今日の一言「自己啓発的なタイトルにしてみた」「多分内容との一致は望めない」
具体的には書かないけれども、旅行的なサムシングと、イベント(パーティー)的なサムシングである。まぁこんなもんで後で思い出すには困らないと思う。
あと、「オーシャンまなぶ」掲載中の分は、全部読んだ。十字道、ワンパンマン以来にめちゃ面白い作品だった。「フラットランド」をモチーフにした解説があったり、知的好奇心が刺激される漫画である。
あと、身体が痛いのである。内臓的な痛みではないが、これもやっかいだ。集中力が奪われていく。
あと、「1年前の記事」を読み返していると、「つまらなかった」。
何故だろうか。「実感」がこもっていないからか。「実感」が今のソレと異なっているからか。
いやしかし、その忙しさを文章で表現するというのはやや困難だ。
とりあえず、突発的な電話対応や「相談」が面倒くさい。
面倒というか、今やっている仕事の中断が、再始動とリスケに面倒くささをかさましするのである。
タスクが3つあって、10時間、5時間、8時間で、計23時間で終わるスケジュールだとして、その合間に2時間の作業が追加されたとき、単純な25時間では終わらないということである。
何故そうなるかというと、作業準備と、思考のカムバックができない(難しい)からだ。
忙しいという表現が抽象的なので、具体的に書けば、帰宅時間は22時~25時ぐらいである。
割と忙しい部類に入ると思う。
しかし、どれも、最後まで見られていない。きっと、帰宅がある程度早ければ、ぼけーっとしながら夕食を食べつつ、見ているんだろうが、そういう時間が取れないため、じゃあ、土日とか休日のどっちか数時間を使って見ればよいのだが、そこまでの動機付けが与えられない。=要するに、「眠い」とか「ルーチン」に勝てない。
しかし、上で少しふれたように、「眠い」に勝てない。
早く帰れるように改善をした方が良いだろう。
まぁしかし、期限が厳しいため忙しいプロジェクトが2つあって、それが過ぎれば、落ち着く想定ではある。――ところが、落ち着いたらきっとまた新たに課題が発生するのではないかという気がする。
――そういう意味で、「きりがない」と思う。
このきりのなさというのは、正直、例えは悪いが、飲食店のアルバイト的なのではなければ、解決しないと思われる。
今の仕事を辞めたとしても、別の仕事でどうなるかは分からない。「少し」改善されるかもしれない。23時帰宅が、21時帰宅になるかもしれない。
しかし、そうなる前の、新しい環境へ慣れるためのコスト(ストレス的な)を考えて、果たして妥当かと思うと、要検討……どころか、現状は却下である。
もっと多角的に考えれば、仕事より、単純に引越しをして、会社の近くに住めば、1時間αかかっている時間を、30分にでもできれば、それだけで楽になるだろう。
基準(スタンダード)の構築及び維持になるため。
(2) その2
思考を必要としない行動が可能になるため。
(3) その3
感情を統制できるため。
何がその人にとって、大切なことなのか、というのは分からない。
その時の自分の行動が、適切かどうか、分からない。
――ああ、もう、つまらん。つまらんこと書いても仕方がないのに。
何か、「批判的思考」が強く生じるのである。ビジュアル的に強い漫画とかアニメとか映画はともかく、小説も本も最近読めなくなってきている。
――と思って、近くの本を手に取って読みだすと……あれ、まぁまぁ、面白いじゃん……となった。
ふむ……やはり、精神的な「余裕度」「ゆとり」的なのが減少していることがいけないんだろうと思う。
そう、ルーチンの良さは、技術――というか、思考を、衰退させることを止めることにも役立つ。「維持」だ。
疲れると、眠くなる。
しかし、眠りは、問題を解決しない。
他者に相談することが、根源的に役に立たないと僕は前から書いていたと思うけれども、それと眠りは密接に関係する。
「寝たら元気になるさ」
というのは、一面ではもちろん正しいが、根源的解決には役に立たない。
