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何でもかんでも死刑にして良いという言説(削除候補)
2017/01/17 19:00 | Comments(6) | イライラ対処
今日の一言「まぁいろんな人がいますわな」

驚きの短絡思考

 何でもかんでも、すべての犯罪は、死刑でよい。現行法制度は手ぬるい。万引きや違法駐車など、軽犯罪であっても全部死刑にすべきだ、ということを本気で思ってます、というブログを拝見した。

 おおぅ……そうか、やっぱりそういったことを思っている人はいるんだろうなぁ。そしてきっと、少なくないのだろう。ニュースかなんかで、加害者の人権が守られ過ぎてる! とかいう言説をみてきっと思っているのだろう。

 恐らく、そういう方々は、絞首刑を見たことないだろうし、どっかの国の処刑動画、首をナイフで切り落とされたり、人が死ぬということを見たことは無いだろうし、ましてや、自分自身が、その処刑を自らやろうともしないだろう。
 てなことを書くと、お前は死刑廃止論者か、とすぐに突っ込まれるから、先に書いておけば、別に死刑廃止も賛成も特に僕は無い。それらは、社会と法によって決めていけばいいものだが、その論議に参加するほど今の僕には到底余裕はない。
 というよりも、人が死ぬその残虐な情報を知っていてもなお、街でぶつかってきて舌打ちしやがるクソ野郎は死んでしまえ! と僕だって思うわけだが(ただ、それだって、本当に、そいつを殺しても、何ら罪をうけないとして、手軽にボタンをポンと押すだけで殺せる状況があったとしても、いざその瞬間になったとき、僕はそのボタンを押せるのか? これはなってみないと分からない。まぁそもそも、そんな状況の仮定がありえないから、思考実験にすらなっていないが)。

 ただ、驚きを隠せなかったのは、その、軽犯罪でも何でも、悪いことしたら即死刑! という発想の貧困さである。
 そして、恐らく気づいていないだろう、その「悪いこと」の定義がいかに難しいかということへの、理解をしようとできない態度である。

社会悪

 一度、「サイコパス」という作品を見てみるといい。いや、多分みても理解できないのだろう。

 ちなみに、そのブログの作者さんは、ネガティブ思考で、無職の女性だということだけれど、ネガティブだったり無職だったりするのも、今の世界では「悪いこと」とされている。じゃあ即死刑なのか? んなわけねーだろう。

 もう一つ、社会復帰できないようなクソサイコ犯罪者野郎もいるだろうが、そもそも、人間って、そんなに完璧で美しいものか?
 これは、お前(俺)自身が汚れてるからそう思うだけだ、とか言われそうだけど、だが、アリストテレスだって、「アクラシア」といって、「わかっちゃいるけどやっちまう!」的な、間違いを犯すものだと言っている。それらを、片っ端から消去していけばいいというのか? そもそも、死刑を執り行うコストというものだって存在する。社会秩序は、「何となくみんなルールを守ってる」状態が「信じられている」から上手くいっている面があって、神の裁きのように、完璧に罪を裁こうとすると、これはもう大変な作業になるのである。

(こんなこと書いていると、じゃあお前は何かやましいことでもあるのか? 犯罪者の味方なのか? キモチワルイ奴だな! とかコメントが沢山くるのである。まぁそんなことより気になるのは、そう思っている人が、果たして本当の意味で多数派なのか、少数派なのか、ということだけれど。)

愚かな人への説得

 上の小見出し、そもそも、「愚かな人」という定義もまた、難しいのであって、そもそも、社会って共同幻想で成り立ってるんだよ、ということを信じているというか、理解している人は、どれほどいるのだろうか?

 このことは、別に気付く必要もないのだけれども、エリート層とか、支配者層とか、経営者とか、統治者とか、上司とか、先生とか、そういう上に立つ人たちがそれに基づいて色々考えてくれないと、本当に大変なことになるのである。

 人任せ、だけれども。いや本当は、民主主義なのであれば、人民がちゃんと、その政治的思考、正義とは何か、悪とは何か、ということについての、基礎的な「合意形成」が図られるべきなのだけれども、実際、発展した国家であればあるほどに、「政治的無関心」は避けられない。

 だから教育が重要なのだけど……ただその教育って、「美しい国、美しい道徳、美しい人格を目指しましょう!」というのが中心であって、いやその、「美しいもの」は重要なのだけれども、ただ、それを形成するために必要なこと、そもそも、その「美しい」の定義は多様な価値観のもとで醸成されるものであるとか……もろもろの大切なことを、ちゃんと伝えられているのだろうか?
 伝えられていないから、結局、「美しくない犯罪者は消し去りましょう!」という思考体系になってしまう。

選挙の重要さ

 だから、選挙って本当は重要なわけだ。上のような頭のおかしい(というわけではないと思う。単に教養が足りていないだけ)の人が政治家にならないように、民衆はちゃんと監視して責任をもたなければいけないのだ。
 というのは当たり前なのだけれど、でも、その立候補者が、どんな思想信条をもってるかなんて、簡単に分かるはずもないわけだ。だから、マスメディアが、政治家たちの発言の節々をとらえて、大げさに報道したりするのだけれども、まぁ、そういった細かい言動からしか、判断材料が無いのだから、仕方がないともいえる。ただ、そんな情報しかないと、やっぱり選挙とかに興味をもてない人は多くならざるをえないと思う。

本ブログの主旨と合致する記事か?

