途中まで書いていてまた消えてしまった。忍者ブログの下書きは自動保存してくれないから、こまめな保存が必要そうだが……
日曜日に仕事へ。
プライベートでも予定が多いため、何だか落ち着かない。といっても、たかだか、8月までの予定が主である。それを過ぎたら分からない。
仕事は、やることが多いが、明確に締め切りがないものが多く、考える、というか、関係部署、機関との調整ごとが多いため、落ち着かない。
明確に答えがある仕事がよいとは思うが、Aが直前でZになることもしばしば。
夢をみた、また、過去の夢だ、それは中学、高校のころ。
やっぱり、昔は、小学校高学年以降含めてよいだろうが、ある組織、コミュニティが、生活、人生の枠組みだった。
そこは不快なことが多かったため、そこからの離脱は、誰にきいたこともなく死が浮かぶのは、自然なことだ。
だから、子どもたちに対して、例えばいじめとか、陰惨な状況において、それが決して絶対的な場所、コミュニティではないのだと、教えてあげることは重要だ。
死んだらいけない、生きてるとよいことがあるよ。
ここまでは、誰だって言える励まし。無責任な、という形容詞をつけてもいいかもしれない。
問題は、では、果たして、その代替の場は、どこにあるのか、そして、その場でも本当に、他でもない、この自分が、やっていけるのか、このことを、どこまで信じさせられるのか、そこに、尽きる。
人間嫌い、とはダメなことなのだろうか。
休日は必ず誰か他者と共にいなければならないのか。
一人の時間が大事、とかいわれるが、矛盾したことが推奨される。
それはまぁよいが、その一人の時間とは、すなわち、他者と共に歩むための準備時間としての、従属した関係に過ぎないのか。
ところで、先日、ヘルマンヘッセさんすごい! と書いたけれども、実はヘッセさんが、超絶にリア充で、自己に疑問など感じていない人だったらどうだろう。
なんだか、騙された、という気になるのだろうか。
そうはならない構造である。何故ならば、問題の所在は、あくまで自己であり、実存であるからだ。
こんなこと、十代のうちに完結させておけよ、と、たいていの大人たちはいうだろう。
それはしかし、今後、如何なる壁や問題が僕の前に立ちはだかったとしても、なんのことはないだろう。
今までの不安がある意味解消されている。それは、その他現象化する問題は、決して、自己に関する問題以上にはならないからだ。
例えば、死病に憑かれたとしても、それはきっと、現象化する痛みに対して苦しむことだろうが、自分の存在がなんだったのかと、生きてきた意味があったのか、なにか成し遂げることができたのか……と、実存による悩みにしかならないのである。
そんなことを一秒でも考えている時間があったら、英単語のひとつでも覚えろ、と言われてきた。
でも、英単語を覚えることに使った時間と、実存に悩み苦しんだ時間、それはどちらが優位とか、関係ないのではないか。
もちろん、英単語を覚えて、県内トップの高校に進学できたかもしれない、しかしそれは、ますます自己とはなにかを分からなくした原因の一つであったのではないだろうか。
いやいや、勉強することを否定するわけではない、勉強したことを後悔するわけでもない。
ましてや、勉強より大切なものがあるとか、人間関係を大切にとか、そんなことをいうわけでもない。
ここで、死生観が異なる時代や地域を挙げても、意味がない。
むしろ、過激なテロリズムは、自爆もいとわないことは、その教義が、個においても存在規定に他ならないのである。
いわゆるリア充、という、現実世界がすべて正しいとする人々にとって、テロリズム理解することができない。
そんな、死ぬよりも今を楽しんだ方がいいじゃん!
