今日の一言「良かった」「いや逆に何があったら『悪かったなのか』」
実は、「毎日〇〇を続ける!」というのはあるけれども、週に1回とか、月に1回とか、そういった作業はあまりやったことがない(それか、記憶に残っていない)。
土曜日に更新する、という規定が良かったのかもしれない。基本休日であるという条件と、曜日が決まっていると覚えやすいという条件によって。
あと、「前書き」から始められるというのは心理的負担が少ない。結構いつも、最初の小見出しをどうしようか悩んでいたのである。
「埒外」と「怯懦」である。
「らちがい」と「きょうだ」と読む。
想像の埒外だ――などと、「枠から外れたこと」を指す。
怯懦な性格だ――などと、「おくびょうできのよわいこと」を指す。
正直に書こう。
どちらも、意味としては分かっていた(あっていた)が、一番目は読めていたが、二番目は、「ほうじゅ」と読んでいた。お恥ずかしい。「きょうだ」と読むのか。自分の無知さに怯懦で強打。
まぁ、埒外はともかく、「怯懦」は、言葉として知らなくても、日常生活もビジネスでも困ることはないだろう。これらは「教養」部分だと思う。
何故勉強しなければならないのか?
この疑問は、日本人なら誰しも抱くものだが、しかしながら途上国・後進国においては、発生しない疑問だろう。いわゆる教育が義務かどうかによるだろう。
国は教育を受けさせる義務があり、我々は教育を受ける権利がある。
だから、個人の主義主張感覚思考問わず、みんなが教育を受けるから、「何故?」という疑問が発生するのだ。
教育が義務でなければ、「勉強しなくてもいいから、さっさと働け」である。
まぁそれはそうと、何故勉強しなければならないかに対しての答えの一つとして、「教養を身に着けるため」というのがある。ただ、これは、実感に乏しい説明だろう。「何故勉強を……」などと思う人にとっては、「教養なんてなくても生きていける」と思う。
しかし、現代においては、実用的な知識と、教養上の知識についての境界が、グレーになっているといえる(勝手に思いついただけなので、エビデンスを出せとか言われても分からない)。
まぁ思い付きでも、理由があるから書いていけば、仕事というのが、「価値をつくる」というものであるからだ。
経済の対象は、モノとサービスだが、どちらも、付加価値が利益となる。しかし果たして、最低限生きていくのに必要な仕事というものを想定し、それに有する知識やスキルを「実用的な知識・スキル」と定義したときに、「最低限生きていくのに必要な仕事」というのは何だろうか。
人は水を飲んで、エネルギー源を摂取できたら生きられる。エネルギーだけじゃあ病気のリスクが高いから、じゃあ、ミネラルやビタミンも必須だとしても、「食」があればよいということになる。
服と建物がないと寒い。衣住も必要だろう。
んじゃあ、農業と、水道業と、アパレルと、建築業界があればいいのか。それ以外は贅沢品なのか。
たぶん、半分正解で、半分間違い。
定義の問題に過ぎない。
何の?
「生きる」
ということのだ。
現代社会で忘れてはいけないのが、「電気」だろう。
電気がなければ、スマホもパソコンも使えない。
でも、本来的には、電気がなくても、人という種は生きることができるはずなのだ。
要は、勉強というのは、個の処理能力を高めるための方法の一つである。勉強だけしててもダメだ。体もメンテナンスしとかんといかんだろう。
んでその個の処理能力を高めるというのに、「競争」という手段が、現状は最適とされているけれども、行き過ぎた競争は破綻する。
要は、自分との闘いである。
A氏が100%で成し遂げたことを、B氏は50%でやってのけるかもしれない。
絶対評価では、B氏は100点で、A氏は50点。
相対評価では、A氏は100点で、B氏は50点。
評価の難しいところである。
しかし、問題はそこだけじゃなくて、評価の「対象」もそうだ。
カオスな自然に対しての「数値化」は、あくまで人為的なものであることを認識するべきである。
もちろん、それはとても役立つことで否定されることではないが、それが常に絶対条件ではないことに気付くべきだ。
という、根本的に評価が非常に難しいという前提があるから、「人と比べても仕方がないよ」という励ましが有用になるのだけれども、その前提が知らない人に、「自分は自分、人は人だよ」と慰めたところで、心には響かない。
「でもだって、自分は周りと比べてあんなことも、こんなこともできないんだ……」
ここで僕は、日和見的に、「役に立たない人なんていない。みんな、何かしらの役に立っているんだ」なんて風に思えない。
「役立たずは、役立たずだ」
――なんだけれども、しかし、最初の方に書いたことを思い出してほしい。
「生きる」定義ってなんなのか。
食べて、寒くなく寝て、繁殖するだけなら、世の大半の仕事は不要だ。
もう一つ、慰めを書けば、個人事業主以外で仕事をしていて、職場に馴染めず、自分の意義が感じられない人は、給与明細をみてみればよい。たくさん「控除」されている。税金だ。税金とは何か、国や地方公共団体に収めるお金だ。税金は、公共のサービスのために使われる。そう、あなたがいくら会社で「役立たず!」呼ばわりされていても、給料をもらっている以上は、日本社会に貢献できているのだ!!