 さて、驚きのあまり書き連ねたものの、この記事は、このままだと正直消してもいいかな。自分自身の生きる意味、について、あまりにも関係ない気がする。

 うん、まぁ、1年ぐらいは残しておこうか。見返してみて、何を思うか、それはまた気になるところだ。

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書けないのではない書かないのである
2017/01/16 19:00 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「答えは自分で導くものだ」

無駄だからやらないでいいのか?

 面白い記事みんな書けやぁごるぁ! みたいなことを先日書いた。けれども、これは、傲慢チキ極まりない。

 よくある刑事ドラマとか、サスペンスとかで、狂人的犯人が、「だってお前、ほら、みんな人は、人を殺したいって欲望があるだろ? 人間の歴史みてみろよ、戦争のオンパレードだぜ! もっと正直になれよこの偽善者どもがァ!」とか叫んだりする。
 それに対して、刑事さんとか、主人公サイドの人たちが、「バカはてめーだ! みんなそんなこと分かってるんだ。分かっていて、そんなことをしても無意味だから、やらねーだけだ! 哀れな奴だな!」とか煽りかえすシーンを何度かみたことがある。

 この、「みんな分かっているけれども無意味だからやらない」理論が、さも正しいように吹聴されているのだが、僕はこれには違和感を覚える。

本当にみんな分かっているのか?

 まず疑問その一。「みんな」というけれども、本当にみんな分かってるの? それは、無意識下で、「人を殺すのは無駄なことだ」というのはあるのかもしれない。ただ、それを意識的に、「分かっている」と断定する根拠はあるのか、あるはずがない。
 逆に言えば、「人間は誰だって殺害衝動がある」という犯人側の主張も、何ら根拠がないものであり、「てめーが思うなら、そうなんだろうよ」程度のことである。

 だから、上の例シーンにおいては、刑事側も犯人側も、低レベルな煽りの応酬に過ぎないのである。
 にもかかわらず、ドラマ的には、刑事側の主張がさも正しいかのように描かれたりする。そのことに違和感なのである。

書けないから書かないのではない?

 話を戻すと、「面白い記事(=意味や価値を表現するもの)をみんな書いてくれよ!」という主張は、みんなが、書けないということではなく、むしろ、書いても意味がないことを、重々わかっていて、それで、できる限り、そのことに触れないように、触らないように、恐れ多いものだとして書かないだけなのだろうか? という疑問。

 それを僕は分からず、無駄なことをしているというのだろうか?

 残り僅かな時間。人生には限りがある。清く正しく美しく生きるべきだ。人に思いやりを持って優しく生きていくべきだ。いまここを大事にし、日々の生活を精一杯いきて輝いていくべきだ。


「家畜と何の違いがある!」

 と、敢えて強烈な言葉で言い放とう。いや僕自身も、未だ、僕の成そうとしていることが正しいなどと、心底信じられているわけではない。しかし、逆に、他者の、というよりも一般的に「正しい」とされている生き方というもの、すなわち、意味など求めずに、ただ「生きていることそれ自体が素晴らしいことなのだ」という価値観、それに対しても、僕は正しいと心底信じることができない。

ただ生きることだけが目的ならばもはやユートピア

 慎ましく生きるだけであれば、現代日本は、批判も多くあるだろうが、これまでで最大に「幸せな国」の一つであるといえよう。縄文時代など、狩猟採集民たちの時代に戻らずとも、戦国時代や、大戦下と比較するまでもなく、「生存確率」的な意味と、人口総数的な意味においては、素晴らしい時代と国であると、僕は思う。

 がしかし、3万人未満程度の自殺者数や、200万だかの生活保護者数(しかしこれは逆に豊かさと換言すらできよう、皮肉なもんだが)、労働時間の多さや過労死、いじめや犯罪、政治汚職や他国の外圧などなど、マイナス要素だって大したものである。

スタンドアローンを維持すること

 パッケージ化された生き方(一般的に正しいとされていることに従った生き方)にすがり生きていくことに、家畜のような生き方に、人は耐えられない。こんな表現をすれば、「当たり前だ!」と誰しもが思う。みんな誰もが、自分は特別な人間で、自分の人生は自分の手で切り開いていくものだと信じ疑わない。

