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生きる意味とか人生プランとか
2017/01/15 20:56 | Comments(4) | 生きる意味
今日の一言「本当に求める情報が検索できない」

人生プランというとFPが出てくる

 人生プラン、として検索すると、「ライフプラン」即ち、何年後に結婚して、何年後にお金がこれぐらい必要で、何年後に家を買って、子供が……と、生活とお金に関することがわんさか出てくる。

 僕は、とても疑問なのだけれども、皆が求めている情報って、それ何だろうか? どうやって生きるのか、何故生きるのか、自分の欲望とは何か、やりたいことははっきりしていて、欲しいものとか理想の生活というものは、もう明確で、調べる人は誰一人いないのだろうか?

 僕は、違うと思うのだけれども、しかし、グーグル先生は、それを上位検索結果に載せるのだ。それだけ多くの「お金」が動くキーワードで、重要視されているのだろう。

 だが、僕は、それ以前の部分で悩み、情報を求めている。

孔子先生の論語

 僕が欲しかった情報は、

「われ十五(15才)にして学(学問)に志(こころざ)し」
「三十(30才)にして立つ」(学問で自立できるようになった)
「四十(40才)にして惑(まよ)わず」(いろいろな迷いがなくなった)
「五十(50才)にして天命を知る」(天が自分に与えた使命を知った)
「六十(60才)にして耳順(したが)う」(どんな人の話も聞けるようになった)
「七十(70才)にして心の欲するところに従(したが)っても矩(のり)をこえず」
参考サイト

 この、それぞれの人生の時期において、どんな目的をもって、どんな生き方をするべきなのか、どういった方法や考え方があるのか、そういった情報であった。

 有名な「論語」の一部である。内容は殆ど覚えていなかったが、高校生ぐらいのときに、何かそんな一節があったような気がしていたから、検索して調べることができた。そういう意味では、学校の勉強というのも、無価値なんかじゃないと思うのだけれども、まぁそれはともかく。

仏陀さんの悟りを開いた歳

 ゴウタマ・シッダールタは、29歳のときに出家し、35歳のときに悟りを開いた。
 後は、80歳で亡くなるまで、ずっと、正しい教えを広め続けた。

 30代~40代で、生涯的な、これをずっと続けようという、ライフワーク的なもの、それを見つけることが大切だ、ということなのだろうと、思う。

 少し、自分なりに、人生の流れを簡単に書いてみよう。本当は、孔子の論語みたいな表現が、いっぱい検索にヒットすれば、その中で使えそうなやつを引用した方が、精度も時間も効率的だと思うけれども、見つからないなら仕方がない、自分で考えるしかない。

30代

 自分の生き方について、方針・計画を確立する。

40代

 自分の生き方の方針・計画について、迷いがなくなり、より精度や深度を上げる。

50代

 自分の生き方、自分の存在についての、世界的な意味(天命・使命・運命)を知り、実感する。

60代

 他者の言葉を素直に聞くことができ、思うままに生きても、人の道に違うことが無くなる。

70代

 死の覚悟をし、心穏やかに過ごす。

10代20代の振り返り

 迷いおおき人生だった。とでも、死際につぶやくだろうか。まぁただ、死ぬということや、生きることそれ自体に何ら意味を見いだせずに鬱屈していた時期があったし、未来を考えるたびに苦痛で、日々の生活が緩やかな絶望にしか思えなかったこともあったことだろう。

 そんな自分が、70代まで含めたプラニングをたてるというのは、これはかなり異例なことであるのはきっと間違いない、こうしてブログに書くことは初めてのことだろう。

 しかしこのことが、果たして、今の状況における、すべての迷いが解決したとか、玲瓏と透き通って落ち着いた心に到達した、ということにはならない。それでも、こうしたことをするというのは、日々、猛然と過ぎ去っていく時間に対しての恐怖という、そんなマイナスの感情故かもしれない。ただ、その行為の結果については、間違ってはいないだろうという安心感はある。

生きる意味を徹底して考える

 前も書いたけれども、「生きる意味」なんて調べると、「そんなこと考えている時間がもったいないです! いますぐやめて、「いまここ」をしっかりと生きましょう」という内容がわんさかヒットする。

「ああ、やっぱり、俺の感じていることは無価値で無意味で間違っていて、無駄なことなんだろうか……」

 と感じざるをえない。しかし、孔子さんの言葉を、僕なりに捉えれば、逆に、40歳ぐらいにならないと、惑わってしまうことが往々にしてあるということだ。

 30代というと、世間ではもう「おっさん」なのだろう。スポーツ選手とか、会社社長とか、政治家とか、30代でも沢山活躍している人が多い。(もっといえば、趣味の世界においても、素晴らしい能力をもった人がとっても多い)
 そういう人たちと比べると、ああ、なんと、自分は矮小な存在なのか……と、思わざるをえない。