しかし、半分正解ではある。
要は、定義の問題だ。
いっくら公共サービスに貢献していようが、その会社の中で役立たず呼ばわりされていたら苦痛である。
もっといえば、消費活動だって、消費税があるんだから、貢献している! と思おうと思えば、思ってもいいのだ。
ただ、そういった(屁)理屈と、自分との感覚のギャップは問題にすべきである。
どんなに正論でも、もっともらしい理屈でも、自分に合わないものは「間違い」なのだ。
(ここでいつも、快楽殺人犯を例に挙げたくなる。この問題が、僕は中々しっくりくる「納得感」が得られないところだ。「自分」は大事だと思うが、しかし、多種多様な「自分」を総体的に認めるということは、いったいどういう現象になるのか。――という僕の考えや感覚はともかく、現代社会においては、「切り捨てる」という手段が取られている。死刑や監獄への隔離。それは十分機能しているといえる。じゃあ恒久普遍の正解なのか? それは疑義を呈してもいいと思う)
>「人を不快にするコンテンツの発信は許されるのか」
について、考えてみたいと思う。
いやぁ、許されるでしょ。
と、僕は取り敢えず、創作者の端くれとして言いたいと思う。
ただこうなると、先入観にとらわれて、うまく情報が整理できないかもしれない。しかし、上に書いてきたように、まず、「自分」を基準に考えないと、結局きれいな理屈が構築されても、「納得」できなくなる。だから、取り敢えずこのまま進めよう。
で、その、何故許されるのか。
創作だからだ。
というのが、初めに思いつく理由である。
グランド・セフト・オートというゲームがあって、オープンワールドのクライム(犯罪)アクションだ。
現実に、市街地を200km/hで爆走したり、無辜の市民をロケットランチャーで爆殺したりしたらダメ、ゼッタイ。
しかし、ゲームはゲームである。
5作目は、リアルな映像と相成って、結構な没入感があるけれども、だからといって、「おーっし、現実でもセブンイレブンで強盗すっか!」とはならない。
なる人もいる! というのが、否定派の主張だが、しかし果たして本当か。
残虐拷問の歴史をちょいと見てみたまえ。歴史じゃなくて、今でもそういう国がある。インドのサティーという風習をご存じだろうか。現代ではさすがにないのだろうが、19世紀ぐらいまでは続いていたらしい(WIKI)。
津山30人殺しは、20世紀の事件だ。テレビも十分に普及してなかったろうし、ましてやコンシューマ型ゲーム機やパソコンなんてない時代だ。
残虐なゲームの有無はともかく、人間は残虐な心(も)をもっているというのが、僕の人間観である。
もちろん、それだけじゃなかろうが、逆に、「面白い(残虐な)ゲームによって、現実の事件の抑止力になっている」とかって可能性もあるんじゃなかろうか(これも根拠薄弱だろう)。
氏は、その差を「目的」であると書かれていた。
前者は、故意に嫌がることをしているのに対し、後者は故意ではない(嫌がらせることを目的としていない)違いであるということだ。
なるほどそのとおりと思う。
しかし、氏も触れられているが、「目的(動機)の違いがあっても、人を不快にさせたという事実は事実」でもある。
僕はこの部分に、改めて、現実と二次元は違う、ということを持ち出したいと思う。
コンテンツの発信は、あくまでも二次元なのである。実写だろうが、文字媒体だろうが、絵だろうが、二次元という媒体は、そこに、受信者の選択制が介在する。
「いやなら見るなバーカ!」は、正当な主張なのである。
いやまて、コンテンツ発信という手段を通じて「嫌がること」が発生したのだとしたら、それは手段の違いであって、直接手を下したのと間接的に攻撃したのとの違いで、どっちもどっちではないか。いやそういうことではない。
例えば、18禁コンテンツを見るときに(さらっと普段から見ているような書き方になったが、そういう意味じゃないんだからね! みてるけど)、「あなたは18歳以上ですか?」とワーニングされるだろう。あれは、法律がどうこういう問題とは関係なく、非常に重要なのだ。フィルタリングなのだ。見たくない人は、みないことができるのだ。
僕は、「歩きスマホ」と、「歩きたばこ」どっちが重罪かというと、断然、問答無用に後者だと思っている。歩きたばこは、避けようがないのだ。歩きスマホは、ちょっと避ければいいだけだ。その、「自己回避可能性」の概念は、僕は非常に大きいと思うのである。
なので、「人が嫌がるコンテンツ」を、誰の目にも回避しようなく映るような発信の仕方は、僕も認められるべきではないと思う。
つまり、大層な「現実」様であるが、しかし、その現実における「正しい絶対普遍の条件」というものも、また存在しないのである。――というのは、僕が諸行無常・諸法無我という考え方に近しいから、という個人思考的な問題であるのだけれども、ただ、覚えておいて良い観点の一つだとは思う。
稚拙なたとえになるが、昨今、エスカレータで右側(関西では左側)を空けるのをやめようという方向性になっているようだ。理由、危ないから。
僕は正直、そんな、危ないんだろうか、注意して歩けばいいんじゃないかと思ってしまうが、まぁ、それがルールになるなら別に従ってもいいかなぐらいに思う。
つまんない、些末な例えのようだけれども、問題としては似ていて、「エスカレータを歩く」というのが「嫌だ」という人が増えたから、そういうルールになろうとしているのだろう(増えた、というのは、単純な人数ではないことは分かっている。「風潮」というか、「リスク」に対する考え方の変化も関係する)。でも、「急いでいる人のことを慮って、片方を開けておく」というのだって、大切な考え方の一つだったはずなのだ。そのマナーが生きていた頃は、聳え立つ要塞のようにエスカレータの真ん中に立つ人は「嫌な奴」だったはずなのだ。
(かっこ書きである。珍しく……もないけれども、本文が長くなったので、かっこ書きはやめておく。ただ、書いておきたいのは、「不快なコンテンツ」というのは、これは主観概念だ。僕は山椒とかの「しびれ」の味覚が不快だけれども、好きな人もいるのだろう。山椒を世界から排除せよ、という主張は成り立たない。不快なコンテンツといったところで、それが不快どころか感動する人もいるかもしれないのだ。「不快」の基準をだれが決めるのか。決められるのか。決められないなら、ゾーニングした上で認めるしかない、と思うのである。甘ちゃんかなぁ、でも、今のところそれぐらいしか思い浮かばない)
前書き
いいぞいいぞ、続けられている。週刊更新。実は、「毎日〇〇を続ける!」というのはあるけれども、週に1回とか、月に1回とか、そういった作業はあまりやったことがない(それか、記憶に残っていない)。
土曜日に更新する、という規定が良かったのかもしれない。基本休日であるという条件と、曜日が決まっていると覚えやすいという条件によって。
あと、「前書き」から始められるというのは心理的負担が少ない。結構いつも、最初の小見出しをどうしようか悩んでいたのである。
今週の役に立つこと
何か役に立つことをちりばめたいと書いた。今回は、「埒外」と「怯懦」である。
「らちがい」と「きょうだ」と読む。
想像の埒外だ――などと、「枠から外れたこと」を指す。
怯懦な性格だ――などと、「おくびょうできのよわいこと」を指す。
正直に書こう。
どちらも、意味としては分かっていた(あっていた)が、一番目は読めていたが、二番目は、「ほうじゅ」と読んでいた。お恥ずかしい。「きょうだ」と読むのか。自分の無知さに怯懦で強打。
まぁ、埒外はともかく、「怯懦」は、言葉として知らなくても、日常生活もビジネスでも困ることはないだろう。これらは「教養」部分だと思う。
何故勉強しなければならないのか?
