今日の一言「つり革広告で生きる意味なんて読むと途端にうさん臭さを思う」「きっと初見の人には同じように思われているだろう」
※(追記)この記事は、思った以上にダークになったので、明るい記事(ハッピーエンド)を期待される方は読まれないほうが良いと思われます。
『鉄血のオルフェンズ』というアニメーションがある。ガンダムフレームという人型戦闘兵器に乗る子供たちには、脊髄からナノマシンを埋め込む手術が行われる。その手術では、首の後ろ下側に接続端子を埋め込み、それとガンダムフレームとを繋げることで、空間認識力などを飛躍的に向上させ操縦性能を格段に高めることができる。これを、阿頼耶識システムと呼ぶ。
ご存知の方も多いと思われるが、この阿頼耶識というのは、大乗仏教の唯識派(瑜伽行唯識派(ゆがぎょうゆいしきは)において提唱された、8つの「識」の一つである。
識とは、見分けること、識別することという意味で考えてよいが、特に「心のはたらき」としてイメージされるとよい。
2.聞くこと(耳)
3.かぐこと(鼻)
4.味うこと(舌)
5.感ずこと(身)
6.思うこと(意)
このいわゆる五感と、思考の一つを足したもの。これが心のはたらきの表層部分である。
この表層の根源となる心のはたらきが、「末那識」と「阿頼耶識」であり、この二つを足して、唯識派は八識というのである。
阿頼耶識は、その他の識のすべての根源となる心のはたらきである。
阿頼耶識は、辞書的やネットで調べると、「無意識のようなもの」という表現が見受けられるが、単なる無意識という意味ではない。
僕らの心のはたらきは、すべて、この阿頼耶識によって生み出され、形成され、表出しているということである。しかもこれは、心という境界をも否定される。個性なるものを僕らは追い求めがちだが、そもそも、自分というものは、末那識の執着が作り出した表象(現象)であり、その末那識もまた、阿頼耶識によって表象したものであるのだ。
生命とは何か?
という問いはそれ自体とても面白いものだと思う。「生物は分けても分からない」という本があったけれども、自己増殖するという定義であれば、宿主がいなければ増殖できない(細胞をもたない)ウイルスは生命といえるのか、など。
「空」(くう)の思想の中観派もそうであるし、瑜伽行唯識派もそうであるが、自己を含めて、世界は、縁起(僕の言葉で言い換えれば、様々な条件が折り重なって成り立っているもの)であるということだ。
唯一不変の存在は、存在しない。それはただ、言葉のうえだけで思考可能な幻のようなものである。アキレスと亀とか、飛んでる矢のパラドックスは有名だけれども、世界(僕ら自身を含めた存在全般)を、言葉で完璧に表すことができるということが、そもそもの誤謬(誤った認識)であったわけである。
ある意味、ヤンキー的に、「うっせ、よくわかんねーよ。飛んでるんだから飛んでるんだろ?」というのが、人間的態度として正しいということである。
ではすぐさま言いたくなる。思考するということは無意味なことなのか? と。
無意味でもあり、有意味でもある。
無意味でなく、有意味である。
あるものは無意味であり、あるものは有意味である。
いかなるものも無意味でなく、いかなるものも有意味でない。
よくわからなくなってくる。うっせーよ、難しいこと言ってんじゃねーよ、ばーかばーか。
その状態を、「幸せ」と表現するのであれば、僕はもはや悟りの境地ともいえるほど幸せである。
もちろん、日々の雑多な問題や課題は存在する。それらに思い煩う時間と、解放されている時間の長短によって幸せを測るとすれば、微妙なところだろうと思う。
もっと言えば、身体的問題。何故僕はイケメンに生まれてこなかったのだろうか。イケメンであれば、同じことを発言したって、同じ行為をとったって、今以上に他者の評価は高かったはずだ。
身長がもっと高くて、スポーツ万能で、筋肉むっきむきなら、いじめられることだってなかっただろう。
頭がよかったら、仕事で失敗をして、全部てめーのせいだ、責任とれ! とか言われることもなかっただろう。
悩もうと思えば、いくらでも問題課題は存在する。
けれども、その次元の問題等については、もはやあまり興味がわかないのである。
その「問題」というのは、「幸せ」ということについても同様である。
そもそも、先ほど僕は、今現状は、さいっこうに幸せな状況だ、と書いた。先日の明るい記事でも同様のことを書いたと思う。
これを、僕が勝手に定義しているのであるが、「相対言語」という。たぶん、言語学の分野とかでも、ちゃんとした研究がされてるんじゃなかろうかと思うが、何分素人でよく分からない。ただ、美しい・醜い、きれいだ・汚い、多い・少ないとか、僕らはたびたび、何でも、そうした比較をして物事を考えている。
では概念とは何か。個別事象を抽象化した「名詞」である。
名詞とは何か。名前である。モノ・コトである。
では、絶対、不変、不朽、普遍のモノ・コトというのは存在するのか? 存在するとすれば、それが絶対的な概念=真理ということになる。
これについては、いろんな批判があるだろうけれども、現時点の僕の「実感」である。この実感というのは、「信念(思考の統一的傾向)」と「感情」の総体のことである。
このことについて、「何でそう思うのか」という記事をかくのは結構楽しいだろうけれども、今回の記事の目的としては、話を先に進めてみたい。
というわけで、仮に、世の中は空(くう)とか、絶対的なものなんて存在しない的なものであるとしてみよう。
そうしたときに、その実感が強まったときに、果たして、僕は、いや人は、本当に生きることが正しいといえるのか?