雑談

 そして、その、矮小な存在であることを、常にグチグチと言いながら、その安定的な自己領域を守り続けていくという方策、それがダメブロ界といった、「ダメ人間」「凡人」としての生き方である。こういった方法もある。それは、「向上する」ということを捨てた生き方である。世捨て人である。ニートである。そういう意味では、仏陀の教えに最も近い人たちなのではなかろうか。そういう人たちもいるかもしれない、ただ、僕は、話しの脈絡と関係なくなるが、例えば、「現実の女なんてクソだな」といって、恋愛ゲームにはまり込む人たちについて、気持ちは非常によく分かるのだけれども、積極的に肯定できないのだ。

 確かに、他者との生活というものは、恋愛ゲームのように理想的ではない。いくら愛する人でも、寝相が悪かったり、いびきがうるさかったりしたら、毎日寝ているとストレスになってしまう。目覚めのキスとか、朝起きると口内は雑菌だらけなのだというから、危険な行為だ! とか。

 しかし、それでも、ゲームやアニメやその他エンターテイメントは、「現実」から、理想的な要素を取り出して再構築した「現実」なのである。ということは、二次元的なものは、積極的に、全般的に、現実を否定するものではなく、むしろ、「現実の純化」というようなものであるといえるのだ(と思う)。

 二次元最高! という生き方は、これから書いていく、「身体的限界性」「時間的限界性」「言語的限界性」の、3つの限界により、必ずしも否定されるものではない、それどころか、その生き方が真実である可能性すらあるのだけれども、だからといって、「現実的なもの」が全否定されるというわけではない。
 現実は、確かに、二次元のように素晴らしいものばかりではない。ただ、だからといって諦めて、現実の中で、より「二次元的な理想」に近づけていくための方策……努力(この言葉の危険性は、前に書いた通り。本来用いたくはない言葉であるが、分かりやすく書くためには必要)を諦めても良いものだろうか、ということである。

思考の体系化

 自分の考えていることを、ツリー図のように体系化する。この目標は、何も今年初めて掲げたものではないだろうが、それでも、今年の主軸とする目標にしたいと思う。これまで、色々と書きなぐってきたが、そろそろ、「整理」も同時に始めて行ってもいいだろう。

 標語としては、ブログのタイトルのとおり、生きる意味を徹底して考える、とする。これの深化は、すべての行為において応用可能なものであるため、これから先、決して無駄になることはないことは、徐々に実感めいたものになってきている。何故今後も役に立つと思うのか、ネットで検索すれば、否定されることばかりでてくるというのに? それはそうだけれど、少なくても僕にとっては、いや、もっと多い、10人、100人くらいには、きっと役に立つだろうと思う。

 まぁそれについて、「役に立つ」「立たない」を議論する気も無ければ、必要もない。ただ、簡単に書いておけば、お金をたくさん集めて、できる限り長い間生命を維持できることだけが、人間として正しい生き方だとは信じられないから、というわけだ。ご飯食べて、排泄して、寝て、の繰り返しができたら十分だというなら、もっと自殺者は少ないはずだし、逆に、「資本主義」(欲望による消費と生産の循環)自体が成り立たない。



 というわけで、カテゴリごとに、できるだけ関連性を持たせて書いていきたい。まずは、30代の目標である、30にして立つという、その「立つ」というのは、自立というか、「自分の生き方について、方針・計画を確立する」というものであるけれども、これを考えるために必要なツールとして、次回は、「身体的限界性」「時間的限界性」「言語的限界性」について書いておこう。

 次に、これは繰り返しになるけれども、もう一度、「理想と現実の乖離」という、幸福という概念について書いておこう。
 その上で、自己への思考の体系化と、実行動への反映を模索していくこととしたい。

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面白い記事について考える
2017/01/14 23:59 | Comments(2) | 思考及び書くこと
今日の一言「信じるものは救われる?」「死ぬまで続けられたらね」

読者限定

 他者のブログを様々読んでいて分かったことは、一目で、何について書いてあるか分かる記事が面白いということだ。

 その人自身が何者か分からないうちから、その人独特の、ユニークな見解とか表現とか、そんなもの楽しむ余裕はない。
 頑張って読んだとして、結果的に面白くなかったときの時間の無駄さ加減が凄まじく悲しくなる。

 そこで僕は、書き手の位置付けを、そしてその記事の次元を、瞬間的に分析していることに気付いた。逆に言えば、それをすぐに気付かせてくれて、その傾向が僕が求める方向と合致する場合、面白い! と感じることが分かった。

 どういうことか?

