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理想自己とブログの意味
2012/03/16 07:59 | Comments(0) | 当ブログについて
早起き日記018 0645
四時半に目が覚めたが、しばらくぼうっとして、風呂に入りコーヒーを飲んだ。

夢をみた。

体育会系の、身体が大きく、高校で硬式野球の四番をつとめていた友人と、大学の研究室で話していた。

他愛もない話しだった。東京ドームに野球を見に行くとか、そんなことを言っていると、彼は、9階の研究室の窓に手をかけ、「そうなんだ」とか相づちを打っていた僕に背を向け、窓から飛び降りたのだった。

すぐ窓にかけよると、下では大勢の人が集まり、悲鳴と吐捨物で凄惨な状態であった。返り血をあびたのか、血まみれの男が呻いている。


ほんの数秒まで話していた人が、モノになるという経験がなかったので、ただ呆然と、下を見下ろすしかなかった。




ナルシズムに浸りたいわけじゃあない。それがかっこいいとか中学生的思考でもない。
むしろ感覚として、未熟なだけなのだ。

しかし、「理想的」であろうとすればするほどに、自分との乖離を思う。

振る舞いを社会に一致させることはできる。しかし、感覚を社会に一致させるのは難しい。しかし、「理想的」というものから乖離した言動は、内面規定(自己ルール)を破ったとして、自らを傷つけることになる。

それでも、同じ時間の電車に乗れた。金曜日だからか、乗客は少ないようだ。


こうした揺れというのはきっと、若いからなのだろうと思いながら、おそらくそう単純ではないと気付き始めている。


もっと根源的に解決すべき課題があると思う。と同時に、これは再帰的問題であり、自分というより現代においては、避けられず根本的に解決できない問題なのかもしれない。

というのはお坊っちゃん的発想で、あと何年生きるつもりなのか。




自分で考える、いったいそれが何を意味するのか、本当にそれが意味あることなのか、というより、高校生ぐらいから日記を書こうと思ったことがよく分からない、何故文字にするのか、それをブログにするのか。

これは以前から指摘しているが、公開するというのは、「みてほしい」「わかってほしい」という感覚の発露なのか。

その問いに、明確に答えられなければ、また大学時代のように、「ログ」にするべきだろう。

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