よく訪問させて頂いているブログを書かれている方は、自己紹介のようなコメントにおいて、「何で生きているのか日々考えています。最近は、早く死んでしまったほうがいいのではないかと思ってきました」と述べられていた。
この感覚。
これが、彼女にふられたとか、離婚届けを突き付けられたとか、上司からいびられたとか、親友や大切な人と死別したとか、お金がないとか、その他さまざまな悲しく辛い事象においてそう思うというのであれば、僕はひたすら、「がんばってください! 生きていれば必ずいいことだってありますよ!」と励まし続けるだろう。
しかし、これが、キルケゴールさんが言うような「絶望」に属している発言なのだとしたら、僕はかけてあげられる言葉がない。むしろ、僕自身がそれに対しての対処を教えてほしいぐらいであるのだ。
「僕らは、所与の条件において、精一杯がんばって、浮き沈みはありながらも、それを繰り返しながら生きていく。
つらいこと、かなしいこと。たのしいこと、うれしいこと。それを繰り返して、泣いて、笑って、生きていく。なんと素晴らしいことか。美しいことか」
と、思っていられるうちは良い。というか、僕は今はそう思っている。
と、同時に。
「だからなんだっつーんだ?」
という、悪魔の囁きも聞こえてくるのである。
無気力とか、倦怠感とか、そういうのとは違う、何かとてつもなく邪悪なもの。
いや違う。その「悪」という概念すら否定し相対化してしまいそうな、すべてを覆いつくさんとする……それは、なんと表現すればよいのか。例えるなら、「無」。
僕は、こう、考えている方が少し落ち着く感じはするのだけれど、このことを、いつだったかコメントで、「君は、考えることが好きで、結論を出そうとはしないよね」と言われるのであろう。
好き、なんだろうなぁ。
ただ、決して、結論を求めたくないわけではない、いや、そう思いたいだけなのか。
もしかすると、その「実感」をもった「結論」ってのが、実はもうすでに出ていて、それが、生存欲求的なのと相対するから、複雑な内面構造として、反駁しているのかもしれない。
端的に書けば、「死んだほうが良い」という結論に実感上なっているけれども、「いやいや、死にたくないし!」という感情が、その結論をとどめているのではないかということ。
そのアンチノミー状態が、特に結論を求めない、こうした、よくわからない記事を量産している理由なのではないかということである。
とかって、ほんと、よくこんな中二病満載な記事を書けるものだ。
ほんとに自殺するときはちゃんと消しておかねばなるまい。
(次回は、無垢と純粋性と無についてや、もっと認識や「わかる」ということについて整理したい)
※(追記)この記事は、思った以上にダークになったので、明るい記事(ハッピーエンド)を期待される方は読まれないほうが良いと思われます。
阿頼耶識について
『空の境界』という小説がある。ここに登場するボス級の登場人物が「あらやそうげん」と言って、その名前に秘めたる根源の意味が物語のキーワードになっていたりする。『鉄血のオルフェンズ』というアニメーションがある。ガンダムフレームという人型戦闘兵器に乗る子供たちには、脊髄からナノマシンを埋め込む手術が行われる。その手術では、首の後ろ下側に接続端子を埋め込み、それとガンダムフレームとを繋げることで、空間認識力などを飛躍的に向上させ操縦性能を格段に高めることができる。これを、阿頼耶識システムと呼ぶ。
ご存知の方も多いと思われるが、この阿頼耶識というのは、大乗仏教の唯識派(瑜伽行唯識派(ゆがぎょうゆいしきは)において提唱された、8つの「識」の一つである。
識とは、見分けること、識別することという意味で考えてよいが、特に「心のはたらき」としてイメージされるとよい。
八識
1.見ること(眼)2.聞くこと(耳)
3.かぐこと(鼻)
4.味うこと(舌)
5.感ずこと(身)
6.思うこと(意)
このいわゆる五感と、思考の一つを足したもの。これが心のはたらきの表層部分である。
