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朝30分で書く
2019/06/10 06:43 | Comments(3) | 思考及び書くこと
今日の一言「虚しさの対処」

前書き

 書くべきといったら、仕事が憂鬱だ、ということ。
 期待されていて、人間関係も悪くないのだが、それでも憂鬱なことに変わりはない。

 土日、ほとんど家の中で過ごしたが、具体的には何もできなかったな。
 からくりサーカスを少し見進められたぐらいであった。

「やる気」

 どこかにいってしまっている。

弱い男の生きづらさ

 これも読んだ。メンヘラの男に生きる価値はない、ということである。
https://menhera.jp/7699

 いや、曲解か。
 ただ、メンヘラの女と、男では、生きづらさの質に違いがあるという主張である。

 よく分かる。
 女性の権利が主張されるようになるとともに、弱い男というカテゴリが排除されている気がする。(気がするだけだ。だが、こういう問題は証明などどうせできまい)


 ――だが、上の記事でも(当然わかっていようが)抜けているのは、「女」としても、男に愛される(性欲の対象とされる)女だけではないのである。
 これは、単に不細工だとか太っているとか、そういう次元ではなくて、総合的に、「あ、ちょっと無理です」にカテゴライズされるということだ。そういう人もいる。

 だから、「女は結局逃げ道があっていいよね」(とは書かれていないが、僕はそう読み取った)という主張は、当てはまらないということである。男だから、女だから、イケメン(女性含む)だから不細工だから、といったカテゴライズは特に意味はない。


 もっといえば、「弱い男」というカテゴリも、「じゃあ、お前のスペック全部あげてみろよ」と言われたら、たぶん俺も、弱い男カテゴリからハブられるだろう。
 いじめられたいじめられたいじめられた、と呪いのように最近書いているが、しかし、俺の受けた言動に比べて、もっとひどいことされたという体験は見聞きするところだ。


やる気さん戻ってきてくれ

 だから。
 そのため、誰かと比較して、「ああ、自分はまだ恵まれているんだ」と感じることの無意味さを感じる。
 というか、そもそも感じない。苦しい人もいるんだな、――でも俺も苦しいんだぁぁぁ! と声なき叫びをあげるだけである。

 しかし果たして。
 俺は、どうなったら、「完全無欠に超幸せ」になるのだろうか。これが分からない。

 第一、多くの人たちは、不満を感じ、苛立ちを感じながら、日々充実した生活を送っているはずである。
 自分なんて生まれてこなければよかった、なんて考えて生きている人などいないだろう。そんな人がいたら悲劇だ。


 俺は、以前に比べてたくさんを得てきた。運がよかっただけかもしれない。だが、並々ならぬ苦労の結果であると結び付けてもよい。

 だから、といって、これから先も、同じように苦労しつつ、多少の安寧を得て、それで満足して生きていけばいいというのか。

人と関わらなければよいのか

 いろいろ悩みながら書いてきたせいで、もうそろそろ時間切れである。

 人と関わらなければ幸せなのだろうか。

 何故人と関わると疲れるのか。気を遣うからである。

 気遣い。

 100%フルマックスでいくと、こんなん(このブログ)みたいになる。誰も相手にしたくなかろう。

 だから、気遣う。普通を演じる。疲れる。

 やはり、このスパイラルなのだろう。


 若いころに、フルマックスでいられた人は、ちょうどいい塩梅によって、自分の開示ができるのだろうと思う。
 そうすると、人との付き合い方にそれほどストレスはないのだろう。

 俺は、中学……から、高校、大学、社会人になっても、自己開示は十分にできなかった、といえよう。
 とすれば、小学校の体験に端を発しているといえるのか。分からないが、だとしたらやや根深い。


 いや、回りくどい。
 そう、人と話していても、「飽きた」ってなるのである。

 これはやばい。
 他人にたぶん興味がないんだろう。
 他人だから当たり前か。

 いやそうじゃない。
 問題は、興味、そう興味である。

楽しいこと

 そうなのだ。「めちゃくちゃ楽しいッ!!!」ってことが不在である。これが問題だ。
 よかった、人付き合いがどうとか、そういう問題じゃなかったのだ。

 だが、それも書かねば分からなかったことだろう。

 とにかく、文字にして、文字にして、文字にしていかなければいけない。さもないと、何時間頭の中で考えていても、悩んでいても、鬱屈していても、無駄

 アウトプットとインプットは、バランスを取らなければいけない。こんな当たり前のことも、たびたび、アウトプットとインプットをしておかないと、忘れてしまうほどの凡夫なのだから、仕方がない。


 楽しいことがない。

 これは、言葉にすると極論になるが、しかし、端的に書くと事実である。
 しかし逆を返せば、俺は、今まで、楽しいことがあったのか。

 あった。
 素晴らしい作品に触れたときなど、その感動と余韻は、代えがたい貴重な体験だ。

 他者から何か得られたことはあるか。ない。――早い。ゼロ秒思考だった、今。
 いや、極論である。他者から与えてもらったものは多い。たくさんある。
 しかし、他者と一緒に何か行って、「めちゃくちゃ感動した!!」ということはないのだ。
 ここが問題だ。