 だが、その「正しいこと」から零れ落ちてしまう人はいつの時代も、どんな社会においても存在する。
 そんな人を切り捨てて、理想的な社会を構築しようというのが、「サイコパス」という作品においては、シビラシステムの目指す社会であるし、政治家や経営者が求める理想的な統治である。

 理想、という表現は美しいが、この理想をいかに現実化しようとすると、その急進的なやり方は、「世界系」という、全ての人の垣根を取り払ってしまおうとする、急進的な「虐殺的世界再構築」になる可能性がある。

 攻殻機動隊ARISEを見終わった。そのために、そちらに思考が偏っている気もするが、「スタンドアローン」と「ゴースト」(人としての人格そのもの)を重要視しながら、「組織」的に生きることが、それと反比例する場合があることに対しての抗い、そんな表現がなされている作品だと思っている。

まとめ的な

 読みづらい文章になったなぁ。
 ただ、この記事において理解できればいいのは、「無駄だからしない」という判断は、到底、個人でできるものではないことを理解しつつ、同時に、誰かから言われたところで変えるべきものですらないということだ。




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生きる意味とか人生プランとか
2017/01/15 20:56 | Comments(4) | 生きる意味
今日の一言「本当に求める情報が検索できない」

人生プランというとFPが出てくる

 人生プラン、として検索すると、「ライフプラン」即ち、何年後に結婚して、何年後にお金がこれぐらい必要で、何年後に家を買って、子供が……と、生活とお金に関することがわんさか出てくる。

 僕は、とても疑問なのだけれども、皆が求めている情報って、それ何だろうか? どうやって生きるのか、何故生きるのか、自分の欲望とは何か、やりたいことははっきりしていて、欲しいものとか理想の生活というものは、もう明確で、調べる人は誰一人いないのだろうか?

 僕は、違うと思うのだけれども、しかし、グーグル先生は、それを上位検索結果に載せるのだ。それだけ多くの「お金」が動くキーワードで、重要視されているのだろう。

 だが、僕は、それ以前の部分で悩み、情報を求めている。

孔子先生の論語

 僕が欲しかった情報は、

「われ十五(15才)にして学(学問)に志(こころざ)し」
「三十(30才)にして立つ」(学問で自立できるようになった)
「四十(40才)にして惑(まよ)わず」(いろいろな迷いがなくなった)
「五十(50才)にして天命を知る」(天が自分に与えた使命を知った)
「六十(60才)にして耳順(したが)う」(どんな人の話も聞けるようになった)
「七十(70才)にして心の欲するところに従(したが)っても矩(のり)をこえず」
参考サイト

 この、それぞれの人生の時期において、どんな目的をもって、どんな生き方をするべきなのか、どういった方法や考え方があるのか、そういった情報であった。

 有名な「論語」の一部である。内容は殆ど覚えていなかったが、高校生ぐらいのときに、何かそんな一節があったような気がしていたから、検索して調べることができた。そういう意味では、学校の勉強というのも、無価値なんかじゃないと思うのだけれども、まぁそれはともかく。

仏陀さんの悟りを開いた歳

 ゴウタマ・シッダールタは、29歳のときに出家し、35歳のときに悟りを開いた。
 後は、80歳で亡くなるまで、ずっと、正しい教えを広め続けた。

 30代~40代で、生涯的な、これをずっと続けようという、ライフワーク的なもの、それを見つけることが大切だ、ということなのだろうと、思う。

 少し、自分なりに、人生の流れを簡単に書いてみよう。本当は、孔子の論語みたいな表現が、いっぱい検索にヒットすれば、その中で使えそうなやつを引用した方が、精度も時間も効率的だと思うけれども、見つからないなら仕方がない、自分で考えるしかない。

30代

 自分の生き方について、方針・計画を確立する。

40代

 自分の生き方の方針・計画について、迷いがなくなり、より精度や深度を上げる。

50代

 自分の生き方、自分の存在についての、世界的な意味(天命・使命・運命)を知り、実感する。

60代

 他者の言葉を素直に聞くことができ、思うままに生きても、人の道に違うことが無くなる。

70代

 死の覚悟をし、心穏やかに過ごす。

10代20代の振り返り

 迷いおおき人生だった。とでも、死際につぶやくだろうか。まぁただ、死ぬということや、生きることそれ自体に何ら意味を見いだせずに鬱屈していた時期があったし、未来を考えるたびに苦痛で、日々の生活が緩やかな絶望にしか思えなかったこともあったことだろう。

 そんな自分が、70代まで含めたプラニングをたてるというのは、これはかなり異例なことであるのはきっと間違いない、こうしてブログに書くことは初めてのことだろう。

 しかしこのことが、果たして、今の状況における、すべての迷いが解決したとか、玲瓏と透き通って落ち着いた心に到達した、ということにはならない。それでも、こうしたことをするというのは、日々、猛然と過ぎ去っていく時間に対しての恐怖という、そんなマイナスの感情故かもしれない。ただ、その行為の結果については、間違ってはいないだろうという安心感はある。

