忍者ブログ
   
2018年は生きる意味の思考と創作の年とする
2018/01/04 23:02 | Comments(0) | 異性関係について
今日の一言「目標は掲げても心身がついていかない」

人生の8つの輪

(取りあえず、この章では、現状の「ポジティブな」分析として、非常に面白くないことを書く)

 人生には、8つの側面があるという。
1.仕事・キャリア
2.健康
3.自己啓発・学び
4.恋人・家族
5.友人
6.物理環境・時間
7.富
8.趣味
――エセポジティブ思考に苛立つ

 どこか、一点のみを育んでも、全体を輪のように高めていかなければ、幸せには近づけないのだ……そんなような記述をどこかで読んだことがある。

 昨年度の目標であった、「整理」というのは、
2.健康
6.物理環境・時間
7.富
 に関係するものだ。

 仕事も、あるし、大変だが中心となって活動しているので、
1.仕事・キャリア
 は満たされているといえる。

 筋トレルーチンは続けているし、栄養素の取り入れについても気を使っているので、
2.健康
 は満たされているといえる。(追記すれば、健康診断もオールグリーンだった)

 家族も(全員ではないが)元気だし、2017年は彼女もできたので、
4.恋人・家族
 も満たされているといえる。

 ドライブなどを共通の趣味を持つ友人と出かけたりしているので、
5.友人
8.趣味
 も満たされているといえる。

 今年の僕の目標である「創作」というのは、
3.自己啓発・学び
5.友人
8.趣味
 に関わるものだ。

 今年の「創作」を深化させることによって、人生の8つの輪は調和がとれて、全体的に深まっていくだろうということだ。

生きる意味を考えることとは

 それでもって、生きる意味を考えるという、今年2018年の目標、これは、上の8つの輪においては、どれに該当するというのか。
(なお、ブログを書くこと自体は、先日の記事のとおり、ツールとしての位置づけと考える)


 僕は、「生きる意味を考える」というのは、すべてに関係することであると考えている。
 と同時に、逆に、その8つの側面を育むことが、すなわち「生きる意味を考える」ことでもあると考えている。

 つまり、各種それぞれ存在する、難しく大切な各側面の、基盤となるものが、「生きる意味を考える」ことであるという位置づけだ。
 と同時に、それは、「言い訳」でもある。ポジティブな書き方をすれば、緩衝地帯だったり、安全マージンだったり、「ホーム(基地、戻れる場所)」であったりする。


 昨年、特に何度も書いたのは、「他者と比べることに意味はない」ということであった。
 これは、正しいと信じていると同時に、自分自身に言い聞かせようとしていることでもある。
 つまり、絶対的に、人は人の中で生きていくことになるので、「他者と比べない」なんてことは、原理的に不可能であるのであって、僕は矛盾したことを信じ込もうとしているのである。
 ただし、これも同時に絶対的に(ああ二律背反よ)、凡人たる自分は、突き詰めて事物を深めようとも、「トップ」にはなれないということである。
 故に、努力は人を救わず、ただ終わりなき戦いが続くだけである。それでも、「幸せ」という概念を求め、8つの側面を満たしていこうと目標を掲げるのであれば、何度となく矛盾と向き合い、傷つくことが求められるのである。


 そんなとき、「生きる意味を考える」というのは、よりどころとなる。福音ではない。
 追い詰められた、じめじめとして居心地が悪いところかもしれない。
 それでも、「自分」という存在を、その「自分」として唯一規定し続けるための、最後の砦。

毎度のことながら自分の書く文章に恐れを抱く

 ああ……この記事の文章は、僕が対面コミュニケーションにおいて巡らす思考に準じているようで、非常に居心地が悪い。気持ちが悪い。

 つまり、自分を着飾っている感じがして嫌だ。

 裸になれ。

 全部脱ぎされ。

 気持ちの悪い思考も、人格が疑われるような感情も、面倒くさいと忌避される言動も、全部解き放て。それがこのブログというツールの唯一必要な目的であるのだ。


 とはいえ。
 この、脱ぎされという方針は、実は難しい。

 皮膚をはぎ取ることはできないので、シャツとパンツを脱ぎ去ってしまえば、全裸となる。
 しかし、思考や心については、幾重もの見えない服飾で着飾られているのである。

 そうしたとき、思考や心を裸にするというのは、一体どうしたらよいのだろうか?