 例えば、自分の知らない小説作品について、その人が感じたことを述べる記事だったとしよう。その作品のことを知らなければ分からない次元のこと、即ちその主人公がどうしたこうした、と、行動についてのみ書かれている記事は、残念ながら面白くない。
 これは、読書感想文の書くのが下手な人によくあるパターンだ。その作品の、抜粋とか引用とかに終始するのは、ダメな例である。
 大事なのは、その登場人物、またはそのシーンがあって、それについて、書き手自身が、どうしてどのように思ったか、感じたか、それが書かれていることである。

よい感想文の記事が面白い

 この、引用と、感想との配分が結構大切なのだが、これは読書感想文だけではなくて、ブログ全体について言えることだ。
 こんな経験をした、楽しかった、以上。
 というブログの何と多いことか。意識高い系のブログは、こんなすごい人と会った、こんなすごいことをした、と、その事実の列挙になりがちだ。それは、その人が有名人なら、そうした情報は読者に興味を与えるだろう、しかし、どこの誰かも分からない人が、どんだけ頑張っていようが、何ら面白くない。それだけではダメなのだ、その経験に対して、何を感じ、おもったのか、そこまでの言及がなければ、面白くなくなる。

決めつけをしていると面白くない

 神様がいます。皆さん信じましょう。そうすると幸せになります。
 と、スピリチュアル系の構造はみなこれである。何か、超越的なものについて、その存在を絶対視し、それを妄信的にお勧めするブログたちもまた、面白くない。

 重要なのは、なにも、超越的なものについて書くことがダメなのではない。そして、間違っているとか、あっているとか、それも問題ではない。
 ここでの問題点は、超越的なものなのに、それを絶対的に信じていることでる。

 こういう人は、何を言おうと、信じているものをまげはしない。その頑なさは、むしろ見習うべきだが、むしろ、自分に都合の悪いことをみないように、自分の信じたいことしか認めないようにしているのである。そして、そのことに自分では気付けない。こういう人の書く記事は面白くない。

悩みが含まれている記事が面白い

 科学的事実、を述べるにあたっては、悩み、などという要素は不要である。しかし、ブログという媒体で求めることとしては、その生きた人の実感であり、その人の生き様であり、その人の思考感情そのものの吐露に触れることである。

 ブログを、いわゆるFacebookのような、SNSと同様の媒体として考えてしまっては、何とも面白くない。逆に、リアルのコミュニティー及びコミュニケーションの延長(スマホでラインを用いてチャットするような感覚)でしかないのであれば、ブログは甚だ一方通行であり、適さないメディアということになる。

 だからこそ、5行だか、その程度の内容しか更新しないのに、もったいぶって1週間に一回だとか、低頻度更新のブログは、見るに値しない(巡回する面倒さと、いざ更新されて開いてみたときに、内容のあまりの軽さ!! 何とも徒労感となる)。

 長ければ面白いかと言えば、そうではない。「いやだいやだいやだ仕事嫌だいきたくないやってらんない」「頭が痛い方が痛い腰が痛い目が痛いつらい哀しい苦しい」「いとしの彼……今日も目が合っただけで嬉しかったけど、話しかけることはできなかった。よーし明日こそ頑張るぞハート」とか、同じ繰り返し表現ばかりで、思考とも感情とも言えない落書きレベルの文章というのも面白くない。

 ちょっとまったぁぁぁーーー!! お前、それ、ものすごいブーメランじゃね??(かっこ死んだ目をした笑い)

自己分析しましょう

 散々、面白い記事とは何かと、つまらない記事とは何かを書いてきた。
 そもそも、それについて「断定」している時点で、まさに自分で上に書いてきた、「決めつけ」しているに過ぎないではないか! というブーメラン。

 トートロジーで、同じことを思考ともいえない稚拙な表現を繰り返しているという……はいこれもブーメラン。

 やっぱり、お前自信も面白く無いじゃないか!


 いや、しかし、ところが、自分の記事は、たまーには、面白いのである。これは、やはり「自分の記事」だから、言外(文章に記載ない部分)の表現もくみとれているから、面白いというのだろうか? それは、数日間おいてから読み返した場合を考えると、影響は低いと思う。何せ、今、一週間前の記事で、何を書いたか、何を思ったか、残念なことに一切思い出せないのである。三日前でもそうだし、前日の記事も、ほとんど思い出せん。アホの露呈、なのかもしれないが、まぁ、自分の記事だから覚えていて面白い、という理由ではないと思う。

 となると、面白いと感じる場合の理由というのは、その「テーマ性」が、興味があるからなんだと思う。
 じゃあ、そのテーマとは何か。「意味」である。……なるほど、やはりそこにポイントがあるわけか。

タイトルは間違っていない

 小説とか、映像作品の感想を書いたりする記事があったりして、これ、タイトルと関係ないのではないか、と思ったりもしているが、そういうわけではないのだ。結局、大きなこのテーマというものに、僕は影響しているのであったのだ。なるほど。