生きる意味を徹底して考える

 前も書いたけれども、「生きる意味」なんて調べると、「そんなこと考えている時間がもったいないです! いますぐやめて、「いまここ」をしっかりと生きましょう」という内容がわんさかヒットする。

「ああ、やっぱり、俺の感じていることは無価値で無意味で間違っていて、無駄なことなんだろうか……」

 と感じざるをえない。しかし、孔子さんの言葉を、僕なりに捉えれば、逆に、40歳ぐらいにならないと、惑わってしまうことが往々にしてあるということだ。

 30代というと、世間ではもう「おっさん」なのだろう。スポーツ選手とか、会社社長とか、政治家とか、30代でも沢山活躍している人が多い。(もっといえば、趣味の世界においても、素晴らしい能力をもった人がとっても多い)
 そういう人たちと比べると、ああ、なんと、自分は矮小な存在なのか……と、思わざるをえない。

雑談

 そして、その、矮小な存在であることを、常にグチグチと言いながら、その安定的な自己領域を守り続けていくという方策、それがダメブロ界といった、「ダメ人間」「凡人」としての生き方である。こういった方法もある。それは、「向上する」ということを捨てた生き方である。世捨て人である。ニートである。そういう意味では、仏陀の教えに最も近い人たちなのではなかろうか。そういう人たちもいるかもしれない、ただ、僕は、話しの脈絡と関係なくなるが、例えば、「現実の女なんてクソだな」といって、恋愛ゲームにはまり込む人たちについて、気持ちは非常によく分かるのだけれども、積極的に肯定できないのだ。

 確かに、他者との生活というものは、恋愛ゲームのように理想的ではない。いくら愛する人でも、寝相が悪かったり、いびきがうるさかったりしたら、毎日寝ているとストレスになってしまう。目覚めのキスとか、朝起きると口内は雑菌だらけなのだというから、危険な行為だ! とか。

 しかし、それでも、ゲームやアニメやその他エンターテイメントは、「現実」から、理想的な要素を取り出して再構築した「現実」なのである。ということは、二次元的なものは、積極的に、全般的に、現実を否定するものではなく、むしろ、「現実の純化」というようなものであるといえるのだ(と思う)。

 二次元最高! という生き方は、これから書いていく、「身体的限界性」「時間的限界性」「言語的限界性」の、3つの限界により、必ずしも否定されるものではない、それどころか、その生き方が真実である可能性すらあるのだけれども、だからといって、「現実的なもの」が全否定されるというわけではない。
 現実は、確かに、二次元のように素晴らしいものばかりではない。ただ、だからといって諦めて、現実の中で、より「二次元的な理想」に近づけていくための方策……努力(この言葉の危険性は、前に書いた通り。本来用いたくはない言葉であるが、分かりやすく書くためには必要)を諦めても良いものだろうか、ということである。

思考の体系化

 自分の考えていることを、ツリー図のように体系化する。この目標は、何も今年初めて掲げたものではないだろうが、それでも、今年の主軸とする目標にしたいと思う。これまで、色々と書きなぐってきたが、そろそろ、「整理」も同時に始めて行ってもいいだろう。

 標語としては、ブログのタイトルのとおり、生きる意味を徹底して考える、とする。これの深化は、すべての行為において応用可能なものであるため、これから先、決して無駄になることはないことは、徐々に実感めいたものになってきている。何故今後も役に立つと思うのか、ネットで検索すれば、否定されることばかりでてくるというのに? それはそうだけれど、少なくても僕にとっては、いや、もっと多い、10人、100人くらいには、きっと役に立つだろうと思う。

 まぁそれについて、「役に立つ」「立たない」を議論する気も無ければ、必要もない。ただ、簡単に書いておけば、お金をたくさん集めて、できる限り長い間生命を維持できることだけが、人間として正しい生き方だとは信じられないから、というわけだ。ご飯食べて、排泄して、寝て、の繰り返しができたら十分だというなら、もっと自殺者は少ないはずだし、逆に、「資本主義」(欲望による消費と生産の循環)自体が成り立たない。



 というわけで、カテゴリごとに、できるだけ関連性を持たせて書いていきたい。まずは、30代の目標である、30にして立つという、その「立つ」というのは、自立というか、「自分の生き方について、方針・計画を確立する」というものであるけれども、これを考えるために必要なツールとして、次回は、「身体的限界性」「時間的限界性」「言語的限界性」について書いておこう。

 次に、これは繰り返しになるけれども、もう一度、「理想と現実の乖離」という、幸福という概念について書いておこう。
 その上で、自己への思考の体系化と、実行動への反映を模索していくこととしたい。

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面白い記事について考える
2017/01/14 23:59 | Comments(2) | 思考及び書くこと
今日の一言「信じるものは救われる?」「死ぬまで続けられたらね」