この疑問は、日本人なら誰しも抱くものだが、しかしながら途上国・後進国においては、発生しない疑問だろう。いわゆる教育が義務かどうかによるだろう。
国は教育を受けさせる義務があり、我々は教育を受ける権利がある。
だから、個人の主義主張感覚思考問わず、みんなが教育を受けるから、「何故?」という疑問が発生するのだ。
教育が義務でなければ、「勉強しなくてもいいから、さっさと働け」である。
まぁそれはそうと、何故勉強しなければならないかに対しての答えの一つとして、「教養を身に着けるため」というのがある。ただ、これは、実感に乏しい説明だろう。「何故勉強を……」などと思う人にとっては、「教養なんてなくても生きていける」と思う。
しかし、現代においては、実用的な知識と、教養上の知識についての境界が、グレーになっているといえる(勝手に思いついただけなので、エビデンスを出せとか言われても分からない)。
まぁ思い付きでも、理由があるから書いていけば、仕事というのが、「価値をつくる」というものであるからだ。
経済の対象は、モノとサービスだが、どちらも、付加価値が利益となる。しかし果たして、最低限生きていくのに必要な仕事というものを想定し、それに有する知識やスキルを「実用的な知識・スキル」と定義したときに、「最低限生きていくのに必要な仕事」というのは何だろうか。
人は水を飲んで、エネルギー源を摂取できたら生きられる。エネルギーだけじゃあ病気のリスクが高いから、じゃあ、ミネラルやビタミンも必須だとしても、「食」があればよいということになる。
服と建物がないと寒い。衣住も必要だろう。
んじゃあ、農業と、水道業と、アパレルと、建築業界があればいいのか。それ以外は贅沢品なのか。
たぶん、半分正解で、半分間違い。
定義の問題に過ぎない。
何の?
「生きる」
ということのだ。
現代社会で忘れてはいけないのが、「電気」だろう。
電気がなければ、スマホもパソコンも使えない。
でも、本来的には、電気がなくても、人という種は生きることができるはずなのだ。
小見出し変える
役に立たないことが大半を締め出したので小見出しを変える。要は、勉強というのは、個の処理能力を高めるための方法の一つである。勉強だけしててもダメだ。体もメンテナンスしとかんといかんだろう。
んでその個の処理能力を高めるというのに、「競争」という手段が、現状は最適とされているけれども、行き過ぎた競争は破綻する。
要は、自分との闘いである。
A氏が100%で成し遂げたことを、B氏は50%でやってのけるかもしれない。
絶対評価では、B氏は100点で、A氏は50点。
相対評価では、A氏は100点で、B氏は50点。
評価の難しいところである。
しかし、問題はそこだけじゃなくて、評価の「対象」もそうだ。
カオスな自然に対しての「数値化」は、あくまで人為的なものであることを認識するべきである。
もちろん、それはとても役立つことで否定されることではないが、それが常に絶対条件ではないことに気付くべきだ。
という、根本的に評価が非常に難しいという前提があるから、「人と比べても仕方がないよ」という励ましが有用になるのだけれども、その前提が知らない人に、「自分は自分、人は人だよ」と慰めたところで、心には響かない。
「でもだって、自分は周りと比べてあんなことも、こんなこともできないんだ……」
ここで僕は、日和見的に、「役に立たない人なんていない。みんな、何かしらの役に立っているんだ」なんて風に思えない。
「役立たずは、役立たずだ」
――なんだけれども、しかし、最初の方に書いたことを思い出してほしい。
「生きる」定義ってなんなのか。
食べて、寒くなく寝て、繁殖するだけなら、世の大半の仕事は不要だ。
もう一つ、慰めを書けば、個人事業主以外で仕事をしていて、職場に馴染めず、自分の意義が感じられない人は、給与明細をみてみればよい。たくさん「控除」されている。税金だ。税金とは何か、国や地方公共団体に収めるお金だ。税金は、公共のサービスのために使われる。そう、あなたがいくら会社で「役立たず!」呼ばわりされていても、給料をもらっている以上は、日本社会に貢献できているのだ!!
定義
詭弁っぽい。しかし、半分正解ではある。
要は、定義の問題だ。
いっくら公共サービスに貢献していようが、その会社の中で役立たず呼ばわりされていたら苦痛である。
もっといえば、消費活動だって、消費税があるんだから、貢献している! と思おうと思えば、思ってもいいのだ。
ただ、そういった(屁)理屈と、自分との感覚のギャップは問題にすべきである。
どんなに正論でも、もっともらしい理屈でも、自分に合わないものは「間違い」なのだ。
(ここでいつも、快楽殺人犯を例に挙げたくなる。この問題が、僕は中々しっくりくる「納得感」が得られないところだ。「自分」は大事だと思うが、しかし、多種多様な「自分」を総体的に認めるということは、いったいどういう現象になるのか。――という僕の考えや感覚はともかく、現代社会においては、「切り捨てる」という手段が取られている。死刑や監獄への隔離。それは十分機能しているといえる。じゃあ恒久普遍の正解なのか? それは疑義を呈してもいいと思う)
不快なコンテンツの創造について
では、関連して、先週書けたら書こうとしていた、>「人を不快にするコンテンツの発信は許されるのか」
について、考えてみたいと思う。
いやぁ、許されるでしょ。
と、僕は取り敢えず、創作者の端くれとして言いたいと思う。
ただこうなると、先入観にとらわれて、うまく情報が整理できないかもしれない。しかし、上に書いてきたように、まず、「自分」を基準に考えないと、結局きれいな理屈が構築されても、「納得」できなくなる。だから、取り敢えずこのまま進めよう。
で、その、何故許されるのか。
創作だからだ。
というのが、初めに思いつく理由である。
グランド・セフト・オートというゲームがあって、オープンワールドのクライム(犯罪)アクションだ。
現実に、市街地を200km/hで爆走したり、無辜の市民をロケットランチャーで爆殺したりしたらダメ、ゼッタイ。
しかし、ゲームはゲームである。
5作目は、リアルな映像と相成って、結構な没入感があるけれども、だからといって、「おーっし、現実でもセブンイレブンで強盗すっか!」とはならない。
なる人もいる! というのが、否定派の主張だが、しかし果たして本当か。