 で、そのテーマ性に近い内容が書かれている記事を、僕は感覚的に「面白い」と感じているというわけか。
 例えば、同年代の、サラリーマンの、仕事が嫌で仕方がなくてアーリーリタイアを目論む人の資産運用ブログなんかは、結構面白いし、集団行動が苦手で、小学生のころ昼休みにみんなで遊ぶよりも一人図書室にこもっていたとか、そんな感覚よく分かる気がする(まぁ小学生の頃は、何も考えず皆と楽しく遊んでいた。高学年になってクラブだか部活動をやるようになってから段々おかしくなってった)けれども、ただ、最近、あんまり面白みがなくなってきたのは、なんでだろうと思っていた。

 それはきっと、その、「アーリーリタイア」が目的であって、何かその、生きることそのものに対しての見解があまりにも無さ過ぎて、飽きてきちゃった、というのがあるんだと思う。
 色々と、資産形成のための勉強というか、資料集めというか、人に聞いたり、相談したり、考えたりもしているけれども、いまいち、本気になれないというのは、今力を注ぐべき部分だとは思えていないからだ。

 そうはいっても、今現状としてやるべきことは、絶対にあるので、日々生活を送るために必要な行動、作業は、おろそかにするつもりは、あまりない。ただ、本気でやれてはいない。

書くことが面白いということ

 ポイントは、この、こうして、ブログを書いている時が、一番充実しているような気になることである。ここはいつも、ちょっとまったぁぁ! と自分で掛け声をかける。そんなわけないだろうよ。もっと他にすべきことあんだろうよ。

 ある。間違いなく、あるだろう。もっと生産的なこと、いや、アウトプットであれ、インプットであれ、両方の作業としても、もっと生産性があることがあるだろう。

 ただ、――ここでは敢えて、決めつけというか、断定的というか、感情的に書いてしまえば、価値や意味など、人の創り出した幻想に過ぎない。その幻想が、共同的な幻想なのか、個人的な幻想なのかは分類があるだろうが、どちらにせよ、自分自身を本気で「騙せる」ような何かがなければ、その自分自身が行うこと、すべては、等しく無価値であるにすぎないのである。


↑のいってること、理解できるだろうか? それは、他者もそうだが、明日、もしくは三日後ぐらいの自分自身もそうであるが、分かってくれるだろうか? 分かったとして、同意してくれるだろうか? 同意してくれたとして、自分も同じように考え、行動しようと思ってくれるだろうか?


 この、他者(自分も含む)へ、納得してもらい、行動してもらうような、そんな言葉をつむぐこと。

 それが重要なことなのである。

今月の目標

 さて。そいでもって、今日の、23時59分が、今月の目標を立てる期限となっている。アッというまだなぁ。早いなぁ。
 一応考えた。

 今月中に、今部屋に存在している書類を半分にする。

 ということだ。
 部屋を綺麗に保つためには、物が少ない必要がある。平積みにされた本や書類、チラシなどを片付ける。
 おおう……小学生の目標か(かっこわらい)。

 まぁこれ、結構が逆に大変なのである。帰りが遅くなると、まず家のことなど殆どできやしない。けれども、本を読んだり、くつろいだり、少し休憩はしたい。そうすると、だんだん物というかゴミが積み重なってくる。綺麗な状態を維持するというのは非常に難儀である。

 うん。
 そうだな、何やかんや、「片づけをする! 生活感の無いぐらいな家にする!」という目標は何年も前に立てて、それなりにやってきたけれども、一か月とか、半年とか、長期スパンで本格的にやるってのは、これまでなかったように思える(すなわち、土日とか三連休とか、短い期間で可能な限り実行し、それで満足してきたというわけだ)。

1.1月   部屋の片づけについて3月までの計画を立案する。(PLAN)
2.2月上旬 1.について、作業を実施する。(DO)
3.2月下旬 2.の作業について、評価を行う。(CHEACK)
4.3月上旬 3.の評価を元に、再度作業を実施する。(ACTION)
5.3月下旬 3.の作業を確認し、足りていないことを補完する。

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面白い記事欠乏症
2017/01/12 19:00 | Comments(0) | イライラ対処
今日の一言「必要な時に必要な言葉が欲しいんだけど」「二次元でも行ってろ」

眠れない夜

 ただ、苛々する感情を書きなぐるだけの記事はもうやめようと、思っていたけれども、筋トレして、ストレッチして、音読し、お風呂入って、サプリを飲んで、さーて寝ようか、と思ったけれども、眠れなかった。
 いやほんと、そもそも、俺は、どうやって今まで生きてきた、いや、今俺は生きているのか?
 とか訳の分からないことが頭に浮かんだ時点で、もう簡単に眠るのは無理だろう。