 つまり、俺がむちゃくちゃ感動した、のは、常に、「一人」であったということだ。

時間切れ

 なんか、ここで話が終わったら、ヤバい奴、でしかない。まぁ実際そうだから仕方がないのか。

 いつものごとく、少し極論的に書いている。よくよく考えると、みんなで何か一緒にやって、「やったね!」ということが、なくはなかったのか……いや、あったのかなぁ。

 じゃあ、それって、俺の努力不足なのか、とかいうと、そういうことでもない気がする。
 部活とか、やったりしたけど、いろいろ、向いてなかったんだろう。本気になれなかったからいけない、と厳しく言われるかもしれないが、逆に、本気になれることとは思えなかった、というわけでもあるのだから。

 なるほど。意図せず、なんか新たな課題、というか問題も分かったな。
 誰かと協力して無茶苦茶楽しかった経験、というのが重要なのかもしれない。

 そう、「楽しかった」「充実した」というのは、基本的に、自分の技術や知識において、誰かの役に立った場合は非常に嬉しかったりするのだ。何か作ってそれが分かりやすかったとか、便利だったとか、面白かったとか言われたりするととても嬉しいのだ。

 でもそれは、「自分で作った」からなのだ。

 ……となってくると、自己承認欲求の塊野郎なのかもしれない。メンヘラだ(かっこわらい)。
 時間切れ。

(かっこ書きである。いまさら、そういったこと(団体協力感動)が無理なのだとしたら、果たしてどうすべきか。まぁ、歳をとればとるだけ、誰しも孤独になっていくのだから、より生きやすい世の中になるのかな。それはそうと、この、本当の直近の問題は、朝、やる気が起きずに、かといって眠れずに、もやもやした状態であるということだ。それと、上に掲げた引用記事は、わりと面白かった。この「面白かった」は不謹慎だが。に、しても、毎週毎週、「やる気」を探さなければいけない。困ったなぁ。ごみを捨てるとか、食器を洗うとか、ご飯を食べるとか(昨日は一食だけだった)も、やる気が起きなくなってくる。だが別に、病気ではないのだ。以前からよくあったことだ。だから特段心配はないのだ。ないのだが、憂鬱なことにかわりはない。何かほんとに、過程(プロセス)が「面白えええ」って、継続してできることが必要だ。たぶん、創作なのだ。しかし、平日帰りが遅いと、土日にそこまでの意識が働かなくなる。家事して、部屋を少し片づけるだけで、もう何もする気が起きなくなる。悪循環だ。――そうだ、やはり、平日帰りが遅くて、自分一人の時間が作れていないことが一番悪いのだ。そうだ、そうだ、そうだ!! よし、今日は21時には会社を出る。帰ってきたら、その結果をブログに書くぞ。よし、少しやる気回復)


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コメント

 今回の記事を読んで思ったのは、遠藤さんは「極端に停滞ができない(したくない)」のかな、ということでした。

 「完全無欠に超幸せ」というのが本質的に存在するのであれば、人間や生命体は恐らく存在する意味を失うと思います。
 というのも、生物は恐らく、「自己保存、種の保存のためにより良い状態(環境、感情、状況など総合的に)を求める」という性質が備わっていて、感動したり、良かったり、満足したりというプラスやポジティブな感情は瞬間的、刹那的で、後から思い返すことはできてもその時の快感を同じように得ることはできないようになっていると思うからです。
 つまるところ、新たな快感、より良い快感を求めて生命活動を続け、生きて行こうとするように出来ている。
 「誰もが満足する完璧な作品があれば新作は生まれなくなる」というのと発想的には同じです。
 人の場合であれば、完璧な頂点に至ってしまえばそれ以上生きるという理由がなくなってしまう。
 これも極論であって、遠藤さんが「いや、そこまでを求めているわけではないんだけど」と思うかもしれないことは承知していますが、スケールが違うだけで似たような話だと思うのですよね。

>「でも俺も苦しいんだぁぁぁ!」
 ここが丁度良い例かなと思うのですが、結局のところ、境遇や状況、過去の出来事などで恵まれている恵まれていないは、上も下もいくつも存在すると思うわけですが、その人自身が感じたことや主観としての感覚というのはその人にしか完全には理解できないものです。
 もっと○○な人はいる、それでもその人はそう感じてしまっていて、それはその人にとって絶対的な感情や価値観としてしか受け止められない。
 いくらもっと酷い状況の人がいる、もっと苦しんでいる人がいる、と言われても、当人ではない以上、その感覚を実感を伴って理解はできません。
 遠藤さんの「でも俺も苦しい」は遠藤さんだけのもので、それを他者の話で受け止め方を多少和らげたり、受け流し易く出来たとしても、その感覚は否定できるものでもなければ他者と比べて上下があったりするものでもないと思っています。せいぜい出来るのは「もっと上がいる、下がいる」と思い込むことでその感情の処理を無理矢理変化させる程度なんじゃないかな、と。