「こんな人だと思わなかった」

 と言われたとして、それは、自分を着飾って相手と接していたことによる「誤解」なのだろうか?
 それとも、相手が単に、単に相手が「自分」という身体や言動に描いた「想像」であったのか。

他者と関わることの恐怖

 この小見出しにおいて、カテゴリを、「目標・目的」から、「異性関係」に変更した。
 何故かというと、今回メモしておこうと思ったことが変わったのだ。

「今年はこんなことを目指していこう」
 という内容にしようと思ったけれども、今、直近、自分が抱いている得体のしれない恐怖をメモしておく方が重要に思った。

 彼女ができて、彼女を好きになった。

 この表現は不思議であるけれども、「好き」という気持ちが正直分からなかった。けれども、通常時の脳内占有率の高まり(ええと、つまり、その人のことを思い浮かべる時間が増えたということ)によって、「好きになった」んだろうと思った。

 これは、素直に、よかったなぁと思った。
 異性を好きになるということができないのかなぁと思ったりしたのだ。


 ただ、同時に恐怖を感じた。
 何をかといえば、彼女が見ている俺は、本当に俺なんだろうか、ということである。

 若いうちはきっと、「好き」という感情によって、相手との時間をきっと楽しむことができるだろう。
 僕も楽しんでいる。思いがけなく僕のためにしてくれることがとても嬉しい。僕も心底、相手を大事にしたいと思う。

 けれども、この感情というものが、いってしまえば幻想のように思えてしまう。


 ――でまぁ、過去の自分や周囲が、上のようなことを聞けば、「はいはいノロケおつ」ということになるので、まともに誰かに話そうとは全く思わないのであるが、今の自分としては大問題に思っている。

 まぁもちろん、せいぜい「ノロケ」ようとは思っている。楽しいことを、楽しまない手はない。いつもネガティブなことしか書いていないけれども、ネガティブなことが良いと思っているわけではない。むしろ同時にいつも書いているように、「何も考えずに楽しんだもん勝ちである」とも思っている。――問題は、いつも簡単にそれができないから困っているのである。

 先日、ある方が、「生きる意味を考えることで不幸になるとしたら、それでも自分は考えるのだろうか?」という問いを立てていて、とても鋭いと思った。
 僕は、少し考えて、きっとそれでも考えてしまうだろうと思った。

 そもそも、僕はきっと、その「不幸」という言葉の解釈(定義)を考え出してしまうだろうから。

幻想で何が悪いのか

 EDENという作品において、主人公のエリヤは、好きになった女性とのセックスの後で、その女性から「少しは落ち着いた?」とかって聞かれて、「何か、どうでもよくなる……」と答える。それに対して、彼女――なのだろうか? 二人の関係はとても複雑なのだが――は、「たまにはそういう時間もないとな」と答えるのである。

 好きなシーンの一つである。

 なんかこう、僕はギャンブルもタバコも大嫌いではあるが、しかし、どうしようもなくなったとき、思考をぶっぱなして、取り去って、押しつぶして、ただその目の前の事象や快楽に浸りきるというのは、とても人間的だし、大事なことだとも思うのだ。



 だからこう、別に、今が楽しかったり、気持ち良かったりすれば、それでいいんだと思う。
 ――し、それにきっと、たいていの人たちのアドバイス的なサムシングは、そういったものになるだろう。いやはたまた、関係が深い人や親身になってくれる人であれば、「将来のこと」を考えて方がよいというようなアドバイス的なサムシングをするかもしれない。

 それ以外の何かがもし、誰かに話して聞けるのであれば、僕は喜んでその人に自分のことを話すのであるが。

信じられるのはルーチンぐらいだ

 この記事は……一体、どんな風に読み取れるんだろうか。
「彼女ができて毎日楽しいってことを自慢したいだけだろ」などと思われるんだろうか。

 たぶん、俺は、それ以上に、「嫌われる」ことを恐れている気がする。「本当の自分」を見せることで、それを拒絶されることを恐れている気がする。


 ああ、しかし……困った、この表現が、そもそも僕は矛盾しているとしか思えない。

 そもそも、その、「本当の自分」なるものを見つけるというのが、「生きる意味を考える」という、達せていない、見通しも立っていない目標であるのだ。

 ああ、違うか、そうじゃなくて、つまり、今こうして、「悩み中です(かっこわらい)」という状態である「自分」なるものを知られたくはない、ということか。


 なるほど。
 じゃあ、そのことは、今度彼女にも他の人にも話してみようか。

 ――なんというか、この「思考プロセス」を見られたくない、という思いが強い気がする。
 だから、このブログでは、ゼロ秒うんたらっていって、中断したりせず一気に書き上げてそのまま投稿するということに拘ったりしているのだろう。