残虐拷問の歴史をちょいと見てみたまえ。歴史じゃなくて、今でもそういう国がある。インドのサティーという風習をご存じだろうか。現代ではさすがにないのだろうが、19世紀ぐらいまでは続いていたらしい(WIKI)。
津山30人殺しは、20世紀の事件だ。テレビも十分に普及してなかったろうし、ましてやコンシューマ型ゲーム機やパソコンなんてない時代だ。
残虐なゲームの有無はともかく、人間は残虐な心(も)をもっているというのが、僕の人間観である。
もちろん、それだけじゃなかろうが、逆に、「面白い(残虐な)ゲームによって、現実の事件の抑止力になっている」とかって可能性もあるんじゃなかろうか(これも根拠薄弱だろう)。
現実と二次元
要するに、現実と二次元は密接に関わりながら、全く異なるものだ、という、当たり前のことである。「うるせえ!! 人の気持なんか知るか!! 俺は俺のスキを表現する!! その結果どれだけ人が不快になろうが知るか!! いやなら見るなバーカ!!」「人が嫌がることをする」のは疑いなく悪いことだ。では「人が嫌がることをする」のと「人が嫌がるコンテンツを発信する」ことの差はどこにあるのか。――螺旋のモノリス
氏は、その差を「目的」であると書かれていた。
前者は、故意に嫌がることをしているのに対し、後者は故意ではない(嫌がらせることを目的としていない)違いであるということだ。
なるほどそのとおりと思う。
しかし、氏も触れられているが、「目的(動機)の違いがあっても、人を不快にさせたという事実は事実」でもある。
僕はこの部分に、改めて、現実と二次元は違う、ということを持ち出したいと思う。
コンテンツの発信は、あくまでも二次元なのである。実写だろうが、文字媒体だろうが、絵だろうが、二次元という媒体は、そこに、受信者の選択制が介在する。
「いやなら見るなバーカ!」は、正当な主張なのである。
いやまて、コンテンツ発信という手段を通じて「嫌がること」が発生したのだとしたら、それは手段の違いであって、直接手を下したのと間接的に攻撃したのとの違いで、どっちもどっちではないか。いやそういうことではない。
例えば、18禁コンテンツを見るときに(さらっと普段から見ているような書き方になったが、そういう意味じゃないんだからね! みてるけど)、「あなたは18歳以上ですか?」とワーニングされるだろう。あれは、法律がどうこういう問題とは関係なく、非常に重要なのだ。フィルタリングなのだ。見たくない人は、みないことができるのだ。
僕は、「歩きスマホ」と、「歩きたばこ」どっちが重罪かというと、断然、問答無用に後者だと思っている。歩きたばこは、避けようがないのだ。歩きスマホは、ちょっと避ければいいだけだ。その、「自己回避可能性」の概念は、僕は非常に大きいと思うのである。
なので、「人が嫌がるコンテンツ」を、誰の目にも回避しようなく映るような発信の仕方は、僕も認められるべきではないと思う。
あと一つ
しかし、もう一つの疑義を、僕は書いておきたい。つまり、大層な「現実」様であるが、しかし、その現実における「正しい絶対普遍の条件」というものも、また存在しないのである。――というのは、僕が諸行無常・諸法無我という考え方に近しいから、という個人思考的な問題であるのだけれども、ただ、覚えておいて良い観点の一つだとは思う。
稚拙なたとえになるが、昨今、エスカレータで右側(関西では左側)を空けるのをやめようという方向性になっているようだ。理由、危ないから。
僕は正直、そんな、危ないんだろうか、注意して歩けばいいんじゃないかと思ってしまうが、まぁ、それがルールになるなら別に従ってもいいかなぐらいに思う。
つまんない、些末な例えのようだけれども、問題としては似ていて、「エスカレータを歩く」というのが「嫌だ」という人が増えたから、そういうルールになろうとしているのだろう(増えた、というのは、単純な人数ではないことは分かっている。「風潮」というか、「リスク」に対する考え方の変化も関係する)。でも、「急いでいる人のことを慮って、片方を開けておく」というのだって、大切な考え方の一つだったはずなのだ。そのマナーが生きていた頃は、聳え立つ要塞のようにエスカレータの真ん中に立つ人は「嫌な奴」だったはずなのだ。
(かっこ書きである。珍しく……もないけれども、本文が長くなったので、かっこ書きはやめておく。ただ、書いておきたいのは、「不快なコンテンツ」というのは、これは主観概念だ。僕は山椒とかの「しびれ」の味覚が不快だけれども、好きな人もいるのだろう。山椒を世界から排除せよ、という主張は成り立たない。不快なコンテンツといったところで、それが不快どころか感動する人もいるかもしれないのだ。「不快」の基準をだれが決めるのか。決められるのか。決められないなら、ゾーニングした上で認めるしかない、と思うのである。甘ちゃんかなぁ、でも、今のところそれぐらいしか思い浮かばない)
PR
コメント
ご本人降臨ありがとうございますありがとうございます。
うーむうーむうーむ……難しい問題だと思っておりましたが、難しいですね。
触れたくない情報を可能な限り削除するべきだ――という意見、これを「ザマス」として、「そんなん気にすんな」が通らないのは、「いやいじめてないっスよwwwただのいじりですよwww」を認めなければならなくなる。
何故ならば、パワハラ、セクハラ、モラハラ、様々なハラスメントからも分かるように、「受け手」は圧倒的に「弱い」存在だから、「受け手」側の主張感情を認めなければ公平な裁定とはならないから――。
なるほど、そうしたら確かに、「不健全な」コンテンツの発信は許されるものではないのか……。
いや、しかし待ってください。
「パワハラじゃねえよ、指導だよ」等々は、立場や状況が異なる場合、ポジショントークの場合であって、コンテンツの発信者側と受信者側でその関係はそのまま成り立つのか。
いやまて、バール氏はパワハラ的なことを言っているのではない、いじめの加害者と被害者は、どうか、だ。
不健全なコンテンツの発信は、「人が嫌なことをする」点で、広義のいじめなのではないか、と。
いやぁ、でもやっぱりそれ(いじめと不健全なコンテンツの発信)は、同様とは言えないと感じます。全然理屈じゃないのですが、何か違う気がする。
こういうときは、もう少し具体的に考えてみる。