一見正しいように思えるこの言説は
すでに人間存在としての前提を違えているため、一切かみあうことはない。
根底となる前提世界がうつろいでいく不確かなものであれば、一時の快楽など何ら救いにはならないのである。
お金目当てで兵士として参加しようとする人々はまた異なる、それらは、現実の豊かさを前提としているだけで、リア充たちと変わらない。
現時点における満たされている度合いの違いた対して関係ない、というわけで、リア充、という表現は正しくないのだが、ちゃんと書くと、物理世界肯定派と、精神世界肯定派、とかなり、それはそれでどうか。
僕はべつに、精神世界オンリーを信じているわけではない。
ただ、いずれ誰にも訪れるだろう、終わりから考えていけば、果たして何が正しく、何をしていけばいいのか、よく分からなくなる、ということだ。
初めて好きになった人と結婚し、子どもに恵まれ幸せな人生を過ごす。
多くの人がこんなこと得られはしない。代替の欲求により生きる。
でも、その欲求とはどこからやってくるのか。
僕が唯一今、主体的などではなく、自然に沸き上がる欲求は、こうして書くことである。
ゲームでさえも、たまにするが、やろう、と思ってやっている感じがする。
昔、それこそ夢に見た時代は、好きになった人と結ばれることはない、一緒に生活し生きていくことはできない、触れることもできない、抱き合うこともできないのだと、失望していた。
そんなことはない、恋愛の作法を学び、自信をもって、ポジティブな考え方をして、行動的になって、明るい話をするようにすれば、彼女だってできるし、結婚だってできるのだ。
この実感は、どんなにたくさんの人から聞こうが、自分自身の容姿や性格に自信がないひとは、一切信じられるものではない。
一度信じて、頑張っても、裏切られることが続けば、自分はもうダメなんだと、立ち上がることができなくなる。
この構造は、恋愛でも仕事でも、何でも同じ。
難しいのは、ヘッセさんが看破していて僕が感動したのは、上のような自信をもって頑張りましょう、というのは、決して、教えられてできるものではないのだ。
と、ここまでは、いつも書いていることの表現の形態の一種。
問題となるのは、その、自信があったとして、自分はできる、と思ったとしても、新たな問題が生じた、ということだ。
それは、欲求についてである。
頑張れば成し遂げられる。
彼女だって作れるし、友達だって作れる、仕事だってできて頼られてお金ももらえる。
で、だからどうした?
という、傲慢限りない疑問。
大抵の現象世界においては、あれがない、これが足りない、となるので、その無いものを求め続けることが人生の主軸になる。
あるときは諦めて、あるときは手に入って、あるときは失って、喜んだり哀しんだり怒ったりしているうちに、脳は劣化していき、自分のことも周りのことも分からなくなって、死に至るのである。
こういった表現が、なんか他の本とか、誰か他の人の言葉だったらいいのだけれども、完全僕のオリジナル、というところが、なんとも、唯一価値があることかもしれない。 つまり、困難である実感の表現化という点では、成功してるわけだ。
別に、全能感を得ているわけではないけれども、思い付く欲求の実現可能性の肯定、という面では、完全に潜在意識レベルで正、となっているのだろう。
とか書いていると、僕を含むルックスがあまりよくない人たちからも批判されるし、当然物理世界を肯定する人たちからは排除されるし、孤立無援となるので、こういったことは思っても書いてはいけないよ、という教訓的な意味で、甚だ皮肉的に役に立つ記事になった気がする。
日曜日に仕事へ。
プライベートでも予定が多いため、何だか落ち着かない。といっても、たかだか、8月までの予定が主である。それを過ぎたら分からない。
仕事は、やることが多いが、明確に締め切りがないものが多く、考える、というか、関係部署、機関との調整ごとが多いため、落ち着かない。
明確に答えがある仕事がよいとは思うが、Aが直前でZになることもしばしば。
夢をみた、また、過去の夢だ、それは中学、高校のころ。
やっぱり、昔は、小学校高学年以降含めてよいだろうが、ある組織、コミュニティが、生活、人生の枠組みだった。
そこは不快なことが多かったため、そこからの離脱は、誰にきいたこともなく死が浮かぶのは、自然なことだ。
だから、子どもたちに対して、例えばいじめとか、陰惨な状況において、それが決して絶対的な場所、コミュニティではないのだと、教えてあげることは重要だ。
代替の場所はあるが見つけられるか
死んだらいけない、生きてるとよいことがあるよ。
ここまでは、誰だって言える励まし。無責任な、という形容詞をつけてもいいかもしれない。
問題は、では、果たして、その代替の場は、どこにあるのか、そして、その場でも本当に、他でもない、この自分が、やっていけるのか、このことを、どこまで信じさせられるのか、そこに、尽きる。
誰とでも仲良くする
人間嫌い、とはダメなことなのだろうか。
休日は必ず誰か他者と共にいなければならないのか。
一人の時間が大事、とかいわれるが、矛盾したことが推奨される。
それはまぁよいが、その一人の時間とは、すなわち、他者と共に歩むための準備時間としての、従属した関係に過ぎないのか。
ところで、先日、ヘルマンヘッセさんすごい! と書いたけれども、実はヘッセさんが、超絶にリア充で、自己に疑問など感じていない人だったらどうだろう。
なんだか、騙された、という気になるのだろうか。
そうはならない構造である。何故ならば、問題の所在は、あくまで自己であり、実存であるからだ。
こんなこと、十代のうちに完結させておけよ、と、たいていの大人たちはいうだろう。
それはしかし、今後、如何なる壁や問題が僕の前に立ちはだかったとしても、なんのことはないだろう。
今までの不安がある意味解消されている。それは、その他現象化する問題は、決して、自己に関する問題以上にはならないからだ。
例えば、死病に憑かれたとしても、それはきっと、現象化する痛みに対して苦しむことだろうが、自分の存在がなんだったのかと、生きてきた意味があったのか、なにか成し遂げることができたのか……と、実存による悩みにしかならないのである。
人は何故生きるのか
そんなことを一秒でも考えている時間があったら、英単語のひとつでも覚えろ、と言われてきた。
でも、英単語を覚えることに使った時間と、実存に悩み苦しんだ時間、それはどちらが優位とか、関係ないのではないか。
もちろん、英単語を覚えて、県内トップの高校に進学できたかもしれない、しかしそれは、ますます自己とはなにかを分からなくした原因の一つであったのではないだろうか。
いやいや、勉強することを否定するわけではない、勉強したことを後悔するわけでもない。
ましてや、勉強より大切なものがあるとか、人間関係を大切にとか、そんなことをいうわけでもない。
ここで、死生観が異なる時代や地域を挙げても、意味がない。
むしろ、過激なテロリズムは、自爆もいとわないことは、その教義が、個においても存在規定に他ならないのである。
いわゆるリア充、という、現実世界がすべて正しいとする人々にとって、テロリズム理解することができない。
そんな、死ぬよりも今を楽しんだ方がいいじゃん!