読者限定

 他者のブログを様々読んでいて分かったことは、一目で、何について書いてあるか分かる記事が面白いということだ。

 その人自身が何者か分からないうちから、その人独特の、ユニークな見解とか表現とか、そんなもの楽しむ余裕はない。
 頑張って読んだとして、結果的に面白くなかったときの時間の無駄さ加減が凄まじく悲しくなる。

 そこで僕は、書き手の位置付けを、そしてその記事の次元を、瞬間的に分析していることに気付いた。逆に言えば、それをすぐに気付かせてくれて、その傾向が僕が求める方向と合致する場合、面白い! と感じることが分かった。

 どういうことか?

 例えば、自分の知らない小説作品について、その人が感じたことを述べる記事だったとしよう。その作品のことを知らなければ分からない次元のこと、即ちその主人公がどうしたこうした、と、行動についてのみ書かれている記事は、残念ながら面白くない。
 これは、読書感想文の書くのが下手な人によくあるパターンだ。その作品の、抜粋とか引用とかに終始するのは、ダメな例である。
 大事なのは、その登場人物、またはそのシーンがあって、それについて、書き手自身が、どうしてどのように思ったか、感じたか、それが書かれていることである。

よい感想文の記事が面白い

 この、引用と、感想との配分が結構大切なのだが、これは読書感想文だけではなくて、ブログ全体について言えることだ。
 こんな経験をした、楽しかった、以上。
 というブログの何と多いことか。意識高い系のブログは、こんなすごい人と会った、こんなすごいことをした、と、その事実の列挙になりがちだ。それは、その人が有名人なら、そうした情報は読者に興味を与えるだろう、しかし、どこの誰かも分からない人が、どんだけ頑張っていようが、何ら面白くない。それだけではダメなのだ、その経験に対して、何を感じ、おもったのか、そこまでの言及がなければ、面白くなくなる。

決めつけをしていると面白くない

 神様がいます。皆さん信じましょう。そうすると幸せになります。
 と、スピリチュアル系の構造はみなこれである。何か、超越的なものについて、その存在を絶対視し、それを妄信的にお勧めするブログたちもまた、面白くない。

 重要なのは、なにも、超越的なものについて書くことがダメなのではない。そして、間違っているとか、あっているとか、それも問題ではない。
 ここでの問題点は、超越的なものなのに、それを絶対的に信じていることでる。

 こういう人は、何を言おうと、信じているものをまげはしない。その頑なさは、むしろ見習うべきだが、むしろ、自分に都合の悪いことをみないように、自分の信じたいことしか認めないようにしているのである。そして、そのことに自分では気付けない。こういう人の書く記事は面白くない。

悩みが含まれている記事が面白い

 科学的事実、を述べるにあたっては、悩み、などという要素は不要である。しかし、ブログという媒体で求めることとしては、その生きた人の実感であり、その人の生き様であり、その人の思考感情そのものの吐露に触れることである。

 ブログを、いわゆるFacebookのような、SNSと同様の媒体として考えてしまっては、何とも面白くない。逆に、リアルのコミュニティー及びコミュニケーションの延長(スマホでラインを用いてチャットするような感覚)でしかないのであれば、ブログは甚だ一方通行であり、適さないメディアということになる。

 だからこそ、5行だか、その程度の内容しか更新しないのに、もったいぶって1週間に一回だとか、低頻度更新のブログは、見るに値しない(巡回する面倒さと、いざ更新されて開いてみたときに、内容のあまりの軽さ!! 何とも徒労感となる)。

 長ければ面白いかと言えば、そうではない。「いやだいやだいやだ仕事嫌だいきたくないやってらんない」「頭が痛い方が痛い腰が痛い目が痛いつらい哀しい苦しい」「いとしの彼……今日も目が合っただけで嬉しかったけど、話しかけることはできなかった。よーし明日こそ頑張るぞハート」とか、同じ繰り返し表現ばかりで、思考とも感情とも言えない落書きレベルの文章というのも面白くない。

 ちょっとまったぁぁぁーーー!! お前、それ、ものすごいブーメランじゃね??(かっこ死んだ目をした笑い)

自己分析しましょう

 散々、面白い記事とは何かと、つまらない記事とは何かを書いてきた。
 そもそも、それについて「断定」している時点で、まさに自分で上に書いてきた、「決めつけ」しているに過ぎないではないか! というブーメラン。

 トートロジーで、同じことを思考ともいえない稚拙な表現を繰り返しているという……はいこれもブーメラン。

 やっぱり、お前自信も面白く無いじゃないか!