ええと、「不健全なコンテンツ」とは何か。いわゆる、エロ・グロ・犯罪・ロリなどか。いやしかし、「不倫」ってコンテンツは何なのか。なんかよう知らんが、昼頃にやってるドラマ的なサムシングではそんなシーンがあるようなイメージ。それは偏見としても、不倫が発生するコンテンツってのは少なくない気がする。ま、確かに、不倫を推奨する作品ってのはあんまりないかもしれない。一応悪いこととして描かれる。それが悲劇的要素だったりする――つまり、「不健全さ」というのは、物語のスパイスだったりする。
バール氏が、ゲームオブスローンズで、腕切おじさんやラムジー氏の拷問に何の意味があるのかこれ必要なのかと感じられた点について、ああ確かに、あんまり意味があるとは思えないなぁ何でだろうと後から自分は思ったのですが、最初は、「うわっ」とか思いつつ、「こんなことになるんか……」と想像だにしない展開に意表を突かれて呆然としていた気がします。いい意味でも悪い意味でも、展開が自分の想像を超えてくる作品だと、「目が離せない」という感じにさせてくれるもので、そういう手法なのかなと。
もっと自分に引き付けて具体例を考えよう。あとは、そうだな、「NTR(ネトラレ)」は、好きじゃあない。むしろ気分が悪くなる。
なんか、「裏切り」とか「人を貶める」のも好きじゃない。
好きじゃないんだけど、じゃあ、そういう要素を、徹底的に排除すべきかというと、それはどうしても違う気がする。
うーむ。全然理屈にならないな。
いわゆる、「ザマス」とは何なのか。もうちょっと、歩み寄れる部分があるのか。
ザマスは、何故「不健全なコンテンツ」を削除しようとするのか。またそれは、何をもって不健全と思っているのか。後者は難しいから、前者を先に考えれば、おそらく「自分が不愉快だから」という自分勝手な理由ではないはずだ。ザマスはザマスなりに、人類の平和と発展を希求しているのだ。その方法が違うだけなのだ(とまずは信じてみる)。
そうしたときに、何故不健全なコンテンツを排除すると、人類の平和と発展が成し遂げられるのか。
それは、不健全なコンテンツとは、文字通り不健全だから、実際にあってはならないことであって、そうしたものを創造の世界だけだとしても、世の中に生み出すというのは危険だから、ということだ(としよう)。
>完璧な選択制は不可能
であると同時に、完璧な情報統制はまた不可能と考えられる。
何故ならば、人間は創造し、概念を扱う生き物だからだ。一切合切不健全なことを、毫も違わず思い描かない人間がいるだろうか。幾人かはいるかもしれないが、それが全人類みな広がるとは思いづらい。
「いやそんな極端な話じゃないザマス。グロは不要ザマス」
という、個別的な点を突いてくるかもしれない。しかし、表現の規制というのは、どうしたって恣意的にならざるえないから、一つ二つ規制しだすと、歯止めが利かなくなる可能性がある。あとルールは、新しく決めることよりも、変更することのほうが大変だったりする。「〇〇は規制」となって、あとから大勢の人が「やっぱり〇〇は認めてもいいんじゃ……」となったところで、中々変えられなくなる。
……コメント欄書きずらいな。ちょっと一度投稿してから、自分ももう一度読み直します。
>その現実における「正しい絶対普遍の条件」というものも、また存在しないのである。
これ、「ポジショントークの押し付け合い」という意味もありましたが、存在しないからこそ、考える余地もあれば、話し合う余地もあるし、新しく決めることもできるもんだと思うんです。往々にして押し付け合いになっちゃうんですが、しかし、反対派の意見に耳を貸さなくなったら、それはそれで何か勝っても負けって気がします――ってどうしていい子ちゃん的なこと書いてるんだ俺は。
うーむ、いろいろ書いてきましたが、やっぱり現状は表現規制に関しては反対ですね。というか、そもそも「必要性」がよく分かっていない。とにかくレイゼロを視聴しろという話ですね――ということで、1話をまずみる。
うーむうーむうーむ……難しい問題だと思っておりましたが、難しいですね。
触れたくない情報を可能な限り削除するべきだ――という意見、これを「ザマス」として、「そんなん気にすんな」が通らないのは、「いやいじめてないっスよwwwただのいじりですよwww」を認めなければならなくなる。
何故ならば、パワハラ、セクハラ、モラハラ、様々なハラスメントからも分かるように、「受け手」は圧倒的に「弱い」存在だから、「受け手」側の主張感情を認めなければ公平な裁定とはならないから――。
なるほど、そうしたら確かに、「不健全な」コンテンツの発信は許されるものではないのか……。
いや、しかし待ってください。
「パワハラじゃねえよ、指導だよ」等々は、立場や状況が異なる場合、ポジショントークの場合であって、コンテンツの発信者側と受信者側でその関係はそのまま成り立つのか。
いやまて、バール氏はパワハラ的なことを言っているのではない、いじめの加害者と被害者は、どうか、だ。
不健全なコンテンツの発信は、「人が嫌なことをする」点で、広義のいじめなのではないか、と。
いやぁ、でもやっぱりそれ(いじめと不健全なコンテンツの発信)は、同様とは言えないと感じます。全然理屈じゃないのですが、何か違う気がする。
こういうときは、もう少し具体的に考えてみる。
ええと、「不健全なコンテンツ」とは何か。いわゆる、エロ・グロ・犯罪・ロリなどか。いやしかし、「不倫」ってコンテンツは何なのか。なんかよう知らんが、昼頃にやってるドラマ的なサムシングではそんなシーンがあるようなイメージ。それは偏見としても、不倫が発生するコンテンツってのは少なくない気がする。ま、確かに、不倫を推奨する作品ってのはあんまりないかもしれない。一応悪いこととして描かれる。それが悲劇的要素だったりする――つまり、「不健全さ」というのは、物語のスパイスだったりする。
バール氏が、ゲームオブスローンズで、腕切おじさんやラムジー氏の拷問に何の意味があるのかこれ必要なのかと感じられた点について、ああ確かに、あんまり意味があるとは思えないなぁ何でだろうと後から自分は思ったのですが、最初は、「うわっ」とか思いつつ、「こんなことになるんか……」と想像だにしない展開に意表を突かれて呆然としていた気がします。いい意味でも悪い意味でも、展開が自分の想像を超えてくる作品だと、「目が離せない」という感じにさせてくれるもので、そういう手法なのかなと。
もっと自分に引き付けて具体例を考えよう。あとは、そうだな、「NTR(ネトラレ)」は、好きじゃあない。むしろ気分が悪くなる。
なんか、「裏切り」とか「人を貶める」のも好きじゃない。