 風呂に入ってもこの状態ということは、もはや取るべき手段は、書くことしか残されていない。

面白いことをしたい

 御贔屓にしているブログさんがいくつかある。しかし、変な時間に更新なんてしてくれない。しかも、短かったり、逆に何か言いたくなったりもしてしまったりする。
 本当は、読んで、うんうん、そうだよねーあはは、分かる分かる~さーて寝るか、になればいいのだが、そう簡単にはいかない。

 そうだな、遠藤浩紀さんの、「ソフトメタルヴァンパイア」、一巻全部先日読んだ。中々面白いねー、化学の知識がある人はもっと楽しめるのかな、そうでなくても、元素をもとにしてバトルするってアイディアもいいし(僕も高校生ぐらいのとき考えて何か作品にしたかった、けどダメだった)、独特の遠藤先生タッチ(シリアスだったりグロテスクだったりするのに何故かコミカルな部分があるところ)がやっぱり絶妙で面白いね~。
 ただ、どうだろ、まだ、1巻だけだと、書庫に保存すべきかどうか悩みどころ。もう少し様子見だな。

 うーん、何だかスタートダッシュがイマイチなのは、恐らく、毎年恒例の今年一年の目標を立てなかったことな気がする。

今から目標立てようか

 絶妙に、微妙な時間なので、今日はもうやめよう。ただ、何も、目標を立てることをさぼろうと思ったわけじゃあない。2017年、いろいろ考えたのだ。ノートにやろうと思ったことを書いたりしたのだ。ただ、それらを眺めていても、何だか、それをスケジュールにプロットする気になれなかったのだ。何故だ、俺はいったい、何をしたいんだ。

 なんというか、「○○しない」という目標は、結構達成できるのだ。
 禁欲的なことはどちらかというと得意なのだ。お金を使わないとか、自慰をしないとか、ゲームをしないとか、期間を決めて、それを達成することはできるのだ。
 しかしなのだ、それじゃあ目標にならないのだ。
 ルーチンをこなすことも、どちらかというと得意なのだ。筋トレストレッチ、音読は、ブログ横のカウンタみれば、もう少しで90日、三か月達成なのだ。素晴らしい、パチパチ。

何かを達成するという目標が必要

 人間、達成できるか分からない、50%~70%ぐらいの目標がモチベーションによいという。
 しかし、なんだ、思いつかない。
 先日ノートに書いたやりたいことリストは、実際取り掛かれば、99%ぐらい達成できそうな目標ばかりである。

 ブログの説明文のように離婚ブログだとしたら、
「婚活して、相思相愛になる女の子を見つけて、幸せな結婚生活を送る!」
 とかでも目標立てたらいいのだろうか。しかしこれは、目的程度にはなるかもしれないが、残念ながら目標としては欠陥だらけだ。その理由はいつも書いているとおり、「全然具体的じゃない」からだ。

他者のブログ記事の物足りなさ

 人のことは言えないし、言ってる暇もないのだけれども、中々面白い作品に出合えない、というのは、「せっかくブログという個人の主義主張を発信するということが可能なメディアなのに、一般論的なことしか言えてないもの、詩的な抽象的なことしか書けていない記事が、何とも多い」ように思われるからである。

 俺は断食生活をしている、最近は飲尿を始めた

 とかいうブログさんとか見つけて、「!? マジすか?」と思ったりもした、面白そうだった、しかし、それはもう数年も前の記事だった。今どうなっているのか分からない、そう、ブログのよさは、その人自身の存在が感じられることにある。生きている人、実在する人を感じられて、しかもそれでいて、現実ではとても言えないような、もしくは、普段僕たちが生活している環境では出会えないような人たちの話が、都合の良いタイミングで聞ける、というのが、ブログの良いところではなかろうか。

 そんな、僕に何か、影響を与えてくれるような作品を生み出し続けている人に、中々出会えない(いや、最近段々増えてきてはいるけれども、まだだ、まだ足りない)。

憧れの人を見つけるとかどう?

 あー、いいかもしれない、今年の目標。
 どうにも、僕は、自己完結する傾向がかなり強いので、油断すると、世界でとーくべつなーオンリーワン♪ 的な感覚に陥る場合がある。本当はそうじゃないんだ、もっと僕に共感してくれる人も多いだろうし、僕自身も、「マジすげーッス!」と思える人も、もっと大勢いるはずなのだ。

 そういう意味では、もう何人かには、ターゲティングしている。ふふふ、狙っているぜ(きもちわりーよ!)。
 まぁ冗談はさておき、今年は取りあえず、結論めいたものを出すのはあきらめて、もう一度、環境に流されてみてもよいかもしれない。いや、ちょっと表現が違う、そうじゃなくて、「自分の考え」を確立するのではなく、他者の考えや生き方というのを、可能な限り吸収するということを、2017年全体目標としてみたらどうか、ということだ。