一方で、眠りは、眠いという感情的動きは、身体的にも根付いているため、いかんとも制御しがたい。
対策として有効なのは、「風呂に入る」「エアコンの温度を下げる(めっちゃ涼しくする)」「外に出て歩く」だ。
それ以外、「ない」。あったら教えてほしい。
栄養ドリンクも、効果はなくはない。ただ、あれは、眠いが原因の頭痛や身体のだるさを軽減してくれる効果であると思う。
(僕が、「インプット」といっているのは、記銘の部分だ。長期記憶、短期記憶といったものがあるが、これは少し概念が違う)
記銘と保持の違いは、難しい部分だと思う。僕は、瞬間的なインプットが、記銘であり、ある程度の期間維持できていることを、保持だと考えている。
記憶は、脳の海馬に保持されて、古い記憶になると大脳皮質(外側)に移行するという。
情報の記銘の前線基地にあたるのが、五感の器官であって、例えば眼。視覚情報は海馬にためられる、その過程に、感情という要素が関係している。
サブリミナル効果といわれる、無意識の働きだ。好き、嫌いという判断は、「思考」するのではなく、無意識の内に判断がなされているのである。
さて、そうした記憶と、「感情」との境界線はどこにあるのだろうか。
記憶を、まるまる何か別の装置や媒体に保存できたとき、そこに、「感情」も移行できるものなのか。たぶん、無理な気がする。そして、それをなしているのが、自我であり、攻殻機動隊的に言えば「ゴースト」である。
我々人間は、たんぱく質の塊であるが、そこには、神秘的な現象が起こっているのである。
神秘的といってしまうと、オーシャンまなぶのグラーヴェ氏はお怒りになるだろうが、しかし、人類にまだ解明できていない部分だと思われる。
秋だ。焼き芋がおいしい季節だ。食べる、旨い。これは、僕という自我における、焼いたサツマイモが「好き」という事実だろう。
そう考えたとき、「好き」ということを懐疑するというのは、詭弁に思われることである。
人類普遍の6原則について復習しよう。
人を傷つけてはいけない、復讐はしてもいい、善行には返礼すべき、嘘はつかない、約束は守る、弱者を守る。
おお、1か月前ぐらいに復習してから、一切思い返していなかったが、スムーズにアウトプットできた。よかったよかった。こうやって繰り返していくと、長期記憶(大脳皮質)に移行するのだろうか。それとも、海馬にとどめおくことができるということだろうか。記憶に関しての現代科学的知見がまとまった情報をインプットしたいな。
話は戻るが、「好き」というのは幅広い。おいしい食べ物が好き、なのは生理的次元である。人と会話するのが好きというのとは、次元が違う。単純接触効果というのも心理学にあるらしく、長く触れているとと好きになるということもあるようだ。
「好き」は変化しうる。
そうした曖昧なものを根拠に、生活をしていいのか。人生を送っていいのか。疑問が生じる。
感情とは何か。それは「その人自身」(自我)ではなかろうか。
前書き
人と会うのが面倒くさいと書きながら、まぁそれなりに(具体的に書けば2つ)初体験をした。具体的には書かないけれども、旅行的なサムシングと、イベント(パーティー)的なサムシングである。まぁこんなもんで後で思い出すには困らないと思う。
あと、「オーシャンまなぶ」掲載中の分は、全部読んだ。十字道、ワンパンマン以来にめちゃ面白い作品だった。「フラットランド」をモチーフにした解説があったり、知的好奇心が刺激される漫画である。
あと、身体が痛いのである。内臓的な痛みではないが、これもやっかいだ。集中力が奪われていく。
あと、「1年前の記事」を読み返していると、「つまらなかった」。
何故だろうか。「実感」がこもっていないからか。「実感」が今のソレと異なっているからか。
仕事
クソ、忙しい。いやしかし、その忙しさを文章で表現するというのはやや困難だ。
とりあえず、突発的な電話対応や「相談」が面倒くさい。
面倒というか、今やっている仕事の中断が、再始動とリスケに面倒くささをかさましするのである。