好きじゃないんだけど、じゃあ、そういう要素を、徹底的に排除すべきかというと、それはどうしても違う気がする。
うーむ。全然理屈にならないな。
いわゆる、「ザマス」とは何なのか。もうちょっと、歩み寄れる部分があるのか。
ザマスは、何故「不健全なコンテンツ」を削除しようとするのか。またそれは、何をもって不健全と思っているのか。後者は難しいから、前者を先に考えれば、おそらく「自分が不愉快だから」という自分勝手な理由ではないはずだ。ザマスはザマスなりに、人類の平和と発展を希求しているのだ。その方法が違うだけなのだ(とまずは信じてみる)。
そうしたときに、何故不健全なコンテンツを排除すると、人類の平和と発展が成し遂げられるのか。
それは、不健全なコンテンツとは、文字通り不健全だから、実際にあってはならないことであって、そうしたものを創造の世界だけだとしても、世の中に生み出すというのは危険だから、ということだ(としよう)。
>完璧な選択制は不可能
であると同時に、完璧な情報統制はまた不可能と考えられる。
何故ならば、人間は創造し、概念を扱う生き物だからだ。一切合切不健全なことを、毫も違わず思い描かない人間がいるだろうか。幾人かはいるかもしれないが、それが全人類みな広がるとは思いづらい。
「いやそんな極端な話じゃないザマス。グロは不要ザマス」
という、個別的な点を突いてくるかもしれない。しかし、表現の規制というのは、どうしたって恣意的にならざるえないから、一つ二つ規制しだすと、歯止めが利かなくなる可能性がある。あとルールは、新しく決めることよりも、変更することのほうが大変だったりする。「〇〇は規制」となって、あとから大勢の人が「やっぱり〇〇は認めてもいいんじゃ……」となったところで、中々変えられなくなる。
……コメント欄書きずらいな。ちょっと一度投稿してから、自分ももう一度読み直します。
>その現実における「正しい絶対普遍の条件」というものも、また存在しないのである。
これ、「ポジショントークの押し付け合い」という意味もありましたが、存在しないからこそ、考える余地もあれば、話し合う余地もあるし、新しく決めることもできるもんだと思うんです。往々にして押し付け合いになっちゃうんですが、しかし、反対派の意見に耳を貸さなくなったら、それはそれで何か勝っても負けって気がします――ってどうしていい子ちゃん的なこと書いてるんだ俺は。
うーむ、いろいろ書いてきましたが、やっぱり現状は表現規制に関しては反対ですね。というか、そもそも「必要性」がよく分かっていない。とにかくレイゼロを視聴しろという話ですね――ということで、1話をまずみる。
posted by 遠藤at 2019/01/28 23:17 [ コメントを修正する ]
>「面白い(残虐な)ゲームによって、現実の事件の抑止力になっている」とかって可能性もあるんじゃなかろうか
これ、確か海外で研究されてた記事を前に見たことがあります。
ここまではっきり明言されてたかはちょっと記憶が曖昧ですが、少なくとも「暴力的・犯罪的な内容の創作物に触れられる社会の方が犯罪件数は低下している。規制され触れられない社会の方が犯罪発生率が高い」みたいな結論でした。
私としては「ガス抜きできない社会の方が危険」みたいなニュアンスで受け取ったわけですが。
ちなみに、「実際に犯罪した人がそういうコンテンツに触れてた」みたいな主張に対しては「そもそも実際に犯罪に至るような奴がそういうコンテンツに興味持たない方が不自然でしょ」と思うわけで、「最終的に犯罪に至るような奴はコンテンツに触れようが触れまいが関係なくやってしまう」、「コンテンツに触れたことで思い止まる、ストレスのガス抜きになって現実の行動にまで至らない人もいるだろう」というのが私の考えですね。
そうでなくても私も規制には反対ですが。
一番の理由は「根本的に表現の幅が狭まってしまうから」でしょうか。
個というものを獲得した人類にとって、全員に受け入れられるようなコンテンツがないのと同様、全員に受け入れられないコンテンツというのも存在しないと思います。好き嫌いなんてのは個人に大きく左右されますし、自分が大嫌いな内容を、ある人は大好きかもしれない、逆も然り。
多様性ってそういうところもあると思いますし、創作って基本「私はこれが好きだ! 表現したいんだ!」ってものだと思うので、そこを否定されたり範囲狭めたりされるのは嫌です。
あと、創作的な観点から言うと、ストレスや不快さを感じる要素というのは、それを乗り越えたり、排除できたりした際のカタルシスを高める要素にもなりうるわけで、昼ドラとか刑事ものにありがちな不倫や犯罪的な要素ってのも、「悪いことをした報いを受ける」「悪いことをせざるを得なかった悲哀を描く、あるいはそこからの救いを描く」みたいな構図にすることで共感性を高めたり、物語としての起伏をつけたりしているところがあると思います。
極端な話、一般的に悪いと言われている全て規制して、不倫や犯罪が創作でも描けなくなってしまったら、刑事ものや昼ドラみたいなものもほとんど成立しなくなってしまいます。
「他人の不幸は蜜の味」とも良く言いますし。
嫌なら見るな、嫌なら避けろ、そのための警告や注意書きは徹底する、としてもネットが発達普及したことで、どうしたって、意図的かどうかに関わらず誰かによって警告や注意のワンクッションを飛ばして紹介されたり拡散されたりってことが発生してしまうのが問題でしょうね。
規制は緩めてゾーニングしよう、よりも「ザマス!!」が強いのはどうしてもそういうところでの流出というか、見たくないものを見せられてしまう可能性の存在を否定しきれないからだと思います。
だからってどんどん規制を続けていくと、「他人には理解できない(されない)が自分は好きなもの」まで規制される可能性もあるけどそこちゃんと考えてるの? 自分の好きなものは万人に受け入れられるものだと本気で思ってるの? ってのが個人的な思いですねぇ……。
規制するのは簡単ですけど緩めるのは難しいわけですし。
これ、確か海外で研究されてた記事を前に見たことがあります。
ここまではっきり明言されてたかはちょっと記憶が曖昧ですが、少なくとも「暴力的・犯罪的な内容の創作物に触れられる社会の方が犯罪件数は低下している。規制され触れられない社会の方が犯罪発生率が高い」みたいな結論でした。
私としては「ガス抜きできない社会の方が危険」みたいなニュアンスで受け取ったわけですが。