 いや、しかし、ところが、自分の記事は、たまーには、面白いのである。これは、やはり「自分の記事」だから、言外(文章に記載ない部分)の表現もくみとれているから、面白いというのだろうか? それは、数日間おいてから読み返した場合を考えると、影響は低いと思う。何せ、今、一週間前の記事で、何を書いたか、何を思ったか、残念なことに一切思い出せないのである。三日前でもそうだし、前日の記事も、ほとんど思い出せん。アホの露呈、なのかもしれないが、まぁ、自分の記事だから覚えていて面白い、という理由ではないと思う。

 となると、面白いと感じる場合の理由というのは、その「テーマ性」が、興味があるからなんだと思う。
 じゃあ、そのテーマとは何か。「意味」である。……なるほど、やはりそこにポイントがあるわけか。

タイトルは間違っていない

 小説とか、映像作品の感想を書いたりする記事があったりして、これ、タイトルと関係ないのではないか、と思ったりもしているが、そういうわけではないのだ。結局、大きなこのテーマというものに、僕は影響しているのであったのだ。なるほど。

 で、そのテーマ性に近い内容が書かれている記事を、僕は感覚的に「面白い」と感じているというわけか。
 例えば、同年代の、サラリーマンの、仕事が嫌で仕方がなくてアーリーリタイアを目論む人の資産運用ブログなんかは、結構面白いし、集団行動が苦手で、小学生のころ昼休みにみんなで遊ぶよりも一人図書室にこもっていたとか、そんな感覚よく分かる気がする(まぁ小学生の頃は、何も考えず皆と楽しく遊んでいた。高学年になってクラブだか部活動をやるようになってから段々おかしくなってった)けれども、ただ、最近、あんまり面白みがなくなってきたのは、なんでだろうと思っていた。

 それはきっと、その、「アーリーリタイア」が目的であって、何かその、生きることそのものに対しての見解があまりにも無さ過ぎて、飽きてきちゃった、というのがあるんだと思う。
 色々と、資産形成のための勉強というか、資料集めというか、人に聞いたり、相談したり、考えたりもしているけれども、いまいち、本気になれないというのは、今力を注ぐべき部分だとは思えていないからだ。

 そうはいっても、今現状としてやるべきことは、絶対にあるので、日々生活を送るために必要な行動、作業は、おろそかにするつもりは、あまりない。ただ、本気でやれてはいない。

書くことが面白いということ

 ポイントは、この、こうして、ブログを書いている時が、一番充実しているような気になることである。ここはいつも、ちょっとまったぁぁ! と自分で掛け声をかける。そんなわけないだろうよ。もっと他にすべきことあんだろうよ。

 ある。間違いなく、あるだろう。もっと生産的なこと、いや、アウトプットであれ、インプットであれ、両方の作業としても、もっと生産性があることがあるだろう。

 ただ、――ここでは敢えて、決めつけというか、断定的というか、感情的に書いてしまえば、価値や意味など、人の創り出した幻想に過ぎない。その幻想が、共同的な幻想なのか、個人的な幻想なのかは分類があるだろうが、どちらにせよ、自分自身を本気で「騙せる」ような何かがなければ、その自分自身が行うこと、すべては、等しく無価値であるにすぎないのである。


↑のいってること、理解できるだろうか? それは、他者もそうだが、明日、もしくは三日後ぐらいの自分自身もそうであるが、分かってくれるだろうか? 分かったとして、同意してくれるだろうか? 同意してくれたとして、自分も同じように考え、行動しようと思ってくれるだろうか?


 この、他者(自分も含む)へ、納得してもらい、行動してもらうような、そんな言葉をつむぐこと。

 それが重要なことなのである。

今月の目標

 さて。そいでもって、今日の、23時59分が、今月の目標を立てる期限となっている。アッというまだなぁ。早いなぁ。
 一応考えた。

 今月中に、今部屋に存在している書類を半分にする。

 ということだ。
 部屋を綺麗に保つためには、物が少ない必要がある。平積みにされた本や書類、チラシなどを片付ける。
 おおう……小学生の目標か(かっこわらい)。

 まぁこれ、結構が逆に大変なのである。帰りが遅くなると、まず家のことなど殆どできやしない。けれども、本を読んだり、くつろいだり、少し休憩はしたい。そうすると、だんだん物というかゴミが積み重なってくる。綺麗な状態を維持するというのは非常に難儀である。

 うん。
 そうだな、何やかんや、「片づけをする! 生活感の無いぐらいな家にする!」という目標は何年も前に立てて、それなりにやってきたけれども、一か月とか、半年とか、長期スパンで本格的にやるってのは、これまでなかったように思える(すなわち、土日とか三連休とか、短い期間で可能な限り実行し、それで満足してきたというわけだ)。

1.1月   部屋の片づけについて3月までの計画を立案する。(PLAN)
2.2月上旬 1.について、作業を実施する。(DO)
3.2月下旬 2.の作業について、評価を行う。(CHEACK)
4.3月上旬 3.の評価を元に、再度作業を実施する。(ACTION)
5.3月下旬 3.の作業を確認し、足りていないことを補完する。