タスクが3つあって、10時間、5時間、8時間で、計23時間で終わるスケジュールだとして、その合間に2時間の作業が追加されたとき、単純な25時間では終わらないということである。
何故そうなるかというと、作業準備と、思考のカムバックができない(難しい)からだ。
忙しいという表現が抽象的なので、具体的に書けば、帰宅時間は22時~25時ぐらいである。
割と忙しい部類に入ると思う。
創作
妖怪人間ベムと、コップクラフトと、ヴィンランドサガ、あたりを視聴する。受け身過ぎる。しかし、どれも、最後まで見られていない。きっと、帰宅がある程度早ければ、ぼけーっとしながら夕食を食べつつ、見ているんだろうが、そういう時間が取れないため、じゃあ、土日とか休日のどっちか数時間を使って見ればよいのだが、そこまでの動機付けが与えられない。=要するに、「眠い」とか「ルーチン」に勝てない。
個人
勉強を、するようにしている。しかし、上で少しふれたように、「眠い」に勝てない。
問題点
こうやって書いていくと、仕事が悪い気がするな。早く帰れるように改善をした方が良いだろう。
まぁしかし、期限が厳しいため忙しいプロジェクトが2つあって、それが過ぎれば、落ち着く想定ではある。――ところが、落ち着いたらきっとまた新たに課題が発生するのではないかという気がする。
――そういう意味で、「きりがない」と思う。
このきりのなさというのは、正直、例えは悪いが、飲食店のアルバイト的なのではなければ、解決しないと思われる。
今の仕事を辞めたとしても、別の仕事でどうなるかは分からない。「少し」改善されるかもしれない。23時帰宅が、21時帰宅になるかもしれない。
しかし、そうなる前の、新しい環境へ慣れるためのコスト(ストレス的な)を考えて、果たして妥当かと思うと、要検討……どころか、現状は却下である。
もっと多角的に考えれば、仕事より、単純に引越しをして、会社の近くに住めば、1時間αかかっている時間を、30分にでもできれば、それだけで楽になるだろう。
ルーチンが大事な理由
(1) その1基準(スタンダード)の構築及び維持になるため。
(2) その2
思考を必要としない行動が可能になるため。
(3) その3
感情を統制できるため。
何がその人にとって、大切なことなのか、というのは分からない。
その時の自分の行動が、適切かどうか、分からない。
――ああ、もう、つまらん。つまらんこと書いても仕方がないのに。
面白いことを書きたい
物語に入り込めない現象を感じる。何か、「批判的思考」が強く生じるのである。ビジュアル的に強い漫画とかアニメとか映画はともかく、小説も本も最近読めなくなってきている。
――と思って、近くの本を手に取って読みだすと……あれ、まぁまぁ、面白いじゃん……となった。
ふむ……やはり、精神的な「余裕度」「ゆとり」的なのが減少していることがいけないんだろうと思う。
眠いとの対立
ようやく、書いていて少し面白くなってきた。そう、ルーチンの良さは、技術――というか、思考を、衰退させることを止めることにも役立つ。「維持」だ。
疲れると、眠くなる。
しかし、眠りは、問題を解決しない。
他者に相談することが、根源的に役に立たないと僕は前から書いていたと思うけれども、それと眠りは密接に関係する。
「寝たら元気になるさ」
というのは、一面ではもちろん正しいが、根源的解決には役に立たない。
一方で、眠りは、眠いという感情的動きは、身体的にも根付いているため、いかんとも制御しがたい。
対策として有効なのは、「風呂に入る」「エアコンの温度を下げる(めっちゃ涼しくする)」「外に出て歩く」だ。
それ以外、「ない」。あったら教えてほしい。
栄養ドリンクも、効果はなくはない。ただ、あれは、眠いが原因の頭痛や身体のだるさを軽減してくれる効果であると思う。
記憶の外部保存
記憶は、記銘、保持、再生という3つの過程がある。(僕が、「インプット」といっているのは、記銘の部分だ。長期記憶、短期記憶といったものがあるが、これは少し概念が違う)
記銘と保持の違いは、難しい部分だと思う。僕は、瞬間的なインプットが、記銘であり、ある程度の期間維持できていることを、保持だと考えている。