ちなみに、「実際に犯罪した人がそういうコンテンツに触れてた」みたいな主張に対しては「そもそも実際に犯罪に至るような奴がそういうコンテンツに興味持たない方が不自然でしょ」と思うわけで、「最終的に犯罪に至るような奴はコンテンツに触れようが触れまいが関係なくやってしまう」、「コンテンツに触れたことで思い止まる、ストレスのガス抜きになって現実の行動にまで至らない人もいるだろう」というのが私の考えですね。
そうでなくても私も規制には反対ですが。
一番の理由は「根本的に表現の幅が狭まってしまうから」でしょうか。
個というものを獲得した人類にとって、全員に受け入れられるようなコンテンツがないのと同様、全員に受け入れられないコンテンツというのも存在しないと思います。好き嫌いなんてのは個人に大きく左右されますし、自分が大嫌いな内容を、ある人は大好きかもしれない、逆も然り。
多様性ってそういうところもあると思いますし、創作って基本「私はこれが好きだ! 表現したいんだ!」ってものだと思うので、そこを否定されたり範囲狭めたりされるのは嫌です。
あと、創作的な観点から言うと、ストレスや不快さを感じる要素というのは、それを乗り越えたり、排除できたりした際のカタルシスを高める要素にもなりうるわけで、昼ドラとか刑事ものにありがちな不倫や犯罪的な要素ってのも、「悪いことをした報いを受ける」「悪いことをせざるを得なかった悲哀を描く、あるいはそこからの救いを描く」みたいな構図にすることで共感性を高めたり、物語としての起伏をつけたりしているところがあると思います。
極端な話、一般的に悪いと言われている全て規制して、不倫や犯罪が創作でも描けなくなってしまったら、刑事ものや昼ドラみたいなものもほとんど成立しなくなってしまいます。
「他人の不幸は蜜の味」とも良く言いますし。
嫌なら見るな、嫌なら避けろ、そのための警告や注意書きは徹底する、としてもネットが発達普及したことで、どうしたって、意図的かどうかに関わらず誰かによって警告や注意のワンクッションを飛ばして紹介されたり拡散されたりってことが発生してしまうのが問題でしょうね。
規制は緩めてゾーニングしよう、よりも「ザマス!!」が強いのはどうしてもそういうところでの流出というか、見たくないものを見せられてしまう可能性の存在を否定しきれないからだと思います。
だからってどんどん規制を続けていくと、「他人には理解できない(されない)が自分は好きなもの」まで規制される可能性もあるけどそこちゃんと考えてるの? 自分の好きなものは万人に受け入れられるものだと本気で思ってるの? ってのが個人的な思いですねぇ……。
規制するのは簡単ですけど緩めるのは難しいわけですし。
白銀さんありがとうございまっす!!
>暴力的・犯罪的な内容の創作物に触れられる社会の方が犯罪件数は低下している。規制され触れられない社会の方が犯罪発生率が高い
なるほどなるほど、やはりそういった研究もあるのですね。
>そもそも実際に犯罪に至るような奴がそういうコンテンツに興味持たない方が不自然
これは確かに(笑)。
なんかこう、「一線を超える」というのは、やっぱり大きな違いだと思いますね。不健全なコンテンツにのめり込むと不健全になるというのは、違和感があります。
――と書いて、「ザマス」は、あーもしかして、「不健全なコンテンツに触れること」そのものが不健全だからけしからん、ってことかと思いました。
つまり、結果的に犯罪行為にはしるかどうかとか関係なく、そうしたコンテンツを嗜むこと自体が断罪されるべきだと。
なるほど、そうなってくると、言いたいことは分からんでもない。
分らんでもないが……、じゃあ、「ダイエットしなきゃ~」といいつつお菓子を食べるのは如何か。
タバコはいうまでもないが、お酒は如何か。
夜更かしして友人たちとクラブやカラオケなどで遊ぶのは如何か。
コーヒーも中毒性があるからダメ。
車もバイクも危ないから不健全。
テレビも民放は不健全だからNHKだけ。
うーむ、やはり、「不健全な行為自体が不健全」というのは違和感がある。
アメリカの禁酒法も失敗したそうだし、ぎっちぎちに規制で縛るというのは社会システムとしてやっぱり無理があると思われる――それを、最大多数で選び取って、それでもなお規制すべきものは規制すべき――という漸近的な方法は可能性としてあるけれども、そんなことに労力使うよりかはよほど外交経済社会保障その他諸々やるべきことがあると思う。
うーむ、やはり、「ザマス」の必要性が分かりませんね……うだうだ言ってないでレイゼロ見ろってことか。
>規制は緩めてゾーニングしよう、よりも「ザマス!!」が強いのはどうしてもそういうところでの流出というか、見たくないものを見せられてしまう可能性の存在を否定しきれないから
そうなんでしょうなぁ。
この点しかし、本文で書きましたが、「現実と二次元は密接に関わりながら、全く異なるもの」という感覚が、おそらく「ザマス」にはないんだろうなぁと思わざる得ない。
自分がキリストのように磔にあったり、大泥棒のように釜茹でになったりするのは、そりゃあ嫌だけれども、そういった表現を「見る」ことまでを否定するというのは何故なんだろう。
この点は、レイゼロの1話をみて、この話が「AR(拡張現実)」をテーマにしていて、我々の知覚が高度に拡張されて、そのために「創作物(コンテンツ)」による知覚的影響がこれまで以上に強くなった世界――においては、創作物の規制は重要になってくる気がします。つまり、いくら「創作物だしww」といったところで、精神的ダメージはもはや現実のそれとは変わらないぐらい(人間が、ARと現実の区別ができないくらい)になったとしたら、それは手段を変えたいじめや攻撃やテロのようなものだと思います。
ただ、所詮は……といってしまっては元も子もないし、創作の価値自体を蔑んでしまいそうですが、紙や、ディスプレイごしの情報であるのだから、「精神的苦痛がッ!」というのは違和感になります。
あー、ただ、その「精神的苦痛」というのが、確かにその人その人によって違うから、HSP(ハイリーセンシティブパーソン)な人だったら、立ち直れないぐらいのダメージを受けてしまう可能性がある……という主張も成り立つということか。
んー、まぁ、それはそうかもしれない。
けれども、それって、包丁で怪我するかもしれないから、刃物は禁止ですというのと何が違うんだろうか。