 そして、「よりよい幸せ、快感が得られる状態を目指す」ということにおいて、マイナスやネガティブな感情はプラスやポジティブに向かうための原動力として長く残ったり、根深く刺さったりするようにもできているように思います。
 「苦しいからどうにかしたい」「幸せになりたい」「充足を得たい」なんて、まさにその典型ではないかと思うわけです。比較対象的に、マイナスやネガティブな状態になったり、あったりしなければそういう発想自体が出てこない気がしますから。

 ここで冒頭に戻りますが、「楽しいことがない」というよりは、「楽しかった」という感情や感覚が薄れていることに敏感なんじゃないかと思うのです。遠藤さんも記事中で、「あった」と書いていますが、恐らくその当時の「楽しかった」に比べて度合いが磨り減って、「今思う楽しかった、今欲しい楽しかった、には足りない、何か違う」みたいな感覚になってたりするんじゃないかな、と。
 「でも俺も苦しい」も「人と話すのが飽きる」も、程度や価値基準的な差はあれ、私にも存在する感覚です。
 だから、そう思うこと自体には何ら間違っていたりおかしなことだという感想は私にはありません。
 その上で、遠藤さんは多くの人(いわゆる一般人)よりも、「停滞する(=意識無意識にかかわらず、妥協したり、満足していることにして過ごしていく)ということに対する忌避感が強い」んじゃないかな、と思いました。
posted by 白銀URLat 2019/06/10 18:28 [ コメントを修正する ]
ありがとうございますっ!!
朝の役に立たないマックススーパーな記事にコメントまで頂き、なんと嬉しいを越えて申し訳ありませんっ!!!

とりまず、読みましたボタン的に返信します。
朝は21時に帰るぞ!!っと思いつつ、色々突発的に入って結局これから(2230)帰ることとなり、なんとも不甲斐なさすぎる…。
posted by 遠藤at 2019/06/10 23:08 [ コメントを修正する ]
>生物は恐らく、「自己保存、種の保存のためにより良い状態(環境、感情、状況など総合的に)を求める」という性質が備わっていて、感動したり、良かったり、満足したりというプラスやポジティブな感情は瞬間的、刹那的で、後から思い返すことはできてもその時の快感を同じように得ることはできないようになっていると思うからです。

 呪いのようだなぁと思いつつ、非常に共感というか納得した部分でした。
 腑に落ちるというか、肺腑に染み渡るというか。

>つまるところ、新たな快感、より良い快感を求めて生命活動を続け、生きて行こうとするように出来ている。

 敢えてマイナスに表現すれば、ラットレースのようなもので、常に何か求めて走り続けるような存在。
 それが良い、悪いということではなく、まずは、本来的に人はそういうもんだということを納得しなければいけないと思っていました。しかし中々よい表現が見つからないというか、どう表現したらいいか分からず困っていました。
 そのつっかえが緩んだ、はずれた気がします。

 問題が解決した、というわけではないですが、問題の輪郭が見えてきたような気がしました。

>人の場合であれば、完璧な頂点に至ってしまえばそれ以上生きるという理由がなくなってしまう。

 そういうことですね。
 生きる意味を徹底的に考えるということと、快楽や幸せの追求とは相いれないもののような気がします。
 このあたりが自分の中でも、不快であったり、疑義だったりするんだなと思いました。

 感覚的矛盾。
 より良い状態を目指したいという思いは、生得的に備わっていながらも、決してその一度の体験で満足できるようにはなっておらず、次へ、次へ、次へと、新しい何かを探し続ける存在。

「そういうもんだ」
 と納得できる人も多いでのでしょう。ただ、私は何かそれが受け入れられなかった。
 そんな感じなんだろうなぁと思いました。

「停滞を受け入れられない」
 と表現していただきましたが、「別に停滞してもいいと思っているんだけどなぁ」と思いつつも、しかし、中々に適切な表現な気がしました。

>「停滞する(=意識無意識にかかわらず、妥協したり、満足していることにして過ごしていく)ということに対する忌避感が強い」

 そんな気がします。
 上や下がいることによって納得させられるのは、まやかしだと思っています。
 ――同時に、対処療法としては間違ってはいないやり方だとも思います。そういうやり方で、どうしようもない環境で自分を慰めることも時に必要な場面があるかもしれません。
 しかし、やっぱり、そういうのは一時しのぎでしかないと思ってしまいます。
 停滞(=妥協したり、満足すること)も必要なんでしょうが、そういうことをしようとすると、すぐさま自分フィルターが、「幻だ、まやかしだ、欺瞞だ」と語りかけてくるんですね。気にせず人を見下して生きられたらいいんでしょうが、そういうのができない。


 じゃあどうしようかな、というのは置いておいて、とにかく非常に貴重なコメントありがとうございました。
 忘れないように、また別途、記事でも取り上げさせて頂きたいと思います。
posted by 遠藤at 2019/06/12 07:47 [ コメントを修正する ]

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