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喉の痛みと自己啓発本批判およびアウトプット方針への揺らぎ
2012/02/01 21:29 | Comments(0) | TrackBack() | 思考及び書くこと
タイトルが混沌としているけれども、喉が痛いのと体の怠さから午前有給を使った。
今年はもちろん、入社して初めてのことだ。

ところで最近、本を読んではいるけれども、レビューがない。
書評、レビューを書かないと、アウトプットという意味において価値がない。

というわけで、書評じみたものを書こうと思ったが、ブックマークにしていた、下記記事が目に入った。
「なぜ人を殺してはいけないの?」に、ニーチェがマジレスしたら


ニーチェは相対主義者であり、世の中の議論の多くは、信仰vs信仰の構造をとっている。
だから、「人を殺してはいけない」というのも、信仰である。信仰を真理へと押し上げるのは、政治ゲームである。
政治ゲームで勝ち上がった人の信じていることが、真理となる。政治ゲームのルールを知ろうとする意志が、「権力への意志」である。

と、ニーチェの道徳の系譜という書物のレビューの、そのまたレビューを書いてみた。


で、そのコメント欄を読んでいき、トラックバックにあった、

人を殺したければ殺すべきである――永井均『これがニーチェだ』を読む

という記事を読んだ。

そうすると、ニーチェは相対主義なんかじゃない、ポジティブな生というものを肯定し、大切なのは「健康」なのだと述べている、という指摘が書いてあった。


なるほど、そうなのか、と納得。



それでだ、今の二つの記事を、「自己啓発本」や「解説書」とたとえようと思う。
自己啓発本というジャンル、すなわち、「できる人の時間の使い方」といったような種類の書物、それらの需要というのは、何故起こるのか。
また解説書、「ニーチェの言葉」みたいなものの需要は、何故あるのか。


とっかかりがないと、どんな簡単なことでも分からないからだ。



複雑なこと、難しいことが「かっこいい」と思っていたふしが、僕にはあった。
だから、ブログや、まして自分の日記を書くにあたっても、難解な言い回しをすることがよくあった。

でも実際、ビジネスで求められているのは、単純さ、明快さ、スピード感だ。
文学的な言い回しなんてしていたら、「それってつまりこういうことでしょ」と添削される。

それがゆえに、僕は最近、文章を書くのが嫌になっている。


というより、文章を書くことによる「リスク」というのを、過剰に恐れているといっていい。

たった一言、一語の形容詞をつけただけで、「わかりにくい」と言われたり、多数の人たちに誤解を招くことになる。


そういう意味で、プロのブロガーってのは、すごい職業だと思う。
とはいえ、たびたび炎上ってのは起こる。それは交通事故にでもあうような意味合いになるかもしれない。


まぁそれはとにかく、自己啓発本や解説書は、とても役に立つと同時に、「自分で考える」という癖をつけるには、害悪にすらなる。

もっとも、自己啓発本等に書かれていること、鵜呑みにしてそのまま実行しようとする人はいないかもしれない。
けれども、今社会に求められているのは、むしろ、自己啓発本を自分で書ける人なのだ。


自分はこう思ってこのように行動した、その結果こうなった。

その説明が、どれほど他者に分かりやすく伝えられて、影響を与えられるのか。

その観点が、非常に重要であると僕は思う。


正直、これをいってしまえば真面目な人から総攻撃をくらうが、ニーチェは実はこんなことは言ってなかったとか、ニーチェのことを正確に解釈することは、一般人にとってなんら意味がないのである。
もちろん、ニーチェという人の名前を使って、適当な発言をねつ造してもいいといっているのではない。

ただ、一般には、必要としている情報の「質」と「次元」があるということなのだ。


僕は「なんで生きているのだろう」なんて小学校4年生的なことを考えることがあるが、
「意味なんてないんだ。永劫回帰なんだ」
とニーチェがいったということで、納得できる人もいる。

ニーチェの翻訳本を読んで、詳細なところはよく分からなくても、何事にも意味を求めるのがいけないんだ、超人になることが重要なんだと理解し行動できる人もいる。


とにかく、今、世界は、日本は、社会は、変わろうとしている。

と、いうよりも、「変わらなくちゃいけない症候群」にかかっている。それを、香山氏のように、「ほどほど論」をすすめても、もはや「怠け者」のレッテルをはられ、唾棄すべきと排除されるだけだろう。



剥き出しの生というものを、最近よく感じる。とはいっても、大学時代に比べたら生易しい。

学生は気楽でいいな、と大人はいう。

僕はそうは思わない。というか、全然気楽じゃなかった、ともいえる。
僕はあるときから、日々において、今日が昨日よりもよくなっていると、確信しているし感じている。

過去に戻れるタイムマシーンがあったとしても、絶対戻りたくない。

僕は、将来の(未来の)不透明性を恐れていた、いや、今も恐れている。


僕はある人に指摘されておののいたことがあるが、僕には、欲求がないのだという。


そんなことはない。おいしいラーメンだって食べたいし、眠たいときは寝たい。

けれども、どこか、発生する欲求を、相対化してしまうところはある。


お金持ちになりたいという欲求が生まれたとして、「じゃあ、お金持ちになったらどうするの?」という問いが必然的に生まれる。
「なぜ人を殺してはいけないの?」に、ニーチェがマジレスしたら

の中でこの記事の筆者は、「政治ゲームの勝者が、必ずしも幸せそうにみえない」と述べている。


人は、幸せになりたいという。

けれども、僕は、「幸せ」なんてものを目標にしようとは、絶対に思わないし、するべきではないと、中学時代の結論と、相反した考えをもっている。

それについては、「幸せについて」ということで、何度か他の記事でもとりあげている。

幸せなんて言葉を使う時点で、同時に不幸も想定している。


とにかく、もっと落ち込もうと思う。
もっと苦しもうと思う。もっと精神的に痛めつけようと思う。そうすることで活路を見出そうなんて、甘い考えも捨てようと思う。

ぎらぎらとした目の輝きが失われてしまった。


僕は、知っている、アウトプットが、絶対的に不完全だということを。

それは、文章においてもそうだし、対面コミュニケーションにおいてもそうだ。

人を説得するには、論理ではなく感情だというが、もっといえば、「オーラ」なのだ。


オーラを発揮しないといけない。
そしてある程度、僕はそれを発揮できた、が、最近輝きが失われてしまっている、で、それというのは、本当に、すぐさま一気に堕ちる、それどころか、一度目を輝かせて信頼してくれた人は、逆に今の凋落をみて、絶望に近いまでの失望をするのである。

じゃあオーラはどうやって発揮するの、といわれたら、僕の場合は、景気循環の波の谷底のように、堕ちるところまで堕ちるのである。

だが恐慌など、自分の意志でおこせるものではない。ただ連続する波のように、変化をまちながら、しかしながら、それを加速する触媒を投じることは可能だろう。

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