです……
どうすればいいのか? わからない……わからないんだ……