記憶は、脳の海馬に保持されて、古い記憶になると大脳皮質(外側)に移行するという。
情報の記銘の前線基地にあたるのが、五感の器官であって、例えば眼。視覚情報は海馬にためられる、その過程に、感情という要素が関係している。
サブリミナル効果といわれる、無意識の働きだ。好き、嫌いという判断は、「思考」するのではなく、無意識の内に判断がなされているのである。
さて、そうした記憶と、「感情」との境界線はどこにあるのだろうか。
記憶を、まるまる何か別の装置や媒体に保存できたとき、そこに、「感情」も移行できるものなのか。たぶん、無理な気がする。そして、それをなしているのが、自我であり、攻殻機動隊的に言えば「ゴースト」である。
我々人間は、たんぱく質の塊であるが、そこには、神秘的な現象が起こっているのである。
神秘的といってしまうと、オーシャンまなぶのグラーヴェ氏はお怒りになるだろうが、しかし、人類にまだ解明できていない部分だと思われる。
感情とは何か
好きなことを仕事にしなさい、とか、ホリエモン氏などは言うだろうが、そもそも、「好き」とは何かということを、僕は懐疑する。秋だ。焼き芋がおいしい季節だ。食べる、旨い。これは、僕という自我における、焼いたサツマイモが「好き」という事実だろう。
そう考えたとき、「好き」ということを懐疑するというのは、詭弁に思われることである。
人類普遍の6原則について復習しよう。
人を傷つけてはいけない、復讐はしてもいい、善行には返礼すべき、嘘はつかない、約束は守る、弱者を守る。
おお、1か月前ぐらいに復習してから、一切思い返していなかったが、スムーズにアウトプットできた。よかったよかった。こうやって繰り返していくと、長期記憶(大脳皮質)に移行するのだろうか。それとも、海馬にとどめおくことができるということだろうか。記憶に関しての現代科学的知見がまとまった情報をインプットしたいな。
話は戻るが、「好き」というのは幅広い。おいしい食べ物が好き、なのは生理的次元である。人と会話するのが好きというのとは、次元が違う。単純接触効果というのも心理学にあるらしく、長く触れているとと好きになるということもあるようだ。
「好き」は変化しうる。
そうした曖昧なものを根拠に、生活をしていいのか。人生を送っていいのか。疑問が生じる。
感情とは何か。それは「その人自身」(自我)ではなかろうか。
あとがき
(かっこ書きである。面白くない記事で申し訳ない限りである。しかし、「感情と記憶」というテーマは面白いと思う。環境、感情、記憶。どれもが密接に関わりあう。環境と感情のインタフェースが「感覚」だ。感覚を適切に操作できれば、感情を操作し、やがて記憶も操作できるようになるのかもしれない。一方記憶。これはむしろ、機械的な情報のように思われる。しかし、ハードディスクに保存されている1or0の情報を読み込むととは違う。結局、記憶を保存したところで、読み込むには、視覚情報等が必要になるのである。インタフェースは視覚情報による「感覚(器官)」となる。そうではなくて、電脳的に、インタフェースレスに、情報の読み書きができるとすれば、それは、感情への影響も増大するのは明白である。グロい映像情報は、視覚情報としてのインタフェースだが、それをシームレスに脳内に流し込めるとすれば、それは、現実として眼で見たのと、ほぼ同じ意味を持つのではないか。そうなれば精神攻撃爆弾のようなことも可能だ。自分の大切な子供が拷問の末に殺された動画情報が流し込まれたときに、それがフェイクである可能性を「思考」として推測できたとしても、その圧倒的情報のインプットによって、感情が破壊されてしまうのである。――とかって物語をもっと書きたいし読みたい。人間の感覚を拡張する何か情報革命は今後ないのだろうか。それがAR(拡張現実)というものだが、僕が今思っているのはそれとはちょっと違う。視覚情報以外の部分での何か)PR
小林泰三の『C市』が元ネタかと思ってましたが、さらに元ネタがあったのか……!