その中で使えるかもしれない概念として、アリストテレスの「アクラシア」がある。
「分かっちゃいるけど、やってしまう」という、人間ならだれでもやってしまいそうなことだ。
それについて、よく整理されているブログを発見したので、詳しくはそちらを見てほしい。
~epsanのブログ「アクラシア Akrasia」
僕はこの概念について、先日からちょくちょく挙げている大澤真幸の『「正義」を考える』から知ったのだけど、当然アリストテレスなのだから、古代ギリシアからあった(知られていた)概念ということなのだ。
であるからにして、アクラシアについて、上記書籍の発刊前(2007)に書かれたブログも存在する。
アリストテレスは行動を「実践三段論法」によって説明する。実践三段論法とは何かが邪魔したり強制したりしない限り、「大前提」と「小前提」の二つの前提から、必然的に一つの行為が導かれるというものだ。大前提とは「善いもの」への欲求であり、小前提とはそうした行為を「可能なもの」にする個別的状況についての認識であるという。例えば、こんな具合…
<「私は飲むべきである」と欲望が言い、「これが飲み物だ」と感覚なり表象なり理性なりが言うと、彼はただちに飲む。>
この文で大前提は「私は飲むべきである」、小前提は「これが飲み物だ」、そして行為は「飲む」ということになる。
しかし、人間は「そうしたほうがいよい」という欲求と、「そうすることができる」という認識があったとしても、必ずしもそうするとは限らない。著者も<帰結するのは「私はこれをすべきである」という判断にすぎないように思われる>と指摘する。例を挙げると、デヴが「甘いものを食べないほうがよい」と知っていて、冷蔵庫に甘物があると認識したとき、「私はこれを食べるべきではない」と判断するかもしれないが、帰結としての行為はきれいさっぱりたいらげる、ということになるからだ。
どうしてこのようなアクラシアな事態が起こるのか。著者は<アクラシアは「無知な状態での行為」である>とする。つまり、意志の弱いデヴは甘物を見つけたとき、実践三段論法の大前提を一時的に忘れてしまい働かなくなるために、おのれのメタボリックな腹回りなどお構いなしにバクバク食ってしまう、というわけである。では、なぜ大前提を持っている人が、それを忘れ、働かせなくなってしまうようなことが起こるのか。その答えとして挙げられているのが、次のアリストテレスの言葉である。
<学習したばかりの人でもロゴスを繋ぎ合わせることはできる。だが、彼等には何も分かっていない。そのためにはロゴスが相互にしっかりと結び合わされ〔性向となら〕なければならないが、それには時間を要する。>
~労働外論「アクラシアな事態」
ここではたと気付いたのだけれども、アリストテレス自身の説明、すなわち「実践三段論法」の説明で、僕としては納得してしまうのだ、ということなのだ。
大澤氏は、アリストテレスの説明は間違っている、だから私は、「快の階層構造」によって再説明を行う、と記述している。
快の階層構造によるアクラシアの説明:
アクラシアは、下位のレベルでは快であり、善であると評価されていることが、上位レベルでは悪であるとみなされているときに生じる。上位の包括的な視野のもとでは悪である行為が、下位のローカルな視野の中では快であり、善であるがゆえに選択される現象。
~epsanのブログ「アクラシア Akrasia」
おそらく、したり顔で、「ねぇねぇ、アクラシアって知ってる?」と知人に話しをして、「じゃあ、快の階層構造と、実践三段論法の違いって何?」と聞かれたとき、僕は、はたと困ってしまうのである。
ということで、もう一度、大澤真幸に立ち戻ることになる。
でも、アリストテレスの説明だって、「実践三段論法」として、意志の弱い人は大前提を忘れてしまって「やってしまう」。何故忘れるのかといえば、「<学習したばかりの人でもロゴスを繋ぎ合わせることはできる。だが、彼等には何も分かっていない。そのためにはロゴスが相互にしっかりと結び合わされ〔性向となら〕なければならないが、それには時間を要する。>」からだ、という説明で、成り立っているように思える。
ただ、大澤氏が指摘しているのは、上記「実践三段論法」の説明では、「理性的で合理的な人」においてもアクラシアが存在する、ということを、証明しきれていないのだ。
実際として、実践として、ギリシア哲学では、目的論、つまり、「理想」が存在するとしていた。にもかかわらず、無知な人を対象に、大前提を忘れてしまうような未熟な人を例にとって説明しても、アクラシアの存在自体の説明にはならないのである。
……ところで、こんなブログも見つけた↓。
哲学みたいに「コムツカシい」と(拒絶を伴って)言われるような事柄について、正確さだとか応用性だとかを犠牲にすること無く、その複雑さを保ったまま、例えばカントの名前も初めて聞くぐらいのれっきとした門外漢にもそれなりの理解度で理解できるように語るようなことは、恐らくは不可能ではないだろうが結構難しいことなんだろうとは思う。
つまりスティーブン・ジェイ・グールドが進化論についてやったようなことを哲学についてする訳だ。
そういうのに憧れないでもない。
例えばマイケル・サンデルなんかはこの点でいい線いってるように見えるが、まあ私は駄目だろう。
私がそもそも哲学の諸問題について何かまともに理解しているかというとそんなことはないしな!
然しせめて自分の理解している程度のことはもっと平易にスラスラ語れんもんかと思う。
~日常的な、余りに日常的な
今回のブログは、「目的を立てるための目標を設定する」という目的をもとに、思考体系の整理をするため、思考のプロセスを記述しようという実践(資源投入)だったのだけれども、「自分の言葉」で完結させず、他者(ここではブログと書籍)を結びつけながら「体系化」するというのは、かなりの時間を要することが分かる。
でもって結局、言えたことは、「アクラシア」はあるっぽいね、ということでしかない。
「私がそもそも哲学の諸問題について何かまともに理解しているかというとそんなことはないしな!
然しせめて自分の理解している程度のことはもっと平易にスラスラ語れんもんかと思う。」
まったくもって、その通りだと思う。
コムツカシいことを考えて、なるほどな、と思うことは、それ自体楽しいことではある。
ただし、それを、「コミュニケーション」という視点でとらえたとき、意味をなさない。伝えられないと、「コミュニケーション」という次元では、目的に合致していない=意味のないことだからだ。
いやいや、そうはいっても、「楽しい」という快を与えてくれるじゃあないか、というのは、まさにアクラシア的発想なのである。「意味はないと分かっているけれどもやってしまう」。
だから、今回の記事に意味を見出すとすれば、実は、「アクラシア」という概念ではなく、その概念についての他者の思考の「差異」を明らかにする(記述を試みる)という、プロセスの記述ということになる。
いわば、何が言いたいかは、さほど重要ではないということだ。