 これは別に、ネットに限った話である必要はないし、現実に限った話じゃなくてもいい。映画や小説など、エンターテイメントでもよいだろう。
 つまるところ、ネタ探しというか、材料探し、基礎固めの一年にしてはどうか、ということだ。

 仏教の八正道ではないが、(あ、昨年覚えたはずなのに、今もう忘れ始めている。ええと、正見、正語、正業、正命、正精進、正念、正定……あ、7つだ、やっぱり忘れてしまってる……哀しい)、正しい行動言動を行うためにも、その環境に応じた自分の言動行動に対しての価値判断を抽象化するため、経験の積み重ねと体系化が必要だ。

面白くない記事だな

 何だか、良いアイディアに思ったところだけれども、果たして、数日後どう思うことやら。良い文章を書く秘訣は、寝かせる時間が必要だということだ。インプットとアウトプットをしながら、よいなと思ったことは積極的にメモしつつ、それを後でちゃんと見返しながら、繰り返し表現し続けることで、洗練されていく。

 だから、そうだな、もう面白いか面白くないか、自分の記事に対して考えるのはよそう……というのは一つの方策足りえるが、ただし、そのとき、書いているときにどう思って書いていたか、というのも、重要な要素だったりするので、「面白くねぇなぁぁぁ」と思いながら書いていること自体は、あってもいいんじゃないかなと思う。我ながら気持ち悪いこと書いてるなぁという感情もまた、然り。というか、「キモチワルイ」って何だろな? サイコパス二期で、シモツキ監察官がトウガネ執行官のこと調べてて、トウガネさんがある方の犯罪係数を常日頃から観察記録していることを知ったとき、「うわ気持ち悪!」と叫んでいたけれども、そのキモチワルイとは何なのだろうか?
 ストーカーというのは、気持ち悪いし、犯罪である。ただ、「愛」と、何が違うのだろうか。それは、相手が欲しているかどうかだ。嫌がってるのに、帰りで待っていたり、花束を送ったりするのが、ストーカーなのだ。相手を思う気持ちは、実はそれほど違いはないのだ(ただ、ストーカーとは、相手、よりも、自分の愛欲(そもそも、愛ってなんだろうね、この場合、性欲に近いんだろうか)を優先している傾向が強いだろう。本当にその相手を思うなら、相手が嫌がっているなら自分を押し殺してでも、もうアプローチしないだろうから)。
 だから(シモツキさんがキモッ! と言ったのは)、実は、シモツキさんは、嫌っていて劣等感を感じているツネモリ先輩のことを、「思いやっていた」と言えるのである。どういうことか? トウガネさんが、ツネモリさんのことをストーキングしていようが、シモツキさんには直接的に関係はない、しかしながら「キモ」と思ったのは、自分がもしそんなことされたらイヤだな、と思ったからである。そう思うことができるのは、人間のミラーニューロンという働き、即ち他者への共感心に基づくのである。

 いやもちろん、虫とか、グロテスクなものとか、キモメンとか、生理的に「キモチワルイ」というものもある。ただ、何でもかんでも生理的に……と片付けるのは容易いが、その感情は何故生じるのか? 脳機能の基本は、生きたい、知りたい、仲間になりたい、である。後者2つの、知りたい、仲間になりたい、という働きが活性化していれば、むしろ、グロテスクな虫とか、好奇心的に「知りたい!」と思わなかろうか(思う人がいるから、昆虫研究家さんたちがいらっしゃる)。

 にも関わらず、「キモチワルイ!(関わりたくない!)」と思うのは、その脳機能の、「生きたい」という本能に反する事象が発生しているから、というわけだ。

 つまり、キモい人というのは、自己の生存を脅かすような危険な存在、ということなのである!!


 って、あーもう、何言ってんだろうな。上のことは、何だか断定的に書いているけど、完全に5分ぐらいのノンストップ思い付きである。はぁ、疲れた、だが、何だか眠れそうだ。よかった、そういう意味でこの記事も意味があった、おやすみなさい。


(そうさな、今週の目標……は、今月の目標を立てる、ということにしよう。期限は、14日(土)23:59まで)

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集合的社会正義(サイコパス2期視聴完了)
2017/01/11 19:00 | Comments(4) | 思考及び書くこと
今日の一言「サイコパス2期も面白かった」

単独者としての概念

 キルケゴールさんの本を読んでいて、単独者という概念を、ふと思い出した。
 神は罪人ではない、という言い方は、すげー冒涜なんだぜ、ということ。人が罪を裁くのは、裁判官とか、警察官とか、看守とか、死刑執行人とか、色々できるけれども、その罪人が多すぎると、その罪を裁くのはあきらめざるをえない、ということになる。もっとひどい場合は、殺戮者や残虐者であっても、それが権威ある人であれば、正しいことであったりもする。というと、罪という概念は、結局、多数派が決めるもの、勝てば官軍的なものに過ぎないのだということになる。

 しかし、神の審判は違う。
 神は、人間が70億人いようが、全員について、一人一人罪を裁く、審判をくだすことができる。なぜならば、神は永遠普遍の存在だからだ。
(神は神だからすげーんだ、へへーん思い知ったかバカ野郎! というわけだどういわけだ?!)