一見正しいように思えるこの言説は
すでに人間存在としての前提を違えているため、一切かみあうことはない。
根底となる前提世界がうつろいでいく不確かなものであれば、一時の快楽など何ら救いにはならないのである。
お金目当てで兵士として参加しようとする人々はまた異なる、それらは、現実の豊かさを前提としているだけで、リア充たちと変わらない。
現時点における満たされている度合いの違いた対して関係ない、というわけで、リア充、という表現は正しくないのだが、ちゃんと書くと、物理世界肯定派と、精神世界肯定派、とかなり、それはそれでどうか。
物理世界の懐疑と精神世界の肯定
僕はべつに、精神世界オンリーを信じているわけではない。
ただ、いずれ誰にも訪れるだろう、終わりから考えていけば、果たして何が正しく、何をしていけばいいのか、よく分からなくなる、ということだ。
初恋と幸せ
初めて好きになった人と結婚し、子どもに恵まれ幸せな人生を過ごす。
多くの人がこんなこと得られはしない。代替の欲求により生きる。
でも、その欲求とはどこからやってくるのか。
僕が唯一今、主体的などではなく、自然に沸き上がる欲求は、こうして書くことである。
ゲームでさえも、たまにするが、やろう、と思ってやっている感じがする。
昔、それこそ夢に見た時代は、好きになった人と結ばれることはない、一緒に生活し生きていくことはできない、触れることもできない、抱き合うこともできないのだと、失望していた。
そんなことはない、恋愛の作法を学び、自信をもって、ポジティブな考え方をして、行動的になって、明るい話をするようにすれば、彼女だってできるし、結婚だってできるのだ。
この実感は、どんなにたくさんの人から聞こうが、自分自身の容姿や性格に自信がないひとは、一切信じられるものではない。
一度信じて、頑張っても、裏切られることが続けば、自分はもうダメなんだと、立ち上がることができなくなる。
この構造は、恋愛でも仕事でも、何でも同じ。
難しいのは、ヘッセさんが看破していて僕が感動したのは、上のような自信をもって頑張りましょう、というのは、決して、教えられてできるものではないのだ。
自信を得た先の話
と、ここまでは、いつも書いていることの表現の形態の一種。
問題となるのは、その、自信があったとして、自分はできる、と思ったとしても、新たな問題が生じた、ということだ。
それは、欲求についてである。
頑張れば成し遂げられる。
彼女だって作れるし、友達だって作れる、仕事だってできて頼られてお金ももらえる。
で、だからどうした?
という、傲慢限りない疑問。
大抵の現象世界においては、あれがない、これが足りない、となるので、その無いものを求め続けることが人生の主軸になる。
あるときは諦めて、あるときは手に入って、あるときは失って、喜んだり哀しんだり怒ったりしているうちに、脳は劣化していき、自分のことも周りのことも分からなくなって、死に至るのである。
こういった表現が、なんか他の本とか、誰か他の人の言葉だったらいいのだけれども、完全僕のオリジナル、というところが、なんとも、唯一価値があることかもしれない。 つまり、困難である実感の表現化という点では、成功してるわけだ。
別に、全能感を得ているわけではないけれども、思い付く欲求の実現可能性の肯定、という面では、完全に潜在意識レベルで正、となっているのだろう。
とか書いていると、僕を含むルックスがあまりよくない人たちからも批判されるし、当然物理世界を肯定する人たちからは排除されるし、孤立無援となるので、こういったことは思っても書いてはいけないよ、という教訓的な意味で、甚だ皮肉的に役に立つ記事になった気がする。
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