この表層の根源となる心のはたらきが、「末那識」と「阿頼耶識」であり、この二つを足して、唯識派は八識というのである。
末那識と阿頼耶識
末那識というのは、自我、執着心のことである。阿頼耶識は、その他の識のすべての根源となる心のはたらきである。
阿頼耶識は、辞書的やネットで調べると、「無意識のようなもの」という表現が見受けられるが、単なる無意識という意味ではない。
僕らの心のはたらきは、すべて、この阿頼耶識によって生み出され、形成され、表出しているということである。しかもこれは、心という境界をも否定される。個性なるものを僕らは追い求めがちだが、そもそも、自分というものは、末那識の執着が作り出した表象(現象)であり、その末那識もまた、阿頼耶識によって表象したものであるのだ。
存在するということ
上の、八識という考えはとても面白いと思うが、唯識派の考えを理解する上でのポイントは、心理学や解剖学のように、人の心を分割していって定義づけしようとしているのではないということだ。生命とは何か?
という問いはそれ自体とても面白いものだと思う。「生物は分けても分からない」という本があったけれども、自己増殖するという定義であれば、宿主がいなければ増殖できない(細胞をもたない)ウイルスは生命といえるのか、など。
「空」(くう)の思想の中観派もそうであるし、瑜伽行唯識派もそうであるが、自己を含めて、世界は、縁起(僕の言葉で言い換えれば、様々な条件が折り重なって成り立っているもの)であるということだ。
唯一不変の存在は、存在しない。それはただ、言葉のうえだけで思考可能な幻のようなものである。アキレスと亀とか、飛んでる矢のパラドックスは有名だけれども、世界(僕ら自身を含めた存在全般)を、言葉で完璧に表すことができるということが、そもそもの誤謬(誤った認識)であったわけである。
ある意味、ヤンキー的に、「うっせ、よくわかんねーよ。飛んでるんだから飛んでるんだろ?」というのが、人間的態度として正しいということである。
ではすぐさま言いたくなる。思考するということは無意味なことなのか? と。
無意味でもあり、有意味でもある。
無意味でなく、有意味である。
あるものは無意味であり、あるものは有意味である。
いかなるものも無意味でなく、いかなるものも有意味でない。
よくわからなくなってくる。うっせーよ、難しいこと言ってんじゃねーよ、ばーかばーか。
思考の先にあるもの
先日、明るい記事を書いたけれども、もっと明るい記事を書けば、僕は今、特に悩みなど無いのである。その状態を、「幸せ」と表現するのであれば、僕はもはや悟りの境地ともいえるほど幸せである。
もちろん、日々の雑多な問題や課題は存在する。それらに思い煩う時間と、解放されている時間の長短によって幸せを測るとすれば、微妙なところだろうと思う。
もっと言えば、身体的問題。何故僕はイケメンに生まれてこなかったのだろうか。イケメンであれば、同じことを発言したって、同じ行為をとったって、今以上に他者の評価は高かったはずだ。
身長がもっと高くて、スポーツ万能で、筋肉むっきむきなら、いじめられることだってなかっただろう。
頭がよかったら、仕事で失敗をして、全部てめーのせいだ、責任とれ! とか言われることもなかっただろう。
悩もうと思えば、いくらでも問題課題は存在する。
けれども、その次元の問題等については、もはやあまり興味がわかないのである。
その「問題」というのは、「幸せ」ということについても同様である。
そもそも、先ほど僕は、今現状は、さいっこうに幸せな状況だ、と書いた。先日の明るい記事でも同様のことを書いたと思う。
相対言語
けれども、その「幸せ」という語について思い考えるとき、僕らは同時に、「不幸」という状態を想定しているのである。これを、僕が勝手に定義しているのであるが、「相対言語」という。たぶん、言語学の分野とかでも、ちゃんとした研究がされてるんじゃなかろうかと思うが、何分素人でよく分からない。ただ、美しい・醜い、きれいだ・汚い、多い・少ないとか、僕らはたびたび、何でも、そうした比較をして物事を考えている。