 なんだろう、この記事の内容に関係あることか分からないけれども、何だかこの「単独者」という概念と「自己満足」という概念と、生きる意味ということ、これは密接に関係するというか、大事なことのように思える。


 高校の教科書的に、キルケゴールさんって、「物質的な生き方、美的道徳的な生き方、宗教的な生き方があるけど、宗教的な生き方が一番大事だよ!」って言った実存主義のはしりの人です、ぐらいしか触れられないから、現代人特に日本人にしてみれば、「結局キリスト教万歳的なことッスね、あほらし」としかならないんだけど、そうじゃなくて、

「いや、どうせみんな死ぬんだし、信仰的に生きるしか他になくない? 死後の世界とかわかんねーけど、神様信じて生きてった方が精神衛生上よいよね」

 ということなんだと、僕は思う(多分、真面目な研究者さんたちには殴られる)。

幻想であった審判が実現する社会

 で、何故キルケゴールが出てきたかというと、サイコパス2期で取り扱われるテーマが、「集合的社会秩序(集合的サイコパス)」であったため、頭に浮かんだからだ。

 個人的に一番不満だったのは、お色気シーンが中途半端だったことぐらいであり、おおむね満足だった。いやその、メディカルケア施設に立てこもった老人が、人質たちを下着姿にして立たせて、「これぞ生まれたままの姿だ!」とか、感情を解き放て、とかやるシーンが前半ぐらいであるが、いや、下着付けてたら生まれたままじゃねーじゃねーかよ! と変態突っ込みをしていた。
 年齢制限的なものがうんたらあるかもしれないが、もうどうでもいいぐらいグロテスクなシーンが大量な作品であって、エロとのバランスが取れてないのは逆に違和感になってしまう。エルフェンリートとかは、絵柄が可愛いわりにグロテスクだが、その点(色要素的に)バランスが取れていたので良かったと思う。

 まぁそれは本当に大したことではない。
 今回の真犯人、キリトくんだが、彼の頭のキレは流石ではあるが、犯行動機が結構人間的であるために、前作のマキシマ氏と比べると、見劣りしてしまうというレビューは何となく分かる。(サイガ先生は一期から変わらずかっこよかったが、その衝撃も一期ほどではなかったし、マサオカさんのように痺れるおやっさんもいなかったので、キャラクター性としてはやっぱり一期の方が良かった気がする)

 ただ、シビラシステム自体に対して与えた影響は、非常に大きかった。

 シビラシステム自体を、裁きの対象にした=このことは、集合的裁定者(シビラシステム全体)において、「濁り」を自動的に排除する仕組みを認めさせたことによる。
 これまでのシビラシステムは、「免罪体質者」という異質な存在の集合体でしかないにも関わらず、それが何故社会秩序を維持できるクリアな存在であり続けられたのかは疑問であった。けれども、その問題が顕在化する前に、第二作目において、シビラシステム自体も、ドミネーター(犯罪係数を計測してそのまま裁定を下す(鎮圧から殺害・破壊まで)銃)が向けられる存在となったのだ。

 これが意味するのは、等しく人が「神」と向き合わざるをえなくなった時代を象徴する。

神への冒涜

 ええと、ちょっと違うな。その、システム(神)によって、監視されて等しく裁かれる仕組みというのは、前作(一期)のシビラシステムで既に完成されていたのだ。そういった意味で、キルケゴールさんのいう、単独者として神と向き合わなければいけない、という社会は、既に実現していたのだ。

 そう考えると、第二期で起こったこと(シビラシステム自体が監視や裁定の対象になったこと)は、何を意味するのか?

 キルケゴールさんはきっと、「神への冒涜だ!」と怒り狂うに違いない。何故なら、「罪」という概念は、等しく人間に与えられるものであるからだ。「神が罪人だ」というのは、矛盾はなはだしいどころか、冒涜であるというのが有名な「死に至る病」という作品において記されている。

 サイコパス第二期=ツネモリ監視官の提案=集合的サイコパスの容認は、神をあくまで「人である」という前提まで引きずり下したことである。

 これを成し遂げたのが、キリトくんの業績であったわけだ。


 シビラシステム側が、このことを皮肉を込めて、「あーあ。これで、個人がいくら綺麗であったとしても、全体が濁っちゃったら裁かれる対象になったってことだよね。これって、現代の魔女狩りでも起こっちゃうんじゃねーの」と言うわけだけど、まぁ難しい選択肢だといえる。