 なんかこう、「答え」なるものがあって、「自分はこういう人間です」という表現がかたまって、それを話すのは別に怖くないし、それが「気持ち悪い」とか「受け入れられない」と言われても、対して傷つきも気にもしないのである。

 ただ、たいてい、他の人、他者って、「悩んでいる人」というのを気持ち悪いと思う傾向にあると思う。いやいや、もちろん、「青春!」の人たちであれば、それもまた良いかもしれない。ただ、あくまでそれって、「人間」として未熟である、とされるがオチである。

 僕は大人なので、未熟さは隠すことができる。まぁ……最近それも面倒になって、ほとんど気にしていない(感情をあらわにすることが多い)けれども。


 んで、同時に、男女の関係ってのも、別に「全部を受け入れろー!」的なものでなくてもいいと思っている。いってしまえば、単に社会単位である。生活を共同して営む者同士。
 お互いが、お互いを思いやって、気遣いあって、尊重しあわなければ、生活なんて行えない。
 それが面倒くさいから結婚なんて絶対しない、といっている人もいる。それは賢い選択だとも思う。



 時間がないので、飛躍するけれども、その「未熟さ」を少なくする、薄めるための方策が、僕は「生きる意味を考える」ことだと思っている。

 でも、ウォーキングデッドのような世界になったら、もう、「考えている」暇なんてなくて、その都度その都度で行動し、回答してやっていかなきゃならなくなる。
 僕は自分のそのロバスト性(頑強さ)を高めたいので、もう時間があれば、考えていたいのである。

 昨年だったか忘れてしまったが、「君は、考えることが好きなのであって、答えを出したいわけじゃあないのだね」とコメント頂いたこともあったが、やっぱりそれは違うのだと思うのである。

 だって、俺ら、死ぬぜ? いずれ。早いか、遅いか。

 答えを持っていようが、持っていなかろうが、人から尊敬されていようが、金をもってようがなんだろうが、死ぬ、終わる。

 僕の近しい人の一人は、多くの人に尊敬され、人脈も広く、自身も学究や技芸に優れた人だった。でも死んでしまった。
 今も、多くの人の記憶に残っていると思う。僕もそのうちの一人だ。

 でも、死んじゃった。



 僕は……、到達しないまま死にたくはない。ただそれだけだ。
「いい人になりたい」と言って、笑われてしまったこともあるけれども、でも僕は、いい人にやっぱりなりたい。

 そして、今は、その「いい人」というのが、どういう人なのか僕は分からない。
 だから、考えて、行動して、失敗も、悔しい思いも、理不尽や不公平感に怒りを覚えても、それでも、進んでいきたい、いかなきゃいけないと、「思う」。


(かっこ書きである。えっと、今年の抱負みたいな記事になった。もともと、そういう記事を早めに書いておきたかった。それが、それ自体が今年の目標みたいなものだから。まぁ、いいんだ、その、今年は「生きる意味を(徹底して)考える」というのが目標なのだから、恥ずかしがることもなく、書き続け、考え続ければいい。その結果として、来年は、「あーやっぱり違った」と思えば、それはそれで尊いのだ。中途半端に、たかだか「仕事」や「遊び」程度で忙しいとか言い訳して、大事なこと(目標に関すること)をやらない方が重責である、罪である。ええと、まとめると、全裸になれ、ってことか? ――違うか。ルーチンだ。昨年途中で失敗した、創作ルーチンを復活させねばならない。2018年の優先目標だ。筋トレルーチンは、……大丈夫だろう。ストレッチと腕振り運動(スワイショウ)とスクワットができなくなる可能性はあるが、基本の要素は身体に染みついているから多分大丈夫だ。創作ルーチンも身体に組み込みたい。早速、3連休ではあるが、予定があるため、できない可能性が高い。創作ルーチンは、物理的時間以外に、環境と「やる気」を確保する必要があるので、難易度が非常に高いことが分かった。まぁ、それは昨年の成果ともいえる。さぁしかしどうしよう。しかし今日はもう時間がないため、明日また考えるとしよう)

拍手[3回]

PR

コメント

コメントを投稿する






Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字 (絵文字)



<<創作を進めるための方針(その1) | HOME | ブログはツールか目的か>>
忍者ブログ[PR]
アクセスランキング