概念理解
一方で、絶対的な言語というものも存在する。それは「概念」である。では概念とは何か。個別事象を抽象化した「名詞」である。
名詞とは何か。名前である。モノ・コトである。
では、絶対、不変、不朽、普遍のモノ・コトというのは存在するのか? 存在するとすれば、それが絶対的な概念=真理ということになる。
諸行無常・諸法無我
でも、名詞であっても、絶対的なモノ・コトというのは、存在しないと僕は思っている。これについては、いろんな批判があるだろうけれども、現時点の僕の「実感」である。この実感というのは、「信念(思考の統一的傾向)」と「感情」の総体のことである。
このことについて、「何でそう思うのか」という記事をかくのは結構楽しいだろうけれども、今回の記事の目的としては、話を先に進めてみたい。
というわけで、仮に、世の中は空(くう)とか、絶対的なものなんて存在しない的なものであるとしてみよう。
そうしたときに、その実感が強まったときに、果たして、僕は、いや人は、本当に生きることが正しいといえるのか?
よく訪問させて頂いているブログを書かれている方は、自己紹介のようなコメントにおいて、「何で生きているのか日々考えています。最近は、早く死んでしまったほうがいいのではないかと思ってきました」と述べられていた。
この感覚。
これが、彼女にふられたとか、離婚届けを突き付けられたとか、上司からいびられたとか、親友や大切な人と死別したとか、お金がないとか、その他さまざまな悲しく辛い事象においてそう思うというのであれば、僕はひたすら、「がんばってください! 生きていれば必ずいいことだってありますよ!」と励まし続けるだろう。
しかし、これが、キルケゴールさんが言うような「絶望」に属している発言なのだとしたら、僕はかけてあげられる言葉がない。むしろ、僕自身がそれに対しての対処を教えてほしいぐらいであるのだ。
「僕らは、所与の条件において、精一杯がんばって、浮き沈みはありながらも、それを繰り返しながら生きていく。
つらいこと、かなしいこと。たのしいこと、うれしいこと。それを繰り返して、泣いて、笑って、生きていく。なんと素晴らしいことか。美しいことか」
と、思っていられるうちは良い。というか、僕は今はそう思っている。
と、同時に。
「だからなんだっつーんだ?」
という、悪魔の囁きも聞こえてくるのである。
無気力とか、倦怠感とか、そういうのとは違う、何かとてつもなく邪悪なもの。
いや違う。その「悪」という概念すら否定し相対化してしまいそうな、すべてを覆いつくさんとする……それは、なんと表現すればよいのか。例えるなら、「無」。
結論を急ぐ必要はない
この感覚をこじらせると、若者の自殺みたいになるんじゃあなかろうかと、勝手に思う。北村透谷さんとか、若きウェルテルくんとか、あ、そりゃ違うのかな。僕は、こう、考えている方が少し落ち着く感じはするのだけれど、このことを、いつだったかコメントで、「君は、考えることが好きで、結論を出そうとはしないよね」と言われるのであろう。
好き、なんだろうなぁ。
ただ、決して、結論を求めたくないわけではない、いや、そう思いたいだけなのか。
もしかすると、その「実感」をもった「結論」ってのが、実はもうすでに出ていて、それが、生存欲求的なのと相対するから、複雑な内面構造として、反駁しているのかもしれない。
端的に書けば、「死んだほうが良い」という結論に実感上なっているけれども、「いやいや、死にたくないし!」という感情が、その結論をとどめているのではないかということ。
そのアンチノミー状態が、特に結論を求めない、こうした、よくわからない記事を量産している理由なのではないかということである。
とかって、ほんと、よくこんな中二病満載な記事を書けるものだ。
ほんとに自殺するときはちゃんと消しておかねばなるまい。
(次回は、無垢と純粋性と無についてや、もっと認識や「わかる」ということについて整理したい)
PR