 製作者側の意図は分からないけれども、勝手な解釈をすれば、この作品は、「というわけで、まぁ何が正義とかよく分からない時代なんですけど、あくまで法とか秩序ってのは、「人自身」が選び取って、運営していくものだってことを、これからも忘れないで欲しいってことですわ」ということなんじゃあ、あるまいか。まぁ違うかもしれないけど、僕はそう感じた、思った。

一般意思2.0的な

 東浩紀さんという思想家の方の著作を少し思い出した。ルソーの社会契約論の新しい現代版解釈として、WEB(インターネット)社会が、まるで神の見えざる手のように、オートマティックに正義とか秩序といった概念を「集合知」として形成していくのではないか、という提案というか、概念の提供。

 ほへー、なんかすごそうやなー、ぐらいにしか思わなかったけれども、このサイコパスという作品がなんかそんな社会の一つの在り方の、描かれ方なような気がして、面白かった。
(いや全然関係ないよ! ということかもしれないけれど、まぁ僕はそう思った)


 という、言い訳みたいなのが、実は大事で、「僕が思った」というのがないまま、ここで記事を終えたら、単なるレビューみたいになってしまうので、ここから少し考えてみたい。


 え、何を?

前向きになれる作品だったか?

 ひとまず、いえることは、見てよかったと、自信をもって言えることだろう。
 例え低評価バイアスがあったとしても、今この時、面白かったという感情を得たことについては、否定しようがない。

 問題は、この正義とか秩序という問題が、自分自身の生き方にどう関わるかという点である。

 先日の記事において、「物語(価値)を創る」というのが、一つ大きな目標(目的・課題)であると記述したけれども、それについて、何らかの「インプット」として役立つことは間違いないだろう。

 ただ、その「何らかの」という意味判断しかできないとすれば、残念ながら、大学や仕事の大量に眠っている資料と同じように、結局、滓でしかないという可能性になってしまう。





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自己来歴の整理
2017/01/10 19:00 | Comments(0) | 当ブログについて
今日の一言「匿名性を損なわずに自己紹介するって矛盾じゃないか?」

匿名であることの意味

 とあるリンク先のブログ様において、実名や顔写真付きでブログ書いてる奴はアホか金の亡者だ、と書かれていて、辛らつだなぁと思いつつも、重要なことを仰っていると思う。
 ここからは、僕の被害妄想的な考えに過ぎないけれども、結局「本心」というものと、実際の対面状況におけるやりとり(言動)とは、必ずしも一致しないと思っている。こういった考え自体が、女性受けが良くないので、そもそも、こういったことを書くこと言うこと自体が、周囲の環境では望ましくないのであり、それこそが「匿名性」の重要な点だと思う。

 ただ、これだけに絞ってしまえば、実際問題、女子会を快く思ってない人が実は5割以上もいるだとか、腹(や、空気)の探り合いだったりすることが、現代人特有(?)のストレス要因だったりすることは、もはや周知の事実になってきていると思うし、まぁこれからもそんな傾向は続くことだろう。

自分の過去の整理

 というリスクを知ったうえで、ちょっと自分の過去を整理しようと思う。ログをみれば、その当時にどんな思考や感情状態だったかある程度復元することは可能だけれども、いちいちこの時期はどうだったけかなー的なことをやっているのも面倒であるのと、ある程度まとまっていたほうが、建設的なことをかけるのではないかという期待からの作業である。

作業後の感想

 何か他にも色々書いていたりするけれど、取りあえず目についた記事を適当な感じで抜粋。
 2008年からこう並べてみると、「うわー」って感じになるなぁ。今回抜粋した記事以外にもあるし、そもそも、消してしまったりローカルになっている記事もたくさんあるわけで、本当に厖大だ。
 ……これ、何か役に立つんかな。

 2013年の「日々の家事に精をだすのは必要だが、十年後、僕がアラフォーになったとき、自分はこういうことができる人間だと、胸をはって言えるべきだ。 これは友人や家族や妻をないがしろにすることに繋がらない。」この発言とか、若気の至りだと嘲笑に付すことは簡単だが、しかし、最近同じようなことを書いてはいなかっただろうか。

 人は変わろうと思っても中々かわれない。
 環境要因が非常に大きい。

 だからこそ、敢えて、思考にストップをかけて、様々経験的に身を投じてきたわけだけれども、その経験をいったいどう制御するのかという点において、あんまり良い方法じゃあなかった気もする。

 つまり、「最終的に成しえること」をイメージしないまま、「取りあえず」で経験できる状況に身を置こうというのは、もう、やめた方がいいだろうという結論(何を回りくどくいっているかというと、例えば、取りあえず婚活しなよ、とか周りから言われたりするけれども、その「取りあえず」はやめておこうということだ)。

 しっかし、難しいなぁ。

 生きるって、どうやったらよかったんだろうか。



以下各年度の記事抜粋

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