やっぱり違和感なんだよなぁ、でもしかし、真正面からズバッと絶対普遍に「ザマス」は無価値だ、という理屈にもなっていないし、うーむうーむ、やっぱり難しいですね。
>暴力的・犯罪的な内容の創作物に触れられる社会の方が犯罪件数は低下している。規制され触れられない社会の方が犯罪発生率が高い
なるほどなるほど、やはりそういった研究もあるのですね。
>そもそも実際に犯罪に至るような奴がそういうコンテンツに興味持たない方が不自然
これは確かに(笑)。
なんかこう、「一線を超える」というのは、やっぱり大きな違いだと思いますね。不健全なコンテンツにのめり込むと不健全になるというのは、違和感があります。
――と書いて、「ザマス」は、あーもしかして、「不健全なコンテンツに触れること」そのものが不健全だからけしからん、ってことかと思いました。
つまり、結果的に犯罪行為にはしるかどうかとか関係なく、そうしたコンテンツを嗜むこと自体が断罪されるべきだと。
なるほど、そうなってくると、言いたいことは分からんでもない。
分らんでもないが……、じゃあ、「ダイエットしなきゃ~」といいつつお菓子を食べるのは如何か。
タバコはいうまでもないが、お酒は如何か。
夜更かしして友人たちとクラブやカラオケなどで遊ぶのは如何か。
コーヒーも中毒性があるからダメ。
車もバイクも危ないから不健全。
テレビも民放は不健全だからNHKだけ。
うーむ、やはり、「不健全な行為自体が不健全」というのは違和感がある。
アメリカの禁酒法も失敗したそうだし、ぎっちぎちに規制で縛るというのは社会システムとしてやっぱり無理があると思われる――それを、最大多数で選び取って、それでもなお規制すべきものは規制すべき――という漸近的な方法は可能性としてあるけれども、そんなことに労力使うよりかはよほど外交経済社会保障その他諸々やるべきことがあると思う。
うーむ、やはり、「ザマス」の必要性が分かりませんね……うだうだ言ってないでレイゼロ見ろってことか。
>規制は緩めてゾーニングしよう、よりも「ザマス!!」が強いのはどうしてもそういうところでの流出というか、見たくないものを見せられてしまう可能性の存在を否定しきれないから
そうなんでしょうなぁ。
この点しかし、本文で書きましたが、「現実と二次元は密接に関わりながら、全く異なるもの」という感覚が、おそらく「ザマス」にはないんだろうなぁと思わざる得ない。
自分がキリストのように磔にあったり、大泥棒のように釜茹でになったりするのは、そりゃあ嫌だけれども、そういった表現を「見る」ことまでを否定するというのは何故なんだろう。
この点は、レイゼロの1話をみて、この話が「AR(拡張現実)」をテーマにしていて、我々の知覚が高度に拡張されて、そのために「創作物(コンテンツ)」による知覚的影響がこれまで以上に強くなった世界――においては、創作物の規制は重要になってくる気がします。つまり、いくら「創作物だしww」といったところで、精神的ダメージはもはや現実のそれとは変わらないぐらい(人間が、ARと現実の区別ができないくらい)になったとしたら、それは手段を変えたいじめや攻撃やテロのようなものだと思います。
ただ、所詮は……といってしまっては元も子もないし、創作の価値自体を蔑んでしまいそうですが、紙や、ディスプレイごしの情報であるのだから、「精神的苦痛がッ!」というのは違和感になります。
あー、ただ、その「精神的苦痛」というのが、確かにその人その人によって違うから、HSP(ハイリーセンシティブパーソン)な人だったら、立ち直れないぐらいのダメージを受けてしまう可能性がある……という主張も成り立つということか。
んー、まぁ、それはそうかもしれない。
けれども、それって、包丁で怪我するかもしれないから、刃物は禁止ですというのと何が違うんだろうか。
やっぱり違和感なんだよなぁ、でもしかし、真正面からズバッと絶対普遍に「ザマス」は無価値だ、という理屈にもなっていないし、うーむうーむ、やっぱり難しいですね。
posted by 遠藤at 2019/01/29 22:45 [ コメントを修正する ]
俺がレイゼロを見て思ったのが、受信者側の選択権が、果たして完全に保証されているものなのだろうか、という恐れなのです。
当方も受け付けられないジャンルというものはありますし、自分からそれに近づくつもりはまったくないのですが、しかしネットやってたら嫌でも視界に入ってしまうことはある。そういうときに「ゲェーッ」と顔をしかめて即座にその場を去り、速やかに記憶を抹消するのであれば問題はないのですが、しかし人によってはそれがもっと深刻な精神的苦痛である場合も、ありうる。 まぁ、そういう人に対して俺は「そんなん気にしすぎだろ。気に入らないものを一切視界に入れないで済む人生なんかあり得んわボケが一生ネットすんなテレビも見るな目を開くなアホ」以外の感想などないのですが、しかしこの理屈には穴がある。人がどれだけ精神的苦痛を被ったかの判定など本人以外にはできないのであり、「気にしすぎだろアホ」を認めた場合、「いやいじめてないっスよwwwただのいじりですよwww」とか言ってるいじめ加害者の主張をも認めなくてはならなくなる。
完璧な選択制がもし実現できればこの問題は解消されますが、まず不可能である点と、そのような社会は「自分の好みのコンテンツ」以外の情報が一切入ってこない世界であり、それはそれで問題であるという点から、否定せざるを得ない。
じゃあ何? やっぱり「不健全なコンテンツはこの世から抹殺するザマス!!」とかほざいてる頭の沸いたアホの、気の狂った主張に対して何らかの譲歩をしなければならないの?
>その現実における「正しい絶対普遍の条件」というものも、また存在しないのである。
というアレで、ザマス!!!!が社会の最大多数派になった場合、やはりその言説があらゆる観点から言って正義、ということになってしまうように思えます。少数派が悪になるとは限らないが、多数派は必ず正義となる。
当方はザマス!!!!を心底から軽蔑してますが、冷静に考えて奴らを完全否定できる理屈を構築できないことに敗北感を覚えてもいるのであります……
「世の中ポジショントークの押し付け合いでバランス取ってんだろうが」とか絶無に言わせたりしてましたし、ザマス!!!!と同じレベルまで自分を貶めてポジショントークをかますのが必要だとしてもすごく嫌なんですよねー。でもやるしかないのか……