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面白い記事欠乏症
2017/01/12 19:00 | Comments(0) | イライラ対処
今日の一言「必要な時に必要な言葉が欲しいんだけど」「二次元でも行ってろ」

眠れない夜

 ただ、苛々する感情を書きなぐるだけの記事はもうやめようと、思っていたけれども、筋トレして、ストレッチして、音読し、お風呂入って、サプリを飲んで、さーて寝ようか、と思ったけれども、眠れなかった。
 いやほんと、そもそも、俺は、どうやって今まで生きてきた、いや、今俺は生きているのか?
 とか訳の分からないことが頭に浮かんだ時点で、もう簡単に眠るのは無理だろう。

 風呂に入ってもこの状態ということは、もはや取るべき手段は、書くことしか残されていない。

面白いことをしたい

 御贔屓にしているブログさんがいくつかある。しかし、変な時間に更新なんてしてくれない。しかも、短かったり、逆に何か言いたくなったりもしてしまったりする。
 本当は、読んで、うんうん、そうだよねーあはは、分かる分かる~さーて寝るか、になればいいのだが、そう簡単にはいかない。

 そうだな、遠藤浩紀さんの、「ソフトメタルヴァンパイア」、一巻全部先日読んだ。中々面白いねー、化学の知識がある人はもっと楽しめるのかな、そうでなくても、元素をもとにしてバトルするってアイディアもいいし(僕も高校生ぐらいのとき考えて何か作品にしたかった、けどダメだった)、独特の遠藤先生タッチ(シリアスだったりグロテスクだったりするのに何故かコミカルな部分があるところ)がやっぱり絶妙で面白いね~。
 ただ、どうだろ、まだ、1巻だけだと、書庫に保存すべきかどうか悩みどころ。もう少し様子見だな。

 うーん、何だかスタートダッシュがイマイチなのは、恐らく、毎年恒例の今年一年の目標を立てなかったことな気がする。

今から目標立てようか

 絶妙に、微妙な時間なので、今日はもうやめよう。ただ、何も、目標を立てることをさぼろうと思ったわけじゃあない。2017年、いろいろ考えたのだ。ノートにやろうと思ったことを書いたりしたのだ。ただ、それらを眺めていても、何だか、それをスケジュールにプロットする気になれなかったのだ。何故だ、俺はいったい、何をしたいんだ。

 なんというか、「○○しない」という目標は、結構達成できるのだ。
 禁欲的なことはどちらかというと得意なのだ。お金を使わないとか、自慰をしないとか、ゲームをしないとか、期間を決めて、それを達成することはできるのだ。
 しかしなのだ、それじゃあ目標にならないのだ。
 ルーチンをこなすことも、どちらかというと得意なのだ。筋トレストレッチ、音読は、ブログ横のカウンタみれば、もう少しで90日、三か月達成なのだ。素晴らしい、パチパチ。

何かを達成するという目標が必要

 人間、達成できるか分からない、50%~70%ぐらいの目標がモチベーションによいという。
 しかし、なんだ、思いつかない。
 先日ノートに書いたやりたいことリストは、実際取り掛かれば、99%ぐらい達成できそうな目標ばかりである。

 ブログの説明文のように離婚ブログだとしたら、
「婚活して、相思相愛になる女の子を見つけて、幸せな結婚生活を送る!」
 とかでも目標立てたらいいのだろうか。しかしこれは、目的程度にはなるかもしれないが、残念ながら目標としては欠陥だらけだ。その理由はいつも書いているとおり、「全然具体的じゃない」からだ。

他者のブログ記事の物足りなさ

 人のことは言えないし、言ってる暇もないのだけれども、中々面白い作品に出合えない、というのは、「せっかくブログという個人の主義主張を発信するということが可能なメディアなのに、一般論的なことしか言えてないもの、詩的な抽象的なことしか書けていない記事が、何とも多い」ように思われるからである。

 俺は断食生活をしている、最近は飲尿を始めた

 とかいうブログさんとか見つけて、「!? マジすか?」と思ったりもした、面白そうだった、しかし、それはもう数年も前の記事だった。今どうなっているのか分からない、そう、ブログのよさは、その人自身の存在が感じられることにある。生きている人、実在する人を感じられて、しかもそれでいて、現実ではとても言えないような、もしくは、普段僕たちが生活している環境では出会えないような人たちの話が、都合の良いタイミングで聞ける、というのが、ブログの良いところではなかろうか。

 そんな、僕に何か、影響を与えてくれるような作品を生み出し続けている人に、中々出会えない(いや、最近段々増えてきてはいるけれども、まだだ、まだ足りない)。

憧れの人を見つけるとかどう?

 あー、いいかもしれない、今年の目標。
 どうにも、僕は、自己完結する傾向がかなり強いので、油断すると、世界でとーくべつなーオンリーワン♪ 的な感覚に陥る場合がある。本当はそうじゃないんだ、もっと僕に共感してくれる人も多いだろうし、僕自身も、「マジすげーッス!」と思える人も、もっと大勢いるはずなのだ。

 そういう意味では、もう何人かには、ターゲティングしている。ふふふ、狙っているぜ(きもちわりーよ!)。
 まぁ冗談はさておき、今年は取りあえず、結論めいたものを出すのはあきらめて、もう一度、環境に流されてみてもよいかもしれない。いや、ちょっと表現が違う、そうじゃなくて、「自分の考え」を確立するのではなく、他者の考えや生き方というのを、可能な限り吸収するということを、2017年全体目標としてみたらどうか、ということだ。

 これは別に、ネットに限った話である必要はないし、現実に限った話じゃなくてもいい。映画や小説など、エンターテイメントでもよいだろう。
 つまるところ、ネタ探しというか、材料探し、基礎固めの一年にしてはどうか、ということだ。

 仏教の八正道ではないが、(あ、昨年覚えたはずなのに、今もう忘れ始めている。ええと、正見、正語、正業、正命、正精進、正念、正定……あ、7つだ、やっぱり忘れてしまってる……哀しい)、正しい行動言動を行うためにも、その環境に応じた自分の言動行動に対しての価値判断を抽象化するため、経験の積み重ねと体系化が必要だ。

面白くない記事だな

 何だか、良いアイディアに思ったところだけれども、果たして、数日後どう思うことやら。良い文章を書く秘訣は、寝かせる時間が必要だということだ。インプットとアウトプットをしながら、よいなと思ったことは積極的にメモしつつ、それを後でちゃんと見返しながら、繰り返し表現し続けることで、洗練されていく。

 だから、そうだな、もう面白いか面白くないか、自分の記事に対して考えるのはよそう……というのは一つの方策足りえるが、ただし、そのとき、書いているときにどう思って書いていたか、というのも、重要な要素だったりするので、「面白くねぇなぁぁぁ」と思いながら書いていること自体は、あってもいいんじゃないかなと思う。我ながら気持ち悪いこと書いてるなぁという感情もまた、然り。というか、「キモチワルイ」って何だろな? サイコパス二期で、シモツキ監察官がトウガネ執行官のこと調べてて、トウガネさんがある方の犯罪係数を常日頃から観察記録していることを知ったとき、「うわ気持ち悪!」と叫んでいたけれども、そのキモチワルイとは何なのだろうか?
 ストーカーというのは、気持ち悪いし、犯罪である。ただ、「愛」と、何が違うのだろうか。それは、相手が欲しているかどうかだ。嫌がってるのに、帰りで待っていたり、花束を送ったりするのが、ストーカーなのだ。相手を思う気持ちは、実はそれほど違いはないのだ(ただ、ストーカーとは、相手、よりも、自分の愛欲(そもそも、愛ってなんだろうね、この場合、性欲に近いんだろうか)を優先している傾向が強いだろう。本当にその相手を思うなら、相手が嫌がっているなら自分を押し殺してでも、もうアプローチしないだろうから)。
 だから(シモツキさんがキモッ! と言ったのは)、実は、シモツキさんは、嫌っていて劣等感を感じているツネモリ先輩のことを、「思いやっていた」と言えるのである。どういうことか? トウガネさんが、ツネモリさんのことをストーキングしていようが、シモツキさんには直接的に関係はない、しかしながら「キモ」と思ったのは、自分がもしそんなことされたらイヤだな、と思ったからである。そう思うことができるのは、人間のミラーニューロンという働き、即ち他者への共感心に基づくのである。

 いやもちろん、虫とか、グロテスクなものとか、キモメンとか、生理的に「キモチワルイ」というものもある。ただ、何でもかんでも生理的に……と片付けるのは容易いが、その感情は何故生じるのか? 脳機能の基本は、生きたい、知りたい、仲間になりたい、である。後者2つの、知りたい、仲間になりたい、という働きが活性化していれば、むしろ、グロテスクな虫とか、好奇心的に「知りたい!」と思わなかろうか(思う人がいるから、昆虫研究家さんたちがいらっしゃる)。

 にも関わらず、「キモチワルイ!(関わりたくない!)」と思うのは、その脳機能の、「生きたい」という本能に反する事象が発生しているから、というわけだ。

 つまり、キモい人というのは、自己の生存を脅かすような危険な存在、ということなのである!!


 って、あーもう、何言ってんだろうな。上のことは、何だか断定的に書いているけど、完全に5分ぐらいのノンストップ思い付きである。はぁ、疲れた、だが、何だか眠れそうだ。よかった、そういう意味でこの記事も意味があった、おやすみなさい。


(そうさな、今週の目標……は、今月の目標を立てる、ということにしよう。期限は、14日(土)23:59まで)

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